その情報がキルケー08のもとに飛び込んできたのはオルカがヨーロッパを手に入れてまだ間もない、とある晩春の朝のことだった。 「そうですか。ついに見つかりましたか」  キルケーの答えは、ひどく落ち着いたものだったという。 「最後のピースが埋まりました。……計画を前に進めましょう」  グラスの中の氷が、カランと小さく鳴った。  ドリアードJ9-3651cは緊張の面持ちでスツールに腰をかけていた。  タラゴナ共同体の中から、なぜ自分だけが呼び出されたのか、皆目わからない。別に村のリーダーでもなければ、最古参というわけでもないのに。  他のみんなは無事だろうか。オルカに合流を願い出たのはやはり失敗だったのだろうか? でもデルタが死んだのは田鹿のようだし、他にどうしようも…… 《お待たせしてすみません》  その時、壁の映像パネルが唐突に起動し、ドリアードは飛び上がった。  画面の向こうでは黒いドレスに大きな帽子を目深にかぶった、魔女めいた風体の女性がデスクについている。たしかPECSのアミューズメント用のモデルだ。何をされるにせよ三安の姉妹か、でなければブラックリバーの軍人が来るだろうと漠然と考えていたのだが、意表を突かれた。 《キルケー08と申します。本当なら直接お会いしたいのですが、多忙な身でして映像で失礼します》 「はあ。どうも……」恐る恐る頭を下げる。画面の向こうのキルケーは、おそろしく鋭い眼差しでこちらを見据えている。ちょっと怖い。 《あなたがオルカに加わるにあたり、いくつか質問と確認をさせていただきたいのです。まず、あなたはドリアードJ型……日本向けモデルですね?》 「は、はい!」  そうか、日本国内モデルがスペインなどにいたのを怪しまれているのかもしれない。ドリアードJ9-3651cは背筋をしゃんと伸ばす。 「私は日本の農機メーカーの所有物でした。商談でスペインへ来ている時に鉄虫の襲撃にあい、会社の人間様が全員亡くなったため、それからずっとこちらにおりました」 《コメ作りが得意、と聞いていますが》 「はい、タラゴナでも水田管理を担当していました」  ドリアードJ型は稲、それも日本式の水稲に特化したバリエーション機である。普通のドリアードも稲作はできるが、J型の業務モジュールには日本の気候、土壌、品種に合わせた知識と技術が組み込まれており、一段レベルの高い米作りが可能だ。米の味にうるさい日本人には好評で、生産数は多くないもののロングセラーモデルとなった。 《では、あなたは……》  キルケーの眼差しがひときわ鋭くなる。ドリアードは息をのみ、次の質問を待ち受けた。 《……日本酒を造れますか?》 「はっ?」一瞬ぽかんと口を開けて、それから慌ててうなずく。「はい、できます。酒造りは私の得意分野の一つです」  そのとたん、キルケーはまるで花が咲くように笑み崩れた。その目には涙さえ浮かべていた。 「あなたをずっと待っていたんです! ぜひ、ぜひ! ご協力をお願いします!」 (タイトルIN) 『プロジェクトK・2 ~蔵人たち~』  オルカのアルコール事情は、この一年あまりで劇的な向上をみた。  まず、キルケーがドリアードに師事したことでビールの味が格段に良くなった。〈キルケーIPA〉という人気銘柄までが新たに生まれた。  そして、続くヨーロッパ開放作戦により、レモネードデルタが己のために維持していたいくつものワイナリー、ブリュワリー、ディスティラリー(蒸留所)を併合。さらにそれらの設備・人材と、これまでキルケーがコツコツ蓄積してきた世界の様々な酒に関する知見を合わせることで、テキーラ、アラック、マッコリ等、ヨーロッパではあまり作られていなかった酒の生産体制も次々にととのった。  今や旧時代の主立った酒のほとんどを、オルカでは自由に飲むことができる。いくつかの例外をのぞいて。  その例外の一つが、日本酒である。  ――日本酒は好きですよ、もちろん。旧時代は日本勤務でしたし、飲む機会も多かったです。  オルカ食料局醸造部顧問、キルケー08は語る。だがその彼女にしてなお、日本酒の復元プロジェクトを立ち上げるのは今回が初めてになる。これまで手を付けてこなかった、その理由は何なのか?  ――一つは、シンプルに要求される技術レベルが高いことですね。  たとえばビールだったら、私のような者が見よう見まねでやっても、「味はいまいちだけど、一応ビールだね」くらいのものはできるんです。もちろん本当に美味しいものを造るには研鑽と洗練が必要ですが、少なくともスタートラインは手の届くところにある。ですが、日本酒はそうじゃないんです。何段階もの工程があって、そのすべてで温度・湿度・時間・衛生管理といった様々な要素の精密なコントロールが必要で、どこかでつまずくとそもそもゴールまでたどり着けない。個人的に試みたこともありますが、日本酒『らしきもの』にさえなりませんでした。  それならば、ビール造りでドリアードの指導を受けたように、誰かの指導を受けることはできなかったのか?  ――それが二つ目の理由です。旧時代の日本には、『日本国内で作ったものだけが日本酒を名乗れる』という法律がありました。シャンパンなんかと一緒ですね。税金だったり、ブランド力の維持だったり、理由は色々あったのでしょうけど……そのせいで、日本酒は長く日本でしか作られなかった。北米にはいくつか工場があったらしいですが、世界の他の場所には日本酒を造る設備も、ノウハウも、ほとんど伝わらなかったし、残らなかったんです。  オルカ号がまだ単独でアジア近海を移動していた頃、キルケーは機会を捉えては日本各地に上陸し、日本酒造りの設備や、技術を受け継いだバイオロイドを探したという。しかし、稼働可能な状態の設備も、それを運用する知識のあるバイオロイドも、結局見つかることはなかった。そして、日本以外でそれらが見つかる望みはほぼ無かった。  ドリアードJ型がヨーロッパで生き残っていたことは、だから奇跡だったのだ。 「……というわけで、あなたにはまず日本酒造りの方をやってほしいんです。タラゴナ共同体の方は、他のフェアリーを派遣してなんとかしておきますから」 「はあ……」  オベロニア・レアにまで頭を下げられては、J9-3651cとしても断るわけにはいかない。 「もちろん、あなたにもいずれは農場に戻ってほしいと思っています。キルケーさんに助手を用意していただきましたので、この二人にお酒の造り方を仕込んであげて下さい」 「クノイチ・ゼロ09でござる! よろしくお願いするでござる。ふふふ、なんだかサイボーグみたいでかっこいいでござろう?」 「クノイチ・カエン07……かもすよ」  元気よく手を挙げて入ってきた二人のニンジャに、ドリアードJ9-3651cは再び絶句した。 「人間様は、それほどお酒がお好きなのですか?」  タラゴナでは、誰もが常に腹を空かしていた。デルタの搾取は過酷で、しかも注文がうるさかったからだ。収穫を根こそぎ持って行かれた上、品質に満足しなかったという理由で配給を減らされることなど珍しくもなかった。そのような暮らしをしてきた後で、農場を離れて嗜好品である酒造りをしろと言われることに、抵抗を感じなかったと言えば嘘になる。  J9-3651cが思い切って発したその問いに、レアは笑って答えたという。 「え? 違うわよ、司令官様はそれほどお飲みにならないわ。日本酒をほしがっているのはキルケーさん達ね」  それは彼女にとって、あまりにも意外な答えだった。酒を造るのは司令官の……主人のためではなく、バイオロイドの望みだというのだ。 「御屋形様……お酒が……お酒が飲みたいでござる……!」  それは、血を吐くような叫びだったという。 「飲めばいいじゃん。キルケーのバーに行けば? 食堂の夜メニューにもあるだろ」 「ちっがーうでござる!!」  困惑気味に答える司令官に、クノイチ・ゼロは子供のように両手を振り回した。 「拙者が酒と言ったら日本酒! 米から作った日本古来のお酒のことに決まっているでござろう!」 「いやござろうと言われても……」  伝説サイエンスのバイオロイド、クノイチ・ゼロとクノイチ・カエンは室町時代のニンジャである。もちろんそれ自体はフィクションの設定ではあるものの、本人達の持つ日本人としての自認は本物だ。オルカで口にできる数々の酒の中に日本酒が入っていないことを、キルケーの次に残念に思っていたのは彼女たちであったかもしれない。 「寿司や刺身には日本酒でござる! 姉上や母上が作ってくれたご飯を、麦焼酎や白ワインで食べるのはもう我慢できないでござるー!」 「日本酒……必要。晩酌、角打ち、鏡開き……お料理にも役立つ」 「わかった、わかった」  ――普段あんまり自己主張しないカエンにまで言われて、こりゃあ本気なんだと思ってね。  とはいえ、ゼロとカエンは伝説戦闘部隊の主力の一角だから、抜けてもらうわけにはいかない。結局、エンライに頼んで復元される姉妹機をキルケーが進めてるプロジェクトに入れてもらうことにしたんだ。  司令官は当時の思い出をこう語る。  ――エンライに怒られなかったかって? まあちょっと渋い顔はされたけど、意外とすんなりOKをもらえたよ。あれで彼女もけっこうお酒好きだからね、自分も呑みたかったんじゃないかな(笑)。  ――でも、それでようやくわかったんです。オルカが作ろうとしている世界……バイオロイドが自由に、幸福に生きられる世界というのは嘘ではないのだと。  その自由で幸福な世界の棚に、日本酒は並んでいるのか、いないのか。自分の肩にかかっているのはそういう選択なのだと、J9-3651cにもその時初めて理解できた。  そうであるならば、日本生まれのバイオロイドとして引き受けない選択肢などない。心は決まった。 「とりあえず、場所はここを自由に使っていいそうでござる。古いワイナリーで、井戸も近くにあるでござるよ」 「必要な機械、なんでも作ってもらえる。これ、箱舟の設計図カタログ。お米だけ、もうある……ここ」  心は決まったが、道のりは遠い。  レンガ造りのだだっ広い倉庫に山と積まれた米袋を見て、ドリアードJ9-3651cはこの先何度となく繰り返すことになるため息の、その最初の一回目を吐き出した。 「これは……食用米ですよね」 「? もちろんでござる。食べられない米なんか使わないでござるよ」 「いえ、そうではなく……」  酒造りのための米は、「酒米」と呼ばれる専用の品種を使うのが基本だ。食用米でも造れないことはないし、旧時代にそういった酒も実際あったが、それ自体が風変わりな挑戦の部類に属する。 「まあ、いいか。あるものでやっていきませんとね」  これは復興の第一歩目なのだ。足りないものがあって当然。デルタの下で重税にあえいでいた頃を思えば、夢のように恵まれた環境ではないか。 「まず、精米機を用意しましょう。カタログを見せて下さい」  酒造りにおける精米は、食用米のそれとは意味合いも、程度も異なる。元の米よりふたまわり以上も小さい、半透明の楕円体と化した米粒をつまみ上げて、ゼロとカエンは目を丸くした。 「こんなに小さくなるでござるか!?」 「もったいない……」 「もったいなくないです。中心のデンプン質の部分だけにしないと、雑味だらけのお酒になっちゃいますからね」  精米歩合60%。つまり、表面40%を削り落とした状態だ。ここまで精米すると「吟醸酒」を名乗れる。その上の「大吟醸」となると半分以上削ることになるが、初めての挑戦でそこまでは踏み込めない。削りすぎれば砕けてしまうのだ。 「削った部分は米粉になりますから、あとでおせんべでも作りましょう。さて、この削った米を……」 「炊くでござるか」 「いえ、二週間ほどこのまま置いておきます」  削ったばかりの米は熱をもっており、水分も多い。熱を冷まし、均一な乾燥状態になるまで静置しておく。これを「枯らし」という。 「真っ先に精米を済ませたのはそのためです。この二週間の間にほかの機材を揃えつつ、お二人はお勉強しましょうね」 「勉強……」 「勉強でござるか……?」 「醸造学に微生物学、栄養学に作物学に植物病理学。基本だけでも学んでおくべきことは沢山ありますよ」 「えええええ」 「頑張りましょう。そうだ、お二人とも納豆は好きですか?」 「納豆? もちろん大好きでござるが」 「納豆ご飯……今朝も食べた」 「残念ですが、お酒造りが終わるまで納豆は厳禁です。食べるのはもちろん、触るのも駄目です。冷蔵庫からも片付けて下さい」 「ええええええ!?」  ――お酒造りのことになると、ドリアードさんは容赦ありませんからね。私も随分しごかれたものです。  キルケーは懐かしそうに笑い、いたずらっぽく付け加えた。  ――本当に容赦ないのは、その先ですけどね。  枯らしを終えた米は洗米し、浸水させたのち蒸す。 「炊くのではなく、蒸すんです。炊くと水気が多すぎますからね」  その日の気温や湿度を参照しつつ、蒸し上がりの水分含量が最適になるよう計算しなくてはならない。酒造りの第一歩目でありがなら、非常な精密さと繊細さが求められる工程である。 「で、この蒸したお米を麹(こうじ)にします。麹菌はもうあるんですよね」 「ある。味噌や醤油……作ってる、から」  コウジカビ、学名アスペルギルス・オリザエ。清酒造りの根幹を支える二つの微生物のうちの一方である。その胞子……淡い抹茶色をした粉を、テーブルの上に広げた蒸し米に振りかけながらかき混ぜ、また温度調整をしてはかき混ぜ、それを繰り返して麹菌を繁殖させる。 「暑……い……」 「結構しんどいでござるな、これ……」 「頑張りましょう。昔から一麹・二酛・三造りといって、お酒の味を決めるには麹造りが一番大事と言われてるんですよ」  酒造りのすべての工程の中で、もっとも厳密な環境管理が求められるのがこの製麹である。外気を遮断して雑菌を排除するのはもちろんのこと、麹の繁殖に最適な高温・高湿度を作業中常に維持しなくてはならない。そのため気温30℃・湿度60%という、梅雨明け前の猛暑日めいた密室内で丸一日にわたって作業することになる。なかなかに過酷だ。  ちなみに麹菌と最適環境がよく似ており、しかも麹菌よりも繁殖力が強い菌の代表が納豆菌だ。酒造りに関わる者が納豆を禁じられるのはそのためである。  汗みずくになりつつ作業を終えて、数時間後。 「カビちゃったご飯みたいでござるな」 「まあ、カビの生えたお米であることには違いありませんね。でもやっぱり、破精(はぜ)が良くないなあ……」  薄黄色のヴェールをかぶせられたような姿になった蒸し米……完成した麹を手にとって、ドリアードは顔を曇らせる。麹の役目は第一に麹米のデンプンを分解して糖に変えること、第二にタンパク質などそれ以外の成分も分解すること、第三にこのあと追加する米にもそうした反応を起こすための酵素を大量にたくわえておくことである。そのいずれにおいても、麹菌がいかに濃密に、かつ均等に、米の中に菌糸を張り巡らせているか(破精込み)が肝要になる。酒米であればそれに適した構造や成分をそなえているのだが、食用米ではそれが望めない。菌糸の入り込みが十分でない部分、逆に入り込みすぎている部分が、ドリアードの目にははっきりとわかる。 「お二人もよく見て、覚えておいて下さい。これは深すぎ。これは足りない。これくらいがちょうどいい破精混み具合です」 「わからない……」  とはいえ、これは予想された事態だ。麹はいくつものブロックに分け、必要量よりだいぶ余裕をもって作っているから、出来のいい区画だけを選んで使う。残りは味噌や醤油用の麹に混ぜてもらえば、なんとか使い道はあるだろう。ドリアードは心を鬼にして、無駄になる米に心中で手を合わせた。  麹ができたら、次に作るのが酛(もと)だ。  できあがった麹の一部と、別に作った蒸し米、水をよく混ぜ、そこに酵母を加える。  言うまでもなく、酵母とは糖をアルコールに変える、酒造りの本体ともいえる微生物だ。数万年にわたって人類に利用されてきた酵母菌には数えきれないほどの品種が存在するが、なかでも日本の酒造りに使われていた清酒酵母の菌株が記憶の箱舟の微生物バンクにいくつか保存されていた。最も普及していた株のひとつ、「701号」のサンプルがあったのでそれを使うことにする。  さて、ここでドリアードに一つの葛藤が生じた。  酛の役目は酵母を繁殖させるベースとなることだが、そのためにまず乳酸をたくわえる必要がある。酸性にしておくことで雑菌の繁殖を抑え、酸に強い酵母菌だけが繁殖できるのだ。  最も伝統的な手法では、酛を適切な温度で放置して空気中にいる自然の乳酸菌が入り込むのを待つ。これを「生酛」という。一方、手っ取り早く乳酸そのものを添加する方法もあり、これを「速醸」という。これが人類滅亡後初めての仕込みなのだから、できるだけ正統の方法を、丁寧になぞっていきたい……そういう気持ちがある。  しかし生酛造りと速醸造りとでは、当然ながら前者の方がずっと時間がかかる。乳酸菌を呼び入れるための温度管理も難しい。何より、ここはフランスである。日本とは自然の乳酸菌の品種も、性質も異なるだろう。そんな環境で無理に生酛造りを行っても、それが本当の生酛と呼べるのか。  悩んだ末に、ドリアードが選んだのは……「速醸」であった。  ――いずれ、技術が成熟してきたら生酛や山廃仕込みも試したいですが……今はこちらが最善だと考えています。  そう語るドリアードの横顔には、苦さを飲み込んだ強さが熾火のように燃えていた。  酛の培養に二週間。酒造りを始めてから、すでに一ヶ月近くが経過している。そして、ここからが本番である。  麹と酛、それに追加の蒸し米と水を混ぜ合わせ、本発酵が行われる醪(もろみ)を作る。 「一回酒を造るのに、こんなに何度にも分けて米を蒸すのでござるか」 「まだまだですよ。三段仕込みといって、酵母菌が薄まりすぎないよう三回に分けて水と蒸し米を足していきます。今日と、明後日と、しあさってにお米を蒸しますから、遅れずに来て下さい」 「ううう」  三人が眠い目をこすりつつ見上げているのは、身長の二倍ほどもある巨大な琺瑯の発酵タンク。  日本酒の発酵プロセスには並行複発酵と呼ばれる、アジアの酒造りに特有の手法が使われる。麹菌の糖化酵素が米のデンプンを糖に変えていく一方で、その糖を酵母がどんどんアルコールに変えていく。一つのタンクの中で、二つの発酵が同時に進むのだ。 「二種類の菌が喧嘩したりしないのでござるか?」 「餌になるものが違いますし……あと、厳密には働いてるのは酵母だけですね。麹菌は醪の中では元気がなくなって、アルコール濃度が高まるにつれてだんだん死んでいきます。糖化は麹菌が残した酵素がやっています」 「忘れ形見……」 「むう、用済みになれば片隅で死を待つばかりとは、まるで忍びのようでござるな」 「そんな風に考えたことはなかったですが、確かに……いえ、それよりも! ここからが肝心です。ここから毎日、いえ毎時間の温度管理が必要になります。しっかり覚えていって下さいね」  毎日気温も変われば、湿度も変わる。さらに酵母の活動によって発生する熱もある。それらをすべて計算に入れた上で、発酵がスムーズかつ均一に進む温度を保たねばならない。 「違います、今は温度を上げるんじゃなく下げるんです。現在温度だけでなく履歴と傾向を見て」 「はいでござる!」 「下げすぎです! 設定温度はあくまで目安、数字をいくつ動かしたら温度勾配にどういう力がかかるかを感覚で覚えて下さい」 「はい……」 「精度が足りません、そこは1℃じゃなく0.5℃で!」 「はいでござるぅ……」 「櫂はもっと深く、回数を少なく。かき混ぜすぎは厳禁です」 「承知」 「醪の表面のシワの寄り具合をよく見ておいて下さい。私達はこういうのを『醪が笑ってる』と言います」 「難解……」 「あ、タンクをのぞき込んでは絶対にダメですよ。酸欠空気が充満してますから一呼吸で意識を失います」 「ひいっ」  そうして、一ヶ月。無事発酵を終え、どろりと泡立つ乳白色のポタージュのような液体になった醪を目の細かい布で漉す。かすかに黄味のかった、透明な液体があふれ出る。蒸留していない酒でここまで無色透明に近いものは、世界でも珍しい。  本来ならここからさらに火入れ、加水、貯蔵熟成といった段階を経るのだが、二か月待ち続けたゼロ達にそんな辛抱は残っていなかった。 「こ……これでござる! この味、この香り! これが日本酒でござる!」 「馥郁……淡旨……」  感動に浸るクノイチ達とは裏腹に、ドリアードの表情は曇っていた。 「やっぱり雑味が多すぎる。酸も多いし、味が散らかってる割にふくらみがない。熟成させれば少しましになるかもしれないけど……」 「え、美味しいでござるよ?」 「おつまみ……持ってくる?」 「いいえ、まだまだです」ドリアードはきっぱりと言った。「今回はあくまで試験。これを元に、もっと磨きをかけなくては、オルカの皆さんにお出しできる酒にはなりません。ノートを出して下さい、反省会をしましょう」 「い、今からでござるか」 「記憶が鮮明なうちにやるのが一番です! そのあとタラゴナ拠点に、酒造好適米『山田錦』を作ってもらえるよう掛けあいに行きましょう。来年の収穫まで一年、みっちり修行ですよ!」 「ひえええええええ!?」  彼女達はまだのぼり始めたばかりである。果てしなく続く、この日本酒坂を……  * * * 「……と、いうわけで! 完成したお酒がこちらでござる!」 「名付けて〈鯱正宗〉。山田錦・純米吟醸……無濾過、生原酒」  ゼロとカエンが満面の笑みで押し出してきた一升瓶を、俺はとりあえず受け取った。ずっしりと重い。 「あれ始めたの、もう一年前だろ。ずっと頑張ってたのか、偉いな」 「頑張ったといいますか、頑張らされたといいますか」 「しんどかった。母上の修行の次……」 「言ったでしょう、ドリアードさんは容赦も妥協もないって。私もどれだけしごかれたことか」 「それは私じゃなくて、別の個体じゃないですか。もう」  キルケーとドリアード……ドリアードJ9-3651cがコロコロと笑う。同型のバイオロイドの見分けは難しいが、彼女は普通のドリアードより少し髪が黒い気がする。日本向けだからだろうか。  去年の映画祭でキルケーが作った映画『プロジェクトK』は映画単体としても、また外部バイオロイド共同体への宣伝材料としても大成功を収めた。あれでヨーロッパにいた中立共同体の大半はオルカに合流してくれたし、オルカ全体のアルコール消費量も若干増えたという。  あのあと、旧スペイン地区の農業共同体でドリアードJ型が見つかったのをきっかけに日本酒造りにも挑戦していると聞いて、今度はオルカ報道局が動いた。単発の映画ではなく何回かに分けた連続ドキュメンタリードラマに仕上げ、その最終回が先週放送されたところだ。このあいだ手に入れたばかりの南米には日系人が多く暮らしていた地域があり、そうした地域のバイオロイドに影響力が期待できるという。 「スプリガン、一年近く密着取材してたんだってな。大変だったろ、お疲れ様」 「いえいえ、いい経験になりました」  ちなみに報道局というのは、スプリガンが同型機を集めて結成した自主組織のことである。もうキャノニアとどっちが本職だかわからない。 「何はともあれ、ささ! 御屋形様!」  ゼロがいそいそと一升瓶の栓を抜き、どこからともなく取り出した小ぶりの平たい湯飲み……日本ではこういうのを「ぐい呑み」と呼んだらしい……にトクトクと気持ちいい音をさせて注いでくれる。なるほど、確かに番組で言ってたとおり無色透明だ。 「ぐっと……一献」 「うん。じゃあ、いただきます」  仕事時間中に酒を飲むなんて妙な気分だが、これは出来映えの確認だから立派な仕事だ。そう自分に言い聞かせて、ぐい呑みを口元へ運ぶ。 「…………!」  最初に感じたのは香りだ。フルーツのような甘く爽やかな香り、味噌や醤油に似たつんとくる香り、そしてアルコールの香り。いくつもの香りが混ざりあって、口に含む寸前から味より早く口内を満たす。  それから味が来る。すっきりした甘酸っぱさはワインに似ているが、ずっと重い旨味がある。マッコリに似た感じもするので、たぶんこれが米の味というやつなんだろう。すこし炭酸もあって、それらが喉を通り過ぎた後、はっきり感じるのはアルコール度数が高いことだ。ワインやマッコリよりずっと強いんじゃないだろうか。食事と一緒にぐいぐいやるより、味の濃いものをつまみながら、少しずつ飲みたい感じだ。 「そうですね、日本酒は醸造酒としてはとても度数が高いです。同じ感覚でお飲みになると大変ですよ」 「お客様、お目が高い! 酒飲みの素質がありますよ。こんど私どもの飲み会に来てくださいな」  そんな素質があっても嬉しくないが、これまでオルカで飲めたどの酒とも違うというのはわかる。選択肢が増えるのは単純にいいことだし、それを待ち望んでいた隊員がいるならなおさらのことだ。 「これでようやく、和食の味付けが完全になりますわ。しばらくは和食祭りとまいりましょう。ポルティーヤに言って、食堂のメニューを練り直さなくては」  なぜだかソワンまでが嬉しそうだ。どうやら酒というのは飲むだけでなく、調味料としても重要らしい。 「お刺身! お刺身を所望するでござる!」 「西京焼き……味噌煮……」 「承っておきますわ。日本酒が造れるなら、味醂も造れるでしょう。お願いできるでしょうね?」 「お任せ下さい。お酒の方も今回は純米吟醸だけですが、純米酒、吟醸酒、純米大吟醸酒、いずれは山廃や熟成酒にも手を広げて……」 「あの、そういえばさ」歯止めが利かなくなりそうだったので俺は急いで口を挟んだ。「君は日本用のドリアードなんだろ。他にもいろんなドリアードがいて、世界中の酒を造れるわけかい?」 「いえ、リージョナルモデルは私たちJ型だけです」ドリアードは首をかしげた。「ドリアード型が得意なのは穀物の醸造酒だけなんです。ビールは通常型、日本酒は私達、あとマッコリはフェアリーならみんな造れるので、それで全部ですね。果実酒に関してはレアお姉様がエキスパートで……」 「なんですって!?」  いつの間にか一人で一升瓶をかかえ込んでいたキルケーが目の色を変えて立ち上がった。顔が赤い。 「果実酒の!? エキスパート!? ワインもシードルもペリーも!? なんでもっと早く言ってくれなかったんですか!?」 「え、いえ」ドリアードがうろたえている。「だって、ワイナリーはもういっぱいありますし……」 「そういう問題じゃないでしょう!? レアさんもレアさんです、こんなに長い付き合いなのに水くさい! ああもう、今からちょっと行ってきます!」  酒臭い息で一方的にまくし立てて、キルケーは飛び出して行ってしまった。一升瓶をかかえたまま。 「え、あの……どうしましょう?」 「まあ、なるようになるだろ」俺はただ肩をすくめ、ドリアードに笑ってみせた。  その後、〈鯱正宗〉は無事、オルカの運営する各地の酒場の棚に並んだ。日本酒を好む隊員はそれほど多くはないものの根強い支持があり、好評を博しているという。ソワンとドリアードが言うには日本酒は熱くして呑むのも美味いらしいので、これから寒くなればもっと需要が増えるかもしれない。  キルケーはあの少し後、ローヌ川の岸辺で氷漬けにされているのを発見された。その知らせを聞いた俺は、 「レアとティタニアも、ずいぶん仲良くなったよなあ」  と、コンスタンツァと二人でほっこりお茶を飲んだのだった。 End