休日のお昼過ぎ。神浜市内のとある公園。 春のぬるい陽気が、ベンチの背もたれごしに伝わってくる。遠くで子どもたちが笑い声を上げていて、ボールが芝を転がっていく音がする。 そこで私は「」さんの隣に腰掛けている。 私と同じかそれより少し低いかくらいの背丈。細くて白い首。深い藍色の目が、公園で遊ぶ人たちを見つめている。その横顔は、どこか遠い場所を眺めているようでもあって、一緒にいる今この瞬間にも、その全部はこちらに向けてくれていないような感じがあった。 「あの、「」さん」 「ん、あぁ、どうしたの?」 声をかけると顔をこちらに向けて、聞く姿勢を見せてくれる。 私は、一つ息を吸って、吐いて。ベンチの端で握りしめた自分の指先が、少し白くなっているのに気づいた。それから言葉を発した。 「私に、私たちにもっと「」さんのこと教えてくれませんか?」 「…………」 「もっと言ったら、「」さんの昔のこと。「」さんの過去について」 そう。それが、私が今日、ここに「」さんを呼んだ理由。 私は、私たちは。「」さんのことを全然知らない。 どんなことがあったのか。どんな風に生きてきたのか。どんなものが好きなのか嫌いなのか。 全然知らない。 でも、「」さんは、私や、私たちのことをよく知っている。 それは、やっぱりきっとよくないことなのだ、と、やちよさんやみふゆさんとも話した。 「うーん……」 私の言葉を受けた「」さんは、少し困ったような眉で唸っている。 「……じゃあ「」さんは、どうして昔のことを話してくれないんですか?」 「話しても聞いても楽しくないから」 「…それが理由なんですか?」 「うん。だって、折角話すなら楽しい話題とかくだらない話の方がいいじゃん」 嫌な気持ちになることなんて嫌でもあるんだし、と「」さんは笑って肩をすくめてみせた。その言い方はあっけらかんとしていて、まるで「傘を忘れちゃった」くらいの話をしているみたいに軽かった。 「……それは、そうかもしれないですけど」 私は視線を落とし、自分の膝の上で組んだ手に力を込めた。 優しくて、穏やかで、頼りになる友人として接してくれるけれど、手を伸ばそうとすると、するりと指の間を抜けていってしまうような。ずっとそばにいるのに、どこか触れられない場所にいるような人。 「でも、私は知りたいんです。楽しいことじゃなくても、「」さんを形作っているものを」 顔を上げると、彼は藍色の瞳を少し細めて私を見ていた。その目は、同い年のはずなのに、どこか遠い場所にある出口のない迷路を眺めているようで。 ……分かっている。この人が本気で隠そうと思ったら、きっと私は口割らせることはできない。 それでも、私には、隠し事があると教えてくれている。私は、知りたいと思った。 だから。 「全部じゃなくてもいいんです。えっと、そうですね。まずは私と「」さんが会った頃のお話とかからで」 「里見メディカルセンターでお見舞い行ってた頃?」 うなずく。 繋がりの部分があればと思ったけれど、当の「」さんはさっきよりも眉をひそめていた。 「だったら尚更、あんまり話したくないんだけどなぁ…」 たぶん、もうひと押し。 きっとここは、私が踏み込まないといけない。 「だったら、お願いをします。私にあなたの事を聞かせて私を嫌な気持ちにさせてみてください」 「……」 「私は、私の友だちのことをもっと知りたい。ちゃんと知りたい。」 膝に置かれていた手に触れて、真っ直ぐに目と目を合わせて伝える。 お願いをしてそれを聞いてもらう、という形のままでは本当はダメだって分かってるけれど。 何秒そうしていたか分からないけれど、私のお願いは「」さんに届いたみたいだった。 ふー、と一つ長い息を吐いてから、 「………………分かったよ。女の子にそこまで言わせて逃げたら情けないがすぎるし」 彼はそう言ってくれた。 「……もし途中で聞きたいこととか反応することがあったら気にせず出していいよ。まとめて片しちゃおう」 「分かりました」 ベンチに座り直したのを見て、私も自然と背筋が伸びた。 「」さんは一度、自分の喉を湿らせるように小さく咳払いをして、それから、ただ少し遠くを見つめて口を開いた。 「…まず、あの病院に通ってたのは、いろはさんと同じでお見舞いに行ってたから…って所までは知ってたっけ」 「はい。ただ、誰のお見舞いなのかは聞きそびれちゃってましたね」 「そっか。じゃあそこから話そうかな」 そこで彼は一拍置いた。 ここからが本筋だ、というのを言葉はなくても感じさせられた。 「お見舞いに行ってたのは、あの時のオレの保護者だった人。当時……まあ、うん、母さんのポジションだった人だね」 「「」さんの、お母さん」 言葉にしてみたけれど、実感がわかないような感じがしていた。 考えるまでもなく「」さんにもお母さんがいるのは当たり前のことで、みふゆさんやまどかちゃんからのお話を聞いたら、何人かいることは分かっていたけれど。それでもなんだか想像の中で形が出来あがらなかった。 「その、「」さんのお母さんは」 「死んだよ」 「ぇ、あ…ごめんなさい」 思わず謝ってしまって、すぐに後悔した。それを言うのは、相手のためじゃなくて自分の動揺を収めるためだったから。 「いいって。そういうの気にせず聞いてって言ったじゃない」   「……そう、ですか」 私は、なんと返したらいいか分からなくて、そのまま繰り返した。 「そう、ですか」 「うん」 うなずく「」さんの声はあくまで平坦で、私に感情の揺れを読み取らせてくれなかった。風が木の葉をさらさらと揺らす音とどこか遠く聞こえる家族連れの声が、私たちの間を通り過ぎていった。 いくつかの言葉が口の中まで来たのに、私はうまく声が出せなかった。 ふと、あの日々のことを思い出していた。里見メディカルセンターに通っていた頃のことを。 白い廊下の匂いと、待合室の硬めの椅子の感触と。無機質な機械の音が扉越しに聞こえてきて。消毒液の冷たさが鼻の奥にこびりついていた記憶。胸がぎゅっと縮むあの感覚。 そういうものがぐるりと頭の中を回っていった。 「えっと、お母さんって、どんな人だったんですか?」 ようやく言葉にできたのは、そんな質問だった。 なんとか繋いだ。 「……。……ひどい人だったよ」 「────ぇ?」 言葉の処理が追いつかなくて、変な声が出てしまった。 頭の横側を思いっきりはたかれたような気がしていた。 この人が誰かの事を「ひどい人」と言うのを初めて見たから。今まで、私の知る限り、誰にもそんな評価をしたことはなかったから。たくさん振り回して巻き込んでしまった人にも、もっとずっとひどいことをした相手に対しても、この人はそんな言い方をしたことがなかった。 「死んだ人のこと、良く言うの悪く言うのも、あんま褒められたもんじゃないと分かってはいるんだけどね」 そう肩を落とす彼の動きで、なんとか意識が戻ってくる。 「それは…どんな、風に」 「散財癖、虚言癖、暴力ふるいがち、頑固、癇癪持ち、都合の良いことしか聞きたがらないし、都合の良いように記憶を改竄する、被害妄想しがちで、八つ当たりのご近所トラブルなんてしょっちゅうあったし、児相と警察の前で…ってのはあの人だけの非じゃないか。まぁ、他にも色々あった」 なんとか絞り出した私の言葉に対し、「」さんはひと息でそう羅列した。 淡々と、まるで買い物リストを読み上げるみたいに。それがかえって、私の胸のどこかに重く積み重なっていった。そんな人に出会ったことなんてなかったから。 「そんな人だったからかな、お見舞いに来るのはオレ1人しか居なかったよ。実家の人も来なかったし。看護士さんたちにとっても貧乏籤だったみたい」 「そう…だったんですね」 同時に、納得する心があるのにも気づいた。そんな経験をしていれば、私やみことさんのことなんて、このくらいなんてことないって言ってしまえるだろう。 そこまで思考が回るとまた新しい疑問が浮かんで。それなら、どうして。 「どうして、お見舞いに行ってたんですか」 そんな人の、という言葉は飲み込んだ。 「」さんはと言えば、合わせた両手で鼻と口を覆い隠すようにして空を一度見上げてから、答えはじめた。 「もちろん思う所がなかったわけじゃない。んだけど、なんて言うのかなぁ…………やっぱりさ、1人は寂しいじゃん」 「……」 「1人の方が気楽だって人の感性を否定はしない。オレも1人の時間は必要だと思うし。ただ、死ぬ時にも周りに誰もいないってのは、うん、寂しいことなんだとオレは思うよ」 だから行ってた、と「」さんはふっと小さく笑った。 自嘲でも、諦めでもない。もっと静かな、よく晴れた日の水面みたいな笑い方だった。日が高くなった公園に、子どもたちの歓声がまた遠くで上がった。その声と、今の「」さんの横顔の間に、ひどく大きな距離があるような気がした。 「ああ、別に、心中したいとか心中しましょうってワケじゃないよ。心中なんて、フィクションの中だけで良い。煙草とかと同じ」 そう付け足す「」さんの声には、軽さはあっても空虚さはなくて。それが中身を伴っているのだといやでも分からせられる。 続けるね、と言ってこちらに手を振ったのを見て、なんとか聞く姿勢をまた作る。 「当時の母さんが死んだ後、オレは実家の方に送られたんだけどさ。ただでさえ家の中でも鼻摘み者だった人の面倒な置き土産って感じだから、すぐに親戚の家に押し付けようってなって」 「押し付けようって……」 それは、まるで荷物の話をしているみたいだった。現実の、人の話だとすぐには受け取れなくて、一拍遅れてから、肩のあたりがじんと重くなった。 「うん。ひどい話だよね。まあでもそんなもん、というか。そういうことはまあ、あるんだよ」 それで、と咳払いをしてから「」さんが続ける。 「親戚の家に行った時に出会ったのが、今の母さん。いつも仕事で飛び回ってて、しょっちゅう振り回してきて、良い親かどうかオレには判別つかないけど、良い人ではあるよ」 そう語る「」さんの顔は、さっきまでとうってかわって明るく見えた気がした。眉のあたりから力が抜けて、さっきよりずっと柔らかい顔になっていた。 「みことちゃんも最初は困惑してたけど、今では大分良い感じだし。あの人がいるなら、みことちゃんはまあ大丈夫だろうなって。まどかや杏子たちもいるしね」 その言葉を聞いた時、胸の底の方で何かがチクリとささくれて、ザワザワとした感覚が走ってきた。なんでなのかは分からなかったけれど。 「今の母さんに連れられて、また見滝原に戻ることになって、そこから先は多分まどかから聞いてるでしょ?」 「…はい」 「そっか。それじゃ、これでいろはさんと会った頃のオレの話はお終い」 パンと手を合わせて「」さんが話を終わらせた。 同時にビュウと吹いた風に目を一瞬閉じ、開いた時には、隣に座っている人はいつも通りの彼に見えた。 いつも通りの、近くて、遠くて、そんな人に。 いつも通り。 そう見える。そう見えるのに。 さっきまで積み重ねてきた言葉の重さが、私の中でまだぐるぐると回っていた。ひどい人だったと言い切った声。寂しいじゃんと笑った横顔。そんなものという言葉のあっけなさ。 それを全部、今の彼に重ねようとすると、うまく繋がらない。どんなに手を伸ばしても、遠くに揺れる影に触れられないような、そんな感覚が。 「いろはさん」 「ぁ、はい」 呼ばれて顔を上げると、「」さんが少し首を傾けてこちらを見ていた。 「凄い顔してる」 「そうですか」 「うん。なんか言いたそうな」 言いたいことが、ある。 あるのだけれど、それをどう言葉にしたらいいのか、整理がついていなかった。 「」さんの話を聞きながら、ずっと、神浜で魔法少女として再会した時からずっと、心の端に引っかかっていたものを、私はゆっくりと手繰り寄せようとした。 それだけのことがあって。それだけの場所を通り過ぎてきて。 それでも「」さんは、誰かを助けている。みことさんのことを案じて、私たちのことを気にかけて、困っている人がいれば誰よりも先に気づいて、手を差し伸べる。 当たり前のようにそうする。 「……あの」 「ん」 「聞いていいですか」 「いいよ」 私は一度、膝の上で手を握った。指先が少し震えているのが自分でも分かった。 「「」さんは、どうしてそんなにやれるんですか」 ういのことを思い浮かべた。やちよさんのことを思い浮かべた。灯花ちゃんのこともねむちゃんのことも鶴乃ちゃんのこともフェリシアちゃんのこともさなちゃんのことも。大切な人たちのためなら、私はどこまでだって必死になれる、と思う。 イブがういだと知って必死で止めてなんとかしたあの時みたいに。 でも、それ以外の誰かに対して。自分が今この瞬間初めて会う人に対して、同じくらい頑張れる?「」さんはそれができたからみことさんを助けられたけれど、私は同じことができた? ぐるぐると回る考えを込めて出した私の質問に、「」さんは 「オレは別にそんな大したことしてないし、大した奴でもないよ」 少し困ったようないつもの顔で、あまりにも穏やかな声色で、そう言った。 「大したことない、ってことはないと思います」 「そう?」 「そうです」 言い返してから、自分の声が思ったより強かったことに気づいた。 「」さんはほんの少し目を見開いて、それからまた、いつもの顔に戻った。 私はその顔を見ながら、胸の中でぐるぐると回っているものを、なんとか言葉にしようとしていた。さっきから、ずっとそうだった。 「うーん、でも本当に、オレはそんなんじゃないんだよ」 「でも、」 反論の言葉が私の口から出きるより早く、「」さんがスッと立ち上がり歩き出していた。 「オレも、前は色々絡まってグロテスクな状態になってた時はあったけど。みんなと会ったり話したり色々あった中でようやく分かったというか、初心に帰ったというか」 「」さんが歩みを進めた先で、ヒョイと拾ったのは捨てられ転がっていた空き缶。 それがさっき吹いた風で運ばれてきたものだとは、すぐには気づけなかった。 「オレにできるのは、オレがやってきたのは、精々これくらいなんだよ。多分」 こちらを振り返ってそう言った彼の目は、今日見たなかで一番真っすぐで一番澄んでいたように見えた。藍の瞳に、薄い雲の流れていく空が映っていた。 その時、私は目の前の友人の核心、そのほんの一部に触れたという感覚、確信があった。 この人にとっては、私を助けてくれたことも、みことさんを助けたのも、同じ感覚なんだ。 特別に何かをしたんじゃなくて、いつも通り、できることをしただけなんだ。 「……………………」 「コレ捨ててくる。ちょっと待ってて」 踵を返して離れていく「」さんを見送るしかできなかった私は、少しだけ浮いた腰をまたベンチに下ろした。 遠くでどこかの家族たちがまた笑っている。公園の空気は、さっきと何も変わっていない。 変わっていないのに、なんだか、今日ここに来る前とはもう、違う場所に立っているような気がしていた。