il pleut  朝九時五十八分。  自室の椅子に座って机の上に置いたスマホを睨みつけていた。  目を覚まして、食べたくもない朝ごはんを食べて、着替えてからずっと何もせずにただ座っていた。  二月だというのに暖房はつけていなかったから、屋内なのに吐く息がほんのり白いような気がした。いま一度目を閉じて深呼吸。すきっとした冷たい空気が肺を満たし、まだほんの少し頭にへばりついていた眠気を彼方へ残らず吹き飛ばす。  十時。時間だ。待ち受け画面のアイコンをタップして画面を遷移させていく。少し読み込みが遅い気がするのはアクセスが集中しているからだろうか。  どうせあとからでも確認できるんだからこんな時くらい私を優先してよ。こっちは青春の1ページを破り捨ててまで頑張ったんだから、それくらいの権利はあるでしょう?とは思うものの、そんなもの、ここに1秒でも早くたどり着きたい誰しもが漏れなく胸に抱いていることのはずだろうと考え直してかぶりを振った。普段ならば一分もかからないであろう道程にありえないくらい悪戦苦闘しながら、ようやく目当てのページの読み込みが始まる。  さっきまでの苦労が嘘みたいにあっけなく画面に表示されたページには、『合格』という無味乾燥とした二文字が刻まれていた。なんとなく、【卒業】を告げる鉄片を寄越された時の気持ちに似ているな、とぼんやり思った。  きっと今もその時も、嬉しいだとか悲しいだとかそんな感情は限りなく希薄で、ただ単にほっとしていただけなんだろうなと、今さらになって思い知ったのだ。  ふと窓の外を見る。  寒いはずだ、いつからか雪がちらついていた。 ◆  ガチガチに取得単位を決めてスケジューリングしたわけじゃないからとりあえずで受講を決めた選択授業の講義室に入ると、入学オリエンテーションの日に話が合って友達になった子が声をかけてきた。 「八神さんも受けてたんだ。こっち方面興味あるの?」  問いに対して首を傾げ、曖昧に笑って出入り口近くの通路際の席に並んで腰を下ろした。選択科目を選ぶ理由なんて『楽に取れそうだから』以外がある人の方がおそらく稀だろう。受けてみて、合わないなと思ったら取り消して他を探すことはきっとそれほど珍しいことでもない。それを証明するかのように授業前の講義室はその机のじつに半分近くがピカピカの一年生たちで埋まっていた。おそらくは受け得の講義らしく、考えることは皆同じだ。  後方中央付近の全体が見渡せる席で、講義の開始を待つ学生たちを眺める。今の私のように必修やオリエンテーションで知り合いを作って身を寄せ合うように固まって座っている子、スタートダッシュに出遅れたのかそもそも一人が好きなのか、ざわめきの中で孤高に振る舞ってテキストの確認やただスマホをいじっているような子。中には初っ端だというのに睡眠不足なのか誰とも関わり合いを持ちたくないのか机に突っ伏している子がいるかと思えば、受験前から友達グループに所属していて一緒に入学したのか会話が弾んでいる集団もあった。 「ね、知ってる?あの子って芸能人なんだって」  鞄からテキストと筆記具を取り出していると不意に話しかけられて指をさされた方向に視線を向けた。  学生の傍ら芸能活動に勤しんでいる人なんて東京じゃ今日び珍しくもなんともない。今どきならネットにいくらでも発表の場はあるのだし、かくいう私もアイドル活動をしていた時期があり、今も細々とではあるものの配信活動なども嗜んでいる。 「朝のテレビにたまに出てて、ナントカってアイドルもやってるっぽいよ」  そのナントカの内容が重要なんじゃないだろうかと眉を寄せながら、件の芸能人とやらが誰なのかと視線をさまよわせた。  はたしてそれは、ネットで検索するまでもなく誰なのかがわかった。オーラがどうとか佇まいがそれっぽいだとかそういうんじゃなく、ただ単に知ってる子だったからだ。  やがて左前方あたりに陣取っていたその子が財布とスマホを手に席を立つ。お手洗いにでも行くのか飲み物でも買いに行くのか、ゆるい傾斜の階段を登って後方の出入り口に歩いてくる途中、目が合った。 「え、うそ、叶愛っち!?」 「やっぱり塔子だ」  特徴的なバンダナカチューシャもトレードマークのポニーテールもしていなかったけれど、若竹を思わせる鮮やかな髪色は見間違えようもない。  連れにひとことことわって出てきた外のベンチに並んで座って、講義開始前のわずかな時間に近況を話し合う。そこかしこに植えられた桜は満開で、少し鬱陶しいくらいに花弁が舞っている。  卒業後もRAINやらなんやらでメンバーたちとは繋がってはいたものの、常日頃から連絡を取り合っていたかといえば別にそんなことはなかった。疎遠とまではいかなくとも、特別近いわけでもなかったので受験時は志望校なんかも特に言い合ったりしていなかったから、再会はまったくの偶然だった。 「まさか同じ大学だなんて思わなかったからビックリだよ〜」 「お互いよく現役で受かったなーって感じ。Sランだよここ」 「お互いって何だよう。塔子は高校が附属だったってのもあるけどちゃんと試験もパスしたんだからね」 「お嬢め〜〜〜!上級国民〜〜〜!」 「なんだとーう」  フェンシングに限らず、習い事なんておしなべてお金がかかるものだ。ましてやそれが全国クラスの実力に育ってなおかつ活動を続けていくには、本人の才能は大前提としてそれ相応のバックアップが必要となってくる。だから最前線で切磋するプロフェッショナルたちにはスポンサーがつき、活動をサポートするのだ。そんなバックの強さを裏付けるかのように、塔子の今日の装いは一目でいいとこのお嬢様とわかるような出で立ちだった。  上等そうな生地の紺のワンピースに、ふわふわの白いカーディガン。活発な印象を受けるアイドル活動中とは打って変わってサラサラの長い髪をハーフアップにして、髪留めの大きなリボンもセンスがいい。  塔子はあんなキャラをしておいてみんなが思っている以上にかわいい服が好きだ。かと思えばあえて大人っぽいレザーみたいなコーディネートを選んでみたりと、どこから球が飛んでくるかわからないギャップも彼女の魅力といえた。 「あのさ、叶愛っち」 「んー?」  春とはいえまだほんのり肌寒いからと選んだホットミルクティーのペットボトルに口をつけながら、なんだか遠慮気味に切り出した塔子の続く言葉を待つ。  今のいままでけらけらと笑っていたのが嘘のように、その表情にはふっと陰が差したかのように私からは見えた。 「まだ先だし詳しいことは決まってないけどさ、夏にいっぱいライブやるから見に来てよ」 「えーなに、いつも行ってるじゃん。毎回じゃないけど予定合えば」 「ん、約束ね」  ナナニジの韋駄天剣士にあるまじきテンションの低さに面くらっていると、あたりに予鈴が鳴り響いて、私たちは慌てて講義室へと戻っていった。 ◆ 「それじゃ、キリもいいから今日はこのへんで終わります〜。次回配信は決まったらツイッターかなんかで告知するね〜。ばいばーい」 『お疲れ様〜楽しかったよ〜』 『ばいばーいノシ』 『まだツイッター(現X)の民がおる』 『またね〜!』  流れていくコメントを眺めながら配信終了のボタンを押してヘッドホンを外すと、耳まわりにじっとりと汗をかいていたことに気が付いて思わず制汗シートに手が伸びる。  気が向いた時に不定期にゲーム実況なんかを始めてみたら、気がつけばなんだかんだでずいぶん長いこと続いてしまっていた。飽きたらすぐにでもやめるつもりでいたというのにやめ時を見失って、ひっそりとネットの隅でやっていたはずだったのにどこからか噂を聞きつけたアイドル時代のファンのみんなが集まってきて、やっぱり私は根っこがおしゃべり好きの目立ちたがり屋なんだと再確認させられて無意識に頭を搔いた。  PCデスクの隅に放り投げられていたスマホに手を伸ばし、SNSのおすすめタブをさっと眺める。タイムスタンプ順ではないから使いにくさもあるものの、ゴリゴリのエゴサをするでもない時は伸びてるものをかいつまんで表示してくれるからタイパがいい。  界隈ではやはりというか、みうさんの卒業発表の話題でもちきりだ。グループの中核を担ってきたんだから当然といえば当然で、春ごろに塔子が遠慮気味に切り出した言葉の意味を嫌でも理解させられる。  特別仲のいい先輩ではなかったし、なんなら絡みに行っても私の押しの強さに怖がらせてしまうだろうからと、どちらかといえば積極的に遠慮するくらいの距離感ではあったけれど、ふと見ると私たち後輩がふざけあっているのをにこにこしながら見守ってくれていて、楽屋でもステージの上でも、ただそこにいるだけで私を含めた全員が何か安心感めいたものを感じていたものだった。  そんなそこにいることが当たり前だった人がついにグループを離れるのだという。例の「壁」に何か言われたのかどうかはわからないけれど、界隈に与えた衝撃は計り知れなく、私も発表当時は思わず声が出てしまったほどだ。 『戻ってこい八神!』  ふと、ひとつのツイートが目に留まる。ああいや、今はポストというんだっけか。何かあるたびに無責任にネットの海に放たれるそれは、無遠慮に私のからだを斬り刻んでいく。  じゃあそうします、なんてできるわけもないのにさ。一度でも手放したなら、もうそれはそう簡単には拾い直せない。  復帰を望む声はそりゃ嬉しくもあるけれど、それはきっと空いた穴を埋める代替物としての欲求でしかないんでしょう。さすがに直接は言ってこないけれど、それはゆるく、ぬるく、元あった形の再現を望む代償行為で、突き詰めればきっと後輩メンバーたちの存在ですら誰かの代わりだ。完全なんてもうとっくのとうに取り返しがつかないっていうのに。  千切れた紐を結び直したとしても、決して元の状態には戻らないのと同じだ。好きなアニメの受け売りだけど。 「人には人の事情があるんだってば、なんて言える立場でもないか」  誰に聞かせるでもない独り言を呟きながら、代償行為の後片付け。パソコンの電源を落としてシャワーを浴びる身支度を整えた。 ◆ 「はい、結構です。お返ししますね」 「ども」  関係者受付での身分証明と招待リストの照合が終わり、丁寧な手つきで学生証が返却される。 「ご希望のエリアはございますか?」 「端っこでいいです」  二階の関係者席と一般席の区分け表を差し出されたが、にべもなく言い放つ。たぶん真ん中あたりは卒業メンバーや顔見知りが陣取っているだろうから、なんだか顔を出しづらかった。普段のライブならともかく、卒業と銘打たれたそれにだけは、どこか後ろめたい気がして足が遠のいてしまうのだ。あかねさんを見送れなかったことがまだ尾を引いているのか、みかみさんの時も台風を言い訳に生配信でひっそりと眺めているだけだった。  もらったパスを首から提げて、キャップを目深に被って隠れるようにしながら2階席の入り口を目指して階段を早足で駆け上がる。ちら、とあたりをつけた席を見ると、やはりというか、何人かの元メンバーたちが並んで座っていた。  塔子をはじめ、本人からも、現メンバー全員からも観覧の誘いがあった。  行けたら行くくらいの温度で返事をすると大半はそれでひとまず納得はしたものの、今回は純佳ちゃんだけが妙に頑固だった。「絶対に来て」だなんて、いつもなら「来なよ」くらいの熱量だったのに。  指定されたエリアの壁際の席につき、足元に荷物を置く。一応ペンライトなども一式持ってきてはいたけれど、振る気にはなれなかった。手すりの枠越しに見下ろすと、1階のスタンディングエリアが続々と人で埋まっていくのが見える。もうあと3時間もすれば、ひとりのアイドルがついにステージを降りるのだ。いつもながら、実感というものが沸いてこないのは自身がそれを経験していないからだろうか。 「隣、座ってもいいですか?」  暇を持て余していたというのにスマホもいじらずにただぼんやりと開演が迫る会場を眺めていると、不意に声をかけられた。視線も向けずにどうぞ、と答えると、礼の言葉と軽い会釈ののちにその女性が腰を下ろすのが視界の隅に見えた。  ここに座っているということは演者関係者なのだろうけれど、まだ空きはあるというのにわざわざこんな僻地を選ぶこともないだろうに。そんな私のような物好きの顔が急に見たくなってこっそりと隣を覗き見た。 「あ、」 「ん?」  見覚えのある顔立ちに数秒記憶の網を手繰り、指先が触れた瞬間思わず声が漏れてしまった。  慌てて口元を右手で押さえたものの、ばっちりと視線がぶつかってしまってもう誤魔化すことは不可能だろう。 「あ、もしかして八神さん?はじめまして、佐藤麗華です」 「あ、あー、はい。存じております……八神叶愛です」 「全然タイミング合わなくてすごい今さらなはじめましてよね」  そう言って麗華さんは笑い、荷物の中からスマホを取り出してスリープを解除し、いくつか操作したのちにRAINのホーム画面を見せられてそのまま流れで連絡先を交換してしまった。この場面で提案を断れるほど私は度胸が据わってはいなかったし、むしろ光栄だ。現役の声優さんとお近付きになれるなんてオタク冥利につきる。 「やっと全員とRAIN交換できたよ。ありがとう」 「……あの、あっちの方に皆さん座ってましたけど、ここでいいんですか?」  自分の声だというのに不慣れな敬語丁寧口調がむず痒い。  正直なところ今日は他人が隣に座ってくれた方がまだ落ち着けたので、遠回しに探りを入れてみる。 「うーん、今日は私、スニーキングミッション中だから見つかるわけにはいかないのよね」  言って、彼女は口元に人差し指を立てる仕草をして、悪戯っぽい笑みを浮かべた。 ◆  最初の数曲の披露が終わり、MCを挟んで次の曲のイントロが流れ始めたところで会場スタッフが窮屈そうに狭い通路を掻い潜りながら麗華さんに声をかけてきた。 「じゃ、見届けてあげて」  そう言って彼女が手近な通用口の向こうへと消えていった理由がわかったのは、ライブもいよいよ佳境に差し掛かった頃だ。真っ赤な花束を抱えて下手側から舞台に登場した麗華さんがみうさんと再会の抱擁を交わす。  見ていられなかった。  弾かれたように席を立ち、足元の鞄を引っ掴み、涙を流すひとたちの視界を遮らないように屈んで、追われるようにしてその場を去る。  分厚い防音扉を閉めたあとになってようやく呼吸をすることを思い出し、荒く息を弾ませながら壁にもたれかかった。  私は、ああなれなかった。  もしこの先同期の誰かが円満に卒業をしたとして、その最後のステージであの振る舞いができるのか。できるわけがない。やり遂げた者へと胸を張れるだけのことをただのひとつだって為せちゃいない。それどころか為そうとすら。  環境のせいにして、境遇のせいにして、タイミングのせいにして、誰かのせいにして、ただ自分以外のすべてのせいにして諦めて、手放したのだ。諦めただなんてお行儀のいいもんじゃない。ただの一度だって死に物狂いで求めたことなんてなかっただろう。  今さらになって激しく脳裏に渦巻く後悔と自責に頭を抱えながら蹲っていると、私以外に人っ子一人いない通路に防音扉の重苦しい開閉音が響き、ここにはいないはずの人が弾き出されるように這い出てきた。本来ならばステージの上にいるはずの人が。 「蛍ちゃん」 「叶愛ちゃん……?」  アンコール衣装を身に纏っているのにメイクもヘアスタイルにも一切の乱れがない一之瀬蛍が、目が合って私を私と認識した途端に堰を切ったように両手で顔を覆ってその場に泣き崩れてしまった。泣きたいのはこっちだっていうのに、びっくりしたせいで引っ込んでしまった気がする。 「ちょ、ちょちょちょ……!おばけかなんかじゃないんだから!」  人のことを見るなり泣き喚くだなんて失礼極まる。スキニーの膝が汚れるのも構わずに四つん這いで近くまで寄っていき、肩に手を置いて声をかけたけれどそれでも蛍ちゃんは泣き止む気配すらなかった。  ここ数ヶ月にも及ぶ休業期間中はとんと姿をメディアで見られなかったけれど、少なくとも今見た限りでは想像していたよりも健康体ではあるらしかった。泣いて頬が上気しているから血色が良く見えるだけかもしれないが。  本人とも他のメンバーとも連絡は試みたけれど、結局のところ休業理由は定かじゃない。事務所側からの口止め指示やらもあったのかもしれないが、本人が話したがらないのならそこへ部外者が口を挟むのはいらぬ世話でしかないのだ。今の私はメンバーの共通の知り合いでしかなく、単なる部外者なのだから知る由なんてないし知る手立ても思いつかなかった。 「……蛍ちゃんも、見ていられなかったの」  淡い期待をはらませて、昏い感情を吐き出した。  もしかしたら、彼女も私と同類なんじゃないかっていう、後ろ向きな確認作業。あれが眩しすぎて、目が潰れてしまったんじゃないかって。けれど、いまだ泣きやまない蛍ちゃんは首を横に振ってそれを即座に否定した。 「みうさんは素敵だったよ。だって私の師匠だもの」 「じゃあなんで」  こんなところで泣いているの。貴方が涙を流すべき場所はあの二重扉の向こう側じゃなかったの?もっと言ってしまえば、そのみうさんと同じステージの上じゃなかったの?  問い詰めるような続く言葉は喉の奥に飲み込んだ。何に腹を立てているのか。誰のことが許せないのか。わかっているから苛立った。 「真っ白なペンライトの海に、マゼンタを見つけてしまったから」  覆った両手のすき間から涙がぽろぽろあふれ出す。なんて無垢できれいな涙。 「もしかしたら押し間違いかもしれないし、決してあの場面で振るようなことはしなかったけど、二階から見下ろしたら見えてしまったから」  同じ後悔という種別の感情だというのに、内容はまったく違っていた。きっと人には人の事情というものがある。そんなことわかりきっていたはずなのに。 「あの誰かは最後の最後まで信じていてくれたのに。私があそこに立つ保証なんてどこにもなかったのに。それなのに」  裏切ってしまったと、彼女は泣いていた。  思わず脳裏によぎったのは、私がまだ22/7の八神叶愛であった最後の日にとある駅の構内に掲出されたファンメイド広告。嬉しかったはずなのに、思い出そうとすると胸が引き裂かれそうなくらいに痛くて痛くてたまらない。 「でも、そうだよね。見届けないと」  まだ涙は止まってはいなかったけれど、蛍ちゃんは震える膝に手をついて立ち上がる。それを支えながら、私も一緒に身体を起こした。 「……叶愛ちゃんはどうする?」  扉に手をかけて涙を拭いながら、蛍ちゃんは振り返って問うた。置き去りの私は答えられずに口を噤んで立ちつくす。沈黙を返答と受け取ったのか、彼女は寂しげに微笑みながら言葉を続けた。 「私ね、やめるんだ」 「そんなの、まだ」  間に合うって言いかけたのに、しかし彼女は遮るように首を横に振る。 「ずっと出たかった舞台からオファーをいただけたの。たぶんそこが22/7の一之瀬蛍としての最後のステージ」  連絡嬉しかった。返せなくてごめんね。そう付け加えて蛍ちゃんは扉の向こうへと吸い込まれていった。  その場に残された私はとれくらいの間立ち尽くしていたのだろう。壁の向こう側からかすかに漏れ聞こえてくるダブルアンコールの熱気から逃げるみたいに、覚束ない足取りでパスを返却してふらふらと会場をあとにした。  未来があるからなんて言葉、今の私にとっては針の筵と同義で、その歌詞のすべてが全身に突き刺さる。  終演時間よりもいくらか早いから混み始める前の最寄り駅から電車に乗り込み、帰路につく。平日の帰宅ラッシュもとっくに終わって車内は思っていた以上に空いていた。  RAINでメンバーに見ていた旨を伝え、みうさんにも個別でおめでとうございますと送信した。用事があって挨拶に行けなくて申し訳ないというすぐにばれそうな嘘も。  誰に監視されているでもないのに取り繕いに満ち満ちた言葉を送り終えて、窓の外へと視線を遣ると、流れていく夜の街の風景に重なってひどく苦しそうな自分の顔が私のことを睨んでいた。  夢だったんだろ。憧れてたんだろ。だっていうのに乗り越えられそうもない壁にぶち当たるのが怖くて、御託や言い訳を並べて傷の浅いうちに背を向けた。責めるような自分の視線が両目を射抜く。本当に諦めたんなら全部やめてしまえばよかったのに。なのに無様にしがみついて、すがりついて、手放してしまえやしなかった。なんて浅ましいんだろう。  誰かの幕引きを見たくないのはそれを自分に重ねてしまうから。避けようのないタイムリミットから目を逸らしていたかったから。がむしゃらに何かに打ち込むことをしなくなったのは、どうせほかの誰かがそれをもっと上手くやれるだろうから。それを認めてしまうのが怖かったから。やりもせずにいらない心配ばかりで、いつしかその両足は根が張ったかのようにびくともしなくなっていた。  スマホを開く。とっ散らかった待ち受け画面のアプリアイコンに混じった、とあるWebサイトへのショートカットが目に留まった。  押せよ。  押せ。  ほんの少し指先を動かすだけだ。  そうすれば跳べる。  私がまた、始まる。 ◆ 『厳正なる審査の結果、あなたは三次審査を通過いたしました』 「やっ……!」  一分ごとに受信トレイを更新してようやく現れた新着メールを開いて表示された文面に思わず跳び上がりそうになったけれど、大学の敷地内とはいえ天下の往来であることを思い出してぎりぎり踏み留まった私を誰か褒めてほしい。 「何やってんの叶愛っち」 「何も」  しかもタイミングが悪いことに待ち合わせていた相手が怪訝な顔をして現れたもんだから、掲げた拳をどこへやっていいものやらだ。  自分に合っているかどうかはわからないけれど、その選択講義はずっと取り続けていた。そりゃお互いのスケジュールによっては予定が合わないこともあったけれど、もし被ったならゆるく待ち合わせるのがいつの間にか習慣になっていた。 「寒〜!別に外で待ってなくてもいいのにさ」 「ザ・冬って感じがしていいじゃん」  結局初日に知り合った子とはいつの間にか疎遠になり、そんなに続かなかった。必修で顔を合わせれば話しはするものの、お互いに別で仲良くなったグループの方が圧倒的に付き合いは多い。JDなんて割とそんなもんだろう。 「あのさ、塔子」 「なにー?」  スマホをコートのポケットに仕舞ってマフラーの位置を調整しながら、平静を装って切り出す。まだ三次通過だし最終結果が出たわけじゃないんだから、喜ぶのはまだ早い。駄目だ、まだ笑うな。いや、しかし。 「まだ詳しくは言えないんだけどさ、近々いい報告ができるかもしんない」 「えーなに。気になるなぁ。さっきのやつ?」  まだ秘密、と笑って足を速めたとき、目の前を白いものが舞った。 「寒いはずだよ、雪降ってきちゃった」 「積もるかなぁ」  雪、このまま降って。たくさんたくさん。  きみたちと話したことを全部、固めて次へ持って行きたいから。  それさえあればきっと、大丈夫だろうから。 ◆  なんのために歌うかなんて、ファンのためっていうのももちろんあるけど、突き詰めれば全部自分のためだ。私は私のために歌っているにすぎない。  開始直前にお守り代わりに開いたRAINにはいくつもメッセージが届いていた。心配性だったりまっすぐだったり素っ気なかったり。中にはわざわざ動画でチアダンスを送ってきた子までいた。  選考が始まって極度の緊張に俯くと、胸元から紐が一本伸びているような気がした。それを辿ると、不格好な結び目を経てここではないどこかに繋がっているような錯覚に陥る。細くて脆い、けれど確かなつながり。  跳んでみなよ。死にはしないから大丈夫、失敗しても少し痛いだけだ。高いところはもう克服したはずじゃない。  手渡されたマイクを握る。手汗でべとついた。だけど不思議と思考はクリアだ。 「神奈川県出身、大学一年生19歳の八神叶愛です!夢は武道館、そして東京ドームに立つことです!よろしくお願いします!」  きっともう同じステージには立てないだろうけど、せめて同じ目線に立ちたかった。見上げるんじゃなくて、転換でハイタッチを交わすみたいな、そんな存在になりたかった。  そしてもし叶うのなら、いつかどこかできみたちと同じ歌を歌える、そんな未来を探したいのだ。  夜は気付けば明けていて、雨もいつしか上がっていた。  あぁ、今日の空は雲ひとつない快晴だ。 了