ギリセフ戦線 前線から50スタディア コンクリートで粗く仕上げられた部屋に、ベッド、机、クローゼットが設えられている。重厚なオーク製で、手の込んだ彫刻が施されている。およそこの部屋には不釣り合いだ。それらは、近隣の空き家から略奪してきたものだった。ここに来た当初よりは和らいだが、人間達の独特の香りを放っている。バリスタは外套を取り、上級士官用の控え室を出た。 掩蔽壕の出入り口を抜けると、塹壕が続いている。 早朝の青空が、サタンが酔っ払って一筆書きしたような無秩序なジグザグ線を頭上に描いている。半ば凍り付いた泥の壁面は、崩落と修繕の痕跡を至る所に残している。 すれ違う兵たちは、バリスタを見るや慌てて脇に退いた。 純白の皮膚、鮮紅色の瞳、豊かに隆起した角。上級魔族の証。泥と埃に汚れた兵達の中にあって、塹壕を行く彼女の姿は、腐敗した倒木に現れた子実体に似ていた。 兵たちの視線には才能への敬意と、異質さへの気まずさが入り混じっていた。 バリスタは観測用の陣地に寄り道した。戦場を見渡す。ガタガタになった地平線が、泥と青空を2分していた。地平線上に見え隠れするのは人類側の陣地の構造物。そのさらに60スタディア後方には、ギリセフ市の城壁があるはずだった。 いつもと変わらない風景。 作戦本部は、報告書の束と地図で埋まっている。ひときわ大きな中央の卓には図上演習用に大判の地形図が広げられ、各戦力に模したチェスの駒が置かれている。 のぞき込むように立っている男が顔を上げる。仮面。バリスタを見据える片眼だけが、彼の見せる素顔だった。 「エビルソード軍独立遊撃中隊隊長、リャックボーだ」 噂だけは聞いていた。その声は、青年のようにも老人のようにも聞こえた。自信、狡猾、疲労。様々な要素が同居している。 「バリスタ。重弩弓中隊隊長」卓上に部下が置いたブラックコーヒーを啜る。頭の中のギアボックスが回り始める。 「敵が動くぞ」出し抜けにリャックボーは言った。バリスタはかすかに眉を寄せる。 「ここ2ヵ月、小競り合いの他はお互いにほとんど動きはなかった。何か兆候があったの?」 「前線偵察に出ていた配下からの情報」 沈黙。どうにも調子が狂う。しかし今こだわるべき事は別にある。バリスタは先を促した。 「ここに並べたのは、3時間前の敵戦力の位置だ。各戦力の行軍ベクトルから推論すると、本日の正午過ぎまでに、この配置に収まる」 盤上の駒が、ズッと音を立てて位置を変える。 敵の陣形は、当方に対し左右に大きく広がっている。中央部に戦力の8割が集中しているが、歩兵が主体。両翼は機動力の高い騎兵や機械化部隊が陣取っていた。 敵の意図を理解し、バリスタはやりきれなくなる。 「中央は囮。こちらの大多数が突っ込んで、精鋭が側面と後方から包囲。『カンナエ』とはね」 強力だが統制のないエビルソード軍の特性を読み、敵は教科書の最初のページに載っているような戦術を用意している。屈辱。 リャックボーは、中央の主力部隊にポーンを置いていた。最強の剣士エビルソードの足元に縋るならず者達。彼らはこれまで、数と力でひ弱な人間達を圧倒してきた。その幼稚なドクトリンが通用しなくなってきている。 危機感を持っているのは、バリスタのような一部のエリートだけだ。個人の功績しか興味がない烏合の衆は軍事行動という概念すら持たない。 そんな我が軍の状況を、目の前の男はこう評価しているのだ。前にしか進めない"ポーン"だと。 リャックボーは切り出す。 「敵は、我々を分析して最適解を出してきた」 「それで?」 「その裏を突く」彼は側面の丘に、ナイトを置いた。 「私の部隊が、さらに背後を取る。今度は奴らが包囲される」 バリスタは、重弩弓中隊の位置に置かれたルークを見た。 「そこへ、我々の重弩弓を打ち込み制圧する」 「よろしく頼む」 「ではそれまでの間、"ルーク"は"ナイト"の遊撃を適宜支援しましょう──」 「不要だ」 断固とした拒絶にバリスタが固まる。数秒の沈黙の後、リャックボーは気まずそうに言った。 「貴官の戦力は有能だ。しかし早期から行動すると、敵は弾道から"ルーク"の位置を割り出し、撃破に向かおうとするだろう。敵は分散し、"ナイト"の行動が困難になる」 「了解」 バリスタは渋々応じた。チェスの駒とは違い、実際の重弩弓は簡単に移動できない。反論の余地はなかった。 バリスタは、リャックボーの視線に気づいた。 「まだ何か?」 「貴官と話していると、昔の知り合いを思い出す」 「そう?」 苦笑するバリスタに、リャックボーは続けた。 「"ナイト"は"ルーク"を守る」 バリスタはその時、自室の"人間の匂い"を感じた気がした。 羽織っている外套に染みついてしまったのか。あの部屋に長く居すぎた。この戦場も去る頃合いなのだろう。 戦闘は、リャックボーが予測した通りに始まった。 観測陣地で、バリスタは増強した視力と観測妖精の情報で50スタディア先の戦線を視ていた。 主力部隊の兵が、人類側の中央部隊へと雪崩れ込んでいく。人間達は銃と大砲で牽制しつつ、徐々に後退していた。両翼の敵部隊は前進し、エビルソード軍の視界の外で包囲を固めつつあった。予知夢でも視ているかのような予想通りの展開。バリスタの胃がねじれるように痛む。 「"ナイト"は動いたか?」 「いいえ」部下の声も不安で上ずっている。 「こちらの呼びかけにも応じません」 中煎りのグァテマラを一息に飲む。香りが感じられない。 人類側の十字砲火が始まった。音声は届いていないはずなのに、主力部隊の阿鼻叫喚が聞こえる気がした。 裏切られた 不意に浮かんだ言葉を掻き消す。あの男はこれまで会ったどの魔族とも違った。 信じられる。信じたい。 「我が隊が攻撃を受けています!」部下の悲鳴のような報告が思考を中断した。 脊髄を冷たい光が走り抜ける感覚。 「上空の観測妖精からの映像です」壁面に見慣れた地形が投影された。 赤茶けた大地をジグザグに走る塹壕の黒い筋。その周囲に等間隔で並ぶ無骨で巨大な機械は、バリスタの重弩弓だ。そのひとつが一瞬青白い閃光を放ち、焼け焦げた部品と部隊員の死骸が飛び散る。 (動力のエゴブレインドライブがオーバーロードしたんだ) そう理解した時、衝撃波が陣地を揺らした。 画面の端から、方眼点がゆっくりとスライドしてきた。地形を無視した動きは何か之データを合成したように見えたが、その一点を拡大すると純白の人影が確かに歩いている。胸の紋章には見覚えがあった。 「バーティルーン?嘘でしょ──」 モラレル直属の特殊部隊。後方攪乱、破壊工作、暗殺。何をやってるのか全然わからないブラックボックス。でも、どうして味方の私たちを狙うのだ。 恐怖よりも落胆と怒りがバリスタを支配した。それは彼女をパニックの泥濘から引き上げた。 「重弩弓は放棄。総員退避しなさい。今すぐ」 「バリスタ隊長──」 『今すぐよ!!』 バリスタは部隊員全体に向けた号令に"強制服従"の暗示を仕込んだ。上級魔族が配下の魔族を使役するために備わった能力。絶対に使いたくなかった。部下達は弾かれたように飛び出していく。 バリスタは観測陣地を飛び出し、塹壕を全力で走り出す。すれ違う部下達が意志に反して動く身体の上で涙を流している。 私も戦わせてください、そう叫んでいる者もいた。 2度、3度、閃光と衝撃が断続的に塹壕を揺らした。重弩弓が順次破壊されている。 武器庫の扉を蹴り開け、携行用の小重弩弓を掴んだ。塹壕に再び躍り出ると、2体の白い影が塹壕の曲がり角から姿を現した。躊躇なく発射。重金属の針が敵の鳩尾に拳大の穴を開けた。 「ちょうどこれの実地試験がしたかったところよ」 自動装填機構がガチャリと音を立てた。 バリスタはさらに5体のバーティルーンを倒した。 曲がり角を抜けざま、盾を構えた一体が低く踏み込み、彼女の背丈ほどある剣を横薙ぎに払う。バリスタは泥壁を蹴って身を浮かせると、彼女の鼻先を刃が唸りを上げて素通りした。着地と同時に小重弩弓を敵の脇腹へ押し当て、引き金を引く。鈍い反動とともに射出された重金属の針が装甲の継ぎ目を穿ち、甲冑の内側で何かが砕ける手ごたえがあった。 倒れ込む体を蹴り出して振り向き、背後から迫る別の一体の膝関節を撃ち抜く。白い影が泥の中に崩れ落ち、残る二体も連続射撃で仕留めた。 バリスタは塹壕を走り抜ける。次第に荒くなっていく呼吸と、泥水溜りを踏みつけるブーツの足音だけが聞こえる。その後を、なおも十数体の敵が追ってくる。バリスタの反抗にも決して怯まない、淀みのない動き。 「よく訓練されているわね。うちに来ない?」 バーティルーンの一体が投擲したスピアが大気を切り裂きながらバリスタの髪を掠める。スピアは泥の壁に半ば埋まった後、爆発した。あれを食らったら再生はできない。 「もう少し愛嬌が必要ね」 視界に、唯一生き残っている重弩弓が姿を現した。バリスタは塹壕から飛び出す。地上で待ち構えていたバーティルーンが彼女に銃撃を浴びせる。 (人間の武器まで使ってる) 親指大の銃弾がバリスタの大腿と肺を貫通した。 殴られたような衝撃。筋肉と臓器が断裂する感覚。彼女は意に介さずに一直線に駆け、通り抜きざまに伏兵へ重金属針を食らわせた。重弩弓にたどり着く。 「よくも私の重弩弓達を壊してくれたわね」 バリスタは動力部の保護カバーを蹴り飛ばす。動力機関の中枢、大型のエゴブレインドライブが無数のケーブルとダクトに繋がれている。 彼女はすぐ近くにまで迫るバーティルーンの集団に一瞥をくれ、 「でも中途半端。ぶっ壊すっていうのはね」 制御機関のケーブルを引きちぎる。途端に耳障りな擦過音が響き渡る。 「こうするのよ」 擦過音は大きく、甲高くなっていく。 肺に溜まった血液を吐き出し、バリスタは地面に崩れ落ちた。 エゴブレインドライブは圧力弁を失い、リアクターに濃縮されたエゴ核力が物理上最大のポテンシャルで臨界に達するまで十数秒。そして、敵諸共この前線基地は蒸発する。 もう一度血の塊を吐き出し、バリスタは微笑んだ。 目の前に金属の塊が飛び込んできた。駆動音は猛獣の咆哮。扉が開く。仮面の男。 「生きたければ来い」 リャックボーが身を乗り出して手を伸ばす。 バリスタは力を振り絞り、血と泥で汚れた手を差し出した。リャックボーが掴んだ手首が痛んだが、彼の手は温かかった。 ボーリャックはバリスタを引っ張り上げる。ぐったりとした彼女を膝に載せたままアクセルを蹴るように踏みつけた。魔導車は鞭打たれたように悲鳴を上げ、その強烈な加速力を発揮した。 加速に押されたバリスタの身体が、ボーリャックに強く押し付けられる。ボーリャックの鳩尾のあたりで、彼女の柔らかな胸が変形した。 閃光。ナトリウムの燃焼。真空の静けさ。 数瞬後、衝撃と轟音が車体と2人を殴りつけた。車体のリアを無数の小石や泥が叩き、埃の雲が猛然と魔導車を追い越していった。 無人に還った荒野を、魔道車が仮面の男と上級魔族の娘を乗せて疾走する。ボーリャックが起動したワイパーが、弱々しい駆動音と共に往復している。 バリスタは、薄れ行く意識の中で独りごちた。 「"ナイト"は"ルーク"を守る」