石の床が音を立てて破裂する。豹の牙を逃れるガゼルの如く、犬面の女は崩れた足場を蹴って跳躍し、着地して更に跳ねた。 「懐かしいな、勇者殿」  アテンは砕けた床を剥がし取り、投げつける。宙に舞った石の塊が、魔術の刃を浴びて砕けた。 「もう勇者ではない」  飛び散る石片を突き破り、不死殺しの剣が襲いかかる。刃先が獰猛に光る。光に混じって滴が散った。 「君は今でも、私にとっては勇者だ」  その体に血が通っていなくとも、その顔が獣の面に変じていても。包帯がうねり、剣先を逸らす。古びた布に濃い色の斑点が生じる。ヨミの獄卒は獣のように唸った。 「勇者ではない。お前の首を落とした者が勇者だ」 「いいや、君は勇者だ。あの日君は私に勝った」  剣を退けて開いた空間に、腕を伸ばす。ヨミの獄卒は敏捷に跳び退いた。犬の尖った鼻先を伝って、涙が流れ落ちる。 「私は負けた。殺せなかった。この手で殺してやりたかった」  アテンは両手を下げた。この手で殺すはずだった。または、その手に殺されるはずだった。あの誇り高い勇者を、最後の最後に裏切ってしまった。 「すまなかった」 「謝るな」  鋭い怒声を聞きながら、手を下げたまま歩み寄る。剣は掲げられたままだ。この距離で胸を突かれれば避けられない。ヨミで死んだものはどこに行くのか。 「アテン。なぜ死んだ」  声が鋭いまま軋む。涙で濡れた目の、まなざしは炎のようだった。 「お前は……」  かつての勇者は一歩前に出た。胸に額が触れる。 「お前は不滅なのだと思っていた……砂漠のように……」  片手を上げて、掌をそっと背に当てた。拒絶はなかったが、寄り添ってくることもなく、彼女は棒切れのように身を固くして、ただ突っ立っていた。 「君は泣かないものだと思っていたよ」  背は呼吸も鼓動も、慟哭の震えも伝えてこなかった。激情のあかしに、胸の包帯だけがひたひたと濡れた。 「私もそう思っていた。家族が死んだ時も涙など出なかった」  乾いた声が答える。声音とは裏腹に、涙は溢れ続けて止まらなかった。  胸と額、背と手だけを触れ合わせ、抱擁というには不自然に過ぎる姿勢で、二人は長い間、ぎこちなく立ち尽くしていた。やがて小さな吐息が聞こえた。 「取り乱してすまなかった。続きだ」  手の中からするりと抜け出し、死した勇者は剣を構えた。  その時だ。ひかえめな咳払いが聞こえた。二人は弾かれたように、揃ってそちらを向いた。 「ようこそヨミ国へ。私はデス・クワーク。死神です」  骨にも金細工にも見える宙に浮く両手、上半身だけの奇怪な姿。死神デス・クワークは砕け散った床を見回し、長く、痛々しいため息をついた。 「死神。ではいよいよ、私にも裁きが下るというわけですな」  アテンの言葉に、デス・クワークは、重々しく首を振る。 「いいえ。よく勘違いされるのですが、ヨミ国は冒険者など、復活を待つ死者の預かり所です。裁きは他所の管轄です」  アテンは傍らの獄卒を見下ろした。彼女は黙って目を逸らした。 「裁きが望みであれば他国に移動をお願いします。復活志願であれば、ヨミ国で待機いただくことになります」  デス・クワークは、無残に飛び散った建物の残骸に目をやり、付け加えた。 「暴れるようなら強制退去していただきますよ」  アテンは決まり悪そうに横を向く顔に、もう一度目を向けた。 「今しばらくこの国に留めていただけますか」 「わかりました。彼を待機場所に案内してくれ」  デス・クワークは了承の後、獄卒に指示をする。獄卒は首を傾げ、小声で囁いた。 「未練などないと言ったばかりだろう」 「やめてくれ。皮肉や当て擦りはもう十分だ。今はただ、君と話がしたい」  かつて勇者だった女は躊躇い、おずおずと手を差し出した。もう王ではない男はゆっくりと手を伸べた。指先が触れ合った。 「何を話すというんだ。すべてが終わってしまった後に」 「何でもだ。時間はたっぷりあるじゃないか」  現世にアテンを呼ぶ者などいない。二人共が知っている。  二人が立ち去った後、残されたデス・クワークは、粉々に砕けた石の床をつくづくと見つめ、次いで胸を反らせるようにしてしばし宙を仰ぎ、深く嘆息した。