「――はあっ、はあっ……!」 10月31日、ハロウィンの昼下がり。 商店街――あわせみそ通りはすでに熱気に包まれ、仮装と喧騒があふれている。 その雑踏のなかを、上野聖心はただひたすらに走っていた。 風は冷たく、頬に触れる空気に冬の訪れを感じる。 吐く息は白く曇っても、彼女の足は止まらない。 人の波をすり抜け、飾りで賑わう商店街を一直線に駆け抜ける姿は、どこか猫のようにしなやかで、鋭い。 その様子を彼女の知人が見れば、きっと驚くだろう。 なにせ彼女は、自他ともに認める生粋の引きこもり。 日々の動きはナマケモノのように緩慢で、人との接触は極力避けてきた。 そんな、「繊細」というよりもはや「脆弱」に近いメンタルの持ち主である。 人混みなど、本来であれば最も避けたい場所のはずだった。 それでも、今この時に限ってはそれは違っていたのだ。 「待って……待ってっ!」 ぶつかりそうになった人々を器用に避けながら、息を荒げ、地面を蹴る。 彼女をそこまで突き動かす衝動――その原動力は、たった一つ。 「結愛ちゃん……!」 その名を、息も絶え絶えに絞り出す。 人混みの向こうに、一瞬だけ垣間見えた後ろ姿。 視界の端で遠ざかっていくその影に、聖心は確かに見た。 ――二十年前に死んだはずの、親友の姿を。 ※※※ 静寂な朝。その空気を破るように、少女の声が響いた。 「…最近、ちょっとだらけすぎです」 掃除を終えたばかりの雑巾を丁寧に畳みながら、居候の処女、眠良瀬ミコトはそう告げた。 手慣れた様子で布を四つ折りにしながら、その目は冷ややかにソファを見据えている。 視線の先――そこには、黒いシスター服に身を包み、クッションに顔を埋めて微動だにしない聖心の姿があった。 「……」 両者の間に漂うしばしの沈黙。 しかし視線にこもる冷気に耐えかねたのか、やがて聖心はもごもごと口を開く。 「ウチなりに機を待つというか…考えて動こうとは、してるんすよ…?」 伏し目がちに絞り出した声は弱々しく、反論というより完全に言い訳でしかなく。 そして案の定、ミコトはそれをばっさり切り捨てた。 「ここ1週間ずっと同じこと言ってますよね?機が熟し過ぎて腐っていますよ」 「うぐっ!?」 鋭い言葉が聖心の胸に突き刺さる。 思わず顔を上げた先には、能面のような笑顔と、その奥に怒気をたたえたミコトの目。 (お、思ったよりもミコトちゃんの口撃力が高い…!) 聖心は内心で震えあがる。 これはいつものなんだかんだ甘々なミコトではない。 今回は相当に本気で怒っている、そう悟った。 (……来る!) 今までの経験から、聖心の脳内で警報が鳴り響く。 自身のガラスのハートがせめて粉々に砕かれないよう、逃げるように再びソファへ深く沈み込み身を丸くした。 次の瞬間。 「ブランさんだって、最近は外に出ているんですから。 『友達ができたかも』って、嬉しそうに話してたくらいです。 それに比べて聖心さんは全くどうしてっ。 たまに夜に何かのお仕事に行かれているのは知っています。 確かにお疲れな時もあるんでしょう。 でもそれにしたって限度がありますせめてブランさんの前くらいでは……」 天から降り注ぐ言葉の嵐。いや、これはもはや隕石群。 普段から積もり積もっていた想いが、ついにあふれ出したという感じだった。 ミコトの怒りは止まらない。 「うぅ……」 耳に痛すぎる正論の嵐から逃れようと、聖心はさらに手近なクッションを頭に被る。 しかし今のミコトにとっては、そんな防御はハリボテ同然。 クッションを容赦なく引き剥がして、冷たい声で告げた。 「……お願いがあります」 言葉とは裏腹に、その口調に『お願い』のニュアンスなど欠片もなかった。 「ちょうど今日、あわせみそ通りという場所でお菓子の特価セールがあるらしいです。ひとっ走りして買ってきてください」 「え゛っ……ええと、それって、ウチ一人っすか?」 「他に誰がいるんですか。ブランさんはもう出かけてます。頼めるのはあなたしかいません」 「せ、せめてミコトちゃんと一緒に……」 「じゃあ、今夜の準備はどうするんですか。聖心さんが全部ひとりでやってくれるなら、私が行ってきてもいいんですけど」 「ぐっ…で、でもでも……あの合わせみそ通りって確か他県っすよね?ひとっ走りで行ける距離じゃないっていうか…そもそもウチ方向音痴だから、迷子になるかもっすよ……?」 泣き言を並べ立てる聖心。 しかし、ミコトの態度は揺るがない。 「もし迷ったら、誰かに聞いてください。 ついでに人とのコミュニケーション練習にもなります。はい、メモと地図と財布です」 淡々と物を手渡すその手に、断る余地は残されていなかった。 聖心は渋々それを受け取り、重くため息をつく。 「ひとりで遠出とか……もしかして初めてじゃないっすか?」 「別に遅くなっても大丈夫ですよ。聖心さんが帰ってくるまで私達、お腹を空かせてずっと待ってますから」 「普通に叱られるよりもキツイこと言わないでもらっていいっすか!?」 最後はミコトのにっこりとした『笑顔』の圧を受け、聖心は玄関へ向かう。 扉が閉まるまで、その背からは情けない悲鳴が響いていたのだった。 *** そんなやり取りをしてから数時間と少し。 聖心はようやくの思いで「あわせみそ通り」の入り口にたどり着いていた。 「……ついた、っす……」 汗ばんだ額を手の甲で拭いながら、肩をぐったりと落とす。 地図もメモもミコトから受け取ってはいた。 けれど、方向音痴の名に恥じぬ迷走ぶりを披露したのは言うまでもない。 公共交通機関は怖いので徒歩、というより徒走と言うべき旅路。 途中、道行く人に道を聞いては迷い、なぜか逆方向の駅に連れ戻され―― 最終的に、小学生に手を引かれて到着するという屈辱的な道のりであった。 「ウチ、もう少しで心折れるとこだったっすよ……」 ぼやき混じりに息を吐き出し、ようやく顔を上げる。 その瞬間、目の前に広がったのは―― まさに「非日常」と呼ぶにふさわしい、鮮やかな喧騒の光景だった。 街路には無数のジャック・オー・ランタンが灯り、 頭上ではおばけやコウモリのガーランドが風に揺れる。 どこからか漂うのは、甘く香ばしい焼き菓子の匂い。 吸血鬼、魔女、海賊、ゾンビ……仮装に身を包んだ人々が行き交い、 その隙間を縫うように子どもたちの笑い声が弾けていた。 「……わあ、派手っすね……」 思わず漏れた声は驚き、というより圧倒された吐息に近い。 華やかで、賑やかで、そして――相変わらず、聖心にはちょっと眩しすぎる光景だ。 「しかしまあ、この日の盛り上がりはどこも変わらないっすね…」 苦笑しながら、ゆるく周囲に視線を巡らせる。 未だに、その眩しさに目が眩むのは確かだ。 それでも――昔に比べれば、随分と慣れたものだ。 克服、というには些か情けなさが伴うのはご愛敬。 だって、きっとそれは聖心一人では成し得なかった。 思い出すのは教会で待ってくれているであろう、あの二人の顔。 「……感謝しなくっちゃっすね」 そんな独りごとが、唇から零れた直後だった。 (……あれ?) ――不意に、視界の端に何か引っかかりを覚えた気がした。 ふと足が止まり、聖心の視線は自然とそちらへと向かう。 その先、熱気に包まれた人波の中に、ひときわ異彩を放つ影が立っていた。 ハロウィンの仮装だろうか。 全身を鋼鉄の鎧で覆った異形の巨体。 頭部から突き出した角、重厚な脚部。大人の一回り半はあるであろう体格。 歩くたびに、ギィ……と低く金属の軋む音が響いていた。 (……ハロウィンの仮装にしちゃ、随分とまぁ本格的な) 最初に浮かんだのは単純な感心だった。 特注か自作か。どちらにせよ相当な手間とコストがかかっているのは見て取れる。 一日のハレの舞台ためによくやる―― そう思って視線を外そうとして、そこでようやく、聖心は気付いた。 その鎧は、金属の関節が生き物のように滑らかに動いていた。 硬質な装甲に見合わぬ、柔らかな動き。 鼓動を刻むような身体の起伏。 そしてなにより、明確な意思を感じさせる特徴的な瞳。 それは間違いなく―― 「……デジモンっすか?」 疑念が確信に変わると同時に、聖心の背筋を冷たいものが走る。 思い出すのは、前回のハロウィン。 霧の中での混乱と惨劇。今でも夢に見る、あの夜の光景。 咄嗟に身構え、周囲の様子をうかがう。 突然のデジモンのリアライズ。当然、商店街は瞬く間に狂乱の渦に―― 「……なって、いない?」 予想とは裏腹に、商店街はいたって平穏だった。 人々は鎧の巨体を前にしても驚く様子すらなく、仮装だと信じて笑いながらスマホを向けている。 (……嘘でしょ。誰も気づいてないの?) げに恐ろしきはハロウィンの空気か。 困惑しながら、聖心は視線を鎧のデジモンに戻す。 彼は戸惑ったように周囲をきょろきょろと見渡していたが、暴れる様子はない。 剣を握る手を振るうこともなく、ただその場に佇んでいる。 その姿は、先ほどまでの自分と同じ。 まるで、ここがどこなのか分からず立ち尽くす迷子のようだった。 (……今のところ、危害を加える気配はなさそうだけど……) 不穏さと安心がないまぜになった空気の中、どう動くべきか聖心が決めあぐねていると―― そこへ、人混みをかき分けて近づいてくる二人の姿があった。 落ち着いた雰囲気の青年と、手に紙袋を持った女性。 青年は静かに声をかける。 その言葉を理解したのか、鎧のデジモンは少し戸惑いながらも従い、人混みから少し離れた場所へと誘導されていった。 続いて女性が袋から取り出し、そっと差し出したのは――。 (お菓子……?) 聖心と同じく、戸惑いながらもそれを受け取った鎧のデジモンが一口かじった瞬間、 その身体がふわりと光に包まれ、そして――すうっと、その場から姿を消した。 (消されっ……いや、これは) 遠い記憶の彼方ではあるが、その光に聖心は見覚えがあった。 (…ゲートの光だ) 残光を追うように、聖心の視線が広く通りに向けられる。 すると、あちこちに――いた。 恐竜型、鳥型、獣人型、機械仕掛けの少女の姿まで。 一見すればコスプレに見えなくもない『デジモン』たちが、光に惹かれるように、通りのあちこちに姿を現していた。 (……あれ、ウチが気づいてなかっただけで……こんなに!?) 彼らは喧騒に紛れながら、ただ不安そうに辺りを見回したり、屋台を覗き込んだりしている。 攻撃的な気配は一切なく、その様子はまるで、迷い込んでしまった子どもたちのようだった。 そして、その一体一体に、先ほどの男女と同じような人々が近づいていく。 落ち着いた声で語りかけ、お菓子を手渡し、帰る道を示す。 デジモンたちは感謝の言葉を残しながら、順に光へと溶けていった。 (……なるほど) ようやく、聖心の中で状況が一本につながる。 詳細は分からない。けれど―― 少なくとも今この場で起こっている出来事は、見えない誰かたちの善意によって、穏やかに処理されつつのだ。 「取り越し苦労ってやつっすね」 そう言って、小さく息を吐く。 力が抜けた肩に、安堵の重さがふわりと乗った。 あの霧の夜とは違う。 この場では誰かが傷ついてるわけでもないし、自分が飛び出す理由もないのだ。 「まあ……ウチひとりが出しゃばったところで、できることなんて高が知れてるっすけど」 自意識過剰にもほどがある、とため息とともに自戒する。 結局、人一人の手が届く範囲なんて限られる。 昔も今も、いつだって聖心はそのことを嫌というほど思い知らされてきた。 ――だからこそ。 人と人とが繋がって、手を取り合って、少しずつ物事を動かしていく。 そうやって世界は回っている。 今日もこうして、誰かの手で。 「……なんて、ちょっとクサいっすかね」 照れ隠しのように呟いて、口元を緩める。 それでも、心のどこかがふっと軽くなった気がした。 「じゃ、ウチもウチの役割を果たしに行くっすか」 聖心は軽く息を整えると、再び歩き出す。 その足取りは、先ほどよりも少しだけ軽やかだった。 目指すのは、特価セールのお菓子売り場。 この日だけの小さな使命を抱いて、ハロウィンで賑わう通りを進んでいった。 *** 目的だったお菓子も、幸い特価品がまだ山ほど残っていた。 業者向けかと疑うほどの量を一気に買い込み、リュックはずっしりと重たくなる。 「よし。買うもん買ったし、撤収っす――」 成果は上々。 意気揚々と通りの出口へと足を向けかけた、そのときだった。 ――ぶる、とポケットの中で微かな振動。続いて、かすかな電子音が鳴る。 「……え?」 足を止め、聖心は眉をひそめる。 スマホなんて持っていない。そもそも、持ち歩く習慣すらない。 (ミコトちゃんがじぃーぴーえす?でも仕込んだ……?) 一抹の疑念を抱きながら、上着のポケットを探る。 指先に触れたのは、小さくて硬質な感触。取り出してみれば――それは、見覚えのある白い筐体だった。 「……D-アーク?」 かつてデジタルワールドで使っていた、デジヴァイス。 記憶の奥底にしまっていたはずの、冒険の証。 「いや、これ……ずっと動かなくなってたはずっすよね……?」 何十年も前に光を失い、反応もなくなった『過去の遺物』。 ただの飾りとして机の奥に眠っていたはずだった。 管理がずさんな自分のことだ。なぜかポケットに紛れ込んでいたこと自体は、そこまで不思議ではない。 問題は―― 「……なんで今、光ってるっすか」 そのD-アークは、かすかに白い光を帯びながら、静かに点滅していた。 そして液晶画面の中、矢印がまるで『何か』を示すように、一定の方向を指し続けている。 (……なんすか、これ) ざわつく胸の内を抑えながら、聖心は矢印の示す先へとそっと眼を向ける。 そして、見つけてしまった。 喧騒の向こう―― 華やかな屋台の隙間を抜けた小道の奥。 風に揺れる、銀糸交じりの黒髪が視界をかすめる。 黒と紫を基調に、肩や背中を大胆に露出した衣装。 ハロウィンのコスプレと見紛う装いだったがその少女は、違和感ひとつなくそれを着こなしていた。 ――聖心の記憶の中の彼女はあんな派手な衣装で、自信を持って歩ける子じゃなかったはずなのに。 「……えっ」 思わず声が漏れる。 信じたくなかった。 あの夜、冷たい雨の中で掴んだ手の感触を、今でも覚えている。 彼女は、死んだはずだ。 理性が必死に否定を試みる。 『見間違いだ』『似ているだけだ』と、脳が必死に打ち消そうとする。 ――でも。 たった今、焼き付いたその後ろ姿が、それを許さない。 知っている。あの背中を。 忘れられるはずがない。忘れるわけがない。 ――それは死んだはずの、親友の。 「……結愛ちゃん?」 前回のハロウィンの後に、聖心なりに整理をつけていたはずだった。 過去にとらわれ続けるのはやめよう。もっと未来に目を向けようと。 そんな覚悟を嘲笑うように、心のかさぶたは剥がれ、傷口がむき出しになる。 胸の奥を掻きむしられるような痛みに、足が震えた。 喉が焼けつく。心臓が暴れ出す。 それでも、目を逸らせなかった。逸らせるはずがなかった。 雑踏に紛れ、あの白と黒が入り混じる灰の長髪が視界から消えていく。 ――例え、それが幻だったとしても 気がつけば、聖心は走り出していた。 重たいリュックの存在など忘れ、ただ本能のままに過去の幻影を追いかける。 (待って!待ってよ結愛ちゃん……!) 縋るように、祈るように、走って走って走って―― 通りを抜け、彼女の影が吸い込まれた先。 たどり着いたのはハロウィンの装飾も届かない、薄暗い路地裏だった。 「っ……!」 角を曲がる。狭い、湿気のこもった裏通り。 自分の足音だけが、アスファルトに虚しく跳ね返る。 「結愛ちゃん――!」 名を呼ぶ。 届くはずのないと知りながら、それでも叫ばずにはいられなかった。 そして――返ってくるはずのない声が、影の向こうから返ってきた。 「わっ、聖心? どうしたの、そんなに慌てて?」 驚いたような声。 その瞬間、昂った聖心の心は急速に現実に引き戻された。 「――っ」 言葉が詰まる。息も、思考も、一瞬止まった。 ただ、胸の鼓動だけが逃げ場を求めて脈打っている。 そこにいたのは―― 「……ブラン……っすか?」 かすれた声で、聖心はその名を呼んだ。 彼女は『結愛』ではなかった。 姿も声も、よく似ている。けれど違う。決定的に違う。 「……聖心?」 こちらを心配そうに覗き込むその少女は――聖心にとって、かけがえのない存在。 シスタモン・ブラン。 今の聖心のパートナーが、そこに立っていた。