2月10日 朝20.5℃ 正午27℃ 夕25℃  ムンド・ノヴォが枯れた。最後の一本だったのに。  朝、雨がすこし降ったがすぐ止んだ。南風が強い。  水の少ない年になるだろう。 「来月だ。来月のうちにここからベルティオガまでの鉄虫を一匹残らず追い払い、安全な土地にしてみせる。だからあの斜面をぜひ開拓してコーヒーノキを植えてくれ。きっとだ、頼むぞ」 「は、はい……」  あっけにとられている農婦型バイオロイドの手を握って何度も振ってから、龍はつややかな黒髪をひるがえして軍用SUVへ戻った。マリーが苦笑とともに出迎える。 「人の仕事だと思って、好きなことを言ってくれる」 「どのみちやる気だったろう?」 「まあ、そうだが」マリーはタブレットに表示された地図にメモをとって、窓の外に目をやった。 「しかし、ここにもなかったか……」 「ああ……」  憂い顔の中将二人が乗り込んだSUVが走り出す。乾いた砂煙がくるくると巻き上がって後に続いた。  不屈のマリーと無敵の龍。南米がオルカの領土となったことを誰よりも喜んだのは、大のコーヒー党であるこの二人だったかもしれない。  何しろ南米といえばコーヒーの本場、旧時代には世界最大のコーヒー産地だった大陸である。専門の農園とまではいかずとも、農業生産拠点のそこかしこで地元作物としてコーヒーが栽培され、なんなら町並みの中にすら自生し、住民は誰もが気軽に美味いコーヒーを楽しんでいるに違いない……そんな風に夢見て、軍務に励みながらも南米へ憧れの視線を向けていた二人であったが、カラカスの情勢が落ち着き南米全体の状況がわかってくるとその期待は無情に打ち砕かれた。 「ベータは……私達は、支配下にあるあらゆる地域に過酷な税を課していました。どこも食料を作るので精一杯で、嗜好作物を作る余裕なんて多分……」  現在の南米にはコーヒー農園どころか、ただ一本たりとコーヒーノキを栽培している拠点すらなかったのである。  申し訳なさそうに頭を下げるレモネードベータに、しかし諦めきれない龍は食い下がった。 「いくらなんでも、まったくないということはないだろう。一等市民なら多少の贅沢はできたというではないか。外部から客が来ることだってあったはずだ。飲み物はどうしていたんだ」 「もちろん、コーヒー自体はあります。北米から輸入したインスタントコーヒーを、大統領宮でも常備していて……」 「何ということだ」龍は額を押さえ、椅子にへたり込んだ。「ベネズエラだぞ? メリダ、ククタ、マラカイボだ。すぐ隣にはブラジルもコロンビアもある。その支配者が飲むコーヒーが、輸入品のインスタント?」  月例の指揮官会議で話を聞いたマリーも、ショックを隠しきれない様子であった。 「い、いや、しかしだな、カラカスでもすべての畑を一枚残らず把握しているわけではあるまい。古来より農民というのはしたたかなものだ。支配者の目を盗んでこっそり栽培する隠し畑のようなものが」 「コーヒーでか? 絶対にないとは言いきれないが……まあどのみち、農地の実情は確認せねばならん。その過程で明らかになることもあるだろう」 「理不尽な税を課すことはないとわかってもらえれば、畑を隠す必要もなくなると思いたいものだな」 「アンタ達、いいかげんコーヒーの話から離れなさいよ」  見かねたメイの突っ込みで会議が閉じてから数週間。待てど暮らせど、コーヒーの情報は入ってこなかった。とうとう辛抱しきれなくなった二人は、戦術調査の名目でみずから現地へ乗り込むことにしたのである。 2月12日 朝20℃ 正午25℃ 夕23℃  トウモロコシ粉が切れた。干し肉もあと一袋になっている。  先月からずっと膝の具合がよくない。山道の上り下りがますますおっくうになり、すっかり村から足が遠のいてしまった。最後に行ったのはいつだったか日記を確かめたら去年の11月だった。蓄えも乏しくなるわけだ。  そういえば前回、村でも今年は作柄がよくないと聞いた気がする。こんな体で、食べられもしないものを育てている自分をかばってくれている人達だ。迷惑をかけたくはない。  鉄虫が反対側の斜面をうろついているのを見た。警戒にも出なくてはならない。腹が減るのには慣れている。もう少し我慢しよう。 「旧サンパウロ州エリアは全敗だな……北上して、ミナス・ジェライス州に向かおう」 「四カ所しか見ていないが?」 「それで全部だ。ブラジル高原から南には、もう拠点はないらしい」  山の斜面に刻まれたほそい道を縫うように進むSUV、その後部座席で龍が差し出したタブレットには南米の地図が表示され、レモネードベータの管理下にあった生産拠点が光点で示されている。そのほとんどはベネズエラ国内と大陸の北半分に集中しており、南に行くにつれ急激に数を減らしていく。  オルカへの移管が進むにつれわかってきたことだが、ベータが管理していた地域は広大な南米のほんの一部にすぎなかった。大陸の大部分は鉄虫の支配域か、もしくは鉄虫がどれだけいるのかさえ不明の未踏査域である。今いるブラジル南部にはもう、鉄虫の隙間を縫うようにして小さな拠点がちらほらとあるだけだ。 「やはり実地で見てみなくてはわからないことはあるな。それはそれで収穫だが」  マリーは画面を閉じて龍に返すと、窓の外の濃い緑を眺めて眉間をもんだ。 「調査結果はフェアリーシリーズにも共有しておかないか。専門家の目で見れば、また別の有望な地域が見つかるかもしれない」 「同感だ。制圧作戦を進める上でも、生産力の高い土地を優先した方が効率的だろうしな」 「なんだ、貴殿はもうコーヒーノキの発見は諦めたか?」マリーがからかうような笑みを向ける。 「現状を見れば、そうもなる」龍は何かを放り投げるように手先をかるく振った。「新たに栽培することを考えた方が建設的だ。そうは思わないのか」 「この広大な南米の、百分の一も我々はまだ調べていない。諦めるには早すぎる」 「ほとんどが鉄虫の領域だとしてもか?」 「少人数の共同体なら隠れ住むことだってできる。自生している野生株だってあるかもしれん」 「意外だな、そこまで執着するとは。貴殿は豆より技術を重んじる流儀だと思ったが」 「豆をおろそかにしていいという意味ではないさ。それに執着ではない、夢といってほしい」  悪路でガタガタと揺れるシートの上で、龍が眉を上げた。「夢だと? おい待て、もしや豆が見つからなくとも夢を追うだけで満足だとか言いだすのではあるまいな」 「馬鹿な、必ず見つけるとも」マリーも身を起こし、SUVのエンジン音に負けないよう声を張り上げる。「それは大前提だが、結果ばかりを求めては本質を見失う」 「本質とは何だ。今の場合、高品質なコーヒー豆の供給源を手に入れること以上の本質があるか」 「品質はプラント艦や植物工場でも追求できる。手に入れることではなく、見いだすことこそが目的だったはずだろう」 「それは考え方として、あまりに……」龍は言葉を探すように一瞬だけ目を細めて、「あまりに愚直すぎる」 「愚直おおいに結構。兵士に必要な第一の美徳だ」 「あ、あああの失礼いたしますがっ!」  運転手を務めていたレプリコンが突然発した大声に、後部座席の二人はぴたりと黙って前を見た。 「どうした」 「も、もうすぐ渓谷です。先ほどの村で更新した情報によれば、谷の西斜面に鉄虫の目撃情報があり、僭越ながら東回りで迂回すべきかど」 「ふむ。しかし、迂回するルートは遠回りになるのではなかったか?」 「二時間ほど余分にかかりますが……」 「そんなに遅れては予定の行程を消化できない」  龍が腰を浮かせた。龍もマリーも指揮官として多忙な身である。無理矢理スケジュールを空けて南米まで乗り込んではきたものの、使える時間は決して豊富にはない。 「どれ、小官が威力偵察してくる。スピードは落とすなよ」 「えっ?」  言うが早いか、龍は走行中のSUVのドアを開け、無造作に飛び降りた。地を蹴って車に並んだと思うと、そのまま加速して追い越していく。 「持っていけ!」マリーが座席下のトランクから、ソフトボールほどの大きさの金属球を取り出して投げた。自身の専用装備〈シーカーの眼〉だ。放物線を描いて飛んだ球体は龍の頭上でふわりと静止し、護衛するようにゆっくりと周回を始める。ちらりと目だけで礼を言ってから、龍は加速をつけて一気にSUVを置き去っていった。 「あの……」 「運転に集中しろ。何かあればシーカー経由で連絡が来る」  残りのシーカーを車の周囲に展開させてからマリーはドアを閉め、どっかとシートに座り直した。金色の髪が生体電気をはらんで、わずかに浮き上がっている。それ以上何を聞ける空気でもなく、レプリコンはしばし黙って運転に集中した。 「…………」 「心配するな、彼女は無敵の龍だ。なまじの鉄虫に後れを取ることはない。引き際を見誤ることもない。……私と違ってな」 「は……」  皮肉なのか冗談なのかわからず、レプリコンは固い声を返すしかない。その様子にマリーはわずかに頬を緩めた。 「貴様はたしか、このあたりでずっと暮らしていたのだったな?」 「はっ、スチールライン南アメリカ方面軍第1師団、ブラジリア連隊に所属しておりました!」 「南米第1師団なら……」遠い昔の記憶をたどるように、マリーは目を閉じる。「マリー22号か」 「はい、マリー22号准将の指揮下におりました。とても勇猛な方でありました」 「そうだな、昔一度会ったことがある。私達の中でもとびきり勇猛な奴だった。あれも個体差なのかな」マリーはうすく笑った。「ブラックリバーは総じて、南米に関心が薄かった。補給など手薄で苦労したろうな」 「はい……サントス港での戦いで、准将閣下は戦死されました。私達の連隊が撤退する時間を稼ぐために」 「……やはり、そういう死に方をするのだな……」  レプリコンの位置からは、マリーの表情はうかがえない。次にマリーが口を開いたのは、谷を半分ほども走り抜けてからのことだった。 「近々、オルカでも南米方面軍を編成する。貴様達にも招集がかかるだろうが……応じるかどうかは自由だ。断ることもできるし、スチールライン以外の部隊に希望を出すこともできる。ホライゾンとかな」 「じ、自分はスチールラインの兵士であります!」 「はは、この場ではそう答えるしかなかろう。今決めなくともいい、ゆっくり考えるといい」  右側に広がる深い森の奥から、銃声が響いた。鉄虫の機銃の音だ。不意に途絶えたあと、木が倒れるような音がそれに続いた。 「それと、さっきのはディスカッションの一環だ、諍いをしていたわけではない。あまり気にするな」 「は……はっ」  ハンドルを握ったまま、レプリコンが再び身をこわばらせる。マリーは口元をおさえてクックッと笑った。 2月14日 朝21℃ 正午27℃ 夕22.5℃  久しぶりにマリー隊長の夢を見た。もうよく思い出せなくなっていたあの張りのある笑い声を、もう一度聞けたことが嬉しい。  勇猛な人だった。何十人かいるというマリー隊長の中でも一番だったのではないかと思う。真っ先に敵陣へ飛び込んで、私たち兵卒を守りながら戦って、負傷しながらも笑っているような、そんな人だった。コーヒーが大好きな人だった。  当直の時に飲ませていただいた一杯のブラックコーヒーの味をまだ覚えている。とんでもなく苦くて、夢のようにうまかった。あれから自分で淹れようとしてみたが、苦いばかりでちっともうまくない。豆の種類や淹れ方など、いろいろと説明していただいたのだが、もうどれ一つ覚えていない。書き留めておけばよかった。  土が乾いたせいか、ティピカの枝がよく育つ。収穫を早めるべきか。 「セイレーン大佐は何をやらせても抜群に飲み込みが早い。技術においては私と遜色ないと言ってもいいほどだ。後はもう少し、自分なりのこだわりのようなものを見つけてくれれば一皮むけるのだがな」 「私はやはりネレイド軍曹を評価するな。常にきわめて基本に忠実だ。どんな豆を使っても本来の味がそのまま出る」  結局SUVは何ごともな谷を走りきり、龍は白いスーツにいくつか傷と汚れを増やしただけで涼しい顔をして帰ってきた。そしてそのまま、今度はカフェ・ホライゾンのコーヒー談義が始まっている。 「軍曹は根が純粋というか、素直だからな。少々素直すぎるところもあるが」 「個人的にはスマトラの豆が入った時は、常に彼女にハイローストで頼みたいと思っている」 「スチールラインには有望なのはいないのか? 支店が増えてきたから、人手はいつでも歓迎するぞ」 「時々声をかけているのだがな、どうも敬遠される」マリーは顎をなでた。「スチールラインの兵は粗食をいとわないのが長所だが、そのぶん味への情熱に欠けるというか……自分で美味いコーヒーを淹れようというほどの者はなかなかいない。なあ、レプリコン兵長」  突然声をかけられて、運転席のレプリコンが飛び上がる。「はっ! 勝利!」 「コーヒーは好きか? 自分で淹れたことは?」 「ミールキットの粉コーヒーなら自分で作ります。それ以外のコーヒーを飲んだことは、その……」 「あれはコーヒー味の向精神剤だ。龍中将、やはりカフェ・ホライゾンのカラカス支店開設が急務だぞ」 「だからそのためにも栽培の方が早道だと言ってるではないか。兵長、貴官はどう思う? 新たに栽培を始めるべきか、あくまで在来種を探すべきか」 「わっ、私のような一兵卒が将官の方々に意見するなど、おこがましくあります!」 「ははは! 実に愚直な答えだ。マリー中将、教育が行き届いているな」 「からかうな」マリーが顔をしかめる。「大体私の言う愚直というのはな、兵卒だけでは駄目なのだ、指揮する者も同じだけ愚直でなくては。兵卒は愚直に作戦を信じ、指揮官が愚直にその信頼にこたえる。その二つが揃って初めて、鋼の結束を持つ戦線が生まれる。スチールラインとはそういう」 「あ……あの、伺ってもよろしいでしょうか」  レプリコンが恐る恐る声を上げる。 「お二人は……その、本当にコーヒーを探しておいでなのですか? 何かその、作戦上のカムフラージュとかではなく?」 「当たり前だ」マリーが眉根を寄せた。「なんだと思っていたんだ」 「も、申し訳ありません! あの、それでしたら実は……昔、少しだけ噂を耳にしたことがあるのです。私のいた村から少し離れた……ちょうどこのあたりの集落に、コーヒーを飲ませる家があると」 「何!?」  二人が目の色を変えたのが、見えなくてもレプリコンにもわかった。 「どこだそれは。集落の名は? 場所は?」 「何といいましたか……ええと、確かこの正面に見える斜面沿いのどこかにあったのですが」 「思い出せ! いや、すぐ向かえ! ええい、なぜもっと早く言わない!」 2月15日 朝21.5℃ 正午27℃ 夕25℃  戦友の夢を見た。前の晩にマリー隊長の夢を見たから、つられて思い出したのだろうか。  レプリコン85-03c上等兵。ノーム227ft曹長。イフリート574p少尉。インペット469大尉。ブラウニー732-66b一等兵。ブラウニー450-21a二等兵。ブラウニー1162-80h二等兵。栄光の第15中隊第1小隊。決死のサントス港防衛戦。  みんな自分より強くて、頭がよくて、りっぱな兵士だった。みんないなくなってしまった。一番馬鹿でぐずな自分だけが残った。  あの時、倉庫の中にコーヒーの木の種があったのは幸運だったと、何度でも思う。それに運命でもあったのだと思う。みんなコーヒーが好きだった。マリー隊長に教わったからだ。  いまの自分にできるのは、この山でコーヒーを育てることだけだ。この足では鉄虫と戦うことはできない。レモネードの手下になるのもいやだ。  いつかマリー隊長が、自分の知っているのとは別のマリー隊長だけれども、それでもマリー隊長が、ここへ来ることもあるかもしれない。その日のために、自分はコーヒーを育てよう。もう何十年もこの山から出ていないが、たぶん世界中にコーヒーの木を育てているところなんてもうないだろう。いつかどこかのマリー隊長が、この小さな小さな農園を見て喜んでくれる、そんなことが起きないだろうか。  ティピカの実が色づき始めた。自分にできることはもうこれしかないのだから。  それは山の中腹に、道と畑をささやかに掘ったような、小さな小さな集落だった。  その道がわずかに太くなる、おそらくは集落の中心部といえるのであろうあたりに一軒のバラックがあって、開け放した窓辺に食器や工具などの粗末な品物がいくつか並べられている。こうした店ともいえないような店は僻地の集落では珍しいものではない。生きていくには食料や農具以外にもこまごまとした物品が必要になるものだ。 「店主! コーヒーがあるのか? 二杯頼む!」  小柄なバイオロイド……ここらでよく見る、PECSの工業用低価格モデルだ……が顔を出し、龍とマリーの形相に目を丸くして、すぐにマグカップを二つ持ってきた。 「代金は?」 「古釘二本か、塩漬け肉半切れ、それとも……」  二人はそれ以上聞かずに懐からツナ缶を出して窓枠に起き、湯気の立つカップを口に運んだ。 「……!!」  挽き方も淹れ方もいいかげんで拙い。コーヒーサーバーの中で長時間保温されっぱなしだったのだろう、香りは薄く、酸味と焦げくさい苦味ばかりが舌を刺す。それでもそれは間違いなく、この南米で初めて口にした、正真正銘本物のコーヒーだった。 「ふう……ごちそうさま。豆はどうしているんだ? ここで栽培を?」 「……いえ、その。まあ」  マリーの問いにそのバイオロイドは目を伏せ、口の中で何かもごもご呟いてごまかそうとした。 「我々はオルカの者だ。コーヒーを探しに来た。どこかで栽培しているなら、ぜひ分けてほしい」 「その、あの、倉庫とかから、ちょっとずつ……」 「倉庫? 冷凍保存庫でもあったのか」 「ああそう、そうですね、そういうのが……」 「これは冷凍豆の味ではない」龍がカップの底に残ったわずかなコーヒーをもう一度すすって顔をしかめた。「冷凍するともっと味が水っぽくぼける。時間がたってはいるが、生豆から作ったもののはずだ」 「えと、あの……」 「何か、正直に言えない事情でもあるのか」マリーが身を乗り出すと、相手は怯えたように同じだけ店の奥へ下がる。 「マリー中将、そう凄むものじゃない。君、安心してくれ。我々は君らの不利益になることはしない」 「あ、はい、あの……」そのバイオロイドはなおも口ごもってから、ふいに顔を上げた。「マリー? あの……もしかして、スチールラインの指揮官さんですか?」 「そうだが」 「ブラウニーのいるスチールラインの?」  マリーはもう一度うなずく。コーヒー売りのバイオロイドはさらに何度か、目をちらちらと迷わせてから、意を決したように口を開いた。 「あ、あの……本当は……!」 2月15日 朝21℃   縁がいくらか波打った、肉厚のするどい葉をめくると、緑色や、黄色や、淡いオレンジ色をした、指の先ほどの小さな実が、枝の根元から先までびっしりと生っていた。 「これは……」 「コーヒーチェリー……コーヒーの実だ」実を傷つけないようそっと指先で触れて、龍がつぶやく。  見上げるほどの高木から、手を伸ばせば届くような低木まで、高さはまちまちだが、同じの実と葉が道の両側に無数に並んでいる。植物のことなど何も知らないレプリコンにも、それが丁寧に世話をされて栽培されているのだということはわかった。 「だが、農園という感じではないな……?」 「素人の仕事なのだろうな」マリーの疑問に龍が答える。「私も詳しくはないが、複数の品種を混ぜ植えしているように見える。しかし、この量はすごいな……」  三人はそれ以上言葉もなく、山道を登った。道ともいえないような獣道の突き当たりには、粗末な、本当に粗末な掘っ立て小屋が建っていた。  鍵もついていない扉を押し開けると、ベッドと小さな机、それに戸棚で中はいっぱいだった。戸棚の一番上には、銃身が曲がってもう使えないであろう小銃が、ぴかぴかに磨かれて大事そうに置かれていた。  机の上には一冊の古ぼけたノートがあった。手に取ってぱらぱらとめくってみると、それは日記だった。  一人のブラウニー、スチールライン南米方面軍に配属された、特別でも優秀でもないただのブラウニーの日記だった。最後のページには今日の日付と、朝の気温だけが書かれていた。  マリーはその最後のページを開いたまま、長い間微動だにしなかった。龍とレプリコンはそんなマリーを言葉もなく見守っていた。  外で、ほんのかすかに草を踏む音がした。目を上げると山の斜面のずっと向こうから、バケツをさげた人影がこちらへ歩いてくるのが見えた。片方の足をひきずっているのが、シルエットでもわかる。  マリーが風のように飛び出していった。レプリコンも後を追おうとして、ちらりと龍の方を見た。龍は深く息を吐いて、 「愚直というのは、つまりこういうことを言うのだろうな」 「はい。私は、スチールラインの兵士に生まれたことを誇りに思います」  レプリコンはそれだけ答えて駆け出していった。  ブラウニーがバケツを取り落とし、マリーとレプリコンに抱きしめられるのを、龍は少しだけうらやましそうに、戸口から見守っていた。   ―――――――――――     〈新豆入荷!〉   カラカス支店開店記念     新ブレンド 「ブラウニーズ・スペシャルティ」    本場ブラジルの味     先行限定発売! ※来年より通常販売の予定です※ スチールライン隊員の方10%OFF!!   ―――――――――――  カフェ・ホライゾンリヨン店の店先に、こんな看板が置かれたのは、それからしばらくしてのことだ。 End