[1]アイアンフリル_1 [2]アイアンフリル_2 [3]アイアンフリル_3 [4]アイアンフリル_4 [5]アイアンフリル_5 [6]アイアンフリル_6 [7]アイアンフリル_7 [8]アイアンフリル_8 [9]アイアンフリル_9 [10]アイアンフリル_10 [11]アイアンフリル_11 ---------------------------------------------------------------------------------------------------- [1] 201x年冬、一人の少女がベッドに伏していた 少女は時のアイドル、アイアンフリルのセンターであった。つい先日までのことである 体調を理由に引退したにも関わらず穏やかな表情は、傍らに座る男に向けられていた 「ありがとうプロデューサー。最後くらいキレイなままいきたいもんね」 「気にするな、俺にできるのはこんなことくらいだ」 二人以外、この部屋に入ってくるものはいない。それが関係者に対しての最後の頼みであった 「満足したら眠くなってきちゃったなぁ。プロデューサーも一眠りしない?」 「まだ残務処理が残っている。早く寝てしまえ」 「つれないんだ……じゃあせめて、手とか…握っててくれない……?」 「分かった分かった。これでいいか」 「やった。……じゃあ、また目が覚める…まで……このまま」 「……寝るまでだぞ」 「うん……。それで…いいや……おやすみ……いぬい…さ…」 別れの言葉は最後まで紡がれぬまま、穏やかな顔のまま彼女は眠りについた 研究者らしき人間が数名、部屋に入ってきたのはその数分後のことである 「無事、眠りましたか」 「ええ。最後までありがとうございました」 「俺はこいつのプロデューサーでしたから」 入ってきたのは研究員はおもむろに彼女の首もとに触れると、何本ものコードを接続していった 記憶の書き換え、人格の変更、音声ソフトの更新…全ての処理が終わるまで三日はかかるだろう アイアンフリル不動のセンター、水野愛の死後…後任に抜擢されたのは機械仕掛けの少女であった 呪われた玉座と成り果てたかの地位を少女は幾度も名を変え、体を変え守り続けたのだ 全てはアイアンフリルを守るため ユニット名に劣らぬ硬い決意を胸に、少女は死を超越した鋼の肉体を選んだ 「しかし、あなたが辞めてしまうのは痛手ですね  メイクの技術もですが、事情を知りつつここまで親身になれる人は稀ですから」 「すみません。家の事情がありまして」 「それじゃ仕方ありませんな。ご実家はどこでしたっけ?」 「佐賀県です」 「佐賀……九州の?」 「それです」 「じゃあまたこの子ともお会いするかもしれませんね  ロックフェスにはいずれまた出場する予定ですし」 「ええ。楽しみにしています」 プロデューサー…否、元プロデューサーの男はそう言い残し部屋を後にした 巽幸太郎と名乗る男がアイドルユニット『フランシュシュ』を立ち上げる数年前の出来事である ---------------------------------------------------------------------------------------------------- [2] 「……あれ?ここ、は」 「起きたか。調子はどうだ」 まだくらくらする頭を振り、私は意識が途切れる前のことを思い出す 確かアイアンフリル悲願の舞台、佐賀ロックフェスの練習中だったはず 歌とダンスとMCと…通しのリハーサル中に閃光が差したところまでは覚えている 「またダメ…だったんですね」 部屋の隅まで吹き飛んだ機材、所々焼け焦げた服が物語っている またしても私は落雷を受けたところでシャットダウンしてしまったようだ 幸い回路に異常はないようだが、再起動するまでのログがぽっかり抜けてしまっている 「やはり覚えていないか」 「ま、まだやれます!もっと練習すれば…!」 「その必要はない」 本番まであと数日だというのに、落雷を浴びると足が竦む。頭が真っ白になる 伝説のアイドルユニット、アイアンフリルも自然の前には無力なのだろうか 歯を食いしばり睨みつけた床面に影が差す。顔を上げると、目の前にはプロデューサーが立っていた 「覚えていないのなら見せてやる。お前の身に何が起きたかを」 彼の手にするビデオカメラには私が再起動するまでの様子が納められていた まず閃光、続いて轟音。スパークを放ちぐったりした私は、しかし膝だけはつかない 私は音程を外しながらも歌っていた。もつれる脚で踊っていた 全ての曲が終わり舞台袖に引っ込むまで、カメラの向こうの私は止まらなかった 「これ…合成じゃないですよね?全然覚えてないんですけど」 「そんな面倒くさいことするかいこんボケーッ!」 プロデューサーは興奮するとたまに地が漏れる ちょっと格好悪いけど、本音で話してくれてるんだと思うと少し嬉しくなる瞬間だ 「ゴホン…予想外の反応だったが、練習の成果が身についている証拠だ。よく頑張ったな、詩織」 「はっ…はい!ありがとうございます!」 この体にはもう涙を流すような機能は残っていない それでも泣きそうな顔を見られたくなかった私は、照れ隠しと感謝を込めて深いお辞儀で誤魔化した 数日後。飛行機に乗ろうとした私は金属探知機に引っかかり、ライブは中止となった ---------------------------------------------------------------------------------------------------- [3] 自分で言うのもなんだが、お化粧は得意だった 母の真似をして、友達に教わって、雑誌やネットの記事を参考にして 表面上しか変わってないのに気持ちも前向きになるのが楽しかった 「……おい」 「は、はい!?なんですょうか!」 「眉間にしわが寄ってて上手く塗れんのじゃい!リラックスせんかこんボケー!」 「えっ?あっ!すみません!頑張ります!」 今の体になってからは…ちょっと苦手だ 十年以上慣れ親しんだ肌は全く別のモノに入れ替わり、下手に扱えば丸ごと取り換える羽目になることさえある そうでなくても人ならざるモノを人らしく見せる技術など一朝一夕で身につくはずもなく 私は化粧全般を…その稀なる技術を持つプロデューサーさんに任せているのであった 顔はもちろん、肌を露出する部分は全部。もっと言えば隠れてる部分も 本当の本当に見せられない部分を除き、ほぼ全身の化粧を任せているのだ 「いつまで経っても慣ないな」 「すみません、緊張、しちゃって」 プロデューサーさんから見れば私なんて乳臭い小娘…いや、そもそも人間ですらない せいぜい喋るマネキンを相手にしてる感覚かもしれない。こっちの気も知らないで 鼻で笑われるかもしれないが、こんな体になったって恥じらう心くらいある それも相手があなたなら尚更だというのに 「慣れろ、お互いにな」 「お互いって…プロデューサーさんは慣れてるんじゃないんですか?」 その言葉に彼は一瞬固まったが、誤魔化すように急いで化粧道具を片付けていく 「揚げ足取るのやめんかーい!ほれ完成!はいやーらしか!」 「わあ、きれ…えっ!?い、いやらしくないですよ!?」 「知っとるわボケェー!カワイイって意味のお国言葉じゃーい!」 ぱしん、と小気味のいい音を立てて頭をひっぱたかれた 少し乱れた髪型を直しながら、私は改めて思う やはりお化粧は苦手だ。気を抜くとオイルが沸騰しそうになるのだから ---------------------------------------------------------------------------------------------------- [4] 歌と振り付けのインストール後、他のメンバーが学習するのを待っていたのがいけなかった 手持ち無沙汰にしていた私を見つけたプロデューサーはある映画の試写会を持ち掛けてきた 『ゾンビランドサーガ』……私たちアイアンフリルが挿入歌を担当した作品である 「うむ、新感覚ゾンビ系映画の看板に偽り無しだったな」 「5点です。100点満点で」 日本の片田舎で亡くなった少女がゾンビとなって蘇り、伝説の人物のゾンビとともにアイドルユニットを結成し地域振興を図る… 目新しいくはあるが、プロデューサーが評価するほどの名作には見えなかった 「しかしゾンビというのも侮れないぞ。車に撥ねられ、銃で撃たれても平気だったり」 「それくらい私にだって出来ます」 私はアイアンフリルのセンターとしてあらゆる環境でも活動出来るよう作られた存在だ。丈夫さで負けるわけがない 「首と胴体が分かれたまま動いたり、首だけで喋ったりも出来るし」 「それくらい私にだって出来ます」 体から分割されたパーツは無線通信で操作できるし、いざというときは頭だけだって活動出来る 「あとは……死してなお生きようとする心がある」 「それくらい…」 心なんて抽象的なもの、有っても無くても変わりはしない 目的を達成するべく行動するための熱量なんて必要分だけあればいいし、常に合理的な方法を突き詰める私のほうが優れている 何度検討しても優劣なんて明らかなのに、どうしてプロデューサーはその不確かな心というものを評価するのか 「それくらい……私には…」 おそらく私が在るべき姿と、プロデューサーが求める姿が矛盾しているからなのだろう 答えなんてとうに出ているのに、それ以外の答えを探して何度も何度も検討を重ねる 探したところで見つかることはないのに。それでも、私は 「『そんなものは必要ありませんっ』だろう?」 「…なんですか、その気持ち悪いモノマネは」 「お前の気持ちを代弁したつもりだったんだが、どうだった」 「私には心なんてものはありません。けど、私のほうがずっと優れていますのでお忘れなく」 ここまで似ていないと不快を通り越して諦めの境地に至るのかもしれない 深いため息をついてそう言い捨て、私はメンバーの練習の手伝いに戻るのであった ---------------------------------------------------------------------------------------------------- [5] ここはアイアンフリル所属事務所の最寄りのカフェテリア 近所の書店で取り寄せた雑誌を読み終えた胡散臭いサングラスの男はため息をついていた 「やはり明るいニュースは無い、か…」 「何かあったんですか?イヌイさん」 突然呼びかけられたことに驚いたのか、彼はすっかり冷めた珈琲を飲もうとしてむせていた 毎日顔を突き合わせている相手にここまで驚かれるとは甚だ心外なことである 「と、突然声かけられたら驚くじゃろうがい!」 「驚きすぎですよ。あるいは、もしかして何かやましいことでも…?」 私はプロデューサーの背中を軽く叩きながら、先ほどまで読んでいた雑誌に目を落とす サガジン。佐賀と刊行物ことマガジンを掛け合わせた名称の地方情報誌である 県外では絶対にお目にかかれない雑誌をわざわざ定期購読していることは、口には出さなかったが前々から気になっていた 「別にやましいことなんてない。地元の近況を知りたいと思うのは自然なことだ」 「わざわざ書店に取り寄せて定期購読するほどですか?」 「ああ。俺は佐賀を愛しているからな」 「郷土愛、というものですか。すみませんが共感は出来ません」 私にすれば思考プログラムの生まれた電脳空間や、ハードウェアにインストールされた研究所などが故郷にあたるだろう どちらにも郷愁を感じないのは場所が悪いか、私の稼働時間が小学生程度のせいなのか 「無理はない、お前たちには因縁の地だからな」 「そういう意味では…それより、イヌイさんにそういった郷土愛があるとは思いませんでした」 佐賀出身であることは知っていたが、普段からやや他人と距離を取りたがる彼から考えると、それは意外なほど強い感情であった 「今でこそこうして都心で仕事をしているが、心は佐賀と共にある  いつか佐賀に戻り、活気を取り戻させる……それが俺の目標だ」 「無理ですよ。現実を見てください」 「なっ!おま…お前……」 「今日までそう思っていた人間はあなた一人ではないでしょう。ですが、現状どうなっていますか?  そんな大事業が人ひとりの短い一生で成し遂げられるなら苦労はありません」 「それはそうなんだが、ちょっと辛辣すぎないか?」 もちろんここまで攻撃的になるのは理由がある。それは郷土愛への嫉妬などでは断じてない 「ええ、『お前たちには』ではありません。『俺たちには』です」 「何のことだ?」 「メンバーでなくともあなたもアイアンフリルを構成する重要な人物です。そういう言い方は好きではありません」 「……すまない、そうだったな」 「分かってくれたならいいんです」 たとえプロデューサーがメンバーじゃなくても、いつか死に別れる日が来るとしても、アイアンフリルという絆で繋がっているから 「ああ、それともうひとつ」 どれほど時が経ったって、私は歌い続けられるだろう 「その変装用のサングラス、胡散臭いからやめたほうがいいですよ」 ---------------------------------------------------------------------------------------------------- [6] 「失礼しまーす 。ってあれ?まだ残ってたんですか?」 「それはこっちの台詞じゃい。早く帰れ未成年」 その日のレッスンを終え、事務所に鍵を返しに来た詩織は思いがけない光景に遭遇した 第一に明日先に現場入りするはずの胡散臭いプロデューサーがこんな遅くにまだ残っていること 第二に今日び珍しいCDプレイヤーで何やら音楽を聴いていたことだ 「あっ、ファンラバだ!」 「お、よく知ってました。拍手」 「当たり前ですよ!アイアンフリル黄金時代の名盤じゃないですか!」 詩織が手に取ったCDケースのジャケットは当時のメンバー5人のシルエット そして『FANTASTIC LOVERS』の文字が記されたシンプルなものであった 「私水野愛に憧れてアイドル目指したんですもん。やっぱりプロデューサーさんも好きなんですか?」 「……ああ、俺がこの業界に足を踏み入れるきっかけだ」 あの日、このCDを拾っていなかったら今の自分はここに居ただろうか プロデューサーと呼ばれた男…幸太郎はあの笑顔を思い出す 『乾くん、ありがとう─── ──あ、もしかして乾くんもアイアンフリルに興味あると!?あはっはぁー↑!私も大大大ファンっちゃね!!いい曲ばかりやけん一番はこれね!なんたって愛ちゃんががば可愛いかよ!!私たちと同い年なのにすっっごい動体視力良くていっっぱい努力しとるとよ!「失敗とか後悔とか全然ダメなことだと思ってない」ってカッコよかー!!私も最近まで腐っとったけど愛ちゃんの頑張ってるとこ見て目が覚めたよ!しかもなんと!なんとなんと!!今度アルピノでライブやるとよ!11!CD大人買いして絶対チケット取るっちゃ!…という訳でこのCDは乾くんにあげるね。絶対聞いてね!すっごいいい曲だから!』 「…ーさん…プロデューサーさん!」 「…お、おう。なんじゃいまだ残っとったんかい」 幸太郎が視線を戻すと、そこには放置されて不機嫌になっていた詩織がいた 「はぁ…もう帰りますけど明日遅れないでくださいね?」 「当たり前だ。気を付けて帰れよ」 「はーい。あ、そうそう」 「まだ何か」 「私、絶対に水野愛よりすごいアイドルになりますから。お先に失礼します」 突如覗かせた詩織の野心的な瞳に、幸太郎は「分からん」と一言呟いて仕事に戻るのであった ---------------------------------------------------------------------------------------------------- [7] 前回の疾風!アイアンフリルは! 朝の日差しの誘われて響き渡るは鶏の…じゃなくてプロデューサーの声!?引き裂かれる週刊誌の見出しに踊る『ロボ疑惑?アイアンフリル』の文字! あれって隠さないといけないやつなんだ…う、ウソウソ!冗談ですってプロデューサー! それでも仕事は断れない!今日は1日密着取材!じゅりあはエレベーター止めちゃうし真琴は熱湯風呂から浮いてこないしひかりは普通ユイは携帯圏外でフリーズしちゃうしプロデューサーはサングラスがダサイタタタタだから冗談ですって! そんなこんなで誤魔化しきってなんとか終えた密着取材!安堵する私たちに明かされる衝撃の事実! 「私たち一回もトイレいってないね」 そこはお花摘みにって言ってよひかり!じゃなくて早く言ってよひかり! そして時は流れドキドキしながら迎えた1週間後!気になる判定は…セェーッフ! 「アイドルはトイレになんか行かん。常識じゃろうがい」 えぇ…それでいいんだ……人間ってムズカシイ ---------------------------------------------------------------------------------------------------- [8] 「ありませんよ、苗字なんて」 「……はい?」 アイアンフリルの海外ロケを控え、パスポート申請書類を作っていたときのこと 人が残業してるのを尻目にソファに寝転んでいた詩織は充電ケーブルを咥えたまま答えた 休むならクレイドルで休めというのに聞きやせん。まあそれは後で叱るとして 「私たち皆そうでしょう?例外といえば水野愛くらいですけど…」 苗字があると家族関係を連想されそこからボロが出る、という経験則らしい 「なんなら今決めちゃいましょうか。『乾』なんてどうですか?」 「ダメだ」 「じゃあ逆から読んで『乾』」 「同じじゃろうがい!」 「ワガママですね……じゃあ方角の『戌亥』を反転して『辰巳』はどうです?」 「タツミ…タツミか、悪くないな。なのでそれは俺が使うから却下じゃい」 その後も諦め悪く発案しては却下される詩織の電源を落としてクレイドルに寝かしつける よく考えたら海外輸送は宅急便を使えばいいのでは……?などと考えながら俺は事務所を後にした ---------------------------------------------------------------------------------------------------- [9] この日、アイアンフリルとそのプロデューサーの幸太郎は郊外の牧場に向け車を走らせていた 一同は姦しくお喋り…する事もなく充電しつつスリープモードに入り静かに過ごしている 「次の信号を左です」 「はいはい」 例外は運転手である幸太郎とナビゲーターのユイである 社用車にも一応カーナビは付いている。それでもユイに頼るのは彼女のナビのほうが優秀であるからだ 「田舎道みたいだが直進じゃなくて良かったのか?」 「4分前に事故が発生して止まっています。定点カメラの映像履歴にアクセスしたので間違いありません」 「耳が早いな」 「トランジスタグラマーですので」 そう言ってユイはない胸を張る。シートベルトで強調されるほどでもない膨らみがもの悲しい 他のメンバーに比べ色々とコンパクトサイズな彼女であるが実は一番の若手、つまり最新型だ 通信機能の発達に伴い演算処理の大半を外部端末で行えるようになったため小型化に成功した…とは本人の弁である 「次の丁字路を右折すると国道に合流するので左折……して…」 「左折して道なりでいいのか?……ユイ?」 幸太郎が前方に注意しながら横を見ると、そこには目に見えて怯えているユイがいた 「道なり……しばらくして……トンネル…」 「なんじゃいトンネルかい」 「なんじゃい、じゃないですよ!トンネルですよ!?電波入らないんですよ!?」 「分かった!分かったから腕を掴むな!」 シリーズ最小であることからやや子供っぽい人格、かつ物怖じしない性格の彼女にも弱点がある それは通信障害。内蔵の貧相な演算処理装置のみに頼らざるを得ない場面である 「そんなに怖いならスリープにでも入っておけ」 「無理です……心臓止まります…」 『心臓ないじゃろがい!』という言葉が幸太郎の喉まで出かかる 彼女の震える手は依然万力のような力で彼の左手を掴んでおり、刺激すればどうなるか火を見るよりも明らかであった 「こんなもの道なりに走ってればすぐ終わる。そのままじっとしていろ」 「い、乾さんは怖くないんですか…?」 「……誰しも怖いものや苦手なものくらいある。それは弱みであり、親しみやすさという強みでもある。多少苦手なものがあるくらいがお前たちには丁度いい」 俺は今まさにお前が怖いよ……とは思っても口には出さない幸太郎であった 「目的地周辺です。お疲れさまでした」 「おぅ……本当にな……」 それからいくつかのトンネルを抜け、目的地に着くころには幸太郎の左腕は痣だらけになっていた 仕事よりも復路のことを思いため息をついている彼の目の前に、ユイは小さな箱が差し出した 「ユイ、皆を起こし……なんじゃい?」 「口止め料です。私のイメージを損ねますので」 「慰謝料じゃなくて……?」 「それくらい我慢してください。さて、皆を起こすので先に行っててください」 車から追い出された幸太郎は待ってる間に口止め料の小箱を開く 「……人間らしくなった…のか?」 中に入っていたのはハッピーバレンタインのメッセージカードといくつかのチョコレート ユイらしく小ぶりながら手の込んだ細工のチョコレートは、ちょうど皆が追い付くころには溶けて消えていた ---------------------------------------------------------------------------------------------------- [10] 「はい、乾さん。バレンタイン企画品の余りのチョコレートあげます」 「正直かーい!まあいい。詩織、ありがとう」 2月14日。彼女たちアイアンフリルも当然時事イベントの消化には余念が無い この日は大手音楽CD販売店にてCD購入特典としてチョコレートを手渡すイベントを行っていた CDは完売、ミニライブも大盛況に終わり充実した仕事帰りの出来事である 「生体情報照合……対象を乾幸太郎と認定……えっ、本物?」 「なんじゃい、素直に礼を言うのがそんなにおかしいとでも言いたいのか」 「ええ……これじゃ私がイヤミな女みたいですよ」 「安心しろ。ギリギリツンデレキャラに見えんこともない」 幸太郎はさっそくチョコレートの封を開け、一つほおばり顔を綻ばせる それは味覚のない詩織にとって数少ない、食事の喜びを感じる瞬間だ 「正直に言うとぐだぐだ言い訳して受け取らないのかと思っていました」 「そうだな……そうだったかもしれん」 幸太郎はサングラスの奥の目を細め視線を落とす それはチョコレートの向こう側を眺めるようであった 「俺も学生の頃は女の子とつるむことも少なかったし、こういうものもほとんど貰えなかった  おかげでこういうものは仕事上の義理だって貰えるのは嬉しい」 苦い思い出を上書きするように幸太郎はまた一つチョコレートを頬張る 「それに感謝の気持ちは伝えられるときに伝えないといけないと俺は学んでいる  タイミングを逃して一生伝えられないことだってあるからな……うん、うまい」 詩織はすぐ目の前にいるはずの幸太郎から距離を感じていた 彼女は彼の過去についても、チョコレートを美味しいという気持ちにも共感できない 彼の視線の先にはその思い出を共有する誰かが居たのだろうか……そう思うたび、彼女の思考回路に不可解なノイズが走るのを感じていた 「苦い記憶だが今は感謝している。み…」 「み?」 「さて、仕事に戻るか」 「待ってください、今なんて言いかけました?み…なんとかさんとの思い出話なんですか?」 その後しばらく詩織は根掘り葉掘り聞いてきたが、幸太郎は無視を貫いたそうな ---------------------------------------------------------------------------------------------------- [11] 「バッテリーロゥ……」 「安物の無線イヤホンみたいな声出すのやめんかい」 積載量重視、やや乗り心地の悪いワゴンの助手席で私は呟く 単独取材が終わるなり野外ライブ直行なんて愚痴のひとつも出るというものだ ただでさえ女性の細身は充電量が少ないというのに… もっとバッテリーとかたくさん積めばいいのだ。胸とか、あと胸とか モバイルバッテリーで小腹を紛らわしながら私は窓の外を眺めた 「こんな寒い中、ファンの人たちも大変ですね」 「今日はここ一番の寒気が来とるらしい。お前も気を付けるんだぞ」 「はーい」 「……本当にわかっとるんじゃろうな?」 思わず生返事みたいになっちゃったけど今くらい多目に見てほしい 半ば機械と化したこの身には、寒さを共有することさえ他人事なのだから アイアンフリルになって私の日常は大きく変わった 今までテレビの向こう側の世界だった芸能界が手を伸ばせば届くところにある だからこそ、あの若いカップルのように寒空の下で暖め合うような 一人の女の子として生きる未来はもう来ないのだ 「はぁ……」 事務所からから持ってきた大型スピーカーがいつもより重く感じる いっそのこと雨でも降って中止になってしまえb「分かっとらんじゃろうがーい!」 後頭部に手刀、続いて目の前が暗くなったと思ったら腕にかかる重みが消えた 「プロデューサー、それ重いですよ」 「知っとるわい!……こんな重いもの軽々持つアイドルがいるものか  あとこんなに寒いのにそんな薄着でいたら怪しまれるだろうが」 視界を塞いでいたのはどうやらプロデューサーの上着だったらしい。なるほど、確かに寒そうだ 言い訳がましい一言がなければもっと男前に見えたかもしれない……けど、私達にはそれで十分 「仕方ないですね、プロデューサーの顔を立てて着てあげます。ああ、あったかーい」 「白々しか……さっさと行くぞ」 寒さを紛らわすようにどんどん進むプロデューサーに置いていかれないよう、私は早足でそのあとを追いかけた ----------------------------------------------------------------------------------------------------