秋の日は釣瓶落としと言うが、山の稜線が夕陽を飲み込むその瞬間、世界は紫紺と茜色の境界線で分断される。その美しい黄昏の刻(とき)、古びた石段を鼻歌まじりに登る一人の少女がいた。 ​彼女の名はタマモ。見た目は可憐な十代半ばの少女だが、その正体はこの寂れた「稲荷古神社」を取り仕切る、齢数百を数える妖狐にして神主である。ふさふさとした黄金色の狐耳がピクリと動き、着物の裾からは立派な尾が覗いている。 ​「今日は大収穫じゃったのう。商店街の豆腐屋がオマケしてくれた『特製五度揚げ油揚げ』、これをつまみに熱燗を……くくく、たまらん」 ​タマモは懐に抱えた温かい包み――油揚げの芳香が漏れ出している――を愛おしそうに撫でた。彼女にとって、至福の晩酌タイムが待っているはずだった。そう、あの轟音が耳に届くまでは。 ​ズズズ……ガガガガガッ! キュイイイイン! ​「……ん?」 ​タマモの狐耳がパラボラアンテナのように音源を探知する。風の音ではない。猪の突進でもない。これは明らかに、文明が生み出した無慈悲な機械の駆動音である。 ​「まさか、また賽銭泥棒か? こないだ防犯カメラ(ダミー)を設置したばかりじゃというのに、最近の人間は罰当たりにも程があるぞ」 ​彼女は舌打ちを一つ、石段を蹴って加速した。縮地法に近い速さで参道を駆け抜け、鳥居をくぐる。そして、彼女の琥珀色の瞳は、信じがたい光景を捉えた。 ​そこには、黄色い巨獣がいた。 建設機械、通称「ユンボ」。油圧ショベルのアームが、神聖なる拝殿の屋根に爪を突き立てている真っ最中だった。 ​「な、な、な……!?」 ​タマモの思考が白く染まる。だが、真の恐怖はその運転席にあった。 操縦レバーを握っているのは、作業着を着た屈強な男でも、ヘルメットを被った現場監督でもない。 ​白くて、丸くて、柔らかそうな、マシュマロの化身。 空気で膨らませたようなビニール質のボディ。つぶらな二つの黒い点がついた顔。 ケア・ロボット、ベイマックスである。 ​「あー、っと……?」 ​タマモは油揚げを取り落とした。地面に落ちた油揚げが、無情にも土にまみれる。だが、それを嘆く余裕すらない。 ​ベイマックスは、そのふっくらとした白い指で器用にレバーを操作していた。 ​『ウィーン(駆動音)』 ​バリバリバリバリ!! ​拝殿の向拝(こうはい)部分、つまりお賽銭箱がある一番重要な場所が、巨大なショベルによってスナック菓子のように粉砕された。築百五十年、宮大工が釘一本使わずに組み上げた匠の技が、油圧の暴力によって木っ端微塵に弾け飛ぶ。 ​「ぎゃああああああああああ!! わらわの家ェェェェ!!」 ​タマモの絶叫が境内に響き渡った。彼女は半狂乱でユンボの前に飛び出した。神威を纏ったその姿は、本来なら人間を畏怖させるに十分な迫力があるはずだ。 ​「貴様ァ! 何をしておる! そこは神域ぞ! わらわの寝床ぞ! というか、床下に隠してある『週刊少年ジャンプ』のバックナンバーが危ないじゃろうが!!」 ​彼女の怒号に対し、ユンボの回転灯が虚しく回る。運転席の白い巨体は、ゆっくりと顔を向けた。その動作はあくまでマイペース、そして慈愛に満ちている。 ​「こんにちは。私はベイマックス。あなたの心と体の健康を守ります」 ​スピーカーから流れるような合成音声。癒やし系ボイスの極みである。しかし、その手はしっかりと旋回レバーを倒していた。 ​ブンッ! ​巨大なアームが旋回し、今度は手水舎(ちょうずや)の屋根を薙ぎ払った。瓦が散弾銃のように飛び散り、タマモは慌てて身を屈める。 ​「健康を守る!? 物理的に殺しに来ておるじゃろうが! 家を壊すのが健康法か!? どこの世紀末医療じゃ!」 ​「あなたの心拍数が上昇しています。ストレス反応を検知。荒療治が必要です」 ​「荒療治のスケールがでかい! 家屋倒壊レベルの荒療治なんて聞いたことがないわ!」 ​タマモは地団駄を踏んだ。狐火を呼び出そうと印を結ぶが、相手はプラスチックと金属とカーボンの塊である。呪いも祟りも効きそうにない。そもそも、あのつぶらな瞳を見ていると戦意が削がれる。これこそが高度な精神攻撃か。 ​「やめろ! やめるのじゃ! そこには……そこには、わらわがコツコツ貯めた500円玉貯金箱が!」 ​タマモが拝殿の柱にしがみつく。まるで立ち退きを拒否する活動家のような必死の形相だ。 ベイマックスは小首をかしげた。 ​「環境の変化は、新たなステップへの第一歩です。さあ、深呼吸をして」 ​「深呼吸してる間に屋根が落ちてくるわ! 誰か! 誰か警察を呼んでくれ! いや、エクソシストでもいい! この白い悪魔を祓ってくれ!」 ​ベイマックスは止まらない。彼は「ケア」という名の破壊を遂行するプログラムに従っているかのようだ。ユンボのアームが再び唸りを上げる。今度の標的は本殿へと続く渡り廊下だ。 ​「あ、あそこは! あそこは雨漏りするから先週自分たちでブルーシートを張ったばかりの……!」 ​バキィッ! メリメリメリ……ドガァァン! ​渡り廊下が圧壊した。舞い上がる土煙の中、タマモは膝から崩れ落ちた。 美しい夕焼けを背景に、白い風船ロボットが重機を操り、日本の伝統建築を解体していく。シュールレアリスムの絵画でもこれほど混沌とはしていないだろう。 ​「……終わった。わらわの城が。わらわのサンクチュアリが」 ​タマモは涙目で、土にまみれた油揚げを拾い上げた。 その時、ユンボのエンジン音が停止した。プシューという排気音と共に、ベイマックスが運転席から降りてくる。その動きは独特で、狭いドアに腹がつっかえて「キュッ、キュッ」と音を立てていた。 ​「出られてないじゃないか……」 ​タマモが呆然と呟く中、ベイマックスはようやく運転席から這い出し、トコトコと彼女の元へ歩み寄ってきた。その白いボディには、木屑や土埃が一切ついていない。無垢なる破壊者。 ​彼はタマモの前で立ち止まり、その大きな手を差し伸べた。 ​「泣かないで。泣くと、涙で電解質が失われます」 ​「家を失った喪失感の前では、電解質など誤差の範囲じゃ!」 ​タマモは叫び返すが、ベイマックスは動じない。彼の腹部のモニターに何かが表示された。それは、真っ赤なキャンディの画像だった。 ​「痛み止めです。どうぞ」 ​ベイマックスの掌から、包み紙に包まれた棒付きキャンディがコロンと出てきた。 タマモは震える手でそれを受け取る。そして、崩れ去った拝殿、瓦礫の山となった手水舎、そして無表情で佇む白いロボットを交互に見やった。 ​「……これ一本で、示談にせよと言うのか?」 ​「満足いただけましたか?」 ​「いただけるかァァァァ!!」 ​タマモの絶叫が、宵闇の山にこだました。カラスが「アホウ」と鳴いて飛び去っていく。 破壊された神社の中心で、狐娘はへたり込み、白いロボットはただ静かに、彼女のケア(という名の更地化)完了を待っていた。 ​タマモはふと、瓦礫の中に埋もれた自分の私物――『限界OLの異世界転生』というタイトルのラノベ――を見つけ、乾いた笑いを漏らした。 ​「……まあよい。再建費用は、お主のその白いボディを鉄屑屋に売っ払って捻出してくれるわ……!」 ​彼女の瞳に、復讐と再建の、怪しい炎が宿った瞬間であった。 ベイマックスは、そんな彼女を見てもなお、首をかしげてこう言った。 ​「あなたのケア係、ベイマックスです」 ​夜はまだ、始まったばかりである。