秋の陽射しが、古びた社務所の縁側を蜂蜜色に染め上げていた。 境内には、砂利を踏みしめる参拝客の音も絶えて久しい。風が梢を揺らし、乾燥した葉同士が擦れ合う微かなさざめきだけが、この神域を満たす静寂を縁取っている。 ​この神社の若き(外見上は)神主であり、その正体は数百年を生きた妖狐である柚葉(ゆずは)にとって、一日のうちで最も神聖かつ不可侵な儀式が執り行われようとしていた。 ​それは、昼餉である。 ​朱塗りの半月盆の上には、湯気を立ち上らせるどんぶりが鎮座している。 透き通るような黄金色の出汁。その海に浮かぶのは、白磁のように艶やかなうどん。そして、その中央に君臨するのは、煮汁をたっぷりと吸い込み、ふっくらと膨れ上がった二枚の油揚げ――すなわち「お狐様」であった。 ​柚葉の喉が、ごくりと鳴る。 豊かな銀髪の間から突き出た三角形の獣耳が、期待に打ち震えるようにピクリと痙攣した。着崩した白衣の襟元から覗く鎖骨が、呼吸に合わせて上下する。 ​「……あぁ、麗しの黄金色よ」 ​彼女は箸を手に取り、震える指先でその先端を揃えた。 甘辛く煮付けられた大豆の加工品。人間にとっては単なる食材の一つに過ぎないかもしれないが、彼女にとっては魂の燃料であり、この世の快楽を凝縮した結晶体だ。出汁の香りが鼻腔をくすぐり、古来より受け継がれてきた狩猟本能ならぬ、油揚げへの執着心が一気に沸点へと達する。 ​まずは、出汁を一口。 レンゲで掬った琥珀色の液体を唇に運ぶ。熱、そして鰹と昆布の旨味、微かな醤油の香ばしさが、舌の上で優雅な輪舞曲(ロンド)を踊る。身体の芯から強張りが解け、尻尾の付け根がムズムズと疼くような幸福感が脊髄を駆け上がった。 ​「さて……いよいよ、本丸へ」 ​箸先が、ふっくらとした油揚げの肌に触れる。 じゅわり。 箸が沈み込む感触と共に、内包されていた煮汁が僅かに溢れ出す。その光景だけで、柚葉の瞳は陶酔に潤んだ。理性が消し飛び、ただ「食らいたい」という純粋な欲求だけが脳内を支配する。 ​その時だった。 ​「わあ、すっげー美味そう」 ​無粋な声が、神聖な結界を物理的に引き裂いた。 ​「ひゃうっ!?」 ​柚葉は心臓が口から飛び出しそうな衝撃を受け、持っていた箸を取り落としそうになる。 弾かれたように顔を上げると、そこにはランドセルを背負った少年――聡太が立っていた。縁側のすぐ下、庭の砂利の上に立ち、どんぶりの中身をまじまじと見上げている。 ​近所に住むこの少年は、学校帰りによくこの神社へ入り浸っていた。柚葉の正体に薄々勘付いているのか、あるいは単に物怖じしない性格なのか、この数百年生きる妖狐に対して、まるで近所の姉のように接してくる。 ​「そ、聡太か……。驚かせるでない。心臓が止まるかと思うたぞ」 ​柚葉は咳払いを一つして、乱れた襟元を正そうとするが、視線はどうしてもどんぶりから離れない。防御本能が働き、無意識のうちに身体全体でうどんを隠すような姿勢を取っていた。 ​「ごめんごめん。でもさ、すっげーいい匂いがしたから」 ​聡太は無邪気な瞳を輝かせ、鼻をひくつかせている。 その視線の先にあるのは、間違いなく柚葉の愛し子、油揚げであった。 ​「柚葉姉ちゃん、それ、きつねうどん?」 「……左様。我が神社の名物……ではないが、私の手ずから作った至高の一品じゃ」 「ふーん。やっぱり油揚げ好きなんだね」 「好き嫌いという次元の話ではない。これは信仰じゃ。魂の救済なのじゃ」 ​柚葉は厳かに告げるが、聡太にはその深遠なる哲学は伝わらないらしい。彼はランドセルの肩ベルトを握りしめたまま、じっと、それはもう穴が開くほどに、どんぶりの中の黄金色を見つめている。 ​沈黙。 蝉時雨すら聞こえないような、張り詰めた空気が流れる。 柚葉の背筋に、冷や汗が伝う。 (まさか……いや、まさかな。いくら育ち盛りの童とはいえ、他人の、しかも神職にある者の昼餉を……) ​「ねえ」 ​聡太が口を開いた。 その瞬間、柚葉の頭頂にある獣耳が、危機を察知してぺたりと頭にへばりつく。 ​「俺、給食残しちゃってさ。すっげー腹減ってるんだ」 ​(来るな。言うな。その言葉を紡ぐでない!) ​柚葉は心の中で絶叫した。神道の祝詞よりも切実な祈りを捧げる。しかし、現実は無慈悲であった。 ​「そのお揚げ、一枚くれない?」 ​世界が、音を立てて崩壊した。 ​柚葉の表情が凍りつく。 箸を持つ手が空中で静止し、美しい顔が苦渋に歪む。 一枚くれない? この大きな、煮汁をたっぷりと含んだ、完璧な仕上がりの油揚げを、一枚? 二枚あるうちの、一枚を? それはつまり、私の幸福の総量が五〇パーセントも喪失することを意味するではないか! ​「な……な、なにを……」 ​唇がわななき、言葉が上手く紡げない。 断ることは簡単だ。「ならぬ」と一喝すればいい。あるいは「これは大人の食べ物じゃ」と適当な嘘をついて追い払うこともできる。 しかし、柚葉は神に仕える身であり、表向きは慈愛に満ちた巫女(のような存在)として振る舞っている。何より、目の前の少年は、いつも境内の掃除を手伝ってくれたり、お供え物の菓子を持ってきてくれたりする、可愛い氏子の一人なのだ。 ​その少年の、空腹を訴える真っ直ぐな瞳。 曇りのない、純粋な乞食の視線。 ​(くっ……! 卑怯な! そのような子犬のような目で見つめるでない!) ​柚葉の内面で、激しい葛藤の嵐が吹き荒れる。 食欲という名の悪魔と、慈愛という名の天使が、血みどろの殴り合いを始めたのだ。 ​「……だめ?」 ​聡太が首を傾げる。 とどめの一撃だった。 ​柚葉の肩が、がっくりと落ちた。 銀色の豊かな尻尾が、力なく畳の上に投げ出される。 その全身から、生気という生気が抜け落ちていくのが目に見えるようだった。 ​「……わかった。わかったのじゃ……」 ​絞り出すような声だった。 まるで断腸の思いで降伏文書に調印する敗戦国の将軍のように、彼女は震える手で小皿を取り出した。 ​「ただし……心して食せよ。これはただの油揚げではない。私の愛と、情熱と、涙の結晶……」 ​ぶつぶつと未練がましい呪言を呟きながら、柚葉は箸で油揚げの一角をつまみ上げる。 重い。 物理的な重量ではない。そこには彼女の執着という名の重力が掛かっているのだ。 箸先から伝わる、ふわりとした感触。じゅわりと滲む煮汁の重み。 ​(ああ、私の可愛い子。さようなら。私の胃袋に収まるはずだった、愛しい黄金の肌よ……) ​ゆっくりと、スローモーションのように、油揚げがどんぶりから離陸する。 出汁の雫が、未練たらしく水面へと滴り落ち、波紋を広げた。 それはまるで、別れを惜しむ涙のようだった。 ​柚葉は顔を背けた。 直視できなかった。愛する者が他者の口へと運ばれる、そのNTRにも似た背徳的かつ絶望的な光景を、正気で見届けられる自信がなかったのだ。 ​ぷるん、と小皿の上に油揚げが着地する音が、彼女の鼓膜を無慈悲に叩く。 ​「……ほれ、持っていけ」 ​差し出された小皿を持つ手は、小刻みに震えている。 顔は真っ青で、瞳からは光が失われ、ハイライトの消えた虚ろな眼差しが虚空を彷徨っていた。 ピンと立っていた耳は完全に伏せられ、頭髪と一体化している。背後は目に見えるほどの「どんより」としたオーラで満たされ、背景には枯れ葉が舞う幻覚すら見えそうだ。 ​まさに、しおしお。 水分を失った野菜のように、彼女は萎れきっていた。 ​「わあ! ありがと、柚葉姉ちゃん!」 ​聡太は残酷なまでに無邪気に歓声を上げ、手掴みで――なんという野蛮な!――その油揚げを掴み、口へと放り込んだ。 ​「んん~っ! じゅわってしてて、甘くって、すっげー美味い!」 ​咀嚼音。 くちゃり、じゅわり。 口の中で油揚げが押し潰され、煮汁が溢れ出し、少年の舌を喜ばせている音が、柚葉の敏感な聴覚にダイレクトに響いてくる。 ​彼女は膝を抱え、縁側の柱に寄りかかった。 その姿は、世界の終わりを嘆く哲学者のようであり、同時に、大切に隠していた宝物を奪われた幼子のようでもあった。 ​「……うまかろう。そうであろう。私が三日三晩、煮汁を継ぎ足し、愛情を注いだのじゃ……」 ​恨めしげな、しかしどこか誇らしげな、複雑怪奇な呟きが漏れる。 口元には微かな笑みが浮かんでいるが、それは自虐と諦観に満ちた、あまりにも儚い微笑みだった。 残されたどんぶりには、一枚だけの油揚げが寂しげに浮かんでいる。 かつては対をなしていた相棒を失い、広すぎる出汁の海で漂うその姿は、柚葉自身の心の投影そのものだった。 ​「ごちそうさま! 柚葉姉ちゃんの油揚げ、世界一だね!」 ​聡太は指についた煮汁を舐めとり、満面の笑みを向けた。 その笑顔を見た瞬間、柚葉の胸の奥で、黒く渦巻いていた独占欲が、ほんの少しだけ――本当に、角砂糖一個分程度だけ――溶けていくのを感じた。 ​「……ふん。当たり前じゃ。誰が作ったと思っている」 ​柚葉はそっぽを向き、口を尖らせる。 だが、その伏せられた耳の先端が、微かに、本当に微かにだけピクリと上を向いたことを、聡太は気づかなかっただろう。 ​「次はもっといっぱい作っておいてね!」 「調子に乗るでない! ……次は、次は絶対にやらんからな……」 ​走り去っていく少年の背中を見送りながら、柚葉は残されたうどんをすする。 心なしか、いつもより出汁が塩辛く感じられたのは、きっと彼女の心から流れ落ちた見えない涙のせいだろう。 秋風が吹き抜け、彼女の銀髪を優しく撫でた。その背中は、やはりどこまでも、しおしおと萎れたままであった。