バルディ&バルディズドラマ怪文書 『線よ、お前は何故紡がれる』 ◇ 『──2枠3番、バルディ! 3年6ヶ月、長年の想いを込め、念願の重賞制覇です!』 ああ。 やっと、やっと、終われる。 終わる理由ができる。  酸欠に眩む世界に響く歓声が脳裏で四散する。ゴール板を過ぎた瞬間、真っ先に浮かんだのは達成感だけじゃなかった。  光の道に続くと思っていた登り階段には、いつの間にか降り口が無くなっていて。プライドだけで突き進んでいたけれど、その内心は、ずっと、ずっと出口を欲しがっていたんだった。 ◇  競争ウマ娘を引退して数年後、仕事の都合で地方に引っ越した。トレセン学園から遠いところを住処に選んだのは、意図的なものだった。  引退後、レースに関わるもの──映像、書籍、そして鏡越しの、耳と尾──を見る事が恐ろしくなった。PTSDという堅苦しい名前から逃れようと、必死で『普通の人』になるための努力を積み重ねた。それらに完治はなく、あたしに出来ることは症状が落ち着くよう祈ることだけだった。  棚の下段には、過去のレースの円盤が並んでいた。ホコリ、指紋、未開封のビニール。触らない理由ははっきりしている。触れれば、あの時のくるしみが全て戻ってくる。  それなのに、ゴミ箱に放れないのはどうしてだろう。  そんな生活のドアを、インターホンと妙にパワフルなノックがくぐり抜けたのは、曇りの午後だった。 「人んちのドアで太達すんな!」 「すいません。貴方の家、レース映像とか資料とかありますか」 「どこの子? 急に何?」  ドアを開ければ、いきなり少女が玄関に飛び込んできた。ジャージ、靴、背負うランドセルも、上から下まで驚くくらい泥まみれだ。片目に医療用眼帯をつけた、小学生のウマ娘──後で名前を聞いたら「バルディズドラマ」と名乗った。  偶然、そっくりな名前。お互い紛らわしいので、バルドと呼ぶことにした。 「近くで競争ウマ娘をやってた人の家を訪問し回ってます。貴方で1人目」 「行動力の化身…」  ひとまずシャワーを貸して、体を綺麗にさせた。眼帯の下の瞳は痛々しく白濁していて、それがただのものもらいとか、早めの中二病ファッションでなかったことにぎくりとする。  その間にジャージを洗濯して、あたしのTシャツを貸してあげた。 「週休七日って書いてあるんですけど、なんですかこれ」 「理想的じゃない?」  Tシャツを着た彼女は部屋の中央に立って、埃の匂いと、電子機器の熱で歪む空気を遠慮なく吸い込んでいた。 「資料がたくさん、でも手付かず。どうしてですか?」 「見返すのが辛い。努力せど実らず、全て徒労だったと思い知らされそうだから」 「弱いですね」 「うわーん、子供は残酷だー」 「子供だからなんなんですか」  瞬き一つせずひとの心を刺しにくる。この生意気さは嫌いじゃない。昔のあたしを見てるみたいで、少しムカつかされる。 「で、何であたしを頼るの。もっと凄かったり、近くにいる人いっぱいいるでしょ。学校の人とか、競争クラブの人とかさ」 「……貴方がレース映像すら見返せない弱者だから、かもしれません」  カッと目の前が熱くなり、慌てて目の前にいるのはガキ、いやクソガキだと思い直した。 「弱い人には、弱い人が必要」 「はぁ?」 「強い人は忙しい。弱い人の声なんて聞いてくれません。それでも、1秒でも早く競争の世界に入りたい」  ──ひどく、切羽詰まっている。その理由が何故かはあたしにも察せた。 「でもさぁ、授業は行ったほうがいいよ。まずそこから」 「勉強する暇があったら走りたいです。私には時間がない」 「何の時間が」 「見えてる人に追いついて、追い抜かすための」  …その言い方はずるい。胸の奥でずっと停滞していた何かに火がつく。  彼女は走る理由を宣言することに迷いがなかった。あたしは、いつもその一歩手前で躊躇い続けたまま終わったのだから。 ◇  バルドは、しょっちゅう授業をサボってはあたしの家に押しかけてレース映像を見たり、 「何見てるの?」 「貴方が出てたG1です」 「げぇ……」  あたしは、ふっと画面から視線を逸らす。 「これ、貴方はどこに」 「第4コーナー、曲がってすぐ。先行集団に呑まれてるやつ」 「あ〜……。……レースのこと、全部覚えてるんですか」  バルドが少し驚いた表情をして言った。 「終わった事の後悔ならいくらでも出来るから。まぁ、だからこうなったんだけど……」  かと思えば河川敷を走りに飛び出したりした。日が強く照りつける夏も、影が長く伸びる冬も、同じリズムで地面を刻む音を響かせていた。 「行ってきます」 「6時には帰ってきなよ」「なぜですか」 「今日シチュー」「わかりました!!!」 「こういう時は返事良いのな…」  ある日、バルドが走りに行く準備をしている最中。仕事を早めに片付けノートPCを閉じると、ついにあたしは一緒に外に出た。一応運動着に着替えてはいたけど、まだ走る気はない。──脚を踏み込もうとすると、頭中に警鐘が鳴り響くからだ。  『あの時の恐怖が来るぞ』と。現役時代は頑丈さだけは取り柄で、怪我なんかしたことなかったのに。  そんなあたしを他所に、バルドは駆ける。 「フォーム、悪くないけど、右側に寄る癖がある」 「…見えないからです」  レースにおいて、片方の視野がないこと、両目の立体視による空間認識能力に頼れないのはハッキリ言って致命的だ。  だから我武者羅に走るしかないと思いこんでいる。 「見えないから、か。じゃあ、見えるほうに頼るんじゃなくて、聴こえる方に頼れ。風の音、足音、芝の擦れる音、他人が発する音。コース取りは目だけじゃない」 「音だけで走れと?」 「音から走るんだよ」  コンビニで買ったチョークで、床に即席のコースを描き、ペットボトルをポール代わりに並べる。あたしのスマホのストップウォッチが、不格好ながら仕事をする。  バルドはふう、と短く息を吐いて、軽く頭を下げた。社交性はないけど、礼儀はある。 「これ、貴方もやりましたか」 「必要なかったからやってない。でも、必要だったのに気づかなかったことは、いっぱいある」 「弱い人の話をしてください」 「……どこから?」 「負けた話から」  部屋の片付けの最中、自然と本を開いてしまうように、声が出た。  海外から引っ越してきて、有力なエリート扱いでメイクデビューを迎えた日のこと。  第3コーナーで捕まって、そのまま見せ場なしで終わったこと。  出走制限で、“皇帝”が生まれるのをただ見ていた日のこと。  オープンと重賞の分厚い壁に阻まれて、何度もチームトレーナーに引退を促されたこと。  勝てない自分が許せなくて、それを突っぱね続けたこと。  そして、CBC賞を勝った日。勝って、安堵し、泣いて、終わらせた日。  バルドは、黙って聞いていた。途中でうなずいたりもしない。拍子抜けするくらい無言で、しかしあたしの言葉を取りこぼさんとしている。  一通り話し終えると、彼女は短く言った。 「覚えます」 「なにを」 「貴方のすべて」 ◇  練習は淡々と長く続いた。バルドの肩程の長さだった髪が、背中を覆うくらいに。  朝の河川敷、夕方の校庭裏、夜のベランダ。  乱れたフォームの矯正、コーナーで膨らんでしまう癖の修正。素人のあたしがやっていいことなのかは知らない。彼女が求めたから、トレーナーがやっていた事と、ああしておけば良かったという後悔を思い出し、中古で購入した教本を片手にやれるだけやった。 「視覚と一緒に音で周りの動きを観察できたらいいね。複数人で練習するのが一番なんだけど」 「友達いません」 「知ってる」  脇腹を小突かれる。  あたしは広い河川敷で、バルドの左側に並ぶ。彼女が見えない側を、満たすように。  世界がひっくり返るくらいの偶然だ。あたしはその時走りたい気分だった。 「一緒に走る。逃げ、先行、差し、追い込み。あたしが全部やる。相手の位置が分かるようになれば、楽になる」 「そんな器用なマネ、出来るんですか。逃げウマでしょう貴方」 「元中央重賞ウマ娘なめんな!」  はは、と小さく聞こえた気がした。彼女が笑うところを見たのは、これが最初で最後のことだった。  やり取りが増えるたびに、首に掛けられた縄が少しずつ解ける。  彼女は不器用で生意気で、でも礼儀があり、そして律儀だ。練習後はちゃんと水を二本買ってくる。一本は常温、一本は冷えすぎてないやつ。あたしが冷たいのが苦手なのを、いつ言ったっけ、と戸惑ううちに当たり前になった。 ◇ 「地方トレセン学園に入学することになりました」 「おめでとう」 「憐れみですけど。母はいつもそうです。私が片目を失明してから、ずっと」 「誰も悪くないのに謝られんの、つらいよね」 「……はい。そろそろ、あのレース、見ませんか」  とある夜。練習の後、あたしが作ったカレーを頬張りながらバルドは言った。  あのレース──CBC賞。勝って、おしまいにした、あの日。 「いつかはって思ってたけどさ」 「今日が良いです。──今日、見て、私の最初のレースの前に、貴方の最後を私の最初にする」  子供は残酷でずるい、とまた思う。  でも、逃げるのに飽きたのも、本音だ。  あたしは一度ため息をつき、そして真面目に向き直る。  ソファに2人並び、ビデオを読み込ませた。  再生ボタンを押す。  画面に、過去の自分が映る。パドック、周回。尻尾の振り方、耳の角度、どれも覚えているくせに、知らない人みたいだ。 「美少女でしょ。疲れた目してるけど」 「いや、それほどでも」 「キミ片目と一緒にデリカシーまで落としたんか?」  スタート前、ゲートの中。遠くて見えないが、きっとあたしは深呼吸をして、深く目を瞑っているのだろう。 そして、スタート。 『3番、バルディ!──』  実況が高鳴り、あの直線。  思い出の中では長すぎた時間が、映像ではあっけないくらい短い。  逃げろ。  追い付かせたらまたいつも通りで終わる。  逃げろ、逃げろ、逃げろ。  あの瞬間、あたしは誰よりも速くありたかったんだ。  映像がスローになって、勝負服の飾り布が風に揺れる。画面の中のあたしは、誰かに抱きつかれている。鼻水を垂らして泣いている。そして笑っている。  ──ああ、そうか。あの時感じたのは止めることが出来るという安堵だけじゃなかった。あたしは、自分自身の勝ちをちゃんと喜べてもいたんだ。  画面を見るあたしもいつの間にか同じ様に泣きそうになっていて、枯れた音を喉の奥で擦った。 「終われたんだよ」 「ええ、終われたんですね」 「終わって、全部振り返ったら、何も残ってない気がしてさ」 「残ってますよ」  バルドが、顔をこちらに向ける。  片方の瞳は小さな照明を反射し輝いていて、白い布の下の瞳も、きっと同じだ。彼女はゆっくりと言葉を紡いだ。 「ここに、私が来ています」  胸のぐちゃぐちゃを、やっと許せた気がした。 ◇  2人でCBC賞のレースを見た次の日から、バルドはあたしの家に来なくなった。  薄情なガキだ。 数年後。  バルドが重賞を制覇したことが地方紙に載った。  連絡くらいしろ。 また数年後。  バルドがトレーナーになり、その教え子達がとても優秀だと、テレビでインタビューを受けることが決まった。  …連絡くらい、してくれてもいいじゃないか。  放送が始まり、画面に映る黒い眼帯をかけたバルディズドラマは随分大人びて、背が伸びていた。子供の成長は早いなぁと勝手に親気分になってしまう。  アナウンサーがにこやかに進行をしている。彼女の経歴、指導方針、そして担当ウマ娘たちの活躍。落ち着いた声で、理路整然と答えていくバルド。あたしの知っているあの生意気で不器用な子供は、どこにもいない。 『さて、ドラマトレーナー。少しプライベートな質問になりますが……学園の入学前、あなたの原点とも言える方がいらしたと、よく話していらっしゃいますよね。もしよろしければ、画面の前のその方に向かって、一言頂けますでしょうか?』  ──あたしの事だろうか? あたしの事を、彼女がよく話していた? 『……はい。 私の走りの全ては、彼女から教わったと言っても過言ではありません。当時はまだ子供で、無礼なことばかりだったと思いますが……彼女は、そんな私に辛抱強く向き合ってくれました』  改まった態度で、そのあとも彼女はあたしへの感謝の言葉を綴り続けた。……長すぎてインタビュアーが困った顔してるぞ、気付けよ……。  語りが続く中、画面の中のバルドはいくらか堪えようとしたが失敗し、しだいに堰を切ったように号泣しだしてしまった。 『……一言も、私は感謝の言葉を伝えられたと思っていなくて……だから……っ ……先生ぇ〜〜〜……』  こんな子供みたいな表情をあたしは初めて見て、だから呆気に取られてしまって。 『貴方のっ…ぐすっ…おかげ、で…私は、走り続けられ…ました! 本当に、感謝、しています……』  ──その、涙でぼろぼろになったバルドの姿を見て。  線が何故紡がれるか、わかった気がした。 終わり