目の前の、槍。炉から取り出されたばかりの鉄の塊めいた黒い表皮と、熱。 血で塞がった鼻の隙間を抜けて、それの臭いが私の目を釘付けにする。 服の胸元、真っ白な襞に赤い雫が染み込んでいく――洗っても落ちないかもしれない、と、 私は自分に突き付けられた“それ”から、ほとんど無意識に思考を逸らそうとする。 でも、駄目。私の髪は、根本から乱暴に掴まれていて――頭を横に向けることもできない。 だらん、と垂れた両腕は、この男の蹴りをまともに受けたせいで痺れて使い物にならない。 今でこそ動かない、で済んでいるかもしれないが、ひびぐらいは入っているかも―― また、思考が現実逃避する。でも、鼻の中に滑り込んでくる臭いは、物理的に脳を侵す。 男は私の髪を握っていた手を乱暴に横に振って、身体ごと地面に転がした。 血の味。土埃の味。口の中に嫌なえぐみが広がって――ほどけた髪先にぺちゃぺちゃ付く。 頬も痛い。地面にぶつかった際に、少し擦れたのだろうか、ひりひりと痛む―― また男は乱暴に私の髪を掴み、顔を近付けて嗤った。言葉を発さなくても、わかる。 この男は――私をこれから辱める気なのだと。女は女らしくしろ、と言わんばかりの指つき、 それは服の上からも、私の胸に猛禽の爪めいて食い込んでくる。 膝の皿を踏まれて悲鳴が出た――いよいよ逃げることすらできなくなった。 天使も悪魔も、こんな時には何の役にも立たない。ましてそれに選ばれただけの、 思い上がっていただけの子供なんて――大人の男の、暴力に晒されていれば、どうなるか。 胸元への一瞬の圧迫感の後に、びりびり、と嫌な音を立てて服が布切れに変わっていく。 胸飾りも、釦も、役に立たない端切れになって地面に撒き散らされてしまう。 男は私の胸を、直に掴んだ――指の跡が残るほどの握力で。 決して大きくはない、と思っていた。しかし、女の身であることを否定されない程度にはある。 こうして、小さいなどとなじられる謂れはないはずなのに――思わず反論しようとして、 辱めを受けている女が、男に対して胸の大きさを主張する滑稽さに、私は笑ってしまった。 そんなことを言って――どうなるのか?それで、この場から逃れられるとでも? 男の手は、胸からゆっくり上に上がり――喉をみしみしと締め上げる。 寸断された吸気が、唾を巻き上げながら逆流して気道に跳ね――新たな咳を呼ぶ。 血の味が、舌をなぞって降りて――吐き気を引き起こすも、それを吐き出すことができない。 息が詰まって、目の前が霞み始める。涙のせいで、ぎらつく太陽がにじんで二つに分裂する。 身体中の力が抜けていく――元より、手足は痺れて動かないのだけれど。 男は勝ち誇るように、私の頬――赤く擦れた皮膚に口付けをし、そのまま左脚を掴んだ。 股を開かされる――その意味を理解して、私は右脚で男を蹴ろうとしたが、 力を込めた途端、痛みが意思を打ち砕く。痺れる、なんて生ぬるいものじゃない。 男の、鼻で笑うのが聞こえる――でも、怒るような気にさえなれない。 見せつけられたものが、見えない位置にある。そして――今は、私の内側に。 骨の軋む痛み、皮膚の裂ける痛みとは違う、肉を、切り開かれる痛み―― 不意に、首を締め上げていた指が緩んだ――栓の抜けた喉からは、唾液の粒が勢いよく出る。 そしてその後に、男は私の口に自分の手を噛ませながら、下顎ごと掌で覆った。 分厚い肉の塊、私の歯では跡すら残すことも叶わないような、暴力そのもの。 だがそちらに意識を向ける余裕なんてない。全身を、固いものが叩いている。この男の、体が。 地面との間で、ぺちゃんこにされそうだ――体格そのものも違えば、膂力も違う。 私は、自分が女――無力な――であることを、この上なくわからされた。 私が何をしたいか、何をできるか――そんなことは、無意味だと。 押し付けられ、叩きつけられる、抗い難い運命の前では、私の選択に何の意味があるだろう? 頭の中では、第三の選択肢がゆっくりと形を持ち始めていた。