「Dum Dominus Abest」 ーーーーーーーーーー ある日の放課後のこと。 三角さんに突然色紙を渡され、サインをせがまれた。 「まさか芸能人にファンサービスをする事になるとは思いませんでしたよ」などと冗談めかした返事をしつつ、油性ペンで色紙に“Ave Mujica Timoris”と筆記体でサインをする。 一応理由を尋ねると、三角さんが贔屓にしているコーヒーショップでえらく貴重なコーヒー豆を頂いてしまったらしく、そのお礼として贈りたいのだと言う。 「──三角さんのサインの方が喜ばれるのでは?」 「店主の娘さんが海鈴ちゃんの大ファンなんだって」 「はあ、珍しいですね」 「そう?ファンレターだって来てるし、サイン会で海鈴ちゃんの前に並ぶ人いっぱいいるでしょ?」 「それは…まあそうですね。宛名は?」 「あっどうしよう…娘さんの名前聞き忘れちゃった。先に渡しちゃうから海鈴ちゃんあとで宛名書きに行ってあげて?」 「え」 「とりあえずありがと!!貰ったコーヒー淹れる時呼ぶから!あのゲイシャ凄いんだからね!?去年のカップオブエクセレンスの…うわっもうこんな時間!!」 いっしょに飲もうね私これからお仕事あるからおつかれぇ〜…と去り際の言葉を早口でフェードアウトさせながら、彼女は元気よく教室を飛び出して行った。 結局…その後の忙しさの中で店を訪ねることはできず、数ヶ月後に三角さんから「あの時貰ったコーヒー淹れるからウチ来てね」と誘われた際にようやく今回の事を思い出したのだった。 〜〜〜 三角さんに誘われて例のコーヒーを飲んだ日の翌週、土曜日。 本来は午前から事務所のスタジオで合わせ練習をする予定を組んでいたのだが、豊川さんが家の用事で、三角さんは「どうしても行ってみたかったコーヒー関係のイベントに急遽行けることになった(要約)」という理由で共に不参加となったため、数日後に持ち越した。 せっかく時間ができたので、私は三角さんの住むマンションにほど近い場所にある件のコーヒーショップ…もといロースタリーに足を運んでみることにした。サインに宛名を書きに…というよりは、彼女が足繁く通うその店がどんなものなのか興味が湧いたのだ。 三角さんに教えてもらった住所にあったのは、どう見ても小さな倉庫か町工場といった様相の飾り気のない平屋の建物だった。黒塗りの外観をざっと眺めてみても店舗らしき看板は見当たらず、本当にここで合っているのだろうかと心配になってきたところでふと気付いた。よく見ると入口(?)のガラス扉に“open”と書かれた小さな木札が掛かっているし、芳ばしいコーヒーの香りがほんのりと辺りに漂っているではないか。 ここに違いない。私は意を決して遮光フィルムが貼られたガラス扉の取手を握った。 ドアに掛けられた木札がころん、と鳴る。 そっと中を覗いてみると、店内はカウンター席だけの小さな喫茶店のような間取りだった。そのカウンターの奥で、黒いキャップを被ったエプロン姿のすらっとした女性がなにやら作業をしている様子が伺える。背丈はヒールを履いた状態の祐天寺さんくらいはありそうだった。 「ごめんください」 「いらっしゃ…おおっ!?」 「三角…初華さんのご紹介でこちらを…」 「“ティモリス”の海鈴ちゃんだ!そうだよね!?娘がゾッコンなんだよ〜あっサイン本当にありがとうね!ほらあそこにあるでしょ?すっごい喜んでたから自分の部屋に飾ればいいのに“宛名が無いから”って店の方にくれてさ。あとで本人が書きに来ますよって初華ちゃん言ってたけど本当に来てくれるとはね〜。あぁそこ座って?コーヒーいる?ドリップでいい?どうしようねえ初華ちゃんは常連さんだし海鈴ちゃんまで来ちゃったら『Ave Mujica御用達の店』って有名になっちゃうかな?ウチ通販中心で細々やってるだけだから急にお客さん増えてもどうしようもないな〜。ここだって土日しか開けないし店頭ではそこにある分の豆しか売らないからさ。それ通販用に焼いた豆の余りとか趣味で焼いた豆なんだけどね…」 慣れない場所への不安から三角さんの名前を出して円滑なコミュニケーションを図ろうとした私に対し、向こうはお構いなしとばかりに怒涛のマシンガントークを浴びせてきた。 彼女のその話ぶりと雰囲気がなんとなく最近の三角さんと似ているような気がして、私はなるほど…と謎の納得感を覚えてしまう。 勧められた席に腰掛けながらカウンターの上に目を遣ると、商品と思しきコーヒー豆が詰まった黒地のチャック袋が並べられていた。 「てっきり来るなら初華ちゃんと一緒だと思ってた。同じクラスなんでしょ?あの子学校でもあんな感じなの?」 「あんな感じ…というと?」 「なんかねえ、ぽやぽやしてて危なっかしいというか…テレビに出てる時とかはクールな印象でしっかりしてるように見えるけどさ」 「ああ…まあそうですね」 「ここに初めて来た時もびっくりしたよ。あの子ひとりでろくな変装もしないで“コーヒー屋さんですか?”って入ってきてさ。いくら香りがするからってあの入口を躊躇なく開けられるもんかね」 「少し無防備で大胆な部分はありますね。オンとオフの切り替えが…しっかりし過ぎているのかもしれません」 話を続けながら手際良くコーヒーを淹れる要領の良さそうな彼女がこの店の主。彼女の夫も焙煎士で、ここは元々その夫の店だったらしい。 「旦那は今はもっと大きいロースタリーで仕事しててね、ここ手放すって言うから私が貰ったの。もったいないじゃない?今は小さい焙煎機3台だけ残してひっそりやっててね…はいお待たせ、ウチの看板ブレンド。あっごめんね長々と話しちゃって…忙しいんじゃない?」 座って間もなく陶器のカップに注がれたホットコーヒーが差し出される。店主は私が口をつけるより先に、同じコーヒーをデミタスカップに注いで味を見ていた。 「いえ今日は暇です。ありがとうございます。頂きます」 彼女に倣って自分も啜ると…これが驚くほど美味しかった。日々の生活の中で缶コーヒーやインスタントコーヒーを飲むことはある。が、苦味とカフェインで眠気を飛ばすためのものであって、味わって飲んでいるわけではない。それらと比較するのが失礼だと感じてしまうくらいには、目の前にあるコーヒーの味や香りは別物だった。この感動を上手く表現する語彙を持ち合わせていないのが悔やまれる。 「──美味しい、です」 「そう?ならよかった」 「コーヒーの事は詳しくないんです。先週三角さんに淹れてもらったコーヒーも高価で貴重なものだったようなのですが…よくわからなくて。でもこのブレンドは私の口に合っています」 「へぇ〜、初華ちゃんに何淹れてもらったの?」 「コスタリカの…ゲイシャ、とか」 「ああ、キャメルのアレかな?私があげたやつ。サンタテレサ農園の」 「おそらくは。三角さんはたいそう感動していましたよ。私的には…香りも味も普段飲んでいるコーヒーとあまりに違い過ぎまして、なんとも」 「まあそういうもんだよ。ああいう類の豆はね…珍味とか芸術品とかそんな感じ」 「そういうものですか」 「ま、口に合うものを好きに楽しめばいいよ」 「勉強になります。あ…それでサインに宛名を」 ようやっと本題に入ろうとしたところで、店の外で自転車が急ブレーキを掛けて停まったことを報せる特徴的なスキール音が鳴り響く。店主がスマホを振って見せながら「もう来た。早いねぇ〜」と呟くと同時に、ガラス扉を押し除けるように小柄な人影が店内に転がり込んできた。 「おいこら、ちゃんとヘルメット被って来たんでしょうね」 「あ…わぁ…ほっ本物だ!!」 その小柄な人影──店主の娘と思われる少女は、自転車用ヘルメットのせいでぺちゃんこになったショートヘアを直すこともせずに、ただ目を輝かせたまま絶句していた。 〜 「あの…えっと、██中学1年の████です…」 「八幡海鈴です。はじめまして」 「固いなあ…お見合いじゃないんだからさ」 カウンターに並んで腰掛けた状態で、互いにぎこちない自己紹介を済ませる。さきほどから萎縮した相手の雰囲気に呑まれて自分まで緊張してしまっていた。握手会やファンミーティングでは“ティモリス”の仮面を被った状態なのでファンともそこそこ話せるのだが、今の私はありのままの“八幡海鈴”に過ぎないのだ。ファンサービスの心得など持ち合わせていなかった。 それでも何か話さなければと言葉を探しているのは、目の前に2杯目のブレンドと茶菓子のチョコレートが差し出されたから…という理由だけではないはずだ。いっその事と思い、私は少し攻めた質問を投げかけてみる事にした。 「無粋な質問になりますが、私…いや、“ティモリス”のどこを気に入って頂けたのですか?」 「わぇ!?あっあの…ベース!ベースを弾く姿が、格好良いからっ!です…」 「……えっ?」 「あっそのっ!姿だけじゃないです!音作りも…あと、バンドの中での立ち位置というか、えっと…面と向かって聞かれると困っちゃいますけど。“ティモリス”はもちろん好きですけど、“海鈴さん”のファン…です」 「そう…ですか」 予想外の答えだった。 それぞれが何かしら光るものを持ったAve Mujicaのメンバーの中で、自分はとりわけ凡庸な存在だと思っていた。私のファンは豊川祥子が創り出した“ティモリス”というキャラクターに魅かれているだけ──すなわち“Ba.八幡海鈴”のファンではない──と勝手に思い込んでいたのだ。なればこそ、三角さんに渡された色紙には“ティモリス”のサインを描いたわけであって…そもそも“八幡海鈴”のサインを宅配便の受領書や各種契約書以外で書いたことがあっただろうか。 「ベース、海鈴さんに憧れて、春から始めたんです。4弦ですけど…進学祝いに買ってもらって。身体が小さいから持つのもちょっと大変なんです。続けていけるか今から不安で」 「体格に関しては問題ないでしょう。私の高校の先輩で…ちょうど██さんくらいの背丈ですが、レギュラーサイズを自在に弾きこなす方が居ますよ」 「へえ…そんな人が。すごい…!」 「練習は独学で?」 「はい。動画とかテキストとか見て、最近やっと楽譜が読めるようになってきたくらいで…まだ全然弾けません。こんなペースで大丈夫なんでしょうか…」 「譜読みは弾く以前の基礎ですが、そこで挫折する方も多いと聞きます。それをコツコツ続けられるのは立派な事です。そこを乗り越えて楽器を触る時間が多くなれば、どんどん上達していくと思いますよ」 「わ…あっはいっ!頑張ります!!」 私に憧れてベースまで始めたというこの少女は、私の発する一言一句に目を輝かせながら真摯に受け止めてくれている。面映い気持ちと共に、この時初めて自分に“ファン”がいるのだという自覚を得た。 “ティモリス”の仮面を被ってステージに上がっていても、ベースを弾いているのは飽くまで八幡海鈴…私自身だ。考えてみれば、演じる役にも演じている役者にもファンがいるのは然るべき事だった。輝かしい他のメンバーに目が眩むあまり、私の視野はいささか狭くなってしまっていたのかもしれない。 「██さん。私は少し勘違いをしていました」 「えっ?」 「私のサイン、持ってきて頂けますか?」 「あっ…はい!」 カウンターの奥の壁に掛けられていた、サイン色紙よりも表彰状や賞状が似合いそうな装飾の額が外される。 私は持参したサインペンを手にすると、既に“Ave Mujica Timoris”と描かれた表面の隅にこの店の名前を。そして真っ白な裏面には、“Ba.八幡海鈴 ██さんへ”と新たにサインを記した。 「どうぞ。応援ありがとうございます」 「うわぁ…!いいんですか!?」 「ええもちろん。美味しいコーヒーも頂いてしまいましたしね。あ、それから」 「…なんでしょう?」 「──午後、お時間ありますか?」 〜 自宅に戻った私はRiNGに電話を掛け、偶然シフトに入っていた立希さんに練習スタジオの空き状況を尋ねる。彼女は「急すぎる」と苦言を呈しながらもなんとか40分だけ枠を確保してくれた。持つべきものは友…といったところだろうか。 若葉さんと祐天寺さんは若葉邸で揃って自主練習をしていたようで、召集をかけたところ祐天寺さんから2人分の「了解」が送られてきた。これで準備は完了。私はハードケースと共に自宅を後にし、RiNGへと向かう。 到着すると、██さんが落ち着かない様子で入り口の前に立っていた。 「お待たせしました」 「いえそんな…本当に大丈夫なんですか?私…一般人がプロの練習を見学だなんて」 「1人でも欠ければ“Ave Mujica”ではありません。つまりこれから行われるのはただの個人練習です。特に…今日はこういった事に難色を示しそうな神様が都合よく留守ですから」 「神様…?」 「とりあえず貴女は私の従姉妹という事にでもしておきますか。行きましょう、あまり時間がないので」 「え!?あっちょっ海鈴さん!!」 「立希さんお疲れ様です。スタジオの確保、助かりました」 「あのさぁ海鈴、土日は混むんだけど。それも当日にいきなり予約とか…」 「これどうぞ。お土産です」 「はぁ?なにこれ…コーヒー豆?」 「私の好きなブレンドです」 「えっあっ…ありがと」 「スタジオ、借りますね」 若葉さんと祐天寺さんはまだ来ていない。すぐにでも始められるよう、先にドラムやアンプのセッティングを進めていく。 「あの…本当に来るんですか?モーティスさんも、アモーリスさんも?」 「来ますよ。まあ今日の御二方は“若葉睦”と“祐天寺にゃむ”かもしれませんが…ほら」 「ちょっとうみこ〜!今日は合わせナシって言ってたじゃん!!むーことお芝居の稽古始めたばっかだったんですけど〜」 「遅いですよ。あと30分しかありません」 「だってむーこがすっぴんで家出ようとするんだもん!ありえなくない!?」 「メイク…めんどくさい…」 「っていうかどういう事?あたしたち30分の練習のために呼ばれたの?」 「すっすご…綺麗!可愛い…!」 「ん、この娘だぁれ?新メンバー?」 「私の従姉妹の██です。最近ベースを始めたと言うので、練習を見学させようかと」 「へえ〜うみこがそういうの珍しいじゃん。にゃむで〜す🩷██こちゃん、ちっこくてキュートだねぇ。いまいくつ?海鈴おねえさんって親戚の集まりとかでどんな感じなの?」 「ちょっと祐天寺さん…」 「茄子、いる?いっぱいある…秋茄子…」 「写真撮ったげる!ほらむーこも来て!寄って寄って〜はいワンツーいぇ〜」 「わっわっ!うおぉ良い匂いが…」 「あとにしてください!ほら譜面を出して!」 肩を組んでスリーショットを撮り始めた祐天寺さんを引き剥がし、ドラムスローンに座らせる。二人分の濃密な芸能人オーラを一度に浴びた██さんは「箱推しになっちゃう…」と譫言のように呟きながらぐったりしていた。無理もない。 「なにからやる?新曲?」 「ウォームアップに“Earth”から始めましょう。そのあと新曲を合わせて…あとは時間まで██さんのリクエストで」 「おっけー」 「キーボードのパートは音源があります。ギターは…若葉さん、三角さんのパートを可能な限り織り交ぜながら弾けますか?」 「弾ける」 「むーこえぐ…っていうかボーカルどうすんの?マイクは用意してあるけど」 「私がやります」 「マジ!?ベースボーカルとかレイヤ先輩みたいじゃん。██こちゃんめっちゃ貴重だよこれ。むーこもうみこもがんばれ〜──さて」 「…っ!」 祐天寺さんがスティックを掲げた途端、先程まで緩んでいたスタジオの空気が引き締まり、気圧された██さんの背筋がビシッと伸びる。叩き始めて数年のキャリアとは思えないほどの風格だ。相当な無茶振りにさらりと応えてくれた若葉さんといい、やはりAve Mujicaのメンバーは猛者揃い。ベースの腕一本で加入した身として負けてはいられない。 「では祐天寺さん、お願いします」 事務所のスタジオではないとはいえ、メンバーとの練習まで見せるのは過ぎた計らいだと言われるかもしれない。1人のファンのために、ここまでするべきではないのかもしれない。それでも…私は。 ああ神よ。どうか今だけは私の独善(エゴ)と我儘にお目こぼしを頂きたい。私と未来のベーシストである彼女のために、なにとぞ… Fine. ーーーーーーーーーー 「ただいまぁ〜」 「おかえり。生演奏どうだった?」 「すごい…すごかった!」 「そっかぁよかったね…それなに?」 「茄子もらっちゃった」 「……なんで?」 補足① 海鈴が飲んだブレンドですが、 ・ブラジルNo.2 (L-19.0)35% ・ホンジュラスSHG(L-19.0)30% ・グァテマラSHB(L-17.5)25% ・ケニアAB TOPクィーン アリーヤ  (L-21.0)10% 以上4種をアフターミックスしたものです。比較的手に入りやすいコモディティをメインにブレンドしているのは店主のこだわりで、季節やクロップによって配合割合を微妙に変えています。海鈴はこのブレンドが気に入ったため豆を購入し、RiNGで立希に渡していました。 補足② スタジオで海鈴たちが披露した曲目は 1.Symbol IV : Earth 2.未発表新曲(海鈴歌わず) 3.Ave Mujica 4.Symbol II : Air 5.顔 の5曲でした。