肩を掴まれ、腰に手を当てられ。顔と顔、歯の裏さえ見える距離。 じっ、と見つめられていると、勝手に唇が震えて――彼の名前が、自然と口から出てしまう。 雛鳥のようだ、と思った。親鳥の与えてくれる愛情を受け取るしかできない、無力で怠惰な―― そして彼が私の名を呼んで応えたなら、腰に残っていたなけなしの体重まで奪われてしまって、 私の肉体の全ては、完全に彼の手の中にある。もう、自分で自分を動かすこともできない。 彼は見せつけるように革手袋を外した――顔以外の、生身の肌。剣だこのできた、男の手。 先程と同じ位置に手がくる。さっきよりずっと、彼の存在を生々しく感じる。 思わず、彼の手に自分の手を重ねてしまった――笑ってしまうほど、柔らかで、細くて。 同じように剣を握り、同じように杖を操り、弓を引き絞ってきたというのに、 彼と私の間には、こんなにもはっきりとした――性の差が、隔絶している。 兄の代わりに男のように育てられた、といって、本物の男の前では意味をなさない。 侮っていたわけではないが、彼の手の力は思っていたよりもずっと、強かった。 肩と肩が当たる。岩と綿とをぶつけたかのように思う。岩は小さな綿の塊を押し潰そうとして、 私の上に、優しげな顔に似合わぬ男の上背をかぶせてくる。 初めて出会ったときの、あの頼りなげでお坊ちゃんらしさの抜けきらなかった少年が、 今では柔らかさだけを残して大人の顔つきになって、私を、私だけを見ている。 ふと、何かが鼻の先に触れた。それが彼の鼻であることに気付いたのは、 何かが唇に触れたことに気付いてから。唐突に訪れた息苦しさに感づいてから。 しますよ、とさえ言わずの口付け――反射的に息を吸おうとして頭を後ろに下げるも、 “何か”が既に回されていて、それを許してはくれない。そして唇の感触に意識を向けると、 彼の指は掌の中の私の髪を梳き、その集中を乱してくるのである。 視界がぼんやりと滲んで、ようやく彼の顔が離れていく――朧気に、悪戯な笑みが見える。 またゆっくりと、私に覚悟を決める時間を与えているかのように顔が近付いてきた。 だめだ――と、思わず呟く。だが彼は笑みを崩さず、なおも顔を近づけてくる。 何が駄目なのか――流されてしまっていることが?彼からの情熱的な働きかけが? あるいはこの“先”を身体がほとんど直感的に想像して――だろうか? もしかすると、決定的な言葉のないままにこうなっていることに対する、我儘かもしれない。 それを見抜いてか、彼は息の掛かる距離で――かわいいですね、と言った。 頭の後ろに手を回され、一方的に唇を舐られて――そして腰には彼の左手があった。 胴と胴の密着、たくましい男の胸板が、薄い肌着一枚隔てたすぐ向こうにある。 私自身はいまだ何枚も着込んでいるというのに、彼の手が生身の肌をを、 何にも守られていない私の中身を直に握り込んでいるかのような錯覚に囚われる。 身体の線の凹凸全て、彼は既に知ってしまっているのではないか――? 頭が熱くなってくる。心臓がうるさいほどに鳴り響く。汗が――香水の匂いを巻き上げる。 彼の指が襟と首との間に差し込まれ、指一本分の隙間が開く――内と外とに、風が通る。 身体に熱せられて上った、汗の匂いの混ざった香り。それを彼は、鼻を近付けて直に嗅ぐ。 息が荒くなる――恥ずかしい。やめて。でも――何を言えばいいかわからない。 男から贈られた香水を付けるとは、つまるところこうなることを受け入れるということ。 それを想像した上で、私はそうしたのではなかったか?彼に身を委ねるつもりで―― 私の口から出るのは、彼の名だけだ。今の私は聖騎士でも、お貴族様などでもなく、 好いた男に流されることを喜ぶ、弱い女でしかない――そしてそれが、堪らなくうれしい。 彼の指が私の衣服をほどいていく。狼に食い付かれる直前の羊の心情とは、こういうものか。 綺麗だ――誰に聞かせるでもない、独り言が聞こえた。心の炉に火を投げ入れられたように、 全身がいよいよ熱く、今にも焼け落ちてしまいそう。呼吸の仕方が、わからなくなる。 いっそ私に向けてくれていたら、世辞はやめろと言えたものを―― 硬い指。誰よりも悲しみを握った指。男の指。その手の中に、私の肌が吸い込まれる。 こうなるとわかっていたら、湯浴みでもし直してから彼を招いたのだが。 父祖の血を継ぐために、誰かの妻になることもまた私の果たすべき役割であった。 結婚の相手を好くことができるかどうかは、二の次三の次であるはずだった―― その私が――恋情に流されて、生家から離れたこんな宿で、男に全てを差し出している。 その相手が、今や異端者と呼ばれている四歳も下の青年と聞けば、父は目を回すだろう。 だが今の私にとって、そんなことはもう、何の意味も持ってはいないのだ。 騎士団を離れてから、自分のことは自分でやるようになって久しい。 着替えるのも、身体を清めるのも、武器の手入れ、靴の掃除、鎧の修繕も。 その過程で、己の肢体が世間一般的な基準に比して、十分に発達していることはわかっていた。 鏡の中の、生まれつきの白い肌と金色の髪が――人の目を引くに足りると理解していた。 それが今、たった一人の男の前に晒されているだけで、ちっぽけな自信は吹き飛んでしまう。 失望されないだろうか。彼の好みに合っているだろうか。何か失敗してはいないか―― また無意識に彼の名を呼びそうになったのを、ぐっと堪える。これではただの四歳児だ。 彼は言葉の代わりに、私の臍の下に口付けて――赤い跡を残した。 指が木の葉型の軌道でその上をなぞる。貴女は“ここ”を僕に捧げてくれますか――と。 そうされただけで、私はもう、彼と私との特徴を半々に分けた赤子を抱く己の姿を、 彼によって大きく膨らまされた胎を、想像しないわけにはいかなかった。 今はまだ、しなければならないことが残っている。彼と落ち着くための場所がまだ、ない。 いっそ全てを捨てて、どこかの田舎に二人で――いや、もっと多くで、隠れてしまいたい。 彼の指は涙を優しく拭いながら、拒むことを許さぬ力強さで私を捕まえた。 溶岩のように灼けた槍が、腿に当たっている。有無を言わさぬ、雄の力強さを感じる。 私がはっ、と息を呑んだのに合わせ、先端が奥へ、穿ちながら潜り込んでくる―― 色々なものがかき混ぜられて、上下左右が激しく回転して、呼吸も不確かになっていって。 彼の口から吹き込まれる酸素を、少しも逃さないように舌を絡めて受け取り――吸って、 どこまでも落ちていく怖さに耐えるために、彼の背中に手を回して、しがみついて、泣いて。 広い背中、暖かい背中、古傷のついた、硬く、優しい背中。そこに私の爪痕が一つ増やす。 彼もまた、私の身体に消えない跡を付けている最中なのだからおあいこだ。 自分が何を言ってしまっているのかとっくにわからなくなっているから、 彼の名前を呼んだのも、名前を呼んでと甘えたのも、愛の言葉を繰り返したのも、 覚えていないのだから仕方ない。彼もまた、遠慮なく、甘い毒を私の耳に流し込んでくる。 自分を構成してあるものがどんどん蕩けて、混ざって、作り変わっていく―― 初夜のことを思い出すのは、今日の日付がちょうどあの日と同じであるからか。 すっかり中身のなくなった香水の瓶を、戸棚の中から思いがけず見つけたからか。 次女を寝かしつけたと彼に伝えたとき――彼の指が服越しに臍の下を撫でて、 三人目も順調ですね、と言ったからであったろうか――身体が、火照る。 身重のくせに夫の上に跨る姿は――他の誰にも見せられるものではない。 愛の言葉を囁かれる――ただそれだけで、私の身体は未来永劫、彼の玩具にされてしまうのだ。 剣を握らなくなって――もう何年だろう。日々の鍛錬も、胎に子がいては不可能だ。 彼のためだけに、胸と尻に、雌臭い駄肉を積んで――それを喜ばれてしまったら、 いよいよただの女と変わるまい――もしかすると、私はこれを望んでいたのか? 乳離れを控えた次女がうとうとと頭を揺らするのを見ると――少し、寂しい気持ちが起こる。 だが彼はやはり私の心を見抜いたように、腹を撫でて――にっこり微笑むのだ。 時には、彼自身が私の――黒く、大きくなってしまった乳輪にしゃぶりついたりもする。 愛する人との子を産みたい、乳を与えたい――そんな願いを叶えてくれようとして。