冷静に動けた自分自身を褒める。  扉を開いたら裸の女が立っていた。雪花だ、風呂に入ると聞いたから邪魔にならない様に外へ出て適当に時間を潰しぼちぼち帰って見ればタイミングが良くなかったらしい。上がったばかりでまだ服を着ていないところに鉢合わせてしまった。  目をそらさなければならないのに顔を、目を動かすことができずにいたのは、雪花が綺麗だと思ったからだ。  千治は男だ、まだ枯れてはいない。人を遠ざける生き方をしているとはいえ異性を望んでいないと言えばそんなことは無い。本能だった、男の。  胸が、桃色の乳首が、膨れた尻が、柔らかそうな股が、すべてが雄を疼かせる。心拍数が上がり股間に血が流れていくのを感じた。 「……」  息を整えて廊下からトイレに入る。既に時間が経っているのに未だ男の象徴が隆起していた。時間が経てばどうにかなるようなもので無いように思えた。時間が経つほどに脳裏に刻まれた雪花の身体が思い出される、余計にまた性欲が昇ってくる。 「やべぇな」  火が煮立つような感覚に陥る。恐らく自分で処理しても治まるようなものではない。時折感じる気付いたときに溜まったものがあふれ出すような性欲ではない、明らかに女性への劣情だ、欲望。生殖と言う抗いがたい欲求は他者へ吐き出すことを望んでいる。  脳裏に浮かぶのは押し倒された雪花、覆いかぶさる男の影に淫靡な笑みを浮かべて受け入れている、唇を貪られ、肌を荒らされ、膣を蹂躙されている、そんな想像。それを成しているのは誰だ、自分だ。 「落ち着け……落ち着け」  妄想を振り払うように首を振った。気にしなければいいだけだ、そんなことはよく分かっていても現実はそううまくいきそうにない。深呼吸、どうにもなりそうにないが、次雪花と顔をどう合わせれば良いか分からなくなる。 「……とりあえず土産物でも買ってみるか?」  治まったとは言い難いが、サイズは戻った。あくまで性欲を流しただけだからすぐ戻る可能性はあっても、今はそれで十分だ。もう1度街に出ることにする。言葉で謝るだけじゃ足りないと思った、女の裸は男のものに比べてよほど価値があるものだらしいから、埋め合わせる何かが必要だ。  アスカシティは中継地点でしかない。ここから更に空中都市ラークと呼ばれる場所に行く、その為の道標を探しに来ただけでありまだ旅は続く、ならば雪花との関係悪化は避けたい。 「ってか、何買えば良いんだ」  廊下を歩きながら頭を悩ませる。異性を本能的に求めていても、積極的に興味をもって行動したことは無け、結果として恋人と呼ばれる相手等居たことがないから女性の喜ぶようなものが何かなど分からない。  エントランスを通り抜け外に出ると市街が広がっている。人ではないが、道行くデジモン達でにぎわう様は活気があった。ぶつからない様に歩いてみる。しかし視線がくる、人と言う存在の珍しさが注目を引いている。いくら気にしないと言ってもすこしばかり気になりはする。拳をふるうほどではないが、肩身が狭い。  さっさとこの場を抜けなければならないが、考えてみれば買い物をする場所が分からない。どうするか考えて聞くことに決めた。迷子になるのは困る以上場所が分かるだろう相手に聞くほかない。近くを歩いていたデジモンに声をかける。 「なあ、あんた」 「うぉっ!?人間っ!?」  声をかけた相手は背丈は自分の半分くらい、黒い体躯、二足歩行、知識にある小型の悪魔の様。 「ンな珍しいか?」 「おう、はじめてだぜ!んで、人間がこのインプモン様に何か用か?」 「買い物がしてぇ、ここらへんは初めてだから場所が分からねぇ、知ってるなら教えて欲しいんだが」 「ふーん?おう、良いぞ、こっち来な」 「助かるぜ」 「気にすんな、にしても人間がデジモンの道具なんて欲しいのか?」 「まあ、ちょっとな、必要なこともあるって事さ」 「ほーん、で、何が欲しいんだ?食いモン?もっと何か身に着けるもん?」  あー、と軽く唸ってから考える、それすらも考えずに道を歩いていたらしい。一瞬だけ悩み、口を開く。 「じゃあ身に着けるもんで」 「ふーん、まあ人間は武器使いそうにないしアクセサリでも見るか?」 「あー、そうだな、そう言うのが良い」  わかった、と言ってインプモンの先導について行く。特に難しい道中ではなかったが、はじめて足を踏み入れれば絶妙に分かりにくい。 「ここだぜ、中々良い品揃えしてる」 「そうか、ありがとよ」 「良いって事よ、旅は道連れ世は情けってやつだろ?」 「……よくそんなこと知ってるな」 「おうよ、旅をするなら知識なきゃだしよ、色々知ってんだぜ」 「そうか……ああ、礼しねぇとな、こういう時は度すればいいんだ?」 「ん?じゃあついでだから薬買ってくれねぇ?切らしかけてるんだ」  指を指せばカウンターがあり、赤いややふとったペンギン…?の様なデジモンが店番をしている。 「いいぜ、何個居る?」 「ああ、9個くらい欲しいな、回復フロッピーっての頼めるか?」  ああ、と答えて店員に話しかけ頼まれたものを購入する。四角い板状の媒体だ、薬の様なものを想像していたが全く違う。やはりデジモンは想像の範疇を超えるようだ。 「これでいいか?」 「おう、サンキュー!いやあ、道案内でこんなにもらえるたぁな!良い事はするもんだぜ!」  悪魔の形をしている割に全然悪魔らしくない、少し笑いそうになるがこらえてぶっきらぼうにおう、とだけ口にする。ここでインプモンとは別れた、後は自分の必要なものを買わなければならない。  店員は二足歩行する植物の様なデジモンで、大きな目に頭に花が咲いていることが特徴か。声をかければ朗らかにいらっしゃいと返ってくる。 「人間が買い物って珍しいねぇ、ウチに何が御用?」 「ああ、アクセサリ、その、人間の女向けのヤツあるなら見たいんだ」  その言葉に店員はぼぅ、と呆ける。 「何かおかしいか?」 「女向けって?」 「いや、言葉のまんまだよ」 「人間は男と女で違うものを使うの?」 「ん、まあ、女向けのアクセサリーってやつは男はつけねぇかも」 「そうなのね…あ、デジモンにも男とか女はあるのよ?でもね、そう言うのってあんまり気にしないの…個体としていることはあるけど、大体共通の物を使うのよ」 「なるほどね…まあいいさ、みてみたい、良いか?」 「うーん、人間が気に入ってくれるものがあるかしら?でも商売人だもの、求められたら……はいっ!」  商品の説明書きと写真の載った冊子が手渡される。 「へぇ、デジタルなのに本か」 「普通ならウィンドウなんだけど、うちは雰囲気もある方が良いと思って」  聞きつつ冊子をめくる。形状は指輪やネックレス、いかにも装飾品と言った風のデザイン、思った以上にちゃんとアクセサリーだった。  審美眼がないから眺めていてもどれが良いデザインなのかは分からない、唸りながらページをめくる。普段本を読む習慣がないから写真の多い本でも時間がかかってしまう。  アクセサリは人間が身につける装飾品と違い、身に着けると何か効果を発動するらしい。『一段上の美意識で上げる身の守り』『精神を守るのは美しさ』こんな売り文句が添えられていた。 「ん……これ、か……?」  めくるうちに見つけた1ページの写真を見る。雪と花を組み合わせた様なデザイン、雪花の名前を思い出して目に留まった。少しだけ自嘲。雪花だから雪で花なんて駄洒落だ、被りを振る、やめだ、人の名前でそう言うのは良くない、過去が少しだけ脳裏にちらついた、いらだつほどの不快な記憶。『ナンバン――ジ』、忌々しい記憶、消す様に目を瞑りまたページをめくる。  何枚もめくって、頭を悩ませて見つけたのは魚のデザイン、雪花のパートナーはシーラモンで魚型だ。これなら悪い選択肢じゃないだろう。  これに決めて、店員に話しかける、これを買おう、決めてページをし示し―― 〇  服を身にまとい一息を吐く、やっと心臓の高ぶりが治まってきた。体の熱も。 「は~~~…どーいう顔して会えば良いんだろ」  雪花は椅子に座り天井を見る。大きなため息、慣用句か言い伝えか、ため息は幸運を逃がすというらしいがため息の前にある種の『不運』と遭遇した時はどういう処理になるのだろうかと思考する。  世間ではLGBTなどと言う言葉が聞こえて久しいが、自分自身を女性と認識し振る舞いも相応に女のものである雪花にとって恋人の様な、裸体を見せることを良しとする相手ではない男性に自分の身体を見られるのは普通に考えれば不運だ。  しかし同時に、千治が廊下に戻っていった時に感じた残念とも後悔ともつかない感情はまだすべてを見せていないと考えている。見せたのは前だけだ、乳も女性器も見せた、だが背中の側は見せていない、尻を。  ふとあの瞬間男性の欲に任せて千治が己の身体に触れてきたらどうなっていただろうと思う、右手で左腕を握ってみる。服の上から二の腕辺りを掴み力を入れた、予定調和の感触、自分の二の腕を自分でつかむ仕草は生きていれば何度かする。何より自分の筋力は完全ではないが、分かっている。  今二の腕を掴んでいる手がもしも千治の物だったらと思った。アスカシティに入る前に見た千治のトレーニング姿、記憶に残っている身体、男の。  体の幅は約2倍ある、厚みも2倍くらいはあったはずだ、背丈も一回り大きい、腕は恐らく2~3倍程度で肩周りだけ見ればほぼ3倍、足まわりは4倍くらい会ってもおかしくない、総じて男性的だがそれ以上に雄だ、男の人ではなく、人の雄、より原始的な獣に見える。  そんな男が自分の腕を掴んでいたとする、骨を簡単に折ってしまえる手でしっかりとつかまれる、もしかしたら両腕を掴まれているかもしれない、基本的に男女の平均的な筋肉量には大幅に差がある、同一条件ならば女性は上半身が男性の約50%~60%、下半身は80%程度とされている。一度捕まってしまえば逃げるなんてことは不可能だ。  そのままきっと押し倒される、ベッドに寝転ばされたらどうなるのだろうか、胸を、股を、尻を蹂躙されるのだろうか、二の腕から手を離し乳に持っていく、服の上からでも分かる程度には大きさがある柔肉に指を鎮める、痛みはない、どこまでが自分にダメージを与えないのかそのラインを知っているからだ、しかし千治に分かるはずはない、女性経験は無いようなことを憶測できる発言をしていた、そうなれば想像よりもよほど力を籠められるかもしれない。  その力の矛先が乳だけで済むかと思えばそれもあり得ない。きっと乳首も弄られる、何度も何度も潰されて捏ねられて痛みが快感になるまで教え込まれる、腹を、腿を揉まれ、女性そのものの穴を男の太い指でほじくられかき分けられる、もしかしたらそのまま尻も弄ばれる事だってある。  だがそれで終わるわけがない、興奮しきった男女が最後にする事は分かっている。高校生で全く性知識がないなどと言うことは少なくとも真面目に教育を受けていればあり得ない。自分の中に他人が入ってくる感覚は分からないが、行きつくところまできっと行く。唇を奪われながら抱き留められ、そのまま――。 「……な、何考えてるんだ私っ!!」  熱を帯びた身体から手を引きはがし荒く呼吸。顔はきっと真っ赤になっている。 「はぁ……溜まってるのかな……」  思い起こせば自分で処理する暇なんて存在しなかった。野宿で安心できる場所もない、落ち着ける状況などないに等しい。今は久しぶりのある程度安心できる状況、そんな時に男性から見られるという状況が衝撃となり身体の内にある本能的なものを呼び起こしたのだろう、とアタリを付けた。動物的な面で見れば雪花は充分子供を腹に宿せる。  相手が千治なのは今1番身近にいる異性が千治だった、そう言うことだ、きっと。 「余計に顔併せにくくなっちゃった……」  力が抜ける。流石にこの状況で処理するほど豪胆ではない。だが1度してしまった意識はどうにも消えはしない。顔を見るたびに訳の分からない感情になりそうだ。 「とりあえず落ち着かないと…」  旅はまだ続く、千治との付き合いもまた。 「ん?」  ノック音が聞こえる、扉が軽く叩かれていた。もしかしたら千治が戻ってきたのかもしれない。さっきは何も考えずに扉を開いていたから今回は変えたのだろうか。 「もう服も着てるから入って良いよ」  声をかける、ノックは続く。 「千治?」  不審に思った、鍵はホテルで2人分もらっている。 「あ、もしかしてブイモンかな」  千治のパートナーのブイモンの事を思い出した、千治と同じでどこかぶっきらぼうな雰囲気を持つ。何かあってブイモンだけ戻ってきたのかもしれない、とりあえず何があったか話を聞かなければならない。入り口の前に立ち、ドアに手を振れる、デジモンは人型だけではない、むしろもっと姿はモンスター然としているからドアノブは無く、触れると動くようなものになる。スライドした、赤いデジモンがいる。赤く、背丈はやや大きい、羽の様なものが生えていて身体には刺青が入っている、目は光り、口元は不快な笑みを浮かべ、右手には三叉の槍を握っていた。 「え……」  唐突なことに一気に身体がこわばった、頭が回らない。 「ヘェイ!あんたが人間でー……名前は分からないけど女ってやつぅっ?」 「え、あ」 「えっとぉ、画像ファイル画像ファイル……んー……お、この画像とほとんど同じだしやっぱあってんじゃーんっ!」  嬉しそうに赤いデジモンが左手で己の左ひざを叩いている、良い事があったという事を隠さない。 「き、キミは?」 「ん?オレ?ブギーモン…覚えなくて良いよ!ただの下っ端だから!それよりちょっとさらうね!」 「っ――!」  後方に飛びのく、いくら最近戦闘を千治に任せきりとはいえこの程度の警戒が出来ない程ではない。シーラモンが入っているDアークを取り構える。  ブギーモンはニヤニヤしたままだ。 「出しちゃって良いのぉ~?」 「何を」 「ここ、水辺じゃないんだぜ?」 「脅し文句にはならない」 「それ、Dアークデショ」  表情が固まる。悟られたのかブギーモンは喝采を上げた。 「ヒャヒャヒャ!人間さーん、そんな顔しちゃいけないでしょ!正解って言ってるもんだぜ!…でぇ、Dアークってあれでしょ、カードから情報を読み取ってどーこーってやつだってよね?……もしそれでぇ、ここらへんを水場にしたらどうなっちゃうかなー」 「空中を泳げるようにするだけかも」 「ふぅん?暴れて、ホテルボロボロにしちゃう?」 「っ」 「あ、カマかけたんだけどそう言うのも出来ないタイプね、いやーオレちゃんてきにありがたーいっ!」 「お前は」 「あ、そろそろオハナシは終わって良い?俺もダンナに絞られたくないからさ、大人しく捕まって――よ!」  赤い影がとびかかってくる。 〇  馬鹿ではあるが道を間違えるほどではない。後はホテルに戻ってプレゼントを渡すだけだ。ラッピングされたアクセサリーを小さく握って歩く。  突如、轟音。 「あン?」  音がした方向を見る。丁度それは帰り道の先からだった、見る。 「――!!」  赤いデジモンらしき存在が飛んでいる、それはよい、しかし小さくなりきる前に見えた、女を抱えている、雪花を。  走っていた、翔ける、跳ぶ。  脚力に任せた跳躍は不格好だがパルクールに見える。 「ブイモンっ!出てきやがれ!!」  デジヴァイスを操作し、パートナーを呼び出す。光が粒子となり、粒子が形を作り、姿が作られる。 「千治っ!」 「雪花がさらわれてるくせぇ!」 「応!!」  言葉少なく疎通する。一気に屋根を伝って走り距離を詰める。直感で位置関係を測りブイモンに指示を出した。 「跳ぶ!飛ばせ!」  同時に跳ねた、瞬間にブイモンが腕を掬い上げる様に打撃をした、アッパーの体勢で千治の足裏に一撃。鈍い痛みが来るが、今は我慢だ。速度、飛距離、申し分ない。赤いデジモンに届く、組み付く。 「千治!?」 「わりぃな」  掴まれたままの雪花に頭を下げる、けじめだ。 「んがぁっ!?何なのぉっ!?」  声、この赤いデジモンが発していた。背中側から叫ぶ。 「うっせぇな、何雪花さらってんだコラ」 「セッカ?このメスの名前?」 「のほほんとしやがって、今からテメェぶっ飛ばすからな!!」 「ヒャヒャヒャ!知ってるんだぜぇ!人間ってのは弱いんだろぉっ!!」 「そうか……じゃあ今からその認識叩き直してやるよ」  羽を掴む。あらん限りの力を込めた。ミチ、と音がした。 「ギャっ!?」  肉の裂ける感触はフェイクなのか、これすらも再現されたものなのか、今は無視して引きちぎり続ける。痛みに制御を失ったのか落下が始まる。悲鳴は赤いデジモンの物だ。同時、力が緩んだのか雪花の拘束が緩んでいた。一気に体勢を変えて雪花の側へ、そのままにまだつかんでいた腕を離して抱き留めた。 「跳ぶぞ!舌噛むなよ」 「え、ちょ!?千治っ!?」  赤いデジモンを蹴り飛ばす、そのままに落下。このまま落ちれば地面に真っ逆さまだ、しかし千治には誤算がある。 「ちったぁ融通利かせやがれよ、デジソウル!!」  聞いたところによればデジソウルと言うのは発生条件が人それぞれらしい、本来千治のデジソウルは対等かそれ以上の手合に対しての一撃でなければ生み出すことができない。だから今は無理なはずだった、経験則からくる条件を満たしていない。それでもなお今は出来るはずだと何か直感が言っている。 「お、堕ちちゃう~~~!?」  雪花の叫びを無視する。落下速度は早いから既に地面は近かった。足に力を込める、衝撃、だが思った以上にダメージが来ないことで出来たことがわかった。 「ふ、ふえぇ…生きてるよ私ぃ」  半分嗚咽にも近い声を雪花は発していた。こういう時どうすればいいか分からないから、ふと思い浮かんだことをする。ゆっくりと下ろし、背を指すってやる。 「悪かったな…頑張った」  これがかけるべきことバカは分からない、しかし今はそれだけしか言えない。  気付けばブイモンが傍に立っている。走ってここまで来たのかもしれない、目線をあわせて告げた。 「ここは譲れよ」  ブイモンは舌打ちをして雪花のそばによる。千治はそのまま前に出た、地面に落ちた赤いデジモンが近くに落ちていることは目視していた、けじめはつけなければならない。 「おい……まだそこに居るんだろ?出ろよ」  這うように赤いデジモンが昇ってきた。顔は憎悪に、怒りに染まっている。 「お前ぇ…よくもやってくれたなぁ、ん?」 「やったぜ?だから何だよ」  かかとで地面を軽く蹴り。 「何で雪花狙ったのか分からねーけど…俺はあいつの護衛ってやつなんだ……だからわりーけど、今からお前ぶっ飛ばすぜ」 「は…ははは!あーのねー!人間が弱いってことくらい……知ってるんだよっ!!」  ふらふらとした足取りだったはずだ、しかし、飛び上がる動作は俊敏だ。残りの力を振り絞ったのかそれとも別の何かかはわからない。それは重要なことではない。  上半身を捻る。右半身を少し後ろに、構えた腕を引いてから腰を軸に回す。腕が前方に出る、速度のはいった一撃がカウンターとして撃ち込まれた。  打撃の入った場所は顔だ、赤いデジモンの顔面に真っ直ぐ、正面、鼻っ柱をへし折るように鉄拳が入る。 「ぎゃ、あぁ、あぁあぁ!!?!?」  音を立てて地面に倒れ伏す。腕を軽く振るい埃を落とす。 「バンカー出すまでもなかったな」  鼻を鳴らして捨て台詞。 〇  アスカシティに宿泊はできなかった。こちらのせいではないが、騒動を起こした上に地面にダメージを与えてしまったいじょう措置として仕方ないと申し訳なさそうに言われてしまえば仕方ないと言わざるを得ない。 「また野宿かー…ベッド、勿体なかったね」  話題に困り、とりあえず小さく言ってみる。 「おう」  千治も小さくそう言った。  さっきからずっと微妙な雰囲気が流れている。野宿に良さそうな場所を見繕いながらかもしれないが、居心地が悪い。何か話題がないかと勘がている間に千治が手を出してきた。 「ん」  何か小さな包みだった。 「これは」  渡されるままに受け取った。 「詫び」  ぶっきらぼうに声が返ってくる。 「開けてもいい?」 「好きにしな、もう渡した」  なら、と包みの封をほどいた。 「これは……雪?花?」  包みの中にはケースがあった、開くとネックレスのようなものが入っていた。  言葉を聞いた瞬間に千治が血相を変えて近づいてネックレスをひったくる。 「そ、そっちじゃねぇ!こ、こっちだった」  再度渡される。鬼気迫る勢いに驚きながらも、再度もらったものを開く。今度は魚の形をしたものだった。 「これは……魚?もしかして」 「お、おう、シーラモンがパートナーだし」  言いながら顔を赤くして頬を掻いているのを見る。 「そ、そっか……嬉しいよ、うん」 「お、おう」  そっぽを向き、背が向けられる。  本当は気にするべきではないのだろうが一つ前に渡されたアクセサリが気になってしまった。 「ねえ」 「ンだよ」 「なんでさっきのは駄目なの?」 「……なんでもねぇよ」  ふぅん、と、少しばかり笑みを浮かべ、 「もしかして……そう言う告白?」 「ブッ!?な、なんでそうなるんだよ!?」  せき込みながらもにらんでくる。 「なんでって、雪で花って……雪花で私の名前じゃない……そっちは持っていきたいってことは……」 「ち、ちげーよっ!!」 「違うの?」 「おう……」  バツが悪いといった表情を隠しもしない千治に、少しばかりやりすぎたかもしれないと思いつつも好奇心が止まらなくなってくる。自分を何度も助けてくれている相手に少しばかり無礼かもしれない。それでも、なお。 「なら、なんで?」 「……お前って結構図太いよな」 「デジタルワールドで冒険してると細かいこと気にしなくなるのかも?」  いたずらっぽく言ってみれば、千治は溜息。 「……名前」 「う、うん?」 「俺の名前、千治だろ、こっちだけなら普通だけどさ、名字」 「あ……」 「南盤、ナンバン、合わせて読めばダジャレみたいになっちまう……親からもらった名前に俺は不満はねーよ、名前だって偶然だってオフクロは言ってた……」  どこか遠い目のままに言葉は続く。 「まあ、でもよ、クソガキにしてみりゃそんなのからかうのにうってつけだよな、言葉どっかで覚えてナンバンセンジナンバンセンジってよ……じゃあ名前の呼び方変えてみたらどうだ、今度はチハルちゃんだよ、男なのに女の子の名前、だってよ」  苛立つように舌打ち、 「思い出した……初めて人を殴ったのは、それだ。やめろつってもやめやがらねぇからさ……力で黙らせた、泣いてセンコーに泣きつかれたから大人にも手ぇ上げた……気づけばだーれも周りにゃいなくなった、親が血の縁でギリ残ってくれてるくらいか……」  だからよ、と、 「自分が糞みてぇに嫌がった名前のダジャレみてぇなこと、やっちまうなんてさ、間抜けだろ」  自嘲、そして目が昏くなる、心底己をあざけっている。  だが、 「なら」 「ん?」 「なんでそれ、買ったの?」  千治が持つネックレスを見る。雪と花の形。 「……からだ」 「え……」 「……似合うって思っちまったからだよ!」  やけくそになって叫ぶ顔に笑ってしまいそうになった、笑うことではないのに。 「なーに笑ってんだよ」 「いや、別にぃー?」  ニヤニヤしてしまう顔が止まらない、嬉しかった、何故だか知らないほど、心の底から。  け、と、言いながら千治は腕を上げる。 「千治!?」 「んだよ」 「何しようとしてるの……?」 「捨てる」  投げ捨てようとしていたらしい、思い切り振りかぶっている。 「待ったー!!」  後ろから抱き着いて止める。今止めないとこのネックレスはきっとどこにあるかわからなくなる。当然だ、千治の腕力で投げ飛ばされたらどこまで飛ぶかわからない。 「お、おまっ!?あぶねーじゃねーか」 「す、捨てるのはダメ!」 「なんでだよ……別にいいだろ、こんなん、わびはちゃんと渡した」  確かにそうだ、と、理性ではわかっている。取り返された以上今千治が持つネックレスは雪花のものではない。しかし、嫌だった。  そのネックレスが投げ飛ばされることは、自分が千治に投げ捨てられてる気分になってしまいそうになる。 「頂戴」 「あ?」 「捨てるなら、頂戴?」  一気に回る脳内が、姉の、それこそ自分に見せた男を手玉に取るやり方を思い出させた。初めて聞いた時は心底くだらないと思っていたのに、自然と動きとなって現れる。 「ダメ?」  背中から前に回り、抱き着き、上目遣いで、甘い声。媚びるという言葉をシラケた自分が思い浮かべている。それを覆いつくしてでも、今は。  千治は唸っている。精神がないまぜになっているのだ、きっと、心情であるとか、ポリシーであるとか、多く。  時間にしては数秒程度か、ゆっくりと腕が落ちる。 「ほらよ」  軽く握られたネックレスが雪花の手に渡る。花と雪が。 「ありがとう……大事にする」  握りしめ、胸に押し付けた。 「ハっ…俺にセンスなんざねー……ダセーと思ったらうっぱらっちまえ」  そんなことを言う千治から苦笑が聞こえた。表情を見せられない、笑いが抑えられないから。 「大事にするよ、ずっと」  ずっと。