ハクマイ怪文書シリーズ 2011 NHKマイルカップ編 『1:31:0/狂躁前夜』 あらすじ:ハクマイは目立ちたがり屋で美少女な世にも珍しい白毛のウマ娘! 『誰が何と言おうと、必ずぼくの立つべき舞台がどこか、全員に理解させる。』  スプリングS、皐月賞…幾度の困難という泥濘に塗れようとも、己が悲願を成就するその日まで、強い覚悟を抱く彼女の歩みは止まることはない!  ──さて、そろそろ語らねばなるまい…喜びたまえ諸君!ぼくの過去回想回だ! ◇◇◇  2011年5月8日。  NHKマイルカップ──東京レース場、1600mにて開催されるマイラーの世代最強決定戦。  このレースはぼくの得意距離、そして実姉ウインクリューガーとの姉妹制覇が懸かる大舞台だった。そのため、デビュー直後から「ここを獲りに行く」と、トレーナーと二人で決めていた。  先日の皐月賞出走は予想外も予想外だが、結果(2着!)を顧み、不問としてあげよう。オルフェ君は感謝するように──。  ところで、競走ウマ娘のレースには「人気」というものがある。レースの開催場、各ウマ娘のコンディション、距離適正、これまでの戦歴……などなどを観客が独自にジャッジし、投票することで決定するのだ。  それらはレースの直前、確定前でも大まかに確認することが出来る。ぼく……つよつよ最強美少女伝説的英雄重賞白毛ウマ娘のハクマイは、それを逐一チェックするくせがあった。トレーナーは気にし過ぎるな、と言ってくるが、こればかりはやめられない…! 「やいトレーナー、なんでぼくが6番人気なんだ!? スプリングS同着だし、皐月賞2着なのに──!!!」 「……多分、中距離のウマ娘だと思われてます」 「マジ?」  ワチャワチャしている内に、ゲート入りが近付いていた。控え室を出て、地下バ道に向かうための最後の準備時間。 「貴方の体調は」 「絶好調!」 「戦法の確認は」 「あいよっ! 差し一丁!」 「出走ウマ娘の情報の整理は」 「オールオッケー!」 「「ヨシ! /ヨシ。」」  彼も緊張しているのか、ふぅ、と一息つき、トレーナーが続ける。 「人気薄は貴方にとってショックかもしれませんが、これをチャンスに活かさない手はありません。貴方のレースを見せてください。……それと、無理はしないこと」  ほら、この人はいつもそうだ。ぼくを世界一心配するくせに、世界一信頼している。  扉を開け放ち、振り返らずにこう言った。 「ふふん、無理しかしないさ。でも──君の信頼に応える為の証左として── 一番最初に、この世界を変えてあげよう!」  ──決まった!  力強く一歩を踏み出し、笑った。肌で感じる大舞台の空気が、ぼくの胸の奥まで震わせる。 ◇  ゲートの中は狭く、暗い。外からの歓声も遠くなり、ここにいるのは自分一人だけのように錯覚する。芝と土の匂い、靴底の蹄鉄が地面を叩く鈍い音、自分の呼吸のぬるい温度──それらだけが現実だと告げている。手脚の感覚は、これまでの日々を凝縮したように馴染んでいる。  ふと、瞳を閉じる。 ◇  物心がついたある夜、母のことを知らされた。書斎の天井近くまで積み上げられた本、大きな窓から見える月、そこから吹き込む風が、叔母のウェーブがかかった長髪を揺らす様。彼女の指先が、ぼくの手を強く握っていたのを覚えている。 「貴女には、本当のお母さんがいるんだ」 「お母さんはね、貴女を産んですぐに天国に行ったんだよ」 「お父さんもいるんだよ。今はまだ、会えるかわからないけれど──」  言葉自体は優しく、それでも伝えられた言葉を理解した時、胸の奥がゆっくりと冷えていく感覚があった。二人の顔を直接見た記憶はなく、写真や断片的な話だけが、ぼくの中の両親を形作った。  どんな声で話しかけるのか、  どんな眼差しでぼくを見るのか、  その手はどれだけ暖かいか──永久に埋まることのない、欠落の感触。それは幼いぼくの中に、伽藍堂として居座り続けた。  その空洞を埋める手段が、姉さん──ウインクリューガーの走る姿を見上げることだった。  テレビの中の彼女は、輝きと歓声をまとってターフを駆け抜け、ゴール板を突き抜ける瞬間には、部屋の空気まで揺らすようだった。  だが光は長くは続かない。次第に結果が振るわなくなり、重賞の出走も厳しくなった。その状況にインターネットの文字は牙を持ち、彼女の努力も焦燥も、全ては一時の隙潰しのための嘲笑のネタにされるようになった。  寮から時折帰省し、その時も気丈に笑顔を見せていたけれど、彼女は傷ついていて、それでもその事を幼かったぼくに見せまいとしていることが分かってしまった。    姉とぼくが孤独になったとき、一番に育て親として手を挙げてくれた人──叔母、ウインドインハーヘアは穏やかで、優しい人だった。母の妹で、柔らかな言葉を選び、目だけで多くを語る。  実母が亡くなっていることを告げられ、その時から一層大人しくなったぼくに何か打ち込めることがあれば良いと考えたのか、彼女は様々な習い事や趣味を勧めてくれた。  ぼくが田んぼをやってみたいと突拍子のないことを言い出した時も、余っていた土地を田んぼに作り替える手続きを嫌な顔一つせずしてくれた。手入れを続けるうち、あの小さな箱庭は宝物のようになっていた。  ヴァイオリン、華道、日本舞踊、演劇──どうやらぼくは人より器用で、大体のことは上達が早く、それなりに出来るようだった。  けれど、本当に打ち込めるものには出会えず、舞踊と演劇の、壇上で浴びる視線と拍手のざわめき、自分でない何かを演じるという高揚だけが、他とは違う感情を残した。  そこから、姉と同じ路、走るために生まれたとすら称されるウマ娘の本懐──レースの道を志すには、大きく時間はかからなかった。  10歳の夜、その事を叔母に告げると、彼女は長い睫毛をたたえる瞳をしばたたかせ、長くぼくを見つめて、  「行っておいで」とだけ言った。背中を押すのではなく、静かに鍵のない扉を開くような言葉だった。これまで彼女が競走を勧めなかったのは、ぼくがその道でどんな苦労、どんな偏見に直面するかを知っていたのだろう。  そこからの日々は、鍛錬と小さな勝負の積み重ねだった。  叔母の危惧通り偏見を向けられ、心に満たされない欠けがあっても、此の先に何もかも持っている人ばかりだとしても、競争の世界に自分だけの居場所を創り出すことが出来ると──そう信じて。 ◇  瞳を開くと、あと十数秒で発走の合図が鳴らされる頃だった。  両親の不在、姉の栄光と滑落、それに対する人々の声。無理解な好奇、当然の不信、冷たく滾る血潮。  そのすべてが地の底で燃える熱に織り込まれていて。  姉の笑顔、叔母の手の温もり、初めて学園でぼくを信じてくれたトレーナー、初めて負けたくないと思わされた、アイツの瞳。  けれど、今は炎がただ焼き尽くすだけではないと知り始めた。  ──唇を固く結び、全てが始まる時を待つ。 ◇  ゲートが開いた瞬間、視界が跳ねた。土が裂け、踏み出した脚に地面の抵抗が絡みつく。  スタートは悪くなかった。だが、折り合い良く進む一番人気の影──勝負服のチェッカー模様の目立つ彼女が、昨年朝日杯を制し、早くもG1ウマ娘となった世代のエリート……グランプリボスだとすぐに分かった。中団の前、ちょうど射程の内側。距離も風も、すべてを計算している動きだった。  ぼくはぐっと我慢し、後方に控えた。スプリングSの時と同じだ。外へは行かない。強い足音の渦の中、内ラチ沿いの狭い道を選んだ。視界の端で、外の気配達がじわりと前へ進むのを感じる。それでも──構わない。意識は向けているが、気は取られないように。……脚はまだ温存できている。  3コーナー、隊列が崩れ、目まぐるしく変化していくレースの展開を見た観客のどよめきが風に乗って届く。だがぼくの視線は前の1つの隙間だけを見据えていた。ラチと2人の間、息を呑めばすり抜けられるほどの距離。脚をためる呼吸と、心臓の鼓動を重ねる。  直線、前が壁になった瞬間、わずかな戸惑いが周囲に生まれ、その一拍をぼくは使った。残り200m。踏み込んだ脚が地を裂き、狭間を割って抜け、先頭に立った。  強風が額に触れる。  残り100m。外からグランプリボスが伸びてくる。  豪快で迷いのない脚が、後続を一気に追い抜かし、迫る。堅実に磨き上げられた強者が発するオーラに、頭蓋が痺れるようだ。けれど、胸の奥で別の何かが軋んだ。  それは信頼の温もりでなく、闘争の烈火でもなく──。  冷たく暗い、慣れ親しんだ過去の痛み。  ──追いつかせるな。  前を譲れば、また『物珍しいだけのピエロ』に後戻り。居場所なんかすぐに無くなる。笑い者にされる。誰に?──誰かに。  走れ。もっと速く。喉の奥で、誰かが嗤う。  勝て。何一つ変えられないお前に、何の価値がある?  並ばせるものか──今度こそ!  まだ誰かに追いかけられている。そんな感覚があった。  振り返る余裕など、ない。  ただ我武者羅にゴールを突き抜ける。  ど、と、地鳴りのような歓声が、遅れて鼓膜を揺らした。  世界から音が消えていたことに、初めて気が付く──酸欠で霞む視界。焼けるような喉。鉄の味がする。  ……ぼくは、勝ったのか……? 負けたのか…?  朦朧とする意識の中、ただ一つ、聞き慣れた声だけが、やけに鮮明に鼓膜を捉えた。 「ハクマイッ!!!!」  スタンドの関係者席で一人の青年が我を忘れたように叫んでいた。  あれは──いつも冷静で穏やかなはずの、ぼくのトレーナーだ。  その彼が、珍しく歓喜の大声を上げている。その、見たこともない表情を見て──は、と、意識が現実に戻ってきた。  そして、視線を上げた先の掲示板に信じられない文字が刻まれているのを確認し、初めて。  自分が、とんでもないことをしでかしたのだと、気付いたのだ。 ◇  後続に5バ身差をつけての日本レコード更新──かの『大王』に並ぶ記録。  歓声と熱狂が彼女を呑み込むまで、あと少し。 おわり ◇◇◇ おまけ 「──失礼します」  レース後の疲労を考慮し、一足早く控え室に戻ったハクマイ。ウイニングライブが近づき、トレーナーは呼び戻すためにドアを開くと──。 「クックック……
ハッハッハッ……
──アーッハッハッハッハッ!!!」  細身の身体のどこからこんな声量が発されるのか、響く声が空気をビリビリと揺らす。高らかに三段笑いを披露しながら、部屋中をジャンプで縦横無尽に飛び回る、魔界の珍獣めいたハクマイの姿がそこにあった。
 先ほどまでの異常なまでの集中力と、ゴール後の放心状態は嘘のように消え失せている。 「……あの、ハクマイ? とりあえず、日本レコードおめでとうございます…!」 「うぇっへっへっへ! 苦しゅうないよトレーナー! 今日のぼくはまさに神! 天才! そして、時代の特異点系美少女! この勝利に世界は必ずひれ伏すんだアハハハハ〜〜!」 「は、はい…。それで、ウイニングライブの予定時刻も近づいてきたので、そろそろ準備を──」 「──トレーナー」  オーラは急に消え、いつものハクマイが真顔で、そして深刻にトレーナーに話しかける。  あの激走の後だ、もしや脚の不調か。とトレーナーが身構えた瞬間──。 「はい」 「…………本能スピードの振り付け、全部飛んだから動画見せて」 「頭打ちました?」 おまけのおわり