彼は、いつも私を遠ざけようとする。 「さっさと忘れろ」  父と母の遺品を届けてくれたその男は、酒臭い息を吐きながらそう言った。  酒に溺れた、無気力な男。他の隊士たちからの評判も最悪だった。あんな男を野放しにしておく鬼殺隊も、許せなかった。  入り口の戸の鈴が鳴った。低い声が店員をあしらって、こちらに向かって来た。 「……待たせたか?」  燃える炎のような頭髪。勇ましい眉。以前の彼と同じところは、そこだけだった。  濁っていた目は、憂いを湛えながらもしっかりと私を見つめていた。伸ばし放題だった無精髭は剃られ、酒瓶も持っていない。  以前より少し痩せたように見えるが、隊服のおかげか、その威厳は十分だった。 「……引退したと聞いたが」  私は無愛想にそう言った。引退したはずの彼が隊服を着ることなどないはずだ。  この男のことは、嫌いだ。炎柱……彼の息子も、この男に悩まされていたという。 「どうせなら正装をと思ってな」  彼は目を伏せた。視線の先は彼の隊服か私の隊服か、それとも私の目を見たくないのか。  私は入隊してから、この男とは一度も会っていなかった。最初の印象や伝え聞く噂とは、今の彼は大きく違う。  煉獄杏寿郎の死が、彼を変えたのだろうか。  私の隣に、彼は座った。椅子がぎしりと鳴る。彼の体重は、私よりもずっと重い。 「どうせなら、か。そのまま復帰したらどうだ?」 「茶化すな。俺はもう柱にはなれん」  そう言いながら、彼は片手を挙げた。私の問いを否定するようでも、震えるその手を見せているようでもあった。 「いいや、冗談ではない。まだ衰え切ってはいないだろう」  驚いた顔で、彼はこちらを見た。 「手が震えるからなんだ。その腕はまだ鬼を斬れるだろう」  この男は、私に仇を取る機会を与えてくれた。鬼殺隊の中で聞いた噂の中にも、その腕前を貶すものはなかった。 「しかし……」  彼はまだ渋っている。私は、自分の頭に手をやった。長い髪が解かれ、肩に落ちる。  使い込まれて色褪せた、鱗模様の手拭いを突きつけた。槇寿郎も黙ったまま、それを見つめる。 「……あなたが、持って来てくれた。私に……仇を討つ力と、機会をくれた」  隊士として仕事を重ね、私は槇寿郎のその行動の不可解さに気づいた。後処理は、隊士の義務ではない。隠の仕事だ。ましてや、遺品を遺族に届ける隊士など滅多にいない。  親を亡くした子に、彼なりに思うところがあったのだろうか。彼の噂を聞くたび、そんな風に思うようになった。 「……気まぐれだ、そんなものは」 「お前はそうだったかもしれん。だが私は、冗談や気まぐれで言っているわけではない」  他の隊士たちの、彼を中傷する言葉を聞くたびに、私は腹を立てていた。この男がただの役立たずの穀潰しであるはずがない。この男は、炎柱にまでなった男だ。私に、道を示してくれた男だ。  知らず知らずのうちに、手拭いを握る手に力がこもっていた。 「……そう、だな……」  彼は小さく呟いた。震える手が、強く握り締められていた。弱さを焼き尽くす炎。煉獄。 「柱は無理だろうが……隊士としてまた、責任を果たそう」  込み上げてくる笑みを、私は抑えきれなかった。だから。 「流石は元炎柱、といったところかな」 「だから、茶化すなと言っている」  不機嫌そうに、槇寿郎は顔をしかめた。 「それで」  話題を変えようとしているようだ。息子の杏寿郎に比べると、彼はいささか強引さに欠けていた。 「仇は見つかったのか?」  本題だった。彼と私が今日会った理由も、これだ。私はまた、手拭いで髪をまとめ直した。 「十二鬼月の鬼が言ったことが正しいなら……上弦の弐らしい」  声に感情が滲み出る。できるだけ冷静に、淡々と話したつもりだった。  槇寿郎の顔が厳しくなった。隊士ならばわかることだが、上弦の討伐は容易ではない。ましてや、当代の炎柱、つまり彼の息子が上弦の参に殺された後だ。  仇は、恐ろしく手強い。  隣の卓の若い男女の明るい声が聞こえる。窓のガラスの向こうから、傾きかけた日の光が差し込んでいた。  私は自分の湯呑みに手を伸ばした。すでに少し冷めてしまった茶を、勢いよく流し込む。机にその湯呑みを置くと同時に、まるでふと思いついたように口を開いた。 「そうだ」  槇寿郎の目がこちらに向いた。私は勢いのままに続ける。 「元柱というなら、私に稽古をつけてくれないか」  虫のいい申し出だ。彼だって、隊士に戻るなら、他人の稽古に付き合っている暇もないだろう。だが、このままではいけない。仇を討つためにも、私は、この人と一緒にいなければならないのだ。  ふとももの汗が、木の椅子の座面との間に溜まっている。彼は意外そうに私を眺めると、口元を綻ばせた。 「いいだろう」  私は、初めて彼の笑顔を見た。荒々しく、刺々しかった彼とはまるで違う、優しく、少し寂しげな笑みだった。 「杏寿郎に伝えられなかった分、お前に全て授けてやる」  彼はそう言って、私の団子の串を一本、ひょいと持ち上げた。一気に二つの団子にかぶりつき、慣れた手つきで引き抜く。  私も負けじと団子を口へ放り込んだ。もちもちとした団子は、甘い蜜としっかり絡んで、口の中に楽園を作り出す。  ごくりと団子を飲み込んだ。私は唇に付いた蜜を、そっと舐め取る。 「うまい!」  私と槇寿郎は、声を合わせていた。  心を燃やせ。私の胸の奥で、炎が燃えていた。