・01 シュウがゆっくりと瞼を開ける。 掛けられているのは、ふかふかすぎて身体が沈み込むような高級ベッドだった。 天井のシャンデリアが微かに光を放ち、部屋全体は広く静まり返っている。 白いシーツにはホテルのような柔らかな香りが残っていた。 右に首を向けると、大きな窓の向こうに街が広がっている。 タワーマンションの中層─見下ろせば駅前のロータリーがあり、ひっきりなしにバスやタクシーが行き交っていた。 電車のブレーキ音、クラクション、アナウンスが遠くから混じり合って届く。 視線を少し下にずらすと、よく知った看板が目に入った。 行った覚えのある古い中華料理屋の赤提灯、独特な作りをした映画館は今も煌々とネオンを点している。 「…ここは…俺たちの世界…!?」 呻くようにそう呟いたとき、部屋の奥から足音が近づいてきた。 「…ようやく、目覚めてくださったのですね、シュウ様」 白いカーテンの陰から現れたのは、制服姿の頃から変わらぬ美しい金髪と整った顔立ちを持つ浅村ゆらぎだった。 今は白いルームドレスに身を包み、足元には全く起きる気配の無いスリープモンが規則正しい寝息を立てている。 次の日─シュウはまだ身体に鉛のような重さを抱えていたが、ゆらぎに手を引かれタワーマンションを出た。 駅へと続く道の先に、大きなモールが硝子張りの外壁を光らせてそびえている。 午後の陽を受けてきらめく建物へ、人々の流れは吸い込まれるように続いていた。 「ほんの少しでよろしいのです」 ゆらぎはシュウの歩調に合わせながら微笑んだ。 白いワンピースの裾が揺れ、声には不思議な柔らかさが宿っている。 「戦いとは無縁の景色を、見ていただきたいのです」 自動扉を抜けると、空まで続く大きな吹き抜けが広がった。 見下ろした二階の円形広場では子供向けの小さな催しが開かれ、軽快な音楽と笑い声が響いている。 足を止めた観客の拍手がこだまし…そこにはただ、休日の温かな空気だけが満ちていた。 ゆらぎは広場を指し示し、光を受けた横顔に微笑を浮かべる。 「人々が笑い、家族が寄り添い、ただ日常が息づいている…素晴らしい日常です」 その雑踏を前にして、シュウの心にはわずかな安堵が流れ込んだ─しかし、同時に心の奥底で棘のような痛みが疼く。 爆風の起こる戦場、失ったもの、失いたくないもの。 歩みを止めたシュウを見上げ、ゆらぎは囁いた。 「もう、ここで立ち止まってよいのです。戦場は遠ざけ、安らぎだけを選んでくだされば」 「ゆらぎさん…俺は、ミヨと…幸奈ちゃんを助けにいかないといけないんだ」 その名を呼んだ瞬間シュウの頭を激痛が走り抜け、思わずベンチに座り込む。 妹の正体がデジモンイレイザーだったこと、デジタルワールドに置いてきてしまった幸奈のこと…砕け散る記憶の破片が胸をえぐり、息が詰まる。 「ご心配には及びません、シュウ様」 ゆらぎは歩み寄り、穏やかに微笑んだ。 「貴方の望む者たちは必ず戻ってまいります。ですから…ここで祈り、全てが解決するのを待ちましょう。戦わずとも救いは訪れるのですから」 手を組み、そう告げる声音は慈愛に満ちているのに…どこか抗いがたい呪縛のように響く。 ゆらぎの穏やかな声音は、悲しみなのか静かな狂気なのか…シュウにはよくわからなかった。 だが確かなのは、シュウはここで立ち止まっている場合じゃないということだった。 ベンチの縁をしっかり掴み、身体を起こしながら僅かに声を荒げた。 「今は、ふざけてる場合じゃないんだ」 「ですが…救世主様は妹様を追い続け、その果てに血に塗れてしまった…」 ゆらぎはそっとベンチに腰を下ろし、指をシュウの手に絡める。 その仕草は優しさのようでいて、同時に檻のようでもあった。 「あの夜─血だらけで倒れていた貴方をここに運んだのは、この私なのですよ?目を開けた時、どれほど胸を撫で下ろしたことか」 力を込めて喋りすぎたのか、彼女は一呼吸おいて深く呼吸しなおした。 元からゆらぎの体は強い方ではなく、それなりの心労が祟っているのはシュウにも察せられた。 「その痛みを知りながら、まだ戦場に身を置こうとするのですか?私は…もうこれ以上、貴方が壊れてゆくのを見たくないのです」 ゆらぎの指に力が入り、その圧に導かれるようにシュウも一瞬、息を止めた。 心が揺らぐ─もし彼女の言う通り、ここで全てを手放してしまえたなら。 もう傷つかずに済む、もう背負わずに済む。 その甘美な囁きが彼女の口を通し、文字通り耳をくすぐる。 「でも俺は、まだ何も守れていない」 「自分を責めないでください…それに、私は何故シュウ様たちが夏休みの後にいなくなったのか…調べたのです…あれは─」 そう言われた瞬間、シュウは反射的にゆらぎの手を弾いた。 「それは終わった話だ。今、俺が戦いに向かうのとはなんの関係も無い」 低く吐き出した声は、怒りと焦燥と、逃げ場のない義務感が入り混じったものだった。 ゆらぎはシュウの反応に怯えるが、それでもゆっくりと首を横に振る。 「いいえ…そんなことはないはずです。シュウ様が“シュウ様”でい続けるために、終わりにするのです」 演奏の合間に訪れた少しの静寂に、二人の睨み会った呼吸音だけが残った。 人々のざわめきが途切れた時、シュウは自分の世界が一変したあの夏のことをフラッシュバックする。 シュウの家庭は崩壊し、タカアキは命を落とし、リョースケは半身不随となった。 あの時シュウは、自分が約束の場所へ訪れなかったことこそが全ての原因だと、いまだに胸の奥で自分を責め続けている。 脳裏に焼き付いたタカアキの冷たく血に濡れた瞳が、シュウを鎖のように彼を縛り付けた。 あの眼差しから目を逸らすことなど、決してできない。 赤黒い影が脳裏を染め、彼の声が心臓の奥から響いた。 ─"お前は妹すら見捨てるのか?" そんなことを彼が言うはずがない。 タカアキはいつも、自分を笑わせてくれた。背中を押してくれる存在だった。そして、手の届かない【光】だった。 だが死の記憶と罪悪感がねじ曲げた幻影は、恨みを湛えた瞳でこちらを睨み付けてくる。 次の瞬間─甲高い悲鳴が吹き抜けを駆け上がる。 子供たちの叫び、大人たちの足音、椅子や荷物が弾かれる音。 休日の温かな光景は一瞬で瓦解し、広場の中央に裂け目のような黒い影が揺らめいていた。 「な、なんだあれ─デジモン!?」 誰かの叫びが響き、群衆が雪崩のように出口へ押し寄せる。 シュウはハッとして立ち上がると、手すりを掴んで身を乗り出す。 四階から見下ろした階下の広場では、混乱の中に一人取り残された少女が目に入った。 見覚えのある制服姿の中学生…その怯え切った顔に、シュウは息を呑む。 恐怖に歪んだ瞳が、妹の怯えた眼差しと二重写しになった。 『お兄ちゃん助けて』 かすかな声が、錯覚のように耳を打つ。 ありえない─だが、彼女の口が確かにそう動いた気がした。 シュウは再び手すりの縁をグッと握り直す。 「俺は行く…ここで止まってなんかいられない」 「お待ちください!貴方は痛くはないのですか!?怖くはないのですか!?」 ゆらぎが思わず声を張り上げ、彼の腕を掴む。その指先は必死に縋るように震えていた。 「お願いです、貴方をまた失うのは─」 かすれた声は、泣き出す寸前のように揺れた。 シュウは小さく息を吐き、彼女に視線を向けずに謝った。 「さっきはごめん…でも、夢は覚めるも必要があるものなんだ…」 仲間やデジモンと繰り返される騒動こそ、シュウにとっては心地のよい夢だった。 でも…ほんの少しだけ、彼らと明日という現実を生きていたいと思ってしまっていた…気がする。 じわじわと失われていく逃げ場、存在しない答え─でも、足を止めるのは今じゃなかった。 「ユキアグモン、できるか」 ポケットからデジヴァイス01を取り出して強く握ると、シュウは優しくゆらぎの腕を外した。 そして手すりを飛び越え、四階から吹き抜けへと身を投げた。 足場が消え、重力に引きずり落とされる感覚だけが鮮明になる。 刹那─壁面に歪んだ光が奔り、デジタルゲートが口を開いた。 「当然だゼ!」 白い影が飛び出し、落下するシュウの身体をがっしりと受け止める。 ユキアグモンは衝撃を殺しながら床に着地し、爪をコンクリートに食い込ませて滑りを止めた。 「っしゃあ!寝起きの準備運動だゼ!」 シュウは床に投げ出されて転がると、素早く立ち上がって少女を庇うように前へ出た。 倒れ込んだ彼女の怯えに濡れた瞳が、かつての妹の面影を焼き付けて離さない。 声にならぬ助けを求める錯覚が胸を締めつける。 「俺たちに任せろ」 その背でユキアグモンが吠える─広場を埋める影の群れが牙を剥き、一斉に飛びかかってきた。 【スノークロー】 氷を纏った爪が閃き、数体の敵を吹き飛ばした。 「へっ、大したことねーゼ!」 「…どうしてコイツらは暴れていたんだ?」 床に叩きつけられた敵デジモンが呻き白目を剥いたまま動かなくなると、ユキアグモンは勝ち誇る。 戦いが終わったことでシュウは視線を走らせ、息を吐きながら少女へと視線を向けた。 ミヨが着ていたものと同じ制服を着ているだけで、誰かを助けられたことにいつもより強く安堵してしまう。 シュウは彼女に歩み寄り、震える肩にそっと手を伸ばす。 「大丈夫か?」 「シュウ様!その方はなにか様子が…!」 ゆらぎの声が届くよりも早く、少女はシュウから差し出された手を握り返す。 遠くから聞こえたゆらぎの声に思わずシュウは振り替えるが、少女はニヤりと暗い笑みを浮かべた。 「ヒトを勝手に妹と重ねて、勝手に安心して…本当に自分勝手」 彼女の手からゾっとする気配がシュウに流れ込み、黒い空間の中から無数の触手─根のようなものがうねり出した。 「…っ!」 シュウの反応速度を越え、両足と腰に巻き付いた。 冷たく湿った感触が、蛇のようにシュウの動きを完全に封じる。 「まさか、この騒ぎは」 「そう─その通り。私が"お兄ちゃん"を罠に嵌めたの」 シュウの手を握り返している彼女は、その手に段々と力をこめてゆく。 両足と腰に絡み付いた根を振りほどこうとするが、それは叶わない。 「どうしてそんなことをするんだ」 「だって、パパのためだもの」 シュウがなんとか絞り出した声に被せ、一方的に話しだす少女。 「パパ…!?」 「─デジモンイレイザー。知ってるでしょ?誰も逆らえない、完璧で、崇高で、私だけの王様…!」 言葉はどこまでも恍惚としていて、同時に冷酷だった。 シュウの心臓は跳ね、握られた拳に力がこもるが、こちらもなす術はない。 「でもね…パパは最近"お兄ちゃん"に夢中なの…」 少女のわざとらしい猫なで声はひそやかに、しかしどこか刺すように低くなる。 瞳は揺れ、シュウの手をぎゅっと握ったまま─抑えきれない怒りと独占欲が滲んでいる。 「私だけのパパでなくちゃだめ…そんなの許せない!」 「ぐっ…!」 声には狂気と悲痛が混ざり、視線はシュウに釘付けになる。 シュウの手は、ミシミシと嫌な音を立てていく。 「だから、パパの視界を奪う貴方は、消えなくちゃだめ…パパに愛されるのは、私だけ」 甘く響く声とは裏腹にその力は異様で、もはや人間のそれではなかった。 よく見ればその体は華奢で、愛らしい顔立ちをしているが─男だった。 息を呑むシュウに相手は蔑まれたと勘違いし、瞳をぎらつかせた。 「君は…!」 「何!?私はプリンセスネオよッ!パパのお姫様なんだから!!」 息を荒くしたプリンセスネオはシュウに絡む根を解くと、大きく突き飛ばす。 何かに焦ったように懐から手鏡を取り出すと、作り笑いを浮かべて見せる。 僅かに落ち着きを取り戻した"彼"は、背後から迫りくる黒い空間と自身を重ね全身を包み込んでいく。 「ハイパーバイオ…エクストラエヴォリューション…!」 恍惚の笑みと共に囁かれたその言葉と同時に、黒い空間は"彼"を飲み込み渦のようにひとつへと収束した。 やがて影が晴れた時そこに立っていたのは、巨大で荘厳な姿…貴婦人のような気品をまとい、微笑みを浮かべるそのデジモン。 だがその慈悲深そうな表情の奥には、氷のように冷たいものが潜んでいた。 【バイオロトスモン:究極体】 ・02 「究極体─ッ!?」 シュウが息を整えようとした時─デジヴァイス01に響く警告音と、歪み淀む空気に思わず顔を上げる。 「シュウッ!あぶねぇっ!」 バイオロトスモンの巨腕が振るう杖が、空気を裂く轟音を響かせる。 ユキアグモンは白光に包まれ、飛び寄るようにしてシュウの身体へと手を伸ばした。 光が破裂するように弾け、その姿は鋼鉄のアーマーに身を包んだを戦闘竜・ストライクドラモンへと変貌する。 「ぐっ─!」 ストライクドラモンは咄嗟にシュウを抱き上げ、巨体の影から飛び退いた。 次の瞬間、杖が叩きつけられてコンクリートの床が深々と砕け散る。 着地したストライクドラモンは、抱えていたシュウを投げ捨てるように地へ降ろす。 立ち上がりながら髪を蒼く逆立たせ、振り替えると燃え上がる気迫を辺りに放出した。 【ストライクファング】 全身が炎に包まれ、一直線に敵の胴を貫かんと突撃した。 必殺の爪牙は確かにバイオロトスモンの巨体を直撃し─轟音を伴い蒼炎を散らす。 「無様ね」 だが、巨人は微動だにしなかった。 次の瞬間、気迫を放つだけでストライクドラモンの身体を弾き飛ばしてしまう。 その気迫はシュウにまで伝わり、鳥肌を立たせる。 「ぐあああっ!」 竜の身体が空中できりもみ回転し、数度跳ねて床を削り、火花を散らしながら転がる。 最後にガラスへと叩きつけられ、けたたましい警報がモールの空間を震わせた。 「ストライクドラモン!」 「へへ…オレは行けるゼ…まだな!」 展示されていた高級車のボンネットに手を突き、ストライクドラモンはよろめきながら立ち上がる。 シュウの叫びと指令に答え、全身を連続した白光が包み込む。 シュウのデジヴァイス01の画面には、進化の予兆として無数の文字列が流れ落ちていく。 次の瞬間─ストライクドラモンは足元のコンクリートを砕き割り、渾身の跳躍を見せた。 いくつも階層を突き抜け、天井を破壊しながら光の奔流はモールを貫通し、遥か上空へと駆け上がった。 「きゃっ…」 その突風にゆらぎは思わず後退り、声を上げてしまう。 【メタルグレイモンVi:完全体】 通知が鳴り響くと同時に、進化の余波が周囲を揺らす。 突風が吹き抜け、その奔流が通った軌跡からモールの巨大モニターにビビが走り、吊るされた照明が激しく揺れ、次いで自販機が点滅を繰り返す。 最後に突風は床を駆け抜け、マネキンや商品をなぎ倒していった。 逃げ遅れていた群衆の悲鳴が渦を巻き、混乱はさらに広がる。 鋼鉄の躯をまとった紫竜は胸のハッチを開いて抑えきれぬ熱気を噴き出すと、再び閉ざして敵を睨み据えた。 だが対峙するバイオロトスモンは、ただ空を見上げてわずかに口角を吊り上げるだけだった。 その微笑みには慈悲の仮面が貼り付いており、しかし声は冷たく響く。 「私が特別で私が一番…それを理解させてあげるわ」 「チッ…あいつ、余裕ぶりやがってるゼ!」 「メタルグレイモン、街中の被害をなるべく押さえるために格闘戦だ!」 地上のシュウから指令を送信されたメタルグレイモンViは雄叫びを上げて翼を開くと、空を裂くように急降下する。 サイボーグ化した左腕・トライデントアームを構えて突撃の態勢に入った。 町中に被害を出すことを懸念したシュウは射撃戦を仕掛けられず、近距離での破壊力に賭けるしかなかった。 【メタルスラッシュ】 電光のような青い閃きがトライデントアームに走り、爪が閃光を帯びて振り下ろされた。 しかし─バイオロトスモンは身体を静かにそらせると、最小限の動きで攻撃を避けた。 振り抜かれた爪は空を裂き、広場へ向けて烈風を叩きつける。 シュウの髪が逆立ち、周囲の看板やテーブルがまとめて吹き飛ばされた。 「ちょこまかと……!」 連撃は続くが、バイオロトスモンは舞うように回避を重ねる。 歯を食いしばりながら、シュウは声を張り上げた。 「いや…回避するのは、当たれば効くからだ!」 「生意気な物言いのお兄ちゃんね!」 バイオロトスモンはわずかにイラ立ち、左手の杖を滑らかに回転させた。 鋼の頬を打つ鋭い衝撃が走り、紫竜の顔が揺れる。 すかさず右の杖が突き出され、杖先が白熱した。 【サーペントルイン】 メタルグレイモンViは咄嗟にトライデントアームを顔の前に構える。 しかし光線が放たれるより速く、左の杖が跳ね上が爪を弾き飛ばした。 「しまっ─!」 零距離から、黒き光線が竜の胸に叩き込まれる。 轟音とともにメタルグレイモンViの巨体は吹き飛ばされ、広場を包むモールの壁に叩き付けられた。 鉄骨が軋み、ガラスが割れ、壁面が大きくへこむ。 「がああっ!」 「うう…ユキアグモン様、シュウ様…!」 悲痛な声が響き、モール全体が傾ぐ。 その振動に思わずゆらぎは手すりを掴み、戦いの恐怖に息を詰めた。 「サーペントルイン…バイオロトスモン…!」 バイオロトスモンの叫んだ技名に、シュウの目が見開かれる。 記憶の中から甦ったのはデジタルワールの村で会った、優しく穏やかな…シュウたちが守れなかったサンゴモン。 彼は怯えきった顔で、家族を皆殺しにされたのだとシュウに伝えてきた。 「君が…サンゴモンの村を…?」 怒りと恐怖を押し殺し、問いかける声は掠れていた。 「なにそれ?知らないわよ、そんなの」 バイオロトスモンは肩をすくめるように笑い、やれやれと視線を逸らす。 「─ま。覚えてないってことは、大したことなかったんでしょうね」 その言葉に、メタルグレイモンViは瓦礫をはね除けて立ち上がった。 鋼の顎が軋むほど噛み締められ、瞳が憤怒に燃える。 「てめぇ…言いやがったな…!」 「言ったわよ─それが?」 次の瞬間、バイオロトスモンの袖から黒々とした根が伸びる。 鞭のようにしなり、メタルグレイモンViの顔面を何度も打ち据えた。 【ドレインウィップ】 連続する衝撃が、まるで雑な編集をされた映像のように繰り返される。 しかしメタルグレイモンViは呻きながらも、再び伸びてきた根に鋭い牙で食らい付いた。 「効かねぇ…効かねぇぞ…!」 口腔から熱が漏れ、次の瞬間に炎が溢れ出す。 噛み付かれた根に引火し、燃え上がる火は鎖のように相手を縛った。 巨竜は身体を大きく振るい、炎に包まれたバイオロトスモンを振り回す。 轟音を立てながら、そのままモールの壁に叩きつけた。 バイオロトスモンは燃え上がる根を逆に強引に手繰り寄せ、メタルグレイモンViを自身の懐に引き寄せた。 「─お兄ちゃんが生意気なら、デジモンも生意気だことっ!」 【サンダーキック】 電気を纏った鋭い上段蹴りが宙に浮いたメタルグレイモンViの胸甲を撃ち抜く。 巨躯がモールの外へ叩き出され、遅れて凄まじい打撃音が響く。 メタルグレイモンViは隣接するコンサートホールを兼ねた別の商業施設に叩きつけられ、建物からは粉塵と悲鳴が重なって響き渡る。 「メタルグレイモン!」 シュウは思わず振り返り、デジヴァイス01に表示されるステータスを確認する。 「さてと。終わりにしてあげるわ」 その時、バイオロトスモンの二本の杖が交差すると怪しい虹の光が辺りに放たれた。 シュウとメタルグレイモンViの視界がにじみ、耳をつんざく瓦礫の音も、人々の悲鳴も、すべて遠ざかる。 同時に周囲の空気がぐにゃりと歪み、光と影が溶け合った。 ・03 気づけばそこは、白く冷たい病院の廊下だった。 蛍光灯の光が目に痛いほど眩しく、薬品の匂いが鼻を刺す。 目の前に座っていたのは、車椅子の少年…シュウのかつての親友・藤原遼輔だった。 「どうしてあの日、シュウくんは来てくれなかったの?」 「リョースケ─いや…俺は…!」 「君はいつも口先だけだよね…ホント、笑わせてもってるよ」 静かな声が、ナイフより鋭く胸を突いた。 狼狽えるシュウの背後から光が差し込んだ。 反射的に振り向くと、そこには赤黒い染みと同化した結城啓明…もう一人の親友が地面からシュウを睨んでいた。 「お前が生きてることなんて、誰もそんなもの望んじゃいない」 「あぁ…でも、まずはお前たちに謝りたいんだ…!」 シュウは叫びながらひれ伏し、タカアキの形をした赤黒い塊に触れる。 だが、シュウの言葉に対する反応もないまま闇は容赦なく押し寄せる。 幻覚の中に、様々な影が次々と現れる。 人間、デジモン、人間、デジモン…声も姿も混然と溶け合い、シュウを責め立てる。 「んっとね。私、シュウくんのことホントは嫌いなの」─そう責めるのは少女のような高い声。 「お前を見損なったよ」─耳に染み込む低く湿った男の囁き。 「アンタ綺麗事ばっかりだよ…!」─小さな少年が、泣きそうな声で言い放つ。 「私、貴方に期待することはやめたわ」─冷たい女の声が突き放す。 怒号、泣き声、嘲笑が入り交じり、耳を塞いでも頭蓋に直接染み込むように響いた。 そして─少し離れた所にいるユキアグモンもまた、虚ろな目でシュウを睨んだ。 「シュウだけは…オレのコト信じてくれると思ってたのに…」 「あぁ…あ゙っ…!」 否定する声は虚空に吸い込まれ、現実との境が崩れていく。 自分の足元すら確かめられず、ただ暗い泥に沈むように。 その時だった。 責め立てていた影たちが、何かに怯えるように一斉に後ずさる。 怨嗟の声は掻き消され、血に濡れた手も、呻きも、泥の重さも、潮が引くように失われていく。 視界の奥に立っていたのは─光を纏った存在。 白紫の髪を揺らし、優美なドレスをまとったプリンセスネオだった。 その姿は神聖な輝きに包まれ、現実感すら奪うほどの華やかさで、ただそこにいるだけで世界を塗り替えていく。 「かわいそうなお兄ちゃん…」 "彼"が一歩進むごとに、冷たい廊下の床は色とりどりの花畑へと姿を変えていく。 花弁が空気を舞い、病院の白さも血の赤も、すべては甘美な幻想に塗り替えられていった。 プリンセスネオは微笑み、慈母のように穏やかな声を落とす。 「でも─私はそんなどうしようもないお兄ちゃんの事も抱き締めて、ゆるしてあげる」 甘い響きは鎖のように絡みつき、体の奥にずしりと沈み込む。 "彼"はシュウの前に屈むと、ゆっくりと抱き締めた。 救われる感覚と、抗えぬ誘惑とが同時に押し寄せ、シュウの心を縛り上げていく。 その頃、現実世界─光に当てられ動かなくなったシュウの前でバイオロトスモンは静かに語りかけていた。 その声音は優しく、甘美で…しかし背筋を冷やすほどの冷酷さを含んでいる。 膝がふらりと揺れ、シュウは力なく地に膝をついた。 目の焦点は合わず、しかし唇だけがかすかに震えている。 「タカアキ…リョースケ…俺も…!」 幻を追うように、空へ伸ばした指先がを彷徨っては空気を切る。 シュウの言葉はうわごとのように途切れ途切れで、それでも胸の奥に刺さるほど真に迫っていた。 「いいのよお兄ちゃん。幸福な夢に包まれれば、痛みも恐怖も忘れられるのよ?」 その時、ゆらぎの瞳が大きく揺れた。 その言葉は、彼女自身がシュウに望んでいたものと同じだった。 ─戦いを捨て、夢の中に安住してほしい。 ─痛みも争いもない、やすらぎだけの場所で。 胸の奥が、きゅうっと締めつけられる。 甘いのに苦い─心を癒すはずなのに、同時に深く抉られる。 夢に安寧を求めた自分と、虚構の幸せに縋らせようとする彼女は、なんて似ているのだろう。 気付けば、足は勝手に走り出していた。 崩れかける広場の床を蹴り、ゆらぎは戦場へと駆け出していく。 「これではまるで…!私と…!」 ゆらぎは駆け寄ると力任せにシュウの肩を揺さぶるが、応えはない。 虚ろな瞳のまま、彼はかすれた声で幻へ語りかけている。 「目を覚ましてください……!」 「ミヨ…そんなに、俺は…」 バイオロトスモンは小さく嗤った。 「無駄よオバサン!お兄ちゃんは私の"セブンスファンタジア"に幽閉されてるの」 その声音には勝ち誇った余裕と、他者を見下す残酷さが滲んでいた。 「ユキアグモン様…いえ、メタルグレイモン様も戦っているのですよ…!」 必死に言葉を投げかけながら、ゆらぎはさらに揺さぶる。 幻に沈みかけた彼の心を、この現実へと引き戻そうとするかのように。 「貴方は私に逃げてはいられないと言いました!でも、私は臆病者です!だから…!」 バイオロトスモンは不機嫌そうに唇を歪めると、杖の先を地面にちょんと突き立てた。 轟音にも似た振動が床を伝い、モールの床面に亀裂が走り出す。 亀裂からは黒い根が広がり、ゆらぎに向かって迫ってきた。 「くっ…!」 だが衝撃も、地面から落下することもない…ゆらぎは思わず上げた腕をゆっくりと下ろし、目を開く。 そこには、スリープモンが丸く寝そべったままいびきをかいていた。 彼女の体は薄く発光し、迫り来る根と亀裂を塞き止めていた。 「スリープモン…あなた…」 ゆらぎの声は震え、驚きと安堵が混ざる。 「んご…」 スリープモンはがくんと小さく揺れ、まるで頷いたかのように見えた。 戦場にいながら、その相変わらずの姿にゆらぎは思わず笑ってしまう。 「そうでした…私たち、ずっと一緒でしたね。それなのに、一人で先走って…」 その時─懐に暖かいものが溢れる。 それはゆらぎのアプリドライヴ…いや、その中に収まったアプモンチップだった。 色がくすみ、いつのまにか使えなくなっていたソレが暖かな光とともに姿を取り戻す。 「すぴ」 スリープモンの寝息が小さく響くと、ゆらぎは胸の中で何かを決めるように息を吐いた。 顔は静かだが強い意思が宿っている。 「─戦います」 彼女の声は低く、震えながらも確かだった。 「私のエゴのためじゃない、大切な人たちが心から笑えるために」 崩れかけた広場の中心で行われた宣言と共に、アプリドライヴのボタンが押された。 再び光を宿したチップが読み込まれ、軽快な電子音とともにスリープモンの姿が吸い込まれていく。 内部ではチップから放たれたエネルギーが渦を巻き、眠たげな体と共に回転させながら収束。 次第に質量を増し、その小さな欠片がやがて臨界に達したように膨張する。 【極・アプリアライズ】 「…っ!」 バイオロトスモンが顔をしかめ、杖を振るう。 アプリドライヴから放たれた奔流の光が、一直線にバイオロトスモンへと迫っていた。 杖と光が激しくぶつかり、反動で広場全体が揺れる。 花火のような虹の輝きが四散し、弾き返された光は空中で炸裂した。 【ATTENTION PLEASE!!!】 ・04 【カリスモン:極アプモン】 アプリドライヴからやかましい音声が響き、眩しさが消えた後─太陽を背に巨大な影が立っていた。 灰色を基調とした巨大な輪郭は冷たい気配を放ちながらも、そのマントが堂々とした存在感を揺るぎないものとさせる。 それは夢と眠りを超え、虚構をも呑み込むような、新たなアプモンの姿だった。 「…カリスモン、時間がありません。お願いします」 「君が望むなら」 カリスモンが手を振ると、あたりを漂っていた淀んだ空気がスルスルと剥がれ落ちていった。 その時、シュウの瞳に光が戻りハッとしながら地面に手を突いた。 「ぐ…ゆらぎさん…」 「シュウ様…よかった…」 ゆらぎに支えられながらなんとか立ち上がるシュウを見たバイオロトスモンは、驚愕の表情を見せる。 「何事なの、これは…っ!」 「君の能力は精神操作(ハルシネーション)…そして、私の能力も精神操作(カリスマ)─つまり、相殺したのだ」 バイオロトスモンがグッと歯を噛む…予想外の状況に、その面持ちは動揺を隠せない。 カリスモンは体を撫でるように両腕を広げると、装甲の節々から小さな"目"の形をしたビットを次々と生成した。 それらは空中を滑り、素早くバイオロトスモンの足元を取り囲む。 それらは一斉に上空へ向けて射撃を放ち、いくつもの眩い閃光が空を引き裂くように弾ける。 カリスモンとバイオロトスモンが火花と光の渦で互いにぶつかりだす中、シュウはふらつきながらも笑いを漏らす。 「ずっと聞こえてた…ゆらぎさんの言葉は」 「え…あっ…」 「君のよくわからない催眠を何回も受けてたからかな…はは」 ゆらぎは今さら照れくさくなると、目を逸らし、少し俯いた。 「俺は…痛くもない、怖くもない。メタルグレイモンやゆらぎさんたちがいるからな」 シュウはゴーグルのゴム紐を掴むと、勢いよく伸ばして自分の顔にバチンと当てる。 気合いを入れながらゴーグルを装着した彼は、デジヴァイス01から指令を飛ばす。 建物の角に寄りかかってよだれを垂らし、深い眠りに落ちていたメタルグレイモンViはハッと目を覚ます。 「んごごこ…あっ、あれ!?中華まん食べ放題祭りは!?」 指令がロードされると、鋼の奥にある瞳を光らせ再び戦闘態勢に戻る。 「メタルグレイモン!迷惑かけた分を取り戻すぜ!」 「うおおおっ!合点承知だゼぇぇっ!」 飛び立つメタルグレイモンViを見送りながら、ゆらぎは苦笑いを漏らした。 「…どうやらあの方も幸せな夢に閉じ込められていたみたいですね」 「アイツはずっとアイツなんだ。ちょっと羨ましいかもな」 二人の間に短い静寂が落ちる─瓦礫と煙の向こうで、カリスモンとバイオロトスモンが繰り出す光の乱舞が続いている。 「─いこう、ゆらぎさん!」 弾けるシュウの声に、ゆらぎは深く息を吸って頷いた。 二人は並んで崩れかけた広場から抜け出し、パートナーの元へ駆け出した。 上空ではカリスモンの無数のビットが散開し、赤い閃光がバイオロトスモンを翻弄する。 視界を裂くその隙間に、メタルグレイモンViの火炎が割り込んだ。 「うざい…うざいうざいうざいっ!」 【ルーンフォレスト3】 魔方陣から緑の拡散する光線が奔り、カリスモンとメタルグレイモンViを同時に撃ち抜かんとする。 だがカリスモンは冷笑し、ビットを集束させて円陣を描く。 円陣となったビットからバリアが展開され、迫る閃光を押し返した。 一方、残りのビットがバイオロトスモンの背後に回ると、繰り出された射撃がバイオロトスモンの背中を焼いた。 シュウは指を鳴らし、確信した声で叫ぶ。 「あの子は力を操りきれていない…純粋な戦闘の数なら、こちらが上だ!」 シュウは入力パネルに指を叩きつけるように走らせ、次々と指令を送信した。 赤外線の閃光が飛び、カリスモンとメタルグレイモンViの瞳が同時に鋭く光る。 二対の巨体は一瞬で呼吸を合わせ、風を蹴った。 カリスモンはさらにビットを増殖すると走らせ、全方位から一斉掃射を仕掛ける。 「そんな技がああああッ!」 幾十もの閃光が雨のように降り注ぐ。 しかし─バイオロトスモンは異様なまでの身体のしなりで、すべてを寸前で回避した。 その瞬間…全員の視界が伸び、時間が引き延ばされる。 「なんてこと…!」 「アッハハハ!パパ、見て…!私、やれるわ!」 恍惚とした笑みが"彼"の顔に浮かぶ。 アプリドライヴに刻まれた残り時間は、すでに一桁を示していた。 「カリスモン!時間がありませんっ!」 「メタルグレイモン─今だ!」 カリスモンとゆらぎの咆哮が重なる。 すでに足元には、巨大なビットバリアが円形の舞台のように展開していた。 「あとは、ブッ飛ばして終わりだあああっ!」 【インフィニティバーン】 メタルグレイモンViが両腕を大きく広げる。 灼熱の力が限界まで蓄えられ、一瞬の間を裂いて解き放たれた。 バリアを発射台に天まで突き破るような火柱が噴き上がり、バイオロトスモンを丸ごと包み込んだ。 「あ゙あ゙あ゙あ゙───ッ!!」 やがてバイオロトスモンの凄まじい絶叫と炎が収まると、カリスモンの身体が淡い光と共に弾けてスリープモンの姿へと戻っていく。 彼女はすやすやと寝息を立てたまま重力にされるがまま、空を落下していった。 「おわっーーとっと!」 慌ててメタルグレイモンViがその小さな身体を掬い取り、胸に抱える。 だがその足取りはふらつき、屋上に膝をつくと荒い呼吸が喉を震わせた。 一方─モールの屋上に叩きつけられたはずのバイオロトスモンが、瓦礫を蹴散らして立ち上がる。 体は焦げてフラつきながらも進化は解けず、その全身にはなおも気迫を宿していた。 「あの子、まだ戦えるのか…!?」 シュウは血の気を失いながらも歯を噛み締め、周囲を見渡す。 (既に最大の一手は打った…逃げ道を探せ…!) 自分はどうでもいいが、仲間だけは絶対に失えない。 眉間を親指で抑え、思考を巡らせながら目を動かす。 「ぐ…うっ…アハッ…ハハハッ!残念…私の勝ちよ…!」 瓦礫の上で笑い声を響かせるバイオロトスモン。 メタルグレイモンViは震える足を叩いて立ち上がり、雄叫びを上げて飛びかかった。 【ブラステッドディザスター】 その瞬間─デジヴァイス01から甲高い警告音が響き渡る。 刹那、漆黒の弾丸がどこからともなく飛来してメタルグレイモンViの脇腹を撃ち抜いた。 「ぐああああッ!」 巨体が痙攣し、紫炎の力が一気に崩れていく。 光の破片となって縮んだ彼は幼年期のヒヤリモンへと退化し、床に転がり落ちた。 爆煙が吹き荒れる屋上に、重たい足音が響いた。 瓦礫の影から朽ちかけた甲殻をまとった巨躯が姿を現す。 【エントモン:完全体】 その異形を見た瞬間シュウは思わず息を呑み、ヒヤリモンを胸に抱きしめて後ずさる。 だが、バイオロトスモンの顔には露骨に不快な色が浮かんだ。 「…チッ。嫌なのが出てきたわね」 "彼"の姿が揺らぎ、次の瞬間にはプリンセスネオの姿へと戻っていた。 乱れた息を整えるように、懐から取り出した小さな手鏡で自らの顔を確かめる。 ほんのわずか、唇の震えが収まる。 「はぁ…萎えちゃった。今回は見逃してあげるわ」 退屈そうに言い捨てるその声音には、かすかな焦燥が滲んでいた。 「貴方には辛いものを感じます…どうか、それを話していただけませんか」 ゆらぎが一歩踏み出し、祈るように呼びかける。 プリンセスネオは一瞬だけシュウを見ると眉を潜め、軋むように歯を噛んだ。 「オバサンにはわからないわよッ!」 直後、ごうっと紫煙が一帯を呑み込む。 毒のような匂いを残して煙が晴れたとき─プリンセスネオの姿も、"彼"を庇うように立っていたエントモンの影も跡形もなく消えていた。 ・05 マンションの一室に戻ると、外の窓からはサイレンが途切れなく響いていた。 警察や消防の赤い光が夜気を切り裂き、さっきまでの騒乱をまだ引きずっている。 「また進化できなくなっちゃいました─この子、久しぶりに頑張りすぎて疲れちゃったみたいです」 ゆらぎは腕の中で寝息を立てるスリープモンの頭を優しく撫で、机の上のチップを見た。 その微笑みは、嵐を越えた後のささやかな光のように見えた。 一方、ヒヤリモンはちゃっかりとコンビニ袋を抱え、熱々の中華まんをぱくぱくと頬張っている。 「んぐっ…んまっ!」 口いっぱいに詰め込みながら、幸せそうな声をあげた。 「…騒ぎに巻き込んですまなかった」 シュウは小さく俯き、申し訳なさそうに言葉を落とす。 「自分を責めないでください。私が巻き込まれに行ったんですから」 ゆらぎは穏やかに返したが、シュウは拳を握りしめるだけだった。 「それより、妹様が心配です」 あれからシュウによって語られた経緯を思い返し、ゆらぎの声はかすかに震える。 膝の上のスリープモンへ視線を落としながらも、彼女はシュウの言葉を待っていた。 「…ミヨの目は、正気じゃなかった。きっと誰かに…何かに操られているんだ」 低く震えた声が、赤光に揺れる部屋の空気をさらに重くした。 脳裏に焼き付いたのは、妹の顔だった。 懐かしい笑顔のはずなのにどこか別人のように貼り付いていて、見るだけで胸の奥を冷たく締めつけてくる。 「あの子のことも気になります…なんだか、自己否定のようなものを感じました」 「…戦い続ければ答えに近づくと思うんだ」 シュウは窓の闇に沈む街を見つめながら言った。 ミヨの隣にいたブラックセラフィモン…ヤツなら何かを知っているはずだ、と。 「私も貴方の…いえ、貴方たちのお手伝いをさせてください」 次の瞬間、彼女はためらいもなく服を掴み思い切り引っ張りあげた。 バサッという布の音とともに、姿を現したのは見慣れた修道服のゆらぎだった。 それはまるで光に包まれるような、瞬間的な変化だった。 「……え?」 唐突な光景にシュウは言葉を失う。 「まずはこのマンションに住んでいる方全員にユキアグモン様がいかにこの世の救世主であるかをお伝えしなければなりませんっ!!」 勢いよく宣言するゆらぎ。 そのまずい真剣さに、外のサイレンよりも強烈な音が頭の奥で鳴り響いた。 「聞いてくださいシュウ様。ユキアグモン様─救世主様は、ただの生き物などではありません。救世主様の御体を構成するのは、我ら人類が知るいかなる細胞でも、いかなる遺伝子でもないのです。生物学の教科書が一行たりとも記せぬもの…それは物質でも情報でもあり、同時に霊でもある…救世主様とは神聖なる構造体なのです。その御身は零と一の狭間に宿り、熱量力学世界の第二法則すら覆してエネルギーを紡ぎ出しています。これこそ世界の全ては救世主様の神意によって定められた必然であると証明する照査!だからこそ我らは救世主様を信じねばなりません。救世主様の存在は、生命科学の限界を示し、同時に未来を約束する証拠そのもの。目に映る雪のような白き鱗は、穢れなき象徴。吐き出される光雪は、罪を浄める審判。その小さき体に宿る光こそが、我らを救済へと導く唯一の灯火なのです!」 「うーん。ごめん、なんも聞いてなかった」 シュウがぼそりと返すより早く、ゆらぎは瞳を輝かせて深々と頭を下げる。 「ありがとうございますシュウ様!ではまず隣の部屋の加藤様から参ります!!皆様、今回の騒ぎが救世主様のお力によって収まったと知れば信仰心が一気に満ち溢れ、歓喜の涙に打ち震えることでしょう!お礼にはおよびません!私はただ、シュウ様が前に進むためにお仕えしているだけなのです!」 安眠妨害に顔をしかめるスリープモンを脇に抱え、早足で部屋を飛び出そうとする彼女の背をシュウは慌ててつかみ引き戻す。 「遠慮はいりません!恥ずかしがらずに!」 「待て待て待てっ!くそ、なんでこんな時だけ力強いんだよお前は!」 扉のノブを奪い合うような格好で、夜の喧騒を背に二人の奇妙な攻防が始まった。 おわり .