月明かり 「はぁ?アンチ?んなもん無視だ無視。そんなんに構ってたら時間がもったいない」 「自分に非がないというなら断固として戦うべきだと思います……ですが、スタッフの皆さんに絶対にやめろと止められました」 「ほんまに辛くなったら誰かに頼ってもええし、逃げてもええんよ。逃げるが勝ちや」 「みんなが少しづつ優しくなるだけで世界は平和になるのにね。今年の七夕の短冊はLove&Peaceって書こうかな」 「たった一人でもファンがいるなら、たとえ100人に石を投げられてもその人に向けて歌うべきだわ。当然でしょう」  ふと気になって、いつもよりも深いところまで入り込んでしまったエゴサーチ。いかがわしい広告がいくつもぎらぎらと点滅する匿名掲示板で目にしたきつい言葉の数々が、ずっと心に刺さっていた。  アイドルには、芸能活動にはつきものなのだから気にするだけ無駄とはわかっていても、怖いもの見たさなのかなぜかページをめくる手が止まらなかった。  手が震えていたのがよくなかったんだろう。表示されていた広告のうちのひとつに指先が当たり、新しいタブが立ち上がる。読み込みが終わる前に慌ててブラウザアプリを終了させ、履歴を消去してウイルススキャンもかけてみて問題はなさそうだったので、その時はもう見るのをやめた。安堵のため息がいやに大きかった。  同期には話しづらかったから、直接の先輩たちにそれとなく相談した結果は前述の通りだった。十人十色、さまざまな意見をくださって、逆にどれを参考にしていいものやらと、むしろ贅沢な悩みが増えてしまったかもしれない。  みうさんはといえば、まるで自分のことのように痛そうで、つらそうな表情を浮かべて何も言わずにただずっと手を握っていてくれたのを覚えている。  もう大丈夫だって言っているのに、なかなか離してもらえなかった。 ◆ 「ごめんなさい、私も辞めようと思います」  約一ヶ月の自宅療養を経て久し振りに事務所に顔を出した日。泣き喚きそうになるのをどうにか堪えて、笑顔の仮面を被りながら私はそう打ち明けた。  言い出す前は今にも胃の中のものを吐き戻してしまいそうだったというのに、言ってしまったあとはまるで憑き物が落ちたみたいに肩が軽くなった。何よりも大切に背負い込んでいた重たいものも、手放してしまえばこんなにも心が軽い。  それは俗に空虚とでもいうのだろうけど、押し潰されそうだった胸の苦しさからようやく解放されて、視界はぼんやりとおぼろげなのにぐちゃぐちゃと煩雑だった思考は今となっては驚くほどクリアだ。 「どうして」  誰かが何かを言っている。 「あなたは誰よりも真摯にアイドルと向き合っていたのに」  そんなの、ここにいる誰だって同じはずです。理由になんてならない。強いて言うなら、向き合い過ぎて疲れちゃったのかも。 「あなたは誰よりも楽しそうにアイドルをしていたのに」  苦しいが楽しいを上回ってしまっただけです。遅かれ早かれ、いつかはこんな時が来るかもしれないと自分でも思ってました。 「なにもこんな時に辞めなくても」  こんな時だからです。尊敬する先輩のご卒業に水を差してしまった。もうあと一ヶ月もないっていうのに、私はきっとみうさんを送るステージに立てない。立てる気がしない。 「アイドルが大好きだって、言っていたじゃない」  アイドルが大好きだから、辞めるんです。これ以上アイドルを嫌いにならないために。  だってこんなに膝が震えてるんです。声が掠れて歌えないんです。踊れもしなければ歌えもしないなら、それはもうきっとアイドルなんかじゃない。 「それは同期の最後の舞台に立ち会えなかった私への当てつけかしら」  俯いて下唇を噛む。自分かわいさに、先輩に向けて無神経なことを口走ってしまった。けれど、放たれた言葉はもう喉の奥へは戻りはしない。 「そんなつもりで言ったわけじゃないです。けど、私はニコルさんみたいに強くはないから」 「……そう。後悔はないのね」  後悔なんてそれこそ数え切れないほどした。それを経てなお、ステージに上がった私を射抜く視線を想像するだけで、怖くて怖くてたまらない。お客様たちの笑顔が何よりの原動力だったはずなのに、その向こう側を垣間見てしまったら、きっともう、私はアイドルではいられない。 「氷室さん、振付師の先生のところに行きましょう。ダンスの構成を変えてもらわないと」 「ニコルさん!」  小さく頷いた私を確認すると、ニコルさんはみず姫ちゃんの手を引いて踵を返していた。そうだ。変えるなら早いほうがいい。夏のライブまでもうあと一週間なのだから、ユニットメンバーである二人ならなおのことそうだ。むしろ、打ち明けるのが遅すぎたくらいだった。  普段は特別気にしてなんかいなかったのに、閉まるドアが軋む音が殊更に大きく聞こえた気がした。  床は微動だにしなかったし、地下からはなにも聞こえてこなかった。  いっそクビを宣告された方が楽だったのに、あの薄気味の悪いぼろぼろの壁は、きっと私のことなんて気にもかけていなかったのだろう。 ◆ 「麗華サマ!?いらしてたんですかぁ!?」 「うん、見てたよ」  とあるライブの閉幕後、控え室に姿を現した女性の顔を見るや否や、自分でもびっくりするくらいの音量の声が喉から飛び出した。思わず傍らの椅子に座っていたニコルさんの後ろに隠れてしまう。 「貴方ね、もうそろそろ慣れたらどうなの」 「お、畏れ多いですぅ……」  呆れ返る先輩の背中越しに見た佐藤麗華サマは、少し困ったような照れ笑いを浮かべながら頬を掻いていた。 おそらく一目惚れというやつなのだろう。ステイホームのご時世の中、ぼんやりとスクロールしていたタイムラインで目についたひとつのツイート。今まさに目の前にいる彼女が、22/7として最後に舞台の上に立った日のレポート記事だった。  なんとなくタップした先に表示された記事を読み進めていくうちに、いつの間にかそのうちの一人に目を奪われていた。  お名前を検索ボックスに打ち込んでプロフィールやインタビュー記事を読み漁った。ウィキペディアで得られる情報はそれほど多くなかったので、動画サイトのグループ公式アカウントにアップロードされていたものだけでは飽き足らず、グレーゾーンとされる切り抜き動画なんかも時が経つのも忘れて見続けた。そうしてひと通りの情報をこれでもかと吸収し終わった時、私は自然と涙を流していた。  もともとアイドル文化は好きだったというのに、私はついぞ彼女のことを見つけられなかった。特定のグループに入れ込むことはなくともよく参加していたフェスなどでグループ名を見かけることはあれど、趣味ではないなと気にも留めていなかったからだ。だから彼女がグループに在籍していた間に、舞台上の彼女を目に焼き付けることは叶わなかった。  推しは推せる時に推せとはよく言うけれど、見つけた時にはもう遅かった場合はどうすればいいのだろう。そんなもやもやとした気持ちを抱えたまま初めて参加した初夏のワンマンライブ。閉幕後の私はツイッターでたまに見かける号泣おじさんの画像よろしく、それはもうぐちゃぐちゃに泣いていた。  ライブが素晴らしかったのももちろんあっただろうし、間に合わなかったのが悔しかったのもあったかもしれない。前後不覚に陥ってわけがわからなくなるほど、そのパフォーマンスに、歌声に、心を揺り動かされたのだ。その年の暮れにあの黒い封筒が届くまで、まるでジェットコースターに乗っているかのようだった。  ニコルさんの背後で縮こまりながらふと、いつも少しだけ得意げに麗華サマのことを話してくれるみうさんの姿がどこにも見えないことに気づく。 「あれ、みうさん……」 「滝川さんはいいのよ」  周囲を見回そうとしたところで、ニコルさんが少し強めの口調でそう言った。後ろからだったから表情はよく見えなかったけれど、なんだか複雑そうだったので思わず口ごもる。  麗華サマは終始変わらず困り笑いを浮かべていた。 ◆  みうさんの卒業コンサートのビジュアル撮影の日、どういうことか私はスタジオに呼び出された。  歩みを進める足がとんでもなく重くて、おずおずと指定されたスタジオのドアを開いた瞬間、メンバーたちからものすごい剣幕で「遅刻!」と咎められてしまい、頭を抱えてその場にうずくまる。 「ひえぇ……ごめんなさいごめんなさい!」 「15分遅刻よ。まったく、アイドルとしての自覚が足りてないんじゃないの」 「ニコルさん、アイドルじゃなくても遅刻はふつう怒られるもんです」 「言葉のアヤよ」  しゃがみ込んで見上げると、黒を基調としたシャープなシルエットにメンバーカラーの深い青の差し色がされたドレスに身を包んだニコルさんに、普段のプリンス感は控えめにして腿丈のスカートと燃えるように赤い袖のフレアが印象的なみず姫ちゃんが突っ込みを入れていた。  今回の衣装は髪の先から足の先まで、すべてみうさんが選んだものなのだという。なるほど、卒業後はぼんやりとデザイナーの道に進みたいと話していただけのことはあって、何様だと言われるかもしれないけれどとてもセンスが良くて素敵だった。 「ほらほら!もう撮影始まってるんだから早く着替えて着替えて!」  純佳ちゃんが手をぱんぱんと鳴らして急かす。私の両腕は塔子と穂乃花ちゃんに両側から掴まれて、まるで大昔の宇宙人を捕獲したMI6だかFBIだかのフェイク写真が想起される。奥のスタジオでポーズをとるそらちゃんと、それを見守る桜さんの姿がちらりと見えた。 「で、でも、私は」  ステージには立たない。立つことができない。それならば、アイドルの戦闘服たる衣装は必要ないはずだ。だというのに、連行されていったフィッティングルームの向こう側では、みうさんが待ちくたびれたと言わんばかりに穏やかな笑顔を浮かべていた。 「蛍ちゃん」  呼びかけられたけれど、思わず俯いてしまう。みうさんの手には胸元に花のような飾りのついたジャケットスーツが握られていた。 「着付けるね」 「でも」 「私の最後のお願いだと思って」  そんなの、卑怯だ。そんなことを言われてしまったら、私はもうなにも言えなくなってしまう。普段は引っ込み思案だけれど、みうさんは時々こうやって頑固になる。こうなってしまってはもう梃子でも動きはしないだろうから、観念して私は身を委ねた。 「息吐いて」  パープルのスラックスを履いて矯正下着を身に着け、言われた通りに肺の中の空気を吐ききる。 「はいっ」 「ぐえっ」  肋骨が萎みきったところでみうさんが背中側のファスナーを一気に引き上げた。圧迫感と息苦しさに思わず声が漏れる。ジャケットの両肩部分を摘んだみうさんに促されるままに袖を通し、ボタンをかけた。  細部を調整して、何歩か後ろに下がって全体像を捉え、上から下までじっくりと吟味する。自分では絶対に選ばないであろう系統の衣装だったので、なんだか見られているのがむず痒くて、視線が泳いだ。 「うん、いい感じ。蛍ちゃんは背が高くて足が長いから、こういうの絶対似合うと思ってた」  しばらくののち、満足のいく仕上がりになったのか、みうさんはぱっと笑顔の花を咲かせる。 「……胸が苦しいです」 「ナベシャツきついかな。撮影の間だけ我慢して」 「そうじゃなくて」  どうしてここまでしてくれるんですか。私はあなたの期待を裏切った。あなたの最後の花道に泥を塗った。あなたが最も尊いとしていた私たちという日常にひびを入れてしまった。だというのに、怖気づいてステージから逃げ出してしまった私なんかのために、こんな。 「今度こそ、何かしてあげたかったから」  顔をあげた先にあったみうさんの瞳が、寂しげに揺れる。  経緯も詳細も知らない。知っているのはただそこに後悔があったということだけ。きっともう時効だろうに、会えば今はもう笑顔で語らえているだろうに、彼女はずっと長い間、後悔に苛まれていたのだろうか。 「あなたの悲しみを半分、連れて行かせて。最後くらい、師匠っぽいことをしてもいいでしょう」  背中に手が回された。これから撮影だというのに、そんなことをされてしまったら目元が腫れてしまう。  けれど、メイクはまだだったからいいかと、ただ泣いた。 ◆ 「はぁ?アンチ?んなもん無視だ無視」  そんなことできませんでした。私はあなたほど柔軟ではなかったから。 「自分に非がないというなら断固として戦うべきだと思います」  立ち向かう勇気がありませんでした。私はあなたほど勇ましくはなかったから。 「ほんまに辛くなったら誰かに頼ってもええし、逃げてもええんよ」  気付いたときにはもう手遅れでした。私はあなたほど軽やかではなかったから。 「みんなが少しづつ優しくなるだけで世界は平和になるのにね」  私もそう思います。けれど、世界はあなたほど優しくはなかったみたいでした。 「たった一人でもファンがいるなら、たとえ100人に石を投げられてもその人に向けて歌うべきだわ」  それができれば、悩む必要なんてなかったのに。私はあなたほど強くはなかったから。  会場内の奥の奥の一室で、本来ならば画面の向こうで着るはずだった衣装を身に纏って、モニター越しにステージを見ていた。受け取った言葉がぐるぐると頭の中を巡る、後悔の夜。 「貴方に向き合おうともしない人たちの言葉に貴方が傷つくことなんてない」  傍らに座って同じ画面を見つめていた彼女が口を開いた。 「どうせすぐに忘れられるわよ。けどね、貴方のファンは一生忘れない。貴方があそこに確かに存在してたってずっと憶えてる」  あぁ、そうだった。そんなこと、最初からずっと知っていた。後追いで貴方のことを知った私自身が、何よりの証明だ。 「貴方を愛している人の言葉にだけ耳を傾けなさい。アイドルって案外、自分勝手に振る舞っていいものよ」 「次の機会には、参考にします」  くすりと笑みがこぼれた。心から笑ったのなんていつ以来になるだろうか。  照明が暗転してメンバーが袖に捌け、幕間映像が流れ始めると、にわかに舞台裏が騒がしくなった。きっと衣装替えでてんやわんやなのだろう。 「一之瀬さん!貴方も着替え!」  不意に、勢いよくドアが開き、息を切らせて髪を汗で頬に張り付けたニコルさんが部屋に飛び込んできて、私は大げさなくらい肩をびくつかせた。 「……って、さ──」  私以外の、ここにいるはずがない人物の姿をみとめて、ニコルさんは思わず叫び出しそうになった口をすんでのところで両手で覆い、ドアの向こう側を確認してからそれをそっと閉める。 「あちゃあ、見つかっちゃった。ここなら大丈夫だって合田さん言ってたのに」 「ちょっと!仕事で来れないって言ってたじゃない!」  悪びれもせずに頭を掻く麗華サマに、ニコルさんは小声で詰め寄った。私も彼女がここに現れた時はとんでもなく驚いたものだけれど、既に話は通っているものと思い込んでいたので、何の話をしているのかわけがわからない。  麗華サマはこめかみに人差し指を当てて数秒考えた後、私たちの肩を引き寄せて神妙な面持ちで額を突き合わせた。それこそ、目と鼻の先に憧れの人の顔があって、全身が総毛立つ。 「……二人とも、私は大事な用事があって会場には行けないの。いい?私はここにはいない。わかった?」 「……あぁもう、全然まったくこれっぽっちもわからないけど大体わかったわ」  ニコルさんの了承の言葉に、私もただこくこくと頷いた。よくわかってはいないけれど、もうこの場面はそうするしかないだろう。 「一之瀬さん借りていくから。あと2回衣装替えあるから見つからないようにしなさいよ」  吐き捨てるようにして踵を返したニコルさんに手を引かれて、部屋を出た。細い通路の向こうからは、まるで戦争みたいな怒号が聞こえてくる。 「ニコルさん」 「貴方はまだメンバーなんだから、グループの意向には従ってもらわないと」 「あ!蛍っち!塔子のポニテ歪んでない!?」  いち早く私の姿をとらえた塔子が結わえた髪の根元を指さしてくるりと背中を見せる。はじまりの制服のスカートがふわりと広がった。  ごくりと喉を鳴らす。息を吸い込んだ。 「大丈夫!まっすぐ!世界一かわいい!」 「ありがと!蛍っちも世界一ビジュいい!」  笑顔を見せ合って、拳と拳を突き合わせる。誰かから手渡された衣装を頭から被った。こんなにも騒がしくして、会場に音が漏れていたりしないのだろうか。ナナニジ七不思議のひとつだ。 「明けが僕存でその次なんだっけ!?」 「僕存嫌われムズイとんぼ空エメ!!」 「私のお水どこ〜!?」 「こっちこっち!あ、瀬良!靴下替えてないよ!」 「あと1分!みんないける!?」  問いかけに大きく返事をして、私の愛する人たちの背中に手を振った。 ◆  通路の照明を落としてそっと扉に手をかける。薄暗闇の中、付き添って足元を照らしてくれていた合田さんの頷きを合図に、そっと重い扉を引いて身体を滑り込ませた。  まるで雨上がりの空の色を思わせるドレス。静まり返った会場に響くピアノの旋律。すすり泣きと嗚咽。鳴りやまない拍手。震える手と、最後の手紙。そして、果たされた誓いと、夢にまで見た再会。 「合田さん、あの話ってまだ生きてますか」 「契約手続きの都合上、先方へのお返事は保留になっています」 「受けます。受けさせてください」 「……承知しました」  焦がれるほどの凛々しさと、私の夜を照らしてくれるたくさんの愛を胸に、どうか最後の舞台まで、私は私のままで。 了