その日のエルモ号は、いつになく穏やかな朝を迎えていた。カリーナから送られた書類の山に埋もれていた指揮官は、車窓から差し込む柔らかな光を浴びながら、背伸びをした。 「ふぅ……終わらないぞ…この書類の山」 ここ数週間、イエローエリア郊外で発生した正体不明のバイオテロ事件の調査に追われていた。犯人の特定もできず、ウイルスそのものの正体も掴めない。ただ一つ分かっているのは、このウイルスが「特定の遺伝子情報を持つ人間を標的としている」ということだけだった。 「こんな物騒なものを、一体誰が……」 そう呟きながら、デスクに置かれたコーヒーカップに手を伸ばしたその瞬間、強烈な吐き気に襲われた。全身の血液が沸騰したかのように熱くなり、視界がぐるぐると歪む。テーブルの角に手をかけてなんとか倒れるのを堪え、手鏡を覗き込むと、そこに映っていたのは見慣れた疲労困憊の自分の顔ではなかった。 鏡の中にいたのは、幼少期と瓜二つの、少し幼くて血色の良い顔。そして、何よりもその表情には、グリフィンの指揮官や賞金ハンターとして活動する中で失われた、無邪気な輝きが宿っていた。 「は……? 俺、誰だこれ……?」 驚きで声も出ない。まさか、自分がその「特定の遺伝子情報を持つ人間」だったとは。おそらく、このバイオテロの犯人は、指揮官の個人的な恨みを持つ何者かで、指揮官だけを対象に若返らせるウイルスを開発したらしい。 指揮官の若返りは瞬く間にグリフィン人形ネットワーク中に広まった。その知らせを聞きつけた人形たちは、まるで獲物を見つけたかのようにエルモ号へと集まり始めた。 最初に現れたのは、ニキータだった。彼女はいつも通りの無表情で、しかしその瞳の奥には今まで見たことのない強い光を宿していた。 「ボス、貴方の身体に何かあってはいけません。今日から一緒に暮らし護衛します」 ニキータは手に持った大きなキャリーケースから、指揮官の体にぴったり合いそうなサイズの服を取り出し、まるで何かの儀式のように指揮官に差し出した。 「いや、ちょっと待て! ニキータ、落ち着いて話そうか……」 指揮官が制止する間もなく、ニキータは指揮官の手を握り、そのまま休憩室へ向かおうとする。 「ねえ、指揮官……」 そこに、クルカイが静かに現れた。彼女は冷静沈着な表情を崩さず、まるで指揮官が誘拐犯にでも捕まったかのように、静かにニキータへと歩み寄った。 「ニキータ、指揮官は私が保護するわ。指揮官、こちらへ」 クルカイのその言葉に、指揮官は一瞬安堵した。しかし、クルカイの次の言葉にその安堵は一瞬でかき消された。 「指揮官、あなたは……404第一小隊で保護するべきです。清廉潔白に、大切に……」 その言葉の裏に隠された、まるで指揮官を所有物のように扱う欲望に、指揮官は背筋が凍りついた。 「クルカイ、お前まで何考えてんだ!?」 指揮官が混乱するのをよそに、ニキータとクルカイの間に、張り詰めた空気が流れる。 「……指揮官、かわいい」 ニキータが呟く。 「……指揮官、尊い」 クルカイが返す。 そして、二人は同時に銃を構え、指揮官を奪い合う抗争が勃発した。 エルモ号の騒ぎは、整備室にも伝わっていた。たまたま任務で寄ったモシン・ナガン、耳元で響く派手な銃声に、ため息をついた。 「あら〜…思った以上に酷いことになってるじゃない」 呆れ顔で現れたモシン・ナガンの姿に、指揮官は心の底から安堵した。 「モシン! 助けてくれ!」 指揮官の悲痛な叫びを聞き、モシン・ナガンは一瞬で状況を把握した。ニキータとクルカイが、若返った指揮官を奪い合っている。その光景は、モシン・ナガンの胸に複雑な感情を呼び起こした。 「いくら窮地の仲でも、これは見過ごせないわね」 ネメシスは静かに銃を構え、一発の警告弾を空に向けて放つ。 「二人とも?ムショに入れられたくなかったら、落ち着きましょ?」 その声には、有無を言わせぬ威圧感があり、ニキータとクルカイは渋々ながら武器を下ろした。 「モシン……ありがとう……」 指揮官はモシン・ナガンの背中に隠れ、震える声で感謝を述べた。しかし、その安堵もつかの間だった。モシン・ナガンは指揮官をちらりと見ると、ふっと表情を緩めた。その微笑みは、今まで指揮官がモシン・ナガンから見たどの表情よりも、美しく、そして恐ろしいものだった。 「……大丈夫、指揮官よ」 ネメシスは指揮官の手を優しく、しかし確かな力で掴むと、そのままモシン・ナガンの自室の奥へと連れて行く。 「若い頃の指揮官って可愛いわね……ホント、独占しちゃくなっちゃうわ」 モシン・ナガンの言葉に、指揮官はぞっとした。なぜなら、その声には、まるで長年探し求めていた獲物をついに手に入れた、捕食者のような喜びが滲み出ていたからだ。 ドアが閉まる直前、指揮官はニキータとクルカイの絶望に満ちた表情を見た。それは、指揮官の未来を暗示するようだった。 そして、夜が明ける頃には、指揮官はもう若返りなんてどうでもよくなっていた。なぜなら、若返ったことよりも、もっと大切な、取り返しのつかないものをモシン・ナガンに奪われてしまったのだから。 その後、指揮官が元の姿に戻るまで時間がかかることになった。バイオテロの犯人は特定され処罰されたが、若返りのウイルスは解毒剤はペルシカ曰く、作るのに数日はかかる。 指揮官は若返った姿のままで、仕事を続けている。しかし、彼の行動は以前よりもどこか大人しく、人形たちへの指揮も、どこか自信がないように見える。 その理由は、毎日理由を付けて、様々な人形が順番にやってくるからだ。 メラニーは「若い頃の指揮官を見たかったの、私と背丈同じ?」と微笑み、ペリーは「指揮官、今日も手伝ってもらいますからね!もちろん、夜も……」と囁く。 そして、その日の人形が来るたびに、指揮官はかつてモシン・ナガンに味わされた、甘く、そして恐ろしい夜を思い出すのだった。 指揮官の若返りは、新たな争いの火種となった。しかし、その争いに勝利する関係者は、皆、同じ結末を指揮官に強いることを知っていた。 指揮官は、今日も隠れるように書類の山に埋もれている。ただ、その顔は以前のように疲労困憊ではなく、どこか怯えているようにも見えた。 そして、誰かがドアをノックするたびに、指揮官は小さく震えるのだった。 早く解毒薬が来る日を、心待ちしながら。