二人で幸せを誓ってから、どれだけの時が経ったろう。 あの狂奔のような三年で、俺の全てが変わり、全てを手に入れた。 そうしていつか世界から音がなくなり、光も、匂いも無くなった。 ふたりだけを残して、他には誰もいない。 それでもいい。もう何も見えなくなったこの目が、いつでも見せてくれる。 あの美しい姿が、狂おしい走りが、瞳を捉えて離さない。 これ以上、何を望むというのだろう? これ以上、何を―― ささくれた畳と、年季の入った布団の臭いで目が覚めた。 トレーナーさん。 浴衣姿の少女が、すぐ傍で足を崩して寄り添っていた。 俺が最も愛する名前を呼ぶ。 はい、ここにおりますよ。細く、柔らかい手が頬を撫でるのがわかった。 お手洗いに行かれますか?それとも―― 返事はせず、ただ少女を抱き寄せた。外れかけた肩が悲鳴を上げ、腹筋が痙攣することも構わなかった。 柔らかな腹部に鼻を寄せると、綿の生地越しに百合にも似た少女の香りがする。 多くが抜け落ちたこの身体を、少女自身が埋めてくれるような気がした。 お風呂、入られますか? 止まっていた時計が、少女の声で再び動いた。 まどろみのような意識を起こすと、身体は既に湯の中にあり―― お熱くないですか? 少女の声が、すぐ傍らから聞こえた。 この身体を浸す水分が熱いのか、温いのか。もうはっきりとはわからなかったが。 傍らの少女の、何も遮ることのない体温だけははっきりとわかった。 湯を共にしていようと、誰も咎めるものはいない。 細く柔らかな指が全身を余す所なく洗い清めていく感覚が、今でも生々しく理解できる唯一の触覚だった。 ……俺は、この少女と、何回こうして肌を合わせているのだろう? 次の。 鼠径部に届いていた少女の手が、そっ、と止まる。 次は、どのレースに出ようか? 少女が、わずかに息を飲んだのがわかった。 次は。 次のレースは、来年か……もっと先になるかもしれません。 がん、と頭を殴られたようだった。 調子が悪いのか? どこか痛みが?言葉は淀みなく口から流れ出た。 いえ。そうではないのです。 少女の手が、湯の水面を潜り、何も隠すものの無い己の下腹部をそっと撫でた。 私ワタシの身体だけでは、もうないのです。 白磁のような肌に灯った蝋燭の火にも似た臍を、己の指でなぞった。 分厚い革袋越しのような触覚の向こうに、自分ではない命がいる。 ああ。開かぬ瞼も、軋む足も、もう悩み患うことはない。 この命が、俺の断片が、ここに生きている。 ああ、ああ。なんて幸せなことだろう! この子が大きくなったら、どのように育てよう。 きっと美しい子だ。この母のように利発で、教養に満ち、そして狂おしい血を宿して産まれるのだろう。 どれだけ出そうとしても出なかった声が、すべて希望とともに溢れ出た。 今度はどんなレースに出よう!? もしこの母の名を冠した血が王道路線に出ることがあったら? ああ!それはどれだけ素晴らしいことか! きっとこの子はあらゆる人に愛され、名前を覚えられ、再び歴史に名を残すウマ娘になるに違いない! ……はい。きっと。その時は、またよろしくお願いいたします。 再び、視界にゆっくりと赤黒い帳が落ちていく。 足腰から力が抜け――その身体は、察していたように少女に受け止められる。 少し、のぼせてしまったかもしれませんね。 訪れた眠気と共に目を閉じると、この身体は既に畳の間の煎餅布団の上だった。 規則的な柔らかい風が、顔を撫でるのがわかった。 トレーナーさん。団扇の風に乗って、少女の声が届いてくる。 この子が本願を果たしたら、またここで、愛し合いましょう。 ああ。それが叶えば、きっと幸せなことだ。 次は、この子も一緒に。 そうだ。これで終わりではない。 この狂おしくも美しい血を、俺とこの娘で永遠に紡いでいく。 いつかこの身が灰に還っても、俺の血を継いだ者が何度でも言うのだろう。 今でも愛している、と。