カタバミ  イントロが流れ始めたその瞬間から、私の初めてのステージは散々な結果に終わってしまうのだと直感的に解ってしまった。  だって体の震えが止まらない。同じ時期の故郷に比べたら、四月の東京の夜なんて汗ばんでしまうくらい。だというのに、指先まで冷え切ってしまってもう感覚すらわからなかった。  今の今まで聞こえていたはずのメロディが耳鳴りにかき消される。気がつけば先輩たちはもうステージに駆け出していってしまって、いつの間にか私は舞台袖にひとり取り残されていた。  慌てて私も後を追おうと右足を前に出した瞬間、派手につんのめった。バランスを崩して倒れそうになる身体を支えようと踏み出した左足がステージの床を叩き、ばぁん、と大きな音を立ててしまう。  その音に自分が一番びっくりしてしまって頭の中が真っ白になってしまった。さぁ、と血の気が引く。歌詞が飛んだ。次はどう動けばいいんだっけ。  思わず先輩たちの方を見る。笑顔の裏に少しだけ神妙な雰囲気を滲ませたかのん先輩と目が合った。  あぁ、私はどんな表情をしていたのだろう。時間にして1秒もないその瞬間に先輩はこくりと頷いて観客席の方に満面の笑顔で向き直った。それと同時に、イントロが終わる。 「楽しい だけじゃ ないことばかりでも──」  歌い出しの私のソロパートをかのん先輩が軽やかに歌い上げた。事前に打ち合わせをしておいたプランBだった。 『もし歌えるかどうか不安なら、合図を送って』  あれだけ練習したのに、上手くなったって褒めてもらえたのに、そのもしもが現実になってしまった。俯き加減で下唇を噛みながら、なにくそと自分を奮い立たせて私も観客席の方へと顔を向けた。  初めて目の当たりにするキラキラと輝く光の海。ゆらゆらと波のように揺れて、ちくちくと星のように瞬いて、舞台の上のアイドルにエールを伝える素敵な光。  よくよく考えてみれば当然のことなんだけれど、その中にメイズイエローの光はひとつも見当たらなかった。  こんなに煌めいて眩しいくらいだというのに、まるで私ひとりだけ先の見えない真っ暗闇の中にいるみたい。 ◆ 「あれ、結女のLiella!って6人だったっけ」  最後にステージに駆け込んできた桜小路が足をもつれさせたまま歌が始まって、あぁ、と声が漏れそうになった時、不意にすぐ隣に陣取った観客たちの会話が耳に飛び込んできた。 「新入生でしょ。四月のこの時期にもうステージに立てるんなら相当な逸材かと思ったけど、あの感じじゃそうでもないみたいね」  一瞬だけステージから目を離してちらりと横に視線をやると、年の頃は私よりも少し上、大学生くらいの女性がふたり。  舞台横の馬鹿でかいスピーカーから大音量で曲が流れてるからいいだろうとばかりに、悪びれた様子もなく会話が続く。 「いやいや、どんな逸材だろうとキビシイでしょ。直前にあんなの見せられたら誰だって足が竦んじゃうって。ましてやあの様子じゃ」 「完全にノーマークだったもん。新入生ちゃんは初めてのステージだろうに、可哀想に」  五月蝿い。煩い。  ……可哀想、ってなんだよ。  お前らにあいつの何がわかるって言うんだよ。あいつはあんなへっぽこな体力でも、あんなぐにゃぐにゃの体幹でも、あんなでたらめなリズム感でも必死に喰らいついてここまできたんだぞ。  見るものすべてが息をするのも忘れるようなステージの直後だっていうのに、あいつは逃げずにあそこに立っているじゃないか。それってすごいことだろ。 「まだ早かったんじゃないの。こんなんじゃ、5人のままの方がよかった」  かぁ、と頭に血が昇っていくのがわかった。何もわかってなくて当然だ。こいつらは結ヶ丘でのあいつのことを知らない。だからその言葉にも悪気なんてこれっぽっちも含まれてなかったのかもしれない。  でも、私は知ってしまっているから、ムカついた。  偉そうにまわりの声なんて気にするななんて高説を垂れておきながら、私が一番まわりの声を気にしてる。  初披露のLiella!の新曲だっていうのに、ペンライトを振るのも忘れてぐっと目を凝らしてステージの上のあいつの一挙手一投足を注視する。  振りが半拍ズレてる。笑顔が引き攣ってる。なにより歌声がぜんぜん聞こえてこない。  見ていられなくなって視線を落とすと、我が事ながら器用に両手の指に挟んだペンライトは煌々と五色の光を放っていた。  無責任に背中を押しておきながら、浅ましい本音を綺麗事で塗り固めておきながら、私は心のどこかであいつの挫折を望んでた。  だって、あの星座はあまりに完璧だったから。精緻にかたち作られたそれをうっかり壊してしまわないように、額に入れて壁に飾っておきたくなるくらい綺麗だったから。  でも、私はもう知ってしまった。  懸命に輝こうとしているLiella!の桜小路きな子を目にしてしまった。 「あぁ、くそ」  曲はもう2番を歌い終え、既に終盤に差し掛かっていた。今から物販に駆け込んでいては間に合わない。どうして予備を持っておかなかったんだ、私は!  ぎり、と奥歯を鳴らして手にした5本のペンライトのボタンを連打する。どんなグループがどんな順で出てきても対応できるように色の並びは完璧に頭に入っていた。どこからでも最短で狙った色に切り替えられる。プロフィール欄には書き込めない、日常生活ではまったく役に立たない私の特技のひとつだ。  ざわめきと歓声と、横隔膜を震わす爆音にかき消されないように、ステージの上でひとりぼっちで震えてるあいつに届くようにと、腹の底から叫んだ。  どうか今この一瞬だけ、たった一人を推すことを許してください。誰にともなく、そう祈った。 ◆  どうして、私は今ここで歌っているんだろう。  無遠慮に鼓膜を叩いてくるメロディを電気信号みたいに自動的に受け取って、ほとんど無意識で口と手足を動かしていた。  何も考えずにただ無心でいれば、意外と簡単なのかもしれない。もしかして、私って才能のカタマリなのかも。  ……そんなわけがない。だってぜんぜん楽しくない。私が憧れたステージは確か、もっとうきうきと心が躍るものだったはずだ。こんな、ただ時が通り過ぎるのを待ちながら身体を動かすだけのものではなかったはずだ。  こんな心持ちで立つステージでは、屋上で初めて先輩たちのパフォーマンスを見た時に感じた昂ぶる心も、肯定されて背中を押された時に感じた温かな気持ちも、練習を重ねてようやく新しいステップが踏めるようになって感じた嬉しさと達成感も、その全部が嘘になってしまう。  そう思った途端、ひどく身体が重たく感じられた。逸る気持ちに身体がついていかない。うまく動こうと思えば思うほど、まるで地面に根を張り身体に蔦が絡まったかのように雁字搦めになっていく。  視界がじわりと滲んだ。歯痒い、悔しい、情けない。目の前に広がる景色はこんなに綺麗で鮮やかなのに、私は確かにここにいるのに、その光はひとつとして私を見ていてはくれない。まるで透明人間になったかのよう。  2番の歌詞を歌い終える。間奏を挟んだ後にまた私のソロパートがきてしまう。ちら、とかのん先輩の方に視線をやると、同じことを思っていたのかまたも視線がぶつかった。  先輩は、笑顔だっていうのにその眼差しに少しだけ悲しそうな雰囲気を滲ませていて、それが申し訳なくて、私の胸に小さな棘のように突き刺さった。  きっとこの舞台は私の身の丈に合っていなかったんだ。ここに立てる資格があるのは先輩たちや、たった一人で誰もがまばたきも忘れるくらいのパフォーマンスを見せたあの子のような、私では遠く及ばない才能を持って、気の遠くなるような研鑽を積んだ人たちだけ。私ではなかった。  間奏のリズムに合わせて客席からはコールが巻き起こる。悔しさと安堵がない混ぜになった感情で私に向けられたものではない歓声を浴びる。  曲が始まってからこっち、いっぱいいっぱいだったから落ち着いてまわりを見ている余裕なんてなくて、そこでようやく会場全体を見回すことができた。  空と地上に無数の星、ステージの両脇に立った遅咲きの桜の花びらが時折風に乗って視界を横切っていく。  目に焼き付ける。戒めとして。私の初めてのステージから見る景色を。  ふと、桜の花弁が一瞬視界を遮った。 「負けんな!」  会場全体を揺らすみたいな大歓声に混じって、そんな声が聞こえた気がした。  目を凝らす。見間違いじゃないだろうか。けれど確かにそこにはメイズイエローの光が輝いていた。  5本のペンライトがまるで花弁のようで、曲に合わせて揺れる様はまるで何もない原っぱに見つけた小さな花が風にそよいでいるみたい。  あと数秒で間奏が終わる。つま先に力を入れて、拳を握りしめた。あんなに冷たかったはずの全身は熱をおびていて、いつの間にか汗だくになっていることに今更になって気がついた。  ソロを歌い終えたかのん先輩と視線を合わせた。力を込めて頷いてみせると、嬉しそうに笑い返してくれて、肩に手を置いてフォーメーションの位置を交替していった。  ありがとう。こんな私を信じてくれて。  ありがとう。こんな私に任せてくれて。  観客席に向き直る。ただ一点だけを見つめた。  花を一輪ありがとう。こんな私を見つけてくれて。  どうか今この一瞬だけ、たった一人に歌うことを許してください。誰にともなく、そう願った。  顔は会場が薄暗くてキャップを目深にかぶっていてわからないし、声も歓声に溶けてしまってもうわからないけれど、あなたがいてくれたから私はこの一瞬に全身全霊を注げる。  こんな惨めな初ステージでごめんなさい。でもあなたのおかげで私は、本当の意味での最初の一歩を踏み出せる。  だから見ていて、顔も名前も知らないどこかの誰か。あなたがくれたこの心に灯った光は今はまだ小さいかもしれないけど、きっといつの日か必ず、 「世界でいちばん───」  輝くんだ! ◆ 「あ゛〜〜〜〜〜」  ヒキガエルの鳴き声みたいな唸り声を上げながら筋肉痛で痛む腕と肩をごりごりと回した。ライブの最中や直後はテンションが上がってわからない痛みがいつも翌日の自分を容赦なく痛めつけてくる。特に利き腕の右が痛い。今にも千切れそうだ。 「湿布、いる?」 「いらねえ」 「そう」  特に示し合わせたわけでもなく並んで登校する四季がどこからともなく湿布を取り出して差し出してくるが、こんなことはもう慣れっこだ。そのうち治る。 「おはようございますっす!米女さん!若菜さん!」  無闇矢鱈に元気な挨拶に振り返ると、桜小路がのんきな笑顔で駆け寄ってくるところだった。 「おはよう、桜小路さん」 「おはよ。お前、昨日もステージに立ってたのに身体とか痛くないの?」  代々木SIFからほとんど間髪入れずに体育館でのステージ。代々木にはなかったセンターステージを取り入れたライブは振り付けの変更もあったろうし大変だったはずだ。 「やせ我慢っす!実はめちゃくちゃ身体中痛いっす!」  ……ああそう。お大事に。  よく観察してみれば、貼り付けた笑顔の目元がひくひくと震えていた。 「……湿布、いる?」 「いただくっす……」  どうやら湿布の貰い手ができたらしい。というかなんでそんなもんを持ち歩いてるんだ、四季は。 「そういえば昨日のライブ、二人も来てくれてたっすね!ステージから見えてたっすよ!」  どきりとする。スクールアイドルから認知が貰えたのは生まれて初めてじゃなかろうか。まあ、めんどくさいオタクとしてはステージと観客席の断絶が云々で、ファンは一ファンとして認識していてもらいたいかんぬんで複雑なところはあるのだけれど。 「米女さん、きな子の色も振ってくれて嬉しかったっす〜。やっぱり自分の色を振ってくれてる人を見つけると嬉しくなっちゃうっすね!」 「ま、まぁよかったんじゃねえの?」 「えぇ〜?」  おざなりな返事に頬を膨らませた桜小路に、四季がそっと耳打ちした。 「最高だったって。メイは優しいけど照れ屋だから」 「えっ?そーなんすか?そーなんすか??」 「聞こえてんぞ四季!」  ぼけっと突っ立って馬鹿話をしていては遅刻してしまう。踵を返して桜の花弁が舞う通学路を校門目指して歩き始めた。  上を見上げると抜けるような青空で、学校の塀の向こう側に桜の木が何本も並んでいた。花びらはもうそろそろ散り終わりのようで、枝の先には緑の若葉が顔をのぞかせている。 「そういえば、米女さんと初めて会ったのってここだったっすよね」 「はぁ?教室だろ」 「ここだったっすよ。何見てんだ〜!ってすごい剣幕だったっす」  そうだったっけ。そうだったかな。そうだったかも。 「……すまん、覚えてない」 「えぇぇ〜〜?」  春休み中からいてもたっても居られなくなって時折ここから校舎の方を眺めていたことはあったけど、誰に会ったかなんてまったく記憶になかった。  仮にその話が本当なのだとしたら、きっとその時の私は桜小路のことを見つけてなかっただけなんだと思う。確かに目の前にいるはずなのに、認識していなければ不思議と見えなくなってしまう。 今この瞬間も校門前には何十人もの生徒が行き交っているのに、そいつのことを知らなけりゃいないのと同じだ。  ベリーショートの活発そうな子とサラサラロングの大人しそうな子の二人組。しかめ面でぶつぶつ言いながらスマホをいじって歩く髪先にメッシュを入れた小柄な子。かわいらしいツインテールなのに吊り目が勝ち気そうな印象を与えてくる子。  なんとなく見回しただけで、いろんな人がいるのに今更ながら気がついた。 「メイ、どうしたの」 「……なんでもない」 「……?」  たくさんのその他大勢の中から偶然見つけられたのがお前でよかっただなんて、とてもじゃないが言えない。恥ずいから。 「ふたりとも〜!予鈴鳴っちゃうっすよ〜!」  ぼんやりしているうちにいつの間にか桜小路は校門をくぐってしまって、すこし先で大きく手を振っていた。  あいつのことも、ちゃんと見つけられてよかったって、そう思った。 了