デジモンイモゲンチャー外伝The Knight's Lost Memories 3rd MEMORIAL『クリーナーズ』 序章:『馬鹿な女』  騎士は、深い、深い眠りの底にいた。  竜天回廊での死闘。エリスをその手にかけた魂に焼き付いて消えない感触。  心と体は鉛のように重く意識は底なしの沼に沈んでいくかのようだった。  腕の中には、同じく疲れ果てて眠るズバモンの温かい重み。  その規則正しい寝息だけが、この悪夢のような現実の中で唯一、騎士に安らぎを与えてくれるものだった。  窓の外では、破壊と再生を終えた青嵐エリアの新たな夜明けが近づいている。星々の光も、夜の闇の底でその輝きを増しているようだった。  だが、その静寂は、騎士の体内から発せられた微かな脈動によって破られた。  トクン。  心臓の鼓動とは違う。もっと深く、もっと根源的な場所から響く音。  腹の奥に宿る『刻の龍珠』が再び歓喜に打ち震えるように脈打ち始めたのだ。  抗う間もなかった。意識はまるで渦に吸い込まれる小舟のように急速に時空の奔流へと引きずり込まれていく。  視界が白く染まりズバモンの温もりが急速に遠のいていく。  最後に耳に残ったのは、「ナイト……?」という、相棒の寝惚けたようなしかしどこか不安げな声だった。     ☆  デジタルワールドがその秩序を保つのは、テイマーたちの献身的な努力あってこそだ。  彼らはパートナーデジモンと共に、日々デジタル空間の均衡を守るため、あるいは発生するさまざまな問題に対処するため、奔走していた。  そんなテイマーたちの拠点となるのが、テイマーユニオンである。  テイマー同士が情報交換を行い、時に協力し合うギルドのような組織だった。  薄暗い部屋に、モニターの冷たい光だけがディエースの顔を青白く照らしていた。  ユニオンに残されていたという古い映像記録。  彼女はそれを、ぼんやりとした頭で、まるで他人の人生を覗き見るかのように眺めている。  再生されているのは、ユニオンの訓練風景らしきものだった。  映像の中の自分は、驚くほどに活き活きとしていた。太陽のような笑顔を振りまき、ユニオンの仲間たちと楽しそうに談笑している。  その隣には、屈強でありながらもどこか愛嬌のあるパートナーデジモンが、彼女の言葉に耳を傾けている。  二人の間には、長年培われたであろう揺るぎない信頼と絆が空気のように流れていた。  そして、まだ幼さの残る顔立ちの新人テイマーに、手取り足取りまるで雛鳥に餌を与えるかのように丁寧に指導している姿。  その眼差しには慈愛と微かな期待が宿っているように見えた。 「へえ、私ってこんなにお節介焼きだったんだ」  ディエースは他人事のように呟いた。記憶がないのだから当然他人事なのだが、その声には微かな皮肉が混じっていた。  画面の中の「自分」の眩しいほどの熱量に、今の「自分」はひどく辟易しているかのようだった。  映像は切り替わり、一転してデジタルワールド全体を揺るがすような激しい戦いの場面になった。  それはまさに、世界の終焉を予感させる光景だった。デジタルデータが嵐のように荒れ狂い、空間が歪む。  デジモンたちの悲鳴と咆哮が入り混じり、秩序は無残に引き裂かれていく。  ユニオンのテイマーたちは緊急招集され、この未曽有の危機に立ち向かうべく、決死の覚悟で戦場へと身を投じていった。  映像の中のディエースもまた、その渦中にいた。必死な顔でデジヴァイスを握りしめ、喉が張り裂けんばかりにパートナーデジモンに指示を飛ばす。  彼女の隣には、あの新人テイマーもいた。  当初、彼女はあくまで「先輩」として、『彼』を導くつもりだった。  危険な場所からは遠ざけ、的確なアドバイスを与え、『彼』の未熟な部分を補う。  それが、彼女に与えられた役割であり、当然の義務だと信じていた。  彼女が与える任務に従い、初々しくも懸命に戦う『彼』の姿に、映像の中の自分は温かい視線を送っていた。  しかし、戦いが激化するにつれて、状況は一変した。あの新人の成長は、皆の想像をはるかに凌駕していたのだ。  彼はまるで生まれながらの戦士であるかのように、驚くべき速さで強敵たちを打ち倒し、デジタルワールドの深淵へと、誰よりも早く突き進んでいく。  その動きは迷いがなく、ただひたすらに、前へ、前へと。  彼女は必死に『彼』の後を追うが、その背中は遠ざかっていく。  映像の中の「過去の自分」の顔に、みるみるうちに焦燥と無力感が広がっていく。  その表情は曇り、唇は固く結ばれ、瞳には劣等感が滲んでいる。『彼』の背中を追うほどに、彼女の表情は絶望に染まっていくようだった。  自分の存在がもはや『彼』の足枷になっているのではないかという苦痛に満ちた自問自答。 「ついていけてないじゃない。情けない」  ディエースは冷めた、氷のような目でモニターを見つめる。  画面の中の自分が、『彼』に追いつこうと必死になっている姿は、滑稽ですらあった。あの無駄な熱量は何なのだろう。  力の差は歴然としているのに、なぜ無謀にも追いつこうとしているのか。今のディエースには、その感情が全く理解できなかった。  その時、映像に歪んだ影が映り込む。どうやら敵のデジモンのようだ。  その声は直接聞こえないが、ディエースには画面の端に表示されるテロップで内容が理解できた。  見るからに悪の存在は、強大な力を今すぐ手に入れる事が可能な安易な方法を彼女に提示している。  一瞬、映像の中の「過去の自分」の表情に迷いがよぎる。その瞳は、『彼』の圧倒的な力を渇望し、『彼』と肩を並べたいという欲望で揺れ動いている。  次の瞬間、彼女は顔を横に振った。その誘惑を、きっぱりと拒否したのだ。 「馬鹿ねー。力なんていくらでも手に入れてから考えればいいじゃない」  今のディエースは、その選択が当然だとばかりに呟いた。  しかし、映像の中の「過去の自分」にあるのは単なる誘惑への拒絶だけではなかった。  その瞳の奥には、『彼』と同じ力を求める渇望と、それでもテイマーとしての正義感、そして優しさとの間で激しく葛藤する魂が見て取れた。  安易な力を選ばなかったのは単なる倫理観だけではない。  彼との関係性の中で培われた、彼女なりの誇りと、『彼』に対する深い思いがあったからではないのか。  記憶を失ったディエースには理解できない、熱い何かがそこには確かにあった。  やがて『彼』の活躍で戦いが終わり、デジタルワールドに再び平穏が訪れたとき、映像の中の女は静かに決意を固める。  その顔には、一抹の寂しさと揺るぎない覚悟が刻まれている。もっと強くなるために、修行の旅に出る、と。  そして、旅立つ朝、彼女はあの新人に微笑みかけ優しく頭を撫でた。  その指先が、ほんの少し『彼』の髪に触れる時間が長かったように見えたのは、ディエースの気のせいだろうか。 『ええ、少しね。もっと色々なことを学びたくて。また、いつか会えるわ』  映像の中の自分が切なそうにそしてどこか決意に満ちた震える声で語りかける。 「な~んだこれ」  ディエースは思わず吐き捨てるように言った。映像の中の自分が抱いていたのは『彼』への恋心だったのだろう。  あの圧倒的な強さを見せつけた年下の男の子に、この女は恋をしていた?  画面の中の「自分」の頬は微かに朱に染まり、瞳は『彼』だけを追っている。その表情はまさに恋に落ちた乙女そのものだった。 「馬鹿な女。そんなに好きなら一緒に居ればいいじゃん」  ディエースは心底呆れたようにため息をついた。強くなりたい、という願望はディエースにも理解できる。  しかし、それも恋心のせいで生まれたものだ。そんなにまでして彼の隣に並び立ちたかったのか。  記憶のないディエースには、彼女の切実な思いがまったく理解できない。  理解不能な情熱に突き動かされていた「過去の自分」が、ただただ滑稽に見えた。  その感情は、今のディエースにとって意味不明なバグでしかなかった。  そして、映像はそこでぷつりと途切れる。ディエースはモニターを消し再び暗闇の中に身を置いた。  静まり返った部屋の中で、自分の鼓動だけがやけに大きく響く。  映像の中の同じ姿をした女。その情熱も秘めたる恋心も今のディエースには何の響きも持たない。  あの「過去の自分」が辿った道筋が、あまりにも愚かで、そしてムダな努力に満ちているように思えてならなかった。  ディエースは、自らを押し殺し続けたあの馬鹿な女のようにはならないようにしようと決意した。  映像の中の彼女が切実に望んでいた力は、もう既に得ているのだから。  そうして、ディエースが過去の自分に思いを馳せている時、けたたましい声と共にドアが開く音がした。 「見つけたであります見つけたであります! 吾輩のタイムモンが、この時間軸に不正アクセスしている存在を捕捉したのであります!  それがなんとディエース殿の部屋からなのであります!  さぁディエース殿、部下の危機に颯爽と参上する理想のリーダーたる吾輩を褒め称え敬いその体を捧げるであります!!」  どこか子供のようでありながら、老成した響きを持つ声。  声の主は青灰色の肌に悪魔の羽を生やした浮遊装置によってふわふわと浮かぶ少女だった。 「んー安定のカス。尊敬されたきゃ、その性癖を抑えなさいよ。……え? ちょっとまって? 時間軸に不正アクセス? どういうこと?」 「タイムモンによると、未来からお前にシンクロして覗いてる奴がいるって話なんだよねぇ~。どうするアミーゴ、放っておくわけにはいかないだろう?」  セーロの後ろから、メキシコの民族服であるチャロスーツに身を包んだ男が心配そうに眉を寄せた。 「そうでありますシエーン殿の言う通りであります! タイムモンで時を超えて我輩たちの力をわからせてやるのがいいであります!  ついでにそいつが女なら吾輩の魅力で骨抜きにして玩具として遊んでやるのであります! 勿論飽きたら捨てるであります」 「んー安定のカス。こいつさっさと死なねぇかな。ま、見られるのは嫌だけどさ、そこまでしなくていいんじゃない?  面白いじゃん。誰か知らないけど、わざわざ時間を超えてアタクシに会いに来てくれたんでしょ?」  ディエースは、まるで映画の特等席にでも座るかのように、面白そうにそしてどこか冷ややかに見つめていた。 「じゃ僕がタイムモンにシャットモンをアプリンクで時空干渉を強制切断しとくよ。最後に、なにか言う事あるかいディエース」  ディエースは時空の向こう側にいる名も知らぬ観測者に、甘く、そして獰猛な笑みを向けた。 「ええ、もちろん」  その声は恋する乙女のように弾み、その瞳の奥には獲物を見つけた狩人のような冷たい光が宿っている。 「未来で私を見つめている君。いつかアタシと出会うんでしょ? 待っていてあげる。君がこの胸に飛び込んでくる、その時まで」  彼女はうっとりと目を細め挑発的に唇を舐めずりした。 「首を長くして待ってる。だから……本当の私を見つけ出してね、ヒーロー。その時は君のぜーんぶ、アタクシが頂くから」  その言葉と同時に強制的に何かが断ち切られた。  騎士が最後に感じたのは、暗闇の中で喉を鳴らし獲物の到来を待ちわびる、飢えた虎の心だった。     ☆ 「きゃあああああああああああっ!」  唐突な絶叫が、騎士の意識を暗く甘い追憶の底から無理やり現実に引き戻した。  目を開けると、そこはもう薄暗い部屋ではない。朝日が差し込む、見慣れた自分の部屋だった。  絶叫は、隣室から聞こえてくる。レイラのものだ。  そのただならぬ響きに、騎士はベッドから飛び起き、何が起きたのか確かめるため、ズバモンと共に慌てて部屋を飛び出した。  廊下へ飛び出すと、ひやりとした朝の空気が肌を刺す。  その空気とは対照的に、レイラの部屋の扉が大きく開け放たれ、彼女自身が廊下の床にへたり込んでいた。  スナリザモンが必死に主の肩を抱き、震える背中をさすっている。彼女の瞳は恐怖に見開かれ、唇はわなわなと震えていた。  その指さす先は、螺旋階段へと続く薄暗い廊下の奥だった。 「見たんです……! 今、確かに……そこに……!」  その声は、悪夢の残滓に喉を締め上げられたかのように、か細く掠れていた。 「ソクさんが……! 消えたはずのソクさんが、そこに立っていたんです……!」  その名に騎士は思わず息を呑んだ。  レイラの絶叫は、館の僅かな生存者たちを再び悪夢へと引き戻した。  ユンフェイが険しい表情で自室から現れ、ワイズモンも慌てたように宙を舞いながら駆けつける。  ディエースだけが「なーに、朝から騒々しい」と欠伸をしながら、のんびりと姿を見せた。 「幻なんかじゃ……確かにこの目で……!」  レイラは半狂乱で訴えるが、彼女が指さした廊下には、不気味な静寂が広がるだけだ。人影はもちろん何者かがいた気配すらなかった。 「……念のため館内をくまなく探すぞ」  ユンフェイが事態の収拾を図るように重々しく告げた。  一同は手分けをして、館内を徹底的に捜索し始めた。  騎士もズバモンと共に、レイラが指さした廊下から厨房、娯楽室に至るまで、床の染み1つ見逃すまいと注意深く見て回った。  だが、ソク師範の巨体が通ったであろう痕跡はどこにも見当たらない。  管理室のセキュリティシステムにも、不審な侵入記録は一切残っていなかった。  捜索は徒労に終わり、一同は重い足取りでロビーへと戻った。  ユンフェイは、憔悴しきったレイラの肩にそっと手を置き、静かにしかし有無を言わせぬ響きで語りかけた。 「レイラ殿。お気持ちは察するが、おそらくは疲れが見せた幻だろう。我々も昨日の戦いで心身ともに限界に近い。少し休まれよ」  ワイズモンも、友人を気遣うように、しかし現実を受け入れるよう促した。 「そっすよレイラさん! きっと、夢の続きを見ちゃったんすよ。僕もたまにあるっす」  味方であったはずの2人にまでそう言われ、レイラはもはや抵抗する気力もなかった。  彼女自身の目撃した光景にさえ自信が持てなくなり、力なく項垂れる。 「……そう、なのでしょうか。やっぱり見間違い……だったのかも、しれません」  その姿に、ディエースが追い打ちをかけるように、無邪気に残酷な言葉を放った。 「……本当にソクのおっちゃんが無事でさ。今までのことが夢かジョークで、みんながここに居たら良かったのにね」  その一言が、場の空気を凍てつかせた。失われた仲間たちの顔がそれぞれの脳裏に浮かび、談話室はしんみりとした気まずい沈黙に包まれる。  騎士だけが、その言葉を別の意味で受け止めていた。人身売買の元締め、ソク・ジンホ。  たとえ彼が本当に生きていたとして、彼の真実を知ったならば、それを素直に喜べる者がこの中にいるのだろうか。  真実を知る者と、知らぬ者。その間に横たわる見えない溝の深さを、騎士は改めて痛感していた。  青嵐の館での最後の朝は、こうして癒えぬ傷痕を抉るかのように、静かに幕を開けたのだった。 第1章:『最後の平穏と旅立ちの誓い』  ソク師範の亡霊騒ぎが残した不穏な余韻は、朝食の席にまで重く垂れ込めていた。  誰もが口数少なく、ただ黙々と食事を胃に流し込む。  その葬儀のような沈黙に耐えかねたように、ワイズモンがわざとらしいほど明るい声でパン、と手を叩いた。 「ねえねえ、皆さん! こんなジメッとした空気、もうやめにしません?  せっかく外の世界もピッカピカに生まれ変わったんすから、みんなで展望室に行きやしょうよ!  この館での最後の思い出に、世界の誕生ショーでも見物しようぜって話っすよ!」  そのどこまでも楽観的で、だからこそ今は救いのように響く提案に、誰も異を唱えることはできなかった。  展望室の扉が開かれた瞬間、言葉を失うほどの光の奔流が一同を包み込んだ。  壁一面のモニターに映し出されていたのは、創造のエネルギーが渦巻く、奇跡そのものの光景だった。  無数の光の粒子がまるで天の川を逆再生するかのように立ち上っていく。  その光が集まり、絡み合い、新たな大地のワイヤーフレームを瞬く間に構築していく。  緑のテクスチャが生命の息吹のように地面を覆い岩や木々のポリゴンが、神の見えざる手によって形作られていく様は圧巻という他なかった。  それは、傷ついた彼らの魂を優しく洗い流す、聖なる浄化の光のようでもあった。  誰もが、しばし言葉を忘れ、ただその神々しい光景に見入っていた。  この4日間で負った心の傷が、この世界の再生と共に、少しずつ癒されていくのを感じていた。  やがて、再生の光が落ち着き、新たな世界の輪郭が定まった頃、ユンフェイが静かに一歩前に出た。  彼の瞳には、絶望を乗り越えた者の、静かで、しかし揺るぎない覚悟の光が宿っていた。 「皆、聞いてほしい」  彼の声が、展望室の静寂に響き渡る。 「我々は、この館で多くのものを失った。だが、失っただけで終わりにはしない。  ゴッドドラモン殿が守ろうとした秩序、ティンカーモンが命がけで示そうとした希望……  それらすべてを無駄にしないために、私は戦うことを決めた。デジモンイレイザーという、この世界の理を歪める絶対的な悪と」  彼は、集まった仲間たちの顔を一人ひとり、ゆっくりと見渡した。 「私はこの青嵐の館を拠点に、イレイザーに対抗するための組織を立ち上げようと思う。  まだ私たちだけの小さな始まりだ。だが、この決意は変わらない。  いつか、ティンカーモンのような犠牲者を2度と出さない世界を作るために。……それで、いくつかチーム名の候補を考えてみたのだが」  ユンフェイは、少し照れくさそうに咳払いをすると、いくつかの名前を挙げ始めた。 「秩序の番人『オーダー・ガーディアンズ』……いや、少々堅苦しいか。  あるいは、夜明けをもたらす者『ドーンブリンガーズ』……これはヒロイックすぎるか。  あとは……そうだな、奴らの汚した世界を浄化するという意味で『クリーナーズ』というのも……」 「ぷっ……あはは! お掃除屋さん!?」  ディエースが、堪えきれないというように吹き出した。 「なーにそれー! 全然強そうじゃないじゃん! ダサいダサい、却下!」  彼女は腹を抱えて笑い転げている。  その無邪気な反応に場の空気も和んだが、騎士だけは、ディエースの笑い声の中に、ほんの僅かな拒絶の響きを感じ取り、微かな違和感を覚えていた。  夢で見たディエースの過去が頭から離れない。彼女にそのことを話すべきか、騎士は迷っていた。 「……とにかく、私はやる。騎士」  ユンフェイの声が、騎士を思考の海から引き戻した。 「お前も、私達の組織に来てくれるよな」  その瞳は絶対的な信頼を物語っていた。  騎士の心は、激しく揺れた。ユンフェイの誘いに応えたい。仲間と共に戦いたい。その想いは本物だ。  しかし、赤城が遺したファイル、ゴッドドラモンの裏の顔という、誰にも話せない重い秘密が、彼の決断を鈍らせる。  ユンフェイが築こうとしている組織の土台は、ゴッドドラモンへの清い信頼の上にある。その土台そのものが偽りであると知ったら彼はどうなるだろうか。  そして騎士にはもう1つ懸念があった。自身の体に巣食う『刻の龍珠』だ。  自らの体内に宿る災厄。これをどうにかしなければ、彼らと道を同じくすることはできない。だが、目指す先は同じはずだった。 「今はまだ無理だ。俺がやるべきことをすべて終えたら、その時は必ずあんたたちの元へ駆けつける。約束する」  それは、偽りのない魂からの誓いだった。 「……ああ。待っている。お前は私に勝った男だからな」  差し出されたユンフェイの硬い手を、騎士は力強く握り返した。2人の間に、言葉以上の固い約束が交わされた。  再生の完了と共に、長らく沈黙していた館のシステムが完全に復旧した。  ロビーのマザー・クリスタルがひときわ強く輝き、閉ざされていたワープゲートが再起動する。  それは、悪夢からの解放と、新たな旅立ちの時を告げる合図だった。  一同は、四日ぶりに館の外へと足を踏み出す。  再生されたばかりの大地は、まだ誰も踏み入れていない生まれたての光に満ち溢れ、澄んだ空気が肺を満たした。  振り返れば、四日間の惨劇の舞台となった青嵐の館が、何事もなかったかのように静かに佇んでいる。 「騎士さん、本当に、ありがとうございました」  レイラが深く頭を下げた。その表情にはもう絶望の色はなく、過去の罪を背負いながらも未来へと歩き出す覚悟を決めた静かな強さが宿っている。 「あなたがいなければ、私はきっと、自分の弱さに飲み込まれていたでしょう。この御恩は、決して忘れません」 「僕もっす! マジで騎士さんとディエースさんたちがいなかったら、僕らとっくにイレイザーの餌食でしたよ!  これからはユンフェイさんたちと、この世界を守るために頑張るんで、またどこかで会ったら一緒に旅しましょう!」  ワイズモンはいつもの軽い口調だが、心からの感謝を告げた。スナリザモンもその横でこくこくと何度も頷いている。  その温かい言葉に、騎士は少し照れくさそうに「俺は、何も……」と頭を掻いた。 「あんたたちには世話になったねぇ」  ベーダモンが、騎士たちの肩をバンバンと力強く叩いた。 「あたしゃどうしようかねぇ。雇い主もいなくなっちまったし、また宇宙の放浪者にでも戻るとしますか!  あんたたちも、腹が減ったらいつでもあたしのギャラクシーフルコースを食べに来な!  このデジタルワールドのどこにいたって届けてやるからさ!」  彼女らしい豪快な別れの言葉に、誰もが思わず笑みをこぼした。 「待っているぞ、騎士」  ユンフェイは、ただ一言、そう力強く告げた。その背中には、もう迷いはない。  ドラコモンもまた、騎士とズバモンに力強く頷いて見せた。 「じゃあね、ヒーロー! またどこかで会えたら面白いわね!」  ディエースだけが、最後まで別れを惜しむ様子もなく、ひらひらと軽く手を振った。  その笑顔はどこまでも無邪気で、その瞳の奥底に何を隠しているのか、騎士には最後まで読み解くことはできなかった。  それぞれが、それぞれの想いを胸に、再生された世界へと歩み出さんとする。  これが、悪夢の館で生き残った者たちが共有した最後の平穏な時間だった。 第2章:『絶望のゾンビゲーム』  再生された世界への希望を胸に、新たなる旅路へと騎士がその一歩を踏み出そうとした、まさにその瞬間だった。  背後で、先ほどまで穏やかな光を放っていたはずのワープゲートが、再び不吉な音を立てて起動した。ゲートの中心が、まるで病んだ心臓のようにどす黒く脈打つ。  放たれたのは祝福の光ではない。あらゆる希望を嘲笑うかのような禍々しく粘つく紫色の閃光だった。  光が収まった時、そこに立っていたのは、誰もが忘れたいと願っていた悪夢の残滓そのものだった。 「ソ……ク……師範……!?」  レイラの声が、恐怖に引きつった。  顔面を、屈強な肉体を、まるで呪いの紋様のように墨の如き黒い縞が覆い尽くしている。  その瞳に、かつての豪胆さや狡猾さの光はなく、ただ命令を待つだけの、虚ろな闇が広がっていた。  隣に立つマスターティラノモンもまた同様に汚染され、低い唸り声を上げている。  その絶望的な再会劇を演出するかのように、館のスピーカーから、甲高いノイズ混じりの、場違いに明るい声が鳴り響いた。 「やっほー! エリスちゃんのゲーム、クリアおめでとー! デジモンイレイザーからのご褒美と、新たなるゲームの始まりだよ~ん!」  声の主は幼く無邪気でそして残酷な響きを持っていた。 「ご褒美は、消えちゃったみんなの再生だよ! そういうことできちゃう! それで新しいゲームのほうはね、再生した彼らから逃げ回る『ゾンビゲーム』!  捕まったら君も仲間になっちゃうゾ! さぁて、今度は誰が生き残れるかな~? 今度もこのイレイザーちゃんを楽しませてね~」  その狂った宣戦布告が開幕の合図だった。  驚愕に凍りつく一同のほんの僅かな隙を突き、ソクたちが地を蹴った。  その動きは生前の彼からは想像もつかないほど俊敏で、獰猛だった。  彼らの体に纏わりつく黒い縞模様がまるで生きているかのように蠢き、無数の黒い帯となって鞭のようにしなりながら襲いかかってきた。  狙われたのは、最も近く、最も油断し、最も無防備だった2人。 「きゃっ!?」 「あらやだ!」  悲鳴を上げる間もなかった。黒い帯は、逃げ惑うディエースの足に絡みつき、ベーダモンの体を雁字搦めに捕らえる。  2人の体は瞬く間に黒い呪縛に覆われ、抵抗も虚しくその瞳から理性の光が急速に失われていく。  数秒後、彼女たちはゆっくりと顔を上げた。その顔には、ソクたちと同じ墨染めの縞模様が浮かび上がっていた。 「ディエース! ベーダモンさん!」  騎士が叫ぶ。ユンフェイもまた、怒りにデジヴァイスを構える。  だが、汚染されたマスターティラノモンの圧倒的な質量と苛烈な攻撃が、彼らの前に立ち塞がった。  ゴッドドラモンが認めていた実力者の彼らの前に進化する暇さえ与えられない。 「逃げるんだ!」  ユンフェイが叫び、一同は散り散りになって駆け出した。もはや戦いではない。ただの狩りだ。  ユンフェイが再生されたばかりの木々の間を駆け抜けていた、その時だった。  茂みの奥から、か細い、しかし聞き覚えのある声がした。 「ユンフェイ……」  振り向いた彼の目に映ったのは、信じられない光景だった。そこに、ティンカーモンが立っていた。  その体にはまだ汚染の証である黒い縞模様はない。ただ、怯えたように、潤んだ瞳でユンフェイを見つめている。 「ティンカーモン!」  ユンフェイの体が硬直する。罠だ。頭の片隅で、冷静な自分が叫んでいる。  だが、彼女の羽が淡く、そして妖しく輝き始めた瞬間、彼の理性は音を立てて崩れ始めた。  キラキラとした金色の鱗粉――『フェアリーパウダー』が、そよ風に乗ってふわりと舞いユンフェイの全身を優しく包み込む。  咄嗟に口元を覆うが遅かった。  甘い香りと共に吸い込んだ鱗粉が、脳の奥でじわりと溶け、警戒心という名の錠前を錆びつかせていく。 (罠だ、近づくな……でも……ティンカーモンちゃんが、あんなに怖がっているじゃないか……!)  思考が、急速に単純化されていく。  自制心という名の壁が脆くも崩れ落ち、「彼女を助けなければ」という、子供のように純粋で絶対的な衝動だけが心を支配した。 「ユンフェイ……助けて……こわいの……」  か細い声で伸ばされた小さな手。それが、最後の引き金だった。 「ああ、今行く!」  ユンフェイは何の疑いもなく彼女へと駆け寄った。  失ったはずの、守りたかったはずの小さな存在。その無事な姿を前にして、彼の心はあまりにも無防備だった。 「ああ、良かった……本当に……!」  ユンフェイが、安堵と後悔の入り混じった表情で彼女を抱きしめようと腕を伸ばした、その瞬間。  ティンカーモンの無垢な笑顔が、ぞっとするほど冷たいものに変わった。  彼女の小さな体から、黒い帯が蛇のように伸び、ユンフェイの体に音もなく巻き付いていく。 「なっ……!?」 「ユンフェイ……ずっと、一緒だよ……」  虚ろな声が、耳元で囁かれる。それが、彼が聞いた最後の言葉だった。  その一部始終を、少し離れた場所から見ていた騎士は、絶望に歯を食いしばった。  仲間が目の前で次々と敵へと変わっていく。  触れただけで、その魂ごと汚染されてしまう黒い帯の脅威。  ソクとマスターティラノモンに加え、新たに加わった操り人形たち。戦力差は、もはや絶望的だった。 「……逃げるぞ!」  騎士は、悲しみに立ち尽くすドラコモンの腕を掴むと、森のさらに奥深くへと身を翻した。  レイラとワイズモンも、恐怖に顔を歪ませながら、必死にその後を追う。  青嵐の館での惨劇は、終わってはいなかった。  それは、より悪質でより救いのない、新たなる絶望のゲームとして再びその幕を開けたのだった。 第3章:『真犯人』  息を切らし背後から追ってくる気配がないことを確認すると、一同は鬱蒼と茂る森の奥深く、苔むした大木の根元に身を隠すようにして座り込んだ。  再生されたばかりの森は、真新しい生命の匂いに満ちている。だが、その瑞々しい空気も、彼らの絶望に満ちた心を潤すことはできない。  静寂の中、ドラコモンの嗚咽だけがやけに生々しく響いていた。彼は主を失った悲しみと怒りで、その巨体を小刻みに震わせている。 「ユンフェイ殿……! 我が主……! なぜだ……なぜあんな罠に……!」  レイラもまた、血の気の引いた顔で膝を抱え、ただ一点を見つめていた。  再び仲間を失ったという事実が、ようやく取り戻しかけた彼女の心を、容赦なく打ち砕こうとしている。 「ママ……大丈夫だよ。僕が……僕がついてるからね」  スナリザモンが必死に彼女の腕に擦り寄るが、その声も今は虚しく響くだけだった。 「……くそっ」  ワイズモンが、悔しげに地面を拳で殴りつけた。その顔から軽薄さは消え失せ、純粋な怒りが浮かんでいる。 「完全に、奴らの手のひらの上で踊らされてたってわけか……。  ネットワークが回復した瞬間を狙って、館のシステムに外部から干渉しやがったんすね、イレイザーの本体が……。  それでソク師範たちを再生、洗脳したんすよ……!」  それは最も合理的で、最も絶望的な推論だった。だが騎士は、その可能性を否定した。 「……いや、違う」  その声に、全員の視線が集まる。 「レイラさんがソク師範の幻を見たのは、通信が回復するもっと前のことだったはずだ」  騎士の脳裏に、今朝のレイラの恐怖に歪んだ顔が蘇る。 「あの時点で、ソク師範はすでに蘇っていた。そして、館の中を徘徊していたんだ。通信が回復する前から。だとしたら、答えは1つしかない」  騎士は、言い知れぬ確信と共に、その場の全員に告げた。 「この一連のゲームを仕組んだ犯人は、外部の侵入者じゃない。最初から俺たちの中にいたんだ」  その言葉は、凍てつくような静寂を森にもたらした。誰もが息を呑み、互いの顔を見合わせる。  裏切り者は、この中に? 「そんな……! ナイト、生き残ってるのは、俺たちだけだぞ……!?」  ズバモンが、信じられないというように叫んだ。  その疑念が再び鎌首をもたげる。だが、騎士はそれを制するように、自らの推理を続けた。 「俺はずっと考えていた。本当にエリスたちだけでこれだけのことができるのか、と」  彼の脳裏で、この4日間の出来事が、凄まじい速度で逆再生されていく。  散らばっていたピースが、1つの歪な肖像画を浮かび上がらせるように、音を立てて嵌まっていく。 「始まりは、ソク師範の消失。秘宝探しを最初に提案したのはエリスだった。  だが、2日目の朝、俺たちがまだ戸惑っている中で、積極的に『秘宝探しに行こうぜ!』と皆を煽り混乱を助長させたのは誰だ?」  騎士の視線が、虚空の一点を見据える。 「ソク師範が消えた夜、彼女は勝手に俺の部屋に来て、ベッドを占領して疲れて眠っていた。  だが、俺が夜中に目を覚まし、ソク師範の影を見てユンフェイやレイラさんと話したあとに戻ると、彼女の姿はどこにもなかった。  彼女は、その時一体どこで何をしていたんだ?」 「次に、ティンカーモンの消失事件。生体反応を偽装する装置が見つかったのは、彼女の部屋からだった。  ゴッドドラモンさんはユンフェイさんと一緒に夜警していたというアリバイがあったから、彼女は容疑者から外された。  だが、もし実行犯のエリスと最初から協力関係にあったとしたら?」  騎士の声は、熱を帯びていく。 「そういえば……」  レイラが、はっとしたように顔を上げた。 「2日目に娯楽室で『秘宝探し』をしていた時、確かに……ディエースさんとエリスさんは、初対面とは思えないほど、親しげに話していました。  まるで、ずっと前から知っている仲のように……。あの時は、ただ気が合うだけだと思っていましたが……」  その証言が、騎士の推理に、確信という名の最後のピースを嵌めた。 「ズバモン、ドラコモン、覚えているか? 管理室での四大竜の通信記録を見たときのことを。  あの直後に起きた、謎のハッキング事件。  あの時、システムの近くにいてあれだけの芸当ができる技術を持っていたのは誰だ?  あの異常現象が起きたのは、ディエースがコンソールに触れたまさにその直後だったよな」 「そして、赤城さんを追放した時の議論。エリスの扇動が最後の決め手になった。  だが、赤城さんを追い詰めるもっとも決定的で、もっとも悪意に満ちた『証拠』を提示したのはディエースのセーブモンだった」 「まさか……ディエースさんが……?」  レイラが、信じられないものを見る目で呟いた。あの、能天気でどこまでも明るかった彼女が? 「……俺は彼女にしか出来ないことが多すぎると思っている」  そして騎士は、最後の、そしてもっとも決定的なピースをはめ込んだ。 「俺たちは、あまりにも彼女を無邪気で、何も考えていない女だと思いすぎていた。  だが、彼女にはサクシモンがいる。悪魔のような知略を持つ軍師が。あのアプモンこそが、この完璧な犯罪計画の頭脳そのものだったんだ」  恐るべき結論。エリスもまた彼女にいいように操られた、哀れな被害者の1人に過ぎなかったのかもしれない。 「彼女に声をかけたディエースは何かのカードを渡していた。おそらくあの時渡したものが『シフトイレイザー』のカードだ」  騎士は自らの推理を確信へと変えながら、静かに、しかし強く言い放った。 「真犯人は、ディエースだ」 第4章:『人虎、本性を現す』  静まり返った森の中、騎士が下した決断は、あまりにも無謀で、そして英雄的だった。 「俺が囮になる」  その静かだが、揺るぎない声に、ワイズモンが「正気っすか!?」と素っ頓狂な声を上げた。 「相手は洗脳能力持ちの集団っすよ! しかも黒幕はまだこの近くに潜んでる! 今戻るなんて、ただの自殺行為だ!」  レイラもまた、蒼白な顔で首を横に振る。 「ダメです、騎士さん! 騎士さんまでいなくなったら私たちは……!」  その必死の制止を、騎士は穏やかな視線で受け止めた。 「だからこそ、だ。このままじゃジリ貧になるだけだ。誰かが動かなきゃ、全員が喰われる。  俺が時間を稼ぐ。その隙に、みんなはできるだけ遠くへ逃げてくれ」  その瞳には、もはや生還を期さない者の覚悟が宿っていた。  騎士の隣に、ドラコモンが並び立つ。 「俺も行きます」  彼の瞳には、主を失った悲しみを乗り越え、その無念を晴らすという復讐の炎が燃え上がっていた。 「ユンフェイ殿の……ティンカーモン殿の仇は、この俺が討つ!」  二人の決意は、もはや誰にも止められない奔流となっていた。  レイラとワイズモンはただ頷くことしかできなかった。騎士は、彼らに背を向け最後の言葉を告げる。 「生きてくれ」  それは、嵐を乗り越えた仲間へのそしてこの狂った物語を生き延びてほしいという、魂からの祈りだった。  騎士とドラコモンは、来た道を引き返し再び悪夢の舞台となった青嵐の館へと向かった。  1歩、また1歩と近づくにつれ、張り詰めた空気が肌を刺す。  やがて、森を抜け、館の荘厳な姿が視界に開けた。  その入口に、彼女はいた。  まるでピクニックにでも来たかのように、何事もなかったかのように、ディエースが屈託のない笑顔で立っていた。  その能天気な佇まいは、この絶望的な状況において、あまりにも異質で不気味だった。 「おかえり、ヒーロー」  彼女は、まるで待ち合わせに遅れてきた恋人を迎えるかのように、甘い声で言った。  その瞳には、これまでの狂気の痕跡など微塵も感じられない。 「アタクシが真犯人だって、ようやく気づいた?」  あまりにもあっさりとした自白。騎士は、息を呑んだ。心の準備はしていた。だが、その悪びれない態度に、怒りよりも先に底知れぬ寒気を覚えた。 「……なぜだ」  騎士の声が、乾いた地面に落ちる。 「なぜ、こんなことを……! エリスも、ユンフェイさんも、ティンカーモンも! みんな、お前が!」 「そうだよ」  ディエースは、うっとりとした表情で自らの罪を肯定した。  そして、恍惚と語り始める。その声は愛を囁くように甘く歪んでいた。 「始まりはね、ぜーんぶ、少年のためだったのよ?  あの夜ね、少年のお部屋をこっそり抜け出した後、偶然聞いちゃったの。  ソクのおっちゃんが、『あの小僧のレジェンドアームズは極上の逸品だ』なんて、いやらし~い声で独り言を言ってるのをね。  少年が大切にしてるズバモンちゃんに、ああいう汚い大人が触ろうとしてるなんて……アタクシ、我慢できなかったんだもーん」  彼女は、ぺろりと舌なめずりした。 「だから、お掃除してあげたの。虫けら一匹、プチッてね。本当は、それで終わりで良かったんだけど……見つけちゃってたのよね。  任務に忠実で、心が壊れかけの可愛いお人形さんを」  ディエースの視線が、虚空にエリスの姿を捉える。 「あの子、談話室で話しかけたらさ。イレイザー軍にだけわかるサインを送ってたのよ。だから、私がイレイザーだって教えてあげたの。  そしてさ、色々あの少女に協力してあげたの。  アスタ商会で戯れに作ってた試作品の『シフトイレイザー』のカードを渡してあげたのも私。  そしたら、どう? 予想以上に面白い舞台になったじゃない!」  騎士は、その告白に戦慄した。すべてがこの女の掌の上だったというのか。 「そして、最高だったのはやっぱり少年よ」  ディエースの瞳が、熱を帯びた狂気でぎらついた。 「エリスをその手にかけて、罪の意識に苛まれて……あの、泣き叫ぶ顔!  最高だったわ! もっと見たい、もっと傷つけたい、もっと絶望させたいって、ゾクゾクしちゃったの!」  それは、もはや愛情などという生易しいものではない。所有欲と破壊衝動が歪に混じり合った、純粋な悪意だった。 「だからさ。我慢できなくなって新しいゲームを始めてあげたの。少年の、もっと素敵な顔を見るためにね」 「貴様っ……!」  ドラコモンが、怒りに咆哮する。 「お前が……お前が、真のデジモンイレイザーなのか!」  騎士が、最後の問いを突きつけた。その問いに、ディエースは心底楽しそうに、くすくすと笑った。 「んー、ちょっと違うかなー。見ればわかるだろうけど」  彼女は、おどけるように首を傾げると、その口が耳元まで裂けて歪む。 「変身(シェイプシフト)ッ!!」  ゴキ、ゴキ、と骨が軋むおぞましい音が響き渡る。  彼女のしなやかな肉体が、ありえない角度に捻じ曲がり、再構築されていく。  赤いボディスーツは皮膚と融合するように変色し、その表面に禍々しい虎の縞模様を浮かび上がらせた。  美しい顔立ちは見る影もなく、虎のようになった顔は墨で覆われ、口は獣のように裂け、鋭い牙が剥き出しになる。  両腕は、まるで必要ないというように、ぶちり、と肩から千切れ落ち、黒い帯となって蠢き始め、その体を伝っていく。  代わりに、豊満だった胸部はより大きくに、腹部は消失し、剥き出しの背骨が腰へと不気味に繋がっている。  太ももは膨れ上がり筋骨隆々な虎のようだが、脛から下はまるで骨のよう。  その背中には、巨大な目のついた羽が浮き出て、ぎょろりと騎士たちを睨みつけていた。  そこに立っていたのは、もはや人間の姿ではなかった。  美しさと醜さ、官能と冒涜が歪に同居する、腕のない人虎。 「これが私の本当の姿。イレイザー様に捕まった馬鹿な女とそのデジモンたちが生まれ変わった、人でもデジモンでもないスーパーデジタルクリーチャー」  その名は、『EXイレイザーͱ(ヘータ)』 「あの時の約束通り、本当の私を見つけてくれたご褒美よ。最高に気持ちいい絶望を味合わせてあげる」 第5章:『折れない心』 「……っ、化け物がッ!」  ドラコモンの絶叫が、変貌した悪夢を前にした唯一の抵抗だった。  その青い鱗は、主を操られた屈辱と怒りで逆立ち、凄まじい光と共にデータが書き換えられていく。  たとえ主がいなくとも、その魂は、その怒りは、共に在る。 「ドラコモン、ワープ進化ァァッ! スレイヤードラモン!」  復讐の竜剣士が、白銀の剣を手に、主の仇である人虎へと咆哮を上げた。 「ズバモン、俺たちも行くぞ!」 「おう、ナイトォォッ!!」  騎士の叫びに応え、ズバモンもまた黄金の光を放つ。 「ズバモン、進化! ズバイガーモン!」  2体の勇姿を前にしても、人虎イレイザーヘータはただ楽しげに、喉の奥でくつくつと笑うだけだった。  先陣を切ったのはスレイヤードラモン。その剣閃は音を置き去りにし、イレイザーヘータの喉元を正確に狙う。  ズバイガーモンもまた、その巨体を活かした猛然たる突進で追撃する。  だが、ヘータは自らその死の刃が舞う間合いへと、踊るように軽やかにステップを踏み込んだ。  スレイヤードラモンの剣を紙一重でいなし、ズバイガーモンの突進を最小限の動きで受け流す。  それはもはや戦闘ではなく、猛獣を手玉に取る調教師の戯れだった。 「遅い、遅い、おっそーい! そんなんじゃアタシの心は満たされないわよぉ!」  嘲笑と共に、イレイザーヘータの目が、ぎょろりと不気味に開く。  その瞳から放たれる圧倒的なプレッシャーが、2体の動きを僅かに、しかし確実に鈍らせた。 「くそっ、このままじゃ……! カードスラッシュ、《高速プラグインD》!」  騎士はディーアークを構え、反撃の活路を開こうとする。だが、その行動すら、ヘータの掌の上だった。 「だーめ」  イレイザーヘータの太腿から伸びる、鍵のついた黒い帯が、まるで蛇のように空間を走り、ディーアークから放たれたデータを絡め取る。  チリ、とハッキングの火花が散った。 「そのカードはね、《鈍足プラグインD》に変えといたから」  瞬間、ズバイガーモンの体に鉛のような重さがのしかかる。  自慢のスピードが奪われ、その動きは見る影もなく鈍重になった。 「あーあ、少年に裏切られて可哀想にねー、ズバイガーモンちゃん。少年は、アタシのヒーローなの」  イレイザーヘータは煽るように言うと、心底楽しそうに手を叩いた。 「そうだ、いいこと思いついちゃった! たしかティンカーモンちゃんが考えてた、ユンフェイさん最強計画だよ~ん!」  その言葉と共に、ズバイガーモンを弱体化させたものとは別の黒い帯が、鞭のようにしなり、その体を捕らえ侵食していく。 「グッ……ギギ……!」  ズバイガーモンの体が痙攣し、その瞳から理性の光が急速に消えていく。 「アームズモード」  イレイザーヘータの命令の下、ズバイガーモンは大剣へと姿を変える。  その黄金の輝きに纏わりつく黒い帯によって、まるで虎のような印象を与える。 「さぁユンフェイちゃん受け取って~」  ヘータが手招きすると、転送装置が再び作動し、洗脳されたユンフェイが、感情のない人形のように姿を現した。 「確か、ティンカーモンちゃんが夢見てた最強のユンフェイさんだよ~ん。喜んでくれるかな?」  そう言ってイレイザーヘータはズバイガーモン:アームズモードをユンフェイに渡す。  主の剣技と、レジェンドアームズの力が、最悪の形で融合する。 「さあ、お遊びの時間よ。この最強のユンフェイちゃんに勝てるかしら?」  スレイヤードラモンは、絶句した。  目の前に立つのは、敬愛する主と、友の最強の姿。その2つが、今や自分を殺すための刃となって牙を剥いている。 「ユンフェイ殿……ズバモン殿……!」  悲痛な叫びも虚しく、洗脳ユンフェイは無感情に剣を構え、スレイヤードラモンへと切りかかった。  レジェンドアームズの圧倒的な力と、ユンフェイの磨き抜かれた剣技が合わさった一撃。  究極体であるはずのスレイヤードラモンでさえ、受け止めるのがやっとだった。  キィン、と甲高い金属音が響き渡り、スレイヤードラモンの体勢が大きく崩れる。  一撃、また一撃と、容赦ない剣戟が、彼の白銀の装甲に深い傷を刻み込んでいった。  ズバモンを奪われた騎士は、その光景にただ立ち尽くすことしかできなかった。無力感と絶望が、心を蝕んでいく。 (俺のせいで……俺が弱いから、ズバモンが……!)  だが、その絶望の淵で、彼は見た。  どれだけ傷を負っても、どれだけ追い詰められても、スレイヤードラモンが、決して主と友に反撃の刃を向けることなくただ必死に耐え続けている姿を。  その瞳には、諦めの色など微塵もない。必ず主を取り戻すという、不屈の闘志だけが燃え盛っていた。  その姿に、騎士の心に再び火が灯った。  そうだ諦めるな。俺の相棒は、あんなもので終わるはずがない。  騎士は、武器も持たず、丸腰のまま剣を振るう洗脳ユンフェイの前に躍り出た。 「……邪魔だ」  洗脳されたユンフェイの無感情な声と共に、黄金の剣が騎士の肩を袈裟斬りにする。  肉が裂け、骨が軋む激痛。だが、騎士は怯まなかった。  その一瞬の隙を突き、彼は血を流す腕で、ズバイガーモンの柄を、強く、強く掴みしめた。  そして、叫んだ。魂のすべてを振り絞るように。 「ズバモンッ! 目を覚ませ! お前は、俺の相棒だろぉぉっ!!」  その言葉が、洗脳の奥底に眠っていたズバモンの魂に、直接突き刺さる。  黄金の剣がピクリと震えた。その刀身に宿る意識が、黒い呪縛に抗い、必死にもがいている。  次の瞬間、ズバイガーモンから黒い帯が、まるで焼き切られたかのように弾け飛んだ。 「……ナイト!」  相棒の声。騎士の腕の中に、温かい重みが戻ってくる。 「なっ……!?」  イレイザーヘータの顔に、初めて焦りの色が浮かんだ。黒い帯による絶対的な洗脳が、純粋な絆の力ごときに敗れた。  計算外の事態。  最終的には全員を捕獲し、自分の完璧なコレクションに加えるつもりだった計画が、脆くも崩れ始めたことに、彼女の理性が、プツン、と音を立てて切れた。 「……ムカついた」  その声は、もはや遊びの色を含んでいなかった。 「ユンフェイさん、もういいよ。全員、今すぐここで壊してあげる」 終章:『そして始まる物語』  イレイザーヘータの宣言は、絶対的な捕食者の宣告だった。  遊びの時間は終わり、ただ無慈悲な蹂躙だけが始まる。  スレイヤードラモンは、その圧倒的な殺気を前に一歩も引かなかった。ここで退くなど、四大竜の試練を超えた竜型デジモンの誇りが許さない。 「たとえ相打ちとなろうとも……貴様だけは!」  白銀の竜剣士が、最後の闘志を燃やし尽くさんと地を蹴った。だが、その英雄的な突撃は、あまりにもあっけない結末を迎える。  イレイザーヘータは、迫りくる剣閃を避けることすらしなかった。  ただ、つまらなそうに、そのしなやかな脚でスレイヤードラモンの胴体を蹴り上げた。  それだけの、単純な一撃。  だが、その蹴りは究極体の強固な装甲を、まるで卵の殻のように粉砕し、スレイヤードラモンの巨体を「く」の字に折り曲げ、遥か後方の館の壁面へと叩きつけた。  轟音と共に壁が崩落する。瓦礫に埋もれた白銀の体から進化の光が霧散し、傷だらけのドラコモンの姿へと戻り意識を失う。 「……さてと」  邪魔者を片付けたとばかりに、イレイザーヘータは騎士とズバイガーモンへと向き直る。 「アタクシ、最速最強だからさ。本気出すと速すぎて自分でもどこにいるかわかんなくなっちゃうのよね。ちゃんと目で追ってなさいよ、ヒーロー?」  その言葉を最後に、彼女の姿が、プツリと、何の予兆もなく消えた。  残像すら残らない。空間が歪む気配もない。ただ、そこにあったはずの存在が、忽然と消え失せた。 「どこだ!?」  騎士が全方位に神経を張り巡らせるが、捉えられない。その、ほんの一瞬の思考の隙。 「ここよ」  耳元で、甘い囁きがした。振り返る間もなく、背中に衝撃が走る。  次の瞬間には、イレイザーヘータは再び消え、今度はズバイガーモンを足場に、楽しげに跳ねていた。 「ほらほら、こっち!」  その声は右から、いや、左から聞こえる。まるで瞬間移動。次元の違う速度の前では、騎士たちの反撃は、空を切る風のように無意味だった。  そして、イレイザーヘータが消えるたびに、絶望が1つ、また1つと騎士の目の前に陳列されていく。  一瞬、彼女の姿が掻き消えたかと思うと、次の瞬間には、その腕に気を失ったワイズモンが、ぐったりと抱えられていた。 「まずは、賢者様ゲット~」  再び消え、現れた時には、スナリザモンごとレイラが捕らえられている。 「次は、訳ありママね」  そして、最後に、泡を吹いて気絶したベーダモンまでもがゴミのように放り出された。 「ついでに、お料理おばちゃんも」  騎士が必死で守ろうとした者たちが、あまりにもあっけなく、すべて捕獲されてしまった。  彼らの体を黒い帯が這い回り、その瞳から理性の光が消えていく。  イレイザーヘータは、騎士が築き上げた絆、守ろうとした希望、そのすべてを1つ残らず踏みにじり、騎士の心を折るための道具へと変えていく。 「どう、少年? ぜーんぶ、元通りにしてあげたわよ。貴方が頑張ったこと、なーんにも意味なかったねぇ」  その光景に、騎士は、もはや怒りさえ感じなかった。  そうだ。もう俺しかいない。ドラコモンも倒れ、仲間もすべて奪われた。  ならば、もう守るものもない。失うものもない。  あるのは、この手の中の相棒と、最後まで折れないという、ただ1つの覚悟だけ。  騎士の口から、乾いた声が漏れた。 「まだ俺の心が折れると思ってるのか?」  彼は、自らを奮い立たせるように、イレイザーヘータを挑発した。 「お前は速い。だが、攻撃はすべてその足だけ。近接攻撃しかない。なら攻撃の瞬間なら、斬れるはずだ。  さぁ正面から俺の懐に飛び込んでくる度胸があるなら、やってみろよ!」 「……へえ」  イレイザーヘータの目が、愉悦に細められた。 「いいわ。その挑戦、受けてあげる。貴方の心が、ぽっきり折れる瞬間をこの至近距離で味わってあげる」  最後の駆け引き。騎士は、ズバイガーモンの柄を強く握りしめ、全身の神経を研ぎ澄ませた。  来る。  彼女が消えた瞬間、騎士は目を閉じた。視覚は、もはやこの化物の速さには追いつけない。  肌を撫でる空気の流れ、地面を伝わる微かな振動、そして、殺気の匂い。  その全てを感知し、ただ一点に、未来を予測して、剣を振るう。 「ここだッ!!」  騎士の叫びと、黄金の剣閃が空を裂く。  それは完璧なタイミングだった。虚空から現れたイレイザーヘータを、ズバイガーモンの切っ先が寸分の狂いもなく捉える。  だが、力の差はあまりにも絶望的だった。  ズバイガーモンの刃は彼女の体に突き刺さる寸前で、まるで分厚いゴムに阻まれたかのようにぴたりと止められた。 「……やるじゃない」  イレイザーヘータの口元が、三日月のように歪む。 「でも、私に傷をつけたいならレジェンドアームズと言えど究極体を持ってこないとね」  彼女の太腿から伸びた3本の帯と、その先についた禍々しい鍵が、逆襲の鞭となって騎士へと襲いかかった。  ザシュッ、と肉を断つ生々しい音。  凄まじい衝撃と共に、ズバイガーモンの黄金の刀身が、鍵によって両断された。  そして、その勢いを殺しきれなかった3つの刃は、騎士の顔面を左顎から額にかけて深く斬り裂いていった。 「ぐ……あああああっ!」  視界が、閃光と激痛で真っ白に染まる。骨が軋む音が頭蓋に直接響いた。  切断されたズバイガーモンが、悲鳴を上げる間もなく光の粒子に分解され黄金のデジタマへと還っていく。  騎士もまた、血飛沫を上げながら、崩れ落ちるように地面に倒れた。  薄れゆく意識。遠のいていく現実。  その、生の最後の瞬きの中で、騎士は見た。  最後の幻視を。    ☆  そこは、緑豊かな渓谷だった。だが、その平和は炎と黒煙によって無残に引き裂かれている。  無数のデジタマが安置された巣が、凶暴化したメガドラモンやギガドラモンの軍勢によって蹂躙されていた。  まだ幼いパートナーデジモンを連れた子供たちが、必死の形相で応戦しているが、戦況は絶望的だった。  その中で、1人の少年が、ひときわ眩い黄金色のデジタマを胸に抱き、必死に逃げ惑っている。  だが、その背後から、メガドラモンの影が迫る。 「やめて、虐めないで! デジタマを壊さないで!!」  少年の悲痛な叫び。それは、自分の声ではない。だが、その絶望は、まるで自分のもののように騎士の魂を締め付けた。  メガドラモンは、少年の懇願など意にも介さず、その巨大な爪を振り上げる。  少年は、自らの体を盾にするように、必死にデジタマを庇った。 「やだ、やめて! この子は僕の……僕のパートナーデジモンなんだ!!」  だが、暗黒の使者たちにその祈りは届かない。  メガドラモンの無慈悲な一撃が、少年を吹き飛ばす。  そして、その腕から放たれたミサイルが黄金のデジタマを薙ぎ払った。  パリン、と澄んだ、しかし残酷な音が響き渡る。  砕け散った黄金の殻は、孵ることのなかった命の光と共に、虚空へと掻き消えた。  少年の世界が、絶望の色に塗りつぶされていく。 (……うるさい)  誰の記憶だ。知らない。こんなものを見ている場合じゃない。 (俺の相棒はまだデジタマに戻っただけだ。完全に終わっちゃいない……!)  見知らぬ少年の絶望が、黒い奔流となって騎士の意識を飲み込もうとする。  だが、騎士は抗った。自らの血の匂い、砕けた骨の痛み、そして何よりも、この手の中に残るはずのズバモンのデジタマの温もりを、必死に手繰り寄せるように。 「……戻れよ」  幻視の闇の中で、騎士は強く願った。 「俺は、まだ終われない……ッ! 俺は……相棒のデジタマを……守りぬく!!」  その強い意志が、時空の奔流を逆流する。  暗転した視界が、ゆっくりと、現実の光を取り戻していった。    ☆  現実へと意識を引き戻した騎士の目に映ったのは、苛立ちに顔を歪めるイレイザーヘータの姿だった。 「ちっ……! 面倒くさいことしてくれたわねー」  洗脳でも、消去でもない。ただのデジタマへの退化。  彼女の計算が狂ったことに、その舌打ちが苛立ちを隠さずに物語っていた。 「あー、もう失敗は消すに限る! 消してスッキリしよ!」  イレイザーヘータは、興味を失った玩具を処分するかのように、地面に転がる黄金のデジタマへと、無造作に歩み寄る。  その太ももから伸びた黒い帯が、蛇のように鎌首をもたげ、デジタマを串刺しにせんと狙いを定めた。 「させる……かよ……ッ!」  騎士は、満身創痍の体を無理やり引きずろうとした。だが、動かない。全身の骨が悲鳴を上げ、神経が焼き切れたかのように反応しない。  幻視で見た、あの光景。パートナーを失った少年の絶望。  砕け散った黄金のデジタマ。あの慟哭は、自分の未来なのだと、魂が理解してしまった。 (やめろ……やめてくれ……!)  心の中で叫ぶ。だが、その声は誰にも届かない。絶望が、冷たい泥のように心を塗りつぶしていく。  その、諦観が全てを支配しかけた、瞬間だった。  トクン、と腹の奥底で、忘れかけていた脈動が響いた。 (違う。あれは俺の記憶じゃない! でも、これだけは……これだけは絶対に繰り返させない!)  誰かの絶望ではない。今起きているこれは俺の絶望だ。だからこそ。 (俺の相棒は……俺が守るんだッ!!)  その強い、あまりにも純粋な意志が、引き金となった。  騎士の体内にある『刻の龍珠』が、主の魂の叫びに呼応し歓喜に打ち震えるようにその封印を内側から食い破った。  ズキィッ!!  脳の血管がすべて焼き切れるかのような、凄まじい激痛。  魂そのものが、過去と未来に無理やり引き伸ばされるような、おぞましい感覚。  騎士の視界が、ぐにゃりと歪んだ。  イレイザーヘータが振り下ろそうとする黒い帯の動きが、まるで水飴の中を進むかのように、無限に引き伸ばされていく。  遅い。  肉体は、もう騎士の意志とは無関係に動いていた。  騎士の強い意思で暴走した龍珠の力が、満身創痍のはずの体を、時空の理を超えた操り人形のように動かす。  騎士の体が、残像を残して掻き消えた。彼はデジタマと彼女の間に滑り込んでいた。  勝てなくていい。ただ、この温もりだけは、絶対に失わせない。  騎士は、最愛の相棒が遺した最後の光を自らの背中で庇うように覆いかぶさった。  ザクリ、と肉を抉る鈍い音。  イレイザーヘータの帯の先端についた鍵が、何の躊躇もなく騎士の背中を深々と貫いた。 「ぐ……あ……」  今度こそ、意識が完全に暗闇へと落ちていく。  遠退く思考の中、彼はただ腕の中のデジタマの確かな重みだけを感じていた。  守れた。それだけで、良かった。 「ふぅん。そんなに大事だったんだ。よしよし、ちゃんと守りきって偉いわね、ヒーロー」  イレイザーヘータは、まるで愛しい子供に褒美を与えるかのように、その髪を優しく撫でた。 「でも、もう邪魔はいないわね。さ、今度こそ、お掃除の時間よ」  彼女が、3度、デジタマへと黒い帯を振り上げた、その瞬間だった。  ゴォォォッ、と背後のワープゲートが、これまでとは比較にならないほどの激しい光を放って起動した。  閃光の中から現れたのは、純白の鎧に身を包んだ、気高き剣士。  その右手に握られた聖剣デュランダルが、日の光を反射し、神々しく煌めいていた。  白きデュランダモンは、現れるや否や、イレイザーヘータが放った黒い帯を、聖剣の一閃でいとも容易く弾き返した。 「なっ……!?」  驚愕するイレイザーヘータの前に、ゲートからゆっくりと一人の男が歩み出る。  その姿を見て、彼女の顔が、初めて本物の驚きに染まった。 「……赤城……鋼太郎!? 馬鹿な、エリスちゃんが消したんじゃなかったの……!」 「フン、その名で呼ばれるのも1日ぶりだな」  男は、忌々しげに呟くと、ゆっくりと事の真相を語り始めた。 「3日目の朝、僕が牢にいる時、ゴッドドラモンが密かに訪ねてこられた。彼は、取引を持ちかけてきた。 『貴方の潔白は信じよう。だが、もはや誰が敵か分からぬ。どんな手段を使ってでも、この館で起きたことの最後の証人となってほしい』と」  赤城の瞳が、遠い記憶をたどるように細められる。 「僕はその取引を受け、消失を偽装した。君たちが朝食を摂っている頃に牢から出してもらい、自らの手で、あの牢を破壊した。  その後、館の外周部……システムの監視が届かぬさらなる地下へと潜み、息を殺していたのさ。  ゴッドドラモン殿が牢への道を封鎖したのは、私を隠すためだ。  あの隠し通路は、エラーで閉じ込められた場合、内側から破壊して脱出できるようになっている。 『もし明日の朝、私が牢への封鎖を解かなければ、何かが起きたということだ』と、彼は言い遺してな」  赤城は、そこで一度言葉を切ると、イレイザーヘータを射殺さんばかりの鋭い視線で睨みつけた。 「そして、その『何か』が起きた。だから出てきた。  ゴッドドラモン殿の言う通りあの牢こそが、この館でもっとも安全な場所だったというわけさ」  全ては、竜神が遺した最後の策謀だったのだ。  その時、森の方から、新たな2つの影が駆けつけてきた。 「影太郎さん!」  快活な声と共に現れたのは、彼とコンビをくんでいたパーカーを着た少女、赤城アカネと、そのパートナーであるシャニタモンだった。 「アカネ! そこの少年とデジタマを頼む……!」  赤城鋼太郎――いや、本名を秋月影太郎と呼ばれる男は、彼女に騎士の保護を命じる。  アカネは、ただならぬ様子に頷くと、シャニタモンと共に倒れた瀕死の騎士に、仲間が作った特製の回復薬を打ち込む。  そして、黄金のデジタマとともに手際よく安全な場所へと運び始める。  守るべきものを託し、影太郎は、もはや何の躊躇いもなくその剥き出しの憎悪をイレイザーヘータへと向けた。 「僕の目の前で……! あの時のように、デジタマを消そうとした貴様だけはッ! 絶対に許さんッ!!」  それは、学者を演じていた男の仮面の下に隠されていた、彼の本質。  過去に深い傷を負った1人の復讐者の咆哮だった。  秋月影太郎の剥き出しの憎悪が、イレイザーヘータへと突き刺さる。  デュランダモンが聖剣を構え、今まさに最後の戦いの火蓋が切られようとした、その時だった。  空が、唐突に影に覆われた。  見上げれば、巨大なデジシップが音もなく上空に滞空し、その船底から一筋の影が凄まじい速度で降下してくる。 「アミーゴ! 助けに来たぜぇ~!」  陽気な声と共に現れたのは、眼の前のイレイザーヘータと同じく異形の存在だった。  蟻を思わせる外骨格と6つの手足。その全身には、無数の重火器が無造作に搭載されている。  そして何より異様なのは、頭部が存在しないことだった。 「『EXイレイザーϸ(ショー)』様が来たからには、もう安心だ!」  その名は、影太郎の脳内に直接響くように、認識された。  イレイザーショーは、降下しながら、その両腕に持つ銃から水の銃弾を乱射する。  だが、その銃弾は誰かを傷つけるものではなかった。  空中に展開される魔法陣を通過するたびに、水滴はきらめく光の粒子へと変わり、影太郎たちの足元へと、まるで優しい雨のように降り注いだ。  瞬間、彼らの足元に、複雑な紋様の魔法陣が浮かび上がる。 「しまっ……! 強制転送か!」  影太郎が叫ぶが、もう遅い。  眩い光が視界を焼き、強烈な浮遊感が全身を襲う。  抵抗する間もなく、彼らの体は、この絶望の舞台から、強制的に退場させられていった。  ワープアウトした先は、新たなデジモンの誕生と再生を司る聖地、フォルダ大陸に存在する『はじまりの街』だった。 「くそっ……! あと一歩だったというのに……!」  影太郎は、悔しげに地面を叩いた。だが、今は感傷に浸っている場合ではない。  彼の視線の先には、アカネとシャニタモンに抱えられ、ズバモンのデジタマを胸に抱いたまま、静かに眠る騎士の姿があった。  その顔に刻まれた生々しい傷跡が、この戦いの凄惨さを物語っている。 「急いで! ケンタル医院へ運ばないと!」  アカネの声に促され、影太郎は憎しみを胸の奥に押し込め、騎士を抱え上げると、街へと駆け出した。    ☆  一方、青嵐の館の前では、イレイザーヘータの姿から戻ったディエースが、忌々しげに舌打ちをしていた。 「ちぇー、邪魔が入っちゃった。シエーン、余計なことしないでよ」 「おっとすまねぇ、アミーゴ。ま、そんなに支障はないだろ?」  軽口を叩くシエーンの隣で、セーロがじっとりとした視線をディエースに向ける。 「おやおやシエーンを責める前に、吾輩の目は誤魔化せませんぞディエース殿」  セーロは浮遊装置の上でふんぞり返り、品定めするような目で続けた。 「あの少年、どうして殺さなかったでありますか? 最後の一撃、やろうと思えばデジタマごと貫き、消滅できていたはずであります」  その追及に、ディエースはつまらなそうに鼻を鳴らした。 「『刻の龍珠』の消滅を優先したのよ。あの一撃で、あの少年の記憶と、『刻の龍珠』も、綺麗にイレイズしてあげたから。  もうあの子の中にはズバモンとの思い出も、この館での絶望も、何も残っちゃいないわ。その後はあの白いのに防がれちゃった」 「それはそれは、お優しいことでありますなぁ」  セーロの口調が、さらにねっとりと甘くなった。 「てっきり、吾輩はディエース殿があの少年に何か特別な思い入れでもあるのかと、勘繰ってしまったでありますよ。  我々、デジモンイレイザー様のエイリアスたる『クリーナーズ』の流儀からすれば、随分と甘い処置でありましたからなぁ」  その挑発的な言葉に、ディエースの纏う空気が、ピリ、と変わった。  彼女はゆっくりと振り返ると、これまで見せたことのない、恍惚と狂気が入り混じった妖しい笑みを浮かべた。 「あるに決まってるじゃない」  その声は、恋する乙女のように弾んでいたが、瞳の奥には獲物を嬲り殺す捕食者の光が宿っている。 「私のことを、わざわざ時間を超えてまで見つけ出してくれた子よ? 女の子なら運命を感じて当然じゃない。ねえ、そうでしょ?」  彼女はうっとりと目を細め、自らの指先を唇でなぞった。 「これで少年は、アタシと同じになったの。過去も、記憶も、大事なものも、ぜーんぶ失くした、空っぽの人形に。面白いでしょ?  それでもし、真っ白になった彼が、また私のもとにたどり着くっていうのなら……その時は、特別に私たちの仲間に入れてあげようかなって」  その歪んだ独占欲に、シエーンは「へっ相変わらずだな、アミーゴは」と面白そうに笑い、セーロは「やれやれであります」と呆れたように首を振った。 「しかしこの館はいい拠点だねぇ」  シエーンが、再生されたばかりの緑豊かな大地を見渡し、満足げに言う。  話題は、もはやディエースの歪んだ恋情から、より現実的なものへと移っていた。 「うむ! このエリアを切り取って吾輩たちのゾーンにさせてもらうであります!!」  この日、デジタルワールドの地図から、青嵐エリアは忽然と消失した。    ☆  時は過ぎ、はじまりの街、ケンタル医院。  騎士の意識は、真っ白な世界を漂っていた。  白いベッドの上で、彼は静かに眠り続けている。  その胸の上には、黄金のデジタマが。彼の心臓と呼応するように、微かな、しかし確かな温もりと光を放っていた。  やがて、眠り続ける彼の頬を、一筋の涙が静かに伝った。  そのたった1つの小さな命を救う代償は、少年自身のすべてだった。  両親に与えられた名も、友と育んだ絆も、喜びも、悲しみも、彼が生きてきた物語は奪われ、そこには空っぽの器だけが残された。  だが、無になった少年の手に残された、唯一の真実。守り抜いた命の黄金の温もり。  その小さな鼓動こそが、彼の最初の記憶となり、最初の絆となり、そして、真っ白な未来という地図に記される、唯一の道標となるだろう。  The Knight's Lost Memories. Fin. エピローグ:『イレイザー』  光の粒子が、ロビーの床で静かに渦を巻き、寄り集まり、やがて人の形を成していく。  エリス・ローズモンドは、まるで深い眠りから覚めるかのように、ゆっくりとその瞼を開いた。  目の前には、見慣れた赤いボディスーツに身を包んだディエースが、にこやかな笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。 「おはよう、エリスちゃん。よく眠れた?」  その声には、何の感情も温度もなかった。エリスはゆっくりと身を起こし、自分の手を見つめる。  騎士に貫かれたはずの胸、竜神の炎に焼かれたはずの肌。そこには、痛みも傷跡も、何一つ残っていなかった。 「……約束通り、生き返らせてくれたのね」 「当然でしょ? 優秀な道具は、壊れたら修理してまた使うのが一番効率的じゃない。感謝しなさいよね」  感謝も、喜びもない。ただ、契約を履行した者と、された者との間の、乾ききったやり取りだけが、静寂の中に響いた。  ディエースは、まるでこれから始まる舞台の幕開けを告げるように、楽しげに手を差し伸べた。 「ちょうど今から面白いショーが始まるんだけど、見る? 感動の再会劇よ」  その言葉に誘われ、エリスは、何の感情も映さない虚ろな瞳のまま、食堂へと足を向けた。  食堂の中央では、かつてベーダモンが腕を振るった厨房の代わりに、自動調理器が禍々しい青い光を放ち地響きのような駆動音を立てていた。  その前で、悪夢の続きが演じられていた。  洗脳を解かれたレイラとスナリザモンが、蘇生させられたかつての部下たち『グラニットガーディアンズ』の面々と再会を果たしていた。 「みんな……すまない……! 私が、お前たちを見捨てたばかりに……!」  レイラは涙ながらに罪を告白し、罵倒されることを覚悟した。だが、返ってきたのは、彼女の心を根こそぎ抉り取る、歓喜の声だった。 「何言ってんだ大将! あんたの判断は正しかったぜ!」 「そうだ! 俺たちを犠牲にしてでも生き延びる! それこそ俺たちが惚れた悪女! 大将の器量じゃねえか!」  これが悪党の価値観。彼らは、見捨てられたことすらも、彼女の冷徹な判断力として、心からの賞賛を送っていた。  生まれ変わろうともがいていた彼女にとって、過去の自分を肯定されることこそが、最大の罰だった。 「違う……私は……もう、そんな人間じゃ……!」  耳を塞ぎ、その場に崩れ落ちるレイラの姿を、ディエースは心底楽しそうに眺めていた。 「ねぇレイラさん、辛い?」  苦しみもだえるレイラの耳元で、ディエースが悪魔のように甘く囁く。 「過去の罪からも今の苦しみからも、ぜーんぶ解放させてあげる。記憶なんて消しちゃえばいいのよ。  ただの真っ白な人形になれば、もう何も感じなくて済むわ。それが本当に生まれ変わるってこと」 「ママを騙すな!」  スナリザモンが、主を守ろうとディエースに飛びかかる。  だが、彼女の体から伸びた黒い帯が、まるで鬱陶しい蝿でも払うかのように軽くいなし、スナリザモンは壁に叩きつけられ気を失った。  レイラは、もはや抵抗する気力もなかった。  この苦しみから解放されるのなら。  彼女は最後に一度だけ、動かなくなったスナリザモンを強く、強く抱きしめた。 「ごめんね……。私にはやっぱり、あなたを育てる資格がなかったみたい……」  涙ながらにそう呟くと、彼女は自らの意思で、青い光を放つ改造された調理器へとゆっくりと歩み寄っていった。  レイラ、そして気絶したままのスナリザモン、グラニットガーディアンズの面々が、次々と調理器の光の中へと吸い込まれていく。  内部で金属が軋むようなおぞましい音が響き、やがて排出トレイから現れたのは、青い宇宙服のような無機質な装甲に身を包んだ、個性のない兵士だった。 「これが、アタシたちの玩具、イレイザー。人間とデジモンの融合体。  えーっと、マニュアルによると元々はデジタルワールドの作成者がエンシェントツリー、即ちイグドラシルを用いて作った存在らしいのよ。  その力は究極体6体を連れたゴールドランクのテイマーに勝てるが、進化も退化も必要ないからサーバーへのストレスも少ない。  記憶も自我も、感情もない。ただ命令に従うだけの、完璧な人形よ」  ディエースの言葉に、エリスが食堂の隅に視線を向ける。  そこには、既に同じ姿の兵士たちが、ずらりと機械的に整列していた。 「ああ、あれ? ソクのおっちゃんとマスターティラノモンにゴッドドラモンを混ぜたやつ。  隣のはユンフェイさんとドラコモンくんにティンカーモンちゃんを混ぜたの。み~んなイレイザーになってもらったわ」  その光景は圧巻であり、そして絶望的だった。  ディエースは、1枚のカードをエリスに見せる。 「貴女に使わせた『シフトイレイザー』のカード。あれは、この子たちの戦闘形態をカード化した試作品。  エリスちゃんのおかげで四大竜にも通じるといういいデータが取れたわ。疑ってたけど本当に権限が上なのね」  自らの切り札が、この無個性な兵士を量産するための、ただの実験に過ぎなかったという事実。  それが、エリスの砕け散ったプライドの欠片を、さらに細かく踏み潰した。  ディエースは、エリスと、蘇生させられてその傍らに佇むフローラモンに、最後の選択を迫った。 「さて、エリスちゃんはどうする?  今までの働きに免じて、木竜軍団に戻してあげてもいいわよ。デュアルビートモンも、優秀な部下が戻れば喜ぶでしょうね。  ……それとも、もっと楽で、気持ちよくて、強くなれる道を選ぶ?」  その言葉に、フローラモンが必死に主の手を握る。 「エリス、もう一度、戦いましょう……! 今度こそ、復讐を……!」  だが、エリスの心はとうに壊れていた。戦う意志も、復讐心も、燃え尽きていた。 「……楽に、なりたい」  彼女はフローラモンの手をそっと振り払うと、何も映さない虚ろな瞳で、自ら調理器へと向かった。  主人の後を追うように、絶望したフローラモンもまた、調理器の青い光の中へと、その身を投じた。  新たな『イレイザー』が生産され、完璧な兵士の列に加わる。  その無個性な集団の中には、かつて騎士と絆を結び、戦い、涙した者たちの姿があった。  彼らの魂はもはやどこにもない。  ただ、新たな命令を待つだけの、空っぽの人形が並んでいるだけだった。