Chapter8:『最後の審判』 8.1:『狂気の円舞(ルナティック・ロンド)』  騎士はゆっくりと顔を上げた。灼熱の奔流が残した熱の残滓が、無重力の空間に揺らめいている。  銀河は静寂を取り戻していたが、その静けさは墓標のように冷たく、重い。  騎士の視線が、混沌の爪痕が生々しく残る回廊をゆっくりとなぞっていく。  その視線が最初に捉えたのは、この神の法廷の主、ゴッドドラモンの姿だった。  彼は、自らが放った破壊の奔流の中心に、何事もなかったかのように静かに佇んでいた。  黄金の巨躯は、銀河の光を浴びて神々しく輝き、その表情からは、強大な力を行使したことによる消耗の色さえ読み取れない。  ただ、その瞳だけが自らの聖域を穢し秩序を乱した愚かな者たちへの冷徹な怒りを燃やしていた。  絶対的な上位者。その揺るぎない存在感が、この空間のすべてを支配していた。  次に映ったのは、気を失ったまま宙に浮かぶディエースの姿だった。  彼女の赤いボディスーツは所々が焼け焦げその傍らでユンフェイが苦悶の表情を浮かべながら彼女の体を支えている。  彼の纏う漢服もまた衝撃波でズタズタに引き裂かれていた。あの瞬間、ユンフェイは自らの身を挺してディエースを守ったのだろう。  その献身的な行動が、騎士の胸をわずかに締め付けた。  少し離れた場所では、オウリアモンがその巨大な花弁のような翼で、主であるエリスを庇うように覆いかぶさっていた。  オウリアモンの体には生々しい火傷の痕が無数に刻まれ、その美しい花弁は端々が黒く炭化している。  彼女は苦しげに息を吐きながらも、その瞳はただひたすらに、腕の中で震える主人へと向けられていた。  その光景が、先ほどまでの激戦が、夢などではない紛れもない現実であったことを物語っていた。  騎士は、幻視で見た記憶を反芻する。  星脈の交易所で、彼女が味わった絶望。信じていた者たちからの裏切り、守るべきだったはずの統治者の無残な死。  そして、すべてを失い木竜軍団に降りながらも復讐の化身となるしか生きる術を見つけられなかった孤独な少女の姿。  エリスもまた、被害者なのだ。この狂った世界の理不尽さに、その心を根こそぎ踏みにじられた、1人の少女。 「ユンフェイさん、ディエースを頼む」  騎士は、憎悪と怒りに顔を歪ませるユンフェイに静かに声をかけた。  ユンフェイは、何も言わずに一度だけ強く頷くと、ディエースを抱えたままゆっくりと後方へと下がる。  その瞳が、騎士に「後は任せた」と、無言で告げていた。  騎士は、エリスへと歩み寄った。1歩、また1歩と、無重力の空間を蹴る。その足取りにもはや迷いはない。 「エリス、もうやめよう」  その声は、驚くほど穏やかだった。だが、その響きの奥底には、彼女の罪も、悲しみも、すべてを受け止めるという、鋼のような覚悟が宿っている。 「俺は、星脈の交易所で君に何があったのかを知った」  その思いがけない言葉。騎士が自らのもっとも深い傷に触れた瞬間、エリスの肩がびくりと、しかし微かに震えた。  彼女を覆っていたオウリアモンもまた、驚きに花弁を開く。エリスはゆっくりと顔を上げた。  その青い瞳に浮かんでいた氷のような仮面がほんの少しだけひび割れたように見えた。 「君を絶望させたのは、木竜軍団のデュアルビートモンだ。彼の策略が、君からすべてを奪った。ならばその怒りの矛先を向けるべきは、俺たちじゃないはずだ」  騎士の言葉は、熱を帯びていく。それは、単なる同情や憐憫ではなかった。かつて背中を預け合った戦友の魂を、絶望の淵から引きずり出すための、必死の叫びだった。 「君の復讐に俺たちが手を貸す。デュアルビートモンだけじゃない。君の世界を壊したデジモンイレイザーそのものを、俺たちが一緒に討つ。  だから……だから、もうイレイザーの支配から逃れるんだ! エリスお前は、こんなことをするような奴じゃないだろ!」  その言葉は心の奥底、硬く閉ざされた記憶の扉を激しく叩いた。  そうだ、復讐。忘れていたわけではない。心の奥底で、ずっと燻り続けていた。  あの慇懃無礼な虫けらへの骨の髄まで焼き尽くすような憎悪。仲間を、マジラモン様を、そしてエリスの誇りを踏みにじった、あの男……! 「エリス……」  オウリアモンが、すがるような声で主の名を呼ぶ。彼女の瞳には復讐の炎がゆらりと灯っていた。  今度こそ、今度こそ2人で、あの屈辱を晴らせるかもしれない。  エリスの表情が、ほんの一瞬、揺らいだ。かつての勝ち気で、仲間思いで誰よりも優しい少女の顔が、氷の仮面の奥から垣間見えたその時だった。 「……ふっ」  エリスの唇から、乾いた息が漏れた。 「あ……あはは……」  それは、か細い笑い声だった。だが、それは瞬く間に制御を失ったかのように大きくなっていく。 「あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっ!」  理性のタガが完全に外れたかのような甲高く、そして耳障りな狂気の高笑いが、神聖なはずの竜天回廊を冒涜するように響き渡った。 「復讐ぅ~? 馬鹿言わないで」  エリスは恍惚とした表情で天を仰いだ。 「私はね、感謝してるのよ。弱い自分を捨てさせてくれたあのお方に!」  その言葉は、騎士だけでなく、復讐を誓い彼女を信じていたオウリアモンの心さえも容赦なく突き刺した。 「弱い者を踏みつけ、弄び、ただ命令されるがままに破壊する。  何の責任も感じずに、ただ強者の庇護の下で、好きなだけ力を振るえるのよ? こんなに楽しいこと他にないじゃない!」  彼女の告白は、絶望の淵で彼女が見出したあまりにも歪で、そして救いのない真実だった。  支配されることの快感。  強者の意志という免罪符の下で、かつての自分が忌み嫌っていた弱者を虐げるという底なしの愉悦。 「君は……本当に、それでいいのか……」  騎士の声が、絶望に震えた。 「ええ、いいのよ。だって、楽なんだもの。気持ちがいいんだもの」  エリスは、うっとりとした表情で、自分の両手を見つめた。 「だから、私に復讐なんて感情はないの。あるのは、木竜将軍様への絶対的な忠誠と、この素晴らしい世界をもっともっと壊してみたいっていう純粋な好奇心だけ」  彼女はゆっくりと視線を落とし、愕然とするオウリアモンを見下ろした。  その瞳には、かつての愛情など微塵も感じられない。ただ、便利な道具を見るかのような冷たい光が宿っているだけだった。  エリスは腰のポシェットから、禍々しい紫色の輝きを放つ巨大なハサミの形をしたアイテムを取り出した。  それはまるで、悪魔の顎そのものを切り取ってきたかのような、凶悪な造形をしていた。 「さあ、飲み込みなさいオウリアモン。これが、木竜将軍様からいただいた更なる『力』よ。貴女がもっと私の役に立つための素敵なプレゼント」  突きつけられたのは拒絶の許されない最後通牒。そして、後戻りのできない魂の契約書。  それは『悪魔のハサミ』と呼ばれる進化アイテム。デュアルビートモンが星脈の交易所を制した策と同じ、進化の系統樹を無視する悪魔の道具。 「エリス……どうして……」  オウリアモンは、涙を流しながら、変わり果てた主を見上げた。  もう、昔の優しいエリスはどこにもいない。目の前にいるのは、強者の論理に魂を売り渡した見知らぬ怪物だった。  それでも。  たとえ、彼女がどんな道を選ぼうとも。  自分だけは、最後まで彼女の側に。 「……わかりました、エリス」  オウリアモンの声は、絶望に震えていた。だが、その瞳には、エリスへの変わらぬ愛情と自らの運命を受け入れるという悲壮な覚悟が宿っていた。 「エリスがそれを望むのなら……。私は、あなたの剣。あなたの、盾……。たとえこの身が、どんなおぞましい姿に成り果てようと……私はエリスの側に……」  そう呟くと彼女は震える花弁で、『悪魔のハサミ』をそっと受け取り、そして自らの核へとゆっくりと取り込んでいった。  その瞬間、オウリアモンの体を、禍々しい黒のデータがまるで呪いのように侵食し始めた。  食虫花の姿は捻じ曲げられ、苦悶の叫びと共にその輪郭を急速に変えていく。 「グ……オオオオオオオオオッ!!」  進化の光が収まった時、そこにいたのは、もはや花の面影など微塵も残っていない、ただ巨大で、無慈悲な殺戮兵器だった。  鋼のように硬い漆黒の甲殻。あらゆるものを切り裂くために進化した、巨大な顎。  そして、赤い瞳が理性の光を失い、ただ目の前の敵を破壊せよという命令だけを求めて禍々しく点滅している。  究極体、破滅の黒王グランクワガーモン。  復讐を誓った花の化身は、悪に堕ちた主人の手によって、理性を失くした破壊の甲虫へと成り果てた。  その狂気的なまでの主従関係。弱者を弄ぶことに快感を覚えるという歪んだ告白。  そのすべてが、レイラの心に、忘れたいと願っていた過去の自分を鮮烈に映し出した。 「あれは……私だ……」  彼女の唇から、絞り出すような声が漏れる。スナリザモンが、その言葉を聞いて必死に主の腕に擦り寄った。 「違うよ、レイラ! ママはあんな悪いやつじゃない!」  その温かい声がレイラを悪夢から引き戻す。そうだ、違う。私はもう、あの頃の私じゃない。  この子がいる。守りたいと、心から願える存在がいる。  レイラは、過去の自分と決別するために、スナリザモンと共に戦うことを改めて強く心に誓った。 「もはや対話はできませんな」  その狂気の変貌劇を、ゴッドドラモンは冷徹な瞳で見届けていた。 「貴様らは、この世界の秩序を乱すバグに過ぎません。今ここで、完全にデリートしましょう」  竜神の宣告と共に、その両掌から、2つの魂が具現化する。  左の掌からは、破壊のすべてを司る紅蓮の竜『アモン』が。  右の掌からは、再生のすべてを司る蒼雷の竜『ウモン』が。  2体の竜は、主人の怒りに呼応するように雄叫びを上げ、エリスとグランクワガーモンを睨みつけた。 「私も本気を出させてもらうわ」  エリスは、もはや少女の姿ではなかった。彼女もまた、奥の手を発動させる。 「カードスラッシュ、《雷のスピリットH》、《遊のスピリットB》、そして《スピリット進化(エボリューション)!!》」  2つの伝説の魂が彼女の体を包み込み、その姿を、あの慇懃無礼な虫の紳士、遊雷魔将デュアルビートモンへと変えた。  その左手は鋭利な爪へと変貌し、腰からは禍々しい赤いハサミが伸び、背からは虹色の光沢を放つ翅が静かにはためいていた。  胸元のイコライザーが怪しく明滅し、あらゆる感情を音の波形へと変換しているかのようだ。 「では、始めましょうか。最終楽章を」  デュアルビートモンエリスの声と共に、理性を失ったグランクワガーモンが、地を揺るがす咆哮を上げ、ゴッドドラモンへと突進した。  その巨体を、デュアルビートモンの頭部にある3本の角から放たれた高圧電流『トライデントノーツ』が、稲妻の鞭のように幾重にもなって援護する。  羽のスピーカーからは、聴く者の精神を直接蝕むような不協和音が鳴り響き、空間そのものを歪ませていた。  だが、ゴッドドラモンは動じなかった。 「遅い」  彼は、グランクワガーモンの巨大な顎を、掌底の一撃で軽くいなす。  続けて、デュアルビートモンの電撃と音波による波状攻撃を、まるで舞うように最小限の動きですべて回避してみせた。  その体術は、力と技が完璧に融合した、まさに神の領域だった。  彼は、アモンの紅蓮の炎を纏った裏拳をグランクワガーモンの腹部に叩き込み、ウモンの蒼雷を尻尾に宿らせ、鞭のようにしならせてデュアルビートモンを弾き飛ばした。 「この程度ですか。ソク師範を消した貴方達の実力がこの程度のはずがない。彼は実力は確かでしたからね。油断はいたしません」  次元の違う強さ。それが、四大竜と呼ばれる存在の真の実力だった。 「ええ、ええ。そうでしょうね。油断してくれるなら、それに越したことはありませんでしたけれど」  吹き飛ばされながらも、デュアルビートモンエリスは、体勢を立て直し、不気味に笑う。 「木竜将軍様からいただいたとっておきの切り札。アリーナ1位とやらのコピーカード、とくと味わっていただきましょうか!」  彼女が叫ぶと同時に、その手から次々と伝説級のカードがスラッシュされていく。  肉体を限界以上に回復させる《ホーリーセブンズ》のカード。  絶対的な先手を取る《スピードセブンズ》のカード。  体力を攻撃力へと転換する《グランドセブンズ》のカード。  そして、その攻撃力を3倍にまで跳ね上げる《ワイルドセブンズ》のカード。  凄まじい光の奔流が、グランクワガーモンへと注ぎ込まれ、そのポテンシャルを異常なレベルにまで引き上げていく。  騎士は、その光景に戦慄した。噂でしか聞いたことのない幻のカード群。なぜエリスがそれを。 「そして! カードを再使用可能にすることでもう一度繰り返す《リバースセブンズ》!」  悪夢は終わらない。使用したセブンズカードの効果が再びグランクワガーモンを襲う。  回復に回復を重ね、その巨体は傷一つないどころか先ほどよりも強固に。  攻撃力は、もはや計測不能な領域へと達していた。 「仕上げと参りましょう」  デュアルビートモンエリスは、最後の1枚を、まるで断頭台の刃を落とすかのように、ディーアークへと通した。 「カードスラッシュ、《ドラモンキラー》!!」  カードの力が、グランクワガーモンの巨大なハサミに宿り竜の鱗を砕くための禍々しいオーラを放ち始めた。  チート級のコンボで強化され尽くした究極体が、竜殺しの刃を手に再びゴッドドラモンへと迫る。  その必殺の一撃『ディメンジョンシザー』が、ゴッドドラモンの巨体を今度こそ切り裂かんと空間ごと捻じ曲げた。  誰もが、竜神の敗北を確信した。  だが、ゴッドドラモンは、その迫り来る絶望を前に、静かに呟いただけだった。 「実戦は、カードゲームのようにはいきませんよ」  その言葉と同時に、ゴッドドラモンは信じられない行動に出た。  破壊を司る左手の竜アモンに自らの肉体を破壊させたのだ。  グランクワガーモンの刃が届く寸前、ゴッドドラモンの半身が内側から爆ぜるように吹き飛ぶ。  致命傷を負うべき肉体を自ら消し去ることで、ディメンジョンシザーは空を切った。 「なっ!?」  デュアルビートモンエリスが驚愕する、その一瞬の隙。  ゴッドドラモンは、再生を司る右手の竜ウモンの力で、吹き飛んだ半身を何事もなかったかのように瞬時に再生させた。  そして、その勢いのまま聖なる気を全身から炸裂させる。 「終わりにしましょう、『ゴッドフレイム』!!」  2度目の神の炎が直撃する。  それは、カードの効果で強化されたグランクワガーモンでさえ耐えきれるものではなかった。  凄まじい爆炎に包まれ巨体が地に叩きつけられる。 「四大竜たるデジモンが、たかだかその程度の紙遊びに屈するとでも? いくら強き者の戦術を模倣しようと所詮は猿真似。  本来の使い手ならばわかりませんが、これが地力の差というものです」  その圧倒的な光景に、騎士もユンフェイも、ただ言葉を失うしかなかった。  これがデジタルワールドの幾多の竜の頂点に君臨する4体の竜型デジモンの真の力。  自分たちの戦いなどまるで子供の遊びのようだった。  下手に前に出れば足手まといになるだけだ。彼らは、この次元の違う戦いの行く末をただ見守るしかなかった。 「……まだよ」  深手を負い地に伏したグランクワガーモンを背に、デュアルビートモンエリスはそれでも笑っていた。 「これで、終われるはずがない」  彼女は、ゼーハーと荒い息を吐きながら、ゴッドドラモンが切り札を出すのを待っていた。 「この程度で私たちは倒せないわよ。全力を出しなさい」  その挑発に応えるように、ゴッドドラモンは懐から禍々しくも神々しい輝きを放つ『X抗体』を取り出した。 「いいでしょう。望み通り、全力を見せてあげましょう」  彼が、X抗体を自らのデジコアへと取り込もうとした、その瞬間だった。  デュアルビートモンエリスのディーアークが、最後の、そして最凶のカードを吐き出した。 「それを待っていたのよ。カードスラッシュ、《X抗体削除ツール(エックスイレイザー)》!!」  ゴッドドラモンのX進化は、寸でのところで阻止された。X抗体は力を失い、ただのデータの欠片となって霧散する。 「そして、この隙! これが……デジモンイレイザー様から賜った絶対の力!」  エリスがカードスラッシュしたのは《シフトイレイザー》。  その効果によって、先ほどゴッドフレイムに吹き飛ばされ遥か後方にいたはずのグランクワガーモンから『01イレイズ』の光線が放たれる。  それはまるで、ゴッドドラモンの背後に瞬間移動のように出現した。 「しまっ……!?」  完全な不意打ち。回避不能な一撃。 『01イレイズ』の光が、ゴッドドラモンの背中を何の抵抗も許さずに貫いた。 「グ……ア……アア……ッ!」  神の断末魔が、星々の静寂を切り裂いた。  絶対的な削除コマンド『01イレイズ』は、竜神の聖なる肉体を、まるで致命的なウイルスのように内側から侵食していく。  ウモンが必死に放つ再生の蒼雷も、世界の理そのものを書き換える絶対上位権の前では、闇に掻き消える徒花(あだばな)のように無力だった。  体の端から、0と1のデータとなって彼の存在が崩れ落ちていく。圧倒的な力が、いとも容易く、無に還っていく。 「イレイザー様のお力の前では、天竜(ゴッドドラモン)も羽蟲(ティンカーモン)と同じく容易く消え去る」 「まさか……この力は、デジタルワールドの管理者イグドラシルが与える絶対上位コマンド……! なぜ……なぜイレイザー如きが、その御業を……!」  ゴッドドラモンは、自らの死を悟ると同時に、この世界の秩序がすでに根底から崩壊していることを理解した。  秩序とはバランス。悪を育てることもまた自らすべき役目だと彼はソクのようなものを支援した。  だが、デジモンイレイザーとは単なるテロリスト集団ではない。世界の管理者そのものを傀儡とし、その法則さえも弄ぶ神をも喰らう災厄だったのだ。  自らが信じ守り続けてきた秩序。その拠り所たる管理者そのものが敵の手に落ちていたという絶望。  それでも彼の誇り高き魂はまだ折れてはいなかった。  消えゆく意識の中、ゴッドドラモンはもはや声にならぬ意志の力で、右掌に宿る半身へと最後の命令を下した。 (アモンよ……我が破壊の半身よ。我が身はもはや此処まで。だが、我が魂は、我が信じる秩序は、まだ潰えぬ……!)  主の覚悟を感じ取り、紅蓮の竜アモンが咆哮する。それは主との別れを悲しむものではない。  主の最後の意志を遂行できる誉れに打ち震える、戦士の雄叫びだった。 (最後の破壊を、汝に託す。あの災厄の根源を……この世から消し去れ……ッ!)  ゴッドドラモンの最後の意志を乗せ、アモンはその紅蓮の肉体を極限まで燃え上がらせた。  それはもはや炎ではない。破壊を司る竜の魂そのものの輝きだった。  紅蓮の流星と化したアモンは、狼狽するデュアルビートモンエリスが持つ、《シフトイレイザー》のカードそのものへと、一直線に突撃した。  エリスが悲鳴を上げる間もなく、忌まわしきカードは聖なる自爆の炎に包まれ、その理不尽なデータごとこの世界から完全に焼き尽くされ消滅した。 「イレイザー様からいただいた、お力がっ……!!」  四大竜の一角、ゴッドドラモン消滅。  その代償として、最凶の切り札を失ったという事実。  最大の勝利を手にしたはずのデュアルビートモンエリスの顔に浮かんだのは、しかし、征服者の悦びではなく計画が狂ったことへの明確な焦りの色だった。  竜神は死してなお、一矢報いたのだ。  そのプライドと、歪んでいようとも最後まで守り抜こうとした秩序への執念を目の当たりにし、騎士は、そしてユンフェイは言葉もなく静かに武器を構えた。  騎士の胸に宿るのは、もはやエリスへの哀れみだけではない。  ゴッドドラモンが遺した「秩序を守る」という意志。  赤城が命がけで暴こうとした「闇」。  ティンカーモンが純粋な想いで指し示した「道」。  レイラが乗り越えようともがく「過去」。  この館で交錯したすべての魂の叫びが、今や騎士の背中を押し、彼をただの冒険者からこの歪な物語の結末を担う者へと変えていた。  ユンフェイもまた同じだった。彼の瞳にはもはや私怨の炎はない。  ゴッドドラモンの圧倒的な力と、それでもなお届かなかった無念の死。  それは、彼が追い求めてきた剣の道の、遥か先にある風景だった。  ティンカーモンの仇を討つという個人的な戦いは、今この世界の均衡を守るための、より大きくそして聖なる戦いへと昇華されていた。 「エリスさん……!」  レイラが、スナリザモンを庇うように一歩前に出る。その瞳にはもう恐怖の色はない。  過去の自分と決別し、未来を守るための、揺るぎない覚悟だけがあった。  ワイズモンは分厚い本を胸に抱き、静かに、しかし素早く思考を巡らせる。彼の役割は、歴史の目撃者として、友の勝利への道をその知略で切り拓くことだ。  残された者たちが、それぞれの決意を胸に、狂った魔女へと対峙する。  最後の戦いの舞台は整った。 8.2:『嵐の結末』  静まり返った竜天回廊に、ゴッドドラモンの体が完全に消滅して残った光の粒子だけが、銀河の星屑のように静かに、そしてゆっくりと舞い落ちていた。  最大の切り札を失ったデュアルビートモンエリスが、焦りの色を浮かべながらも剥き出しの狂気で再びグランクワガーモンと共に襲いかかろうとする。  その禍々しいオーラが、この戦いを絶望的な結末へと導こうとしていた。  しかし、竜神の死は無駄ではなかった。  ゴッドドラモンという絶対的な存在が消え失せたことで、彼が展開していたこの聖域『竜天回廊』もまた、その維持能力を失い始めていた。  空間の至る所で亀裂が走り、銀河の背景がノイズ混じりに明滅する。  そして、エリスが竜天回廊全体に展開していた進化を封じる呪縛《エボリューションリミッター》の緑色の光の網が、燃え尽きた糸のように音もなく霧散していった。  デジモンたちの体にかけられていた進化の枷が、外れる。  その解放感を、誰よりも敏感に感じ取ったのは騎士だった。  体の奥底から、ズバモンとの絆を通し、失われていたはずの力が再び湧き上がってくるのを感じていた。 「ズバモン、行くぞッ!」  騎士の叫びが、反撃の狼煙となった。 「おう、ナイトォォッ!!」  ズバモンは、咆哮と共にその姿を進化させていく。  光の奔流が収まった時、そこに立っていたのは、黄金の装甲を纏った猛獣の如きズバイガーモンだった。  ユンフェイもまたデジヴァイスを通じてドラコモンに自らの怒りと、ティンカーモンへの誓いをデジソウルとして注ぎ込む。 「ドラコモン、ワープ進化ァッ! 我らの怒りを奴らに見せつけるのだ!」  主の魂に応え、青い鱗は光のデータへと書き換えられていく。  竜の四肢は鋭い剣となり、その背には誇り高き翼が広がる。  竜剣士スレイヤードラモンが、復讐の剣を手にこの絶望の盤面へと降臨した。  その勇壮な進化を前にしても、デュアルビートモンエリスの表情に揺らぎはない。  その瞳は、盤上の駒の動きを完璧に予測し数手先まで読み切る冷徹な策士のそれに戻っていた。 「甘いわね、騎士。貴方の戦い方などもう何百回とシミュレートしてきたわ」  エリスは、騎士がズバイガーモンの初動の速さを活かすために、ディーアークを構えるのを待たずに、まるで未来を予知していたかのように先手を打った。 「カードスラッシュ、《ジュレイモンの霧》」  騎士が《高速プラグインD》をスラッシュするのと、ほぼ同時。  濃密な幻惑の霧が、加速しようとするズバイガーモンの進路を完璧に塞ぎ、その勢いを根こそぎ奪い去る。 「くっ……! 動きが読まれている!」 「怯むな、騎士!」  ユンフェイがスレイヤードラモンに紅蓮のデジソウルを纏わせ虚空を蹴った。  スレイヤードラモンと合わせた彼の卓越した剣技による援護がこの膠着を破るはずだった。  しかし、その動きすらも、グランクワガーモンの巨体がまるで、あらかじめそこにいると知っていたかのように立ち塞がり割り込んでくる。  その巨腕の一振りは、山脈を動かすかのような絶大な質量をもって、ユンフェイとスレイヤードラモンの連携を容赦なく分断した。  個々の力では、究極体とそれを操る策士の前に圧倒的に不利。そして、頼みの綱である連携は、ことごとく完璧に読まれ、封じられる。  巧みな戦術妨害の前に有効打を一切与えられず、希望の光がじりじりと、しかし確実に死の闇へと塗り潰されていく。 「レイラさん、下がって!」  後方で、ワイズモンが必死に叫んでいた。  彼は戦闘が不得手ながらも、残された仲間を守るため、己の知識の源泉である本のページを次々と破り捨て、それを盾とする防御魔法の壁を展開する。  だが、その健気な抵抗もグランクワガーモンが『ディメンションシザー』を放たれる。  空間ごと切り裂く斬撃のほんの僅かな余波を受けただけで、ステンドグラスのように脆く砕け散った。 「ぐはっ……!」  ワイズモンは衝撃で大きく吹き飛ばされ、叡智の詰まった本のページを血飛沫のように撒き散らしながら銀河の床を無様に転がっていく。 「ワイズモン!」  レイラの悲痛な叫びが、虚しく響き渡った。 「遊びは、もう終わりよ」  デュアルビートモンエリスは、騎士との剣戟の合間に、まるで指揮者がタクトを振るうかのように、優雅に、そして無慈悲にディーアークをかざした。 「木竜将軍様からいただいた、この素晴らしい力を……見せてあげるわ。カードスラッシュ、《ドラグーンヤンマモン》」  そのデータが、グランクワガーモンの巨大な顎にまるで雷を宿したかのように集束していく。 「『ライトニング・オーケストラ』!!」  その宣告と同時に世界から音が消えた。  無数の電光が、音もなく、しかし空間そのものを震わせるほどのプレッシャーと共に放たれる。  それは、もはや雷ではなかった。  1本1本が、天を貫くほどの太さと密度を持つ光の弦。  それらが複雑に絡み合い、交差し、絶望という名の壮麗な旋律を奏でる。  破壊の光が、暴威のオーケストラとなってズバイガーモンとスレイヤードラモンへと降り注いだ。  それは、避けようのない美しくも残酷な死の調べ。  このままではジリ貧だ。いや、全滅はもはや時間の問題。  その、誰もが諦めかけた絶望的な状況を打ち破ったのはレイラの覚悟に満ちた静かな声だった。 「このままでは、各個撃破されるだけです!」  彼女は血を流して倒れるワイズモンを庇うように立ちその震える足で1歩、前に出た。 「私に策があります! かつて私が金のためだけに仲間を道具として弄んだ力……。でも、今度こそ! 仲間を守るためにこの力を使います!」  彼女は、その瞳に強い決意を宿し騎士とユンフェイを見据えた。 「『デジクロス』です!」  その言葉は、彼女が過去の罪と完全に向き合った贖罪の狼煙だった。 「スレイヤードラモンを核に、ワイズモンの知恵と、ズバイガーモンの伝説の力を加え、そして、この子……私のかけがえのないスナリザモンを1つに!」  レイラの魂からの号令一下、4つの魂が、1つの願いとなって共鳴を始める。  スレイヤードラモン、ワイズモン、ズバイガーモン、そしてスナリザモン。  4体が眩い光の奔流となって解け合いスレイヤードラモンという名の器へと、渦を巻いて注ぎ込まれていく。  光が収まった時、そこに立っていたのは、神々しくもどこか哀しみを湛えた異形の竜騎士だった。  スレイヤードラモンの白き鋼の体に、ワイズモンの無限の知恵を象徴するかのように、七色に輝く宝玉が胸部に埋め込まれている。  その肩からはスナリザモンの砂漠のデータが再構成された、流砂のマントが星々の光を浴びて神々しくたなびいていた。  そして、その右手に握られていたはずの竜剣『フラガラッハ』は、ズバイガーモンの伝説の力が宿ったことで、黄金の聖剣へとその姿を変えていた。  その名は、『スレイヤードラモンX4』。  スレイヤードラモンX4は、流砂の如き黄金のマントをはためかせ、グランクワガーモンの猛々しい突進をまるで柳に風と受け流す。  胸に輝く宝玉はデュアルビートモンエリスの次の攻撃、三本の角から放たれる高圧電流を完璧に予測し最小限の動きで回避させた。  そして、反撃に転じる。  ユンフェイの赤いデジソウルを纏う黄金に輝く聖剣の一閃が、グランクワガーモンの漆黒の甲殻に、これまで誰も与えることのできなかった深い亀裂を刻み込んだ。 「今だ騎士ッ!」  ユンフェイが、魂を振り絞るように叫んだ。  騎士は、この一撃に、この館で失われたすべての魂の想いを懸ける。彼はディーアークに、最後のカードを、祈りを込めてスラッシュした。  カードの名は、《竜の力を継ぐもの》  それは、ゴッドドラモンが消滅する際に遺した、最後の力の欠片を集める。  天竜の魂が、絆という名の引力に導かれ黄金の聖剣の先端へと集束していく。 「喰らえぇぇぇぇぇえええええっ!!」  スレイヤードラモンX4が放つ必殺の剣閃に、ゴッドドラモンの力が秩序を取り戻せという最後の祈りと共に上乗せされる。  究極の一撃、『天覇竜斬剣・神竜斬破(てんはりゅうざんけん・しんりゅうざんは)』が、この狂った物語に終止符を打つべくグランクワガーモンへと迫った。  絶望的な一撃。デュアルビートモンエリスは、咄嗟にディーアークを構え、自らのカードで対抗しようとする。  だが、その手をどこからか放たれた閃光が正確に撃ち抜いた。  パァン! と乾いた破裂音。  ディーアークが手から弾き飛ばされ銀河の闇へと虚しく回転しながら消えていく。 「あらやだ! 手が滑っちゃった!」  声の主は、いつの間にか隠れていたベーダモンだった。  彼女は騒ぎに気づき、2階から様子を見にきて巻き込まれた。  その後は隠れてずっと様子をうかがっていたのだ。そして、この千載一遇の好機を彼女は見逃さなかった。  ベーダモンとしてのアブダクト光線銃が、この最終局面で決定的な仕事をしたのだ。  防御手段を失い完全に無防備となったグランクワガーモンに、『天覇竜斬剣』の刃が、深々とそして慈悲なく突き刺さった。 「ギ……イイイイイイイイイイイッ!!」  聖なる炎が、その巨体を内側から焼き尽くしていく。漆黒の甲殻は砕け散り断末魔の叫びと共にその体は0と1のデータへと分解を始めた。  消えゆく光の中で、グランクワガーモンの巨大な姿は、元の優しかったフローラモンの姿へとゆっくりと戻っていく。  彼女は、もはや霞んでいく視界の中で、力の限りその手を伸ばした。 「ズバモン……くん……」  か細い声が、ズバモンの耳にだけ確かに届いた。 「ずっと……好き、だったよ……。あなたはナイトくんと……仲良く、ね……」  その言葉を最後に、彼女の体は光の粒子となって完全に掻き消え、あとには、ただ静寂だけが残った。  ズバモンは、その場でただ嗚咽を漏らし泣き崩れることしかできなかった。  最強の駒を失ったデュアルビートモンエリス。  彼女は、すべてを諦めたかのように、その場に力なく膝をついた。 「……終わった、のか……」  ユンフェイが、安堵と疲労の入り混じった声で呟く。  長かった戦いがようやく終わったのだ。誰もが、そう信じた。  仲間を失った悲しみ、かつての戦友を追い詰めた後味の悪さ、そして何よりもこの悪夢のような状況から解放されたというかすかな安堵。  張り詰めていた緊張の糸が、ほんの一瞬、緩んだ。  だが、それこそが、魔女が仕掛けた最後の罠だった。  最後の力を振り絞り、近くに倒れているディエースの元へと駆け寄ると、その華奢な首筋に鋭く尖った爪を立てた。 「これで……これで、本当に終わりよ……! せめてこの女を道連れにしてあげる!」  そのあまりにも卑劣で救いのない行為に、騎士の中で、張り詰めていた最後の何かが音を立てて切れた。  彼は、スレイヤードラモンX4から分離したズバイガーモンを、悲しみにくれる暇も与えず再びアームズモードへと変える。  もう躊躇はない。  ディエースを救うため。  そして、これ以上かつての戦友に罪を重ねさせないため。  黄金の流星となってエリスへと突貫する。  騎士は自らの手で、彼女を殺すことを決断した。  だが、彼女は、迫りくるその黄金の剣を回避しようとはしなかった。  その瞳には、恐怖も、後悔もない。  どこか安堵したような、そして、この瞬間をずっと待ち望んでいたかのような虚ろな光だけが宿っていた。 「そう……それでいいのよ、騎士……」  彼女は騎士に殺されることこそが、自らが犯した罪からの唯一の解放であると信じていたのだ。  黄金の刃がエリスの体を何の抵抗もなく貫いた。  彼女は人間へと戻りながら、ごふ、と赤い血を吐きながらも、その唇には満足げな笑みさえ浮かんでいた。 「ありが……とう……ござい……ました……。デジモン、イレイザー様……」  彼女が感謝したのは、騎士ではない。彼女に、この歪な生を与えてくれた絶対的な悪意そのものだった。 「絶望の中にいた私に……生きる意味を……与えてくれて……」  その言葉を最後にエリスの体もまた、フローラモンの後を追うように光の粒子となって静かに消えていった。  静まり返った『竜天回廊』に、騎士の慟哭だけが響き渡った。  自らの手で、かつての仲間を殺めてしまった。その罪の重さに、彼はただ、子供のように泣き叫ぶことしかできなかった。  ユンフェイもまた、ティンカーモンの仇を討ったはずなのに、その表情は晴れない。複雑な思いで声をかけられずにいる。  レイラたちは、少女の心をここまで歪ませたデジモンイレイザーという存在に、改めて底知れぬ恐怖を感じていた。  その時、意識を取り戻したディエースが、ふらつきながらも立ち上がり泣きじゃくる騎士を、そっと、しかし力強くその柔らかな胸で抱きしめた。 「……少年は、悪くないわ」  その優しい囁き声が、傷ついた騎士の心に、甘い毒のように染み渡っていく。 「アタシを助けるために、やったんでしょ? ヒーローなんだから胸を張りなさい」  その温かい感触が、彼の罪悪感を、偽りの安らぎでゆっくりと包み込んでいく。  多大な犠牲の果てに、イレイザーの手先であった魔女エリスは死んだ。  破壊と再生を繰り返す「青嵐の館」の惨劇は、こうして一応の終わりを迎えたかに見えた。  しかし、この物語の本当の脚本家はより残酷な舞台の幕開けを、静かに、そして楽しげに待っていた……。 8.3:『癒えぬ傷痕』  主を失い戦いの場という役目を終えた竜天回廊が崩壊し、一同は現実のロビーへと引き戻されていた。  エリスとフローラモンが消えた後の空間には、死のような静寂だけが満ちている。  夕食前の自室。  騎士は、無言でベッドに腰掛け、ディエースから手際よく傷の手当てを受けていた。  チリ、と消毒液が染みるたびに顔をしかめるが、彼女のどこか慣れた手つきにただなされるがままに身を任せている。  部屋の隅ではズバモンが心配そうに、しかし何も言えずに、ただじっとその様子を見守っていた。  騎士の心は重く沈んでいた。  自らの手でかつての仲間を殺めてしまったという罪悪感。  ズバモンもまたフローラモンの最後の言葉が耳の奥底にこびりついて離れない。 「なあ、ナイト。覚えてるか?」  重苦しい沈黙を破ったのは、ズバモンの、努めて明るい声だった。 「前にさ、ブラックワーガルルモンの部下と戦った時、エリスのウィッチモン、すっげー強かったよな! 私に任せなさいって言ってさ、全部やっつけちまった!」  その言葉は、閉ざされていた騎士の記憶の扉を、そっと開く鍵となった。  ぽつり、ぽつりと、騎士は語り始めた。  エリスとの出会いを。  森の中で迷っていた自分たちを、ぶっきらぼうに、しかし的確に導いてくれたことを。  はじめて共に戦った時の背中を預けられる安心感を。 「あいつは、いつも強がってた。誰よりも冷静で、皮肉屋で。でも、本当は……誰よりも仲間思いだったんだ」  騎士の声が微かに震えた。 「フローラモンが、ちょっと枝で足を擦りむいただけでも血相を変えて、夜通し看病するような奴だったんだ。  俺が無理して突っ込んで、ピンチになった時だって、いつも一番に駆けつけてくれたのは、あいつだった」  過去を語るほどに、現在の現実がより鋭利な刃となって心を抉る。 「……信じられないんだ。あんなことをするなんて。エリスは、あんな奴じゃなかったんだ……」  騎士は自分に言い聞かせるように、何度も、何度もそう繰り返した。  そう信じなければ、心が壊れてしまいそうだったから。 「でも、それって本当にそうかしら?」  騎士の包帯を結び終えながら、ディエースが静かに、しかし刃物のように核心を突く言葉を囁いた。 「優しい部分も、残酷な部分も、どっちも『本当の彼女』だったんじゃない? 強い自分も、弱い自分も。人間って、案外そーゆーもんでしょ?」  その、あまりにも無邪気で、あまりにも冷徹な真理。  それは、騎士が必死に目を背けていた事実を容赦なく突きつけてきた。  騎士が狼狽し言葉を失う。その様子をディエースはどこか楽しむかのように悪戯っぽく笑って見せた。  騎士は、ディエースの言葉に何も返せないまま、塞ぎ込んでいた。  そんな彼の両腕を、ズバモンとディエースが左右から掴む。 「腹減ったー! ナイト、飯行こうぜ!」 「そーよ! せっかくベーダモンおばちゃんが腕によりをかけてくれてるのに、冷めちゃうじゃない!」  半ば強引に、引きずるようにして、1人と1匹は騎士を食堂へと連れて行った。  食堂では、ユンフェイ、レイラ、ワイズモンも、それぞれの思いを胸に、静かに席に着いていた。  誰もが何人もの仲間を失ったこのテーブルで何を話せばいいのか分からずにいた。  その重苦しい空気を吹き飛ばしたのは、ベーダモンのいつも以上にけたたましい声だった。 「やーねぇ、揃いいも揃って、しけた顔しちゃって! 雇い主もいなくなっちまった今、あたしゃヤケクソだい!  この館にある高級食材、ぜーんぶ使ってやったからね! さあ、食った食った! 明日のことなんざ知るもんか!」  そう叫ぶ彼女がテーブルに並べたのは、これまでで最も豪華で、そして心のこもった料理だった。  星屑のように輝くパエリア、彗星の尾を思わせるローストビーフ、銀河を溶かし込んだかのような温かいスープ。  その破れかぶれの心意気に重く沈んでいた場の空気がほんの少しだけ和らいだ。  しかし、騎士は目の前の豪華な料理を前にしてもなかなかスプーンが進まなかった。  一口食べれば、エリスを手にかけた感触が蘇る。スープを飲めばフローラモンの最後の言葉が心をよぎる。  ふと、騎士は思い出した。  ワイズモンが絶望していたレイラを説得した時の言葉を。 『これはただの飯じゃない。生きるための、この子を最後まで守り抜くための、『誓い』なんすよ』  そうだ。エリスもフローラモンももう食べることはできない。生き残ってしまった自分は、彼らが生きたかったはずの明日を彼らの分まで生きる義務がある。  騎士は、罪悪感という名の鉛を飲み込むように、一口、また一口と力強く食事を口に運び始めた。  それは生き残った者の痛みを伴う誓いだった。 「んー、美味しい! けど、この味とも明日でお別れかぁ」  食事が進む中、ディエースが本当に名残惜しそうに呟いた。  その一言が、この束の間の平穏が長くは続かないこと、そして、それぞれが新たな道へと旅立つ時が、もうすぐそこまで来ていることを、その場の全員に予感させた。  夕食後、騎士は『青嵐の湯』へと向かった。  星屑が静かに舞う湯船に浸かり目を閉じる。今日一日で起きた出来事が、走馬灯のように頭を駆け巡った。  そこへ、静かにユンフェイもやってきた。2人は、しばらく言葉もなくただ湯に体を沈める。男同士、言葉は不要だった。  やがて、ユンフェイが切り出した。その声は迷いを振り切った者の静かで力強い響きを持っていた。 「騎士、お前に頼みがある」  彼は、この館を拠点に、本格的にデジモンイレイザーへと対抗するための組織を結成するつもりだと語った。 「ゴッドドラモン殿が守ろうとした秩序。ティンカーモンが命がけで我々に示そうとした希望。  それらすべてを引き継ぎ、今度は我々がこの世界の盾となる。ティンカーモンのような犠牲者を、二度と出さないために。  ……私達には君の力が必要だ」  その真摯で力強い言葉は騎士の心を強く揺さぶった。共に戦いたい。その想いは本物だった。  だが、騎士の胸には誰にも明かせない秘密があった。  ゴッドドラモンの裏の顔――ソク師範と共謀した非道な人身売買。  ユンフェイたちが「清い遺志」と信じているものが、決してそうではないという残酷な真実。  これを話せば、彼らの決意を挫きこの結束を壊してしまうかもしれない。  赤城もソク師範も、真相を知る者はもういない。この重い秘密は自分が墓場まで持っていくべきなのか。 「……少し考えさせてくれ」  騎士は、そう答えるのが精一杯だった。  風呂から上がると、ユンフェイの元へワイズモンとレイラが駆け寄ってきた。 「友とこの世界のたくさんの『物語』を守るために。例の話、僕も協力しますよユンフェイさん」 「過去の罪を償い、そして、この子と生きる未来を守るために。私も戦わせてください」  彼らもまた、それぞれの戦う理由を見つけ組織への参加を決意していた。  そこへ、ディエースが「お、密談?」とひょっこり顔を出す。  ユンフェイが彼女にも改めて組織への誘いをかけるが、「ごっめーん! アタクシ、『本業』が結構忙しいからさ!」と、悪びれもせずにこやかに断った。  それぞれの道が緩やかに、しかし確かに分かれ始めていた。  自室に戻った騎士の元へ、追いかけるようにディエースが入ってきた。  ベッドの隅では、今日の激闘ですっかり疲れ果てたズバモンが、すでにすうすうと寝息を立てている。 「ねぇ少年。結局さ、そのお腹の中の『刻の龍珠』ってやつ、どうなってるわけ? なんか変な感じとかしないの?」  ディエースは騎士の隣に当たり前のように腰を下ろすと、心底心配だという表情で騎士の腹部や胸にそっと手を触れた。  龍珠の気配を確かめるように、その指先が、騎士の服の上を滑る。 「ワイズモンが言ってたじゃない。このままじゃ、騎士くんの魂がなくなっちゃうって。本当、心配なんだから」  その言葉に寝ぼけ眼のズバモンが「そうだぞナイト! 俺、ナイトがいなくなるの、嫌だぞ!」と、不安そうに声を上げた。 「んもー、しょうがないわねぇ」  ディエースは、大げさにため息をつくと、悪戯っぽく笑った。 「アタシが添い寝してあげる。夜中に少年がおかしくなったりしないようにずーっとそばで見ててあげるから」  そう言って、彼女は本当にベッドの中へ潜り込もうとする。その無防備でいて大胆な行動に騎士の堪忍袋の緒が切れた。 「いい加減にしろ!」  騎士は、思わず彼女の腕を強く掴んだ。そして、半ば無理やり、しかしどこか名残惜しさを感じながら彼女を部屋から追い出した。  扉の向こうから「ちぇー、ケチんぼー」という声が聞こえてきたが、騎士はそれに構わず鍵をかけた。  ディエースを追い出した後、部屋には、騎士とズバモンだけが残された。  静寂が、傷ついた二人の心を優しく包む。 「なあ、ナイト……」  ズバモンが、ベッドの上で丸くなりながら、ぽつりと呟いた。 「フローラモン、かわいそうだったな……。俺も、ちょっとだけ、好きだったかも……」  その、あまりにも純粋な言葉が騎士の心の琴線に触れた。  そこから2人は、静かに語り合った。  今は亡きエリスとフローラモンとの他愛ない思い出を。  一緒に戦った時のこと。そして、くだらないことで笑い合った日のことを。  そこにはもう、憎しみも、罪悪感もなかった。  ただ、確かに共に在った仲間への温かい追憶だけがあった。  語り合ううちに騎士の心は固まっていった。 「俺は、進まなきゃいけない」  彼は、眠りに落ちそうなズバモンを抱きしめ、静かに誓った。 「ユンフェイさんたちと、とはまだ決められない。でも、エリスやフローラモンが生きたかったはずの明日を守るために俺は戦う」  窓の外には、破壊と再生を終えた青嵐エリアのどこまでも澄んだ満点の星空が広がっていた。  明日からはまた新しい1日が始まる。  騎士は、腕の中の温かい重みを感じながら、来るべき夜明けに備え深い眠りへと落ちていった。