デジモンイモゲンチャー外伝The Knight's Lost Memories 1stMEMORIAL『空から落ちてきた女』  風がデータで構成された草の海を優しく揺らし、遠くのポリゴンで描かれた山脈が薄紫のシルエットを描く。陽光に照らされて金色の輝きを放つ、ここはデジタルワールドの広大な平原だ。  ロングコートをなびかせ、磨き上げられたブーツで軽快に進むのは、戦場騎士(いくさば・ないと)とその相棒ズバモン。  コートには、ズバモンのいたずらで描かれた「20」の白い文字が、陽光に映えてかすかに揺れる。  騎士は、この退屈になりがちな旅路を、隣で跳ね回るズバモンとの他愛もない会話で紛らわせるのが常だった。  ズバモンは小さな体を弾ませ、軽快な口調で話しかける。 「なぁ、ナイト! このあたり、めっちゃ平和じゃん! なんかド派手な事件起きねぇかな?」  そのお気楽な声に、騎士は片眉を上げて冷ややかに返す。 「余計なトラブルはごめんだ。静かに進むのが一番だろ」  だが、口調とは裏腹に、彼の唇には微かな笑みが浮かんでいた。ズバモンの軽いノリが、長い旅の退屈を紛らわせてくれるのだ。  その時、遠くで鈍い爆発音が響き渡った。空が一瞬赤く染まり、騎士が鋭い視線をそちらへ向ける。 「なんだ!?」 「なんか来るぞナイト!」  ズバモンが飛び上がり、空を指さす。見上げると、黒い影がものすごい勢いでこちらへ向かってくる。  騎士がディーアークを握りしめ身構える間もなく、その影は彼に直撃。草地をゴロゴロと転がり、騎士は地面に叩きつけられた。土埃が舞い、草の匂いが鼻をつく。 「ナイトぉ~無事かー!?」 「ぐっ……重っ……!」  下敷きになった騎士が呻く。  彼を押し潰していたのは、赤いボディスーツが体のラインを際立たせた一人の女性だった。  ファーのついたブーツを履いた足が、転がった拍子に騎士の足に引っかかり絡んでいる。  彼女は、慌てた様子で飛び起きた。 「うわっ! ご、ごめんってー! ねぇ君、大丈夫!? 怪我してない!?」  その声は、まるでこの日の陽光のように弾けていた。  だが、騎士は顔を真っ赤にして視線を逸らす。  転倒の衝撃と、潰されてもがくうちに、いつの間にか彼女の豊満な胸に手が触れてしまっていたのだ。  柔らかい感触に、咄嗟に手を引っ込めるも、もう遅い。  女性もそれに気づき、目を見開いて叫ぶ。 「き、君ぃ! ドサクサに紛れてどこ触ってんのよー!」  彼女の頬がみるみる赤く染まる。騎士はムッとして反論する。 「わざとじゃねぇ! つか、なんで空から降ってくんだよ!」  ズバモンは草の上で腹を抱えて笑い転げる。 「ハハッ! 騎士、女の人に押し潰されて、しかもセクハラって! 最悪じゃん!」  その言葉に、騎士の額に青筋が浮かぶ。 「うるせぇぞ、ズバモン! 黙ってろ!」 「ううぅー!! まったく、いきなり乙女のピンチを襲うなんて、悪い子はお仕置きしなきゃね!」  ゆったりとした袖から彼女は朱殷と黒に彩られたアプリドライブDUOを取り出す。  騎士はそれを初めて見たが、これまでの経験から自身が持つディーアークと同じようなデジヴァイスだろうと判断した。 「やる気か!?」  騎士は、ズバモンに目配せする。 「ズバモン、準備しろ!」 「オッケー! やっと面白くなってきたぜ!」  ズバモンが飛び跳ね、騎士はディーアークを構える。 「アプモンチップ! レデ……あれぇ……!? レイドラモンのチップどこぉ!? まさか落とした?」  がさごそと袖をまさぐりながら何かを探す女性とそれを呆れ顔で見守る騎士。 「なんでぇ……うそぉ……今あるアプモンチップこれだけぇ!? 神(ゴッド)も極(アルティメット)もどこいったのぉ……!? あーもう超(スーパー)ならなんでいいや!  アプモンチップレディ! アタクシ、注入!」  いただきました。  超アプリアライズ! ウラテクモン!  ウラテクモン! とは 『攻略』の能力を持つ アプモンだ!  ABILITY:攻略  TYPE:ゲーム  GRADE:(超)スーパー  POWER:13500  それは巨大な腕の生えたデカいゲーム機を頭に被った猿というような姿をしていた。このような存在を騎士は初めて見る。 「ウラテクモン……? 見たことのないデジモンだ」 「はー何もわかってないのねー。冥土の土産にお姉ちゃんが教えてあげるよ少年。ウラテクモンはデジモンじゃなくてアプモン!」 「少年!? 俺はもう16だ。子供扱いするな」 「子供じゃないならアタシの胸触った責任取ってぇ! 不同意わいせつ罪で捕まってぇ留置場で反省しなさいよー!!」  ウラテクモンがゲーム機らしきコントローラーを操作しながら飛び帽子の巨大な腕をズバモンめがけて振り下ろす。 「うわっ、危なっ!」  ズバモンは素早く横へ飛び退いた。ウラテクモンの拳が地面を叩きつけ、大地が揺れる。  叩きつけられた場所からは土煙が大きく舞い上がり、草が吹き飛んだ。 「アプモン……だと? だが、襲ってくるなら容赦はしない!」  騎士はディーアークを構え、ウラテクモンを見据える。  その目は冷静ながらも、目の前の未知なる存在への警戒を強めていた。  今の一撃は成長期のデジモンでは耐えるのは難しいだろう。おそらく成熟期に近い威力。  ならば騎士もまたズバモンを成熟期であるズバイガーモンに進化させ互角の条件で戦うのが基本。  だが騎士には他の手札があった。文字通り、デジモンカードが。 「カードスラッシュ! 高速プラグインH、ハイパーアクセル!」  高速プラグインによって素早さのあがったズバモンが、基本性能で勝っていたはずのウラテクモンを翻弄する。  騎士には自信があった。ズバモンならば1世代程度の差は、こうやって自分がカードで援護すれば容易く埋めれる差であると。  それは、これまで幾度となく共に窮地を切り抜けてきたパートナーへの信頼であった。  ズバモンもまた的確に援護を行う騎士を信頼しているからこそ、心に余裕を持って戦える。  素早さで勝ったズバモンを捉えることができず、ウラテクモンの空振りが続く。  そして大きく隙ができたところを、ズバモンは頭の剣で切りつける。 「ギャヒ~! ボス! こんなんじゃ俺様の『裏技』を使う暇もないウラ!」 「ディーアーク使いはこれだからなー。ア~タクシもアプリドライバーの戦いってやつを教えてあげちゃうよ~ん!」  そういうと彼女は袖からアプリドライブを取り出し、再びアプモンチップを読み込ませる。 「アプモンチップ! レディ!」  スリー! トゥー! ワン!  ウラテクモン! プラス レースモン!  ウラテクモンの背後に亀のヘルメットを被ったうさぎのようなアプモンがオレンジ色に光り輝き浮かびあがった。 「あれは……? ひとまず離れろズバモン!」 「おう!」  騎士の冷静な判断を受け、飛び退き様子を見るために距離を離そうとするズバモン。  だが、飛び退いた先に待っていたのは、先回りしていたウラテクモンが放った巨拳であった。 「うわああああ!」  ズバモンは自ら拳に飛び込んだ形になり、カウンターヒットで吹き飛んでいく。このダメージは大きいだろう。  これまでとは段違いにスピードが違うウラテクモン。一体何が起きたのか。 「これがアプモンの強み、アプリンクだよ少年」 「アプリンク……!?」 「レースモンはレースの能力を持つアプモン。アプリンクしたことでウラテクモンはその能力を獲得し、常に相手より速く行動できる。  たとえデジタルワールド最速のアルフォースブイドラモンやメルクリモン相手にだってね!」 「速さで勝てないなら! ズバモン、進化だ!」  その言葉に応えズバモンは四足獣の姿であるズバイガーモンへと進化を果たす。 「えー!? 成熟期に進化できるのに今までしてなかったのー!? まだ完全体や究極体、隠してるんじゃないでしょうねー?」 「さぁどうかな」  騎士はとぼけるが、これが彼らが繰り出せる今の全力だ。  ズバイガーモンの鋭い刃が陽を浴びてきらめき、戦いの場には緊張が走る。  先に動くのは当然ウラテクモンだ。相手より常に一手速い動きで拳によるラッシュを繰り出す。 「ウラウラウラウラウラウラウラウラウラウラウラウラァッ!」  ズバイガーモンはそれに対して尻尾の刃を使っての防戦一方だ。  騎士は冷静に相手の力を分析し始める。たしかにレースモンとやらの能力で速さでは勝てない。  しかし、それ以外のパワーやらはどうやら据え置きだ。  ズバイガーモンの体力を一瞬で削り切れるほどではない。やはりあのウラテクモンというのは成熟期と同格に近い。 「なら! カードスラッシュ! メタルアーマー!」  騎士が読み込んだ新たなカードの力によってズバイガーモンの体にメタルマメモンの兜のデータが付与されていく。  拳を捌くことを辞め、まともに受け止める。  ズバイガーモンの体はウラテクモンの拳から伝わる衝撃など、気にする必要もないほど硬くなっていた。  そして過剰な速さによる代償を受けることとなり、殴ったウラテクモン自身が拳を痛め悶える。 「ここからは俺のターンだぜ!『ヴァンシオン』!!」 「ギャヒィィィ!?」  拳が通じず動きの止まった相手に対し、ズバイガーモンは体を1回転させ尻尾の刃で敵を切る必殺技、『ヴァンシオン』を放ち、ウラテクモンの体を切り裂く。 「ほー。やるわねー。今のお姉ちゃんの手持ちのアプモンじゃあのアーマーを攻撃で突破するのは、無理そうだねー。  たしかシエーンが前に言ってたわね。  普通のテイマーはデジモンを強く鍛え上げ、時にはアイテムでサポートする育てる力。  紋章持ちは人間が持つ美徳や悪徳でデジモンに影響を与え進化させる心の力。  デジソウル使いは人間とデジモンで対等に力を合わせることで生みだす協力という力。  ジェネラルは幾多のデジモンを従え状況に応じて1つにまとめる指揮能力と、その指示に従えるデジモンとの絆によって生まれる力。  そしてディーアーク使いはデジモンを状況に応じたカード捌きで支える、それをデジモンが信じて受け入れる信頼の力」 「……?」 「それでアタシたちアプリドライバーは、幾多のアプモンを状況に応じてリンクさせ組み替えることで、新たな未来を創り出す……全能にして創造の力だってね!  さぁーもう速さは要らない。なら次の手に行きましょ! アプモンチップ! レディ!」    スリー! トゥー! ワン!  ウラテクモン! プラス ゲンゴーモン!  今度はウラテクモンの後ろに鶏のような髪をしたアプモンが青い光りを伴って現れる。  一体今度はどのような能力を持っているのか。  そう思う間もなく、ウラテクモンから周囲に青白い光が広がって半径に円を作っていく。  デジタルワールドの平原を書き換えて、何かしらの領域が作られたのだ。 「"¡Oye, Caballero! ¿Qué hacemos?"(おい、ナイト! どうする?)」  ズバイガーモンがなにか言っているが、何を言っているのか騎士にはわからない。 「"Was ist das!? Was hast du gesagt, Zubaygamon?"(なんだ!? なんて言ったんだズバイガーモン)」 「"骑士? 啊,什么!? 那是哪个国家的语言!? "(ナイト? えっなに!? それどこの国の言葉!?)」 「ゲンゴーモンは翻訳の能力を持つアプモン。この力で、言語を崩壊させ意思疎通をできなくし信頼を崩す。  こういうのはシエーンがやる戦術なんだけどさー。アプモンチップがなさすぎてお姉ちゃんがやっても仕方ないよね!」  ディエースの言葉もまたどこかの国の原語に翻訳され、彼らには伝わらない。 (どうやらこの空間じゃ言葉が通じなくなっちまったみたいだ! 俺のカードすらもどこかの言語に置き換わって読めなくされている……!)  騎士たちはコミュニケーションを封じられて混乱する中、女性は次の手を打つ。 「ようやく隙ができたわねー。ここいらでお姉ちゃんが少年にすっごいウラテク見せちゃおっかー!」 「ウラテク巨大化コマンドウラー!!」  ウラテクモンが手に持っているコントローラーで素早くコマンドを実行すると、どんどん体が大きくなっていく。  そしてズバイガーモンを握りつぶせるほど大きくなった腕を撃ちつける。  それを避け切ることはできなかったズバイガーモンは、もろに食らって吹き飛ぶ。  メタルアーマーによる防御力の上昇がなければこの一撃で終わっていただろう。  いや、倒れ伏すズバイガーモンはまだ息があり体をなんとか動かせるというだけで勝負自体はもはや決まったも同然だ。 (どうすればいい!? 言葉を封じられたうえで敵は巨大化! デジタルだからって好き放題やりやがって!  まるで調子の悪いときに見る悪夢みたいだ。せめて英語に翻訳してくれたら分かるのに!)  騎士は考える。デジタルワールドでの旅は楽しかったが、危険も多かった。  その中で最も命の危険を感じた時があった。  落ちていたガラスの靴を拾ってしまった結果、究極体サンドリモンに襲われた時だ。  あの時と比べれば今の状況はそんなに悪くはないと思える。 (あの女はディーアーク使いの強みは互いを受け入れる信頼と言ってた。そのとおりだ。オレたちの信頼は言葉なんかなくても伝わるんだよ!)  もう一度、拳を振り下ろそうとする巨大ウラテクモン。  騎士は倒れたズバイガーモンを見据えると一直線で走り出す。 「えっ、なにしてるの少年!?」  その姿を見たズバイガーモンもまた騎士の意図を汲み取りその体を変化させる。  ズバモン、そしてその進化先であるズバイガーモンはレジェンドアームズと呼ばれる特別なデジモンだ。 『天使が持てば世界を救い、悪魔が持てば世界を滅ぼす』という言い伝えを持つ武器へと変形する事ができる。  ズバイガーモンが変形したのは剣。巨大な刀身と、その左右に爪のような意匠のついた剣だ。  騎士はその柄を握り締め今まさに、自身へと振り下ろされる拳へと向けて斬り上げる。  閃光が迸った。  ウラテクモンは真っ二つに斬り裂かれていた。  レジェンドアームズは武器となってこそ真価を発揮する。  その威力は、デジモンにとって絶対的な差を齎す世代差を超える力を与えるほどだ。  人間が振るってなお、その切れ味に変わりはない。いや、むしろ心から信頼できる人間が振るうからこそなのかもしれない。  ウラテクモンとゲンゴーモンがデータの光となりそれぞれのアプモンチップへと戻る。  色を失いディアクティブ状態へとなったアプモンチップは、しばらく使用不可能だ。  彼等を操っていた女性は一瞬の出来事に口を開けて唖然とする。 「どうだ……俺達の勝ちだ!」  騎士は相棒を掲げ勝ち誇る。  だが、その言葉に女性は両手を上げて肩を竦める。 「教えてあげるよ少年! パートナーを失ったら負けの大抵のデジモンテイマーと違って、アプリドライバーの負けってのはアプモンが消耗してアプリドライブのバッテリーが切れた時なの。  そしたらアプモンが残っていても負け。でも、残っているなら次のアプモンで戦えちゃうんだなぁ! アプモンチップ! レディ!」  バッテリモン プラス カードモン!  アプ合体! サクシモン!  サクシモン! とは 『シミュレーション』 の能力を持つ アプモンだ!  ABILITY:シミュレーション  TYPE:ゲーム  GRADE:(超)スーパー  POWER:21000  新たなる超アプモンの登場に騎士の心に絶望が宿る。  ウラテクモンをなんとか倒したとはいえ、ズバイガーモンはだいぶ傷ついている。一刻も早く手当てをしたかった。  しかし、まだ戦いは終わっていない。  あのサクシモンが今までと同じぐらい厄介な能力を持つアプモンならば、このまま戦いが続けば勝っても相棒の寿命が危ないかもしれない。  突然、女性の腹からグゥ~と情けない音が響いた。 「うっ……やば……腹減った……」  彼女は顔を押さえてその場に倒れ動かなくなってしまう。  同時に、サクシモンもまた光となりアプモンチップへと戻る。  あまりの急展開に、騎士は目を丸くする。 「お前……マジかよ」  騎士は深いため息をつき、戦意を失った女性を見下ろす。彼女の肩は力が抜け、まるで子供のようだ。  早急に回復フロッピーと絆創膏でズバモンの手当をしたのち、倒れ伏したままの女性をどうするか考える。 「……ほっとくわけにもいかねぇか」  騎士は渋々呟き、近くの集落に食事処があることを思い出す。 「おい、起きろ。ついてこい。腹空かせたままじゃ話にもならねぇ。オレが飯食わせてやる」  彼女の目がキラキラと輝く。 「マジ!? めっちゃいい奴じゃん少年!」  さっきまでの敵意は消え、彼女は一気に上機嫌だ。  ズバモンは「こいつ、ほんと調子いいな!」と笑いながら後を追う。  小さな食事処は、木造の暖かな建物で、香ばしいスープの匂いが漂っていた。  店主はティラノモンで、このあたりは恐竜型デジモンが多く生息する平原のため、自分も含め多く食べる彼等のためにボリュームを重視した食を出しているとのことだ。  女性は騎士の奢りで、山のような料理を次々と平らげていく。  デジモン向けの料理であるはずの色鮮やかで肉を主体としたザウルスピザやとんでもないボリュームのジュラシックバーガーを平然と食べ尽くす。  店主のティラノモンも「ダイナモンでもそんなに食わないぞ人間すげぇな」と言い出すほどだ。  騎士の支払いが10000BITを軽く超えたところで満足げに頬を緩め、ようやく落ち着いた彼女は、口元を拭きながら話し始めた。  彼女の名前はディエース。  アプリモンスターズカンパニー、通称アスタ商会を経営する二人の仲間と共に、空を飛ぶ船であるデジシップでデジタルワールドを駆け巡っていたのだが、  デジモン同士の戦いの流れ弾か何かが偶然当たり、その時ちょうど甲板に出ていた所を放り出されたのだという。  その際、彼女にとってのパートナーデジモンと言えるバディアプモンだったレイドラモンとも逸れ、さらに手持ちのアプモンもほとんどがまだデジシップに居るだろうという。  そしてここ最近は新商品の研究開発に夢中になって食事を抜かしてたためこんなに食べただけで普段はそんな食べないのだと言い張っている。  乙女として見栄を張っているのだろう。騎士は余計なツッコミを入れずに黙って聞いていた 「じゃあ普段はダイナモンぐらいってこと!?」  ズバモンは容赦なくツッコんだ。  ディエースは赤面し袖で顔を隠した。 「まぁこれで恋人でもないのに初対面のお姉ちゃんのおっぱい揉みしだいたことはチャラにしてあげるよ少年」  ディエースの言葉に、騎士も顔を赤くする。 「チャラって……お前、まだその話引っ張るのかよ!」 「ナイト、顔真っ赤じゃん! ディエースに完敗だな!  ズバモンは横でケラケラと笑いながら追い打ちをかける。 「だから少年の奢りでこんなご馳走食べられたんだから、許してあげるってば! でもさ、次はアタシと一緒に冒険しない? アプモンとデジモンの夢の共演、面白そうでしょ?」  とウインクしながらディエースは微笑みかける。  騎士は考えたのち、「お前と一緒に旅をするのはとても苦労しそうだな」と言いながら、唇には微かな笑みが浮かんでいた。    デジモンイモゲンチャー外伝The Knight's Lost Memories 2nd MEMORIAL『嵐の舘』  Chapter1『嵐からの逃亡』  1.1『穏やかなりし列車旅』  窓に額を寄せると、ひんやりとしたガラスが触れた。  デジタルワールドの風景が、柔らかな緑の波となって目の前を流れていく。  リズミカルな車輪の音が心地よく響き、揺れに身を任せながら、騎士はただその景色に目を奪われていた。  窓の外には、広大な草原が広がっている。陽光がデジタルデータの粒となってきらめき、風がそよぐたびにポリゴンで出来た草が波のように揺れる。  遠くの丘では、トリケラモンがのんびりと草をはんでいる。  角の生えた巨体がゆっくりと動き、口元で草をむしゃむしゃと噛む姿は、どこか牧歌的で微笑ましい。  時折、首を振って鼻息を鳴らすと、近くのフラウモンたちが驚いて花びらを散らし、色とりどりの花弁が風に舞う。  やがて、視界に川が飛び込んできた。  ピヨモンたちが水辺で羽をぱたぱたさせ、キラキラと輝く水しぶきを上げている。  少し離れたところでは、ゴマモンが水面を滑るように泳ぎ、楽しげにくるりと回転する。  川辺にある公衆トイレに急いで駆け込むエアドラモンの姿もあった。  自販機でジュースを買って飲んだが味が不味かったのか苦い顔をしているテイマーと、どうやら悪戯が成功して笑っているピコデビモンも見える。  おそらく彼らは騎士とズバモンのようにパートナーなのだろう。 「平和だな……」  つい口をついて出た。デジタルワールドは、こんなにも穏やかな場所だったか。  戦いの記憶も遠く、ここではただ時間がゆっくりと流れている。 「いやぁレッシャモンあってよかったぁ!! 少年、こんな移動手段初めてでしょ?」  ディエースは座席にふんぞり返り、足を組んで得意げに笑う。  赤いボディスーツは、窓から差し込む明るい光に映え、彼女のボディラインを強調していた。  レッシャモンは、乗換アプリから生まれた蒸気機関車のような姿をしたアプモンだ。  黒いボディに、煙突から白い蒸気を吐き出し、車輪が地面をガタゴトと力強く叩く。  客車をつけたその車体は、このデジタルワールドを疾走するために生まれたかのような威容を誇る。  車内は未来的な雰囲気に満ちており、壁には青を基調とした幾何学的なデジタル迷彩が複雑に走っている。  天井には鮮やかな青い発光ラインが交錯し回路のように浮かび上がり輝いている。  窓からは明るい光が差し込み、車内のハイテクな内装を際立たせている。  座席は赤い背もたれに鮮やかなピンクの発光ラインと、金色の枠が施されており、全体的に先進的かつダイナミックな空間を演出している。 「まぁ悪くない」  騎士はまた窓の外に目をやる。  ティラノモンが一頭、こちらをちらりと見て、まるで挨拶するように首を傾げた気がした。  ズバモンは座席の上で飛び跳ね、頭の剣をキラリと光らせながら無邪気に笑う。  彼らは今、宛もなく気ままな旅をしている。  騎士はディエースに自らの仲間を探さないのかと聞いたが、GPSの能力を持つサテラモンがあるのだから、そのうちあちらから迎えにくるだろうとのことだ。 「全部アプモン頼りだったから電話番号もメールもその他連絡手段も覚えてないしさ。ま、それまでは休暇と思って楽しめばいいじゃん」  ディエースはケラケラ笑いながら、座席の背もたれに体を預けた。  そうして進む中、豊かな平原に反して、段々とデジモンたちの姿が少なくなっていく。  騎士が不審に思ったその時、レッシャモンの車体が大きく揺れ、けたたましい警笛が響き渡った。  1.2:『黒い嵐』  窓の外では、雲が厚みを増し、紫電が空を裂く。デジタルワールドの天候が急変し、データが乱れ空間にノイズが走りだす異様な空気が漂い始める。  周辺にいた僅かなデジモンたちは何かを察したのか、全速力で走り出していく。 「な、なんだ!?」  騎士がディーアークを握りしめ、窓に飛びつく。  ディエースも慌てて立ち上がり、アプリドライブDUOを手に持つ。  レッシャモンの車内スピーカーから低く響く声が答える。 「前方に高エネルギー反応。黒い嵐が接近中。エリア崩壊の危険有り」  騎士の顔が強張る。ズバモンは窓に張り付き、外の様子を覗き込む。 「ナイト、ヤバいぞ! あれ、見てみろよ!」  遠くの地平線では、黒い渦が地面を抉りながら迫ってくる。地面は砕け散り、草や岩が吸い込まれるように消えていく。  逃げ遅れたデジモンは容赦なく飲み込まれ、その体のテクスチャを剥がされ、ワイヤーフレームからポリゴンが奪われ存在を失っていく。  まるで世界そのものが解けていくような光景だ。 「なにこれー!? えーっとえーっとガッチモンはないし……ジショモンなら分かるかなー!?」  ディエースはアプリドライブにアプモンチップをセットし、素早く操作する。 「アプモンチップ! レディ! アタクシ注入!」 『スリー! トゥー! ワン! アプリアライズ! ジショモン!』  巨大な本の形をしたアプモン、ジショモンが車内に現れる。  ページが自動でめくれ、輝く文字がホログラムのように浮かび上がる。 「デジタルストーム。特殊な地域、青嵐エリアで自然発生する現象。  一定期間ごとにエリアを崩壊させ、その後、新たなる環境を再生することでデジモンの新たな進化を探る実験的エリアと思われる。  このエリアを記したデジタルワールド百科事典にある記録によれば、近くにはデジタルストーム現象を凌ぐための避難所及び宿泊施設として機能する『青嵐の館』が存在。  座標は……」  ジショモンの落ち着いた声が、座標データを投影する。ディエースが目を輝かせる。 「よっしゃ! レッシャモン、ジショモンをアプリンクしてこの座標に全速力で向かって!」 「ラジャー。レッシャモン、急行列車として運行を開始します。次は青嵐の舘~青嵐の舘~」  レッシャモンの車体が唸りを上げ、煙突からさらに勢いよく蒸気を噴き出し、荒れ狂う風の中を突き進む。  騎士はディーアークを握りしめ、窓の外の嵐を見つめる。 「青嵐の館、か……。こんな嵐の中、無事にたどり着けるといいんだが……」  ズバモンが肩を叩き、ニヤリと笑う。 「ナイト、そう不安になるなって! ディエースのおかげでなんとか逃げ切れそうじゃん!」 「その通り! Sランクアプリドライバーのア~タクシ、ディエースちゃんと一緒なら、どんな冒険も楽勝よ!」  ディエースがウインクしながらその豊満な胸を張る。  だが、その瞬間、レッシャモンが再び大きく揺れ、車内に緊張が走る。  デジタルストームの咆哮が、すぐそこまで迫っていた。  1.3:『赤いスピード狂』 「なぁ本当に大丈夫か!?」 「少年は心配性だねぇ~! 電卓アプリのカリキュモンに計算させてみよっか!」  ディエースの声が車内に響くや否や、彼女はアプリドライブDUOを掲げ、素早くアプモンチップをスロットに差し込んだ。  すると、車内にキラリと光る光沢のあるシルバーボディをしたアプモン、カリキュモンが現れた。  その体には計算用のキーが埋め込まれている。 「カリキュモン、デジタルストームの速度と軌跡を計算よろしく! 青嵐の館まであと何分でたどり着ける? 今のレッシャモンで間に合う!?」  ディエースが矢継ぎ早に指示を出す。カリキュモンのディスプレイが一瞬暗くなり、けたたましい打鍵音が響く。  カリキュモンは即座にレッシャモンのシステムとリンクし、車内のデジタル迷彩パネルに数式とグラフを投影し始める。 「計算完了。デジタルストームの現在速度:時速300キロメートル、進行方向:北北東。  レッシャモンの現在位置から青嵐の館までの距離:15キロメートル。現在の速度で進行した場合、到達予測時間:3分42秒。  ただし、ストームの加速率を考慮すると、1分以内にデータ破壊圏に巻き込まれる可能性73.4%」 「73.4%!? やばいって、姉ちゃん!」  ズバモンが頭の剣を振り回しながら叫ぶ。騎士はディーアークを握りしめ、窓の外を睨む。黒い渦はさらに勢いを増し、地平線を飲み込むように迫ってくる。  地面が震え、ポリゴンが剥がれ落ちる音がまるで悲鳴のように響く。 「27.6%の可能性に賭けるしかないのか……?」 「ふっふーん。まだわかってないようだね少年。アプリドライバーとは望む未来を創造する者だと! 追い越されそうなこの状況下なら……」 「なにをす……あっ!」  ディエースの言葉に、騎士の背筋に寒気が走る。  前回の戦いで彼女の戦術を知る騎士には、ディエースの企みが手に取るようにわかった。  そして、それが実行されたらとんでもない事態になることも。 「ズバモン!! 備えろ!」 「えっ? 備えろって何だナイト!?」 「アプモンチップ! レディ!」 『スリー! トゥー! ワン! アプリンク! レッシャモン! プラス レースモン!』  アプリンクしたことでレースモンの能力を得たレッシャモンの速度はデジタルワールドの物理法則を無視するかのような速度に達した。  かつては安定していた車輪のリズムが、容赦なく甲高い金切り声に変わり、近未来的な車内は天井の青く光る回路線を不規則に明滅させる激しさで振動した。  座席はガタガタと音を立て、荷物は床に叩きつけられ、急加速の混乱の中で転げ落ちた。  騎士は座席にしがみつき、ディーアークを握る指の関節を真っ白にし、あまりの激しさに体を押し返した。  不意を突かれたズバモンは座席から滑り落ちて通路に転げ落ち、剣のような角が金属音を立てて床に刺さる。  ディエースは混乱をよそに自信たっぷりに立ち、赤いボディスーツが明滅する照明の下でキラキラと輝き、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。 「レッシャモン+レースモン=究極のスピードマシン! ヒャア~~~!! このスリルとスピードぉぉぉぉぉぉぉ~~~!!  たまらなぁぁぁぁぁぁ~~~~~~い! 最速最強最速最強最速最強最速最強最速最強最速最強!!」  嵐を置き去りにする狂った高笑いが車内に響きわたるのを聞きながら、騎士は気を失った。  Chapter2『舘での出会い』  2.1:『館の主、ゴッドドラモン』  青嵐の館は、大きな風車のような外観をしていた。  土台こそオランダに存在する風車(ふうしゃ)のような塔だったが、ついている羽は色鮮やかな八重の風車(かざぐるま)だ。  そして瓦の屋根からはバカバカしいほど大きな風鈴が垂れ下がっており、塔の上には風速計とコカトリモンを模した風見鶏が回っている。  このような様々な要素が融合した混沌とした建築はデジタルワールドの至るところで見られるものだ。  デジタルワールドに来たばかりの人間ならばともかく、騎士もディエースもその奇妙な外観に驚くようなことはない。  入口となる扉は存在せず、手前にある複数のワープゲートによって内部へと入れる仕組みだ。  ワープゲートは巨大なデジモンを想定したものもあり、騎士たちはレッシャモンに乗ったまま入ることが出来てしまった。    舘の内部もまた奇怪ながらも綺麗なものだった。外観で見た通り、内部の壁はレンガ調のテクスチャで覆われていた。  床は磨かれた黒い大理石のような素材で、足を踏み入れるたびにカツカツと軽い音が響く。  天井は高く、複雑な幾何学模様が刻まれたアーチが交差し、青と緑の光が柔らかく瞬く。まるで星空を閉じ込めたような幻想的な雰囲気だ。  中央の空間には巨大な水晶の柱がそびえ立ち、内部でカラフルな光が螺旋状に流れ、まるで生きているかのように脈動している。 「すっごいねーこれ! めっちゃオシャレじゃーん!?」  レッシャモンから降りたディエースが目を輝かせ、アプリドライブを手にキョロキョロと周囲を見回す。 「ジショモン、この館のこともっと教えて!」  ジショモンがページをパラパラとめくり、ホログラムの文字を投影する。 「青嵐の館。デジタルワールドの避難所兼宿泊施設。  デジタルストームの影響を受けない特殊なバリアに守られており、内部ではデジモンやテイマーが一時的に休息を取ることが可能。  館の管理者はゴッドドラモン。施設内には自動で稼働するサービス機能が備わっており、宿泊者に食料や寝室を提供する。  また、館の水晶柱はデジタルワールドの環境データを記録し、デジタルストームの発生周期を予測する機能を持つとされている」 「詳しいですね、ご客人。しかしその情報はもう古いものですね。自動調理はやってないんです。数年前に壊れてしまいましてね」  そう話しかけてきたのは館の主であるゴッドドラモンだ。筋骨隆々とした腕を持つ東洋竜の姿をした彼は、両手を合わせながら丁寧に騎士たちを迎え入れる。 「えーっ! そうなの!? じゃあ、ご飯どうすんのよー!」 「ご安心ください。現在はベーダモンが調理を担当しております。レパートリーは少なくなりましたが、自動調理機よりも味は保証いたしますよ」  その言葉を聞くと、ディエースはすぐに機嫌を直し夕飯のことで頭がいっぱいになっているようだ。  その隣で、戦場騎士は冷静に周囲を見回している。彼の相棒であるズバモンは、すでに館の水晶柱に興味津々で、柱の周りをぴょんぴょんと跳ね回っていた。 「ったく、お前は少しは落ち着けっての」  騎士が呆れたように言うと、ズバモンはいたずらっぽく舌を出した。 「ま、いーじゃん!」  ディエースが騎士の腕を掴んで揺さぶる。  ゴッドドラモンは、ロビーの一角にある受付カウンターへと騎士たちを促した。 「まずは宿泊の登録を済ませていただきましょう。それぞれのデジヴァイスを軽く読み込ませていただければ結構です」  騎士はディーアークを取り出し、ゴッドドラモンの前に差し出した。  ゴッドドラモンはそれに軽く触れると、水晶柱から淡い光が放たれ騎士とズバモンのデータが登録されていく。 「戦場騎士殿、ようこそ青嵐の館へ。ズバモン殿もごゆっくりお過ごしください」  次にディエースが自身のアプリドライブを差し出す。彼女も同様に登録を終えはしゃいだ声を出した。 「これでアタシたちも晴れて青嵐の館のお客様ってわけね! やったー!」  ゴッドドラモンは、二人に宿泊エリアの場所を案内した。 「お二人の部屋は三階の10号室と11号室でございます。螺旋階段を上がって右手にお進みください。  何かご不明な点がございましたら、いつでも私にお声がけください」  ゴッドドラモンに促され、騎士とディエースは宿泊エリアへと向かった。 「こちらの部屋になります、ごゆっくりお過ごしください」  右手にあった螺旋階段を登り、騎士とディエースはそれぞれ自身の部屋に案内された。  宿泊エリアは3階と4階に広がって存在しており、各階には細い回廊に沿ってトランプが描かれた26の個室が存在し、左右で赤と黒にわかれていた。  ゴッドドラモンの案内でそれぞれに割り当てられた部屋に入ると、騎士はまず荷物を置いた。  シンプルな内装だが、ベッドと小さな窓があり、外のデジタルストームの音が微かに聞こえてくる。  ズバモンはさっそく部屋の中を飛び回り、物珍しそうに壁や天井を眺めている。 「ふぅ、ようやく落ち着けるな」  騎士が小さく息をつくと、ディエースがひょこっと顔を出した。 「ねーねー、少年! これからどうする? アタシ、なんか暇になってきちゃった!」 「俺はトレーニングルームに行く。ズバモンのレベル上げもしたいしな」  館内の施設が書かれたパンフレットを見ながら騎士は言った。 「えー、つまんなーい! アタシもついてこうかなー。でも鍛えるとかアプモンには意味ないしなー」 「意味がない?」 「デジモンと違ってアプモンはステータスが変動することはないの。だから同じアプモンなら全く同じ能力値で個体差はなし。  アプモンが持つ七属性への耐性を調整することは出来るんだけどそれくらいね。その僅かな調整で差が出るからアプリドライバー同士の戦いは面白いんだけど」 「ふーん。俺、強くなれるデジモンに生まれてよかったー!」  ズバモンはそういいながらファイティングポーズを取りシャドーボクシングのような動きを始める。 「じゃあアタシは談話室でも行ってみるよ! なんか面白そうな人いるかもしれないし!」  結局、ディエースはそう言い残し、さっさと自分の部屋へ戻っていった。  2.2:『騎士の再会』  騎士は一人で館内を進み、5階にあるトレーニングルームの扉を開けた。  そこではデジモン育成の基本的なトレーニングが可能になっており、すでに器具を使用している先客の姿があった。  一組は長髪の剣士だった。彼はデジソウルを纏った木剣でスレイヤードラモンと実戦さながらに打ち合っている。  そして長髪の剣士に熱い目で応援を送るティンカーモンがとても目立っていた。  もう一組は魔女のようなトンガリ帽子を被った金髪の女性。彼女はパートナーであるフローラモンと共に、ストイックな表情でトレーニングに打ち込んでいる。 「……エリス?」  騎士は彼女のことはよく知っていた。エリス・ローズモンド、かつて共に荒くれ者のデジモンから小さな集落を守ったことがある。  軽い挨拶ぐらいはするべきかと逡巡する間にズバモンがエリスとフローラモンに勢いよく近づくと、騎士は一瞬ためらいながらもその後を追う。  トレーニングルームは、剣士の放ったデジソウルの残響と汗の匂いが混ざり合い、ほのかに熱を帯びている。  エリスは器具のそばでフローラモンに指示を出しながら、騎士とズバモンを鋭い視線で一瞥する。  美しい金髪がトンガリ帽子の下で揺れ、青い瞳にはまるで獲物を値踏みするような冷たさが宿っている。 「よっ、フローラモン! 久しぶり! どんな技鍛えてんだ~?」  ズバモンの無邪気な声が響くと、フローラモンは花弁を揺らし、驚いたようにエリスを見る。  エリスは眉をひそめ、ズバモンをじろりと観察してから、騎士に向き直る。 「……あなたのパートナー、相変わらず賑やかね」  エリスの声は氷のように冷たく、言葉の端々に探るような棘がある。騎士は彼女の顔を見て、胸にちくりと痛みを感じる。 「エリス、久しぶり。覚えててくれると嬉しいけど。前にブラックワーガルルモンと戦った時以来だよね」  騎士は気まずさを隠しながら軽く笑ってみせるが、エリスの反応はそっけない。 「ああ、そんなこともあったわね。で、こんなところで何? ただの偶然かしら?」  彼女の口調には、騎士の意図を試すような不信感が滲む。騎士は一瞬言葉に詰まる。  前はもっと気さくに話しかけてきたはずだ。彼女の変化に、騎士の心にざわめきが広がる。  かつてのエリスはもっと……温かかった。一緒に戦った時、彼女は分析的ではあったが、笑顔を浮かべ仲間を気遣う優しさを見せていた。  あの頃の彼女は、こんな冷ややかな瞳をしていなかった。 「うん。偶然、かな。デジタルストームに追われて、たどり着いたのがここでさ……」  騎士の話に、エリスは小さく鼻を鳴らす。 「ストームから逃げてきた、ね。随分都合のいい話。青嵐の館に来る人間は、たいてい何か事情があるものよ。例えば良からぬことを企んでいたり、ね」  エリスの言葉に、騎士は眉をひそめる。彼女の声には、かつての仲間への信頼のかけらもない。  マフィアと戦った時は、エリスは騎士の戦い方を褒め、フローラモンとズバモンが並んで笑い合っていた。  騎士はエリスの変化に戸惑いながら、慎重に言葉を選ぶ。 「企むって……。前に一緒に戦った時、結構いいコンビだったはずだろ。フローラモンとズバモンも、仲良くやってた」  騎士は過去の記憶を掘り起こし、エリスに訴えかける。だが、エリスは一瞬目を伏せ、唇に苦い笑みを浮かべる。 「仲良く、ね。……あの頃は、私も甘かったわ。デジタルワールドじゃ、信頼なんて脆いものよ。あなたのパートナー、ちょっと無防備すぎるんじゃない?」  エリスの視線がズバモンに向けられる。 「え、俺!? 無防備じゃねえよ! いつでもバッチリ戦えるぜ!」  ズバモンは頭の剣を振り回しながら胸を張る。  フローラモンがくすっと笑い、花弁から甘い香りが漂う。 「ズバモン、相変わらず元気だね……。ねぇエリス、ちょっと話してみたら? 昔みたいにさ。前は騎士と一緒に戦うの楽しかったって言ってたじゃん?」  フローラモンの優しい声に、エリスは一瞬表情を緩めるが、すぐに冷たい仮面に戻る。 「フローラモン、余計なこと言わないで。……昔は、昔。もう関係ないわ」  騎士はエリスの言葉に胸が締め付けられる。彼女の声には、深い傷の痕跡がある。  一体、彼女になにがあったというのだろう。  トレーニングルームの反対側からは、剣戟の音が響く。剣士とスレイヤードラモンが模擬戦はいよいよクライマックスとなり激しさを増していく。 「ユンフェイ! かっこいいぞー!」  ティンカーモンは剣士を応援し忙しなく飛び回っている。  エリスはそちらを一瞥し、呟く。 「……あの剣士、少なくとも騒がしいだけじゃないわね。動きに無駄がない」  彼女の言葉は、ズバモンや騎士への間接的な皮肉のようにも聞こえる。 「騒がしいって……まぁ、ズバモンは確かに賑やかだけどな……。エリス、昔の君の方が、ズバモンと似ていた気がする。  ほら、あいつらを倒して、一緒にジュース飲んだ時さ、一緒に思いっきり笑っただろ?」  騎士は少し強引に過去を振り返る。エリスの目が一瞬揺れるが、すぐに硬い表情に戻る。 「子供っぽい思い出話はいいわ。騎士、あなたもデジタルワールドで生き延びたいなら、もっと用心しなさい。純粋さなんて、ここじゃただの弱点よ」  エリスの言葉は鋭く、騎士の心に突き刺さる。だが、フローラモンがそっとエリスの袖を引く。 「騎士、ズバモン、ごめんね。私達もあれから色々あったの……」 「……もう行くわよフローラモン。そろそろ休憩しましょう」  2.3:『剣士との出会い』  そうしてエリスとフローラモンがトレーニングルームを去った後、騎士はしばらくその場に立ち尽くしていた。  エリスの冷たい言葉と、かつての温かな笑顔のギャップが、騎士の心に重くのしかかる。彼女に何があったのか。  考えを巡らせても、答えは見つからない。  ズバモンはそんな騎士の様子を気にもせず、トレーニング器具に飛びつき無邪気に叫ぶ。 「ナイト! 俺もなんか鍛えようぜ! このマシン、めっちゃカッコいいぞ!」  その時、トレーニングルームの反対側から、剣戟の音がピタリと止んだ。剣士とスレイヤードラモンの模擬戦が終わったらしい。 「ユンフェイ! 最高だったよ~! ますます惚れちゃう~!」  小さく跳ねながら叫ぶ声が響く。  ユンフェイと呼ばれた男は木剣を収め、汗を拭いながらゆっくりと騎士たちの方へ歩み寄ってくる。  長い黒髪が漢服の裾とともに揺れ、彼の落ち着いた雰囲気がトレーニングルームの熱気を一瞬和らげる。 「君も……私と同じ剣士だな」  ユンフェイの声は低く、穏やかだが、どこか相手を試すような響きがある。  彼の鋭い眼差しが騎士を捉え、続けてズバモンに視線を移す。 「ほう、噂には聞いたことがある。武器になるデジモン、レジェンドアームズに巡り会った者か。剣に生きる者として、羨ましいな」  ユンフェイの言葉に、ズバモンが目を輝かせる。 「お! スゲー剣技の剣士さんが俺のこと褒めてくれてる? やったぜナイト!」  騎士は少し気を取り直し、ユンフェイに軽く会釈する。 「えっと……あのスレイヤードラモンとの練習、すごい剣戟でしたね」  ユンフェイは小さく微笑み、木剣を肩に担ぐ。 「ふむ。見ていたか。私の相棒とは長い付き合いだ。剣は心を映す鏡……互いの信頼がなければ、あの動きはできん」  彼の言葉には、武者修行を通じて磨かれた信念が滲む。  スレイヤードラモンから退化したドラコモンが、ユンフェイの横でにやりと笑う。 「ユンフェイ殿と四大竜の試練を突破したこの俺の剣技の前に、敵は居ませんよ」 「究極体へと進化を果たしたことで高ぶるのは構わんが調子には乗るなドラコモン。奢りは剣を鈍らせる」 「す、すいませんユンフェイ殿」  四大竜の試練。  ゴッドドラモン、チンロンモン、メギドラモン、ホーリードラモンの4体の竜型デジモン究極体が、同じ竜型デジモンへ与える試練。  突破したものはスレイヤードラモンへと進化を果たすことが出来るという話は、旅の中で騎士も聞いたことがある。  このドラコモンはそれを突破しスレイヤードラモンへと進化することの出来た実力者ということだろう。 「相棒がすまんな。私はチェン・ユンフェイ(陳雲飛)だ。君の名も聞きたい」 「戦場騎士です」 「騎士か。どうだ。明日の昼にでも私の練習に付き合ってもらえないか? 伝説の武器デジモンの担い手だ。君も剣の腕は相当な実力者と見た」 「わかりましたユンフェイさん。俺も剣には自信がありますから」  騎士は珍しく即答した。彼の剣技には同じく剣を扱う者として心を揺さぶられる物があったからだ。  ユンフェイから学べば自分たちはもっと強くなれる。そんな気がしていた。 「ところであそこでユンフェイを見てるティンカーモンはなんなんだ~?」  ズバモンがずっと思っていたことを尋ねる。 「この嵐に巻き込まれようとしていたところを私たちが助けここへ連れてきたのだ。それ以来、付きまとわれている……」 「当然でしょう。俺のユンフェイ殿はかっこいいですから!」  ドラコモンのパートナー自慢に苦笑しながら、ユンフェイは首を振る。 「馬鹿なことを言ってないで、休憩が終わったらトレーニングに戻るぞドラコモン」  騎士もまた当所の予定通りズバモンを器具で鍛えさせることにした。  しばらくズバモンのトレーニングに没頭していると、トレーニングルームのスピーカーからゴッドドラモンの声が響く。 「宿泊者の皆様へ。まもなく館内で交流イベントを開催します。  談話室にお集まりください。嵐が収まるまでの3日間、共に過ごすこととなる仲間たちとの絆を深める機会です」  あまり気乗りはしなかったが、行かないのも面倒になると思い騎士はトレーニングを辞め、ユンフェイたちと共に談話室へと向かうこととなった。  ロビーの左側にある談話室は、暖炉が壁に埋め込まれており、柔らかなオレンジ色の光が部屋を照らしていた。  すでに今回の宿泊客の大半が集まっているようだった。その中にはエリスに絡んでいるディエースの姿も見える。  エキゾチックな装いをした褐色肌の女性がソファに座り、パーカーとリュックサックを背負った学者風の男が見える。   彼らにワイズモンが何やら質問を投げかけているようだ。  エリスに追い払われたディエースが騎士を強引に自分の近くへ呼び寄せる。  そうして、最後に青と白の韓服風ローブを纏いサングラスをしている恰幅の良い中年男性が談話室へと入ってくると、  入り口にいたゴッドドラモンが今回の宿泊客が全員この場に集まったことを告げ、それぞれの自己紹介が始まった。  2.4:『ソク師範と赤城博士』  最後に談話室へ入ってきた男は、悠然とした足取りで中央に進み出た。  青と白の韓服風ローブが、その恰幅の良い体にゆったりと纏われ、顔には威厳を感じさせるサングラス。  その奥に隠された瞳は、これまで騎士が出会った誰とも違う、練達の気を宿しているように見えた。  彼は静かに一礼すると、張りのある声で自己紹介を始めた。 「ソク・ジンホと申します。普段はトレーニング道場を営んでおりましてな。 『ソク師範のこれで貴方も即マスター!』という、デジモンの育成指南書も出させてもらっておる。これ以上の自己紹介はあるまい」  騎士には聞き覚えのない名だったが、その言葉にソファに座っていた学者風の男の表情がわずかに動いたのを騎士は見逃さなかった。 「赤城鋼太郎といいます。デジモンの生態調査を専門としています。ソク師範の本については僕も読ませていただいております」 「おお、私の著書を読んでくれているようだね、関心関心!」  ソク師範は満足げに頷き、一見すると和やかな雰囲気が漂い始める。  赤城は眉間に深い皺を寄せ、ソク師範の言葉を遮るように、静かだが確固たる口調で反論した。 「ええ、デジモンに関する貴重な本だ。特に育成指南や各種デジモンへの接し方などはデジタルワールドに着たばかりの初心者には重宝するでしょう。  ……しかし、貴方の本には誤りも多い」 「誤り、だと? 若造が何を言うか!!」  その瞬間、談話室の空気が凍りついた。ソク師範の顔から温厚な笑みが消え失せ、サングラスの奥から鋭い光が放たれる。  長年の経験と実績に裏打ちされた自身の知識を否定されたことへの、露わな怒りだった。 「私の書は、数多のデジモンとテイマーを育て上げてきた、紛れもない真実と経験の結晶だぞ!」  ソク師範の声は低く、怒りに震えていた。  彼のパートナーであるマスターティラノモンが、地響きを立てるような低い唸り声を上げ、今にも飛びかかりそうな姿勢を取る。  赤城も一歩も引かず、理知的な瞳に強い意志を宿して反論した。 「経験は尊重します。しかし、真実には疑問が残る。学術的な検証に基づかない記述が多く見受けられる。  例えば、特定のデジモンの進化条件に関する記述は、最新の研究データと矛盾している箇所がある。  それは、初心者にとって誤った知識や偏見を植え付けることに繋がりかねません」  赤城のパートナーであるカイザーレオモンもまた、鋭い眼光でマスターティラノモンを睨みつけ、威圧的なオーラを放ち始める。  一触即発の事態に、周囲の宿泊客たちは固唾を飲んで見守っていた。  騎士もまた、この緊迫した状況に身構える。 「貴様、学者風情が! 実戦の伴わない机上の空論を振り回すな! デジモン育成は、データだけでは語れんのだ!」 「データに基づかない育成こそ、非効率的で無責任だと言わざるを得ません。少なくとも明確な誤りは訂正すべきでしょう」  二人の主張は平行線を辿り、感情的な口論へとエスカレートしていく。  マスターティラノモンとカイザーレオモンも互いに牙を剥き出し、今にも激しい戦いが始まりそうな雰囲気に、談話室の熱気は最高潮に達した。  その時、重々しい声が響き渡った。 「おやめなさい、お二人とも!」  館の主であるゴッドドラモンが、二人の間に割って入った。  その巨体が発する威厳に、マスターティラノモンもカイザーレオモンも動きを止め、二人の口論もぴたりと止まる。 「この青嵐の館は、デジタルワールドの混沌から逃れ、一時的な休息と交流を求める人々のための場所。争いの場ではございません」  ゴッドドラモンの言葉は、両者に平等に響き、ようやく場の収拾がついた。  しかし、二人の間に漂う険悪な空気は、そう簡単には消えそうになかった。  2.5:『ロストメモリー・ディエース』  赤城鋼太郎とソク師範の険悪な空気が残る中、次に自己紹介を始めたのはディエースだった。  彼女は満面の笑みを浮かべ、アプリドライブをひらひらとさせながら、明るく弾んだ声で口を開いた。 「はーい! ここはアタシの番だね! アタシはディエース! 見ての通り、超絶キュートなアプリドライバー! 男子からのファンレター募集中!  せっかく知り合ったんだし、みんなと仲良くなれると嬉しいなー!」  その無邪気な自己紹介に、場が少し和んだように見えた。しかし、ソク師範が彼女の言葉を遮った。 「失礼だが、なぜ名字を名乗らないのだ? 自己紹介においては、名を名乗るのは基本中の基本であろう」  ソク師範の問いかけに、ディエースは少しだけ顔を曇らせた。いつものおどけた表情から、一瞬真剣な面持ちに変わったことに、騎士は彼女の内心の揺らぎを感じ取った。 「実はア~タクシって記憶が消えてましてねー。ディエースって名前もこっちで拾ってくれた人に名付けられたものなの。  まっ、記録はあったんで過去の自分がどういう人間だったかは分かるんだけど……なんていうか、記憶がないと自分のこととしての実感がないんだよねぇ」  彼女の声には、一見明るく響く響きの裏にどこか深い虚ろさが滲んでいた。  過去の記録はあっても、それが自身のものとして感じられない。そのもどかしさが、彼女の言葉の端々に表れているようだった。 「記憶を無くしている? 近頃噂に聞くデジモンイレイザーとやらの仕業であろうか」  ユンフェイが尋ねたが、ディエースは首を傾げるばかりだ。 「それも忘れちゃってて、よくわかんないんだよねー」  ディエースは他人事のように答える。  だが、その「デジモンイレイザー」の名が談話室に響いた途端、ソファに座っていたアラビア風の装いをした女性の様子がおかしくなった。  彼女の呼吸が荒くなり、表情に恐怖の色が浮かび上がる。パートナーのスナリザモンが慌てて彼女の肩に触れ、宥めようと必死になっている。  その様子を見たディエースは、普段の無邪気な表情から一変、瞬時に対応した。 「ねぇ君、大丈夫!? ちょっと待ってて!」  彼女は迷うことなく、近くのテーブルに置いてあった水差しとコップを手に取り、素早くレイラの元へと駆け寄った。 「はい、これ飲んで! 落ち着いて落ち着いて!」  ディエースの優しい声と差し出された水を口にすると、レイラは震える手でそれを受け取りゆっくりと飲み干した。  やがて、荒かった呼吸が落ち着き、恐怖に歪んでいた表情も、少しずつ和らいでいく。  2.6:『レイラ・シャラフィとデジモンイレイザーの傷跡』  ようやく落ち着きを取り戻したレイラは、スナリザモンにそっと背を撫でられながら、震える声で話し始めた。  彼女のキメの細やかな褐色の肌は、恐怖の余韻でわずかに青ざめているように見えた。 「お見苦しいところをお見せしました。私はレイラ・シャラフィと申します。かつてはクロスローダーを持つジェネラルとして傭兵をしていました」  彼女の言葉に、騎士はわずかに目を見張った。クロスローダーを持つジェネラル。  それは、複数のデジモンを操り、部隊を率いる指揮官としての力量を意味する。  傭兵として、デジタルワールドの過酷な戦場を渡り歩いてきたのだろう。しかし、その後の言葉に、談話室の空気が再び重く沈んだ。 「しかし、とある戦場にて、デジモンイレイザーの部下……ネオデスジェネラルと名乗った強力なデジモンに敗北し……仲間たちを全て殺されたのです」  その告白に、騎士の胸にチクリと痛みが走った。デジモンイレイザー。その配下である強大な七大軍団は、ロイヤルナイツすらも破ったという噂が流れるほどだ。  レイラは、その恐ろしい組織と直接対峙し、そして仲間を失ったのだ。  想像を絶するような凄惨な光景が、彼女の脳裏に焼き付いているのだろう。 「それから私は駄目になってしまいました。彼らは必死で私を逃がしてくれたというのに、仇を討つことも出来ず、ただ恐怖に怯え隠れ偲ぶ日々……。  そんな私を慰めてくれたのが、このスナリザモンです。  彼は、私がデジタルワールドを彷徨っていた時に拾ったデジタマから、一から育て上げた、私にとってかけがえのない存在なのです」  レイラは隣に寄り添うスナリザモンに視線を向け、その表情には深い感謝と愛情が滲んでいた。  失意の底にあった彼女を支え続けた、かけがえのないパートナー。  騎士は、もし自分がズバモンを失ったとしたら……と想像し、心が締め付けられるような痛みに襲われた。  レイラの言葉は、騎士自身の心の奥底にある、ズバモンへの強い絆を改めて認識させた。 「ここへ来たのも、そこのワイズモンさんに誘われてのことです。  破壊と再生が巻き起こるこの地で過ごすことで、私自身も生まれ変われるのではないか……という思いからなのです」  彼女の瞳には、まだ深い悲しみが宿っていたが、その奥にはかすかな希望の光が揺れていた。  デジタルストームがもたらす破壊と再生。そのサイクルに、彼女は自らの再生を重ね合わせようとしているのかもしれない。  しかし、その場に響いたディエースの言葉は、騎士の耳を疑わせるものだった。 「つまりねーちゃんは勝てない相手に挑んで負けた上に、自軍を全滅させた無能な指揮官さんってことねー」  イレイザーの名を聞くだけでトラウマとなっているレイラに対して、あまりにも無神経すぎる、残酷な言葉だった。  騎士は思わず息を呑んだ。 「いくらなんでもそういう言い方はなかろう!」  レイラに同情したソク師範が、強い口調でディエースを嗜めた。  しかし、レイラ自身は顔色一つ変えず、静かに、そしてどこか諦めたように言った。 「ええ、ええ、そのとおりです。私は無能です。庇われるより、そうして事実を言われるほうが気が楽になります」  レイラのその言葉に、ソク師範もそれ以上は何も言えなかった。  レイラのスナリザモンはディエースを睨みつけ、低い唸り声を上げている。  それでも、ディエースは全く気にする様子もなく、ただまっすぐな瞳でレイラを見つめていた。その表情には、悪意もなければ、深い侮蔑もない。  ただ、彼女自身の考える「事実」を口にしただけ、という風に見えた。   2.7:『旅人ワイズモン』  レイラの話が終わり、談話室に沈黙が降りた後、次に自己紹介の番が回ってきたのは、魔人型デジモン、ワイズモンだった。  彼は賢者のようなローブを纏い、宙に浮いた分厚い本を開いている。  見た目はいかにも知的な雰囲気だが、その口から飛び出した言葉は、騎士の予想を裏切るものだった。 「魔人型デジモンのワイズモンでーす! デジタルワールドってぇ、いろんな不思議な場所があるじゃないですかぁ~?  僕そういうとこ色々見て回るの好きでぇ!  ここに来たのもー大体そういう感じなんだけどぉ……  レイラさんがね、ちょっと元気ないみたいだったから、この館の再生のエネルギーを感じてまた笑顔になってほしくてさ!」  ワイズモンは、宙に浮いたままくるりと一回転し、その分厚い本をパタパタと羽ばたかせる。  騎士は思わず首を傾げた。賢者然とした外見とのギャップに、デジモンの見た目と性格が必ずしも一致しないことを改めて実感させられる。  都会ではアクセサリーで個性を出すデジモンもいるが、デジタルワールドのほとんどのデジモンは、基本的な姿のままだ。  ワイズモンのように、その本質が姿と乖離している個体も珍しくないのだろう。 「あ、皆さん展望台にはもう行きました!? 嵐が全てを破壊していく凄ェ景色見れますよ~!  2日目はダークエリアのようになって、3日目には大地が再生し始める神秘的な景色が見れるそうなんでぇ~、興味ある方はぜひ僕と一緒に見ましょうよぉー!」  興奮気味に身振り手振りで語るワイズモンに、ノリの近いディエースはすぐに同調した。  そして、レイラもまたワイズモンの自分への配慮を感じ取ったのか、先ほどまで沈痛な面持ちだった表情にわずかながらも温かい色が宿った。 「……大地の再生。本当に、見てみたいですね」  ワイズモンは、そんな彼らの反応に満足げに頷き、宙でゆらゆらと揺れていた。  2.8:『騎士の自己紹介』  ワイズモンの軽快な自己紹介に続いて、騎士の番が来た。彼は一歩前に出ると、落ち着いた口調で語り始めた。 「戦場騎士。イギリス人と日本人のハーフで16歳だ。俺はデジタルワールドに導かれ、相棒のズバモンと共に冒険の日々を送っている」  簡潔な言葉だったが、その響きにはデジタルワールドでの様々な経験が凝縮されているようだった。  彼の隣に立つズバモンは、騎士の言葉に誇らしげに胸を張っている。 「へへん! 俺とナイトは最強コンビだからな! 究極体にだって勝ったんだぜ!」  ズバモンが元気よく付け加えると、騎士は軽く笑い、視線を談話室の窓へ向けた。  外では相変わらず、デジタルストームが吹き荒れている。 「数時間前、旅の途中で強力な黒い嵐に襲われてな。俺たちとディエースが乗るレッシャモンもろとも巻き込まれる寸前だったんだ。  幸い、この青嵐の館が避難所になってくれて助かった。まさに間一髪だった」  彼は、あの時感じた嵐の猛威と、館に辿り着いた時の安堵を思い返すように、ゆっくりと話した。  デジタルワールドでは、常に予期せぬ危険が潜んでいる。だからこそ、頼れる相棒の存在が何よりも重要だった。  ソク師範が興味深そうにサングラスの奥から騎士を見つめた。 「ほう、レジェンドアームズの担い手であったか。噂には聞いておる。珍しいデジモンを相棒に持ったものだ」  ユンフェイもまた、騎士の言葉に静かに頷いていた。同じ剣を扱う者として、騎士の持つ雰囲気に共感する部分があるのだろう。  騎士は自己紹介を終えると、談話室に集まった人々の顔を改めて見回した。それぞれの胸に秘めた過去と、この館に集まった理由。  彼らとの出会いが、これからどんな物語を紡いでいくのか、騎士は静かに思いを巡らせていた。  2.9:『ユンフェイの道』  騎士の自己紹介が終わり、次に立ち上がったのは長髪の剣士、チェン・ユンフェイだった。  彼の纏う漢服は、静謐な雰囲気を漂わせている。ユンフェイは、隣に立つドラコモンに視線をやり、穏やかな、しかし芯の通った声で語り始めた。 「チェン・ユンフェイだ。私は現実世界を捨て、剣に生きると決めた男。デジタルワールドこそが、私の研鑽の場だ」  その言葉には、迷いも未練もない、確固たる覚悟が感じられた。  彼の生き様が、その短い言葉の中に凝縮されているようだった。横で腕組みをしていたドラコモンは、誇らしげに鼻を鳴らす。 「ユンフェイ殿は、剣の道を極めるためならば、どんな困難も乗り越えるお方です! 我が主の剣技は、もはや神域に達していると言っても過言ではありません!」  ドラコモンの大袈裟な賛辞にユンフェイは苦笑いを浮かべた。 「ドラコモン、私はそのように大層なものではない。まだまだ未熟者だ」 「す、すいませんユンフェイ殿」 「そして、この館に来たのは、四大竜の試練をこなすためだ。  この舘の主であるゴッドドラモンの試練を突破し、このドラコモンがスレイヤードラモンへと進化できたのは、すべて剣の道に精進した結果だ」  ユンフェイの言葉に、ソク師範や赤城鋼太郎も感心したように頷いている。  四大竜の試練。旅の途中で騎士もその噂を聞いたことがある。  ゴッドドラモン、チンロンモン、メギドラモン、ホーリードラモンの四体の竜型デジモン究極体が、同じ竜型デジモンに与える試練。  それを突破したデジモンは、スレイヤードラモンへと進化を果たすことができるという。このドラコモンが、まさにその実力者である証だった。  2.10:『ティンカーモンの恋心』  ユンフェイの自己紹介が終わると、彼の傍らを忙しなく飛び回っていた小さなデジモン、ティンカーモンが、待ってましたとばかりに前に進み出た。  彼女は興奮した様子で、小さな体を震わせながら、矢継ぎ早に言葉を繰り出した。 「はぁい! 次はアタシの番だよー! アタシはティンカーモン! ユンフェイのこと、いっつも応援してるんだー!  っていうか、もーマジでサイコーにカッコいいんだから! え? なんでかって!? そりゃあねー!  アタシが野良デジモンとのバトルで足を怪我して動けなくなって、あの黒い嵐に巻き込まれそうになってた時、ユンフェイが助けてくれたの!  しかもね、ちゃんとアタシの足を治療してくれて、この青嵐の館までえっと、抱っこして運んでくれたんだから!  もう王子様みたいでキュンキュンしちゃったの~!」  彼女の言葉は飾り気のない、純粋な感謝と興奮に満ちていた。  ティンカーモンにとって、ユンフェイはまさに命の恩人であり、憧れの存在なのだ。  彼女の言葉に、ユンフェイはわずかに照れたような表情を浮かべ、ドラコモンは得意げな顔で頷いていた。 「だからね、アタシ、ユンフェイのこと、ずーっと応援する。世界で一番かっこいい剣士は、ユンフェイだよー!  マジでイケメンだし、強いし、優しいし、もう完璧なんだからっ!」  ティンカーモンはそう叫び、再びユンフェイの周りをくるくると、まるで止まらない風車のように飛び回った。  その無邪気でキャピキャピした姿は、談話室に漂っていた重い空気を、ほんの少しだけ明るくしたようだった。  2.11:『エリス・ローズモンドの提言』  最後に立ち上がったのは、魔女のようなトンガリ帽子を被った金髪の女性、エリス・ローズモンドだった。  彼女のパートナーであるフローラモンが、心配そうにその傍らに寄り添っている。  エリスの青い瞳は、談話室の全員を射抜くかのように冷たく、その口調には一切の感情が感じられなかった。 「エリス・ローズモンド。14歳イギリス人。はっきり言うわ。ここへ来たのは青嵐の館に隠された秘宝を手に入れるためよ。……貴方達も本当はそうなんでしょう?」  その言葉は、談話室にいた全員の心をざわつかせた。秘宝? そんなものがあるのだろうか。  騎士は、エリスの言葉で談話室の空気が一変するのを感じた。  それまでの自己紹介で築き上げられつつあった緩やかな空気が、一瞬にして凍り付いたかのようだ。 「フン、やっぱりね……。力を求めていなければこんな辺境にはこないわよ」  エリスは、まるで周りの反応を楽しむかのように、薄く口元を歪ませた。 「へー。ねーゴッドドラモン! そんなすごいお宝ここにあるのー?」  ディエースが目を輝かせて、無邪気にゴッドドラモンに尋ねた。 「ディエース様、この館にそのような宝などありません。エリス様にも何度も申し上げているのですが……」  ゴッドドラモンは困惑したように答える。その声には、度重なるエリスの問いに辟易しているような響きがあった。  しかし、ソク師範がその言葉を否定したことで、談話室のざわめきは一層大きくなった。 「いや、この私も聞いたことがありますぞ。青嵐の館には、デジモンを強化する秘宝、古の伝説に語られる神具が隠されていると。  嵐が天を覆い、世界が混沌に呑み込まれる時のみ、姿を現す。『刻の龍珠』の輝きは、デジモンの真の力を覚醒させ、未知なる高みへと昇る道を示さん。  今の今まで忘れていましたがな。まさか、このような話に真実味があろうとは……」  ソク師範の言葉は、火に油を注ぐようなものだった。  彼の口から出た具体的な秘宝の名と、それがデジモンを強化するという情報に、談話室の宿泊客たちは、互いに顔を見合わせ、疑心暗鬼の視線を交わし始める。  誰もが、秘宝の存在に色めき立っているのが見て取れた。  ゴッドドラモンは大きくため息をついた。その表情には、諦めにも似た感情が浮かんでいる。 「……わかりました。レクリエーションとしてこれから皆さんにはクイズ大会を行ってもらおうと思っていました。  ですが、予定を変更してこの青嵐の館を探検してもらいましょう。そのような秘宝があるならば、どうぞ見つけてもらおうじゃありませんか」  ゴッドドラモンの言葉は、挑戦的でもあり、ある種の投げやりな響きも持っていた。  こうして、秘宝を巡る探索が、この青嵐の館で始まることになる。  それは、それぞれの思惑が複雑に絡み合い凄惨な結末へと続く物語の幕開けだった。  Chapter3『館の探検』  3.1:『展望室の光景』  談話室での顔合わせを終え、宿泊客たちはそれぞれの思惑を胸に、館の探索へと向かうことになった。  騎士は一旦、与えられた部屋に戻ると、先に部屋に戻ったはずのディエースがベッドに寝転がってアプリドライブをいじっていた。  どうやら、最初から騎士の部屋に入り浸るつもりらしい。  ズバモンはディエースの隣で、退屈そうに身体をくねらせている。 「どうする、ズバモン。サボってこのまま部屋にいるか?」 「えー、つまんねー! ちゃんと秘宝探しに行こうぜ、ナイト!」  騎士がパンフレットの館内マップを広げると、ディエースがひょいと顔を覗かせた。 「少年、何見てんの? あ、館の地図じゃん! ね、ね、この展望室ってとこ行ってみない?  最上階にあるらしいよ! デジタルストームがよく見えるってワイズモンも言ってたしねー!」  ディエースの目が輝いた。彼女はそのゆったりとした袖をひらひらとさせながら、興奮気味に騎士を誘う。  ズバモンもその言葉に乗り気で嬉しそうに飛び跳ねた。騎士は彼女の勢いに押され、結局その提案を受け入れた。  こうして、騎士、ディエース、そしてそれぞれのパートナーデジモンであるズバモンは、最上階の展望室を目指すことになった。  螺旋階段を一段一段上るごとに、外から響く嵐の音が大きくなっていく。  展望室の重厚な扉を開けると、そこはデジタルワールドの荒々しい息吹が満ちる空間だった。  円形の部屋の壁面全てが巨大なモニターになっており、そこには今まさに吹き荒れるデジタルストームの猛威が360度で展開されていた。  轟音と共に渦が荒れ狂い、無数の雷光がスパークする。  時折、吹き飛ばされた巨大なワイヤーフレームの塊がモニターに激突するような錯覚を覚え、思わず身体がのけぞりそうになる。  全ての大地からテクスチャーを剥がし破壊しつくす、まさに混沌の極み。  その圧倒的な光景は、館の安全な内部にいるにもかかわらず、本能的な恐怖を呼び起こすほどだった。 「すっごーい! これぞデジタルワールドの醍醐味って感じ! テンション上がるわー! 一緒に写真取ろうよ少年!」  ディエースは目を輝かせ、スマホを構えて撮影を始めようとしたが、カメラアプリが存在しないことに気づき、項垂れている。 「そっか……キャメラモン、いま無いもんなー……アプモンに頼り切りだとこうなるのねー……」 「ナイト、見てみろよ! 雷がすっげー光ってんぞ! なんだか力が湧いてくるみてーだ!」  ズバモンはモニターに張り付くようにして、嵐のエネルギーを全身で感じ取っているようだった。  騎士は、その壮大な光景を前に、ワイズモンの言葉を思い出していた。  展望室には既に何人かの先客がいた。  片隅のソファには、褐色肌の女性、レイラ・シャラフィがパートナーのスナリザモンと共に静かに座っていた。  彼女の瞳はモニターに映る嵐をじっと見つめているが、その表情にはかすかな憂いが漂っている。  デジモンイレイザーに仲間を奪われた彼女にとって、この嵐の光景は、破壊の記憶を呼び起こすものなのかもしれない。  スナリザモンが心配そうに彼女の肩に寄り添っているのが見えた。  もう一方には、宙に浮いた分厚い本を抱えたワイズモンが、興奮気味に身振り手振りで何かを説明していた。  彼の隣には赤城鋼太郎とカイザーレオモンが、真剣な表情でワイズモンの話に耳を傾けている。 「……つまり、このデジタルストームはデジタルワールドの深層にあるデータ構造の再構築、あるいは生命サイクルそのものを司るプロセスだと?」  赤城博士が眼鏡を押し上げながら尋ねる。ワイズモンは嬉しそうにパタパタと本を羽ばたかせた。 「そーっすよ、アカギさん! デジタルワールドっていうのはね、常に変化してて、時にはドッカーンって壊れて、また新しいものが生まれちゃうの!  この嵐もその1つ! だからね、この景色をよーく観察すると、超絶ヤバい発見があるかもしれないんだよぉ! マジで刺激的っしょ!?」  ワイズモンの声には、知的探究心よりも、刺激を求めるようなチャラい響きがあった。  赤城博士は苦笑しつつ、自身の持つデータと比較しているようだった。 「確かに、デジタルワールドで巻き起こる通常の嵐の観測データとは異なる動きを示している。データ構造の複雑性も異常だ。  これが自然現象だとすれば、新たなデジモン種の誕生や、既存のデジモンの変異を促す要因にもなり得る。あるいは……」  赤城の言葉が途切れた時、ワイズモンが身を乗り出すように宙で揺れた。 「あるいは、この嵐自体が、何かを呼び覚まそうとしているのかもしれない……っすね!  例えば、この青嵐の館に秘められたずっと眠っていた超すげぇ何かを!  伝説の秘宝とやらが、この嵐が何らかのトリガーになってる可能性もマジでゼロじゃないってことっすよぉ!」  ワイズモンの言葉は、ソク師範が語った「嵐が天を覆い、世界が混沌に呑み込まれる時のみ、姿を現す」という秘宝の伝承と重なり合う。  騎士は、嵐の壮大さ、そしてそれが持つ意味を噛みしめながら彼らの会話に耳を傾けた。  ワイズモンが再び宙をくるりと回ると赤城鋼太郎は小さく息をついた。 「ワイズモン、あなたの言うデータの奔流というのは理解できる。  しかし、それが具体的な物質、例えば『刻の龍珠』のようなものを生み出すあるいは出現させるトリガーになると考えるのは、いささか飛躍しすぎではないだろうか?」  赤城は冷静に反論する。ワイズモンは顔を膨らませた。 「えー、でもアカギさん、そういうのってロマンあるっしょ!? データが物質になることだって、デジタルワールドじゃ普通にあることだしー!  もしかしたら、この嵐自体が、巨大なデジモンが進化しようとしてる時のエネルギー放出とか、そういうスケールのでかいことなのかもよ?」  ワイズモンの突飛な発想に、赤城は首を振った。  騎士は、二人の会話が秘宝の手がかりに繋がるかもしれないと期待し、思い切って声をかけた。 「すみません、ワイズモンさん、赤城さん。その『刻の龍珠』について、何か知っていることはありませんか?」  騎士の問いに、赤城鋼太郎が眼鏡のブリッジを押し上げた。 「『刻の龍珠』の伝承は、僕もいくつか文献で読んだことがある。しかし、あくまで伝説の域を出ないものだ。  デジタルワールドの各地には、数多の秘宝や伝説のアイテムの噂が存在するが、その大半は根拠のないものか、あるいは単なるデジモンの能力の誇張に過ぎない。  この嵐がそれを呼び覚ます引き金というのも、現状では我々の単なる憶測に過ぎない」 「そっすよねー! でもロマンは捨てちゃダメっしょ、ナイト君!」  ワイズモンはあっけらかんと言い放つ。やはり、彼から具体的な情報は引き出せそうにない。  ディエースが騎士の腕を引っ張った。 「ねー少年、お腹空いたー! 夕食の時間まだだけどさぁ! 食堂行こうよー!」  ズバモンも「腹減ったー!」と同意する。  展望室にはこれ以上、秘宝の手がかりはなさそうだと判断し、騎士たちは食堂へと向かうことにした。  3.2:『食堂のベーダモン』  螺旋階段を下りて二階へと向かうと、食堂の扉が静かに開いていた。  長い木製のテーブルが中央に存在し、窓からは外でスパークする雷光が差し込み、不気味な雰囲気を醸し出している。  窓のない側の壁には自動販売機のようなものが並んでいたが、どれも故障中の張り紙がしてあった。  簡素な調理場では、ベーダモンが何かを炒める音と、独特の低い唸り声が聞こえてくる。 「なんか、すごい匂いするねー。ベーダモンって、どんな料理作るんだろ?」  ディエースが興味津々に調理場を覗き込む。  こんなところに何か隠されているものなどなさそうだと騎士は次へ行こうとしたが、  ディエースが「今晩の料理なんですか!」とベーダモンに尋ねに行ってしまった。  しかし、ベーダモンから帰ってきた返答は騎士たちには理解しがたいものだった。 「オヤッザ、クウェルヴァス、ステル’ヴァガントゥ! ホディ’ス・レコム’ザ? フフン、ギャラ’クズィム・プリム’ヴォルコース・ザトゥ!  メイナス・エス・ネブル’ステカーダ、ジュー’シス・エト・オラ’ステルパルヴ・エクズ’プローダ!  サイド’エス・ルナ’マシュ’ポタティス、ミステリ’サポル・デ・ルナ’オクタヴィ!  デゼルタ・エス・ブラクホール’タルティス、グラヴィ’ドゥルク・トラクティス!」 「……何を言ってるのか全くわからないねナイト~」  ベーダモンは独自の言語を話しているようで、一切わからない。  騎士もズバモンも首を傾げるばかりだ。するとディエースは、にやりと笑って胸を張った。 「ふふん、こういうときはお姉さんに任せなさい! こっちが本来の使い方なんだから!」  ディエースはゲンゴーモンをアプリアライズし、ベーダモンの謎宇宙語を翻訳させようとする。  するとさっきの内容は、こういうものだったらしい。 「おやおや! いらっしゃい、星の旅人さん! 今日の料理? ふふん、そりゃもう銀河一のギャラクシーフルコースだよ!  メインは星雲ステーキ、ジューシーで口の中で星屑みたいに弾けるんだから!  付け合わせは月光マッシュポテト、ほら、月原産の芋を使ってるから、ちょっと神秘的な味がするのさ。  デザートにはブラックホールタルト、甘さの重力に引き込まれちゃうよ!」 「……このベーダモン、お喋りなおばちゃんだ!」  ズバモンは騎士とディエースが思っていたことを、思わず叫んだ。ベーダモンは調理の手を止め、くるりと振り返る。 「あらやだ! あたしの言葉通じちゃうの!? へぇーあなたアプモンっていうの。はじめまして、最近は便利になったのねぇ!  まさにそのとおりなのよ、あたしはお喋り大好き銀河スパイスのようにピリッと賑やかなベーダモンおばちゃんだよ!  今こうやってあんたたちの夕食を腕によりをかけて作ってるからね! 量が物足りなかったら追加のオーダーだって受け付けてるよ!」  おかわりも出来ることを聞いてディエースは既に顔が緩んでいる。  騎士は、これは秘宝の手がかりを聞くチャンスかもしれないと思い、ベーダモンに尋ねてみることにした。 「あの、ベーダモンさん。この館には、何か隠された秘宝があるって話を聞いたんですけど、何かご存じですか?」  ベーダモンはフライパンを揺らしながら、きょとんとした顔で騎士を見た。 「ごめんねぇ、おばちゃん雇われだからねぇ。こんな館にそんなものが隠されてるなんて、初めて聞いたわねぇ。  ああ、でもそういえば不思議なことに、ゴッドドラモンさんが時々消えるのよねぇ。  ここ2階じゃない? 階段を登っていったなら見えるのよ。  でもね、あたしはゴッドドラモンさんが昇るところなんて一度も見なかったのに、一階のどの部屋にもいなかったことがあってねぇ。  ゴッドドラモンさんの部下のウモンさんに用事は伝えられたから別にいいんだけどねー。  もしかして秘宝の話と関係あったりするのかい?」  騎士たちは思った以上に重要な情報を聞けたことで、ベーダモンにお礼を言った。 「あらいいのよ別に! もし秘宝ってのが見つかったらおばちゃんにも見せてほしいわ!  あらやだ話し込んじゃってスープちょっと煮込みすぎちゃったかしら?」  ベーダモンの言葉に、騎士の頭の中でパズルのピースが繋がり始めた。 「一階のどの部屋にもいなかったのに消える」という現象は、隠された通路や部屋があることを示唆している。  そして、それが秘宝と関係している可能性も否定できない。こうなると怪しいのは一階である。  騎士とディエースは一階の探索へと向かうことにした。  3.3:『隠された部屋』  ロビーに戻ると、既にエリスと彼女のパートナー、フローラモンが、中央にそびえ立つ水晶柱の基部を熱心に調べているところに遭遇した。  彼女の氷のような眼差しは、水晶柱の表面に刻まれた、ゴッドドラモンの手甲を模したような左右一対のレリーフに注がれていた。  片方は燃えるような赤、もう片方は稲妻のような青で装飾されている。 「ねぇエリスちゃん、ゴッドドラモンが変な消え方するって! 一階に隠し部屋あるかもよ!」  ディエースは無邪気さを装って、ベーダモンから得た情報をエリスに共有した。エリスはちらりと騎士たちに視線を向けた後、ふっと鼻で笑った。 「隠し部屋、ね。……秘宝に繋がるのなら、時間の無駄ではないでしょう。  私もこのレリーフが怪しいと睨んでいたところよ。何かギミックがあるはずなのに、どうしても開かないの」  騎士は考えた。左右一対のレリーフ。  確かゴッドドラモンの手甲には「破壊」を司る紅炎のアモン、そして「再生」をつかさどる蒼雷のウモンが封印されているはずだ。  騎士の頭の中で、パズルのピースがカチリと音を立てた。 「おそらく、ゴッドドラモンはアモンとウモンを使ってこのギミックを起動させているはず……」  騎士の推測に、エリスは苛立ちを露わにした。 「それはもう試したわ。でも開かないのよ」 「あれー? エリスのフローラモンの進化先ってウィッチモンだよなぁ?」  かつて共に戦った時の記憶を元に、ズバモンが疑問を呈する。ウィッチモンは風と水系の魔術を得意とするデジモンだ。炎や雷とは縁がないはず。 「ズバモン。忘れたの? エリスは貴方の主人と同じくディーアーク使いよ。カードスラッシュすれば炎も雷も出せるの」  フローラモンが、さも当然とばかりに答えた。なるほど、と騎士は納得した。  ディーアークのカードスラッシュなら、デジモン自身の属性に囚われずに様々な属性の技を発動できる。  エリスは既に炎と雷の力を試していたということか。しかし、それでもギミックは起動しなかった。  騎士は再度、ゴッドドラモンの手甲に刻まれた二体の龍、紅炎のアモンと蒼雷のウモンの「破壊」と「再生」という役割を思い出した。 「なぁエリス、なんのカードを使ったんだ?」 「メラモンの『バーニングフィスト』とエレキモンの『スパークリングサンダー』。こんなところで威力の高いカードを使うわけには行かないでしょ?」  炎は「破壊」の象徴としては申し分ない。ならば、雷はどうだろうか?  単純な「雷」の力だけでは足りないのかもしれない。それとタイミングも重要だ。 「エリス、もう一度、炎のレリーフに炎を放ってもらえないか? それとディエース、確か充電する能力のアプモン持ってるって言ってたよな?」  騎士の提案に、エリスは不審げに眉をひそめた。 「私の試みが無駄だとでも言うつもりかしら?」 「いや。ただ、一つ試したいことがあるんだ。  雷のレリーフには、単純な雷じゃなく『再生』の力が求められているのかもしれない。ディエースのアプモンなら、それが可能かも。  それに、おそらく二体のデジモンが同時に能力を使う必要があると思うんだ」  騎士の真剣な眼差しに、エリスは少し考えた後、フン、と鼻を鳴らした。 「やってみる価値はあるわね。フローラモン、準備しなさい」  フローラモンは光を帯びて進化する。 「フローラモン進化! ウィッチモン!」  鮮やかな赤のローブを翻し、魔女の姿になったウィッチモンが紅炎のレリーフに向かって拳をかざす。 「アプモンチップ、レディ!」  ディエースはアプリドライブを操作し、光の中から、文字通り電池の形をしたアプモン、バッテリモンを出現させた。 「バッテリモン! あの青いレリーフをフル充電して!」 「了解でござる!!」 「……カードスラッシュ!」 「『バーニングフィスト』!」  メラモンのカードの力によってウィッチモンの拳が燃え上がり、紅炎のレリーフを叩くと、炎が吸い込まれていく。 「『エレクトリックチャージ』!」  同時にバッテリモンも同時に両手で拳を地面に叩きつけると、その蓄えられたエネルギーが蒼雷のレリーフへと一直線に伸びていった。  その電力供給がレリーフに到達した瞬間、轟音と共に水晶柱の根元がガタッと音を立て、地面にヒビが入る。  そして、水晶柱の周囲の壁の一部がゆっくりと、しかし確実に内側へとスライドしていった。  開いた空間からは、ヒューッという冷たい風が吹き上がり、薄暗く湿った空気が漂い出す。その奥には、地下へと続く石階段が姿を現していた。 「あった……! 隠し階段あった!」  ディエースが声を上げた。  エリスも、その冷たい瞳の奥にわずかな驚きの色を浮かべていた。  三人と二体のデジモンは、期待と不安を胸に、地下へと続く階段を下りていく。  3.4:『牢獄』  階段を下りた先には、重厚な鉄格子とデジタルロックで封鎖された小部屋がいくつも並ぶ牢屋が広がっていた。  壁は冷たく湿った岩で覆われ、薄暗い青い光がわずかに空間を照らすのみで、外界とは隔絶された陰鬱な雰囲気が漂っている。  秘宝の気配は全くなく、失望感が広がる。  エリスもまた、無表情のまま牢屋の奥を見つめている。 「……秘宝はこんな薄汚い場所に隠されているはずがないわ」  エリスは平坦な声で呟いた。意外にもその言葉に、失望や苛立ちの色はほとんど見られない。 「えー、ここどうみても牢屋じゃん! ギミックを解いたときはワクワクしたのにー! 誰かいるのかな?」  ディエースは拍子抜けしたように、興味本位で鉄格子を覗き込んだ。  ズバモンは牢屋の陰鬱な雰囲気に、少し怯えたように騎士の足元に隠れた。  その時だった。突如として、音もなく背後に気配が現れた。 「おお、まさか見つけてしまうとは思いませんでしたよ、この場所を……!」  振り返ると、そこには館の主、ゴッドドラモンが浮遊していた。彼の表情はいつもの穏やかなものではなく、どこか困惑を帯びているように見えた。  ゴッドドラモンはゆっくりと騎士たちの側まで浮き上がり、牢屋の鉄格子に視線を向けた。 「……この場所は、青嵐の館において、明かしたくない秘密です。本来ならば、決して宿泊客の皆様の目に触れるべきではない場所でした」  ゴッドドラモンは深い声で語り始めた。 「ここは、かつては館内の秩序を乱す者、あるいはデジタルワールドの安全を脅かす存在が現れた時、一時的に収容するための施設でした。  無論、今はもう使われてはいませんがね」  彼の視線が、再び牢屋の奥に向けられる。その瞳には、複雑な感情が宿っていた。 「残念ながら、秘宝とやらは、この場所にはございません。何度も申し上げた通り噂は噂でございます」  ゴッドドラモンがそう言い終えた瞬間だった。 「よくもそんなことが言えるわねっ!!!」  エリスの傍らにいたウィッチモンが、抑えきれない怒りを爆発させるかのように、ゴッドドラモンに向けて鋭い声を放った。  その魔女の瞳には、かつて見たことのないほどの激しい怒りの炎が宿っている。  騎士は驚きに目を見開いた。いつも冷静沈着なエリスのパートナーであるウィッチモンが、ここまで感情を露わにする姿は初めて見た。  ズバモンもまた、普段から穏やかで優しいウィッチモンの豹変ぶりに、思わず「うわっ、怖っ!」と声を漏らし、騎士の影にさらに深く隠れた。 「何が『残念ながら』よ! いい加減なことを言って、私たちを欺こうとしているのよ!!」  ウィッチモンは怒りに震え、その手の先には小さな魔力の光が点滅している。  今にもゴッドドラモンに襲いかからんばかりの勢いだ。ゴッドドラモンは、その威圧的な怒りに対し、困惑したように首を傾げた。 「いや、私は真実を申し上げたまでですが……」 「真実ですって!? ふざけないでちょうだい! 秘宝は……『刻の龍珠』はどこっ……!」  騎士は慌ててウィッチモンとゴッドドラモンの間に割って入った。 「ウィッチモン! 落ち着いてくれ! ゴッドドラモンも、もう少し説明してやってくれませんか」  ディエースも慌てた様子で二人の間に入ろうとする。 「ね、ね、ウィッチモンちゃん! 喧嘩はダメだよー! お腹減ったし、とりあえずご飯食べに行こ!」  ズバモンの腹の虫が鳴ったかのようなタイミングで、館全体から夕食の準備を告げる軽やかな音楽が聞こえてきた。  その音は、張り詰めた牢屋の空気をわずかに緩める。  ゴッドドラモンは、はぁ、と小さく息をついた。 「……申し訳ありません。皆様には不快な思いをさせてしまいましたね。  ひとまず、夕食の準備が整ったようですので、食堂へ向かいましょう。詳しい話は、後ほど改めて」  そう言うと、ゴッドドラモンは静かに身を翻し、牢屋の奥から地下の階段を浮上していった。  エリスは、ウィッチモンの激しい怒りをよそに、冷静な表情のまま騎士たちに続いた。  秘宝は見つからなかった。そして、館の隠された一面と、エリスのパートナーの豹変。  気まずい雰囲気を抱えたまま、騎士たちは食堂へと向かったが、騎士の心には、新たな疑問の波紋が広がっていた。  3.5:『星屑の晩餐』  食堂に足を踏み入れると、甘く香ばしい匂いが鼻をくすぐる。 「さあ、お星様たち! 銀河一のギャラクシーフルコースの始まりだよ!」  ベーダモンが自慢げに声を張り上げ、食卓には色とりどりの料理が並べられていた。  メインの星雲ステーキは、まるで宇宙を切り取ったかのように美しいマーブル模様が広がり、一口食べるとジューシーな肉汁が口いっぱいに広がる。  その豊かな風味は、まるで舌の上で小さな星々が瞬いているかのようだ。  添えられた月光マッシュポテトは、ほのかな甘みと神秘的な香りが特徴で、口に入れるととろけるような滑らかさで、まさに月で育った芋だと納得させられた。  その優しい味わいは、デジタルワールドの混沌を忘れさせるほどの安らぎを与えてくれる。  デザートのブラックホールタルトは、見た目も味も、文字通り甘さの重力に引き込まれるような、抗いがたい魅力を持つ絶品だった。 「うっま! なんだこれ、超美味いじゃんナイト!」  ズバモンは目を輝かせ、次々と料理を口に運ぶ。 「ベーダモンおばちゃん、天才すぎる! これならいくらでも食べられちゃう! ☆5確定だよこんなの」 「へぇ、この味はなかなか興味深いっすねぇ! 宇宙の法則が乱れちゃうくらい美味いっすよこれ!」  ディエースは興奮しながら語りワイズモンも、目を輝かせながら料理を味わっている。  そして、レイラの隣にいたスナリザモンが、目を大きく見開いて料理を見つめていた。 「う、うわぁ……! こんなに美味しいもの、初めて食べた……!」  スナリザモンは感激したように、星雲ステーキをゆっくりと口に運ぶ。彼はまだ若く、これまでの旅路で十分な食事に恵まれることが少なかったのだろう。  その小さな身体が震えるほど、料理の美味しさに感動しているのが見て取れた。  レイラも、そんなスナリザモンの様子を見て、小さく微笑んでいる。  その美味しさに、張り詰めていた空気も、一時的に和らいだ。皆が食事の幸福感に包まれていた。  しかし、その平穏は長くは続かない。食事も中盤に差し掛かった頃、ディエースが興奮気味に口を開いた。 「ねぇねぇ、みんな! さっきさ、一階に隠し部屋があって、地下に牢屋があったんだよ!」  その言葉に、食堂の空気が一変した。他の宿泊客の視線がゴッドドラモンへと集中する。  ゴッドドラモンは、いつもの穏やかな表情を崩さず、皆の視線を受け止めた。 「ええ、その通りです。まさか発見されてしまうとは思いませんでした」  ゴッドドラモンは静かに頷き、その牢屋について語り始めた。  レイラ・シャラフィは、ディエースの言葉を聞いても、特に表情を変えることはなかった。彼女は静かに食事を続けている。  隣のスナリザモンも、ただ静かにレイラの食事を見守っている。  ワイズモンは面白がって宙をくるくる回りながら騒ぎ立てた。 「マジで!? 超ヤバいじゃん! なんかいるんすかー!? 極悪最強囚人とかー!?」  ゴッドドラモンはワイズモンの問いかけに、穏やかに答えた。 「ご安心ください。今はもう使われておりません。手入れもしてませんので入るのはおすすめしませんが」  彼の説明に対し、エリスの傍らにいるフローラモンが、ピクリと反応するも、エリスがその頭を静かに撫でると、落ち着きを取り戻した。 「牢屋か。その構造はどのようなものだ? 施錠システムは?」  赤城博士が、科学者としての純粋な好奇心から、身を乗り出すように問いかける。彼のパートナーであるカイザーレオモンも、興味深そうに耳を傾けている。 「はい。あの施設は、かなり特殊な構造をしております。  各房は強固なデジタルロックで封鎖されており、内部には捕らえた相手のデジコアを弱め、戦闘力を一時的に無力化させるための装置が備え付けられています」  ゴッドドラモンの言葉に、食堂にざわめきが走った。無力化装置の存在は、その牢屋がただの監禁施設ではないことを示唆していた。 「……デジコアを弱める装置、だと。そんなものがこの館にあったとは」  ユンフェイが腕を組み、真剣な表情で呟いた。彼のパートナーであるドラコモンも、警戒するように周囲を見回している。  何時もキャピキャピしていたティンカーモンすら、何かを考えているようで大人しい。 「恐ろしい機能ですね……この舘の平穏のためではあるのでしょうが……」  レイラもまた不安そうに身を寄せ合い、顔を曇らせる。  一同に緊張が走る中、ソク師範が静かに口を開いた。 「そうか、地下にそのような場所が。ゴッドドラモン殿の言う通り、この館には長き歴史があり、様々な事情から設けられた施設もあるだろう。  秘宝『刻の龍珠』も、所詮はそのような事情が歪曲して伝えられた言い伝えに過ぎぬのかもしれぬ。  そのようなもの、この世に存在せぬと見るのが妥当であろう。ま、探検ごっこはなかなか楽しかったがの」  ソク師範は、穏やかな口調で秘宝の存在自体を否定し、あくまで「噂」であると結論付けた。  彼の言葉は、場の空気を落ち着かせようとする意図が感じられたが、騎士はなぜかその言葉に拭いきれない違和感を覚えた。  そもそもエリスの発言に乗って秘宝探索をさせたのは、ソク師範ではないか。  まるで、何かを隠しているかのような、あるいは知っていて敢えて否定しているかのような、不自然な響きがそこにはあった。  ソク師範の言葉で表面上は落ち着いたものの、牢屋の存在と、そこに備え付けられた無力化装置、  そして秘宝の行方を巡る疑念は、宿泊客たちの間に消えない染みのように広がっていた。  会話は途切れがちになり、食事の音だけが響く気まずい雰囲気が食堂を満たす。  食事が終わり、各自が重い足取りで席を立とうとした、その時だった。 「ねー少年! お風呂行こーよお風呂! こんな時こそさっぱりしなきゃ!」  ディエースが、気まずい空気を吹き飛ばすかのように明るく提案した。 「ベーダモンおばちゃんが言ってたよ! ここのお風呂、『青嵐の湯』って言って、ウモンの力で疲れが吹っ飛ぶんだって!」 「風呂か! いいな、ナイト!」  ズバモンもその提案に飛びついた。騎士も、このまま部屋に戻っても重苦しい考えに囚われるだけだろうと思い、頷いた。 「私も行こう。剣を振るった後の汗は、流しておかねばな」  ユンフェイも静かに立ち上がり、騎士と視線を合わせた。まだどこかぎこちない空気が二人の間には流れている。  こうして、騎士とズバモン、そしてユンフェイとドラコモンは、食堂の反対側にあるという大浴場へと向かうことになった。  女湯の方からは、既にディエースやティンカーモンのはしゃぐ声が微かに聞こえてきていた。  3.6:『星屑の湯』  のれんをくぐり、脱衣所を経て浴場へと足を踏み入れた騎士は、思わず息を呑んだ。  湯気の中に、無数の光の粒がキラキラと舞っている。  破壊されたデータの残滓が、ウモンの癒やしの力によって浄化され、まるで星屑のように立ち上っているのだ。  広々とした湯船に満たされた青みがかった湯は、肌に触れるとじんわりと温かく、体の芯から疲労が溶けていくような心地よさがあった。 「うひょー! すっげー綺麗だな! まるで宇宙に浮いてるみてーだ!」  ズバモンは歓声を上げ、ざぶんと湯船に飛び込んだ。水しぶきが上がり、星屑の光が乱反射する。  湯船には既に先客がいた。湯気の向こうから、野太い声が響く。 「おお、騎士殿ではないか。ユンフェイ殿も。いやはや、いい湯ですな、ここは!」  声の主は、ソク師範だった。彼の巨体は湯船の大半を占領し、隣には主人の背中を流すマスターティラノモンの姿もある。  その光景は、どこか微笑ましくもあり、異様な圧迫感も放っていた。 「ソク師範も、お疲れ様です」  騎士が挨拶を返すと、ユンフェイも静かに会釈し、湯船の反対側へと静かに入っていった。  ソク師範は、気持ちよさそうに目を細め、豪快に笑った。 「フハハハ! 探検ごっこでかいた汗を流すのは格別ですな! ま、結局は骨折り損のくたびれ儲けでしたがな!」  彼はそう言うと、湯の中で気持ちよさそうに泳ぐズバモンに、目を細めた。  その視線は、孫に向ける好々爺のようでありながら、どこか値踏みするような鋭さを帯びていることに、騎士は気づかなかった。 「しかし、何度見ても見事なデジモンですな、そのズバモン殿は」  ソク師範は、ゆっくりとズバモンに近づいていく。 「へへん、だろー! 俺はナイトの最高の相棒だからな!」  褒められたズバモンは、得意げに胸を張った。 「フム。レジェンドアームズ……伝説の武器デジモンか。その輝き、その存在感……ただの成長期デジモンとは格が違う。  まるで、丹念に磨き上げられた、極上の宝石のようですわい」  ソク師範は、うっとりとした表情でズバモンを見つめ、その手を伸ばして頭の剣にそっと触れようとした。  その瞬間、マスターティラノモンが低い唸り声を上げ、騎士を牽制する。騎士は咄嗟にズバモンを庇うように一歩前に出た。 「……何か用ですか」  騎士の声には、無意識のうちに警戒の色が滲んでいた。ソク師範は、慌てたように手を引っ込め、人の良さそうな笑顔を浮かべた。 「いやいや、失礼。あまりに見事なものですから、ついな。しかし騎士殿、貴殿は幸運ですな。  これほどの逸材をパートナーに持つとは。その真の価値を、正しく理解しておりますかな?」 「価値……?」 「左様。その輝きは、ただの武器として戦場で使い潰すにはあまりにも惜しい。  正しく導き、その力を最大限に引き出すことができれば、それこそあらゆる究極体をも凌駕する、唯一無二の存在となりましょう。  そのためには、相応の環境と……指導者が必要ですがな」  ソク師範の言葉は、一見するとデジモン育成の師範としての親切な助言に聞こえた。  だが、その瞳の奥には、ギラリとした欲望の光が宿っている。  まるで、ズバモンを自分のコレクションに加えたいとでも言うかのような、粘つくような視線。 「俺の相棒の価値は、俺が一番分かっています。それに、こいつの指導者は俺だけで十分だ」  騎士は、きっぱりと言い放った。ソク師範は、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにまた豪快な笑い声を上げた。 「フハハハ! 若いですな! その意気やよし! ですがな、騎士殿。その相棒は、大切にするのですよ。  多くの者が……そう、良からぬ輩が、その伝説の力を欲しがるでしょうからな。フフフ……」  意味深な言葉を残し、ソク師範は「少しのぼせましたかな」と、マスターティラノモンと共に湯船から上がっていった。  去り際の彼の背中が、やけに大きく、そして不気味に見えた。  残された騎士は、湯気の向こうで黙って湯に浸かるユンフェイと視線を交わすが、彼は何も言わなかった。  ただ、星屑のように舞う光の粒だけが、騎士の胸に生まれた新たな疑念を照らし出しているかのようだった。  3.7:『深まる闇と疑惑の影』  部屋に戻ると、ディエースはベッドに飛び乗り、興奮冷めやらぬ様子で今日あったことを矢継ぎ早に話し始めた。  その瞳は、まるで夜空の星を全て映し込んだかのようにキラキラと輝いている。 「ね、ね、ナイト! あのギャラクシーフルコース、マジでやばかったよね!? 星雲ステーキの肉汁、口の中でプチプチ弾ける感じ!  あれ、本当に宇宙の味がしたよ宇宙の! 月光マッシュポテトもさ、クリーミーなのにどこかシャキッとしてて、一口食べるごとに月が見えるみたいだった!」  ディエースは身振り手振りを交えながら、食事の感想を熱弁する。ズバモンも隣でうんうんと頷いている。 「ブラックホールタルトも最高だったし、ベーダモンおばちゃん、ありゃプロの料理人だね! 明日も明後日も食べれるなんて最高!」  彼女は興奮のあまりベッドの上で飛び跳ねる勢いだ。騎士はそんなディエースの様子に苦笑しながら、相槌を打つ。  ディエースの表情は目まぐるしく変化していく。 「あ、そうだ! そういえばさ、ウィッチモンにはちょっとびっくりしたよね。あんなに怒るなんてさ。  エリスちゃんも、普段通りって感じだったけど、なんかちょっと様子変だったもんね?」  食事の話題から一転、ディエースはふと、ウィッチモンの豹変とエリスの冷静さに触れた。  騎士の心に、再び疑問が蘇る。確かに、いつも穏やかで、感情を表に出すことの少ないウィッチモンが、あそこまで激情を露わにしたことはなかった。  それが、まるでスイッチを切り替えたかのように何事もなかったかのように振る舞う姿には、得体のしれない不自然さを感じずにはいられなかった。  そして、ウィッチモンの激昂を前にしても、エリスは微動だにせず、ただ淡々と制しただけだった。  彼女の冷淡な態度と、パートナーデジモンのあの豹変。  騎士の頭の中では、二人の間に隠された過去の断片が、まるで闇の中のパズルのピースのように散らばり始めていた。 (一体、エリスとフローラモンに何があったんだ? かつての彼女は、もっと感情豊かな少女だった。そして、フローラモンも変だ。  あの時のウィッチモンは、まるで何かに取り憑かれたように……いや、あれは彼女自身の感情だったのだろう。  しかし、なぜあの時だけ、あそこまで秘宝に執着し、怒りを露わにしたんだ?  まるで、秘宝が彼女たちにとって、よほど重要な失ってはならないものかのように……)  騎士がエリスのことについて考えていると、探検と満腹感からか、ディエースとズバモンはあっという間に眠りに落ちてしまっていた。  ディエースと、ズバモンの小さな寝息が静かに部屋に響く。 「ここ俺の部屋なんだが……」  騎士は思わず呟いた。自分のベッドを占領し、無防備に眠るディエース。  その規則正しい寝息を聞きながら、騎士は彼女との出会いの時を思い出してしまった。  事故とは言え触ってしまった柔らかな胸の感触が蘇る。騎士の顔が、わずかに熱を持つ。16歳の男にとって、それは衝撃的な出来事であった。  必死に、別のことを考えようとするが、寝息を立てるディエースの姿を見ていると、余計にドギマギしてしまう。  ふと、彼女は記憶喪失だと言っていたことを思い出した。だから、こんなにも子供っぽくて無防備なのだろうか。  そう思うと、お姉さんを気取る彼女が年下に見えてくる。見た目よりも、精神的には幼いのかもしれない。それでも、男の部屋で寝るのはどうかと思う。  少年、少年って……俺だって男なんだぞ。  騎士はそれ以上ディエースのことを視界に入れず考えないようにして、今日一日で得た情報、特に浴場でのソク師範の言葉の違和感を考え続けた。  ソク師範は、なぜあんなに唐突に、秘宝の存在を否定したのだろう?  最初に秘宝の伝承を語り、探索を促したのも彼だったはずだ。それが、牢屋が見つかった途端に「所詮は言い伝えに過ぎぬ」と。  まるで、秘宝が見つからないことを確定させるかのように。あるいは、秘宝が「牢屋にはない」という事実を強調したかったのか?  だとしたら、なぜ?  館の主人であるゴッドドラモンが秘宝の存在を否定するならまだしも、宿泊客であるソク師範が、あそこまで断言する理由は何だ?  まるで、彼が秘宝の存在を知っているにもかかわらず、それを隠そうとしているかのように……。あるいは、誰かに知られたくない真実があるのか?  騎士の思考は堂々巡りし、どうにも眠気は来なかった。  退屈を持て余した騎士は、ディエースを起こさないようそっと部屋を出た。  眠れない夜の暇つぶしに、館内を少し探索してみようと考えたのだ。  窓の外から響き渡っていたデジタルストームの轟音も、夜になるとだいぶ静かになっていた。  廊下は薄暗く、不気味な静けさに包まれている。足音を殺し、壁に手を添えながらゆっくりと歩みを進める。  館の歴史を感じさせる重厚な調度品が、闇の中で巨大な影を落とし、まるで生きているかのように見えた。  騎士は宛てもなく館内を歩いていると、ふと、遠くの廊下の曲がり角で、誰かの影が視界の端をよぎった。  その動きは滑らかで、まるで闇に溶け込むかのようだ。思わず足を止めて身を潜めると、その影はソク師範のようだった。  普段の様子とは異なり、どこか焦ったような、あるいは何かを探しているかのような素振りで、壁や床に指先を這わせ、まるで何かを確かめるように進んでいく。 その視線は、まるで特定の何かを探しているかのように、食堂やロビーの方向、あるいは、見覚えのない壁の窪みなどを注意深く確認しているようにも見えた。  彼のパートナーであるマスターティラノモンの姿は見当たらない。 (ソク師範……やはり、何か隠しているのか? こんな夜中に、一人で何を探している?)  騎士は正体を探ろうと、物音を立てないよう、さらに慎重に後を追う。  しかし、騎士がほんの少しだけ踏み出した瞬間、床の古い木材が小さく「ミシッ」と軋む音を立ててしまった。  ソク師範の影は、その微かな音に気づいたかのようにピクリと反応し、俊敏な動きで一瞬にして視界から消え去ってしまった。  まるで、闇に吸い込まれるかのように。  ソク師範を見失った騎士は、別の場所へと足を向ける。  ふと、娯楽室の明かりがついていることに気づき、中を覗いた。そこには、レイラとユンフェイがいた。  二人のデジモン、スナリザモンとドラコモンも傍らにいる。レイラはどこか不安げな表情で、ユンフェイに何かを話しているようだった。  ユンフェイは真剣な顔でレイラの話に耳を傾けている。  騎士には二人の会話の内容までは聞こえないが、その真剣な雰囲気に、ただならぬ事情があることを感じ取った。  邪魔をしないよう、そっとその場を離れようとした。  しかし、ユンフェイが騎士に気づく。 「おお、騎士か。こんな時間にどうした?」  ユンフェイは、表情を崩さず、しかし友好的な声で騎士に問いかけた。 「明日の昼、一緒にトレーニングする約束を覚えているか? 剣を合わせること、楽しみにしているぞ」  騎士は頷き、簡単な挨拶を交わす。ユンフェイは笑顔で応じ、ドラコモンも尻尾を振って応えた。 「では、レイラ殿、これにて失礼します」  ユンフェイはレイラに丁寧に挨拶をすると、ドラコモンと共に娯楽室を後にした。  娯楽室に残されたのはレイラとスナリザモンだけになった。  騎士は、意を決してレイラに近づいた。彼女は相変わらず静かに座っており、スナリザモンが心配そうにその傍らに寄り添っている。  スナリザモンが、騎士の顔を見上げ、小さな声で尋ねた。 「あの……騎士殿、秘宝は……本当に、あるんですか?」  その幼い瞳には、純粋な好奇心と、かすかな期待が宿っている。 「俺は、どこかにあるんじゃないかと……」  騎士は、エリスへの信頼と、ソク師範の不自然な態度を思い出しながら言った。  レイラは、スナリザモンの頭を優しく撫でた。 「どうでしょうね、スナリザモン。ソクさんは『言い伝えに過ぎぬ』と仰っていましたが、このデジタルワールドでは、時に伝説が現実となることもあります。  秘宝があって噂が生まれるのではなく、噂があったから秘宝が生まれる。そういう因果の逆転が起こり得るのがデジタルワールドです。  特に、この館のように、何かを隠しているかのような場所では……」  レイラは言葉を濁し、視線を窓の外、嵐が収まりゆく闇の中へと向けた。スナリザモンが不安そうにレイラの腕に擦り寄る。 「騎士さん。もし、本当に秘宝が存在するのなら……なにか、良くないことが起きそうな気がするんです……」  彼女の声は静かだが、その言葉には深い諦めのような響きがあった。  デジモンイレイザーに仲間を奪われた過去を持つ彼女にとって、この混沌とした状況は、再び悲劇を呼び込む前兆のように感じられているのかもしれない。  騎士はそれ以上、言葉を継げなかった。  レイラとスナリザモンに別れを告げ、騎士は館内の自動販売機でジュースを買い、一口飲んだ。  冷たいジュースが、夜の館の緊張感を少しだけ和らげる。  ジュースを飲み終え、自分の部屋に戻ると、ディエースの姿がないことに気づいた。ベッドはもぬけの殻だ。  騎士は一瞬驚くが、日中の疲労と夜中の活動で、もはや深く考える気力はない。  ディエースが自分の部屋に帰ったのか、それとも何か別の目的で部屋を出たのか、騎士の思考はそこで停止する。  騎士の心には、ソク師範の不審な行動、レイラの言葉、そしてディエースの不在が重なり、新たな疑念と、拭いきれない不穏な予感が募る。  デジタルストームの轟音が止んだことも、その不穏さを一層際立たせていた。  館の平和な雰囲気の裏に隠された真実が、少しずつ顔を覗かせているような気がしてならなかった。  騎士は、残されたベッドに倒れ込むようにして、そのまま深い眠りについた。  Chapter4:『消えたソク師範』  4.1:『静寂の朝、空っぽの器』  騎士は、耳鳴りのような静寂の中で目を覚ました。  昨日、絶え間なく館を叩き続けていたデジタルストームの音は、嘘のように消え失せている。  そのあまりの静けさは、安らぎよりもむしろ、嵐の中心に迷い込んだかのような息苦しさを伴い騎士の鼓膜を圧迫した。  ベッドから身を起こし窓に歩み寄る。窓の外に広がっていたのは、夜とも朝ともつかない不思議な光景だった。  昨日までの荒れ狂う黒い嵐が全てを解体し尽くした世界は、静かなるダークエリアの如き底なしの闇に沈んでいた。  空も大地もその境界を失い、ただ破壊されたデータの残滓が蛍火のように儚く明滅しながら、重力から解放されたようにゆっくりと漂っている。  それは、世界の終わりを静かに見届けているかのような、幻想的で、そして不気味な光景だった。  制御された部屋の明るさと時計だけが、今が朝なのだと示している。 「ナイトー! 腹減ったぞー!」  ズバモンがベッドの上で飛び跳ね、静寂を破った。その無邪気な声に、騎士はわずかに頬を緩める。  重苦しい予感を振り払うように、食堂へと向かった。 螺旋階段を下り、食堂の扉を開けると、意外な光景が騎士を迎えた。  そこには、昨夜の疑心暗鬼に満ちた夕食の席が嘘のような、明るく賑やかな空気が満ちていたのだ。  嵐が止んだという純粋な安堵感が、ベーダモンが腕を振るう厨房から漂う香ばしい匂いと相まって、人々の心を解きほぐしているらしい。 「いやっほー! 少年、嵐止んだじゃーん! これで明後日には出られるってことよね!?  ベーダモンおばちゃんのこの銀河一美味い朝食、最終日まで思う存分堪能しなきゃ損損!」  ディエースはすでに席に着き、両手にパンを持ちながら上機嫌に叫んでいる。  ズバモンも「うっひょー! 今日も美味そうだ!」と目を輝かせ、彼女の隣に飛び乗った。 「マジそれな! 2日目はダークエリアみたいな景色が見られるって話だったけど、ホントに真っ暗っすねー!  でも、こういう非日常感もまた、旅の醍醐味ってやつっしょ! マジエモい!」  ワイズモンも宙をくるくると回りながら興奮気味に同意する。その楽天的な雰囲気に、レイラでさえ強張っていた表情をわずかに和らげていた。  その向かいの席では、エリスとフローラモンが静かに食事をしていた。  昨夜、地下牢で激昂したウィッチモンの姿が嘘のように、フローラモンは穏やかな表情でスープを口に運んでいる。  エリスもまた、普段と変わらない冷めた様子でパンをちぎっている。  騎士の視線に気づいたフローラモンが、小さく会釈した。  その様子からは、昨夜の出来事など何もなかったかのような平穏さが感じられた。  この平穏が、嵐の後のかりそめのものだと、この時の誰もが気づいていなかった。 「おはようございます、皆様」  そこへ、館の主であるゴッドドラモンが姿を現した。しかし、彼の声にはいつもの張りがなく、表情もどこか硬い。  場の明るさとは不釣り合いなその様子に、騎士は微かな違和感を覚えた。ゴッドドラモンは食卓を見渡し、ふと眉をひそめる。 「…おや? ソク師範とマスターティラノモン殿の姿が見えませんな」  その一言で、食堂の賑やかな空気に、初めて冷たいヒビが入った。 「師範なら、毎朝のトレーニングでもしてるんじゃないっすか? 5階のトレーニングルームとか。真面目そうだし」  ワイズモンが軽口を叩くと、その言葉にユンフェイが静かに反応した。 「いや、私とドラコモンは夜明け前からトレーニングルームにいたが、師範たちの姿は見かけていない」  ドラコモンも頷く。 「ええ、俺とユンフェイ殿以外、誰もいませんでしたよ」  時間が一分、また一分と過ぎていく。ベーダモンが次々と料理を並べ終えても、恰幅の良い師範とその巨大なパートナーが現れる気配はなかった。  楽観的なざわめきが、しだいに明確な不安へと変わっていく。 「私が部屋の様子を見て参ります」  沈黙に耐えかねたように、ゴッドドラモンはそういうと、足早に食堂を後にした。  残された者たちの間に、張り詰めた空気が落ちる。皆、食事の手を止め、ゴッドドラモンが下りていった螺旋階段の方を固唾を飲んで見守っていた。  やがて、ゴッドドラモンが険しい表情で戻ってきた。 「……お留守のようです。扉は内側からデジタルロックがかかっており、応答がありません」  彼はそういうと、一同を促し、三階の宿泊エリアへと向かった。  ソク師範の部屋の前で、ゴッドドラモンは自らの指先から光の鍵を生成する。  デジモンは武器などの様々なアイテムをデータ化し、その電子の体の中に収納出来る。これもその応用だ。 「マスターキーで開けます」  その鍵が錠に差し込まれると、電子音と共にロックが解除された。ゆっくりと扉が開かれる。  その先に広がる光景に、誰もが息を呑んだ。 部屋は完璧に整頓されていた。  ベッドのシーツには1つもシワがなく、壁際に置かれた荷物もきちんとまとめられている。  だが、そこにいるはずのソク師範と、山のような巨体を誇るマスターティラノモンの姿は、どこにもなかった。  ただ、部屋の中央、磨き上げられた床の上に、ポツンと1つの物体が転がっていた。ソク師範がいつも腰に下げていた、旧式のデジヴァイスだ。  赤城が慎重にそれを拾い上げ、スクリーンを点灯させる。  そこに表示されたのは、空っぽのデータスロットと、冷たいシステムメッセージだった。 「……いない。マスターティラノモンのデータが、完全に消去されている」  赤城の冷静な声が、その場の空気を凍てつかせた。デジヴァイスは無傷。  しかし、その魂であるはずのパートナーデジモンだけが、跡形もなく消え失せている。  完全な密室で、争った形跡もなく、2つの巨大な存在だけが、忽然と消えたのだ。  先ほどまでの食堂の明るい喧騒が、遠い昔の出来事のように感じられた。 「そんな……まさか……デジモンイレイザーの仕業……」  レイラが蒼白な顔で呟いた。彼女の瞳には、かつて暴竜に仲間たちが蹂躙された戦場の光景が、鮮明に焼き付いたかのように揺らめいている。  スナリザモンが必死に彼女の肩を抱きしめるが、レイラの震えは止まらない。 「そ、そんなはずは……この館のセキュリティは完璧なはず……ありえん……」  ゴッドドラモンが狼狽しながら呟く。その威厳を失い、泳ぎ続ける視線を、赤城鋼太郎は見逃さなかった。 「外に出ただけとかかもしれねーぜ」 「バカを言わないで。外なんて存在しないわ」  ズバモンの言葉に、エリスが呆れたように突っ込む。 「デジタルストームによって、今の青嵐の館は、外へ出ることも外から来ることも不可能な電子の孤島だ。  ……つまりソク・ジンホ氏を消失させた犯人が居るとすれば、我々の中にいるということだ」  赤城の言葉で、その場にいた全員の呼吸が止まった。  それまで漠然と感じていた恐怖が、冷たく鋭い刃となって、互いの間に突き立てられた瞬間だった。  昨日まで同じ食卓を囲み、言葉を交わした仲間。その中に、ソク師範とマスターティラノモンを密室から消し去った、得体の知れない「敵」がいる。  誰もが、隣に立つ者の顔を盗み見る。友好的な笑みも、心配そうな眼差しも、全てが信じられなくなる。  疑念はウイルスのように瞬く間に広がり、それぞれの心に巣食った。  この絶望的な状況を打ち破ったのは、ディエースの場違いなほど明るい声だった。彼女はパン、と手を叩き、皆の注目を集める。 「ねぇみんな、落ち込んでてもしょうがないじゃん! イレイザーが犯人なら、普通に探しても見つかんないって!」  彼女はくるりと回り、エリスを指さした。 「それより、エリスちゃんが言ってた秘宝『刻の龍珠』を見つけようよ! それがあれば、イレイザーだってやっつけられるかもしれないじゃん? 力には力だよ!」  その言葉は、暗闇の中に差し込んだ一筋の、しかしあまりにも眩しすぎる光だった。  恐怖に支配された心にとって、「力」という言葉は抗いがたい魅力を持っていた。 「そ、それ面白そうっすねー! 超絶ヤバいパワーゲットで、犯人なんかボコっちゃいましょー!」  ワイズモンが真っ先に飛びつき、宙をくるくると回る。 「力……力があれば、もう誰も失わずに済む……」  レイラもまた、震える声で呟き、すがるような瞳でエリスを見た。彼女にとって、論理や推理は、失った仲間を呼び戻してはくれない。  だが、圧倒的な力があれば、これからの悲劇は防げるかもしれない。その希望に、彼女は賭けようとしていた。  秘宝の存在を信じ、その力を渇望するエリスも、当然のようにその輪に加わる。  その流れを、ユンフェイが冷ややかな声で断ち切った。 「馬鹿なことを言うな。敵の正体もわからぬまま、不確かな伝説に頼るのは愚者のすることだ。我々は冷静に犯人を探し出すべきだ」  彼の言葉には、剣士としての揺るぎない理性が宿っていた。 「ユンフェイ様の言う通りだよ!」  ティンカーモンが彼を支持し、赤城も頷く。 「その通りです。まずは情報の整理と論理的な分析が必要だ。感情に流されては、犯人の思う壺でしょう」  館の主であるゴッドドラモンも、自らの管理する館で起きた惨劇に責任を感じているのか、秩序の回復を望み「犯人探し派」に付いた。  こうして、嵐の館に閉じ込められた宿泊客たちの目的は、二つに分かれた。  秘宝の力による解決を求める『秘宝探し派』と論理による真実を求める『犯人探し派』。  騎士は、どちらの意見にも一理あると感じ、どちらにも与しなかった。  秘宝という甘い誘惑も、犯人を追い詰めるという正義感も、今のこの状況ではあまりに危ういものに思えた。  この静かなる闇の世界で、ただ独り、自らの目で真実を探り出すことを決意していた。  4.2:『騎士と剣士』  トレーニングルームの扉を開けると、そこには既にユンフェイがいた。  彼は漢服の袖をたくし上げ、静かに木剣の素振りを繰り返していた。  事件のことなど意に介さないかのように、その動きは水が流れるように滑らかで、一切の力みがない。  しかし、その背中からは、張り詰めた弦のような緊張感が漂っていた。 「来たか」  ユンフェイは素振りを止め、振り返る。その瞳は、昨日よりも遥かに鋭く、騎士の心の奥底まで見透かすようだった。 「こんな時に、とは思うか?」 「いや」  騎士は首を振った。 「俺も、剣を握りたかった。言葉だけじゃ、何も信じられない」 「同感だ」  ユンフェイは、騎士に木剣を投げ渡した。 「疑心暗鬼は剣を鈍らせる。誰が敵で誰が味方か、もはや言葉では分からん。ならば、剣で語るまで。  お前の剣に、曇りはないか。その魂は、信ずるに足るものか。この手合わせで、見定めさせてもらう」  彼の言葉は、騎士の胸に静かに染み込んだ。そうだ、自分も同じことを考えていた。  この男が、背中を預けるに値する相手かどうかを。  カッ、カッ、と木剣が触れ合う乾いた音が、静かな部屋に響き始める。  それはもはや、ただの稽古ではない。互いの存在の真偽を問う、魂の対話だった。  部屋の隅では、ズバモンとドラコモンが、固唾をのんでその様子を見守っている。 「ナイト……」 「ユンフェイ殿……」  パートナーたちの声が、二人の剣士の闘志をさらに燃え上がらせた。  しばらく打ち合った後、ユンフェイはふっと息をつき、騎士から距離を取った。 「君の剣には、迷いがない。多くの戦場を潜り抜けてきた者の剣だ。その剣ならば……信じてもいいのかもしれん」  その言葉は、騎士への信頼の証であり、同時に、真剣勝負への誘いだった。  ユンフェイの瞳に、静かな炎が灯る。 「──ここからは実戦形式で手合わせをしよう。君がこれまでの旅路で築き上げてきたもの、その全てを、この剣で示してもらおうか!」  その言葉と共に、ユンフェイの背後でドラコモンが咆哮を上げた。 「ドラコモン、ワープ進化! ──スレイヤードラモン!」  青い鱗の体躯が光のデータに包まれ、瞬く間に巨大な竜剣士へと姿を変える。その威容は、部屋の空気を圧迫するほどだ。  しかし、ユンフェイはスレイヤードラモンに命じるのではなく、その右手に握られた白銀の大剣『フラガラッハ』に手を伸ばした。 「レジェンドアームズと打ち合うにはそれ相応の剣が必要……借りるぞ、スレイヤードラモン」 「御意、ユンフェイ殿!」  スレイヤードラモンから手渡されたフラガラッハは、ユンフェイの手に吸い付くように収まった。  その瞬間、彼の全身から燃えるような紅蓮のデジソウルが立ち上り、大剣を真紅に染め上げる。  それは、テイマーとデジモンが一体となった、究極の剣の姿だった。  騎士もまた、呼応するようにディーアークを構えた。 「ズバモン、進化だ!」 「おう!」  眩い光と共に、ズバモンのデータが書き換えられていく。 「ズバモン、進化! ──ズバイガーモン!」  黄金の装甲を纏った、猛獣の如きデジモンが雄叫びを上げる。だが、騎士はそこで止まらない。 「さらに、アームズモード!」  ズバイガーモンは再び光となり、その姿を巨大な剣へと変えた。黄金の刀身を持つ猛々しい大剣。  紅の剣士と、金の騎士。二人の放つ闘気がぶつかり合い、トレーニングルームの空気がビリビリと震えた。  次の瞬間、二つの影が床を蹴り、部屋の中央で激突した。  紅のデジソウルを纏ったフラガラッハと、黄金のズバイガーモンがぶつかり合い、衝撃波が部屋全体を揺るがす。  それはもはや、模擬戦などではなかった。互いの全てを懸けた、真剣勝負。  ユンフェイの剣は、磨き抜かれた「技」の極致。一振り一振りが芸術品のように美しく、そして致命的な威力を持つ。  フラガラッハが宙を舞うたび、紅の残像が複雑な軌跡を描き、騎士を幻惑する。  対する騎士の剣は、経験と直感によって編み上げられた「戦」の結晶。定石もなければ、型もない。  敵の剣を体で受け流し、体勢を崩しながらも、獣のような獰猛さで反撃の牙を剥く。  ズバイガーモンの剣身が唸りを上げ、黄金の光が嵐のように吹き荒れた。  剣戟の音は、もはや聞き取れない。  ただ、絶え間なく続く衝撃音と、閃光だけが、二人の死闘を物語っていた。  決着は、あまりにも唐突に訪れた。  ユンフェイが放った必殺の突き。それは、光速と見紛うほどの、完璧な一撃だった。  誰もが、それで勝負は決したと思った。  だが、騎士はそれを、常人ではありえない反射神経で、剣の腹で受け流した。ズバイガーモンの刀身が大きくしなり、凄まじい衝撃を吸収する。  そして、騎士は、その衝撃を殺さず、逆に利用した。しなった剣の反動を、そのまま回転力に変え、コマのように身体を回したのだ。  遠心力によって加速された黄金の剣閃が、ユンフェイの懐に、下から抉るように突き上げられた。  それは、どんな教本にも載っていない、ただ生き残るためにその場で編み出された、天才的な一撃だった。  キィン、と澄んだ音を立てて、ズバイガーモンの切っ先が、ユンフェイの喉元で寸止めされる。  紅のデジソウルが霧散し、静寂が訪れた。  ユンフェイは、己の喉元に突き付けられた黄金の剣を、ただ呆然と見つめていた。  負けた。  己の全てを懸けた一撃が、それを遥かに凌駕する才能の前で、いとも容易く破られた。  じわり、と掌に汗が滲む。それは、戦いの熱によるものではない。  圧倒的な才能の差を突き付けられたことによる、冷たい汗だった。 「……君は、天才、なのだな」  ユンフェイは、絞り出すように言った。その声には、賞賛と共に、深い、深い絶望の色が混じっていた。  彼はフラガラッハを床に落とし、両膝をついた。  デジモンとの絆の力? 過酷な実戦経験が成せる技? そんなものではない。  これは、決して越えることのできない、天賦の才という名の断崖絶壁だ。  自分も、そうなりたかった。  あの、絶対的な輝きを放つ、伝説の剣。そんなものに選ばれる剣士になりたかった。  騎士は、ズバイガーモンを退化させ、元のズバモンの姿に戻した。  そして、ユンフェイの前に歩み寄り、静かに手を差し伸べた。 「俺は、天才じゃない」  その声は、落ち着いていた。 「ただ、ズバモンと一緒に、何度も負けて、何度もギリギリで勝ってきただけだ。ユンフェイさん、あなたの剣は綺麗すぎる。  俺みたいに、泥水を啜るような戦いを、してこなかったんだろう」 「……何が言いたい」  ユンフェイは、差し伸べられた手を振り払うこともできず、悔しげに顔を歪ませた。 「才能の差を、泥水で埋めろとでも言うのか。それは、持たざる者への慰めに過ぎん」 「違う」  騎士は、きっぱりと否定した。 「俺が言いたいのは、剣は一人では振れないってことだ。俺の剣は、ズバモンがいて初めて意味を持つ。  ユンフェイさんの剣だって、あのスレイヤードラモンがいて、初めて完成するんじゃないのか?  デジソウルは人間とデジモンで対等に力を合わせることで生みだす協力という力……って聞いたぜ」  その言葉に、ユンフェイはハッとして顔を上げた。  視線の先には、心配そうに自分を見つめるスレイヤードラモンの姿があった。 「ユンフェイ殿! お怪我は!?」  パートナーの言葉が、ユンフェイの凍てついた心に染み渡る。  そうだ。今の自分は一人ではなかった。  かけがえのない相棒がいる。四大竜の試練という、途方もない苦難を共に乗り越えてきたではないか。 「すまない、スレイヤードラモン。お前の剣を借りておきながら、このザマだ」 「いえ、ユンフェイ殿。俺は、貴方の力となれたのならば誇りに思います」  しかし、それでも。心の奥底で燻る渇望は消えない。 「今日のところは、私の負けだ。……今は、放っておいてくれ」  ユンフェイは、騎士の手を取ることなく、よろよろと立ち上がると一人トレーニングルームを後にしてしまった。  残されたスレイヤードラモンも、悲しげに主の後を追う。 「……なんか、悪いことしちまったかな、ナイト」  ズバモンが、心配そうに騎士の顔を見上げた。 「さあな」  騎士は、ユンフェイが消えていった扉を、ただ静かに見つめることしかできなかった。  その二人の剣士の姿を、二つの異なる視線が捉えていた。  柱の影から、ティンカーモンが瞳をハートの形にして、その光景に見惚れていた。 (ユンフェイ、かっこよかった~! でも、負けちゃった……あんなに、あんなに悔しそう……)  彼女の純粋な恋心は、ユンフェイの絶望を目の当たりにし、危険な決意へと変わる。 (もっと、もっと強い力がユンフェイにあったら……!)  彼女の視線が、騎士の持つズバイガーモンに、じっとりと注がれた。  そして、部屋の入り口では、エリスがそのティンカーモンの姿を、氷のように冷たい視線で見つめていた。  4.3:『秘宝探し組の発見』  一階の娯楽室では、『秘宝探し派』がテーブルに広げられたボードゲーム盤を囲んでいた。  ジュークボックスから流れる穏やかなメロディーが、この部屋だけを事件の緊張感から切り離しているかのようだ。 「いっけー! アタシのターン! サイコロの出目は……6! 1、2、3……やった! ワイズモンの土地、買収~~~!」 「げげっ! マジすかディエースさん! そこの土地、このゲームの銀座的な場所なのにー! 破産しちゃうっすよぉ!」  ディエースとワイズモンが、子供のようにはしゃいでいる。  その隣で、レイラは眉間に皺を寄せ、落ち着きなく指先でテーブルを叩いていた。  ソク師範が消え、犯人がこの中にいるかもしれないという状況は、彼女の神経を極限まですり減らしていた。 (早く、ここから出たい……。安全な場所へ……)  その焦燥を、スナリザモンだけが感じ取っていた。彼は心配そうにレイラの顔を覗き込む。 「レイラ、大丈夫? 顔色が悪いよ」 「ええ、大丈夫よ、スナリザモン。ただ、少し……疲れただけ」  そんな彼女を気遣うように、ワイズモンが明るく声をかけた。 「レイラさん、考えすぎは体に毒っすよー! こういう時こそ、ゲームで頭を空っぽにするのが一番! さ、レイラさんの番っすよ!」  ワイズモンの気遣いは嬉しかったが、レイラの心は晴れない。  意外なことに、そのゲームの輪にはエリスも加わっていた。彼女は表情一つ変えず、淡々とコマを進めている。  しかし、その冷たい視線は、時折、部屋の入り口へと向けられていた。まるで、誰かを待っているかのように。  彼女の足元では、フローラモンがそわそわと部屋の隅を嗅ぎ回っていたが、誰もその奇妙な行動には気づかない。  そこへ、ティンカーモンが俯きがちに部屋へ入ってきた。ユンフェイの敗北で、しょんぼりと肩を落としている。  その姿を認めると、エリスの隣にいたフローラモンが、そっと彼女に歩み寄った。 「ティンカーモンちゃん」  穏やかで、優しい声。 「ユンフェイさんのこと、心配なんだね。……でも、落ち込んでるだけじゃ、何も変わらないよ」 「フローラモンちゃん……。でも、私、何もユンフェイのためにできなくて……」 「ううん、できることはあるよ」  フローラモンは、ティンカーモンの小さな手を優しく握った。 「秘宝を見つけるの。その力があれば、きっとユンフェイさんも元気を出してくれる。エリスもね、本当は心配してるんだよ。ただ、素直じゃないだけ」  フローラモンの言葉は、ティンカーモンの心に温かく染み渡った。そうだ、落ち込んでいる場合じゃない。 「うん……! 私、探す!」 「あっちのスクリーン、調べてみよう? 何か面白いもの、隠れてるかもしれないから」  フローラモンに導かれ、ティンカーモンは中央の大型ホログラムスクリーンの前へと向かった。  そこでは、過去のデジモンバトルの名勝負がアーカイブとして再生されている。 「きっと、この中に何かあるはず……!」  ティンカーモンは、必死になって操作パネルをいじり始めた。膨大な量のバトルアーカイブを、一つ、また一つと再生していく。  チャンピオンたちの華麗な技、伝説の戦い。しかし、それらは何のヒントも与えてはくれない。  それでも彼女は諦めなかった。映像を早送りし、巻き戻し、隅々までチェックしていく。  その執念が、ついに一つの綻びを見つけ出した。  とある無名のバトルデータの、終了間際の数フレーム。そこに、本来あるはずのない、別のデータが隠されていたのだ。  ティンカーモンが慎重にそのデータを展開すると、スクリーンにノイズが走り、見知らぬテイマーの顔写真と、断片的な調査ログが映し出された。 『青嵐の館、調査記録。対象は館の主、ゴッドドラモン。彼の行動には不可解な点が多い。  特に、定期的に『展望室』で何らかの儀式を行っているフシがある。嵐のエネルギーと同期しているのか?』  その記録は、突然ブツリと途切れ、ゴッドドラモンの顔写真が大写しになったかと思うと、 『このデータは館の管理者に転送されました』という冷たいメッセージが表示され、スクリーンは元のバトル映像に戻ってしまった。 「な、何今の!?」  見守っていたワイズモンが驚きの声を上げる。 「ゴッドドラモンが……儀式? やっぱり、あのデジモン、何か隠してるんだわ……」  レイラの呟きは、その場の全員のゴッドドラモンへの疑念を、確信へと変えさせた。そして、彼女は蒼白な顔で付け加えた。 「……今のテイマー、無事なのかしら。こんな記録を残して……ゴッドドラモンに気づかれて、消されてしまったんじゃ……」  その言葉に、娯楽室の空気が一気に冷え込む。ソク師範の消失と、見知らぬテイマーの不吉な記録が重なり、この館の闇の深さを改めて全員に突きつけた。  しかし、ティンカーモンは、その恐怖よりも、希望の光に目を向けていた。 「『展望室』……! きっとそこに、秘宝の手がかりがあるんだわ!」  ティンカーモンの瞳に、再び強い光が宿る。  エリスは、その様子を満足げに見つめ、口元にかすかな笑みを浮かべていた。  4.4:『新たなるルール』  昼食の鐘が鳴り、一同は食堂へと足を運んだ。螺旋階段を上る足取りは、誰もが重い。  ソク師範の失踪と、見えざる犯人の影が、館全体を鉛色の空気で満たしていた。  しかし、食堂の扉を開けた瞬間、その重苦しい空気を吹き飛ばすかのような、香ばしくスパイシーな匂いが彼らを包み込んだ。 「おやおや! 星の旅人さんたち、お腹はペコペコかい? 今日のランチは、特製ギャラクシーカレーだよ! 隠し味の彗星パウダーがピリリと効いてるからね!」  ベーダモンが、銀河の星々を溶かし込んだかのような、美しい紫色のカレーをテーブルに並べていく。  その圧倒的な存在感と美味しそうな匂いに、張り詰めていた一同の表情が、わずかに和らいだ。 「うっま! なんだこれ! 辛いのにフルーティーで、超美味いじゃんナイト!」  ズバモンは、早速カレーに飛びつき、目を輝かせている。  騎士も一口運び、その複雑で奥深い味わいに、思わず息を漏らした。  どんな状況でも、美味しい食事は心を癒す。それは、このデジタルワールドでも変わらない真理らしかった。  ふと騎士は、少し離れた席で一人、黙々とカレーを口に運ぶユンフェイの姿に気づいた。  模擬戦の後、彼の背中にはどこか近寄りがたい雰囲気が漂っている。 (少し、言い過ぎたか……)  騎士は、自分が放った「泥水を啜るような戦い」という言葉を思い出し、胸に微かな痛みを感じた。  彼を励ますつもりだったが、プライドを傷つけてしまったのかもしれない。  ズバモンも、騎士の視線の先にいるユンフェイとドラコモンを気にしているのか、そわそわと落ち着きがない。  そんな中、食事の手を止めたエリスが、静かに口を開いた。 「午前中、『秘宝探し派』が調査した結果を報告するわ」  ティンカーモンが、少し誇らしげに、そして少し震える声で続けた。 「娯楽室のスクリーンに、昔のテイマーが残した記録が隠されてたの! そこには、ゴッドドラモンさんが展望室で何か『儀式』をしてるって……!」  その報告に、ゴッドドラモンは「儀式などと、人聞きの悪い」と顔をしかめる。  しかし、彼の言葉を遮るように、赤城が鋭い声で言った。 「フン、そんな不確かな情報より、物的な証拠があります」  彼はテーブルに小さなデータ端末を置くと、情報ホログラムを投影した。 「このデータを見てください。ソク師範の部屋から、極めて微量ですが、砂漠地帯に生息するデジモン特有のデータ痕跡を発見しました。  そして、この中でその条件に該当するパートナーを持つのは、ただ一人……」  赤城の指が、一直線にレイラを指した。 「あなただけだ、レイラ・シャラフィ!」  食堂の空気が凍りつく。レイラは、スプーンを持ったまま凍りつき、その顔から急速に血の気が引いていく。 「そ、そんな……。スナリザモンは、ずっと私と……」 「僕じゃない! 僕は、昨日の夜、レイラとずっと一緒にいたよ!」  スナリザモンが必死に叫ぶが、赤城の暴走は止まらない。 「僕は知っている。あなたは、かつて『グラニットガーディアンズ』という傭兵部隊を率いていた。  そして、金のためなら汚い依頼も請け負った悪名高いチームだったことも。  金で動く傭兵が、デジモンイレイザーに雇われ、この館に潜入した……。その可能性は、決してゼロではない!」  赤城の断定的な口調に、ゴッドドラモンが「おやめなさい、赤城鋼太郎様!」と割って入った。 「痕跡があったというだけで、彼女を犯人と決めつけるのは早計です。それに、そのデータは以前の宿泊客のものかもしれません。あなたは思い込みが激しすぎる」  館の主として、宿泊客を擁護するその姿は、一見すると公平に見えた。  しかし、ゴッドドラモンは、この機を逃さなかった。 「ですが、このままでは、赤城様のように疑心暗鬼が広がるばかり。皆様の夜の安全と館の秩序のため、一つルールを設けたい!」  彼は、集まった全員の顔をゆっくりと見渡し、告げた。 「今宵の夕食後、皆様の投票によって、最も疑わしいと思われる人物を一人、選んでいただきたい。  そして、最も票の多かった者を朝まで地下の牢にて『保護』するのです」 「正気か!?」  赤城が怒りに声を震わせる。 「多数決で確証もなくそんなことをすれば中世の魔女狩りと同じだ! 僕は断じて認めん!」 「お言葉ですが、赤城様」  ゴッドドラモンは、静かにしかし有無を言わせぬ響きで反論した。 「牢屋はこの館で最も強固で安全な場所。ソク師範のように、密室から忽然と消えることなど決してありえません。  考えようによっては牢に入れられた者こそが、犯人の脅威から逃れられる最も安全な人物となるのです」  その歪んだ論理に一瞬誰もが言葉を失った。  沈黙を破ったのは、ワイズモンの軽薄な声だった。 「なるほどー! それならアリかも! 生贄じゃなくて一晩だけのVIPルーム行きみたいなもんすね! 安全第一っしょ!」  ワイズモンのその一言が、場の空気を決定づけた。安全という言葉が、恐怖に支配された者たちの心に甘く響く。 「確かにねー。何もしないでまた誰か消えちゃうよりはマシじゃない?」 「そうね。夜、部屋で怯えながら過ごすのはごめんだわ」  ディエースとエリスが同調し、レイラもまた、自らの安全のために、力なく頷いてしまう。  こうして悪魔のルールは、赤城の怒声と騎士たちの無力な沈黙を飲み込みながら可決されてしまったのである。  食堂の空気はもはやカレーの匂いさえ感じられないほど、冷たく凍てついていた。  4.5:『ディエース』  昼食の後、騎士とズバモンは、重い足取りで自室へと戻っていた。  ディエースも、何食わぬ顔でその後ろをついてくる。  部屋に戻るなり、ディエースはベッドにどさりと倒れ込んだ。 「いやー、なんかすごいことになってきたねー!」  彼女の声は、まるで面白い映画でも見たかのように、明るく弾んでいた。その能天気さに、ズバモンですら不満げに口を尖らせる。 「全然すごくねーよ! なんかみんなピリピリしてて、嫌な感じだぜ。なあナイト、本当にこの中に、ソクのおっちゃんを消した犯人がいるのか?」  ズバモンの問いに、騎士は静かに首を振った。 「……わからない。だが、俺はまだ信じたくない。昨日まで一緒に飯を食ってた彼らを、疑うなんてこと……」  騎士の脳裏に、豪快に笑うソク師範の太った顔が浮かぶ。彼が消えたことは事実だ。  だが、この中にいる誰かが彼を消したとは、どうしても思いたくなかった。赤城のやり方は乱暴すぎるし、ゴッドドラモンの提案はあまりに危険だ。  しかし、ディエースはそんな騎士の葛藤を気にも留めず、ベッドの上で足をばたつかせた。 「えー、でも、そういうのってワクワクしない少年? 犯人は誰だ! みたいなミステリーゲーム! 今夜の投票で誰が選ばれるか、楽しみじゃない?」 「ディエースは、この状況を楽しんでいるのか……?」  騎士は、信じられないものを見る目で彼女を見た。 「ソク師範がいなくなったんだぞ。次は、俺たちの中の誰かが消されるかもしれない。お前だって……。なのに、なぜそんな風に笑えるんだ?」  その真剣な問いかけに、ディエースはくすくすと楽しそうに笑うだけだった。そして、くるりと寝返りを打つと、挑発的な視線を騎士に向ける。 「アタクシが狙われたら、少年が助けてくれるでしょ? ね、ヒーロー?」 「……からかうな」 「あ、でもさ」  ディエースは楽しそうに言葉を続けた。 「もし少年が犯人だったら、アタシ、襲われてもいいかもな~」 「なっ!?」  そのあまりに不意打ちで、誘うような言葉に、騎士の顔にカッと熱が集まった。心臓がドクンと大きく跳ねる。  彼女の赤いボディスーツが、やけに目に焼き付いて離れない。  騎士が狼狽する様子を見て、ディエースは満足げに、にやりと笑った。 「なーんてね。でも、今の少年じゃ無理かな。アタシが満腹なら、少年には絶対勝てるし」  彼女はそう言うと、けらけらと悪戯っぽく笑った。その笑顔は、どこまでが本気で、どこからが冗談なのか、全く読ませない。  騎士は、そんな彼女の態度に翻弄させられながらも、同時に、漠然とした違和感を覚えていた。  記憶を失っているから、こんなにも奔放なのか。それとも、何か別の理由が……?  彼女のことが、出会った頃よりも、さらに分からなくなっている。  騎士は、その掴みどころのない年上の少女から、そっと視線を逸らすことしかできなかった。  4.6:『赤城鋼太郎の狂気』  昼食を終えた後の時間は、まるで嵐の前の静けさのように、重く、そして不気味に過ぎていった。  ベーダモンの作った絶品のカレーも、喉を通ればただのエネルギーの塊となり、心を温めるには至らない。  誰もが、次に何が起こるのかという漠然とした不安に苛まれ、自室に戻る者、娯楽室の喧騒に逃げ込む者、  ただロビーのソファに沈み込む者と、行動はバラバラだった。その淀んだ空気を切り裂いたのは、やはりあの男だった。  赤城鋼太郎は、ロビーの中央、神秘的な光をゆらめかせ続ける水晶柱の前で、有無を言わせぬ強い口調で全員の召集をかけた。  プライベートな時間に水を差された何人かは不満げな顔をしたが、彼の鋭い眼光とただならぬ雰囲気に逆らうことはできず、皆、何事かとロビーに集まってくる。  「一体なんなのよー、人が気持ちよく昼寝してたってのに」  ディエースが気だるそうに欠伸をしながら現れ、エリスは壁に寄りかかり、腕を組んで冷ややかにその様子を眺めている。  ユンフェイは静かに、しかし警戒を解かずにその場に立ち、騎士もまた、ズバモンを連れ、赤城の次の言葉を待っていた。  全員の顔を見渡し、赤城はまるで法廷に立つ検事のように、衝撃的な言葉を突きつけた。 「集まってもらったのは他でもない。もはや一刻の猶予もないからだ。この中にいる犯人は、十中八九、デジモンイレイザーだ」  その名が出た瞬間、ロビーの空気が凍りついた。  レイラが「ひっ」と短い悲鳴を漏らし、スナリザモンが慌てて彼女の前に立つ。  ワイズモンも軽薄な笑みを消し、ゴクリと唾を飲む音がやけに大きく響いた。 「馬鹿な……。イレイザーが、こんな場所に、何の目的で……」  ゴッドドラモンが絞り出すように言ったが、赤城はそれを鼻で笑った。 「目的はある。だからこそ、ソク・ジンホは消された。奴らの恐ろしさを、あなた方はまだ理解していない」  赤城は、自分の知識がこの場の誰よりも優れていることを誇示するかのように、言葉を続ける。 「デジモンイレイザーは、単にデジモンを消去するだけの野蛮な集団ではない。  彼らは、テイマーの記憶や感情といった、最も根源的なデータすら消し去るという報告がある。  これは誇張された噂などではない。僕はその犠牲者を何人か見てきた。  肉体的には無傷のまま、ただ魂を抜かれた抜け殻のようになっていた者もいる。  愛するパートナーのことも仲間と過ごした日々のことも全てを忘れ植物人間のようになった犠牲者だ」  彼の言葉には、実体験からくる揺るぎない確信があった。その事実の重みが、じわりと全員の肌を刺す。  それは、単なる「死」よりも残酷な、存在そのものの抹消だった。 「なぜソク師範だけで留まっているのかは不明だ。奴は気まぐれだからな。だが、このまま悠長に構えていればどうなるか……。  次の朝には僕達全員が、互いの名前さえ思い出せない抜け殻となって、このロビーを彷徨っていても、何らおかしくはない」  赤城が煽る極度の危機感は皆の心に深く根を張り恐怖という名の冷たい蔓を伸ばし始めた。  完全に場の主導権を握った赤城は、緊迫した空気の中、公開尋問を開始した。 「犯人の目的を探るには、まず被害者の足取りを追うのが鉄則だ。昨日、夕食後にソク師範の姿を見た者は? どんな些細なことでもいい、報告しろ」  重い沈黙が流れる。誰もが、自分の発言が誰かを犯人へと導いてしまうことを恐れていた。  その沈黙を破ったのは、厨房からひょっこりと顔を出したベーダモンだった。 「ああ、そういえば。夜食の片付けをしてたら、師範が厨房の水を飲みに来たよ。ひどく落ち着かない様子でねぇ。  何かを探してるってわけでもなさそうだったけど、やけにキョロキョロと辺りを見回してたのが気になったかねぇ」  一つの証言が、堰を切ったように次の証言を呼び起こす。 「そういえば……」  ロビーのソファで寛いでいたワイズモンが、思い出したように言った。 「夜中に展望室に行こうとしたんすけど、その途中の廊下でソク師範とすれ違いましたねー。  ベーダモンさんの言う通り、なんかそわそわしてて。壁とか床とか、手で触って確かめたりしてて、マジで挙動不審でしたよ。何か落とし物でもしたんすかね?」  そして、最後に騎士が、意を決して一歩前に出た。 「俺も、昨夜、不審な影を見た」  騎士の言葉に、全員の視線が集まる。 「夜中に眠れずに館内を歩いていたら、遠くの廊下の曲がり角で、誰かが何かを探しているようだった。  顔まではっきりとは見えなかったが、体格からして、おそらくソク師範だったと思う。壁や床に指を這わせて、何かを確かめるように進んでいた。  俺が気づいたことに気づいたのか、すぐに姿を消してしまったが……」  4.7:『三つの証言、偽りの天秤』  ベーダモン、ワイズモン、そして騎士。三つの証言が、一つの事実を浮かび上がらせた。  ソク師範は、失踪する直前、館のどこかで必死に「何か」を探していた。  その事実が、ロビーに集まった者たちの疑心暗鬼に、具体的な形を与えてしまう。  最初に口火を切ったのは、やはり赤城鋼太郎だった。彼は、昼食後の僅かな時間で成し遂げた調査の成果を、勝利を確信した検事のように突きつけた。 「ソク・ジンホが秘宝を探していたことは明白だ。そして、それを独占しようとした犯人に消された。  ここまでは、もはや議論の余地はない。問題は、誰がそれを成し得たかだ」  彼はデータ端末を操作し、ホログラムスクリーンに館内ネットワークのログを表示させる。 「昼食後、私は館のネットワークログを解析させてもらった。  すると、昨夜、ソク師範の部屋のデジタルロックが、外部から不正なハッキングを受けて解除された記録が残っていた。  そして、そのハッキングに使われたコードの痕跡を追ったところ、発信源は……」  赤城の指が、一直線にレイラを指した。 「驚くべきことに、レイラ、君の部屋だった!」  決定的な物的証拠。食堂での告発とは、わけが違う。レイラは息を呑み、その顔から急速に血の気が引いていく。 「そ、そんな……私に、ハッキングなんて……」 「傭兵なら、その道に詳しい仲間が一人や二人いてもおかしくないだろう。あるいは、君自身がその技術を隠し持っていたとしても、驚きはしないがね」  赤城が冷たく言い放った、その時だった。 「嘘です!」  レイラが、恐怖を振り絞るように叫んだ。 「私は、昨日の夜、娯楽室で騎士くんと話した後、私は部屋に戻らず、ここのソファで……ずっと夜を明かしました。  私の部屋には、誰もいなかったはずです!」  アリバイの主張。赤城が提示した「物的証拠」と、レイラの「証言」が、正面から激突した。  ハッキングの記録は真実なのか。それとも、レイラが嘘をついているのか。あるいは、その両方が、誰かの仕掛けた罠なのか。  レイラは勢いを借り、自らのアリバイを補強するために、震える指でエリスを指さした。 「私がソファにいた時、エリスさんとフローラモンさんが、こっそりロビーの中央、あの水晶柱のあたりを調べているのを見ました!  彼女なら、私の部屋に罪をなすりつけることくらい簡単だったはずです!」  全員の視線がエリスに集まるが、彼女は全く動じない。涼しい顔で、レイラの告発を受け流した。 「ええ、調べていたわよ。でもそれは、この賢者様が不審な行動を取っていたから、その注意を逸らすため。そして、私にも証拠があるわ」  その言葉に、今度はワイズモンが「え?」と素っ頓狂な声を上げる。  エリスの傍らで、フローラモンが眩い光に包まれた。 「フローラモン進化! ウィッチモン!」  現れた魔女は、その鋭い瞳でワイズモンを睨みつけた。 「私のウィッチモンが、ソク師範が消えた部屋の前で、微弱な魔術の残滓を感知したの。  それは、空間の情報を盗み見るための、高度な探査魔法の痕跡。そして、この魔術体系は……」  エリスは、そこで一度言葉を切り、ワイズモンを侮蔑するように見つめた。 「同じウィッチェルニー出身のデータを持つ私には分かる。賢者のローブを纏う魔人型デジモンが、最も得意とする術式よ」  ウィッチモンが断言する。  ウィッチェルニー。魔術を操るデジモンたちの故郷。その出身者による専門的な証言は、抗いがたい説得力を持っていた。 「なっ!? 魔術の残滓ですって!?」  追い詰められたワイズモンは、大げさに驚いてみせる。 「それこそ、この館の主が仕掛けた監視魔法とかじゃないんすか!? 僕らを嵌めるための!」  矛先は、とうとう館の主へと向けられた。 「そもそも、ソク師範を密室から消せるなんて芸当ができるのは、この館のシステムを完全に掌握してるゴッドドラモンさんしかいないっしょ!  僕らの知らない隠し通路の一つや二つ、絶対にあるはずっすよ!」  物的証拠、アリバイ、専門的証拠。それぞれが、もっともらしい輝きを放ちながら、乱れ飛ぶ。  誰もが容疑者であり、誰もが告発者となりうる。  騎士は、この泥沼のような罵り合いを黙って見ていた。隣に立つズバモンが、不安そうに騎士の服の袖を掴む。 「なあナイト……誰が嘘ついてんだ……?」 「……わからない。わからないから、今は黙って見てるしかない」  ロビーは、もはや誰を信じればいいのか分からない、疑心暗鬼の坩堝(るつぼ)と化していた。  この狂気の連鎖を断ち切ったのは、ユンフェイの静かだが、芯の通った声だった。 「もうよせ。これではただの醜い罵り合いだ。証拠もなく互いを貶め合うのは、武人のすることではない」  彼の言葉が、わずかに場の熱を冷ます。  しかし、一度燃え上がった不信の炎は、そう簡単には消えなかった。 「……皆様、落ち着きなさい」  最後に、ゴッドドラモンが重々しく口を開いた。その表情には疲労の色が濃い。 「このままでは埒が明かない。決着は、夕食後の投票に委ねるしかありますまい」  館の主による、非情な宣言。議論は、最悪の形で強制的に打ち切られた。  一同は、夕食の席で、誰に「断罪」の一票を投じるか、それぞれの思惑を胸に秘めたまま、重い足取りで解散するしかなかった。  4.8:『二日目の自由時間』  投票の刻まで、あと数時間。  告発合戦で生まれた決定的な亀裂は、もはや修復不可能だった。  ロビーに集っていた者たちも、今は互いの視線を避けるように散り散りになり、  それぞれが最後の情報を求めて、あるいは自らの投票先を固めるために、館内を静かに動き始めていた。  騎士は、ソファの隅で小さく膝を抱え、震えているレイラの姿から、目を逸らすことができなかった。  無数の敵と戦ってきた。時には、裏切りにも遭遇した。だが、こんな風に、証拠もなく仲間を吊し上げようとする状況は、初めてだった。  その時、ディエースが騎士の隣に座り、甘えるような声で囁いた。 「ねー少年、あんな子ほっといてさ、こんな時こそ部屋でゲームでもしない? 退屈しのぎにはなるって」  騎士は彼女の能天気な言葉に無性に腹が立った。 「……断る。ディエースは、この状況が楽しいのか?」 「えー、別にー? でも、どうせなら楽しんだ方がお得じゃん」  ディエースはケラケラと笑う。  騎士はそれ以上相手にせず、立ち上がると、レイラの元へと歩み寄った。  ディエースは、その背中を、面白くなさそうに、じっとりと見つめていた。 「レイラさん」  騎士が声をかけると、レイラはびくりと肩を震わせ、怯えた瞳で彼を見上げた。 「俺は、まだ誰も信じられない。それは、誰も犯人だと思いたくないからだ。あなたもそうだろ?」  その言葉に、レイラの瞳から、張り詰めていたものが、ぽろりと涙になってこぼれ落ちた。 「私じゃ……ありません……!」 「わかってる。だから、確かめに行こう。赤城さんが言ってた、ハッキングの証拠ってやつを」  騎士の言葉に、レイラはこくりと頷いた。その二人の元へ、ワイズモンが慌てたように飛んでくる。 「僕も行きます! レイラさんは、僕がこの館に誘ったんすよ! 彼女が犯人なわけない! 僕がこの身の潔白と共に、彼女の潔白も証明してみせます!」  ワイズモンの必死な様子に、騎士は少し意外に思った。 「なんで、そこまでレイラさんを?」 「そりゃ、ダチだからっすよ! 旅の途中で会って、意気投合したんす! 彼女の過去も聞いた。だからこそ、信じられるんすよ!」  ワイズモンは、いつもとは違う真剣な表情で言った。  そこへ、背後から重い足音が近づいてくる。 「フン、感傷に浸っている暇があるのか。お前たちが何か企んでいないか、我々も監視させてもらう」  赤城と、その隣にはカイザーレオモンが立っていた。 「赤城、いささか強引が過ぎるのでは。彼女らが犯人であると決まったわけでは……」 「黙れカイザーレオモン。奴らが証拠隠滅に走る可能性もある。見過ごすわけにはいかん」  カイザーレオモンは、主人の暴走を諌めようとするが、聞き入れられないと悟ると、申し訳なさそうに騎士たちに一礼した。  こうして、四者四様の目的を持つ、奇妙な共同捜査チームが結成された。 「さて、どこから調べますかねぇ……」  ワイズモンが宙で腕を組み、思案するように言った。赤城はロビー全体を見渡し、難しい顔で腕を組む。 「闇雲に探しても時間の無駄だ。何か手がかりが……」 「僕に任せてください!」  ワイズモンはそう言うと、ローブの袖から水晶の振り子を取り出した。 「こういう時は、魔術的ダウジングに限るっす! この館の中で、最も強く『隠された何か』の気配がする場所を探知してみせますよぉ!」  ワイズモンは目を閉じ、呪文を唱え始める。彼の周りを淡い光が渦巻き、水晶の振り子がゆっくりと揺れ始めた。  振り子は徐々に振れ幅を大きくし、やがて、一直線にロビーの受付カウンターを指し示した。 「ビンゴ! やっぱりここっすよ! カウンターの中から、何かを隠蔽してる強力な魔力の流れを感じます!」  ワイズモンの言葉に、一同は受付カウンターへと視線を集中させる。  近づいてみると、カウンターは頑丈なデジタルロックで施錠されており、物理的にも魔法的にも、固く閉ざされているのが分かった。 「フン。魔術的な小細工か。だが、物理的な構造の前では無力だ」  赤城が、カウンターの構造を冷静に分析し始める。 「このロックは、内部の物理的な機構と連動している。特定箇所に精密な衝撃を与えれば、あるいは……」 「その『特定箇所』なら、心当たりがあります……」  レイラが、傭兵の顔つきに戻っていた。彼女はカウンターの側面を指さす。 「装甲の継ぎ目。あそこが、一番脆いはず……」 「よし……ズバモン!」 「おう、ナイト!」  騎士の呼びかけに、ズバモンが剣となってその手に収まる。騎士は、レイラが示した一点に狙いを定め、鋭く剣を振り抜いた。  ガキン、という金属音と共に、カウンターの隠しパネルが弾け飛ぶ。  その奥から現れたのは、一枚の古びたカードキーだった。 「あった!」  ワイズモンが歓声を上げる。騎士がそれを拾い上げると、表面に「J.S.」というイニシャルが刻まれているのが見えた。 「J.S.……? ソク・ジンホ、か?」  赤城が呟く。ソク師範が、ゴッドドラモンの秘密を探っていた証拠だろうか。  スナリザモンが、不安そうにレイラの袖を引いた。 「レイラ、これって……」 「わからない……。でも、何か、嫌な予感がする……」  皆がそのカードの意味を測りかねている中、赤城だけは、その形状から旧式の『管理室用マスターキー』であることを見抜いていた。 「……危険なものだ。私が預かっておく」  赤城は、そう言うと、カードキーを半ばひったくるようにして、自らの懐にしまい込んだ。     ☆  娯楽室の奥、ジュークボックスから流れる気怠いジャズだけが、二人の時間を彩っていた。  ディエースとエリスは、他の宿泊客がいないのをいいことに、テーブルに広げられたデジモンカードゲームに興じている。  その親密さは、昨日出会ったばかりの人間同士のものとは、到底思えなかった。 「アタシの場にいるピヨモンをヴリトラモンに進化、そこからエリスちゃんをアタック、アタック時にアグニモン進化からエンシェントグレイモンにまで昇るよ!」  ディエースが楽しげに宣言すると、彼女の傍らに佇む、トランプの兵隊のようなアプモン――カードモンが、進化時にドローしたカードを差し出す。 「エリスちゃん、セキュリティチェック2点、よろしくね!」 「……オプションカード、『グリーン・メモリーブースト』。2枚目、『アジリティ・トレーニング』。どちらも場に置くわよ」  エリスは、感情の乗らない声でカードをプレイマットに置く。戦況は、彼女が不利だった。だが、その瞳に焦りの色はない。まるで、このゲームの勝敗など、どうでもいいとでも言うかのように。 「ちょっ、盾強すぎ~!」  ディエースは唇を尖らせながら、手札を整理する。そして、ふと、全く違う話題を口にした。 「そういえばさ、例の秘宝の件だけど。アタシのカリキュモンに、この館の構造データと、ソクのおっちゃんが残した伝承をぶち込んだりして計算させてみたのよ」  彼女は、アプリドライブを操作し小さなホログラムをエリスに見せる。そこには、館の見取り図と、いくつかの特定の場所にマーキングがされていた。 「計算結果によると、膨大なエネルギーが集約され、かつ物理的に隠匿可能な場所は、三つ。  昨日見つけた地下牢の最深部、展望室の天井裏にあるであろう隠し部屋……そして、ロビーのあのバカでかい水晶柱の内部。このどれかに『刻の龍珠』がある確率は、87.4%だって」 「87.4%……。随分と、中途半端な数字ね」 「ま、あくまで確率論だからねー。せめて検索の能力を持つガッチモンでもいれば、もっと楽に見つかったんだけどねー。あいつ、今どこにいんのかしら」  ディエースは、本当に残念そうに肩をすくめる。その様子を、エリスは冷たい視線で見つめていた。 「……人が減って、疑心暗鬼が渦巻いている。秘宝を手に入れるには、好都合な状況だわ」 「その秘宝を手に入れるために、あの妖精ちゃん、利用してるんでしょ?」  ディエースの言葉に、エリスの傍らのフローラモンが答えた。 「ティンカーモンの、ユンフェイへの恋心。あれは、私たちの良い『駒』になりますわ。彼女なら、きっと喜んで『鍵』を探しに行ってくれるでしょう」  その非情な言葉から、話題は自然と、よりパーソナルなものへと移っていく。 「で、恋と言えばディエース。貴方、騎士のこと、好きなんでしょ?」  エリスは、カードを一枚引きながら、唐突に尋ねた。 「えー? 恋愛なんて、記憶と一緒に無くしちゃって、わかんなーい。それより、アタシのターン! ドロー!」  ディエースは、わざとらしく話を逸らし、山札からカードを引く。 「そう。なら、私が彼を貰ってもいいわよね。昔から好きだったの」  エリスが、挑発するように嘘をついた。その瞬間、カードを引いたディエースの指が、ピタリと止まる。  彼女の顔から、能天気な笑顔が消え失せ、その瞳が、射殺さんばかりの鋭さでエリスを睨みつけた。娯楽室の空気が、一瞬にして凍りつく。  エリスは、その反応を見て、勝ち誇ったように口の端を吊り上げた。 「……その反応こそが『好き』ってことじゃない?」 「……さあ、どうだか」  ディエースは、ふいと顔をそむけると、引いたカードを乱暴に手札に加えた。 「ま、私は騎士に興味はないわ。男なんてどうでもいい。でも……」とエリスは続ける。 「フローラモンは、ズバモンのことが好きだったみたいだけど」 「ちょっと、エリスのバカァ! 余計なこと言わないで!」  フローラモンが、顔を真っ赤にして主人の肩を叩いた。その様子に、二人は、先ほどまでの殺伐とした空気が嘘のように、くすくすと笑い合う。  それは、この狂った館の中にある、唯一、歪な平穏の形だった。  そして、ディエースは、静かに自分のターンを再開する。  その瞳の奥に宿した、嫉妬とも独占欲ともつかない暗い光には、誰も気づかないまま。     ☆  トレーニングルームの静寂の中、ユンフェイは木剣を握りしめ、瞑想していた。  騎士に敗北した絶望。告発合戦で見た人間の醜さ。彼の心は、暗い沼の底に沈んでいた。  そこへ、ティンカーモンが目を輝かせながらやってくる。 「ユンフェイ! すごい計画を思いついたの!」  彼女は、ユンフェイに、無邪気に、そして残酷な計画を打ち明けた。 「秘宝を手に入れて、ユンフェイを最強にするの! そのためにね、あの騎士のパートナーをちょっとだけ借りるの。レジェンドアームズの力があれば、ユンフェイはもっともっと強くなれるよ!」  ユンフェイは、その幼い計画の危うさに、思わず眉をひそめた。だが、今の彼には、彼女の純粋な想いを、真正面から否定する気力がなかった。  成長期のティンカーモンに、大それたことができるはずもない。そう高をくくった彼は、力なく呟いた。 「……好きにしろ」  黙認。それは、最も無責任な肯定だった。  ユンフェイは、目を閉じたまま思考する。レイラも、騎士も、このティンカーモンも犯人ではない。四大竜の試練で見たゴッドドラモンも、違うだろう。ならば、残るは……。 「だが、ティンカーモン」  ユンフェイは、目を開けずに言った。 「気をつけろ。秘宝を狙っているのはお前だけではない。特に、あのアプリドライバーと魔女には……近づきすぎるな」  それは、今の彼ができる、精一杯の警告だった。     ☆  夕食の時間を告げる音が館に鳴り響く。  最後の自由時間は、終わりを告げた。  それぞれの胸に、新たな情報と決意、そして拭いきれない疑念を抱えたまま、彼らは、運命の投票が行われる「最後の晩餐」へと、重い足取りで向かうのだった。  4.9:『断罪の投票』  食堂に、重苦しい雰囲気の中、今日の晩餐が並べられる。  ベーダモンが腕によりをかけて作った星屑のシチューは、見た目も香りも一級品だった。  しかし、その豊かな風味は、疑心暗鬼という猛毒に蝕まれた舌には届かない。  誰もが、これから始まる投票議論と、その先にある運命を思い、スプーンの動く音だけが、葬送曲のように、やけに大きく響いていた。  その重圧に耐えかねたように、赤城は「少し、頭を冷やしてくる」と、無言で席を立った。  カイザーレオモンが、心配そうにその背中を見つめながら駆け寄る。  主人の瞳に宿る、焦りと、そして狂気にも似た正義感の色を、彼だけは感じ取っていた。  赤城の真の目的は、この時間を利用した証拠の確保。自らの手で、この腐った状況を打開するための、唯一の活路。  彼は、昼間手に入れたカードキー「J.S.」を強く握りしめ、館の最上階、展望室の奥にあるという『管理室』への侵入を試みた。  静まり返った螺旋階段を、足音を殺して駆け上がる。ゴッドドラモンは食堂にいる。他の者たちも、互いを牽制し合って動けないはずだ。今しかない。  管理室の扉は、他の客室とは明らかに違う、重厚な金属の威圧感を放っていた。  カードキーのスロットを見つけ、彼は、まるで神に祈るかのように、震える手でそれを差し込んだ。 (これで、全ての謎が解ける……! ゴッドドラモンの欺瞞を暴き、真実を白日の下に……!)  しかし、彼の浅はかな希望は、次の瞬間、絶望の音を立てて砕け散った。  スロットはカードキーを飲み込むと、肯定の青ではなく、拒絶の赤に点滅。  同時に、鼓膜を突き破るようなけたたましい警報が館内に鳴り響き、彼の体は、壁から瞬時に射出された電磁ネットのトラップに捕らえられてしまった。 「ぐっ……! しまった、これは……罠か!」 「赤城様!」  カイザーレオモンが駆け寄るが、青白い火花を散らす電磁ネットに触れることすらできない。  それは、侵入者を想定した、ゴッドドラモンのあまりにも分かりやすい罠だった。  警報を聞きつけ、全員が管理室の前へと駆けつける。  そこには、獲物のようにネットにかかり、無様に身動きが取れなくなった赤城とカイザーレオモンの姿があった。  ゴッドドラモンは、舞台役者のように、わざとらしく嘆いてみせる。 「おお、赤城様……なんということを。皆の信頼を裏切り、暴力的な手段で館の心臓部へ侵入しようとするとは……。私は、あなたを信じておりましたのに」  食堂へと引きずり戻された赤城を、ゴッドドラモンはゆっくりと解放する。そして、投票前の最後の議論の口火を切った。 「皆様、もはや議論の必要もないかもしれませんな。この男以上に危険な人物がいるでしょうか?」  館の主による、巧みな誘導。場の空気は、一気に赤城断罪へと傾きかける。  だが、騎士とユンフェイが、その一方的な流れを断ち切った。 「待ってください、ゴッドドラモンさん」  騎士が、鋭い視線でゴッドドラモンを射抜く。 「赤城さんのやり方は、確かに乱暴だったかもしれない。でも、彼がそこまで追い詰められたのは、あなたに隠していることがあるからじゃないんですか?  このカードキーに刻まれた『J.S.』のイニシャル……。これはソク・ジンホのイニシャルですよね?  なぜ、ソク師範のものが、あなたが管理するカウンターの奥に、まるで隠すように仕舞われていたんですか?」  騎士の追及に、ゴッドドラモンは観念したように、はぁ、と重いため息をついた。 「……認めましょう。ソク師範は、この管理室へ出入りできる、数少ない客人でした。彼とは、長い付き合いでしてな。  私のこの館のトレーニング設備を、彼の道場の門下生のために、時折貸していたのです。  今回、彼がこの館に来ていたのも、私が古くなった設備の点検を頼んでいたから……。そんな、長年の友である彼を、この私が消すはずがないでしょう」  その言葉に、ユンフェイが静かに頷いた。 「私も、そう思う。私は、四大竜の試練を受けるため、この館でゴッドドラモン殿と対峙した。  その御方は、何よりもデジタルワールドの秩序と調和を重んじる、誇り高き竜だった。  たとえ友と意見が対立しようと、このような卑劣な手段で消すような方ではない」 「そうだよ! ゴッドドラモン様は、ユンフェイに厳しい試練を与えたけど、すごく立派だったんだから!」 「ユンフェイ殿とティンカーモンの言う通りです。あのお方には、一点の曇りもなかった。我らドラモン族の誇りにかけて、それは保証する」  ティンカーモンと、試練を受けたドラコモンまでもがゴッドドラモンを擁護し、彼の潔白が証明されたかのような、温かい空気が一瞬だけ流れた。  しかし、その空気を、ディエースの場違いに明るい声が、ナイフのように切り裂いた。 「あーもう、友情ごっことか、めんどくさーい! でもさー、ともかく赤城さんがヤバい人なのは、確定じゃない?」  彼女はアプリドライブを構え、新たなアプモンをアプリアライズする。 「アプモンチップ、レディ! アタクシ注入! セーブモン!」  光の中から現れたのは、小さな姿をしたアプモンだった。  その体は光沢のあるダークブルーのスーツに包まれ、頭には白く奇妙に折れ曲がったフードを被っている。  顔の大部分を覆う赤いゴーグルが怪しく光り、口元は矢印が描かれている。  その手から放たれる光から、二つの巨大なホログラムスクリーンを空間に投影した。 「アタシ、昼間に赤城さんがネットワークログを調べてた時、なんか変な感じがしたから、こっそりセーブモンでその時のバックアップを取っておいたのよ。   ほーら、見てみて。ソクちゃんのお部屋をハッキングしたのが、レイラちゃんの部屋からっていう記録、バックアップには影も形もなーい! これってさ、赤城さんが、レイラちゃんを犯人に仕立て上げるために、証拠を捏造したってことじゃないの?」   決定的な証拠。   ディエースの無邪気な声が、赤城の築き上げた正義の砦を、根底から破壊した。 「そん……な、馬鹿な……この僕が……ありえん……!」 「なぜ、こんなことをしたんですか……?」  レイラが、震える声で赤城を問い詰めた。  これまでの恐怖と、濡れ衣を着せられた怒りが、彼女を突き動かしていた。  赤城は、もはやこれまでと観念したように、自らの歪んだ意図を語り始めた。 「……君を、試したのだ。悪名高い傭兵部隊の元リーダー。  君ほどの人間を極限まで追い詰めれば、その疑惑を晴らすために、なりふり構わず、最短距離でこの館の秘密を暴き出すだろうと考えた。  そのためには、多少の演出も必要だった……」 「私を……利用したというの……? 私の過去も恐怖も全てあなたの手のひらの上で……?」  レイラはそのあまりに独善的な正義に言葉を失いその場にへたり込んだ。 「フン、演出、ね」  エリスが、追い打ちをかけるように冷たく言い放つ。 「証拠を捏造し、無実の者を陥れ、暴力でシステムを破壊しようとする。まるで、目的のためなら手段を選ばない、デジモンイレイザーそのものじゃないかしら」 「まさか、あなたが……」  ゴッドドラモンが、心底驚愕したかのように芝居がかった声で赤城を見る。 「あなたが、ソク師範を……?」  ゴッドドラモンの問いかけは、もはや尋問ではなかった。それは、これから始まる魔女裁判の、開始を告げる鐘の音だった。 「違う! 我が主は断じてそのようなことはしない!」  カイザーレオモンが、主人の前に立ちはだかり、必死に否定する。その獅子の瞳には、悔しさと、そして自らの無力さへの怒りが滲んでいた。 「待ってくれ!」  騎士が、思わず声を上げていた。 「赤城さんのやり方は、確かに間違っていた。許されることじゃない。  でも、だからといって彼がイレイザーだなんてあまりに飛躍しすぎだろ!  俺は彼を信用できない。だけど、彼がソク師範を消した犯人だとはどうしても思えない!」  騎士の言葉に、ユンフェイも静かに続いた。 「私も同感だ。彼の瞳には、歪んではいるが彼自身の信じる正義があった。それは、ソク師範を消すような者とは明らかに異質のものだ」  騎士とユンフェイの擁護に、場の空気がわずかに揺れる。  レイラも、赤城への怒りは消えないものの、彼をイレイザーと断定することには、戸惑いを見せていた。  ワイズモンも、どちらにつくべきか、困惑したように宙で揺れている。  本当に、このまま彼を断罪していいのか。  その、か細い良心の声を、エリスの冷たい一言が、無慈悲に踏み潰した。 「甘いわね」  彼女は、呆れたように、ため息をついた。 「彼がイレイザーかどうかなんて今は些細な問題よ。重要なのは、彼がこの館で最も危険な不確定要素であるという事実。そうでしょ?」  エリスは、集まった全員の顔をまるで値踏みするようにゆっくりと見渡した。 「ソク師範を消した真犯人は、まだこの中にいるかもしれない。  そんな状況で、証拠を捏造し、無実の者を陥れ、平然と嘘をつく人間を野放しにしておけるのかしら?  次の朝、私の部屋の扉を彼が開けないとどうして言い切れるの?」  その言葉は、恐怖という最も原始的な感情に直接訴えかける。 「……イレイザーかどうかは、もはや問題じゃない。  少なくとも、今夜、私たちが安眠するためにはこの『危険人物』を安全な場所に移しておくべき。私はそう思うけど違うかしら?」  それが、決定打だった。  真実の探求よりも、今そこにある恐怖からの逃避。集団心理は、あまりにも脆く、そして残酷な方へと傾いた。 「……確かに、そうだ」 「夜、怯えながら過ごすのは、もうごめんだわ……」  誰かが呟きそれが伝染していく。  投票はもはや形式的なものだった。圧倒的多数で、赤城鋼太郎の牢屋行きが決定する。 「愚かな選択だ……」  赤城は力なく項垂れた。その瞳からは正義の光が消え失せている。 「僕を牢屋へと入れたこと、必ず後悔するぞ……真犯人は、お前たちの中に……」  ゴッドドラモンは、悲しげな表情を装いながら赤城とカイザーレオモンを地下牢へと連行していく。  残された者たちは、これで今夜は安全だと安堵する者、後味の悪さに顔を曇らせる者、そして計画通りに進んだことにほくそ笑む者に分かれる。  狂気の夜は一人の「生贄」を出すことで一応の幕を下ろしたかに見えた。  Chapter5:『混迷はより深く』    5.1:『偽りの平穏』  投票という名の断罪劇が終わり、館には奇妙な静けさが戻っていた。  一人の「危険人物」を追放したことで得られた、脆く、歪んだ安堵感。  その空気に馴染むことも抗うこともできず、騎士はユンフェイたちと共に星屑の舞う『青嵐の湯』の湯船に、重い身体を沈めていた。 「いやー、マジで後味悪いっていうか、なんつーか……」  湯気を手で払いながら、先に湯を楽しんでいたワイズモンが軽薄な口調とは裏腹に、どこか棘のある言葉を漏らした。 「多数決って、マジで怖いっすねー。赤城さんのやり方も相当ヤバかったけどエリスさんの言い分に乗っかったらあれじゃただの魔女狩りじゃないすか。  次は俺が吊るされるかもって思ったら、ゆっくり風呂にも入ってらんないっすよ」  その言葉は、この場にいる全員が感じていたしかし口には出せなかった不安そのものだった。  場の空気が、湯の温度とは対照的にすっと冷える。  騎士は、黙って湯に浸かるユンフェイの横顔を見た。昼間の手合わせで露わになった彼の絶望。その傷はまだ癒えていないように見える。  何か言葉をかけなければ。そう思った騎士は努めて静かな声を作った。 「ユンフェイさん。……大丈夫ですか」  その問いにユンフェイはゆっくりと顔を上げた。その瞳は静かな湯面のように落ち着いているが、その奥底には複雑な感情が渦巻いているのが見て取れた。 「……ああ。心配には及ばん。ただ考えていただけだ。力だけでは守れないものもあるのだと。  今日の投票のように人の心は、力の及ばぬところで容易く流されてしまう」  ユンフェイは、ふっと息を吐き、星屑が舞う湯気を見つめた。その視線は、どこか遠くを見ているようだった。 「もし、絶対的な力、誰にも文句を言わせないほどの圧倒的な力が手に入るとしたら……。  例えば、噂の『刻の龍珠』のようなものが実在するとしたら、人は正しい道を選び続けられるのだろうかとな」  その哲学的な問いは、騎士にはすぐには答えられなかった。  ただ、隣で気持ちよさそうに泳ぐズバモンを見て、彼との絆こそが自分の答えだと漠然と感じていた。  気まずい沈黙が流れたその時だった。 「皆様……」  重厚だが、疲労の滲む声と共に、湯気の中から館の主ゴッドドラモンが姿を現した。  その顔には責務を果たした満足感などなく、むしろ度重なる心労で威厳が少しだけ削がれているように見えた。その肩は、どこか重そうだ。 「今宵はこれで、ようやく……平穏に過ごせる、はずです」  その言葉は、自分に言い聞かせているかのようでもあった。  その姿にワイズモンが噛みついた。 「平穏、ねぇ。ゴッドドラモンさん、アンタが仕組んだ魔女狩りで得た平穏なんてちっとも嬉しくないっすよ。  そもそもソク師範が消えたのも、赤城さんが暴走したのもアンタがこの館の何かを隠してるせいじゃないんすか?」  ワイズモンの直接的な非難に、ゴッドドラモンは目を伏せた。 「……隠し事など。私はただこの館の秩序と皆様の安全を考えているだけです。それ以上の意図は、何も」 「その秩序が、誰かを犠牲にして成り立つものならばそれは偽りだ」  静かだが、強い意志を込めて反論したのは、ユンフェイだった。 「ゴッドドラモン殿。私は貴殿に受けた試練で、その誇り高き魂を知っている。貴殿がソク師範を手にかけたとは思わない。  管理室の鍵を預けるほどの古い友人だというのも信じよう。  だが、貴殿が何かを隠し我々を欺いていることもまた事実。その行いがこの混乱を招いているのではないか?」  ユンフェイの言葉は、ゴッドドラモンを信じているからこその、鋭い追及だった。  しかし、ゴッドドラモンは、その忠告にすらただ疲れたように、慈悲深い笑みを無理やり浮かべて返すだけだった。 「秩序を守るためには、時に……非情な決断も必要です。全ての真実を明かすことが、必ずしも平穏に繋がるとは限りません。  大体、考えようによっては赤城様こそがもっとも安全な場所にいるのです。  何者かが潜むこの館において、あの地下牢ほど犯人の脅威から完全に守られた場所はありませんからな。  それに……赤城様が犯人でないという証拠も……残念ながら、ございません」  その歪んだ論理。  正しさと狂気が入り混じった言葉に、騎士もユンフェイも、もはや返す言葉を見つけられなかった。  ただ、疲弊した竜の姿だけが、星屑の舞う湯気の向こうで静かに揺らめいていた。  5.2:『軍師サクシモン』  星屑の湯で温まったはずの体とは裏腹に、騎士の心は冷え切っていた。  湯船の中で交わした言葉が、冷たい石のように胃の底に沈んでいる。  ゴッドドラモンの歪んだ正義、ワイズモンの軽薄さに隠された恐怖、そしてユンフェイの瞳の奥に宿る深い絶望。  それら全てが、この館を覆う闇の深さを物語っていた。  自室の扉を開けると、そこには案の定、ディエースがいた。  彼女は騎士のベッドに寝転がり、雑誌でも読むかのようにスマホをいじっていたが、騎士の姿を認めると、にっこりと笑って手を振った。 「お帰り、ヒーロー。スッキリした?」  その、からかうような声が、今の騎士にはひどく耳障りだった。彼は無言で扉を閉め、その背に凭れかかった。  ディエースはそんな騎士の様子を面白そうに観察しながら、言葉を続ける。 「なーに、その顔。まだ赤城さんのこと気にしてるわけ? あの人、自業自得じゃない」 「……あれは間違っている」  騎士は、絞り出すように言った。ディエースに苛立ちをぶつけるのはお門違いだと分かっていながら、抑えきれなかった。 「赤城さんのやり方は、確かに独善的で許されるものじゃなかった。でも、だからといって、あんな風に多数決で誰かを断罪するなんて……。  俺たちは、真実から目を逸らしただけだ。彼を牢に入れたことで、犯人は笑っているかもしれない。真実は、もっと遠のいたんだ」  その言葉に、ディエースは心底つまらなそうに、はぁ、とため息をついた。 「真実、真実って……そんなもの、今の状況で何の意味があるわけ? 犯人が誰かなんてどうでもよくない?」  彼女は上半身を起こすと、挑発的な瞳で騎士を見つめた。 「それより、エリスちゃんが言ってた秘宝『刻の龍珠』よ!  それさえ手に入れれば、犯人がイレイザーだろうがゴッドドラモンだろうが、なんだってやっつけられるじゃない?  力には力。パワーこそパワー。それが一番手っ取り早くて、確実な解決法よ」  そのあまりに短絡的で、しかし抗いがたい魅力を持つ言葉に、騎士は思わず反論した。 「無駄だ。エリスやレイラさんでさえ、丸一日探して見つけられなかったんだぞ。俺たちが今から闇雲に探したって、何にもなりはしない」  それは、正論だった。だが、ディエースは待ってましたとばかりに、ベッドから勢いよく体を起こした。その動きで、赤いボディスーツに包まれた豊かな胸が大きく揺れる。 「だからこそよ、少年」  彼女の瞳が、悪戯っぽく、そしてどこか猟奇的な輝きを放った。 「素人がちょこちょこ探しても見つからないような、とんでもないお宝なの。なら、狙う場所は1つしかないでしょ? この館の全てを知る『心臓部』を、直接叩くのよ」  ディエースは、唇に人差し指を当て、内緒話をするように囁いた。 「つまり、ゴッドドラモンが必死に隠している『管理室』よ」  その言葉に、騎士はハッとした。  そうだ。なぜ気づかなかった。  ソク師範の失踪、ゴッドドラモンの不可解な言動、そして古くから伝わる秘宝の伝説……。  散らばっていた全てのパズルのピースが、その一点に集約されていく。全ての答えはきっとそこに眠っている。 「……管理室」  騎士の口から無意識に言葉が漏れた。そうだ、そこしかない。  しかし、思考はすぐに新たな、そして絶望的な壁に突き当たった。 「だが、どうやって……? 赤城さんの失敗で証明された。あの部屋は厳重にロックされている。ゴッドドラモンさん自身が開けない限り、入ることは不可能だ」  どうやって、あの狡猾で誇り高い竜神に、自ら城門を開かせるというのか。  二人は顔を見合わせ重い沈黙に包まれた。答えの見えない問いが静かな夜の闇に溶けていく。  その沈黙を破ったのは、ディエースのどこか吹っ切れたような笑い声だった。 「なーに、その顔。そんな難しい顔したって、竜神様は扉を開けてくれないわよ」  彼女はベッドから飛び降りると、不敵な笑みを浮かべてアプリドライブDUOを構えた。 「こういう時は、餅は餅屋、策略は策略のプロに聞くのが一番よ」  その言葉と共に、ディエースの全身から、これまでとは質の違う、鋭く澄んだオーラが立ち上る。 「アプモンチップ! レディ!」 『バッテリモン プラス カードモン!』  2つのアプモンチップから放たれた光が回転し重なりあい、全く別の存在へと変わっていく。 『アプ合体! サクシモン!』  眩い光が部屋を満たし、その光量に、ベッドの隅で丸くなっていたズバモンが、もぞもぞと身じろぎした。 「ん……うわっ、まぶしっ! なんだなんだ、ナイト? またディエースが変なこと始めたのか?」    光が収まった時、そこに立っていたのは、まるで古代の戦場から抜け出してきたかのような静謐な佇まいの軍師だった。  黒を基調とした装束に、鋭い眼光を宿した仮面。その手には、白く艶やかな羽根で編まれた『羽扇(うせん)』が握られている。  シミュレーションの能力を持つ超アプモン、サクシモン。  彼は、感情の窺えない仮面の奥から騎士たちを静かに見据えると、羽扇でゆっくりと口元を隠し、深く全てを見通すような響きを持つ声で問うた。 「──呼んだか。我が主よ。して、今回の戦場(いくさば)は?」  その圧倒的な存在感に、騎士は思わず息を呑む。  ディエースは満足げに頷くとこれまでの経緯──ソク師範の失踪、疑心暗鬼に陥った宿泊客、そして鉄壁の管理室──を、手短にしかし的確に説明した。  サクシモンは黙って主の話を聞いていたが、全てを聞き終えると、ふむ、と1つ頷いた。羽扇で静かに顎を撫で、目を閉じて数秒間思考を巡らせる。 「なるほど。城は堅固、兵は疲弊し、将は疑心に満ちている。だが、城主には致命的な弱点がある」  彼はゆっくりと目を開くと、手にしていた羽扇をすっと広げた。  すると、その白い羽根から淡い光が放たれ、空中に複雑なホログラムが投影される。  館の見取り図、宿泊客たちの相関図、そしてゴッドドラモンの心理状態を示すグラフまでもが、立体的に浮かび上がった。 「城を力で攻めるは下策、心を攻めるが上策。あの竜神がもっとも執着するのは、『館の主としての体面』と、自らが作り上げた『秩序の維持』。  この2つを揺さぶり、自ら城門を開かせる策を授けよう」  サクシモンの声には、揺るぎない自信が満ちていた。彼は羽扇をあおぐと、その悪辣にして緻密に連動する、3つの策を語り始めた。 「まず、《第一の策:懐柔の計》  策の基本は『勢』と『利』です。しかし、今の我々に、あの竜神を屈服させるだけの勢はない。ならば、まず与えるべきは利。  ゴッドドラモンという城主は、プライドが高く、自らの『秩序』という名の統治に絶対の自信を持っている。  しかし、その内面では、長年解決できぬ問題に苛立ちを覚え有能な協力者を渇望している。  我々はその心の隙間に、慈雨の如く恩を売るのです。  善意の行動で『我々は貴方の味方であり、この館の秩序を守るための協力者である』という絶対的な信頼を植え付ける。  これは単なる信頼稼ぎではありません。後に我々が放つ毒を、相手が『良薬』と信じて飲み干すための甘い蜜です」 「かいじゅー? 怪獣の計? なんか強そうな技だな!」  騎士の隣で話を聞いていたズバモンが、寝ぼけ眼をこすりながら頓珍漢な相槌を打った。  サクシモンは羽扇を動かし、ホログラムの中のゴッドドラモンと騎士たちの間に、太い信頼のラインを描き加えた。 「次に、《第二の策:離間の計》  信頼という名の城壁を築いた後、次はその城壁を利用し、敵の兵……すなわち他の宿泊客たちを、我らの旗の下に集わせます。  人は共通の不満を持つ者に強く惹かれるもの。我々はゴッドドラモンへの不満の『受け皿』となることで、彼らの心を掌握する。  それは館の主導権という名の兵糧を無血で奪い取るに等しい行為。ゴッドドラモンは、我々が不満分子を鎮撫していると信じ込み安堵するでしょう。  己の足元が静かに崩れ始めていることにも気づかずに」 「そして、《第三の策:背水の計》  積み上げた不満という火薬に、我々が点火するのです。『脅迫』と『進言』は紙一重。  重要なのは、我々が最後まで『忠実なる協力者』の仮面を被り続けること。我々は民意という名の津波を背に、城主に迫るのです。 『門を開かなければ、貴方が築き上げた秩序もろとも、この津波に飲み込まれることになる』と。  彼は自らのプライドと秩序を守るため、自らの手で城門を開けるしかない。  我々は一滴の血も流さず、城の心臓部を手に入れることができるのです」  その策のあまりの狡猾さに、騎士は背筋が凍るのを感じた。 「……客のみんなまで利用するのか。それは人の心を弄ぶ悪魔の所業だ」  その声には抑えきれない嫌悪感が滲んでいた。  ワイズモンや怯えるレイラそしてユンフェイの顔が脳裏に浮かぶ。  彼らの不安や恐怖を自分たちの目的のために利用するなどということは、騎士の信条が許さなかった。 「ナイト……? どうしたんだよ、難しい顔して。なんか悪いことなのか?」  ズバモンが、心配そうに騎士の顔を覗き込む。彼の純粋な問いかけが騎士の罪悪感をさらに深く抉った。  しかし、その葛藤をディエースの冷たい一言が断ち切った。 「じゃあどうするの? このまま次の犠牲者が出るのを指をくわえて待ってるの?  それとも、少年は赤城さんみたいに誰かをスケープゴートにして満足するの?  次の朝、また誰かがソクのおっちゃんみたいに消えてるのを見たいわけ?  もしかしたら……アタシやズバモンがそうなっても少年はまだ『正しいやり方』にこだわるわけ?」  彼女の瞳には、一切の同情もためらいもなかった。 「綺麗事だけじゃ誰も救えないわよ、ヒーロー。時には、自分の手を汚さなきゃ守れないものだってあるでしょ。違う?  少年は、アタシが消えてもいいの? ねぇ、ズバモンがそうなっても、平気なの?」  ズバモン。その名前を出された瞬間、騎士の心臓が大きく軋んだ。  自分の信条か、仲間を守るための非情な手段か。天秤は、あまりにも残酷な重さで揺れ動く。  そうだ。彼女の言う通りだ。  このままでは赤城のように、また誰かが生贄になるかもしれない。犯人は今もこの館のどこかで高笑いしているかもしれないのだ。  真実を知るためには前に進むしかない。たとえその道が泥にまみれていたとしても。  騎士は強く唇を噛みしめた。目を閉じズバモンの無邪気な顔や、怯えるレイラの顔を思い浮かべる。守りたい。その一心だった。 「……わかった。やろうディエース」  その瞳には自らの手を汚す覚悟の光が、静かに、しかし強く灯っていた。 「おう! ナイトがやるなら、俺も手伝うぜ!」  ズバモンは、まだ状況をよく理解していなかったが、パートナーの覚悟を感じ取り元気よく飛び跳ねた。  それを見たディエースは、にっこりと花が咲くように笑う。  その笑顔は純粋な少女のようでありながら、その瞳の奥には獲物を手に入れた捕食者のような、暗い光が宿っていた。  5.3:『第一の策、懐柔の計』  サクシモンの策を受け入れたとはいえ、騎士の足取りは鉛のように重かった。  自らの心を偽り信頼を騙る。その行為は、騎士が生きてきた誇りを少しずつ蝕んでいくようだった。  ディエースは、そんな騎士の葛藤など気にも留めず鼻歌交じりで螺旋階段を下りていく。  ロビーでは館の主であるゴッドドラモンが、水晶柱の前に立ち深く長い溜息をついていた。  その黄金の巨躯は、今日の度重なる騒動と、宿泊客たちからの突き刺さるような視線にすっかり疲弊しきっているように見える。  威厳に満ちていた背中は今はひどく小さくそして孤独に見えた。 「ゴッドドラモンさん」  騎士が意を決して声をかけると、ゴッドドラモンはびくりと肩を震わせ警戒心に満ちた瞳で振り返った。  その表情は、まるで次にどんな非難や追及が飛んでくるのかと、うんざりしながら身構えているかのようだった。 「……おや、騎士様、ディエース様。何か私に言いたいことでも?」  声には隠しきれない疲労と苛立ちが滲んでいる。    しかし、騎士が口にしたのは彼の予想を完全に裏切る言葉だった。 「いえ。俺たちは、ゴッドドラモンさんの力になりたいんです。この館の秩序を取り戻すために俺たちに何か出来ることがあれば貢献したい」  その言葉にゴッドドラモンは目を丸くした。  今日一日、彼が向けられてきたのは、疑いと非難と責任の追及だけだった。  そんな中、差し伸べられた予想外の協力の申し出に、彼はどう反応していいのか分からずただ困惑したように二人を見つめる。  ディエースが、畳みかけるように明るい声で続けた。 「そうそう! 犯人探しとか、そういうギスギスしたのって、アタシたち向いてなくってさー。  それより、もっと建設的なことでお手伝いしたいなーって。  そうだ! ゴッドドラモンさん。ここの自動調理器って、もう何年も壊れたままなんですよね?」  その言葉は、ゴッドドラモンの心の、最も柔らかな部分を的確に突いていた。  彼は、騎士たちの真意を測りかねながらも、その話題には食いつかずにはいられなかった。 「……ええ。ですが、あれはもう……」 「アタクシ、こういう機械の扱い、実は得意なんですよ。本業はメカニックなんで!  もし直せたら少しはこのギスギスした空気もマシになると思いません?  ベーダモンおばちゃんの料理も最高だけど、みんなでワイワイ言いながら色んな料理を選べたらきっと楽しいじゃない?」  ディエースの屈託のない笑顔と騎士の真摯な眼差し。  ゴッドドラモンは、その2つの光を前に、張り詰めていた心の糸が、ふっと緩むのを感じた。 「……本当に直せるのですか?」  その声には長年の悩みの種に対する諦めとそしてほんのかすかな期待が入り混じっていた。 「あれは数年前、何の前触れもなく完全に沈黙してしまいましてな……。  管理室のデータ上は、今も正常に稼働していると表示されるのに物理的にはうんともすんとも言わない。  この館の高度な自己修復機能すら働かず原因は全くの不明。専門家にも見せましたが、首を傾げるばかりでしてな。  緊急で料理人としてベーダモン殿を雇いましたが、ありがたいことに彼女の料理が宿泊客にすこぶる好評でして。  正直、もうこのままで良いと半ば諦めておりました……」  彼は誰にも言えなかった長年の悩みをまるで告解するように語り始めた。  館の主としての威厳を損なう、些細でしかし根深い問題。それを解決しようという申し出は彼の乾いた心に染み渡る慈雨のようだった。 「俺たちが、必ず直してみせます」  騎士が力強く約束した。その声には、一片の嘘もなかった。今はまだ策のためだとしても、やるからには全力を尽くす。それが騎士の流儀だった。 「任せとけって! 俺とナイトとディエースにかかれば、ちょちょいのちょいだぜ!」  ズバモンが、隣で胸を張る。 「この館の平穏を、俺たちの手で取り戻すために」  ゴッドドラモンは、その真っ直ぐな瞳をじっと見つめ、やがて、深く、深く頷いた。 「……感謝します。騎士殿、ディエース殿。あなた方のような方がいてくれて、本当に良かった」  彼の瞳には長年の懸案を解決してくれるかもしれないという淡い期待と、そして、この混沌とした状況の中で初めて見出した明確な信頼の光が宿っていた。  5.4:『叩けば治ることもある』  夜の静けさが食堂を支配していた。ベーダモンも自室に戻ったのか、厨房はしんと静まり返っている。  その一角に鎮座する、巨大な自動調理器。  流線形のメタリックなボディは、かつては未来的な輝きを放っていたのだろうが、今はただの鉄の塊として分厚い埃を被っていた。 「さてと、アスタ商会が誇るメカニックの腕の見せ所ね!」  ディエースは慣れた手つきで髪をまとめると、ゆったりとした袖をたくし上げた。その瞳は、もはやおどけた少女のものではなく、獲物を前にした職人のそれだった。  彼女は調理器のパネルに指を滑らせ、内部構造をスキャンしていく。  その指の動きは、まるで熟練のピアニストが鍵盤を奏でるかのように滑らかで、一切の迷いがない。 「ふーん、なるほどね。この調理器、普通のやつとは構造が全然違うわ。  普通はさ、デジタケとかエグの実みたいな素材を取り込んで調理するんだけど……こいつは、もっとヤバいものを『食材』にしてる」  ジショモンがホログラムスクリーンに複雑なエネルギーフローの図を映し出し、ディエースが騎士に解説を始めた。 「この館の真下には、膨大なエネルギーラインが走ってるの。  それは、この『青嵐エリア』で発生するデジタルストーム現象、つまり『破壊と再生』のデータを直接取り込むためのもの。  破壊されたデータの残滓を『スパイス』に、再生時のデータを『素材』として、ストックし新たな料理を『創造』する……。  ほぼ無から有を生み出す、まさに錬金術みたいなシステム。古代の遺物かしらね。そりゃ普通の技術者じゃ手も足も出ないわけだわ」  ディエースは感心したように言いながらも、その手は止まらない。  コンソールを開き、無数のケーブルが複雑に絡み合う内部へと躊躇なく腕を突っ込む。  指先でケーブルのテンションやエネルギーの流れを確かめ、まるで生き物の脈を診るかのように、慎重にしかし大胆に内部構造を探っていく。  だが、ゴッドドラモンの言う通り、物理的な破損やシステムのエラーはどこにも見当たらなかった。 「通常の手順じゃダメか……。なら!」  ディエースの口元に、不敵な笑みが浮かぶ。 「ウラテクモン! 出番よ!」 「アプモンチップ、レディ! アタクシ注入!」  光の中から現れたウラテクモンは、主の意向を即座に理解し、巨大なゲームコントローラーを構えた。 「ボス! 俺様に任せるウラ!」 「ウラテクモン! このクソったれなシステムの隠しコマンドかデバッグモード、裏技の類を、片っ端から探しなさい!」  ウラテクモンの指が、常人には見えないほどの速さでコントローラーを叩き始める。  画面には無数のコードが滝のように流れ落ち、システムの深層、開発者でさえ存在を忘れているような領域へと強制的にアクセスしていく。  やがて、ウラテクモンが「見つけたウラ!」と叫んだ。 「ボス! 最終強制排出(ラスト・イジェクト)の裏コマンドを発見したウラ! でも実行するにはコンソール操作だけじゃダメみたいウラ!  筐体の側面、第三冷却フィンの下にある物理スイッチを、コマンド入力と同時に強く叩く必要があるウラ!」 「物理スイッチですって? 面倒な……。でも、面白そうじゃない!」  ディエースはニヤリと笑うと、拳を固めた。 「ウラテクモン、カウントなさい! アタシが最高のタイミングでぶち込んでやるから!」 「了解ウラ! スリー! トゥー! ワン! ……今ウラーーーッ!」 「喰らいなさい! イジェクト・パーンチッ!!」  ディエースの拳が、ウラテクモンが示した筐体の一点に、寸分の狂いもなく叩き込まれた。  その瞬間、自動調理器が、まるで断末魔の叫びを上げるかのように、けたたましい警告音を鳴らし始めた。  ガコン、ゴウン、と重い音を立てて内部機構が無理やり動き出す。  コンソールの表示が「レシピ不明:NoData」に切り替わり、内部に滞留していた最後のデータを、強制的に排出しようと動き出した。  ゴウン、という地響きにも似た重低音の後、排出トレイがゆっくりとスライドしてくる。  しかし、そこから現れたのは料理ではなかった。  虹色だった。まるで宇宙の星雲をそのまま閉じ込めたかのような美しい光を内に秘めた小さな飴玉のような球体。  それは薄暗い厨房の中で、自ら淡い光を放ち静かにそこに鎮座していた。 「なんだこれ? 美味そうじゃん!」  待ちくたびれていたズバモンが、その美しい輝きに吸い寄せられるようにひらりと飛びついた。 「待て、ズバモン! そんなもの食べようとするな!」  騎士は咄嗟に叫び、ズバモンがその飴玉を口に入れようとする寸前でその手からはたき落とした。  はたかれた飴玉は綺麗な放物線を描いて宙を舞い、騎士の口の中へと寸分の狂いもなく飛び込んでしまったのだ。 「かっ……!?」  驚いて咳き込む間もなく、騎士の喉が、ごくり、と意思に反して動いた。  虹色の球体は何の抵抗もなく食道を滑り落ちていく。  その瞬間、騎士の体内でまるで眠っていた巨大な龍が長い眠りから目覚めるかのような熱い奔流が駆け巡った。  細胞の一つ一つが焼き尽くされるような激しい熱。  しかし、それは一瞬のことで、特別な変化は感じられない。 「え……? ええええええええええ!? ちょ、少年! 今の飲んだ!? 吐き出して! 早くペッてして!」  ディエースが、血相を変えて騎士に駆け寄る。その顔からいつもの余裕は完全に消え失せ本気の焦りの色が見て取れた。 「バッカじゃないの!? あれが何なのかも分かんないのに食べちゃうなんて! 少年、バッカじゃないの!?」  彼女はそう叫ぶと、先ほど調理器に放ったのと同じように、騎士の背中に向かって拳を振り上げた。 「こうなったら! イジェクトパーンチ! イジェクトパーンチ!」  ペチペチと間抜けな音を立てて、ディエースの拳が騎士の背中を叩く。だが、当然、飴玉が出てくる気配はない。 「何すんだよ! 痛ぇだろ!」 「うるさーい! 出てくるまでやる! イジェクトパーンチ!!」  二人が子供のような喧嘩を繰り広げている間にも、システムは作動し続けていた。  内部で異物として認識されていた「飴玉」が排出されたことで、長年のエラーが解消されたのだ。  ピロリン、と軽快な起動音が鳴り、自動調理器のコンソールに「システム正常。いつでもご利用いただけます」という文字が、誇らしげに浮かび上がった。  修理完了の報告を受けたゴッドドラモンは、食堂に駆けつけ、完璧に動作する自動調理器を見て感極まったように声を震わせた。 「おお……! なんということだ……! 長年の悩みの種が、こんなにもあっさりと……!」  彼は、騎士とディエースに深く、深く頭を下げた。 「騎士様、ディエース様。このゴッドドラモン、御恩は決して忘れませぬ。貴方達は信頼に値する方々だ」  その瞳には、もはや一片の疑いもなかった。  サクシモンの《懐柔の計》は、騎士の胃の中に謎の物体を残しながらも、完璧すぎる形で成功を収めたのだった。  5.5:『第二の策、離間の計』  自動調理器の修理という大きな「手柄」を立てた騎士とディエースは、息つく間もなく、サクシモンが授けた第二の策《離間の計》を実行に移す。  その目的は、館の主であるゴッドドラモンへの不満を、自分たちへの信頼へと巧みにすり替え、水面下でこの館の主導権を掌握すること。  偽りの信頼を武器に、彼らは夜の館へと散っていった。  談話室の暖炉の前では、ワイズモンとレイラが燃える炎をぼんやりと見つめていた。今日の投票劇は彼らの心に暗く重い影を落としている。 「……僕、実は赤城さんに入れちゃいました。エリスさんの言う通りだってあの時は思っちゃったんすよ。  でも、今になって考えると、やっぱりおかしいっすよね。あれじゃただの魔女狩りじゃないすか。もしかしたら次は僕が……」  ワイズモンは、いつもの軽薄さが嘘のように弱々しい声で後悔と恐怖を吐露した。  レイラもまた、蒼白な顔で膝を抱えている。彼女の震える肩を、パートナーであるスナリザモンが必死に抱きしめていた。 「レイラ、大丈夫…? 僕が、僕がずっとそばにいるからね。だから、もう泣かないで…」 「スナリザモン……ごめんなさい。私、怖くて……」  そこへ、騎士とディエースが、まるで旧知の友に声をかけるように、自然に近づいた。 「今日の投票、やっぱり後味が悪かったですよね」  騎士が共感を示すように言うと、ワイズモンは待ってましたとばかりに顔を上げた。 「騎士さん! ディエースさん! マジでそうなんすよ! あのままじゃ、本当にヤバい! 次は誰が吊るされるか、ビクビクしてなくちゃいけないなんて!」  騎士は、そんな彼らの不安を真正面から受け止める。 「だから、俺たちがゴッドドラモンさんと話してみます。もう、あんな不毛な投票はさせません。必ず皆が納得できる形で真実を明らかにしますから」  その力強い言葉にレイラがすがるような瞳を向けた。  ワイズモンもまた騎士とディエースという存在に、暗闇の中の一筋の光を見出したかのように安堵の表情を浮かべた。  娯楽室では、ユンフェイが一人、暗がりの中で木剣をただ握りしめていた。  その背中からは、昼間の手合わせの時とは比較にならないほどの、冷たい絶望のオーラが漂っている。 「ユンフェイさん……」  騎士の声に、ユンフェイはゆっくりと顔を上げた。その瞳は、もはや何の感情も映さない底なしの沼のように濁っている。 「……来たか。忠告か? 慰めか? どちらも今の私には無意味だ」 「いえ。俺たちは、この状況を変えたい。ゴッドドラモンさんと直接話をつけて真実を明らかにしようと思っています」  その言葉に、ユンフェイは、ふっ、と自嘲的な笑みを漏らした。 「真実? 話し合い? 馬鹿なことを。なぜ、もっと簡単な方法を選ばん」  彼はゆっくりと立ち上がり、騎士の目の前に立つ。 「すべて、力で解決すればいいのだ。疑わしきはすべて斬り伏せ真実を無理やりにでも暴き出す。  このデジタルワールドでは、それこそが正義だ。議論など、弱者の戯言にすぎん」  その瞳には、狂信的なまでの力への渇望が宿っていた。だが、次の瞬間その光は急速に萎んでいく。 「……それは絶対的な力を持つ者の特権。四大竜の試練に挑んだ際、私は見たのだ。ゴッドドラモン殿の底しれぬ力を。  今の我々など彼の前では赤子同然。宿泊客の全員が力で挑んだところで返り討ちに合うだけだろう」  彼は悔しげに木剣を握りしめた。 「……すまない、騎士。君に当たってしまった。結局、私に……この状況を覆すだけの力がないのが悪いのだ」  ユンフェイはそう言って、深く頭を下げた。  騎士は、彼の深い闇に触れたような気がして何も言えなかった。  そのやり取りを柱の影から見ていたティンカーモンの瞳に危うい決意の光が灯った。 (ユンフェイがあんなに苦しんでる……。私に何かできることは……。そうだ力よ! 彼に、もっと、もっと強い力を……!)  宿泊エリアの薄暗い廊下で、騎士たちはエリスとフローラモンに遭遇した。エリスは自室の扉に寄りかかり、腕を組んで冷ややかに二人を見ている。 「あ、エリスちゃん、これ談話室に落ちてたよ。遊んだ時に落としたんでしょ?」  ディエースが、どこで拾ったのか、1枚のカードをひらひらとさせながら差し出した。  エリスはそのカードを見て、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに無表情に戻りそれを受け取った。 「……ありがとう」  その、珍しく素直な感謝の言葉に、騎士は少し驚きながら一歩前に出た。 「エリス、俺たちはゴッドドラモンさんと話をつける。エリスも本当はこんな状況を望んでいないはずだ。真実を知りたいなら、協力してほしい」  その言葉に、エリスはふん、と鼻を鳴らした。 「好きにすれば? 私は私のやり方で、私の求める真実に辿り着くだけよ」  彼女はそう言い捨てると、部屋の中へと姿を消した。 「エリス、本当に良かったの? あんな言い方しちゃって……。本当は、騎士くんたちのこと信じてるよね?」  扉の向こうで、フローラモンの声が小さく聞こえた。  最後に訪れた食堂では、ベーダモンが一人で黙々と後片付けをしていた。 「おや、騎士ちゃんたちじゃないか。どうしたんだい、こんな時間に」 「いえ、少し、皆さんと話をしていました」  その言葉に、ベーダモンは手を止め、ふう、と息をついた。 「あんたたち、調理器を直してくれただけじゃないんだねぇ。みんなの話も聞いて回ってるんだって?  えらいじゃないか。あたしゃ、ただの雇われだけどさ、今日の投票は見てて胸糞が悪かったからね。頑張りなよ」  厨房から得たささやかな、しかし温かい支持を背に騎士たちはロビーへと戻った。  恐怖と後悔に揺れる者、力への渇望に溺れる者、それぞれの思惑を抱える宿泊客たちの不満。《離間の計》は、成った。  館の主であるゴッドドラモンはそれらを管理室のモニターから眺めている。  自らが信頼した騎士たちが、面倒な宿泊客たちのガス抜きをしてくれていると信じ込み、その行動を感謝すらして静観している。  全ての駒は、盤上に揃った。  5.6:『第三の策、背水の計』  夜が更け、館は深淵のような静寂に包まれていた。いよいよ、サクシモンが描いた謀略の最終段階、《背水の計》の火蓋が切られる時が来た。  ロビーの中央、水晶柱が放つ淡い光の下で、館の主は一人、佇んでいた。  その背中にはすでに疲労の色はなく、絶対者としての静かな威厳が漂っている。  そこへ、騎士とディエース、そしてズバモンが静かな足取りで近づいていった。 「ゴッドドラモンさん」  騎士の声は、夜の静寂に柔らかく響いた。それは協力者としての誠意と、抑えきれない切迫感が絶妙に混じり合った響きを持っていた。  ゴッドドラモンはゆっくりと振り返る。その瞳には、彼らへの信頼の色がはっきりと見て取れた。 「騎士様、ディエース様。どうかなさいましたか?」 「先ほど、館のみんなと話をしてきました。誰もが、今日の投票に心を痛め明日のことを深く不安に思っています。  このまま疑心暗鬼が続けば、この館の秩序は内側から崩壊してしまうかもしれません」  騎士は、あえて「皆の代弁者」として語り始めた。それは、これから始まる要求が、個人的なものではなく、館全体の総意であると印象付けるための、計算された言葉だった。 「我々は、これ以上不毛な投票を繰り返すべきではないと考えています。どうか明日の投票は中止にしていただけないでしょうか」  その要求にゴッドドラモンはわずかに眉をひそめる。だが、騎士は間髪入れずに次の手を打った。 「ソク師範は、我々が眠っている間に忽然と姿を消しました。  二度と同じ悲劇を繰り返さないため、そして皆の不安を少しでも和らげるため今夜から交代で夜間の警護を行うことを提案します」  具体的な安全対策の提示。秩序の維持を最も重んじる彼にとって、それは無視できないむしろ歓迎すべき提案のはずだった。 「夜警、ですと? たしかに今の状況では必要でしょうが、貴方達だけでは心許ない」  ゴッドドラモンがそう言った、その時だった。 「ならば私も協力しよう」  ロビーの螺旋階段の側から、静かだが芯の通った声が響いた。ユンフェイだった。  彼の傍らには心配そうに、しかしどこか誇らしげなティンカーモンが寄り添っている。彼女がユンフェイをここまで連れてきたのだ。 「剣を持つ者として、何もせず朝を待つのは性に合わん。騎士の提案、理にかなっている」  ユンフェイという館屈指の実力者からの賛同。それは、騎士の提案に抗いがたい重みと説得力を与えた。  そして、騎士は最後の一手を打つ。ここが勝負の分かれ目だった。 「しかし、ゴッドドラモンさん。効果的な警護を行うにはこの広大な館の死角や構造を正確に把握する必要があります。見えない敵から皆を守るためには」  騎士は、まっすぐにゴッドドラモンの瞳を見据えた。その瞳には、一片の曇りもない。  あるのは、この館の安全を心から願う協力者としての誠意だけ。 「そのためにも、どうかこの館の心臓部である『管理室』を、我々に開示していただけないでしょうか。  貴方を信じる我々だからこそ、この館の安全を貴方と共に守りたいのです」  それは、脅迫ではなかった。貴方を信じる協力者として、秩序崩壊を防ぐための最後の手段という、拒むことのできない大義名分をまとった完璧な要求。  ゴッドドラモンは完全に追い詰められた。  自らが全幅の信頼を寄せた協力者にその信頼そのものを盾に詰め寄られている。  断れば、彼らの信頼を失うだけでなく、安全対策を拒んだ館の主として、他の宿泊客からの信頼も完全に失墜するだろう。  そうなれば彼が最も重んじる「館の秩序」は、内側から音を立てて崩壊してしまう。  受け入れるしかない。彼らに主導権を明け渡してでも自らの体面を守るしかない。 「……わかりました」  長い、長い沈黙の末、ゴッドドラモンは力なく頷いた。その声は、策略の完全な勝利を告げる重い降伏宣言だった。 「皆様を、管理室へご案内しましょう。この館の……最も神聖なる場所へ」  三つの策は完璧に連動し、ついに鉄壁の城門を内側からこじ開けることに成功した。  一同は、観念した竜神に導かれ、館の心臓部へと足を踏み入れる。  5.7:『鍵は開かれ虎が見つめる』  重厚な偽装ハッチが、音もなく開かれた。展望室の天井から、眩い光の粒子が滝のように降り注ぎ、螺旋を描きながら天へと続く階段を形作る。  それは、神域への入り口のようでもあり断頭台への階段のようでもあった。  ゴッドドラモンは、観念したように深く息を吐き、その光の階段へと足を踏み入れた。その背中には、策略によって誇りを砕かれた竜の深い屈辱が滲んでいる。  後に続く騎士たちの足取りもまた、決して軽くはなかった。勝利の代償として背負った罪悪感が、見えない枷となって彼らの歩みを鈍らせる。  光の階段を上りきった先は、館の主であるゴッドドラモンのプライベート空間。  管理室である『天竜の間』だった。  足を踏み入れた瞬間、誰もが息を呑んだ。  そこは、この館の混沌とした意匠とは一線を画す、静謐で荘厳な神域だった。  床や壁面には、まるで生きているかのように青白いエネルギーラインが走り、足を踏み入れるたびに光が波紋のように広がる。  部屋の中央には、ロビーのマザー・クリスタルと直結した巨大な球状のコンソールが、静かに青い光を放っている。  そして、四方の壁には、四大竜の威容を象った祭壇が鎮座していた。  東にはチンロンモン、北にはホーリードラモン、南にはメギドラモン、そして西にはゴッドドラモン自身の祭壇が、それぞれ神聖なオーラを放っている。  ゴッドドラモンは、自らの聖域を荒らされたような苦々しい表情でコンソールに触れた。プライドを押し殺し、この館のシステム情報を、侵入者たちに開示する。 「……これが、この館の全てです」  球状のコンソールから、淡い光が空間に放たれ、立体的なホログラムが展開された。  最初に表示されたのは、現在の宿泊客の情報リストだった。  しかし、そこに記されていたのは、当たり障りのない個人データと、それぞれに割り当てられた部屋番号だけだった。  戦場騎士: 3階・赤・ハートの11号室  ディエース: 3階・赤・ハートの10号室  チェン・ユンフェイ: 4階・黒・スペードのK(13)号室  エリス・ローズモンド: 3階・黒・クラブのQ(12)号室  ティンカーモン: 4階・黒・スペードの10号室  レイラ・シャラフィ: 4階・赤・ダイヤの7号室  ワイズモン: 4階・赤・ダイヤのA(1)号室  ソク・ジンホ: 4階・黒・スペードの1号室(ERROR: Connection lost)  赤城鋼太郎: 3階・赤・ハートの3号室(STATUS: Contained)  コンソールのモニターには、地下牢の映像も映し出されていた。  そこには、力なく膝を抱える赤城の姿があった。特に変わった様子はなく、彼が真犯人ではないことを、その無力な姿が静かに物語っていた。 「これでは……何もわからないな」  ユンフェイが、秘宝の手がかりが見つからないことに、失望の色を隠せずに呟いた。 「……これも信頼の証です」  ゴッドドラモンは、皮肉と諦観を滲ませながらも、プライベートな通信記録を再生した。  球状のコンソールが静かに駆動し、四方の祭壇が呼応するように淡い光を放つ。やがて、管理室の空間そのものが歪み、三体の巨大な竜の立体映像が、それぞれの祭壇の上に荘厳な姿を現した。  東の祭壇には、雷雲を纏い、威厳に満ちた眼差しでこちらを見据える、デジタルワールド東方を守護するチンロンモン。  西の祭壇には、無数の聖なるリングを揺らし、慈愛に満ちた光を放つ、生命の調和を司るホーリードラモン。  そして南の祭壇には、灼熱の炎と底なしの影を背負い、静かに、しかし圧倒的な存在感を放つ、邪竜メギドラモン。  その巨躯は、時折、禍々しい紫の騎士、カオスデュークモンの幻影と重なるように揺らめいて見えた。 『集まったか、同胞よ』  最初に口火を切ったのは、チンロンモンだった。その声は、轟く雷鳴のように重く、世界の均衡を憂う王者の風格に満ちている。 『もはや聞き及んでいよう。イグドラシルの懐刀たるロイヤルナイツが、奴ら……デジモンイレイザーの前に敗れ去った。デジタルワールドの秩序は、今、未曾有の危機に瀕している』  その重い言葉に、ホーリードラモンが悲しげに瞳を伏せた。 『イレイザーの脅威だけではありませぬ。世界の理が乱れたことで、人の子らもまた、数多くこの世界へ迷い込んでいます。彼らの魂を、我々はどう導けばよいのか……』  彼女の声は、全ての生命を憂う母のような、深い慈愛と悲しみに満ちていた。  二体の竜が世界の行く末を憂う中、これまで沈黙を守っていたメギドラモンが、静かに、しかし全ての音を喰らうような響きで口を開いた。  その声は、彼の破壊的な外見とは裏腹に、氷のように冷たく、そして理知的だった。 『フン……。お前たちはまだ、奴らの本質を理解しておらん』  その瞳が、一瞬、策略を巡らすカオスデュークモンのそれと重なる。 『デジモンイレイザーの行動は、一見、支離滅裂。  ロイヤルナイツという秩序の象徴をいとも容易く打ち砕くほどの力を見せつけながら、次の瞬間には、取るに足らぬ道化を演じ、瑣末な遊戯に興じている。  それは単なる破壊衝動ではない。我々が信じる“価値”そのものを汚し、揺さぶるための高度な精神汚染(クラッキング)だ』  メギドラモンは、他の竜たちを見回す。 『奴らは、この世界の物語を破壊しようとしているのだ。  我々が信じる正義、慈悲、誇りといった概念そのものを、無意味で陳腐なものへと貶めようとしている。  そのような混沌に、生半可な秩序で対抗するなど愚の骨頂。  混沌には、より強大な混沌を。あるいは……絶対的な力による完全な支配を課すのが、唯一の理(ことわり)であろう』  彼の言葉は、単なる暴力の肯定ではなかった。理解不能な敵に対する、彼なりの冷徹な分析と、それに基づいた究極の解答だった。  三者三様の意見がぶつかり合う中、最後にゴッドドラモンが、この天竜の間の主として、そして自らの信義を告げた。 『力も、慈悲も、そして知略も、時に道を誤る。  我らは神ではない。ロイヤルナイツの如く義務を背負っているわけでもない。  ただ力ある者の責任として、それぞれの信義に基づき、それぞれの領域でかろうじて傾きを保つこの天秤を支え続けるのみ。  私はこの青嵐の館から善と悪、破壊と再生を持って、世界の秩序を見守り続けよう』  その言葉は、彼ら四大竜が絶対的な支配者ではなく、それぞれが信じる正義の下で世界の均衡を保とうとする孤独な守護者であることを示していた。 「ふぁ~……。真面目な話ばっかりで、つまんなーい」  ディエースは大げさにあくびをして見せた。この壮大な世界の危機すら彼女にとってはただの退屈しのぎにもならないらしい。  舘の犯人にも秘宝につながる情報も、ここにもなかった。  そうして、通信記録が終わりモニターが暗転したかと思った、その瞬間だった。  再生リストの末尾に、先ほどは存在しなかった【Unidentified_Log】という名のファイルがまるで生きている心臓のように不気味にそして蠱惑的に明滅しながら出現した。 「なにこれ? 新着動画?」  ディエースが面白がり、誰かが止める間もなく、その吸い寄せられるような光の点滅に、指を触れてしまった。  再生されたのは、音声も映像もない、ただの暗黒。すべてを吸い込むような、深淵の闇だった。  その闇の中心に、静かに、しかし抗いがたい存在感を放ち、1つの歪んだ鍵がゆっくりと浮かび上がった。  あらゆる秩序、あらゆる論理、あらゆる心の壁を嘲笑うかのように、蠢いている。万物を解錠する黒い鍵。  それがモニターの中心、仮想の鍵穴へと吸い込まれ、「カチリ」と、世界の理が外れるような、耳障りでそれでいて甘美な音を立てた。  その瞬間、解錠された鍵穴から黒い奔流が溢れ出した。  それはデータではない。ねっとりとした粘性を持ち、生命を宿した『墨』だった。  墨は物理法則を無視しモニターを侵食し、やがて神聖なはずの管理室の壁や床にまで呪いのように染み渡っていく。  それは冒涜的にうねりながらも、どこか官能的で美しい、虎の獣皮を思わせる力強い縞模様を描き出した。  ふ、と。  墨の一点が、心臓のように脈動を始めた。  そこからゆっくりと、ぬるりと、瞼が開くように、漆黒の眼球が姿を現す。  1つ、また1つと、墨の至る所から無数の瞳が開き、そこにいる者たちの魂を、直接覗き込むように、じっとりと見つめてきた。  その無数の目が、一斉に騎士を捉えた。 『ソノ瞳ニ見ツメラレルナ』  射貫かれた瞬間、騎士の脳髄を、恐怖ではなく、背徳的な悦楽が駆け巡った。  全身の産毛が総立ちになるような、甘美な戦慄。  抗えない。抗うという思考そのものが、愚かで、無意味に思えた。  心臓が歓喜に打ち震える。全身の細胞が、あの瞳に見つめられることを、悦んでいる。  ダメだ、と抵抗しようとする理性が叫ぶ。だが、本能から湧き上がる歓喜の叫びに掻き消されていく。 (見られている……ああ、俺だけが、この瞳に選ばれた)  呼吸が熱を帯び、思考が溶けていく。 (この怪物に喰われることは、きっと、至上の快楽なのだろう。  この身を捧げ、飲み込まれ、墨のように溶かされ、1つになりたい。それは死よりも甘い極上の快感に違いない) 『ソノ声ニ耳ヲ貸スナ』  けたたましい、デジタルな断末魔のような警告音が、耳の奥で直接響く、不快でしかし心地よい旋律に変わる。  管理室全体を染め上げる緊急の赤色灯が、情欲を掻き立てるような、いやらしい深紅の光に見えた。  もう、逃れられない。いや、逃れたくない。  喰われ、犯され、彼のものになる。それが、至上の幸福なのだと、魂が理解してしまった。  その甘美な誘惑に、意識が完全に飲み込まれそうになった、その瞬間── 『喰ワレルゾ』  パツン、と糸が切れるように、すべての異変が掻き消えた。  嵐のように、唐突に。  管理室は、何事もなかったかのように元の静寂を取り戻した。ただ、じっとりとした汗と、言い知れぬ悪寒だけが生々しく肌に残っている。 「デジモンイレイザー……! これは、奴らからの挑戦状だ! この『天竜の間』にまで、直接干渉してくるとは……!」  ゴッドドラモンの顔面は蒼白だった。彼はすぐさまシステムに異常がないか、震える指で必死にコンソールのチェックを始めた。  ただ一人、ティンカーモンだけは、その騒動の片隅で、別のものを見ていた。 (今の、なんだろう……墨の中から目玉が出てきたとき、コンソールの隅っこに、一瞬だけ……!)  彼女の純粋な瞳が捉えたのは、マザー・クリスタルのエネルギー経路を示す設計図。  そして、その図の今まで誰も気づかなかった僅かな歪み。  それは、まるで巨大なエネルギー体、あるいは隠された空間を覆い隠すために意図的にデータが改竄されたかのような、不自然な流れだった。  ユンフェイを強くしたい一心で秘宝の手がかりを探していたティンカーモンは、その小さな発見が何を意味するのかは分からない。  しかし、これこそがユンフェイを救う鍵になるかもしれないとその異常なエネルギー経路図を、妖精の小さな記憶に、強く、強く焼き付けた。  5.8:『夜警』  管理室から戻ったロビーは、まるで葬儀の後のように、重く冷たい沈黙に支配されていた。  一同の前で、ゴッドドラモンは夜警の担当者を指名する。その声は、もはや館の主としてではなく、狂ったゲームの進行役のように、無機質に響いた。 「犯人の襲撃に備え、そして……互いの監視という意味も込めて、今宵は夜警を立てていただきます。  最初の担当は、この中でも戦闘経験が豊富で信頼できる騎士様と、最も非力で……警戒対象から外れるティンカーモン殿にお願いしたい」  その言葉は、ティンカーモンが取るに足らない存在であると宣告するも同然だった。  騎士は意外な組み合わせに驚きながらも、断る理由もなく静かに頷いた。  ティンカーモンは、内心ではユンフェイと組みたかったという落胆と、騎士と二人きりになるという別の意味での緊張で、小さな胸をドキドキさせていた。 「その次の担当は、ユンフェイ様とディエース様です。お互い変な気を起こさないよう、しっかりと見張り合ってください」  ゴッドドラモンは、そう釘を刺す。ユンフェイは何も言わず、ただ黙って頷くと、仮眠を取るために自室へと背を向けた。 「はーい! じゃ、おやすみー」  ディエースは、まるでこれからデートにでも行くかのように軽く手を振り、ユンフェイの後に続く。 「私、頑張るね、ユンフェイ!」  ティンカーモンが、振り絞るような健気な声で呼びかけるが、ユンフェイは一度も振り返ることなくその姿を闇の中へと消していく。  力なく落とされる彼女の肩を、騎士は黙って見つめていた。隣に立つズバモンと共に、静かな夜警が始まった。  静まり返った館の廊下は、まるで巨大な墓所のようだった。自分たちの足音だけが、やけに大きく響く。  各階の扉が固く閉ざされていることを確認しながら、騎士とティンカーモンの間には、気まずい沈黙が流れていた。  その沈黙を破ったのは、ティンカーモンだった。彼女は、指先をもじもじとさせながら、意を決して騎士に問いかけた。 「ねぇ、騎士……。ズバモンを、ユンフェイに貸してあげてくれないかな?」 「なっ、何言ってんだティンカーモン! 俺はナイトの相棒だぜ!?」  ズバモンが、心外だと言わんばかりに騎士の隣で声を上げた。騎士もまた思わず足を止め、呆れたように彼女を見返した。 「断る」  即答だった。 「ズバモンは俺の相棒だ。誰にも渡さない」  そのきっぱりとした拒絶に、ティンカーモンは「……そうだよね」と俯き、消え入りそうな声で呟いた。  その小さな背中は、今にも泣き出しそうに震えているように見えた。  だが、彼女はすぐに顔を上げた。その潤んだ瞳には涙の代わりに、強い、強い決意の光が宿っていた。 「私、ユンフェイのこと、まだよく知らないんだ。会ったばかりだし、彼がどんな旅をしてきたのかも、どんなことで悩んできたのかも。でも、そんなのどうでもいいの!」  彼女は、小さな拳をぎゅっと握りしめた。 「あの時、アタシは足を怪我して、もうダメだって思った。あの黒い嵐に飲み込まれて、消えちゃうんだって。  そしたら、ユンフェイが……王子様みたいに現れて、アタシを助けてくれた! 強いだけじゃないの。優しく足を治療してくれて……ここまで抱っこしてくれたんだから!」  ティンカーモンの頬が、ぽっと赤く染まる。その鮮烈な記憶は、彼女にとって何よりも大切な宝物なのだ。 「だから、今度はアタシがユンフェイを助ける番なの! ユンフェイはすごく努力してる! 誰よりも剣の道を信じて、ずっと戦ってきたんだよ!  なのに、あなたに負けてから……あんなに悔しそうで、見てるこっちが苦しくなっちゃう……。私、ユンフェイに笑っていてほしいの。ただ、それだけなの……!」  飾り気のない、純粋な言葉。それは、恋する妖精の、魂からの叫びだった。  騎士の胸に、その一途な想いが、ちくりと痛みを伴って突き刺さる。ズバモンも、黙ってその言葉に聞き入っていた。 「だからね」  ティンカーモンは、騎士の目をまっすぐに見つめ、にこりと、どこか秘密めいた笑みを浮かべた。 「私、もう見つけたんだ。ユンフェイを最強にする秘宝への『道』を。騎士には内緒だけどね」  その言葉は、子供の戯言のようでありながら、揺るぎない確信に満ちていた。 「明日、絶対に見つけるから! ユンフェイを最強にする、すっごいお宝を! そしたら、ユンフェイはもう苦しまなくて済むんだ!」  そう宣言する彼女の瞳は、あまりに純粋で、そして、あまりに危うかった。  騎士は、その無邪気な笑顔の裏に潜む、恋という名の狂気に、背筋が冷たくなるのを感じずにはいられなかった。  ひととおりの見回りを終え、異常がないことを確認した騎士は、「最後に、赤城さんの様子も見ておこう」とティンカーモンを連れて地下牢へと向かった。  地下牢の重い扉を開けると、ひやりとした空気が肌を撫でた。  鉄格子の向こうで赤城鋼太郎は一人、静かに壁に背を預けて座っていた。  彼のいパートナーであるカイザーレオモンは、この牢が放つデジコアを弱めるフィールドの影響を避けるためか、既にデジヴァイスの中へとしまわれているようだった。  孤独な学者は、まるで己の罪と向き合うかのように、深く目を閉じている。 「……フン、見回りか。ご苦労なことだな」  騎士たちの気配に気づくと、彼は目を開け、自嘲気味に笑った。 「僕のような大罪人はこの牢獄がお似合いさ。ティンカーモン君やズバモン君のような純粋な子たちにまで、怖い思いをさせてしまって本当に申し訳ないと思っているよ」  その言葉には、昼間の狂気的なまでの激しさはなく、反省の色が見て取れた。  ズバモンとティンカーモンは、その意外なほどの優しさに、少し戸惑ったように顔を見合わせる。  騎士は、彼を刺激しないよう、慎重に言葉を選びながら、管理室での出来事をありのままに話した。 「あなたを陥れたかったわけじゃない。ただ、俺たちも真実が知りたいだけだ」  管理室に秘宝の手がかりが何もなかったという事実に、赤城は「そうか……」と静かに己の過ちを認めた。 「僕はまた、1つの可能性という名の妄執に囚われて、周りが見えなくなっていたらしい。  結局、成功したとしても何も解決しなかったどころか、君たちを危険な目に合わせてしまっただけか……」 「でもさ、赤城のおっちゃん! レイラさんをいじめたのは、やっぱ良くないと思うぜ!」  ズバモンが正義感から声を上げる。ティンカーモンもその横でこくこくと頷いた。 「そうだよ! レイラさん、すごく怖がってたもん!」  赤城は、二人の純粋な叱責に、ぐうの音も出ないというように苦笑を浮かべるしかなかった。 「……ああ、その通りだ。弁解のしようもない。僕の独善が彼女を深く傷つけた」  そして再び騎士に向き直る。 「騎士君とユンフェイ君が、最後に私を庇おうとしていたことは分かっている。感謝はしないが、その行動は記憶しておこう」  それは赤城なりの最大の信頼の表明だった。  それから騎士は本題を切り出した。  天竜の間で起きた異常現象について、詳細に語り始めた。 「黒い鍵、虎の縞模様……そして目か。もしそれが1体のデジモンだというのならそんな特徴を持つデジモンなど聞いたことがない。少なくとも僕の知識の範疇にはないな……」  彼は数秒間、目を閉じ高速で思考を巡らせる。それから1つの、しかしもっとも恐ろしい可能性にたどり着いた。 「……既存のデジモンではないとすれば、答えは1つだ。 デジモンイレイザーが作り出した『新種』、あるいは、未知の技術による『改造デジモン』だろう。  これは厄介なことになったな……」  赤城の声には、これまで見せたことのない、本物の焦りの色が滲んでいた。  脅威の正体が不明であること。それは、彼の緻密な計算と論理が通用しない可能性を意味していた。  そして、赤城は鉄格子越しに真剣な眼差しで騎士を見据えた。その瞳は、ズバモンとティンカーモンにも優しく諭すように向けられていた。 「よく覚えておきたまえ。君たちは僕の相棒のカイザーレオモンを知っているよな。彼はハイブリッド体だ。  ハイブリット体という名称は伝説の十闘士が遺した『スピリット』の力を受け継ぎ、人間がデジモンへと姿を変え戦う事例から来ている。  僕のは、混ざりっけなしの完全なデジモンだがね」  騎士は、その言葉に目を見開いた。 「人間が、デジモンに……? では、そのスピリットを隠し持った者が、犯人だと?」  赤城は、静かに首を振った。 「さぁな。そして、その逆もまた然りだ。強力なデジモンが人の姿を取ることだって、このデジタルワールドでは日常茶飯事と言っていい。  君が見ているものだけを信用することはできないということだ。姿形など、いくらでも偽れる」  その言葉は、この館にいる宿泊客の中に、「人間に化けたデジモン」や「デジモンに化けられる人間」がいる可能性を示唆していた。  それは、騎士の足元を揺るがす、新たな疑念の種だった。 「ここはゴッドドラモンの言う通り舘の中で最も安全だよ。食事もベーダモンが気を利かせてここまで運んできてくれるしな。  だが……もしも明日の朝、僕がこの牢から消えていたなら……その時は、君に全てを託す。頼んだぞ」  赤城はそう言うと、静かに目を閉じ、背を向けてしまう。彼の言葉は、騎士の心に重い楔として、深く、深く打ち込まれた。  交代時間となり、騎士とティンカーモンはロビーで待っていたユンフェイとディエースに夜警を引き継いだ。 「何か変わったことはあった?」  ディエースの軽い問いに、騎士は「何も」とだけ答えた。赤城との会話は、まだ誰にも話すべきではないと判断したからだ。  剣の達人であるユンフェイと、掴みどころはないが実力は確かなディエース。  騎士は、この二人ならば大丈夫だろうと、ある種の安心感を無理やり自分に言い聞かせ自室へと戻った。  日中の疲労と夜警の緊張。ベッドに倒れ込むように身体を横たえると、騎士の意識は糸が切れたように、急速に深い闇へと沈んでいった。  5.9:『ユンフェイの見た聖剣』  眠りの中で騎士の体内に宿る虹色の球体が、静かに、しかし確かな脈動を始めた。  騎士の意識は、己のものではない、誰かの過去へと飛んでいった。     ☆  アスファルトに染み込んだ昨夜の雨が、生温い空気を立ち上らせる。  ユンフェイは、目的もなく歩いていた。手にしたスマートフォンには、大手IT企業からの「不採用通知」のメールが冷たく表示されたままだ。  これで何社目だろうか。もう数える気にもなれない。 「985大学」──誰もが羨む国内トップクラスの大学の卒業証書は、今のユンフェイにとってはただの重荷だった。  入学した頃は、輝かしい未来が約束されていると信じていた。  しかし、現実は「内巻(ネイジュアン)」と呼ばれる終わりのない競争地獄。  自分より優秀な人間はいくらでもいて、彼らもまた数少ない安定した職を求めて必死にもがいていた。  昨夜の夕食の光景が脳裏に蘇る。 「お前の兄さんは、また昇進したそうだ。お前は一体いつになったら…」  父親の言葉は、ため息と共に吐き出された。向かいに座る母親は何も言わない。その沈黙が何よりも雄弁に失望を物語っていた。  金融街で成功を収めている二人の兄は、もはやユンフェイをいないものとして扱っている。  彼らにとって、卒業しても定職に就けない弟は一族の恥でしかなかった。 「まだ若いんだから選り好みしないでどこかにまず入ったらどうだ?」  選り好みなどしていない。プライドを捨て中小企業にも何十社と応募した。  しかし、返ってくるのは無慈悲なまでの「お祈りメール」か、良くて異常な長時間労働を前提とした低賃金の「996」求人だけ。  あまりの過酷さに、全てを投げ出して無気力に寝そべる「躺平(タンピン)」という言葉が、甘美な響きをもってユンフェイの心を誘惑する。  だが、それを許さない家族の視線が鉛のように彼を地面に縛り付けていた。  居場所がない。家にも、この社会にも。  ふと、ユンフェイは路地裏に寂れたゲームセンターの看板が灯っているのに気づいた。  子供の頃、兄たちに連れられて何度か来たことがある。  吸い寄せられるように中へ入ると、最新のVRゲームが派手な音を立てる中で、隅の方に古びたアーケードゲーム機が数台忘れられたように置かれていた。  その一台が奇妙な光を放っていた。 『WELCOME DIGITAL WORLD』  引き寄せられるようにユンフェイが画面に手を伸ばした瞬間、スマホがポケットの中で激しく振動し、画面が勝手に点灯した。  表示されていた不採用通知の文字が、緑色の0と1の羅列に変わっていく。 「!」  スマホから溢れ出した光が、ゲームセンターの筐体の光と共鳴し渦を巻く。  視界が真っ白に染まり強烈な浮遊感が全身を襲った。  父親の怒声も、母親の失望のため息も、兄たちの冷たい視線も、急速に遠のいていく。  意識が浮上すると、鼻腔をくすぐったのはアスファルトと排気ガスの匂いではなく、乾いた土と金属が錆びるような匂いだった。  ユンフェイが体を起こすとそこは見渡す限りの赤茶けた荒野だった。  雲にはモザイクのようなパターンが薄っすらと走り、時折データの欠片のような光が流星のように消えていく。  その非現実的な光景に呆然としていると突如、地響きと共に爆音が轟いた。 「何だ!?」  音のする方へ視線を向けると丘の向こうで激しい戦闘が繰り広げられていた。  チェスの駒、それも城壁を模したような巨人を筆頭に、重厚な陣形を組んでいる。  その中心で、褐色の肌をした凛々しい女性が冷静に腕を振り、指示を飛ばしていた。 「ルークチェスモン、防衛線を維持してください! ヴォルクドラモン、前へ! タンクモン隊は引きつけてから砲撃です!」  彼女の号令一下、屈強なモンスターたちが一糸乱れぬ動きで敵の攻撃を防ぎ、反撃に転じる。  統率の取れた、まさに軍隊だった。  それと対峙しているのは、統制も何もない、獣のような雄叫びを上げるモンスターたちの軍団だ。  炎の羽を持つ巨大な鳥や、  数で圧倒しようと波状攻撃を仕掛けるが、ルークチェスモンたちの鋼の装甲に阻まれ、次々と弾き返されていく。  あまりの光景に、ユンフェイは現実感を失っていた。  あの「不採用通知」も、家族の冷たい視線も、まるで遠い世界の出来事のようだ。彼は本能的に近くの岩陰に身を隠し、ただ固唾をのんで戦いを見守った。  その時、足元で小さな物音がした。見ると、青い鱗に覆われた小さな竜の姿をしたデジモンが、傷つき、怯えきった様子で震えている。  その翼は破れ、つぶらな瞳には恐怖の色が浮かんでいた。 「……大丈夫か?」  思わず手を差し伸べると、小竜はビクリと体を震わせたが、ユンフェイに敵意がないことを感じ取ったのか、おずおずと彼の腕の中に潜り込んできた。  その小さな温もりが、凍てついていたユンフェイの心をわずかに溶かす。  これが、恐怖に怯える「ドラコモン」との出会いだった。  戦況は、指揮官の女性が率いるルークチェスモン軍の優勢で進んでいた。このまま押し切るかと思われた、その瞬間だった。  戦場に天を裂くような咆哮と共に、何かが現れた。  それは、まさしく暴竜だった。ティラノサウルスを彷彿とさせる獰猛な頭部、燃えるような赤い鎧に覆われた屈強な体躯。  そして何より目を引いたのは、両腕に備わった巨大な剣だった。  それは単なる武器ではなく、体の一部として融合しているかのように、禍々しくも美しい青白い光を放っていた。  竜人は、どちらの軍に味方するでもなくただその圧倒的な存在感を戦場に誇示していた。 「邪魔だ」  低く地を這うような声が響くと同時にその姿が霞んだ。  次の瞬間には、鉄壁を誇っていた亀のような怪獣の前に移動しており両腕の剣が閃光を放つ。  甲高い金属音と共に、分厚い装甲がいとも容易く豆腐のように切り裂かれた。  防御も、陣形も、戦略も、その絶対的な「個」の力の前に意味をなさなかった。  ユンフェイが息をのむ前で、戦場のパワーバランスは完全に崩壊した。  突如現れた竜人型デジモンの圧倒的な暴力は、統率された軍という概念そのものを嘲笑うかのように次々とその剣閃で薙ぎ払っていく。  追い詰められた女性指揮官は、しかし冷静さを失ってはいなかった。  その瞳の奥には、全てを覆すための冷たい決意が燃えていた。彼女は高く掲げたデバイスを握りしめ、叫んだ。 「もはや出し惜しみはできません!! ルークチェスモン、ヴォルクドラモン、タンクドラモン、メイルドラモンをデジクロス!」」  その号令が、戦場に響き渡る。  火山のような甲殻を持つ巨大な竜ヴォルクドラモン。  無限軌道を軋ませ銃火器を備えたタンクドラモン。  そして鋼の鎧を纏ったメイルドラモンが光の粒子となって分解され、一体の巨大なルークチェスモンへと殺到した。  城壁のごとき巨体が核となり、そこに火山の翼と砲塔が装着され、全身がさらなる重装甲で覆われていく。  それはもはや単なるデジモンではなく、戦略兵器と呼ぶべき威容を誇っていた。  翼から灼熱の空気を放ち、肩の砲塔が敵意をむき出しにする、まさに「鉄壁の移動要塞」。  その力は、先ほどまでの個々のデジモンとは比較にさえならないだろう。  だが、赤い竜人型デジモンは、自らを遥かに超える巨体を前にしてもなお、静かだった。 「グラニットガーディアンズ最強の守護神の前に震えて、声も出ないでしょう!」  興味深そうに、あるいは、つまらなそうに新たなる融合体を一瞥する。 「無駄にデカくなりやがって。ネオデスジェネラルである俺様の歩みを邪魔すんじゃねぇ」  そして、ゆっくりと両腕を天に掲げた。  両の掌の間に、大地から吸い上げた空間が歪むほどの高エネルギーが凝縮されていく。  世界中の光を吸い込んだかのような、灼熱の球体へと姿を変えた。太陽の如き絶対的な力の塊。  しかし、技はそこで終わらなかった。球体は急速に収縮しながら、凄まじい速度で回転を始める。  甲高い耳を劈くような高周波を放ちながら、その姿は光り輝く漆黒の円盤──―あらゆるものを切断する、死の円環へと変貌を遂げた。 「焼き斬れ」  竜人型デジモンが、技の名を宣告する。 「────『テラーズイグザーション』!」  放たれた光の円盤は、音さえ置き去りにして空間を裂いた。  デジクロスによって誕生した超巨大要塞は、その全砲門から迎撃の弾幕を放つが、すべてが無意味だった。 『テラーズイグザーション』は弾幕を霧散させ、重装甲をバターのように貫き、抵抗する時間すら与えずに、その巨大な胴体を一撃で両断した。  一瞬の静寂。 そして、デジクロス体が断末魔の叫びを上げる間もなく歪んだかと思うと大爆発を起こし、0と1のデータの嵐となって消滅した。 「そん……な……」  褐色の女性の顔から、冷静さとプライドが剥がれ落ちた。  そこに浮かんだのは、理解を超えたものに対する、原初的な恐怖。彼女の最強の切り札が、文字通り一撃で粉砕されたのだ。 「ひっ……!」  短く悲鳴を上げると、彼女は踵を返した。そして、まだ生き残っていた配下のデジモンたちに向かって、震える声で叫んだ。 「て、敵を食い止めろぉぉぉぉ! ここで私を守って死ぬのは貴様らの誉れと思え!!」  それは、もはや指揮官の命令ではなかった。  ただ生き延びたいという一心で、今まで忠誠を誓ってきた部下たちを「捨て駒」にする、卑劣な絶叫だった。  何らかのデバイスを操作すると、その足元にトランポリンのようなものが現れ、彼女の体は瞬く間に遠く離れた場所へと飛んでいた。  それを繰り返し、あっという間にその姿は見えなくなった。  戦場には、敬愛する主に裏切られたデジモンたちの絶望と、それを静かに見下ろす竜人型デジモンだけが残された。 「哀れだな。だが俺様は優しい。まとめて楽にしてやるよ。ダークネスローダー、強制デジクロス!」  褐色の女性が使っていたものよりも禍々しい形をした黒いデバイスを掲げると、残されたデジモンたちは1つに融合する。  彼らは合体することで強くなった。これならば大将を倒したこのデジモンにさえ勝てるかもしれない。そう考えた。  そして、暴竜はそれを容赦なく一太刀で斬り捨てると、はじめから何もない道だったかのように、ゆっくりと前へと進んでいった。  岩陰でそのすべてを見ていたユンフェイは、言葉を失っていた。  圧倒的な力。  その力の前では、忠誠も絆もたやすく踏みにじられるというこの世界の冷酷な現実。  しかし、ユンフェイには竜人のその圧倒的な姿が恐ろしいと同時に、どうしようもなく美しく映った。  ユンフェイはふと、思い出した。  子供の頃、アニメや映画のヒーローに夢中になった。  剣で悪を討つ孤高の剣士に強く憧れていた。  いつしかそんな気持ちは、受験戦争や「内巻」の波の中で擦り切れ、忘れてしまっていた。  社会の歯車になること、安定した職に就くことだけが正しいのだと、自分に言い聞かせてきた。  だが、今、目の前にいるのは何だ。  誰の指図も受けず、何者にも媚びず、ただ己の力と剣技だけで、この世界にその存在を刻み付けている。  腕の中で恐怖に震えるドラコモン。それを守る術を持たない無力な自分。そして、全てを切り伏せるあの圧倒的な剣。  ユンフェイの中で、何かが音を立てて繋がった。「985大学」の卒業証書も、大手企業の肩書も、ここでは何の価値もない。  ならば、何に価値がある?  ──強さだ。  あの竜人のような、絶対的な強さだ。  恐怖に震えるドラコモンを見て、ユンフェイは決意した。もう、他人の評価に怯えるのは終わりだ。  誰かが敷いたレールの上を歩く人生は、ここにはない。 「怖がるな」  ユンフェイは、ドラコモンに優しく語りかけた。その声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。 「俺は、あれになる。あの暴竜のように、強くなる。この世界で、剣の道で生きていく」  彼の瞳から、現実世界でまとわりついていた無気力と絶望の色が消えた。  燃えるような赤い鎧を纏う全てを焦がしたような黒き竜を映し、初めて確かな意志の光が宿った。     ☆  騎士は、窓から差し込む神々しい光で目を覚ました。  昨日までの、全てを飲み込むような静寂の闇とは全く違う。そこには、圧倒的な生命の律動があった。  窓の外に広がるのは、神々の創造を早送りで見ているかのような、奇跡の光景だった。  破壊され尽くした無の空間から、無数の光の粒子が、まるで天に昇る蛍のように立ち上っている。  その光が集まり、絡み合い、新たな地形のワイヤーフレームを構築していく。  緑のテクスチャが地面を覆い、岩や木々のポリゴンが瞬く間に形成されていく。  これが青嵐エリアの再生。  世界の始まりを見ているかのような、その神々しい光景のほうが、今の騎士にとって夢のようだった。  5.10:『3日目の犠牲者』  騎士は、自分が見たものについて考える。  あれは夢だった。だが、夢にしては、あまりにも鮮明すぎた。  不採用通知の冷たい感触、家族の失望のため息、そして、戦場で見た暴竜の圧倒的な存在感とそれを見つめる男の絶望と決意。  それら全てが、まるで自分が体験したかのようにリアルな手触りをもって騎士の記憶に刻み付けられていた。  あれは、ユンフェイの記憶だ。そう直感した。彼の抱える深い闇と、デジタルワールドに来てからのひたむきな姿が繋がり、胸に複雑な思いが込み上げる。 「ナイト、起きたのか? すげーぞ! 外がキラキラだ!」  ズバモンがベッドから飛び降り、窓に張り付いて歓声を上げた。  騎士もまた、重い体を引きずるようにベッドから降りると、ズバモンと共に食堂へと向かった。  食堂に足を踏み入れると、そこには嵐の後の晴れ間のような、穏やかな空気が流れていた。 「騎士さん! ディエースさん!」  レイラとワイズモンが、安堵に満ちた表情で駆け寄ってくる。 「騎士さんたちのおかげで、昨日は安心して眠れました! 本当にありがとう!」 「マジで! あんな物騒なことがあった後だったから、夜警してくれてるってだけで全然違ったっすよ!」  二人は心からの感謝を口にする。騎士は少し照れくさそうに頭を掻いた。  そのやり取りを見て、館の主であるゴッドドラモンも安堵したように微笑んだ。  彼の目元には深い隈があり寝不足は明らかだったが、その表情には久々の平穏への喜びが浮かんでいた。 「管理室のモニターから、皆様の無事を確認しておりました。騎士様、ユンフェイ様……そして、ディエース様とティンカーモン殿も。夜警、誠に感謝いたします」  彼は深々と頭を下げた。その姿は、このかりそめの平穏が、自らの築いた秩序の上にまだ成り立っていると信じている者のそれだった。  ベーダモンが腕を振るった豪華な朝食がテーブルに並び、一同はそれぞれの席に着いた。再生を祝うかのような明るい雰囲気の中で、皆が食事を始める。  修復された自動調理器で、好きな食事を購入する者もいる。  しかし、いつまで経っても、ユンフェイの隣にあるはずの小さな席が空いたままだった。 「ティンカーモンは、寝坊かしら?」  ディエースが、自動調理器で作ったクロワッサンを頬張りながら屈託なく笑う。  ユンフェイも、「昨夜は遅くまで起きていたからな。無理もないだろう」と、その時はまだ軽く考えていた。彼の口元にはかすかな笑みさえ浮かんでいる。  しかし、朝食が終わる時間になってもティンカーモンは姿を現さない。ユンフェイの表情から余裕が消え、徐々に焦りの色が滲み始める。  異変を察した騎士が「俺が見てきます」と席を立とうとしたのをゴッドドラモンが制した。 「いえ、私が行きましょう」  重い足取りでゴッドドラモンが席を立つ。数分後、彼は血の気の引いた顔で戻ってきた。 「部屋は……もぬけの殻でした。争った形跡は、一切……」  その報告は、食堂の空気を一瞬にして凍てつかせた。ソク師範の消失。その悪夢の再来だった。 「まさか……また誰か消えたというのか!?」  ワイズモンが悲鳴に近い声を上げる。レイラの顔が蒼白になる。 「そんな……夜警はどうなっていたのですか!」  ゴッドドラモンが、夜警担当だったユンフェイとディエースに事情を問う。二人は顔を見合わせ、きっぱりと首を振った。 「我々が担当している間、異常はありませんでした。彼女の部屋から誰かが出てくる姿など、一度も見ていません」 「そうそう。アプモンたちがずーっとロビーで見張ってたもんね。絶対に見逃してないって!」  ユンフェイとディエースの証言により、ティンカーモンが最後に目撃されたのは、騎士が夜警を引き継ぐためにロビーで別れた時となる。  騎士の脳裏に、昨夜のティンカーモンの言葉が、呪いのように蘇った。 『私、もう見つけたんだ。ユンフェイを最強にする秘宝への『道』を』  一同は手分けして、館内をくまなく捜索し始めた。  ユンフェイは、普段の冷静さを完全に失い、鬼気迫る表情で「ティンカーモン!」と叫びながら駆け巡っている。  その時、ワイズモンが「そうだ! 赤城さんなら何か知ってるかも!」と叫び、地下牢へと向かう。騎士たちもその後を追う。  しかし、地下牢へと続く階段を下りるにつれ、肌を刺すような異様な空気が一行の足を鈍らせた。  鼻腔をくすぐるのは、カビ臭い湿気ではない。金属が焼ける焦げ臭さと、高密度のエネルギーが放つオゾンの匂い。  ゴクリと誰かが唾を飲む音が響く。扉の前にたどり着いた騎士が、意を決してその重い鉄の扉を押し開けた。  その瞬間、誰もが息を呑み、そして絶句した。  そこに広がっていたのは、もはや「牢獄」と呼べる空間ではなかった。狂気の斬撃が吹き荒れた、凄惨な処刑場そのものだった。  昨日まで赤城を閉じ込めていたはずの分厚い鉄格子は、もはや影も形もない。  まるで神話の獣に噛み砕かれたかのようにズタズタに引き裂かれ、高熱で溶解した鉄屑となって床に無残に散らばっていた。  だが、異常はそれだけではなかった。破壊は、牢全体に及んでいた。  石造りの頑丈な壁には、巨大な爪で引き裂いたかのような無数の斬撃痕が縦横無尽に走っている。  床も、天井も、まるで紙細工のように切り刻まれ、構造を維持しているのが奇跡に思えるほどだった。  そこには、憎悪や怒りといった生々しい感情すら感じられない。  ただ、対象の存在そのものを、この世から完全に抹消するという、冷たく、そして絶対的な意志だけが空間に満ちていた。 「こ、これは……一体、何が……」  ワイズモンが、震える声で呟いた。軽薄な態度は完全に消え失せ、その顔には原初的な恐怖が浮かんでいる。  あまりの光景に、レイラは「ひっ」と短い悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。  牢の中は、もぬけの殻だった。赤城も、彼のデジヴァイスの中にいたはずのカイザーレオモンも、その痕跡すら残さず、完全に消え失せている。  その異常な破壊痕を前に、レイラが呟いた。 「……レジェンドアームズか、スレイヤードラモンじゃなければ、こんな芸当は……不可能よ……」  その震える言葉と怯えた視線は、まるで呪いのように、騎士とユンフェイの心に突き刺さる。  2人の間に、疑念を通り越した、殺意にも似た冷たい空気が流れた。 「馬鹿な……! ありえん……!」  報せを受けたゴッドドラモンは、血相を変えて『天竜の間』へと急行する。騎士たちも、その後を追った。  しかし、神聖なる管理室で彼のプライドを待ち受けていたのは、完全な敗北だった。 「記録には……何の異常もないだと!?」  監視モニターには、鉄格子が無傷のままで、赤城が静かに座っている映像が、ただ延々とループ再生されているだけだった。  誰かがシステムに侵入し、記録そのものを完璧に改竄している。それは、昨日彼らを襲った黒い虎のデジモンイレイザーによる犯行を、強く、強く示唆していた。  自らが誇る館の絶対的な監視システムが、いとも容易く破られたという事実。それは、ゴッドドラモンのプライドと、この館の秩序が、根底から崩壊した瞬間だった。  狼狽するゴッドドラモンに、エリスが氷のように冷たい声で追い打ちをかける。 「記録が信用できない以上、もはや頼れるのは人間の記憶だけ」  彼女の冷たい視線が、凍りついたように立ち尽くすユンフェイを射抜いた。 「最後にティンカーモンと親しげにしていたのは、貴方。そして、この牢を破壊できるだけの剣を持つデジモンを従えているのも、騎士と……貴方だけよね、ユンフェイ」  全ての視線が、容疑者を見る目となって、ユンフェイへと突き刺さる。彼は、慕ってくれていた小さな妖精を失った悲しみと、突如向けられた疑惑の刃に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。 「待て!」  その絶望的な沈黙を、ドラコモンの鋭い声が切り裂いた。彼は、主人の前に飛び出すと燃えるような瞳でエリスを睨みつける。 「我が主を愚弄するのは許さんぞ! ユンフェイ殿がそのようなことをするはずがないだろう!」  彼は必死に、主人の無実を訴えた。 「ユンフェイ殿は、昨夜の夜警中、ずっとティンカーモン殿の身を案じていた! 彼女が無事に部屋に戻った後も、部屋の扉を何度も心配そうに見つめていた!  僕らはずっと見回りをしていた。それは、ディエースさんも証言できるはずです!」  ドラコモンがディエースに視線を向けると、彼女は面倒くさそうに肩をすくめた。 「そーそー。ユンフェイ君、ずーっとソワソワしてて面白かったよー。ティンカーモンちゃんのこと、大事だったんだねぇ。  だから、ユンフェイ君が犯人ってことはないんじゃないかな? 食堂が開くまでずっと見回りしてたんだからいつ消せるの?」  ディエースのあっさりとした証言で、ユンフェイの夜警時間中のアリバイは証明された。だが、エリスは少しも動じない。 「アリバイなんて、監視記録が改竄されている以上、どうとでもなるわ。  重要なのは『手段』。ティンカーモンの失踪理由は不明。でも、あの牢を破る手段を宿泊客の中で持っているのは騎士と貴方だけ。その事実は変わらないでしょう?」  三日目の朝。再生の光が満ちる館で、平穏は完全に崩れ去った。  底なしの疑心暗鬼と、見えざる敵への恐怖だけが、一同の心を支配し始めていた。  Chapter6:『開示されていく真実』  6.1:『疑惑の坩堝、砕かれた絆』  静まり返った『天竜の間』は、今や神聖な領域ではなく、疑心暗鬼という名の毒が充満する密室と化していた。  再生の光が満ちる三日目の朝。しかし、その光は誰の心にも届かず、ただ互いの顔に浮かぶ恐怖と不信の影を色濃く照らし出すだけだった。  新たな失踪、そして牢獄の惨状。  あまりにも異常な事態を前に、この館の絶対的な主であったはずのゴッドドラモンは、ただ狼狽し、その権威の残骸の上でなすすべもなく立ち尽くしていた。  その、死んだように淀んだ空気を切り裂いたのは、エリスの氷のように冷たい声だった。 「馬鹿馬鹿しい。だから答えはもう出ているじゃない」  彼女の青い瞳がゆっくりとユンフェイを、次に騎士を射抜く。その視線はもはや、尋問ではなく断罪だった。 「牢を破壊できるだけの圧倒的な斬撃。ティンカーモンを消し去るほどの隠密な行動力。その両方を満たす手段を持つのは、この中で二人だけ。  レジェンドアームズを従える戦場騎士。そして、四大竜の試練を超えたスレイヤードラモンを従える貴方よ、ユンフェイ」  その言葉は研ぎ澄まされた刃となって、二人の間に横たわる亀裂をさらに深く抉った。  ユンフェイは、ティンカーモンを失った絶望と、突如向けられた疑惑の刃に、血の気を失った顔で唇を震わせる。 「待ってくれ」  静かだが、強い意志を込めて反論したのは、騎士だった。 「確かに、ズバモンもスレイヤードラモンも、あの牢を破壊することは可能だろう。だが、可能性のある存在はもう1人居る」  騎士の視線が、今度はエリスへと真っ直ぐに向かう。 「エリス。お前の使うディーアークだって、強力なカードを組み合わせれば一点集中の破壊も可能だ。  カードスラッシュの組み合わせ次第では、あの程度の鉄格子を破ることなど造作もないはずだ」  矛先は、見事に逸らされた。しかし、エリスは少しも動じない。まるで、その反論すら予測していたかのように、薄く笑みを浮かべた。 「ええ、そうね。でも、それは貴方にも同じことが言えるわ。そして……」  エリスの視線が、今度は宙で青ざめているワイズモンを捉えた。 「賢者のローブを纏うそこの魔人型デジモンにもね。『パンドーラ・ダイアログ』……その必殺技は、他者の技を記録し再現できる。  貴方がこれまでどんな強力な技を見て、盗んできたかなんて、私たちには知る由もない。牢を破る一撃くらい、その膨大な知識の中に隠していてもおかしくないでしょう?」 「なっ……僕が、ですか!?」  疑惑は、制御を失ったウイルスのように瞬く間に拡散していく。  エリス、騎士、ユンフェイ、そしてワイズモン。誰もが容疑者であり、誰もが告発者となりうる。  絆などという脆いものは、この坩堝の中ではとうに溶け落ちていた。 「いや……もう、いやぁぁぁぁっ!」  その狂気の連鎖を断ち切ったのは、レイラの悲鳴だった。彼女は両手で耳を塞ぎ、恐怖に顔を歪ませる。 「誰が犯人かとか、どうでもいい! 誰が味方で、誰が敵かなんて、もうわかりません! みんな……みんなが私を殺そうとしているように見える!」  その瞳は、もはや誰のことも映してはいなかった。彼女はスナリザモンの手を掴むと、もつれる足で走り出す。 「もう誰も信じられない……」  そう叫ぶと、レイラは天竜の間を飛び出してしまった。 「レイラさん……!」  ワイズモンは、後を追おうとして、力なくその場で止まった。自分を信じてくれていたはずの友人からの、完全な拒絶。それは、彼の心を打ち砕くのに十分すぎた。 「……僕が……僕が彼女をここに連れてきてしまったからだ……僕のせいで……」  絶望に染まった彼は、誰に言うでもなくそう呟くと、ふらふらと展望室の方角へと消えていった。  だが、再生を始めた世界の奇跡的な光景でさえ、彼の虚ろな心を癒すことはないだろう……。  残されたのは、凍りついた空気だけだった。ゴッドドラモンは、自らの聖域で繰り広げられた醜い争いに、ただ呆然としている。  このままでは、本当に全員が壊れてしまう。  騎士は、深く息を吸い込み、この混沌に1つの筋道を立てるべく声を張り上げた。 「もうやめよう! このままじゃ、犯人の思う壺だ。俺たちは、感情に流されるんじゃなく事実を探すべきだ」  彼は、絶望に沈むユンフェイの肩を掴みそしてエリスを睨みつけた。 「二人が最後にどこにいたのか。失踪前に何か手がかりを残していないか……。まずはティンカーモンの部屋と赤城さんの部屋を調べよう!」  それは、崩壊寸前の共同体をつなぎとめる最後の提案だった。  6.2:『二つの捜索、それぞれの思惑』  騎士の提案は、混沌の只中にいる彼らに、かろうじて進むべき道を示した。  一同は『天竜の間』を後にし、重い足取りで宿泊エリアへと向かう。  誰もが、口を固く結んでいた。言葉を交わせば、再び互いを傷つける刃となってしまうことを、本能的に理解していたからだ。  その中で、ユンフェイだけが、まるで魂を抜き取られたかのように茫然と立ち尽くしていた。  彼の視線は、虚空の一点を彷徨っている。慕ってくれていた小さな妖精の喪失。  そして、仲間から向けられた冷たい疑惑。その2つの重圧が、彼の誇り高い心を軋ませていた。  騎士は、そんな彼の前に静かに立った。何を言えばいいのか分からない。  慰めの言葉など、今の彼には届かないだろう。だから、騎士はただ、事実を伝えることにした。 「ユンフェイさん。……ティンカーモンは、昨夜、俺にこう言っていました」  騎士は、昨夜のティンカーモンの無邪気で、しかし危うい笑顔を思い出しながら、言葉を絞り出した。 「『ユンフェイを最強にする秘宝への道を見つけた』と……。  そして、こうも言っていました。 『私はユンフェイに笑っていてほしいの。ただ、それだけなの……!』と」  その言葉は、ユンフェイの虚ろな心に、静かに、しかし深く染み渡った。  彼女が、自分のために。ただ、俺の笑顔が見たいという、その一心で。  ティンカーモンの健気な想いが、映像となって脳裏に蘇る。自分の後をついて回り、拙い言葉で応援してくれた、あの小さな姿。  その純粋な想いを、名も知れぬ何者かが、無慈悲に踏みにじり、消し去った。  その事実が、彼の心の中で静かに燃え始めた。それは悲しみや絶望ではない。剣士として、人として、決して許すことのできない、聖域を汚された者への、底なしの義憤だった。 「…………そうか」  ユンフェイは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳から、迷いの色は消え失せていた。そこにあったのは、悲しみを乗り越え、怒りを力に変えた、鋼のような決意の光だった。  彼は、騎士に倣うようにゴッドドラモンへと向き直り、深く、そして丁寧に頭を下げた。 「ゴッドドラモン殿。貴方様にお願いがございます。ティンカーモンが最後に過ごした部屋を、この手で調べさせていただきたい。  彼女が残した想いを、無駄にはしたくないのです」  ユンフェイが、自分をこの館の「主」として敬意を払い筋を通そうとしている。  その真摯な姿勢は、度重なる事件で傷ついていたゴッドドラモンの竜としての誇りを静かに満たしていく。  彼は失いかけていた威厳を取り戻すかのように、ゆっくりと、しかし力強く頷いた。 「……許可しましょう。この青嵐の館の主として貴方の思い、確かに受け取りました。存分に調べてください」 「待ちなさい」  エリスが、その背中に冷たい言葉を投げかける。 「私も行くわ。貴方が証拠を隠滅しないよう見張っておくの」  彼女は、冷静さを装いながらユンフェイの後に続く。  だが、その隣を歩くフローラモンは、どこか悲しげに、そして心配そうに、主人の横顔を見つめていた。  彼らの姿を見送った騎士もまた、ゴッドドラモンに向き直った。 「ゴッドドラモンさん。俺も赤城さんの部屋を調べさせてほしい」  赤城の最後の言葉が、騎士の心に重くのしかかっていた。 「よろしい。貴方にも許可します」  ゴッドドラモンが静かに頷いた、その時だった。 「はーい! じゃあアタシも、少年のお手伝いしちゃおっかなー!」  ディエースが、いつもの軽い調子で騎士の腕に絡みつこうとした。その腕を、ゴッドドラモンの静かな、しかし有無を言わせぬ一言が制止する。 「お待ちください、ディエース様」  ゴッドドラモンの表情から、先ほどまでの狼狽は完全に消え失せていた。そこにあったのは、竜神としての威厳と、全てを見通すかのような冷徹な理性。 「貴女には、1つ、お聞きしたいことがある」  彼は、ゆっくりとディエースを見据えた。その瞳は、もはや信頼の色ではなく、鋭い分析の光を宿している。 「あの自動調理器。あれはこの館が建造された当初から存在する、古代のオーバーテクノロジーの産物。  それを、外部の技術者である貴女が、修理できたことは本当に称賛に値します  そして、昨夜の天竜の間へのハッキング。あのシステムは、外部からのあらゆる干渉を遮断する完璧なセキュリティのはず。  それを突破し、あまつさえ記録を改竄できるほどの技術を持つ者は、あの場に居た者の中で私が知る限り……」  彼は、そこで一度言葉を切り、絶対零度の如き視線でディエースを射抜いた。 「……かの自動調理器を修復した貴女ほどの技術者をおいて、他に考えられませんな」  それは、揺るぎない論理に基づいた、完璧な指摘だった。 「えー、何それー? アタシのこと疑ってんのー? ひっどーい!」  ディエースは、いつものおどけた口調でごまかそうとする。  だが、その笑顔は、冷徹な竜神の前では薄っぺらい仮面のように見えた。 「疑っているわけではございません。ただ、事実を確認したいだけ」  ゴッドドラモンは、彼女に逃げ場を与えない。 「この館の主として、これ以上の悲劇は看過できません。  貴女には、私と共に再び管理室へ戻り、その卓越した技術で、犯人が残した痕跡を解析していただきたい。それが、貴女の潔白を証明する、何よりの手段となるでしょう」  それは、拒むことのできない要求だった。 「……わーったわよー! やればいいんでしょ、やれば!」  ディエースは、苛立ちを隠しもせずにそう叫ぶと、乱暴に髪をかき上げた。  こうして、騎士とユンフェイがそれぞれの捜索へと向かう中、ハッキングの容疑者であるディエースは、竜神の鋭い監視の下へと、再び引き戻されることになった。  6.3:『赤城の残した箱』  赤城の部屋は、彼の性格をそのまま映したかのように、整然としていた。  本棚には、デジタルワールドの生態系に関する専門書や論文が背表紙を揃えて並び、机の上には書きかけの研究ノートと数本のペンが、寸分の狂いもなく置かれている。  生活感というものが、そこには希薄だった。 「どこにも、それらしいものはないな……」  騎士は、引き出しやクローゼットの中を慎重に調べていくが見つかるのは着替えやフィールドワーク用の機材ばかり。  赤城が「託す」と言った特別な何かは見当たらない。 「赤城のおっちゃん、一体何を隠してたんだろなー」  ズバモンは、退屈そうに部屋の中をうろついていたが、ふと、ベッドの脇に置かれた荷物の1つに鼻を近づけ、クンクンと匂いを嗅ぎ始めた。 「ナイト、これ……なんだか、俺と同じような匂いがする!」  ズバモンが指し示したのは、何の変哲もない、頑丈そうな鋼鉄製のツールボックスだった。  騎士がそれを手に取って隅々まで調べてみるが、鍵穴も、暗証番号を入力するキーパッドも見当たらない。  まるで、開けることを拒絶しているかのような、無骨な鉄の塊だ。  だが、箱を裏返した騎士は、その側面に存在する奇妙な意匠に気づいた。  そこには、細長いスリット状の窪みが、1つだけ彫り込まれている。  その形状、その深さ、そして僅かに湾曲した角度。それは、騎士の脳裏に浮かんだ1つの姿と、恐ろしいほどに一致していた。 「……まさか」  騎士の脳裏に、赤城の最後の言葉が蘇る。『もしも明日の朝、僕がこの牢から消えていたなら……その時は、君に全てを託す』。  彼は、自分が消されることを予期していた。  そして、レジェンドアームズであるズバモンを持つ騎士がこの部屋を捜索することまでも。 「ズバモン、アームズモードだ!」 「おう!」  騎士の鋭い号令に、ズバモンが眩い光と共にその姿を変えていく。  黄金の装甲を纏った猛獣の姿は一瞬で光の粒子に分解され、騎士の右手に収束する。現れたのは、黄金の刀身を持つ、猛々しい刀剣だった。  騎士は、ごくりと唾を飲み込んだ。これは一種の儀式だ。赤城が遺した、最後の謎を開けるための。  彼はズバイガーモンの切っ先を、慎重に、ミリ単位で調整しながら、箱のスリットへと差し込んだ。  まるで、失われたピースが収まるべき場所を見つけたかのように剣先は窪みに吸い込まれるようにフィットする。  その瞬間、スリットから青白い光が奔り、剣の刀身を走る紋様と共鳴した。 『LEGEND-Arms Code: Zubamon……Verified』  無機質な電子音声と共に、カシュッ、と小気味よい音を立てて、重厚なロックが解除される。  音もなく開かれた箱の中から現れたのは、一枚の薄型情報端末だった。  騎士は、慎重に端末を手に取り、起動させる。  画面には、いくつかのファイル名が並んでいた。その一番上に表示された、『G.G.Report』という文字に、騎士は指を伸ばした。  ファイルを開くと、画面に表示されたのは、かつてデジタルワールドでその名を轟かせた傭兵部隊『グラニットガーディアンズ』の活動記録だった。  輝かしい戦歴、幾多の紛争を鎮圧したという美辞麗句。だが、ページをめくるごとに、その裏に隠された暗部が露わになっていく。  非合法なデータの密輸、敵対企業への破壊工作、そして、金のためならどんな汚い仕事も請け負う、冷酷な部隊の真実の姿。  そして、騎士の目は最後の新聞記事で釘付けになった。 『傭兵部隊グラニットガーディアンズ、鳥竜型デジモンの巣を焼き払う依頼の遂行後、消息不明に』  その見出しに、騎士の指が触れたその瞬間だった。  6.4:『砂上の楼閣』  記事の文字が、ぐにゃりと歪んだ。  騎士の視界が急速に色を失い、自分の体の奥で、あの虹色の球体が脈動を始めるのを感じた。  ユンフェイの記憶を見た時と同じ、抗いがたい浮遊感。  ズバモンの「ナイト、どうしたんだ!?」という悲鳴が、まるで水の中から聞こえるかのように遠のいていく。  意識は、もはや騎士のものではなかった。それは、1人の女の傲慢と転落、そして再生を巡るあまりにも鮮烈な過去へと引きずり込まれていった。     ☆  乾いた風が、灼熱の砂を巻き上げる。  ここは、見渡す限りの砂漠地帯。  若く、自信と野心に満ち溢れたレイラ・シャラフィが、鉄壁の傭兵部隊『グラニットガーディアンズ』を率いて、その砂上に君臨していた。  彼女の瞳には、慈悲などという甘ったるい感情は欠片もなかった。  金こそが絶対の神であり、デジモンは便利な道具、そして弱者は踏みつけて楽しむための玩具でしかなかった。  レイラの記憶が、断片的な映像となって、騎士の脳裏に次々と流れ込んでくる。  ある時は、トレーニング道場を開きたいという男からのメール依頼を受け、平和なデジモンの集落を蹂躙した。  レイラの号令一下、先陣を切ったタンクモン隊の砲撃が、集落の入り口を木っ端微塵に吹き飛ばす。  ヴォルクドラモンが灼熱のブレスを吐き、穏やかな住居は瞬く間に炎上し、黒煙を上げた。  城壁のごときルークチェスモンが、抵抗しようとする長老格のデジモンを巨大な体で弾き飛ばし、その道を阻むもの全てを薙ぎ払っていく。 「いいですね、もっと泣き叫んでくれませんか。その悲鳴が、私の報酬を高くするので」  逃げ惑うデジモンたちの姿をモニター越しに見ながら、レイラは愉悦の笑みを浮かべた。  任務完了後、依頼主から分厚いBitのデータが転送されると、彼女は満足げに鼻を鳴らした。  またある時は、とある大手製薬会社から、ライバル企業の新製品を入手する依頼を請け負った。  配下のデジモンに命じ、ターゲット企業のサーバーへ侵入。  新薬の開発データを盗み出すだけでは飽き足らず、記録を改竄し有害物質が混入したかのようなフェイクニュースをダークウェブに拡散させた。  結果、ライバル企業は社会から激しい糾弾を受け株価は暴落。そのニュース映像をシャンパングラス片手に見ながら、レイラは冷ややかに呟く。 「真実なんて、金でいくらでも作れます」  最も非道な仕事は、悪辣な借金取りと共謀した「取り立て」だった。  多額の借金を背負い返済不能に陥ったテイマー。  その目の前で、レイラの部隊は泣き叫ぶテイマーから、長年連れ添ったパートナーデジモンを力づくで引き剥がし、デジヴァイスを奪い取った。 「金を返せない貴方が悪いのです。そうだ、いいことを教えてあげましょう。貴方自身も、いい商品になれます。どうですこの契約書のサインしては?  必死に働いて金を稼げば、いつかそのデジモンを取り戻せるかもしれませんよ」  レイラはそう嘲笑うと、テイマー自身も捕縛させ、ダークエリアのオークションリストに「商品」として追加させた。  美しい絆ですね、と彼女は思う。でも、金の前ではあまりに無力だ、と。  彼女の部隊『グラニットガーディアンズ』に所属するデジモンたちも、その大半はこうして捕獲・購入された者たちだった。  レイラへの忠誠というよりは、力と金で繋がれた、あまりにも脆い関係性。だが、彼女はそれを疑うことすらなかった。  その砂上の楼閣が崩れ落ちるのは、一瞬だった。  絶対的な暴力との遭遇。ユンフェイの記憶でも見た、あの戦場。  最強戦力であるはずの『ルークチェスモンX4GG』が、ネオデスジェネラルを名乗る暴竜の『テラーズイグザーション』によって、いとも容易く粉砕される。  絶対的な力の前に、彼女の慢心は木っ端微塵に砕け散った。  私を守って死ね。  その言葉は、レイラの口から何の躊躇もなく吐き出された。背後で響く、かつての仲間たちの断末魔の叫び。  だが、彼女の耳には、それはただの耳障りな雑音としか聞こえなかった。デジモンなど、たかがデータの塊。代わりなんて金でいくらでも買える。  この屈辱さえ忘れなければいくらでも再起できる。今日の出来事は運悪く災害にあっただけ。  彼女の魂に焼き付いたのは、部下への罪悪感ではなく、絶対的な暴力の前に脆くも崩れ去った自分への焼けつくような敗北の記憶だけだった。  しかし、闇の世界は落ちぶれた女王に決して優しくはなかった。  かつての「グラニットガーディアンズのレイラ」というブランドは失墜し、情報屋や商人はハイエナのように彼女の足元を見た。 「悪いが、部下を見捨てて逃げるようなお前さんに売れるデジモンはいないね。お前さん、やりすぎたんだ。恨みを買いすぎてんだよ。  お前さんに売ったってのがバレたらうちが厳しくなる。どうしてもって言うなら、相場の3倍……いや5️倍はもらわないと割に合わねぇ」 「前金だ。今のアンタを信用できるほど、俺たちもお人好しじゃないんでねぇ」  新たな戦力としてデジモンを購入しようにも、相場の数倍の値をふっかけられる。  金で解決しようにも、その金が、かつてのように万能ではなくなっていた。  それでも彼らの要求を飲んでいたほうが、マシだったかもしれない。しかし、レイラのプライドは彼らに金を払うことを拒んだ。  それから彼女を追い詰めたのは、過去の亡霊たちだった。  かつて彼女が踏みにじった者たちからの復讐の影が、常にその背後に付きまとう。  夜、ベッドに入っても、窓の外に人影が見える気がして眠れない。食事に毒が盛られているのではないかと、1口ごとに疑心暗鬼に駆られる。  安眠できる夜など、1日たりともなかった。  そのストレスから逃れるように、レイラは非合法カジノと薄暗い酒場に入り浸った。  最初は有り余る金で豪遊し刹那の快楽に身を委ねた。だが、酒は悪夢の濃度を増しギャンブルの女神は決して彼女に微笑まない。  チップが、かつての部下たちの命のように、虚しくテーブルから消えていく。  モニターに表示される貯金の残高が減るたびに、彼女の心はさらに荒んでいった。  彼女のプライドを誇示していた高価な宝飾品は売り払われていき、豪華だった隠れ家は、いつしか空の酒瓶が転がるただの薄汚いねぐらに成り果てていた。  酒に酔い意識が朦朧とするたびに、あの暴竜に両断されたルークチェスモンX4GGの姿と見捨てた部下たちの顔がフラッシュバックする。  その度に、激しい吐き気と共に便器に突っ伏す夜が続いた。 「このままじゃ終われない……!」  再起を図るため、なけなしの金で、腕の悪いチンピラ傭兵──ガジモンとゴブリモンたち数体を雇った。  目的はただ一つ、砂漠地帯にあるという高値で取引される希少なデジタマの強奪。  だが、作戦はあまりにも杜撰だった。集落を守っていたのは巨大な顎を持つサンドヤンマモンの群れと、毒の尾を鎌首のように持ち上げるスコピオモンたち。  ゴブリモンは、超高速で飛来したサンドヤンマモンの鋭い顎に頭を噛み砕かれ、一撃で絶命。  ガジモンも、毒針で腹を貫かれ、口から紫の泡を吹きながら痙攣し、やがて動かなくなった。  チンピラ傭兵たちは、阿鼻叫喚の地獄の中、次々と砂の中に引きずり込まれ、肉を食い千切られる音だけがレイラの耳に届いた。 「……馬鹿な連中」  彼女は、その惨状を丘の陰から冷ややかに見つめると、混乱に乗じて守りが手薄になった巣からデジタマを1つだけ盗み出すことに成功する。  当初の目的の希少なデジタマではなかったが、十分だ。今はこれで妥協するしかない。  それが彼女の人生を大きく変えることになった。  盗んだデジタマ。彼女にとって最後の金づるのはずだった。  しかし、孵化したスナモンを前にした時、レイラの凍てついた心に、計算外の感情が芽生え始めた。  彼女にとって、生まれてはじめてゼロからデジモンを育てる経験。  最初はただの「商品」として、義務的に餌を与え、世話をしていた。  だが、スナモンは、そんな彼女の打算など知る由もなく、無邪気に後をついて回り眠る時にはその体に擦り寄ってきた。  鬱陶しい。そう思うのにその小さな温もりがなぜか心を離さない。  ある夜、悪夢にうなされ、荒い息で目覚めたレイラの頬を、スナモンがぺろりと舐めた。そして、つぶらな瞳で彼女を見つめこう言ったのだ。 「ママ?」  その一言が、レイラの心のもっとも硬い部分を、音を立てて砕いた。ボスでも、大将でもない。  見返りを求めない絶対的な信頼を込めた「ママ」という響き。  彼女は、人生ではじめて、誰かに無条件で愛されるという経験をした。  スナモンが怪我をすれば、自分のことのように心を痛め、必死で治療法を探した。彼が喜ぶ顔が見たくて、なけなしの金をはたいて好物を買ってきた。  やがてスナモンはゴロモン、そしてスナリザモンへと進化していく。  大きくなった彼が、今度は震えるレイラを守ろうと、その前に立ちはだかる。  その健気な姿に、かつて自分が見捨てた部下たちの顔が鮮明に重なった。  彼らにも、守りたい誰かがいたのかもしれない。彼らも、誰かにとっての「かけがえのない存在」だったのかもしれない。  後悔の念が、灼熱の楔となって胸を焼く。スナリザモンの純粋な瞳を見つめながら、レイラは、心からの涙を流した。 『私には……お前を育てる資格なんてない……!』  レイラの瞳から、後悔の涙が、はじめて止めどなく溢れ出した。  スナリザモンの純粋な瞳は、彼女が犯してきた罪のすべてを映し出す鏡だった。  もう、この瞳を曇らせるような生き方はできない。  スナリザモンのためにも、そして、贖罪のためにも今度こそ生まれ変わる。  過去を捨て去り正しい道を歩もうと、彼女は強く決意した。  しかし、過去は影のように彼女を追い続けた。  かつて裏切った組織の追っ手、踏みにじった者たちの怨嗟の声。  レイラはスナリザモンを連れ、ただひたすらに逃げるように旅を続けた。  そんな逃避行の途中で出会ったのが魔人型デジモン、ワイズモンだった。 「お二人さん、なんかワケありな感じっすねー! でも、そういうの、僕、嫌いじゃないっすよ!」  彼の底抜けに明るく、軽薄で、しかし悪意のない人柄に、心を閉ざしていたレイラも、少しずつ警戒を解いていった。  ワイズモンは、旅の目的地として、ある不思議な場所の話をした。 「青嵐の館って知ってます? そこ、マジでヤバいんすよぉ~!  定期的に世界がドッカーンって壊れて、またピッカピカに生まれ変わるってさ!  世界が再生する瞬間が見れる場所とか超絶エモいと思いません!?」 『再生』  その言葉は、罪の意識に苛まれるレイラの心に、一条の光のように差し込んだ。  この場所なら。その、破壊と再生を繰り返す場所なら、私のような人間でも本当に生まれ変われるかもしれない。 「……行ってみたい、です。その、青嵐の館に」  か細い声で、しかし確かな希望を込めてレイラは言った。  こうして彼女は一縷の望みを胸に、ワイズモンと共に運命の館へと足を踏み入れたのだった。     ☆ 「───ナイト! しっかりしろって!」  必死な声が、騎士の意識の深淵に突き刺さる。  ハッと息を呑むと、視界が急速に現実の色を取り戻した。目の前には、心配そうに自分の顔を覗き込むズバモンの姿があった。  騎士は、ゆっくりと瞬きをした。赤城の部屋の、無機質な光。端末の冷たい感触。  だが、彼の心には、まだレイラが流した後悔の涙の熱が、生々しく残っていた。  彼女が犯した罪の重さ、絶望の深さ、そして、一匹のデジモンに向けた再生への祈り。その全てが、まるで自分の体験のように、魂に深く刻み付けられている。 「……大丈夫か、ナイト? 突然倒れ込んで、すごくうなされてたぞ!」 「……ああ。大丈夫だ」  騎士は、か細い声で答えると、ゆっくりと身を起こした。  レイラ・シャラフィ。  かつて金のためなら手段を選ばず、弱者を踏みつけ、部下さえ見捨てた傲慢な悪女。  だが、騎士が今、心に抱いているのは、彼女への嫌悪感ではなかった。  誰よりも不器用に、誰よりも孤独に、過去の罪と向き合い、ただ1つの光のために生まれ変わろうともがいている1人の人間の姿だった。 「……そうか。彼女もまた……この世界で戦っていたんだな」  静かな呟きは、誰に言うでもなく、部屋の静寂に溶けていった。  6.5:『暴かれる闇』  レイラの壮絶な過去から引き戻された騎士は、しばらく呆然としていたが、すぐに気を取り直し、再び端末へと視線を落とした。ズバモンが心配そうに隣から画面を覗き込む。  騎士は、2つ目のファイル『イレイザー侵攻記録』をタップした。  まず、デジモンイレイザーを構成する7つの軍団の概要が画面に表示された。 # デジモンイレイザー七大軍団  デジモンイレイザー七大将軍(ネオデスジェネラル)が率いる軍団。  副将級として魔将と呼ばれる強力な新種のデジモンが確認できる軍団も多い。  1. 月竜軍団:月竜将軍ニョイハゴロモンが率いる裏工作を専門とする隠密部隊と思われ、所属するデジモン達もほとんど情報がない。  2. 火竜軍団:火竜将軍テラケルモンが率いる粛清部隊。その苛烈な矛先はデジモンイレイザー軍自体にも向けられるという。  3. 水竜軍団:水竜将軍オキグルモンが率いていた海戦部隊だが人間界侵攻作戦に失敗しオキグルモンは捕縛のち離反。  現在は冷熱魔将ホムコールモンが水龍将軍を名乗り再建を進めている。主な所属デジモンは水棲型デジモンや氷雪型デジモン。  4. 木竜軍団:木竜将軍ドラグーンヤンマモンが率いる侵略部隊。昆虫型デジモンで構成された軍団で統率力と策略で幾多のデジタルワールドの都市を侵略してきた。  副将の遊雷魔将デュアルビートモンも侮れず、軍団内には猛獣魔将と呼ばれ強力なデジモンを操る存在も度々確認できるという。  5. 金竜軍団:金竜将軍ファーヴニモンが率いる支援部隊。かつては人間がその地位についていたが、都市鉱山ダスタータウンを奪取後離反したという。  6. 土竜軍団:土竜将軍スカルスカモンが率いていた暗殺部隊。数年前にロイヤルナイツを襲うも敗北し失踪。  現在は副将であった音盤魔将メタルサタモンが代理を務める。  7. 日竜軍団:日竜将軍は変化が激しく、これと言った確定情報が少ない。  この他にもイレイザー軍には七大将軍や魔将に匹敵するデジモンを確認でき、その力は底しれない。  騎士は概要を読み飛ばし、個別の侵攻記録をスクロールしていく。  画面には、デジタルワールド各地を蹂躙する、デジモンイレイザー七大軍団の恐るべき活動記録が、無機質なテキストと凄惨な画像データで綴られていた。  そして、その中の木竜軍団が『星脈の交易所』を陥落させた記事が目に止まった。  記事には、統治者マジラモンが戦死し、都市が内部から崩壊した経緯が記されていた。  騎士が気になったのは、防衛側で奮闘したオウリアモンの活躍だ。 『防衛の要であった「オウリアモン」は、昆虫型デジモンで構成された木竜軍団に対し絶大な戦闘力を誇示。  しかし、指揮官であった遊雷魔将デュアルビートモンの策略により、詳細は不明なものの友軍であったはずのデジモンたちが突如として裏切ったという。  内部からの奇襲を受け、戦線は崩壊。統治者マジラモンの戦死後、交易都市は木竜軍団に降伏し、今ではデジモンイレイザーを支える拠点となっている』  記事を読み終えた騎士は、息を呑んだ。オウリアモンはエリスのフローラモンの完全体だ。  これは、偶然なのだろうか? いや、今はそのことについて考える暇はない。  そして、騎士は最後のファイルを開いた。 『ダークエリア人身売買調査』  タイトルからして、不穏な空気が漂っている。ファイルには、ダークエリアを拠点とする大規模な人身売買ネットワークの調査記録がまとめられていた。  記録映像に映し出された大物バイヤーのシルエットと、その手口を示すテキストに、騎士は息を呑んだ。  捕らえたテイマーやデジモンを「門下生」として自身の道場に引き取り、そこから闇市場へと売りさばく。赤城が遺した調査メモには、こうも記されていた。 『当該道場の公表されている門下生数と、実際に修練場や宿舎で確認できる人数には、常に大きな乖離が存在する。  消えた門下生は旅に出たとされているが、その行方は誰も知らない。  また、道場には、デジモンの力を弱めるための特殊な設備が存在するとの情報あり。  これを使ってより負荷を高めたトレーニングが可能とのことだが、実際には対象を無力化し、安全に出荷するまでの調教施設である可能性が極めて高い。  追記:最近、このバイヤーは金に執着するだけでなく各地の秘宝の噂にも強い関心を示しており、独自の調査網でその情報を収集している形跡がある』  その手口、そして何よりモニターに映る恰幅の良いシルエット。 「間違いない……ソク師範だ……!」  騎士の中で、点と点が線で繋がっていく。だが、記録はそこで終わらなかった。 『このバイヤーに「商品」を供給しているのは、デジタルワールドでも屈指の大物デジモンである可能性が高い。  その供給源は、ダークエリアとの繋がりが深い大物魔王型デジモン(七大魔王、あるいはグランドラクモン、ガルフモン等)か? さらなる調査を要す』  赤城の推測は、ダークエリアの深淵へと向けられていた。  彼自身、この館に来るまでは、まさか天を司る竜神様がその黒幕だとは夢にも思っていなかったのだろう。  だが、騎士には分かってしまった。  デジモンの力を弱める特殊な設備。それは、この館の地下牢で見たものと、まったく同じ機能を持つはずだ。  この館は、避難所。それは事実だろう。  だが、同時に、デジタルストームという名の災害を利用して、助けを求める無力な者たちを集め、選別し、「商品」として地下牢に確保するための巨大な罠でもあるのだ。  ソク師範とゴッドドラモンの繋がり。  そして、赤城の本当の目的。  彼は、ただの学者ではなかった。この非道な人身売買の証拠を掴むために、命がけでこの館へ潜入した、孤高のエージェントだったのだ。  すべてのピースが、カチリと音を立てて嵌まった。  ソク師範の不審な行動、赤城が彼に抱いていた敵意、そして、赤城がゴッドドラモンの管理室へ強引に侵入しようとした理由。  そのすべてが、この悍ましい真実へと繋がっていた。  しかし、騎士の心には、新たな、そしてより深い疑問が湧き上がっていた。  なぜだ? なぜ、秩序と調和を誰よりも重んじるはずのゴッドドラモンが、こんなにも卑劣な行いに手を染めている?  その動機が、まったく見えない。  真実を知るには、彼に直接問いただすしかない。だが、それはこの館の絶対的な主を敵に回すことを意味する。  下手をすれば、その場で消されかねない。  騎士は、端末を強く握りしめたまま、言葉を失っていた。  ふと気づく。この赤城の記録の中に、ゴッドドラモンへの言及が一切ないことに。  まるでこの館の主が誰であるかを知らないかのように。  これは赤城がこの館に来る前に書かれた記録だ。  つまりプロテクトをかけたのもその前ということになる。  だとしたら、なぜ。  なぜ、この館に来る前の赤城が、俺のズバモンでしか開けられない特殊なプロテクトを仕込むことができた?  俺がこの館に来たのはまったくの偶然だ。  だというのに、この箱を見つけ出すことまで正確に予知していたかのように───。  それに俺に起きているこの奇妙な現象はなんだ?  ユンフェイ、そしてレイラの過去を、まるで自分の体験のように追体験してしまう、この異常な感覚は。  答えの出ない問いが、騎士の思考を、底なしの迷宮へと引きずり込んでいく。  俺は一体、誰の筋書きの上で踊らされているんだ? 6.6:『優先すべきもの』  赤城の部屋には、彼が遺した真実と、それ以上に重い沈黙が満ちていた。  騎士の指先は、情報端末の冷たい表面をなぞる。  ゴッドラモン、そしてソク・ジンホ。その2人が紡ぎ出した欲望に塗れた人身売買という悍ましい闇の物語。  そして、それとはまったく別の次元で進行する、デジモンイレイザーという理解を超えた悪意。  騎士の頭の中で、2つの巨大な悪が、互いを喰らい合うかのように渦を巻いていた。  どちらも許されるべきではない。だが、今この閉ざされた館で、2つの悪を同時に相手にするのは無謀を通り越して自殺行為に等しい。  より巨大な脅威、世界の理そのものを歪めようとするデジモンイレイザー。  その正体不明の敵を討つためには、この館の秩序をこれ以上乱すわけにはいかない。そして、その秩序の歪んだ中心にいるのは、他ならぬゴッドドラモンなのだ。  皮肉な結論だった。悪を討つために、別の悪を利用する。それは、騎士がこれまで培ってきた信条とは、あまりにもかけ離れた選択だった。 「……ロックを」  騎士の声は、自分でも驚くほど乾いていた。自らの決断の重さに、喉が張り付くようだ。 「頼む、ズバモン」 「……ナイト?」  ズバモンは、パートナーの顔に浮かぶ、見たことのない苦悩の色を敏感に感じ取り、不安そうにその顔を覗き込んだ。  だが、彼は何も問わなかった。ただ、主人の決意を信じるように、こくりと頷いた。 「……おう!」  再び、黄金の光がほとばしる。ズバモンの持つレジェンドアームズとしての力が、赤城が遺した禁断の知識を封印するように、情報端末に吸い込まれていった。  厳重なプロテクトが施された端末を騎士はまるで忌まわしい遺物のように扱い、赤城の荷物のもっとも深い場所へと押し込んだ。  これでいい。今は、これでいいのだ。  真実を暴くべき時が来るまで、この箱は眠らせておく。  部屋を出ると、ちょうど隣の部屋の扉がゆっくりと開くのが見えた。騎士の目と鼻の先、ディエースの部屋だ。  重厚な扉の隙間から、ゴッドドラモンの巨大な影と、それに続いてディエースのしなやかなシルエットが吸い込まれていく。  彼らは、ティンカーモン失踪の謎を追って、独自の調査を始めようとしているらしい。  あるいは、竜神は別の目的で、あの掴みどころのない女狐の能力を必要としているのかもしれない。  騎士は壁に背を預け、数秒間、目を閉じた。これから自分が演じなければならない役割を、その重さを、改めて魂に刻み込むために。  大丈夫だ。俺は、狂わない。  自分にそう言い聞かせると、騎士はゆっくりと、隣室の扉をノックした。  扉を開けると、そこはすでに調査の場と化していた。  ディエースはアプリドライブを片手に、まるで精巧な医療機器を扱う外科医のように、天井の隅々まで丹念にスキャンしている。  その背後では、ゴッドドラモンが腕を組み、猛禽のような鋭い眼差しで彼女の一挙手一投足を見守っていた。 「ディエース、ゴッドドラモンさん。これは一体……?」  騎士が、何も知らないふりをして問いかけると、ディエースが肩越しに振り返った。その表情にはいつもの軽薄さはなく、プロの技術者としての冷徹な光が宿っていた。 「ああ、少年。丁度いいところに来たわ。管理室で確認したけど、昨夜の監視記録に改竄の形跡はなかった。  私たちが見回りしていた間の映像は、完璧よ。でも、ティンカーモンちゃんは消えた。……とすれば、答えは1つじゃない?」  彼女の視線が、天井の一点に向けられる。 「犯人は、システムを直接ハッキングしたんじゃない。もっと原始的で、もっと狡猾なやり方で、私たちの目を欺いたのよ。  この館の構造データによると、ティンカーモンちゃんの部屋であるスペードの10号室の真下は、ここ。アタシの部屋。  もしここから、天井裏に偽の生体反応を送るダミー装置でも仕掛ければどうなる?  監視モニターには、ティンカーモンちゃんがずっと部屋で眠っているように映り続けることになるわ。私たちは今、その証拠を探しているの」  まるで完璧な脚本を読み上げるように、彼女はよどみなく語る。その推理が真実であるかのように。あるいは、真実であってほしいと願うかのように。  その言葉を裏付けるかのように、ディエースが構えるアプリドライブが、ピ、と微かな電子音を立てて反応を示した。  彼女は近くの椅子に飛び乗ると、天井の通気口のカバーを手際よく外し、その暗い穴の中へと躊躇なく腕を差し入れた。  彼女の指先が、何かを捉える。  粘着テープが剥がれる。ねちゃり、という生々しい音と共に、通気口の奥から引きずり出されたのは小さな、そして酷く粗末な機械だった。  デジタマの殻を筐体代わりにし、そこから数本の銅線が、あり合わせの電子チップへと乱雑に半田付けされている。  動力源は、どこかの機器から抜き取られたであろう小さなボタン電池だ。  それはまるで子供の夏休みの工作のように拙く、しかし、微弱な生体エネルギーを絶えず放ち続ける悪意に満ちた心臓だった。 「ビンゴ。でも……思ったよりチャチな代物ね」  ディエースは、その装置を指でつまみ上げ、まるで汚物でも見るかのように顔をしかめた。 「これなら専門知識がなくてもそこら辺のジャンクパーツを組み合わせれば誰にでも作れる程度の小細工。  問題は、これをいつ、誰がこの部屋に仕掛けたかってことだけど……」  その言葉は、その場にいる全員に、新たな問いを投げかけた。自分がティンカーモンとロビーで別れ、彼女が部屋に戻ったのを確認したのは、昨夜のことだ。  工作が行われたのは、それよりも前か、あるいは自分が交代した後の、夜が明けるまでの間。  だが、その後、この部屋の主であるディエースはユンフェイと共にいた。夜通し、館内を見回り続けていたはずだ。   完璧な密室。完璧なアリバイ。このチャチなガラクタが、この事件をより深く、そして解決不能な迷宮へと引きずり込んでいく。 「……あれ? アタシの部屋にこんなものが仕掛けられてたってことは、やっぱり、アタクシが犯人だってことになっちゃう?」  ディエースは、今さら気づいたというように、大げさに慌ててみせた。その芝居がかった狼狽を、ゴッドドラモンの冷徹な視線が貫く。 「ご冗談を、ディエース様」  静かだが、有無を言わせぬ威厳に満ちた声が、彼女のわざとらしい演技を切り捨てた。 「もしディエース様が真犯人ならば、自らを不利にするような証拠を、我々の目の前でわざわざ発見してみせるはずがない。  貴女ほどの方が、そんな詰めの甘い策を弄するとは思えませんな」  ゴッドドラモンの論理は、氷のように冷たく、そして鋭利だった。彼はディエースから視線を外すと、今度は天井の穴を検分しながら続ける。 「それに、ティンカーモン殿が失踪したと思われる時間帯、貴女はユンフェイ様と共に見回りをしていた。  四大竜の試練を突破した、あの誇り高き剣士が偽りの証言をするとは考えられない。貴女のアリバイは完璧です」  その言葉は、ディエースの潔白を証明すると同時に、この事件の異常性をさらに際立たせた。 「となると、その偽装工作は、貴女がユンフェイ様と夜警で部屋を留守にしている間に、何者かによって仕掛けられたということになる。  しかし……昨夜は私が管理室のモニターで館全体を厳重に監視しておりました。  貴女の部屋に誰かが侵入した記録はない。つまり、それもまたシステムの改竄か、あるいは……この館の、私の知らない侵入経路が存在するということか」  ゴッドドラモンの瞳にはじめて本物の焦りの色が浮かんだ。自らが作り上げた完璧な城に、未知の抜け道が存在する可能性。  それは、この館の主である彼のプライドを、根底から揺るがすものだった。  ディエースのアリバイが証明されることで、彼女への容疑はいったん晴れた。  だが、同時に「誰が、いつ、どうやって偽装を仕掛けたのか?」というより深い謎が生まれてしまった。 「ティンカーモンの反応偽装の件は、いったん置いておきましょう」  騎士は、混沌とした議論の流れを変えるために、あえて別の、しかしより深刻な謎を突きつけた。 「赤城さんの牢屋はどういうことなんですか。昨夜、俺が見張りに行った時は、彼は確かに無事だった。ティンカーモンも一緒にそれを確認しています」  騎士の言葉に、ディエースが思い出したように手を叩いた。 「あ、そうそう! アタシたちも、朝食前にユンフェイ君と一緒に見に行ったんだった! 『おはようございまーす』って挨拶したらさ、すっごい気だるそーに『……ああ』って返事してくれたもん。あれが偽物だったとは思えないなー」  その証言を基に、ゴッドドラモンは、今朝、食堂に宿泊客が集まった順番を、改めて確認した。  まず厨房で準備をしていたベーダモンと、早くから席に着いていたエリス。  次に、見回りを終えたユンフェイとディエースが合流。  それから少しして、レイラとワイズモンが、やってきた。  その後、赤城の部屋を調べていた騎士が食堂に現れ、最後に、館の主であるゴッドドラモンが姿を見せた。  証言を照らし合わせると、赤城が消滅した時刻は、ユンフェイたちが牢を訪れてから食堂にたどり着くまでの、わずか十数分という極めて短い時間帯に限定された。  しかし、そのタイムラインが、この事件を完全な「不可能犯罪」へと昇華させてしまった。  誰もが、食堂にいた他の誰かと共にいたのだ。互いが互いのアリバイを証明し合う、完璧な鉄鎖。  この短い時間で、どうやってあの鉄壁の牢を破りあそこまで破壊できるというのか。  謎は、雪だるま式に膨れ上がっていく。 「もう一度、現場を調べさせてほしい」  膠着した空気を打ち破るように、騎士はゴッドドラモンに強く申し出た。  ディエースも「そーだそーだ! 何か見落としがあるかも!」と同調する。  真相究明のためには、牢に残された痕跡を徹底的に調べることが、唯一にして最善の手段のはずだった。  しかし、ゴッドドラモンは、その提案を「危険です」という一言で、断固として拒絶した。 「すでに牢への道は再び封印しております。瓦礫が散らかっていて危ないですからな」  騎士は確信した。 (ゴッドドラモンが隠したいのは、赤城失踪の真相じゃない。彼が恐れているのは、あの牢に残されているはずの『人身売買の証拠』そのものだ……!)  騎士の心の奥底で、竜神への不信感が黒い炎となって燃え上がった。  だが、ゴッドラモンもまた、この沈黙の中で好機を逃すほど愚かではなかった。彼はまるで何もかもを見透かしたような、鋭い視線で騎士に問いかけた。 「ところで騎士様。貴方は赤城様の部屋で、何か『発見』はありましたかな?」  その問いは、明らかに鎌をかけていた。ゴッドラモンもまた、騎士が何かを掴んでいることに気づいているのだ。 「いえ、特に何も見つかりませんでした。ただの几帳面な学者の部屋でした」  騎士は、心の動揺を完璧に押し殺し何食わぬ顔で嘘をついた。その言葉が、ゴッドラモンの口元にかすかな、しかし確かな笑みを浮かばせた。  互いが、互いの秘密のカードを胸に隠しながら、協力者という仮面を被って向き合う。  目に見えない火花が、二人の間に散った。  協力関係という名の薄氷の上で、命がけの腹の探り合いが、静かに、そして確かに始まっていた。  この歪な館の物語は、もはや誰にも止められない速度で、より深く、より複雑な迷宮へと、その足を狂わせていく。  6.7:『騎士と剣士の同盟』  ディエースの部屋での調査を終え、一同の足は自然と4階へと向かっていた。  ゴッドドラモンが「ティンカーモン殿の部屋も念のため確認を」と促したからだ。  階段を上る一行の先頭には、騎士たちよりも早くティンカーモンの部屋へと向かっていたユンフェイと、彼を監視するという名目のエリスの背中が見えた。  彼らは、もう部屋の調査を始めているようだった。  扉を開けると、そこは他の宿泊客に割り当てられた部屋と何ら変わりのない、規格化された空間が広がっていた。  しかし、主を失ったその部屋は、がらんとした静寂に満ち、やけに広く、そして冷たく感じられた。  備え付けのベッドのシーツには乱れた跡もなく、小さなクローゼットも固く閉じられている。  ただ、壁に数枚、拙いクレヨンで描かれた星や花の絵が無邪気に貼られているのが、  ここにかつて小さな妖精がいたことの、そしてもういないことの、痛々しい証明となっていた。  ユンフェイは、その部屋の中央、ティンカーモンが使っていたであろう小さな木製の机の前に、力なく膝をつき、一枚の紙片を呆然と見つめていた。  ドラコモンが、心配そうにその肩に寄り添っている。  ユンフェイが手にしていたのは、ティンカーモンが描いたであろう一枚の絵だった。  それは、一見すると、子供が描いた拙い風景画にしか見えない。  クレヨンで力強く描かれた青嵐の館は、どこか歪んでいる。  その特徴である巨大な風車は、実際の大きさよりも遥かに大きく、まるで館そのものを飲み込むかのように描かれている。  軒先に揺れる風鈴の数も、明らかに多い。  そして、ロビーの中央にそびえるはずのマザー・クリスタルの形状は、角ばった宝石ではなく、なぜか滑らかな球体として表現されていた。  ユンフェイには、その絵に込められた意味がまったく分からなかった。  ただ、絵の隅に彼女の小さな文字で震えるように書きなぐられたメッセージだけが、彼の心を強く、強く締め付けた。 『ユンフェイのためにぜったいにみつけるぞー!』  これが、彼女が遺した最後の言葉。最後の想い。  自分を最強にするため。ただ、自分の笑顔が見たい、その一心で。この小さな妖精は、たった一人で、得体の知れない館の秘密へと挑んだのだ。 「ティンカーモン……」  ユンフェイの声が、絞り出すように漏れた。 「必ず……必ず、お前の仇は……!」  彼は、その絵を宝物のように、しかし皺になるほど強く握りしめた。その瞳に宿るのは、もはや悲しみではない。全てを焼き尽くす、復讐の炎だった。  その一部始終を、エリスは壁に寄りかかりながら、氷のように冷たい視線で見つめていた。  彼女は、その拙い絵に隠された意味を、冷静に、そして正確に分析しようと試みていた。 (風車……風鈴……水晶……。展望室、ロビー……館の特定の施設を指している? ただの落書きではないわね。あの妖精、一体何を見て、何に気づいたというの……?)  そこへ、騎士たちが部屋へ入ってきた。ゴッドドラモンがディエースの部屋で見つかった偽装装置のことを手短に説明し、「犯行の痕跡は、ティンカーモン殿の部屋ではなく、やはりディエース様の部屋で間違いないでしょうな」と、半ば独り言のように断定した。だが、もはやその言葉に耳を傾ける者はいなかった。  皆の心は、ティンカーモンが遺した謎の絵と、復讐の化身と化した剣士の背中に釘付けになっていた。  調査は、何の進展もないまま解散となった。ユンフェイはティンカーモンの絵を懐にしまうと、誰とも視線を合わせず、一人、部屋を後にしようとした。その背中に、騎士が静かに声をかけた。 「ユンフェイさん」  振り向いたユンフェイの瞳に、騎士は強い意志の光を見る。 「少し、二人だけで話がしたい」  ユンフェイは無言で頷くと、騎士を人気のない場所へと誘った。行き先は、2階の男子トイレだった。 「俺たちもトイレ〜!」  二人の緊迫した雰囲気を察してか、ズバモンとドラコモンは、気を利かせたのか、あるいはただ本当に催しただけなのか、隣り合った個室へと駆け込んでいった。  静まり返った手洗い場の鏡の前で、二人の剣士は、言葉もなく、しばらく互いの顔を見つめていた。  個室の中から「うーん!」「ん〜〜〜っ!」「で、出た〜〜っ!」などと、2体のパートナーデジモンが力む声と安堵の声が聞こえてくる。  それがこの異常な状況下では、かえってシュールな滑稽さを生んでいた。  その間の抜けたやり取りが、張り詰めていた空気をわずかに和らげたのか、先に口を開いたのはユンフェイだった。 「デジモンイレイザーの目的は、この館の秘宝だ。それは、もはや間違いないだろう。ならば、我々が取るべき道は一つ」  彼の声は、鋼のように硬く、そして揺るぎなかった。 「我々が、奴らよりも先に秘宝を探し出す。犯人は必ずそれを奪いに現れるはずだ。そこを、叩く」 「……俺たちの力を、囮に使うと?」 「そうだ。それ以外に、奴らの尻尾を掴む方法はない」  ユンフェイはそこで言葉を切ると、鏡に映る自分の顔を、そしてその後ろに立つ騎士の顔を見つめ静かに問うた。 「騎士、この狂った盤面をよく見てみろ。ソク・ジンホが消え赤城殿が陥れられティンカーモンが消された。  この一連の流れで、もっとも利を得た者は誰だ?  誰が、この混沌を巧みに利用し、自らの目的へと駒を進めている?」  その問いは答えを求めるものではなく騎士の思考を試すためのものだった。 「最初に秘宝の存在を声高に叫び、我々の欲望を煽ったのは誰だ?  赤城殿が暴走した際、もっとも効果的に、そしてもっとも冷酷に彼を断罪へと導き、追放したのは誰だ?  そして、その結果として、今、もっとも自由に動けもっとも疑われにくい立場にいるのは誰だ?」  ユンフェイの言葉1つ1つが、騎士の記憶の扉を叩く。  そうだ。最初に秘宝という名の甘い毒をこの館に撒いたのは、エリスだった。  ソク師範や赤城を、まるで舞台の上の役者のように操り、自らの望む展開へと導いた。  あの投票の時もそうだ。彼女は論理と恐怖を巧みに使い分け、集団心理を完璧に掌握していた。  あの時のウィッチモンの激昂。地下牢で見た、秘宝を前にした時の尋常ではない執着心。  すべてのピースが、1つの歪な肖像画を浮かび上がらせていく。 「……エリスのことですよね」  騎士の口から確信に満ちた声が漏れた。  ユンフェイはゆっくりと頷いた。その瞳には、侮蔑でも憎しみでもない、ただ冷徹な分析者としての光が宿っていた。 「そうだ。彼女の言動には、一貫した目的がある。この館の宿泊客を混乱させ、互いを疑わせ、その隙に自らが漁夫の利を得るという、あまりにも明確な意志が。  あの冷徹さは、ただ用心深いというだけではない。それは、この悲劇の渦中にいながら、自らを安全な場所から見下ろす、観客……いや、脚本家の視点だ」  ユンフェイの言葉に、騎士はもはや反論できなかった。かつて共に戦った仲間。信じたい。  だが、彼が見てきた数々の事実が、ユンフェイの指摘する真実の輪郭を、残酷なまでにくっきりと描き出していた。 「……わかりました」  騎士は、覚悟を決めた。騎士の脳裏には、かつて共に戦ったエリスの、勝ち気で、しかし仲間思いだった笑顔が蘇る。信じたい。  だが、今の彼女は、あまりにも違う。エリスを信じるためにも、彼女の真意を、その仮面の奥にあるものを確かめなければならない。 「やりましょう」  差し出されたユンフェイの硬い手を、騎士は強く握り返した。  その時、トイレの個室から、スッキリした顔でズバモンとドラコモンたちがでてきた。  目の前で固い握手を交わす二人のパートナーの姿を見て、何が起こっていたのか分からずに、ただ不思議そうに顔を見合わせるだけだった。  共通の敵を討ち、失われた仲間の想いに報いるための「同盟者」として、騎士と剣士は、今、ここに固く結束したのだ。  密約を交わした2人は、それぞれ自室へと戻り、これからの計画を練ることにした。  まずは、エリスの動向を注視し、ティンカーモンの絵が示す「秘宝の道」を解き明かすこと。  そして、イレイザーが現れた時に、確実に仕留めるための罠を準備すること。やるべきことは、山積みだった。  6.8:『食べるということ』  昼食の時間を告げる鐘が鳴り響く。しかし、食堂にレイラの姿はなかった。  あの後、出口に近い談話室へと閉じこもってしまったきり、一度も姿を見せていないという。 「私が様子を見て、食事を届けてきましょう」  心配したゴッドドラモンが席を立とうとしたのを、騎士が静かに制した。 「いえ、私に行かせてください」 「おお、ナイト! なら俺も行くぜ!」 「僕も! 僕も行きます! 彼女をここに誘ったのは僕なんですから!」  ズバモンとワイズモンが、口々にそう言う。騎士は2人を伴い、レイラがいるであろう談話室へと向かった。  やはり、彼女はそこにいた。暖炉の前、一番大きなソファの隅で、スナリザモンに寄り添われながら、ただ小さく膝を抱えている。  騎士たちの気配に気づいても、彼女は顔を上げない。その瞳は虚ろに炎を見つめたまま、ぴくりとも動かなかった。  騎士は、何を言うべきか一瞬ためらったが、回りくどい言葉は今の彼女には届かないと判断した。  彼は意を決してレイラの前にゆっくりと腰を下ろし、まっすぐに彼女を見据えた。 「レイラさん、俺は貴方を放ってはおけない。貴方が1人で、過去と戦おうとしているのが分かったからだ」  その言葉に、レイラの肩がびくりと震えた。その虚ろな瞳が、かすかに騎士を捉える。 「……戦う? 笑わせないで。私はただ逃げているだけ。臆病で、仲間を見捨てた人間のクズよ。あなたたちみたいな、眩しくて正しい人とは違うの」  声は、乾ききっていた。自嘲と諦観だけが、その響きに含まれている。 「正しい人間なんて、この世界にいるのか?」  騎士の声は、静かだった。だが、その言葉には、彼自身の葛藤と痛みが滲んでいた。 「俺だって、自分の信条を曲げて、今ここにいる皆を利用しようとしている。  ユンフェイさんも、過去の自分に縛られて、剣を握る意味さえ見失いかけていた。  誰もが完璧じゃない。傷だらけで、間違いだらけだ。……あんただって、そうなんだろ?」  騎士は、そこで一度言葉を切ると、より深く彼女の魂の奥底へと踏み込んだ。 「俺は赤城さんのファイルで……貴方がこれまで、どんなことをしてきたのか……その一部を知った」  その言葉は、ナイフのように鋭く、しかし騎士の声はどこまでも穏やかだった。  レイラの顔から、サッと血の気が引いていくのが分かった。軽蔑される。罵られる。そう覚悟したように、彼女は顔を伏せ、唇を固く噛みしめた。  だが、騎士が続けた言葉は、彼女の予想を完全に裏切るものだった。 「貴方のしていた数々の悪事は許されることじゃないかもしれない。でも、あんたがスナリザモンと出会って、必死で変わろうとしていることも俺は知っている。  その罪の重さをすべて1人で背負って、それでも立ち上がろうとするのは、『逃げ』なんかじゃない。それは……誰にも真似できない、本物の『強さ』だ」  その、思いがけない言葉。 「強さ」と、彼女がもっとも自分から遠いと信じていた言葉が、騎士の口から紡ぎ出された瞬間、レイラの心の奥で凍りついていた何かが、音を立ててひび割れた。 「やめて……」  絞り出すような声が、彼女の唇から漏れた。 「そんな言葉、気休めにもならない……。あなたに、私の何がわかるっていうの……!」  突き放すような言葉とは裏腹に、彼女の瞳からは、堪えきれなくなった涙が大粒となって次々とこぼれ落ちていく。  その時、レイラの膝の上で心配そうに様子をうかがっていたスナリザモンが、彼女の濡れた頬を、ぺろり、と優しく舐めた。 「ああ……うう……!」  レイラは、嗚咽を抑えることができなかった。 「私に……私にそんな資格なんて……!」 「レイラ……僕を育ててくれたママ……泣かないで……」  スナリザモンが、必死に主を慰めようとする。その健気な姿が、レイラの心の最後の堤防を決壊させた。 「私には……私にはそんな資格、ない……!」 「違う! 資格なんて、誰かが与えるものじゃない。あんたが自分で決めるんだ!」  騎士が、強い声で彼女の自己否定を断ち切る。 「スナリザモンが、あんたを『ママ』と呼んで、信じている。それ以上の資格が、どこにある!?」  レイラは、スナリザモンの温もりと、騎士の力強い言葉に心が引き裂かれるような痛みを感じていた。 「でも……! どうすればいいのですか……。私がここにいるだけで、この子を危険に晒しているのです!  私が犯してきた罪の報いが、いつかこの子に向かうのが、怖くて、怖くてたまらない……!」  彼女の叫びは、談話室の静寂に悲痛に響いた。 「私が死んで償えるなら、それでもいい。本当に……。でも、この子だけは……スナリザモンだけは、生き延びてほしいんです……!  何も知らずに、ただ私を信じてくれた、この優しい子だけは……!」  彼女は震える手でスナリザモンを、壊れ物を抱くように、最後の宝物を守るように力強く抱きしめた。  それは、すべてを失いすべてを捨てた悪女が、最後に手にした唯一にして最大の、母性という名の魂の祈りだった。  その、あまりにも痛切な光景を、ワイズモンは、これまで黙って見ていた。  彼は、ゆっくりと、しかし確かな足取りで近づくと、食事の乗ったトレイをそっと暖炉の前のローテーブルに置いた。 「レイラさん」  彼の声は、いつもの軽薄さが嘘のように、静かで、そしてどこか達観した響きを持っていた。 「僕もさ、デジタルワールドをあちこち旅してきたけど、マジで酷いもんすよ。見てらんないくらいにね」  ワイズモンは、暖炉の炎を見つめながら、遠い目をした。 「明日の食い扶持のために、昨日まで笑い合ってた仲間同士で牙を剥き合う奴らもいた。  自分の子供にほんの少しのデジタケを食わせるために、自分より遥かにデカい相手に挑んで、無様に喰われていった親代わりのデジモンも見た。  それでもさ、みんな、死ぬためじゃなく、『生きる』ために戦ってたんすよ。  泥水啜って、プライドも何もかも捨てて、それでも『生きたい』って、喉が張り裂けるくらいみっともなく叫んでた」  彼の言葉の1つ1つが、旅の中で見てきたであろう無数の生と死の記憶に裏打ちされ、重く、そして深くレイラの心に染み渡っていく。 「あんたはまだ、何も捨ててないじゃないすか。その手で、まだこの子を守れる。その足で、まだ明日へ歩ける。  どんな悪事だって死んで償えるなんて思うのはね、一番楽で、一番卑怯な逃げ道っすよ。  一番キツくて、一番尊いのは、その重い罪を全部背負ったまま、それでもみっともなく生きて、守りたいものを、命がけで守り続けることっしょ」  ワイズモンは、ふっと息をつくと、トレイの上からスープの入ったカップを手に取り、レイラに差し出した。 「だから、食べましょうよ、レイラさん。これはただの飯じゃない。生きるための、この子を最後まで守り抜くための、『誓い』なんすよ」  彼の視線が、騎士へと向けられる。 「僕も一緒に誓うっすよ。騎士さんもお願いします。僕らが、あんたたち2人を、絶対に死なせねぇっていう誓いをね」  ワイズモンの力強い言葉と、彼の旅人としての揺るぎない覚悟。そして、それを静かに、しかし強く肯定するように頷く騎士。  レイラは、目の前にいる二人の覚悟と、腕の中で温かい命を震わせるスナリザモンの存在を感じていた。  涙でぐしゃぐしゃになった顔をゆっくりと上げる。  その瞳にはまだ深い絶望の色が残っていたが、その奥の本当に深い場所に、か細くも確かな再生の光がゆらりと灯り始めていた。  彼女は震える手でゆっくりと、その温かいスープカップを受け取った。 Chapter7:『龍珠の在処、魔女の正体』 7.1:『全員での謎解き』  ベーダモンが片付けを始める食堂の喧騒を背に、生き残った者たちは吸い寄せられるように談話室へと集まっていた。  壁の暖炉では相も変わらずデジタルの炎が音もなく揺らめいている。  しかし、その柔らかな光も温もりも、氷のように冷え切った彼らの心を溶かすには至らない。  ソファの配置はバラバラだった。誰もが、隣に座る者の体温すら信じられず、無意識のうちに距離を取っている。  皆で自己紹介をし合った1日目を思い出す。  ティンカーモンがいた席、赤城が論文を広げていた席、そして、ソク師範が豪快に笑っていた席。  その空席が放つ静かな圧力は、生き残った者たちの胸を重く締め付け、修復不可能な亀裂の深さを物語っていた。  その死んだように淀んだ沈黙を破ったのはユンフェイだった。  彼は静かに立ち上がると談話室の中央、暖炉の前へと歩み出た。  その瞳から、絶望の色は消え失せていた。そこに宿るのは悲しみを燃やし尽くした後に残る、静かで、しかし決して消えることのない復讐の蒼い炎だった。  彼は懐から一枚の紙片を、まるで聖別された遺物のように丁寧に取り出すと、ローテーブルの上にゆっくりと広げた。  ティンカーモンが遺した拙いクレヨンの絵。そのカラフルで無邪気な線は、この陰鬱な空間においてあまりにも痛々しく場違いだった。 「どうか、皆の力を貸してほしい」  ユンフェイの声は、驚くほど落ち着いていた。だが、その響きの奥には決して折れることのない鋼のような意志が貫かれている。 「この絵は、ティンカーモンが我々に遺してくれた最後の道標だ。彼女が何を想い、何を見つけたのか。  このままでは彼女の想いは、この館の闇に葬り去られてしまう。それだけは……それだけは、絶対に避けたい」  そう言うと、彼は、その場の全員に向かって深くそして丁寧に頭を下げた。  プライドの高い剣士が見せた初めての懇願。それは失われた小さな魂に報いるための、聖なる祈りのようでもあった。  その行動に、最初に動いたのは騎士だった。  彼は、当然のようにユンフェイの隣に立つ。それは、言葉以上の雄弁さで、彼らの間に結ばれた固い同盟をその場の全員に示していた。 「私にも……できることがあるのなら」  か細い、しかし確かな声が続いた。  レイラが、ワイズモンとスナリザモンに背中を押されるように、おずおずと輪に加わろうとしている。  昨日の絶望から、彼女はまだ完全には抜け出せていない。だが、その瞳には、ここで立ち止まってはいけないという新たな決意の光が灯っていた。  ワイズモンもいつもの軽薄さを抑え静かに頷いている。 「ふん。時間の無駄ね」  壁際に寄りかかっていたエリスが、冷ややかに言い放った。 「子供の落書きに、どんな意味があるというの」  だが、その言葉とは裏腹に、彼女の視線はテーブルの上の絵に釘付けになっていた。  秘宝。その在処に近づけるかもしれないという抗いがたい誘惑。  彼女は、あくまで渋々といった体を装いながらゆっくりとテーブルへと近づいていく。  彼女の足元で、フローラモンがどこか悲しげに主人の横顔を見上げていた。 「ふーん、面白そうじゃん。ティンカーモンちゃんのお絵描きクイズってわけね!」  唯一、ディエースだけが、場の緊張感を気にも留めず、楽しげな声を上げた。 「アタクシ、こーゆーの得意かも! アタシも混ぜて!」  彼女の能天気な明るさは、この歪な状況をさらに際立たせるスパイスのように響いた。  最後に、これまで黙って事の推移を見守っていたゴッドドラモンが、重々しく口を開いた。 「……この館に、秘宝などありえないと、そう思っておりましたが……」  彼は、深く、長い溜息をついた。 「もはや、常識で計れる事態ではないようですな。わかりました。この青嵐の館の主として、皆様の調査に協力しましょう。  私も、あの健気な妖精殿が何を伝えようとしていたのか、知る権利と義務がある」  それぞれの思惑、疑念、そしてわずかな希望が渦巻く中、ティンカーモンが遺した一枚の絵を囲み、奇妙でそして危険な共同捜査が、静かにその幕を開けたのだった。 7.2:『騎士と剣士の密議』 「どうか、皆の力を貸してほしい」  皆の前で深く頭を下げるユンフェイの姿を、騎士は静かに見つめていた。  彼のその行動が、ただティンカーモンの死を悼む悲しみからだけではないことを、この中で知っているのはおそらく自分だけだろう。  その懇願は、無力な者たちの同情を引くための演技ではない。  これから始まる謎解きを、真犯人を炙り出すための冷徹な「罠」へと変えるための、宣戦布告なのだ。  騎士の意識は、昼食の鐘が鳴り響く、ほんの数十分前へと遡っていた。    ☆  2階の男子トイレは、不気味なほどに静まり返っていた。  残されたのは、騎士とユンフェイ、そして手洗い場の大きな鏡に映る、2人の強張った表情だけだった。  陶器の冷たさが、張り詰めた空気をさらに冷やす。  先に沈黙を破ったのは、ユンフェイだった。彼は蛇口から流れる水で手を洗いながらも、その視線は鏡の中の騎士から一瞬たりとも外れていなかった。 「奇妙だと思わないか」  その声は、水音に掻き消されそうなほど静かだったが、含まれた鋭さは騎士の鼓膜を明確に捉えた。 「なぜ、犯人はこれほど回りくどい手を使う? 我々を1人ずつ、じわじわと消していくことに、何の意味がある。  もしこの館の機能を停止させ、我々を無力化することが目的ならば、真っ先に狙うべきはただ1人。この館の絶対的な心臓部、ゴッドドラモン殿のはずだ」  ユンフェイは、濡れた手を拭うこともせず、騎士に向き直った。  その瞳には、ティンカーモンを失った悲しみとは質の違う、冷徹な分析者の光が宿っている。 「それをしない理由……考えられるのは2つだ」  彼の問いに、騎士は静かに頷いた。自分もまた同じ疑問にたどり着いていたからだ。 「第1の可能性は、単純にゴッドドラモンが強すぎること。四大竜の一角だ。  いくらデジモンイレイザーとはいえ、単独で、しかも彼の本拠地で仕留めるのは容易じゃない」  騎士は、赤城のファイルを思い返す。  イレイザーは圧倒的な力を見せつける一方で、時に慎重に行動する側面もある。  いささか楽観的すぎるが、強大な敵との直接対決を避けている可能性は十分にあった。 「そして、第2の可能性」  騎士は、より確信に近い声で続けた。 「犯人は俺達を生かしておく『必要』がある」  騎士は、ユンフェイの瞳をまっすぐに見つめ返す。 「赤城さんのファイルにありました。ソク師範は、この館に隠された秘宝を執拗に探していたと。  そして、その情報を最初にこの場に持ち込んだのは、エリスです。  もし犯人もまた秘宝の正確な在処を知らないとしたら?  目的を同じくする我々を、自分よりも先に秘宝を見つけさせるための都合の良い『探索の駒』として、泳がせているとしたら?」  その推理は、この館で起きたすべての不条理な出来事を、1つの歪な線で結びつけた。  宿泊客同士を疑心暗鬼に陥らせ、互いを潰し合わせる。その混沌の裏で、犯人は安全な場所から、我々が秘宝へとたどり着くのを待っている。 「……なるほどな」  ユンフェイの口元に、自嘲ともとれる笑みが浮かんだ。 「我々は、まんまと踊らされているというわけか」  彼は、鏡に映る自分の顔を睨みつけた。絶望に沈んでいた愚かな自分。その背後で高笑いする、見えざる敵の姿が目に浮かぶようだ。 「ならば、騎士。我々が取るべき道は、もはや1つしかあるまい」  ユンフェイの声から、迷いは完全に消え去っていた。 「我々が筋書き通りに秘宝を見つけ出す。その時、犯人は必ずその姿を現すはずだ。それが我々の手の中に転がり込んできた瞬間に……そこを、叩く」  それは、あまりにも危険な賭けだった。自らが餌となり、猛獣を誘い出すに等しい。  だが、この膠着した状況を打破するにはそれしか道はなかった。 「これはもうただの謎解きじゃない」  騎士は、覚悟を決めた。 「ティンカーモンの想いを継ぐと見せかけて、犯人を追い詰めるための罠だ」  その言葉に、ユンフェイは静かに頷いた。 「ああ。……彼女の無念は、俺が晴らす」  鏡の前で二人の剣士は固い握手を交わした。    ☆  テーブルに広げられた拙い絵と、それを囲む、疑心暗鬼に満ちた宿泊客たち。  ユンフェイの「力を貸してほしい」という言葉が、まったく別の意味を持って、騎士の耳に響く。  そうだ。これから始まるのは、ティンカーモンを弔うためのものではない。  この狂った舞台の脚本家を、舞台そのものへと引きずり出すための、最後の芝居の幕開けなのだ。  騎士は、心の中で静かに、そして強く呟いた。 (さあ、始めよう) 7.3:『秘宝の発見』  談話室は、奇妙な熱気に包まれていた。それは希望などという生易しいものではない。  疑い、焦り、そしてわずかな好奇心が混じり合った、不健康で粘つくような熱気だった。  テーブルに広げられたティンカーモンの絵を、誰もが食い入るように見つめている。 「まず、この絵で明らかに不自然なのは3点だ」  ユンフェイが、集団を導く指揮官のように、冷静に口火を切った。  彼の指が、クレヨンで描かれた歪な館の各所を、ゆっくりと指し示していく。 「第1に、この巨大すぎる風車。第2に、軒先から異常な数、ぶら下がっている風鈴。  そして第3に、本来なら角ばっているはずのマザー・クリスタルが、滑らかな球体として描かれていることだ」  彼の指摘に、一同は改めて絵を検分する。確かに、その三点は子供の拙さを考慮しても、意図的なデフォルメのように見えた。 「もしかして……その絵、館のエネルギーの流れを示してるんじゃない?」  静観を決め込んでいたエリスが、まるで今気づいたかのように、独り言めいた声で呟いた。  その声は、控えめでありながら、確実にその場の全員の思考を1つの方向へと誘導していく。 「私も独自に調べていたのよ。この館の動力源は、ロビーの水晶だけじゃない。  展望室の風車や、至る所に設置された風鈴からも、微弱なエネルギーを収集している。  そのエネルギーの流れを、あの妖精は私たちとは違う『何か』で感じ取り、絵にしたとしたら……?」  そのもっともらしい仮説に、ワイズモンが飛びついた。 「マジっすかエリスさん! だとしたら、僕の出番じゃないすか!」  彼は、いつもの軽薄さを取り戻したかのように宙をくるりと回り、その分厚い本を開いた。 「この絵からは、微弱な魔力が……いや、魔力じゃない。ティンカーモンちゃんの、純粋な『想い』のエネルギーが残留してるんすよ!  彼女がこの絵に込めた、強い願いが!  この想いを触媒にして、僕の魔術で館のエネルギーと同調させれば、あるいは……!」  ワイズモンはそう言うと両手から淡い光を放ち、絵に向けてかざした。  彼の持つ魔術的な力が、ティンカーモンの想いを解き明かす鍵となろうとしていた。 「待って、ワイズモン」  エリスが、冷静に、しかし有無を言わせぬ響きで制止する。 「貴方だけでは、魔力が拡散して正確な探査は不可能よ。フローラモン、貴女も手伝いなさい」  エリスの命令に、フローラモンは躊躇いがちに一歩前に出た。その隣でウィッチモンに進化すると、ワイズモンの補助に回る。  同じウィッチェルニー出身デジモン同士、2人の魔力は、まるで失われた片割れを見つけたかのように共鳴し、増幅されていく。  魔術師たちが生み出した光の渦が、ティンカーモンの絵と、ゴッドドラモンが展開した館の構造ホログラムをゆっくりと包み込んでいった。  そして、2つのイメージが完全に重なり合った瞬間、誰もが息を呑む光景が目の前に広がった。  ティンカーモンが描いたあの歪な線。  それは、昨日、ティンカーモンが天竜の間で見た異常な歪みと、寸分の狂いもなく完全に一致していたのだ。  展望室の真下に描かれた大きすぎる風車は、そこで異常なエネルギーが集中していることを。  軒先から無数に垂れ下がる風鈴は、そのエネルギーが館の各所へと分散、あるいは屈折していることを。  そして、球体として描かれたマザー・クリスタルは、その全ての歪なエネルギーが最終的にロビーの中央、ただ1点へと集約されていることを示していた。  ティンカーモンは、理屈ではなく純粋な感性でこの館の真実の姿を捉え、それを我々に伝えようとしていたのだ。 「……見つけた」  ウィッチモンの声が、勝利を確信したかのように静かに響いた。 「全てのエネルギーが集約される場所……ロビーのマザー・クリスタル!  あそこで、ティンカーモンの想いを触媒に、正しい手順で操作を行えば必ず秘宝への道が開かれるはずよ」  彼女の言葉はこの混沌とした状況の中で、唯一にして絶対の真実のように響き渡った。  その瞳の奥に、誰にも気づかれぬよう、一瞬だけ、捕食者のような冷たい光が宿ったのを、騎士は見逃さなかった。  騎士は、高鳴る心臓を抑えながらこの物語のクライマックスが近いことを確信した。  ロビーの中央、マザー・クリスタルが放つ青と緑の光が、集まった者たちの強張った顔をぼんやりと照らし出していた。  ティンカーモンの絵から導き出された「エネルギーの歪み」という、あまりにも不確かで、しかし唯一の手がかり。  それを前にエリスがまるで舞台監督のように、冷静な声で次の段取りを告げた。 「エネルギーの異常が示された以上、このクリスタルを使って館全体を精密にスキャンするのが最も合理的ね。  物理的な捜索では見つけられない微細な反応を捉えられるはずよ」  その提案にゴッドドラモンは静かに頷いた。もはや彼の瞳に秘宝の存在を疑う色はない。  この混沌に終止符を打つためならば、どのような手段も厭わないという館の主としての覚悟が決まっていた。 「……承知しました」  彼は深く長く息を吸い込むと、自らの両掌をゆっくりとマザー・クリスタルへと翳した。  誰もが派手な光や轟音が鳴り響くものと身構えたが、変化は驚くほどに静かだった。  ただ、クリスタルの内部で脈打っていた光の螺旋が、わずかにその速度を速める。  シン、とロビーの空気が張り詰めた。  まるで、病院で重病患者の手術の成功を祈る家族のように、誰もが一言も発せず固唾をのんでゴッドドラモンの手元を見つめている。  やがて、クリスタルの表面から青白い光で描かれた館全体の立体ホログラムが、ゆっくりと空間に投影された。  それは寸分の狂いもない、精巧な建築模型。  ゴッドドラモンは、ティンカーモンの絵が示したエネルギーの歪みを基準データとして入力し、極めて微弱な、しかし特異なエネルギー反応のサーチを開始した。  ホログラム上を小さな光点が、まるで意志を持った蛍のようにゆっくりと移動し始める。  それは病室のモニターに映る生命の波形のように、静かで重い緊張感を伴っていた。  光点は、まず5階のトレーニングルームをなぞる。  次に4階へ。ユンフェイとエリスの部屋の上で、光が僅かに揺らめいた。2人の呼吸が、一瞬だけ止まる。  だが、光点はすぐに安定を取り戻し、何事もなかったかのように隣の部屋へと移動していく。  安堵のため息を漏らす暇もなく、光は3階へと下りてきた。  レイラ、騎士、ディエース、そして今は無人となったソク師範と赤城の部屋。  光点は、1つ1つの部屋を丹念になぞるように通り過ぎていく。  誰もが自分の部屋がスキャンされるたびに無意識にこわばっていた肩の力を抜いた。  やがてその微弱な光点が、まるで迷子の子が母親を見つけたかのように1階のロビーへと向かってきた。  ホログラムの中心、今まさに自分たちが立っているこの場所へと。  そしてホログラム上の騎士がいる座標で、光点はピタリ、と動きを止めた。  まるで心臓のように、トクン、トクンと、一定のリズムで静かに、しかし力強く明滅を繰り返している。 「……足元に、あるのか?」  誰かが呟いた。騎士は、自らの足元を見下ろしたが、そこには磨かれた黒曜石の床があるだけだ。  まさか。  騎士が確かめるように1歩、横にずれる。  その動きに寸分の狂いもなくホログラム上の光点もまた騎士を追ってスライドした。  もう一度、今度は後ろに下がってみる。光点は影のようにぴったりと後を追ってくる。 「…………馬鹿な」  ゴッドドラモンの口から信じられないものを見るかのような乾いた声が漏れた。  彼はスキャン結果を何度も確認し、やがてその厳めしい顔を絶望と驚愕に歪ませながら、静かに、しかし決定的な事実を宣告した。 「この微弱なエネルギー反応……ティンカーモン様が見つけた秘宝とされるそのエネルギー源は……」  竜神の視線がロビーにいる他の誰でもなく、騎士へと突き刺さる。 「……騎士様。貴方の体内にあります」  静まり返ったロビーに、その言葉だけが重く響き渡った。  全員の視線が一斉に騎士へと集中する。  当の騎士自身が、何が起きているのか、何かの悪い冗談ではないかと、ただ呆然と立ち尽くしていた。  時が止まったかのような静寂を破ったのは、ディエースの、ハッとした叫び声だった。  彼女は、血相を変えて指を差した。その指はゴッドドラモンでもなくクリスタルでもなく騎士の腹部を捉えていた。 「あーまさか……! 昨夜、あの自動調理器から出てきた虹色の飴玉……!!」  その一言で、忘れかけていた記憶のピースが、パチリと音を立てて嵌まった。  秘宝『刻の龍珠』は誰にも気づかれぬまま騎士の体内に取り込まれていたのだ。 7.4:『時を喰らう災厄の残滓』  ディエースの叫びが、凍りついたロビーの空気を揺さぶった。  虹色の飴玉。  騎士は、自分の喉がごくりと意思に反して動いたあの時の感触を生々しく思い出す。  まさかあの時飲み込んでしまったものが、みんなが求めていた秘宝だったなんて。  その信じがたい事実に誰もが言葉を失う中、ワイズモンだけが凄まじい勢いでその分厚い本をめくり始めた。  彼の顔から、いつもの軽薄な様子は完全に消え失せ、学者のような真剣さとそして何かを恐れるかのような焦りの色が浮かんでいる。 「ありえない……! そんなはずは……でも、このエネルギーパターン、この時空の歪み間違いなくアレだ……!」  彼は、本の特定のページで指を止めると恐怖に顔を歪ませながら叫んだ。 「そいつは『秘宝』なんかじゃない! 災厄そのものだ! このパターンは……終末の千年魔獣ズィードミレニアモンのものだ!」  ズィードミレニアモン。  その名がロビーに響き渡った瞬間ゴッドドラモンの表情が驚愕から畏怖へと変わった。  デジタルワールドで、その伝説の魔獣の名を知らぬ者はいない。  時と空間を自在に操り、過去と未来を破壊し存在するだけで世界の理を歪める災厄。 「どういうことですかワイズモン様。かのズィードミレニアモンが出現し倒された記録など千年はありませんぞ!」  ゴッドドラモンの問いに、ワイズモンは必死に自らの知識のページをめくりながら自らの推論を語り始めた。  その声は、恐怖にわずかに上ずっていた。 「僕も本を介して時と空間を超えることができると言われるデジモンですがね。  ズィードミレニアモンは時と空間そのものを内包するデジモンっす!  だから何度倒されたとしても、その存在が完全に消えることは絶対にない! 絶対にどこかで復活する!  きっと、どこかの次元……遥かな過去か遠い未来。  あるいは僕らが知らない別の並行世界(レイヤー)で倒されたズィードミレニアモンのほんの僅かなデータの残滓がこの場所に引き寄せられたんすよ!」  ワイズモンの指が、館の構造図の一点を指し示す。 「この『青嵐エリア』は常に破壊と再生を繰り返す、このデジタルワールドの中でも極めて特異な場所。  当然、時空間に対してもその特異性を発揮し、それが時空を彷徨う災厄の欠片を呼び寄せる磁石になってしまったんす!」 「そして、その残滓を偶然取り込んでしまったのが、あの自動調理器……無から有を生み出す錬金術の釜だったってことね!」  ディエースが最後のピースをはめ込む。全ての謎が、恐るべき形で繋がった。  古代のオーバーテクノロジーである調理器が、時空の果てから漂着した災厄のデータを「素材」として認識、凝縮し、そして「料理」として物質化させてしまった。  それが、虹色に輝く飴玉『刻の龍珠』の正体。  自動調理器の故障も、ソク師範やエリスが執着した秘宝の伝説も、すべてはこの時空を超えた災厄の欠片が引き起こしたものだったのだ。 「……だからか」  騎士は、自分の両手を見つめながら、呆然と呟いた。 「俺は昨日から幻覚を見るようになった。ユンフェイさんがデジタルワールドへ来たときの出来事を……。  レイラさんの罪と後悔の記憶を……。まるで自分がその場にいて体験したみたいに……」  その告白を聞いたワイズモンは、「やっぱりそうだ」と力なく呟いた。 「人間である騎士さんじゃ時空を操るズィードミレニアモンの力を取り込んでも完全には制御できない……。  その結果、不完全な形で他人の強い記憶や感情を媒介にして、『精神だけが過去へとタイムリープ』してしまう状態になってるんすよ!  言わば暴走した人間タイムマシンだ!」 「そのまんまじゃ、少年はどうなっちゃうのよ?」  ディエースが、いつもの軽口とは違う、本気で心配するような声でワイズモンに尋ねた。  ワイズモンは、ゆっくりと自身の分厚い本に視線を落とす。その顔には、どこか自らを語るような複雑な影が落ちていた。 「僕もまた本を用いて時を渡るデジモン。その知識を使い日記や歴史書を媒介にすれば、今は失われた土地を歩き過去の英雄とだって言葉を交わせる。  でもね、それは同時にとても危険な行為なんすよ。過去に深く干渉すればするほど、自分自身の時間がどこにあるのかを見失っていく。  僕が今ここにいるという確固たる感覚が少しずつ薄れていってしまうんです。そして最後には時を見失った迷子になる。だから僕は自分の足で旅してるんす」  彼は再び騎士へと視線を戻した。その瞳には、深い同情の色が浮かんでいる。 「騎士さんの場合、制御できてない分、もっと深刻だ。  ユンフェイさんやレイラさんの過去を体験して、『自分は彼らじゃないか』って思った瞬間があったはずっしょ。  それが続けば、どうなるか……。いつか自分自身が誰だったのか、本当の自分の記憶がどれだったのか分からなくなる。  色んな人格と記憶がごちゃ混ぜになって、魂そのものが摩耗し最後には空っぽの器になっちまう」  その言葉は、ディエースが抱える「記憶喪失」という現実とあまりにも残酷に重なった。  ワイズモンは続ける。 「ズィードミレニアモン自身でさえ、唯一無二の宿敵と定めた、たった1人の人間を楔(くさび)とすることで、かろうじて自我を保っていた。  それでも宿敵の前に時を超えて現れる度に、その性格はまるで別人のように違っていたと言われているくらいだ。  ……騎士さん、今のアンタにはその楔すらない」  騎士の背筋を、冷たい汗が伝った。  空っぽの器。ワイズモンの言葉は、騎士がこれまで漠然と抱いていた不安に、恐ろしいほどの具体的な輪郭を与えた。  確かに、ユンフェイの絶望を追体験した時、自分もまた「持たざる者」の劣等感に飲み込まれそうになった。  レイラの罪に触れた時、その重さに押しつぶされ、自分自身が許されない存在であるかのような錯覚に陥った。  あれは、ただの共感じゃない。他者の記憶が、自分の魂を侵食してくる抗いがたい感覚。  このままでは、本当に自分という存在が、誰かの記憶の寄せ集めの中に溶けて消えてしまうかもしれない。  両親の顔も友達と遊んだ思い出もズバモンとのことすら忘れて。  その恐怖に、騎士は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。 「もし……もし、それをデジモンが取り込んでいたらどうなっていたの?」  それまで黙って聞いていたフローラモンが、鋭いそしてどこか期待を込めたような声で問いかけた。  ワイズモンは、ごくり、と唾を飲み込み最悪の可能性を口にした。 「もし相性の良いデジモンが取り込んでいれば……。  過去を幻視するだけじゃない。本当に過去へと跳び歴史を自在に改変する……そんな神にも等しい力を手に入れていたかもしれません」  過去を改変する力。  その言葉は、この場にいる者たちの心に、様々な形で深く突き刺さった。  ユンフェイの瞳に、現実世界で味わった屈辱と兄たちへの劣等感の記憶が蘇る。  レイラの胸に、見捨てた仲間たちの顔と取り返しのつかない罪の重さがのしかかる。  そして、エリスの隣に立つフローラモンの心には……。  過去を変えることができたなら。あの過ちさえなければ。  最後の引き金は、その言葉によって、静かに引かれてしまったのだった。 7.5:『魔女の裏切り』  静寂が、鉛のように重くロビーに沈殿していた。  ワイズモンが放った「過去を改変する力」という言葉。  それは、この狂った館に囚われた者たちの、心の奥底に眠るもっとも純粋で、もっとも醜い欲望を揺り覚ます悪魔の囁きだった。  過去さえ変えられるのなら。あの過ちさえなければ。  その甘美な毒は、もっとも純粋な魂から蝕み始めた。 「お願い……!」  悲痛な声が張り詰めた空気を切り裂いた。  声の主はフローラモンだった。  エリスの傍らで静かに佇んでいたはずの彼女が、まるで目に見えない力に突き動かされたかのように、1歩、また1歩と騎士へと近づいていく。  その瞳からは堰を切ったように大粒の涙がとめどなく溢れ落ち、花弁のような瑞々しい頬を濡らしていた。  彼女は、騎士の前で力なく膝をつくと震える両手を祈るように組み合わせた。 「お願い騎士……! その力をエリスに渡してあげて……!」  その懇願は、愛する者を救いたいという、ただひたむきな魂の叫びだった。 「その力さえあればきっと……! きっとエリスを、昔の……昔の、優しいエリスに戻せるかもしれないの……!  強がりだけど、本当は誰よりも仲間思いで……! 私が少し怪我しただけでも自分のことみたいに心配してくれて……!」  フローラモンの言葉は途切れ途切れだった。嗚咽が言葉を紡ぐよりも先に喉を塞いでしまう。  騎士も、ユンフェイも、レイラも、そのあまりにも痛切な姿にかける言葉を見つけられずにいた。 「お気持ちは痛いほど分かります。フローラモン様」  そのあまりにも残酷な静寂を破ったのは、ゴッドドラモンの威厳に満ちた、しかし非情な声だった。  スキャン結果が表示されたままのマザー・クリスタルのホログラムに視線を落とし、揺るぎない事実を宣告する。 「しかし、もはや手遅れです。スキャン結果によれば、『刻の龍珠』……ズィードミレニアモンの欠片は、すでに取り込んだ騎士様と、データ構造上の癒着を始めています。  いわば、心臓そのものになったのも同然。以下な名医であろうと、もはや取り出すことは……不可能でしょう」  竜神が下した、絶対的な診断。  フローラモンの顔から、か細い希望の光が消え、絶望がその美しい顔を覆い尽くした。 「そんな……。じゃあ、私達はどうしてこんなところまで……」  崩れ落ちるように彼女は床に突っ伏した。その小さな背中が絶望に打ち震える。  しかし、その隣でずっと黙って成り行きを見つめていた主人は違った。  ゴッドドラモンの非情な宣告を、エリス・ローズモンドは、まるで遠い国の天気報を聞くかのように、何の感情も浮かべずに聞いていた。  そして、フローラモンが絶望に泣き崩れるその横で、ゆっくりと、本当にゆっくりとその顔を上げた。  その瞬間、騎士は背筋に氷の刃を突き立てられたかのような悪寒に襲われた。  エリスの青い瞳からはあらゆる感情の色が抜け落ちていた。  そこにあるのは、冷徹な計算と目的を遂行するための無機質な意志だけが宿るガラス玉のような空虚な輝き。 「そう」  彼女の唇から漏れたのは、たった一言。 「生きて取り出すのは、でしょう?」  その言葉がロビーに響き渡った瞬間、ユンフェイが「しまっ……!」と叫びデジヴァイスICに手を伸ばした。  だが、それよりも早く、エリスは動いていた。  彼女が右手を振り抜くと、その手にはすでに青く輝くディーアークが握られている。 「カードスラッシュ!!」  左手で抜き放ったカードが、ディーアークのスリットを駆け抜けた。 「──《フリーズ!!》ッ!!」  叫び声と共に、絶対零度の光がディーアークから放たれ、ロビー全体を包み込んだ。  青白い閃光が視界を焼く。  時間そのものが、凍りついたかのように周囲のすべてが停止する。  驚愕の表情を浮かべたまま硬直するユンフェイ。声を上げようとして開きかけたディエースの口。  危険を察知し、騎士の前に飛び出そうとしたズバモンの宙で止まった前足。  天井から舞い落ちる光の粒子までもが、その動きを止めまるで星空を閉じ込めたガラス細工のように、静止した空間に煌めいていた。  意識はある。だが、指一本、動かせない。  絶対的な拘束。それは死よりも恐ろしい無力感だった。  その中で、自由に動ける存在がいた。  カードを行使したエリス、そして彼女のパートナーであるウィッチモン。  フローラモンは、いつの間にか魔女の姿へと進化を遂げ、その手に風を切り裂くための箒を握りしめている。 「ごめんね……」  ウィッチモンの声が静止した空間に悲しく響いた。  その魔女の瞳には、かつての戦友を手にかけなければならない、深い、深い苦悩が滲んでいる。 「ごめんね、騎士くんっ! エリスのために、今は死んでッ! 過去を変えたら……きっと助かるから!」  彼女は、悲痛な叫びと共に、その箒を天に掲げた。  緑色の魔力が螺旋を描きながら箒の先端に集約され、荒れ狂う風の刃へと姿を変えていく。  ウィッチモンの必殺技『バルルーナ・ゲイル』だ。  凄まじい風圧が、身動きの取れない騎士の髪を激しく揺らす。  次の瞬間、凝縮された風の塊は、空間そのものを切り裂くかのような轟音と共に一筋の巨大な刃となって放たれた。  全てを薙ぎ払い塵へと還す破壊の嵐が、絶対的な沈黙の中、騎士へと迫る。  回避不能。防御不能。  それはあまりにも一方的で、そして美しい処刑の光景だった。 7.6:『凶刃は真相と共に忍びよる』  無数の風の刃が、すべてが静止した牢獄の中で、身動きの取れない騎士の体に深々とそして無慈悲に突き刺さった。  抵抗する間もなく、騎士の体は内側から弾けるように崩壊を始めた。  肩が、腕が、胸が、光の粒子となってキラキラと舞い上がる。  それはまるで朝日を浴びて消えていく夜露のように、儚く、そしてあまりにも美しい光景だった。 (ナイトーーーーーッ!!)  ズバモンの魂からの慟哭だけが、意味を持たない音の塊となって虚しく響き渡った。  その無残な光景に、ユンフェイの瞳から光が失せ、レイラの唇からは声にならない絶望が漏れる。  誰もが、目の前で起きているあまりにも一方的な殺戮に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。  やがて、騎士の姿は完全に掻き消えた。  光の粒子が最後の煌めきを放ち、静寂に溶けていく。  ただ、その中心に美しい虹色の光を放つ小さな球体、すなわち『刻の龍珠』だけがあった。  まるで宇宙の星雲をそのまま閉じ込めたかのように、妖しく、そして蠱惑的に、それはロビーの中央に静かに浮かんでいた。 「これで……」  エリスの乾いた唇から、勝ち誇った声が漏れる。 「過去は、私たちのものよ!」  彼女は恍惚とした表情でその球体へと手を伸ばし、確実な手応えと共に、長年渇望し続けた災厄の力をその掌中に収めた。  ロビーには、彼女の冷たい勝利宣言だけが響き渡った。  しかし、その瞬間だった。  彼女の手の中の龍珠が、チカ、チカ、と不規則に明滅し始めた。まるで出来の悪い玩具のように。  そして、ポンッ! という間の抜けた、場違いな音と共に、それは爆発した。 「なっ……!?」  爆発から噴き出したのは、破壊の光でもなければ、絶望の闇でもない。  大量の、ただの煙。そして、パーティーで使うような、キラキラとした色とりどりの紙吹雪だけだった。  掌に残ったのは、空虚な感触と、拍子抜けするほどの安っぽいきらめきだけ。秘宝の輝きは、どこにもない。 「!? これは一体……!?」  エリスが、信じられないものを見る目で自分の掌を見つめ、呆然とする。  その濃密な煙の中から、まるで舞台の緞帳が上がるかのように、1つの影がゆっくりと姿を現した。  本物の騎士がそこには立っていた。 「秘宝を見つければ犯人が動くことは、予測できていた」  静寂を支配する、騎士の冷徹な声。それは、魔女の短い勝利の余韻を、容赦なく打ち砕いた。 「……なぜ生きているの。確かにこの手で……」  愕然とするウィッチモンに、騎士はこの壮大な欺瞞の舞台裏を淡々と語り始めた。 「ワイズモンに頼んだんだ。『犯人は秘宝を見つければ必ず動く。力を貸してほしい』と。  俺は幻視したレイラさんの過去からワイズモンは犯人ではないと判断できたからな」  騎士の視線がワイズモンを一瞥する。その瞳には共犯者への確かな信頼の色が宿っていた。 「俺はディーアークで、事前にワイズモンに1枚のカードを使っていた。デジタルワールドの忍術の奥義が記された《秘伝忍法帖》のカードをな。  この効果を完璧に使いこなせるのは、イガモンやコウガモンのような生粋の忍者デジモン、そして……時を操る賢者の名を冠するワイズモン。  それだけじゃない。俺はワイズモンにディーアークとカードを託した。  お前が《フリーズ》を使ったあの瞬間……ワイズモンは、このトリックの最後のピースとなるもう1つのカードを密かに使っていた」  そう言いながら騎士は1枚のカードを見せる。 「《エイリアス!》のカード。対象の情報を複製し、実体を伴わない分身(エイリアス)を生成する、基本的なオプションカードだ。  ワイズモンは自らが持つ『時空間を超える力』と、《秘伝忍法帖》で得た『忍術』の知識を融合させた。  そして、お前の《フリーズ!!》の中でも唯一動ける特殊な『時空間忍術』を発動させていた。  ワイズモンが作った偽の俺と、本物の俺の位置を一瞬にして入れ替えたんだろう。  お前が殺したのもその手で掴んだはずの龍珠も……最初から、実体のないただの幻だったのさ」  すべての種明かし。それは、緻密な計算と仲間への絶対的な信頼なくしては成り立たない奇跡の逆転劇。  エリスは、息を呑んだ。まさか、あの飄々とした賢者が自分たちの計画の遥か上を行く策士だったとは。 「そんな……馬鹿な……!」  彼女が狼狽する中、騎士は、最後の一撃を放つ。その指先は、今や迷うことなく、愕然とするエリスを真っ直ぐに指し示していた。 「お前が犯人だ。そうであってほしくなかった……エリス」  騎士は、かつての戦友への複雑な思いを滲ませた。  その視線は、もはや怒りや憎しみではなく、ただ深い、深い悲しみに満ちている。  すべてを暴かれた。自らが仕掛けたはずの舞台の上で、いつの間にか道化を演じていたのは自分だったのだと、エリスはようやく理解した。  その瞬間、彼女の精神を繋ぎとめていた最後の糸が、プツン、と音を立てて切れた。 「あ……あはは……あはははははははははははははっ!」  狂気的な高笑いが、ロビーに響き渡る。 「そうよ! その通りよ、騎士! 私が! 私こそが、デジモンイレイザー様と木竜将軍のために働く魔女よ!」  開き直った彼女は、すぐさま次の行動に移った。《フリーズ!!》の効果が、まだ完全に解けてはいない。  騎士とワイズモン以外の者は、まだ金縛りにあったままだ。  そのほんの僅かな時間の隙を突き、最も近くにいて、最も無防備で、もっともか弱く見えた存在の元へと一瞬で駆け寄った。  ディエースの首筋に、腰のポシェットから素早く取り出した黒い物体を、容赦なく突き立てる。  チリチリ、と青白い火花が散った。 「実は私も魔法が使えるの。『雷魔法』スタンガン!」  悪辣なジョークと共に、ディエースのしなやかな体は悲鳴を上げる間もなく、ぐにゃり、とその場に崩れ落ちた。  やがて、永遠に続くかと思われた《フリーズ!!》の効果が切れ始め、ユンフェイやゴッドラモンの体が、ゆっくりと動き出す。  エリスは意識を失ったディエースを、まるで使い古した雑巾のように無造作に引きずると、そのか細い首に、冷たい刃物を当てて見せた。 「さあ、お遊びは終わりよ」  追い詰められた魔女の瞳が、狂気と勝利の輝きに満ちて、騎士たちを嘲笑う。 「この女がどうなってもいいのかしら?」 7.7:『鉄槌の宣告』  ユンフェイは、憎悪と怒りに顔を歪ませながら、しかし迂闊に動けない。騎士もまた、エリスがこれほどまで躊躇なく暴挙に出るとは予測できず、その場で身動きを封じられていた。  ズバモンが低い唸り声を上げ、ドラコモンもまた警戒に牙を剥く。  だが、か弱い人間を人質に取られた状況では、その圧倒的な力もただの重荷でしかなかった。  完全に場の主導権を握ったと確信したエリスは、しかし油断なく次の手を打った。  この均衡を、永遠に固定するために。 「あなたたちの切り札は、デジモンの持つ『進化』という奇跡。でも、奇跡なんて簡単に摘み取れるものよ」  彼女はディエースの体を無造作に盾にしながら、もう片方の手でディーアークを構えると、まるで手品師のように滑らかな手つきでカードを抜き放った。 「木竜軍団の基本戦術は、進化の封殺よ!」  その声は、甲高く、そして勝利の愉悦に震えている。 「カードスラッシュ、『エボリューションリミッター!』  瞬間、ロビー全体を覆うように、緑色の光で編まれた巨大な網が不可視の檻となって展開された。  それは、デジモンたちの進化の可能性そのものを縛り上げる、無慈悲な楔。  ズバモンやドラコモンたちの体が、一瞬ぐらりと揺らめいた。  彼らの内に秘められた、次なる段階への道が音もなく強制的に閉ざされたのだ。  成熟期以下のデジモンたちは、もはやただの子供同然。その事実が彼らの闘志を根底からへし折っていく。 「これで、お喋りは終わり。私たちの要求は1つ。騎士、今すぐ死んで刻の龍珠を渡しなさい。  どうせ、過去を変えれば貴方は死ななかったことになるのだから」  勝ち誇る魔女たち。それは完璧な王手に見えた。  この場の完全体以上のデジモンは、進化を封じられていないワイズモンと、そしてゴッドドラモンだけだ。 「──浅慮、ですな」  ゴッドドラモンは腕を組んだまま、静かにそしてゆっくりとエリスを見据えていた。  その表情には狼狽もなければ怒りもない。ただ絶対的な上位者が、足元で騒ぐ虫けらを見下ろすかのような底なしの侮蔑だけが浮かんでいた。 「まさか、貴方のような小娘の小細工がこの私に通用するとでも?」  その言葉の意味を、エリスが理解するよりも早く、ゴッドドラモンは、その右掌をゆっくりと、床のマザー・クリスタルへと翳した。 「皆様。どうかお休みください」  その声は、ロビーにいる者たちの耳に直接響くようだった。  穏やかでありながら、決して抗うことのできない神の勅令。 「この舘の、いや世界の秩序を乱す者を排除するのに、お客様の手を煩わせる必要もございません。私だけで十分です」  瞬間、マザー・クリスタルが、これまでとは比較にならないほどの神々しい光を解き放った。  青と緑の光の奔流が、ロビー全体を飲み込んでいく。視界が急速に白く染まり、あらゆる音、あらゆる感覚が純白のノイズの中に掻き消されていった。  目眩にも似た強烈な浮遊感の後、まだ霞む視界を無理やりこじ開ける。  そこは、部屋ではなかった。空間だった。  足元には、天の川のように無数の星が流れる広大な銀河が広がっている。  頭上を見上げれば赤や青、紫の星雲がまるで生きているかのように、ゆっくりと荘厳に渦を巻いていた。  上も下も右も左もない。絶対的な無重力空間。ただゴッドドラモンの絶対的な意志だけが、この世界の法則を支配していた。 「ここは……」  ユンフェイが呆然と呟く。 「『竜天回廊』……。四大竜の試練が行われる聖域だ……!」  ここはゴッドドラモンがその力を最大限に発揮できる彼自身が生み出した神の法廷そのものだった。 「ようこそ。我が聖域へ」  無重力空間に、ゴッドドラモンの声が荘厳に響き渡った。  その黄金の巨躯は、銀河の光を浴びて神々しく輝き、もはや単なる館の主ではない世界を司る絶対者としての威容を放っている。 「エリス・ローズモンド。そして、それに加担する愚かなデジモンよ」  彼の視線が、エリス、ウィッチモン、そして騎士たち1人1人を、まるで罪人を検分するかのようにゆっくりとなぞっていく。 「我が秩序を乱す罪は重い。人質もろとも、聖なる炎で浄化してあげましょう」  その宣告には慈悲などという感情は欠片もなかった。  彼が守るべきは個々の命ではない。この世界を成り立たせる、揺るぎない「秩序」という概念そのもの。  そのためには、1人の女の命も、それを守ろうとする者たちの想いも、等しく取るに足らない犠牲なのだとその瞳は冷徹に物語っていた。 「正気か!? ディエースごと殺すだと!?」」  ユンフェイが、信じられないものを見る目で叫んだ。  レイラもまた恐ろしさ「ひっ」と短い悲鳴を上げて、スナリザモンにしがみつく。  ワイズモンは、そのあまりの非情さに、ただ青ざめることしかできない。  彼らが必死の思いで築き上げた竜神への僅かな信頼はもはやない。  目の前にいるのは、秩序という名の狂気に憑かれた、ただの怪物だった。  だが、エリスだけは、その竜神の宣告を、表情1つ変えずに聞いていた。 「……人質が通用しないことは、想定済みよ」  彼女の口元に、微かな笑みさえ浮かんでいる。  ゴッドドラモンの非情さすら、彼女の計算の内だったのだ。 「ウィッチモン! やるわよ!」 「はい、エリス……!」  主人の冷たい決意に応え、ウィッチモンが悲壮な覚悟をその瞳に宿す。  彼女の体が再び進化の光に包まれ、その姿を、より強大でより戦闘的な形態へと変えていった。  現れたのは、花の姿をした魔女オウリアモン。  進化を封じられた他のデジモンたちとは違い、完全体へと進化した彼女は、この神の法廷で唯一、竜神に対抗しようという存在だった。  エリスは、意識を失ったディエースの体を無造作に引きずると、その柔らかい肉体を盾にするように、オウリアモンの前に構えた。 「ゴッドドラモン。本当に撃てるのかしら? この無関係な人間ごと、ね」  それは、悪魔の挑発だった。どちらがより非情になれるかという、冷たい心理戦。  その狂気の駆け引きに、騎士は、もはや我慢ならなかった。 「やめろぉぉぉっ!!」  彼の足は、魂は、すでに走り出していた。守るべきはディエース。  そして、どうしようもなく歪んでしまったが、それでもかつて背中を預け合った戦友であるエリスもまた、彼が守りたい対象なのだと本能が叫んでいた。 「ナイト!」  ズバモンもまた、主人の無謀な決意に応えその小さな体で必死に後を追う。 「愚かな……」  騎士のその行動は、ゴッドドラモンの逆鱗に触れた。 「ならば望み通り消えるがいい。秩序に抗う意思そのものが罪なのです!」  もはや、言葉は不要。ゴッドドラモンは、その両掌に、宇宙のすべての光を吸い込むかのように、聖なるエネルギーを凝縮させ始めた。  銀河が震え、星雲が捻じ曲がるほどの圧倒的な力。 「破壊せよ『ゴッドフレイム』ッ!!」  解放された浄化の光が、全方位へと炸裂した。  それは、もはや炎ではなかった。存在そのものを根本から消し去る、絶対的な破壊の奔流。  空間が灼熱に染まり、星々がその光に焼かれ、悲鳴を上げて消えていく。 「「カードスラッシュ!!」」  絶体絶命の、その瞬間だった。  騎士とエリス。二人の声が、奇跡のように、竜天回廊の轟音の中で重なり合った。  言葉を交わしたわけではない。視線を合わせたわけでもない。  だが、絶望的な状況を覆すための唯一の活路は、かつて共に戦った者たちには、痛いほどに分かっていた。  それぞれのディーアークから、青白い輝きを放つカードが同時にスラッシュされる。 「「《アイスウォール!!》」」  2人の想いに応え、騎士とエリスの前方に、二重の巨大な氷の壁が、地を裂くように隆起した。  だが、その防御も、竜神の絶対的な力の前にはあまりにも脆かった。 『ゴッドフレイム』が接触した瞬間、分厚い氷壁はまるで真夏の雪のように一瞬で蒸発していく。  防ぎきれない。  凄まじい熱波と衝撃波が、二重の防御を突破し、容赦なく騎士たちへと襲いかかる。 「ぐっ……ああああああっ!!」  騎士は、アームズモードへと移行させたズバモンを盾に必死にその身を守ろうとする。  だが、竜神の力はその矮小な抵抗を嘲笑うかのように彼を木の葉のように吹き飛ばした。  意識が急速に遠のいていく。  薄れゆく視界の中でも騎士は、ディエースを庇おうとした。  全身を打ち付け、骨が砕けるかのような激痛。灼熱の空気が肺を焼き、呼吸すらままならない。  銀河の光が万華鏡のように乱反射し視界をぐちゃぐちゃにかき混ぜる。  そして、その混沌とした意識の深淵で騎士の体内にある『刻の龍珠』が、これまでとは比較にならないほど、激しくそして歓喜に満ちた脈動を始めた。 7.8:『木竜軍団の襲撃』  騎士は脳を直接鷲掴みにされるような、強烈な痛みを覚えていた。  ユンフェイやレイラの時とは違う。  抗いがたい奔流が騎士の脆い精神の壁をいとも容易く食い破り、その意識を時空の彼方へと引きずり込んでいく。     ☆  デジタルワールドの幾多のエリアを結ぶ道が交わる一点。  そこに、『星脈の交易所』と呼ばれる拠点はあった。  あらゆる種族のデジモンが往来し、活気に満ちた市場が形成されたその場所は、一体のデジモンによって統治され鉄壁の秩序と繁栄を築き上げていた。 「おい、そこのお前。そのフロッピーの仕入れ値はせいぜい200ビットだ。  300で売ろうなどとは片腹痛い。手数料を差し引いて純利益は50がいいところだ。それで手を打て」  玉座に似た豪華な椅子にふんぞり返り、鋭い眼光で市場を睥睨するのはデーヴァ(十二神)の一角、竜に似た姿の完全体デジモン、マジラモン。  彼はあらゆる事象に値段をつける癖があった。  友情の価値、信頼の重さ、そして命の尊さまでも彼は独自のレートで弾き出す。 「この交易所全体の価値、〆て5000万元。悪くない投資だった」  計算高く、自らの利益にならなければ指一本動かさない強欲な支配者。それがマジラモンの表の顔だ。  しかし、彼が何よりも価値を置いていたのは、まだ成熟期にも満たないデジモンたちだった。 「未来への投資だ。こいつらが大成すれば、この交易所はさらに5000万、いや1億元もの価値を生み出す金の卵になる」  そう嘯きながらも、彼の目は未来を担う子供たちに注がれその支援を惜しまなかった。  無論、それは若きデジモンテイマーたちに対しても同じである。  人間の子どもたちがそのパートナーデジモンと共に齎す未来への可能性には、予測もできない価値がある。  彼のがめつさは、この楽園を守るための盾であり、その性格の悪さは、外敵を寄せ付けないための牙でもあった。  だが、その盤石に見えた繁栄に暗い影が差し迫っていた。デジモンイレイザーの尖兵としてデジタルワールドの侵略を進める木竜軍団。  その長である木竜将軍ドラグーンヤンマモンにとって、この独立した交易網は喉に刺さった骨だった。 「目障りなあの金の亡者を排除し、我がイレイザー軍の兵站拠点とする」  ドラグーンヤンマモンは冷徹に命じた。  副将であるデュアルビートモンに主力部隊を預けて交易所を正面から叩かせ、自らは遊撃部隊を率いて周囲の回廊を封鎖。  星脈の交易所は瞬く間に陸の孤島と化したのである。 「智謀、雷光の如く冴え渡り、武威、竜巻の如く荒れ狂るう。これが木竜軍団の信条。遊雷魔将デュアルビートモン、いざ参る。  ……さて、マジラモンはどう動きますかな?」  警報がけたたましく鳴り響き交易所の平和は無慈悲に引き裂かれた。  空を覆うのは、無数の昆虫型デジモンの軍勢。木竜軍団の侵攻が始まったのだ。 「敵部隊、ヤンマモン系とカブテリモン、クワガーモンの甲虫系が主体の編成。指揮官は……あのデジモンね」  城壁の上で、エリス・ローズモンドは冷静に戦況を見つめていた。  彼女の隣には、パートナーであるフローラモンが寄り添う。 「エリス、防壁の東側が手薄よ! フライモンとモスモンの群が来てる!」 「ケンとガルルモンを回して! 都市のデジモンたちには西の防衛を維持するように伝えて!」  エリスは、スマホに表示される戦況図を睨みつけながら、的確に指示を飛ばす。  しかし、数で勝り統率の取れた木竜軍団は、それでもなお優勢を崩さない。  ヤンマモンの飛行部隊とクライモンの攻城部隊が、エリスの元へと襲いかかる。 「フローラモン、お願い」 「ええ、エリス!」  エリスのD-アークが光を放ち、フローラモンのデータが書き換えられていく。 「フローラモン、進化! ――ウィッチモン!」 「さらに……超進化! ――オウリアモン!」  光が収束し、そこに現れたのは巨大な食虫植物のような姿を持つ完全体デジモン、オウリアモン。  その全身から発せられる甘い香りは、昆虫型デジモンにとっては死への誘いであった。 「さあ、おいでなさい可愛い虫さんたち。私ったらとってもお腹が空いているのよ」  オウリアモンは、女性的な優雅さとは裏腹に冷酷な捕食者として君臨する。 「『リーフレッド』!!」  彼女が両手の毒葉を振るうと、それは無数の刃となって飛翔し、木竜軍団の兵卒たちを次々と切り裂き貫いていく。  甘い香りに誘われたデジモンは、その美しい花の顎に捕らえられ養分とされる。 「敵前衛を撃破。……それでも指揮官は後方で動かない……不自然だわ」  エリスは双眼鏡で敵陣の奥を見据える。そこに立つのは紳士然とした佇まいの虫デジモン、デュアルビートモン。  彼は一切動じることなく、ただ自軍の兵士が食い散らかされていくのを眺めていた。  その不気味な冷静さにエリスは言い知れぬ不安を覚えていた。  木竜軍団による襲撃が始まってから三日が過ぎた。戦況は膠着していた。  交易所を守るテイマーたちの活躍、とくにエリスのオウリアモンの存在が、昆虫型デジモンで構成された木竜軍団にとって天敵として機能し戦線を支えていた。  しかし、デュアルビートモンは焦る素振りも見せず、その慇懃無礼な笑みを崩さなかった。  彼の策謀は、すでに交易所の内部で静かに進行していたのだ。 「僕たちにも、もっと力があれば……! 進化さえできれば……!」  交易所で暮らす成長期のデジモンたちは、自分たちの無力さを嘆いていた。  マジラモンやエリスたちに守られているだけでは駄目だ。自分たちもこの故郷を守るために戦いたい。  その純粋で切実な願いが悪魔の囁きに耳を貸す隙間を生んでしまった。  数日前から村に出入りしていた行商人の恰幅の良い男が、彼らに囁いていた。 「戦うための力が欲しいのですかな? これはお前たちを守るためのすごいアイテムですぞ……」  その男が差し出したのは接種すれば進化を果たす貴重なアイテム。  強さへの渇望はやがて警戒心を上回った。 『ギザギザはさみ』と『重い兜』を彼らは買ってしまった。  そして、三日目の戦いが始まった。木竜軍団はアトラーカブテリモン、オオクワモンを始めとする完全体以上のデジモンを複数投入してきた。  これまでの戦いは前哨戦に過ぎなかったのだ。  木竜軍団の本腰を入れた猛攻に昨日までは優勢を保っていた防衛線が押されていく。  苦戦する戦局を変えようと、1体、また1体と成長期のデジモンたちが禁断のアイテムに手を伸ばしていく。  その瞬間、悲劇の幕が上がった。 「グオオオオオッ!」  純粋な願いは、おぞましい絶叫に変わる。愛らしい姿は捻じ曲がり、硬い甲殻と鋭いハサミ、巨大な角を持つ異形の姿へと変貌していく。  クワガーモン、そしてカブテリモン。かつての仲間たちは、忌むべき敵へと姿を変えその眼に理性の光はなかった。 「策は成りました。さあ、我が同胞よ。偽りの平和に巣食う者共を排除なさい」  デュアルビートモンの命令一下、クワガーモンとカブテリモンたちが、昨日までの仲間に、家族に牙を剥いた。阿鼻叫喚の地獄絵図。 「な……に……?」  城壁からその光景を見ていたエリスは、言葉を失った。そして裏切りの刃は防衛の要であるオウリアモンに向けられた。 「みんな……どうして……!?」  オウリアモンの悲痛な叫びが響き渡る。  昨日まで「お姉ちゃん」と慕ってくれていた幼いデジモンたちが、今は憎悪の形相で襲いかかってくる。  守るべき対象であったはずの彼らが、もっとも忌み嫌うべき敵の姿となり牙を剥く。  その悪夢のような光景に、オウリアモンの戦意は急速に削がれていった。  甘い香りは悲嘆に変わり、捕食者の牙は鈍り、毒葉の刃は震えていた。  エリスもまた目の前の惨劇に立ち尽くしていた。信じていた者たちからの裏切り。守ろうとした対象からの攻撃。  彼女の冷静な分析力は、この理不尽な現実の前では何の役にも立たなかった。  それは他のテイマーたちも同様であった。後方からの予期せぬ奇襲、挟み撃ちは彼等を追い詰めた。  交流を深めたデジモンたちを攻撃することをためらう者が居た。心の優しき彼は真っ先に倒された。  非情の決断を取った者がいた。心を殺して戦った彼女は、無数の敵に飲まれた。  ただ泣きじゃくる者がいた。心は折れていたが、逃げ出すことも叶わない。  共に防衛に回っていたデジモン達も後方から巻き起こる混乱の中で次々に消えていった。 「……価値、暴落だな」  玉座で戦況を見つめていたマジラモンが、苦々しく呟いた。  彼が未来への投資と信じた「金の卵」たちは、今やデュアルビートモンの手によってこの交易所そのものを破壊するだけの怪物に変えられてしまった。  城壁が崩れ市場が焼かれ、彼が築き上げた「5000万元の価値」が音を立てて瓦解していく。 「戦況は決まったようですな。マジラモン殿、我ら『木竜軍団』は寛容です。降伏すれば決してあなたに手出しは致しません」 「これまで、か」  これ以上の損失は彼の計算が許さなかった。マジラモンは重い腰を上げ、デュアルビートモンの前に進み出た。 「わかった。降伏だ。我は軍門に下ろう。その代わり、これ以上の破壊活動はやめていただきたい。  そちらとしても価値の無くなったこの都市など欲しくはありますまい。取引成立、でいかがかな?」  デュアルビートモンは紳士的に一礼する。 「では、そういうことで。ああ、約束通り『木竜軍団』は手を出しませんが……貴方の民たちはどうでしょうかね?」  デュアルビートモンの言葉を信じたのが、マジラモンの最後の計算違いだった。  彼が降伏を受け入れた瞬間、デュアルビートモンは操っていた虫デジモンたち――元・交易所の住民たち――に、一斉に攻撃を命じた。 「!?」  約束が違う、と叫ぶ間もなかった。  無数の刃と角が、無防備なマジラモンに殺到する。  尻尾や髪を変化させて宝矢(パオスー)を放つ暇も、54万元の破壊力を持つ必殺技「ヴェーダカ」を放つ隙も与えられなかった。 「我が……5000万……元の……」  巨体がゆっくりと崩れ落ち、その命の輝きが消えていく。彼が最も大事にしていた者たちによって。  血飛沫とデータの霧。その光景が、スローモーションのようにエリスの目に焼き付いた。  希望は、完全に潰えた。信じる心は、利用されるためにある。絆は、裏切られるためにある。  平和は、より大きな絶望を生むための、ただの前戯に過ぎない。  未来を育もうとする意思はこうして蝕まれた。 『星脈の交易都市』は、本当の意味で終わってしまった。 「貴方には苦戦させられました。我が策で兵力を増やすはずが、差し引き0になってしまいましたよ。埋め合わせをしてもらわないと」  瓦礫の中に立ち、血の気を失った顔で、エリスはゆっくりとデュアルビートモンに向き直った。  その瞳からは、かつての輝きも、今の絶望の色さえも消え失せ、ただ空虚な闇が広がっていた。 「どうです? これからは貴方もデジモンイレイザー様のために働くというのは?」  デュアルビートモンは、捕らえた彼女のパートナーを足蹴にしながら彼女を誘う。  その問いかけに選択肢など無かった。 「……わかりました。貴方達に従います」  か細く、しかしはっきりとした声が、静まり返った戦場に響いた。  デュアルビートモンは、勝利を確信して歪んだ笑みを浮かべた。 「賢明なご判断です、ミス・エリス。歓迎しますよ、我が『木竜軍団』へ」  この日を境に、エリス・ローズモンドという少女は死んだ。冷静でありながらもその奥に優しさを秘めていた少女はもういない。  代わりに現れたのは誰にも心を開かず、ただ冷徹な命令を遂行するだけの氷のような瞳を持つ人形。  彼女の傍らには、パートナーであるフローラモンが静かに佇んでいた。  エリスを絶望の淵に立たせ、降伏させてしまった無力感。  守るべきだったはずの者たちが敵となり、敬愛する主を殺めた光景。  そのすべてがフローラモンの心に深い負い目と、決して消えることのない憎しみを刻み込んだ。  今はただ闇に染まったエリスの心に寄り添うしかない。だが、フローラモンは誓った。  いつか必ず、この屈辱を晴らす。  エリスの心を絶望から救い出し、あの慇懃無礼な虫けらを我が花弁で八つ裂きにするその日まで。  冷え切った少女の隣で、復讐の炎だけが静かに燃え続けていた。     ☆  灼熱の奔流が過ぎ去り、すべてを飲み込むはずだった純白の光が薄れていく。  誰かが必死に自分の名を呼ぶ声が、遠い水底から響くように騎士の意識を引き戻した。  ゆっくりと瞼を開けると、そこには、涙を浮かべながらも必死に騎士を介抱するズバモンとレイラの姿があった。  スナリザモンもまた、その小さな体で必死に騎士の頬を温めようとしている。 「……騎士さん、しっかりしてください! 大丈夫ですか!?」  その声が、脳裏に焼き付いて離れなかった絶望の記憶を洗い流していくようだ。  騎士は、ゆっくりと身を起こした。  星脈の交易所で見た裏切り、マジラモンの無残な死、そしてすべてを失い復讐の化身と化すしかなかったフローラモンの孤独な背中。  それら全てがもはや他人の記憶ではなく、自分の痛みとしてその魂に深く、深く刻み付けられていた。  エリス。  彼女もまた、守るべきものを理不尽に奪われ、その心を踏みにじられた被害者だったのだ。 「……ありがとう、レイラさん」  騎士は、絞り出すようにそういうと、この運命が狂ってしまった物語に終止符を打つという揺るぎない決意と共に静かに立ち上がった。 Chapter8:『最後の審判』 8.1:『狂気の円舞(ルナティック・ロンド)』  騎士はゆっくりと顔を上げた。灼熱の奔流が残した熱の残滓が、無重力の空間に揺らめいている。  銀河は静寂を取り戻していたが、その静けさは墓標のように冷たく、重い。  騎士の視線が、混沌の爪痕が生々しく残る回廊をゆっくりとなぞっていく。  その視線が最初に捉えたのは、この神の法廷の主、ゴッドドラモンの姿だった。  彼は、自らが放った破壊の奔流の中心に、何事もなかったかのように静かに佇んでいた。  黄金の巨躯は、銀河の光を浴びて神々しく輝き、その表情からは、強大な力を行使したことによる消耗の色さえ読み取れない。  ただ、その瞳だけが自らの聖域を穢し秩序を乱した愚かな者たちへの冷徹な怒りを燃やしていた。  絶対的な上位者。その揺るぎない存在感が、この空間のすべてを支配していた。  次に映ったのは、気を失ったまま宙に浮かぶディエースの姿だった。  彼女の赤いボディスーツは所々が焼け焦げその傍らでユンフェイが苦悶の表情を浮かべながら彼女の体を支えている。  彼の纏う漢服もまた衝撃波でズタズタに引き裂かれていた。あの瞬間、ユンフェイは自らの身を挺してディエースを守ったのだろう。  その献身的な行動が、騎士の胸をわずかに締め付けた。  少し離れた場所では、オウリアモンがその巨大な花弁のような翼で、主であるエリスを庇うように覆いかぶさっていた。  オウリアモンの体には生々しい火傷の痕が無数に刻まれ、その美しい花弁は端々が黒く炭化している。  彼女は苦しげに息を吐きながらも、その瞳はただひたすらに、腕の中で震える主人へと向けられていた。  その光景が、先ほどまでの激戦が、夢などではない紛れもない現実であったことを物語っていた。  騎士は、幻視で見た記憶を反芻する。  星脈の交易所で、彼女が味わった絶望。信じていた者たちからの裏切り、守るべきだったはずの統治者の無残な死。  そして、すべてを失い木竜軍団に降りながらも復讐の化身となるしか生きる術を見つけられなかった孤独な少女の姿。  エリスもまた、被害者なのだ。この狂った世界の理不尽さに、その心を根こそぎ踏みにじられた、1人の少女。 「ユンフェイさん、ディエースを頼む」  騎士は、憎悪と怒りに顔を歪ませるユンフェイに静かに声をかけた。  ユンフェイは、何も言わずに一度だけ強く頷くと、ディエースを抱えたままゆっくりと後方へと下がる。  その瞳が、騎士に「後は任せた」と、無言で告げていた。  騎士は、エリスへと歩み寄った。1歩、また1歩と、無重力の空間を蹴る。その足取りにもはや迷いはない。 「エリス、もうやめよう」  その声は、驚くほど穏やかだった。だが、その響きの奥底には、彼女の罪も、悲しみも、すべてを受け止めるという、鋼のような覚悟が宿っている。 「俺は、星脈の交易所で君に何があったのかを知った」  その思いがけない言葉。騎士が自らのもっとも深い傷に触れた瞬間、エリスの肩がびくりと、しかし微かに震えた。  彼女を覆っていたオウリアモンもまた、驚きに花弁を開く。エリスはゆっくりと顔を上げた。  その青い瞳に浮かんでいた氷のような仮面がほんの少しだけひび割れたように見えた。 「君を絶望させたのは、木竜軍団のデュアルビートモンだ。彼の策略が、君からすべてを奪った。ならばその怒りの矛先を向けるべきは、俺たちじゃないはずだ」  騎士の言葉は、熱を帯びていく。それは、単なる同情や憐憫ではなかった。かつて背中を預け合った戦友の魂を、絶望の淵から引きずり出すための、必死の叫びだった。 「君の復讐に俺たちが手を貸す。デュアルビートモンだけじゃない。君の世界を壊したデジモンイレイザーそのものを、俺たちが一緒に討つ。  だから……だから、もうイレイザーの支配から逃れるんだ! エリスお前は、こんなことをするような奴じゃないだろ!」  その言葉は心の奥底、硬く閉ざされた記憶の扉を激しく叩いた。  そうだ、復讐。忘れていたわけではない。心の奥底で、ずっと燻り続けていた。  あの慇懃無礼な虫けらへの骨の髄まで焼き尽くすような憎悪。仲間を、マジラモン様を、そしてエリスの誇りを踏みにじった、あの男……! 「エリス……」  オウリアモンが、すがるような声で主の名を呼ぶ。彼女の瞳には復讐の炎がゆらりと灯っていた。  今度こそ、今度こそ2人で、あの屈辱を晴らせるかもしれない。  エリスの表情が、ほんの一瞬、揺らいだ。かつての勝ち気で、仲間思いで誰よりも優しい少女の顔が、氷の仮面の奥から垣間見えたその時だった。 「……ふっ」  エリスの唇から、乾いた息が漏れた。 「あ……あはは……」  それは、か細い笑い声だった。だが、それは瞬く間に制御を失ったかのように大きくなっていく。 「あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははっ!」  理性のタガが完全に外れたかのような甲高く、そして耳障りな狂気の高笑いが、神聖なはずの竜天回廊を冒涜するように響き渡った。 「復讐ぅ~? 馬鹿言わないで」  エリスは恍惚とした表情で天を仰いだ。 「私はね、感謝してるのよ。弱い自分を捨てさせてくれたあのお方に!」  その言葉は、騎士だけでなく、復讐を誓い彼女を信じていたオウリアモンの心さえも容赦なく突き刺した。 「弱い者を踏みつけ、弄び、ただ命令されるがままに破壊する。  何の責任も感じずに、ただ強者の庇護の下で、好きなだけ力を振るえるのよ? こんなに楽しいこと他にないじゃない!」  彼女の告白は、絶望の淵で彼女が見出したあまりにも歪で、そして救いのない真実だった。  支配されることの快感。  強者の意志という免罪符の下で、かつての自分が忌み嫌っていた弱者を虐げるという底なしの愉悦。 「君は……本当に、それでいいのか……」  騎士の声が、絶望に震えた。 「ええ、いいのよ。だって、楽なんだもの。気持ちがいいんだもの」  エリスは、うっとりとした表情で、自分の両手を見つめた。 「だから、私に復讐なんて感情はないの。あるのは、木竜将軍様への絶対的な忠誠と、この素晴らしい世界をもっともっと壊してみたいっていう純粋な好奇心だけ」  彼女はゆっくりと視線を落とし、愕然とするオウリアモンを見下ろした。  その瞳には、かつての愛情など微塵も感じられない。ただ、便利な道具を見るかのような冷たい光が宿っているだけだった。  エリスは腰のポシェットから、禍々しい紫色の輝きを放つ巨大なハサミの形をしたアイテムを取り出した。  それはまるで、悪魔の顎そのものを切り取ってきたかのような、凶悪な造形をしていた。 「さあ、飲み込みなさいオウリアモン。これが、木竜将軍様からいただいた更なる『力』よ。貴女がもっと私の役に立つための素敵なプレゼント」  突きつけられたのは拒絶の許されない最後通牒。そして、後戻りのできない魂の契約書。  それは『悪魔のハサミ』と呼ばれる進化アイテム。デュアルビートモンが星脈の交易所を制した策と同じ、進化の系統樹を無視する悪魔の道具。 「エリス……どうして……」  オウリアモンは、涙を流しながら、変わり果てた主を見上げた。  もう、昔の優しいエリスはどこにもいない。目の前にいるのは、強者の論理に魂を売り渡した見知らぬ怪物だった。  それでも。  たとえ、彼女がどんな道を選ぼうとも。  自分だけは、最後まで彼女の側に。 「……わかりました、エリス」  オウリアモンの声は、絶望に震えていた。だが、その瞳には、エリスへの変わらぬ愛情と自らの運命を受け入れるという悲壮な覚悟が宿っていた。 「エリスがそれを望むのなら……。私は、あなたの剣。あなたの、盾……。たとえこの身が、どんなおぞましい姿に成り果てようと……私はエリスの側に……」  そう呟くと彼女は震える花弁で、『悪魔のハサミ』をそっと受け取り、そして自らの核へとゆっくりと取り込んでいった。  その瞬間、オウリアモンの体を、禍々しい黒のデータがまるで呪いのように侵食し始めた。  食虫花の姿は捻じ曲げられ、苦悶の叫びと共にその輪郭を急速に変えていく。 「グ……オオオオオオオオオッ!!」  進化の光が収まった時、そこにいたのは、もはや花の面影など微塵も残っていない、ただ巨大で、無慈悲な殺戮兵器だった。  鋼のように硬い漆黒の甲殻。あらゆるものを切り裂くために進化した、巨大な顎。  そして、赤い瞳が理性の光を失い、ただ目の前の敵を破壊せよという命令だけを求めて禍々しく点滅している。  究極体、破滅の黒王グランクワガーモン。  復讐を誓った花の化身は、悪に堕ちた主人の手によって、理性を失くした破壊の甲虫へと成り果てた。  その狂気的なまでの主従関係。弱者を弄ぶことに快感を覚えるという歪んだ告白。  そのすべてが、レイラの心に、忘れたいと願っていた過去の自分を鮮烈に映し出した。 「あれは……私だ……」  彼女の唇から、絞り出すような声が漏れる。スナリザモンが、その言葉を聞いて必死に主の腕に擦り寄った。 「違うよ、レイラ! ママはあんな悪いやつじゃない!」  その温かい声がレイラを悪夢から引き戻す。そうだ、違う。私はもう、あの頃の私じゃない。  この子がいる。守りたいと、心から願える存在がいる。  レイラは、過去の自分と決別するために、スナリザモンと共に戦うことを改めて強く心に誓った。 「もはや対話はできませんな」  その狂気の変貌劇を、ゴッドドラモンは冷徹な瞳で見届けていた。 「貴様らは、この世界の秩序を乱すバグに過ぎません。今ここで、完全にデリートしましょう」  竜神の宣告と共に、その両掌から、2つの魂が具現化する。  左の掌からは、破壊のすべてを司る紅蓮の竜『アモン』が。  右の掌からは、再生のすべてを司る蒼雷の竜『ウモン』が。  2体の竜は、主人の怒りに呼応するように雄叫びを上げ、エリスとグランクワガーモンを睨みつけた。 「私も本気を出させてもらうわ」  エリスは、もはや少女の姿ではなかった。彼女もまた、奥の手を発動させる。 「カードスラッシュ、《雷のスピリットH》、《遊のスピリットB》、そして《スピリット進化(エボリューション)!!》」  2つの伝説の魂が彼女の体を包み込み、その姿を、あの慇懃無礼な虫の紳士、遊雷魔将デュアルビートモンへと変えた。  その左手は鋭利な爪へと変貌し、腰からは禍々しい赤いハサミが伸び、背からは虹色の光沢を放つ翅が静かにはためいていた。  胸元のイコライザーが怪しく明滅し、あらゆる感情を音の波形へと変換しているかのようだ。 「では、始めましょうか。最終楽章を」  デュアルビートモンエリスの声と共に、理性を失ったグランクワガーモンが、地を揺るがす咆哮を上げ、ゴッドドラモンへと突進した。  その巨体を、デュアルビートモンの頭部にある3本の角から放たれた高圧電流『トライデントノーツ』が、稲妻の鞭のように幾重にもなって援護する。  羽のスピーカーからは、聴く者の精神を直接蝕むような不協和音が鳴り響き、空間そのものを歪ませていた。  だが、ゴッドドラモンは動じなかった。 「遅い」  彼は、グランクワガーモンの巨大な顎を、掌底の一撃で軽くいなす。  続けて、デュアルビートモンの電撃と音波による波状攻撃を、まるで舞うように最小限の動きですべて回避してみせた。  その体術は、力と技が完璧に融合した、まさに神の領域だった。  彼は、アモンの紅蓮の炎を纏った裏拳をグランクワガーモンの腹部に叩き込み、ウモンの蒼雷を尻尾に宿らせ、鞭のようにしならせてデュアルビートモンを弾き飛ばした。 「この程度ですか。ソク師範を消した貴方達の実力がこの程度のはずがない。彼は実力は確かでしたからね。油断はいたしません」  次元の違う強さ。それが、四大竜と呼ばれる存在の真の実力だった。 「ええ、ええ。そうでしょうね。油断してくれるなら、それに越したことはありませんでしたけれど」  吹き飛ばされながらも、デュアルビートモンエリスは、体勢を立て直し、不気味に笑う。 「木竜将軍様からいただいたとっておきの切り札。アリーナ1位とやらのコピーカード、とくと味わっていただきましょうか!」  彼女が叫ぶと同時に、その手から次々と伝説級のカードがスラッシュされていく。  肉体を限界以上に回復させる《ホーリーセブンズ》のカード。  絶対的な先手を取る《スピードセブンズ》のカード。  体力を攻撃力へと転換する《グランドセブンズ》のカード。  そして、その攻撃力を3倍にまで跳ね上げる《ワイルドセブンズ》のカード。  凄まじい光の奔流が、グランクワガーモンへと注ぎ込まれ、そのポテンシャルを異常なレベルにまで引き上げていく。  騎士は、その光景に戦慄した。噂でしか聞いたことのない幻のカード群。なぜエリスがそれを。 「そして! カードを再使用可能にすることでもう一度繰り返す《リバースセブンズ》!」  悪夢は終わらない。使用したセブンズカードの効果が再びグランクワガーモンを襲う。  回復に回復を重ね、その巨体は傷一つないどころか先ほどよりも強固に。  攻撃力は、もはや計測不能な領域へと達していた。 「仕上げと参りましょう」  デュアルビートモンエリスは、最後の1枚を、まるで断頭台の刃を落とすかのように、ディーアークへと通した。 「カードスラッシュ、《ドラモンキラー》!!」  カードの力が、グランクワガーモンの巨大なハサミに宿り竜の鱗を砕くための禍々しいオーラを放ち始めた。  チート級のコンボで強化され尽くした究極体が、竜殺しの刃を手に再びゴッドドラモンへと迫る。  その必殺の一撃『ディメンジョンシザー』が、ゴッドドラモンの巨体を今度こそ切り裂かんと空間ごと捻じ曲げた。  誰もが、竜神の敗北を確信した。  だが、ゴッドドラモンは、その迫り来る絶望を前に、静かに呟いただけだった。 「実戦は、カードゲームのようにはいきませんよ」  その言葉と同時に、ゴッドドラモンは信じられない行動に出た。  破壊を司る左手の竜アモンに自らの肉体を破壊させたのだ。  グランクワガーモンの刃が届く寸前、ゴッドドラモンの半身が内側から爆ぜるように吹き飛ぶ。  致命傷を負うべき肉体を自ら消し去ることで、ディメンジョンシザーは空を切った。 「なっ!?」  デュアルビートモンエリスが驚愕する、その一瞬の隙。  ゴッドドラモンは、再生を司る右手の竜ウモンの力で、吹き飛んだ半身を何事もなかったかのように瞬時に再生させた。  そして、その勢いのまま聖なる気を全身から炸裂させる。 「終わりにしましょう、『ゴッドフレイム』!!」  2度目の神の炎が直撃する。  それは、カードの効果で強化されたグランクワガーモンでさえ耐えきれるものではなかった。  凄まじい爆炎に包まれ巨体が地に叩きつけられる。 「四大竜たるデジモンが、たかだかその程度の紙遊びに屈するとでも? いくら強き者の戦術を模倣しようと所詮は猿真似。  本来の使い手ならばわかりませんが、これが地力の差というものです」  その圧倒的な光景に、騎士もユンフェイも、ただ言葉を失うしかなかった。  これがデジタルワールドの幾多の竜の頂点に君臨する4体の竜型デジモンの真の力。  自分たちの戦いなどまるで子供の遊びのようだった。  下手に前に出れば足手まといになるだけだ。彼らは、この次元の違う戦いの行く末をただ見守るしかなかった。 「……まだよ」  深手を負い地に伏したグランクワガーモンを背に、デュアルビートモンエリスはそれでも笑っていた。 「これで、終われるはずがない」  彼女は、ゼーハーと荒い息を吐きながら、ゴッドドラモンが切り札を出すのを待っていた。 「この程度で私たちは倒せないわよ。全力を出しなさい」  その挑発に応えるように、ゴッドドラモンは懐から禍々しくも神々しい輝きを放つ『X抗体』を取り出した。 「いいでしょう。望み通り、全力を見せてあげましょう」  彼が、X抗体を自らのデジコアへと取り込もうとした、その瞬間だった。  デュアルビートモンエリスのディーアークが、最後の、そして最凶のカードを吐き出した。 「それを待っていたのよ。カードスラッシュ、《X抗体削除ツール(エックスイレイザー)》!!」  ゴッドドラモンのX進化は、寸でのところで阻止された。X抗体は力を失い、ただのデータの欠片となって霧散する。 「そして、この隙! これが……デジモンイレイザー様から賜った絶対の力!」  エリスがカードスラッシュしたのは《シフトイレイザー》。  その効果によって、先ほどゴッドフレイムに吹き飛ばされ遥か後方にいたはずのグランクワガーモンから『01イレイズ』の光線が放たれる。  それはまるで、ゴッドドラモンの背後に瞬間移動のように出現した。 「しまっ……!?」  完全な不意打ち。回避不能な一撃。 『01イレイズ』の光が、ゴッドドラモンの背中を何の抵抗も許さずに貫いた。 「グ……ア……アア……ッ!」  神の断末魔が、星々の静寂を切り裂いた。  絶対的な削除コマンド『01イレイズ』は、竜神の聖なる肉体を、まるで致命的なウイルスのように内側から侵食していく。  ウモンが必死に放つ再生の蒼雷も、世界の理そのものを書き換える絶対上位権の前では、闇に掻き消える徒花(あだばな)のように無力だった。  体の端から、0と1のデータとなって彼の存在が崩れ落ちていく。圧倒的な力が、いとも容易く、無に還っていく。 「イレイザー様のお力の前では、天竜(ゴッドドラモン)も羽蟲(ティンカーモン)と同じく容易く消え去る」 「まさか……この力は、デジタルワールドの管理者イグドラシルが与える絶対上位コマンド……! なぜ……なぜイレイザー如きが、その御業を……!」  ゴッドドラモンは、自らの死を悟ると同時に、この世界の秩序がすでに根底から崩壊していることを理解した。  秩序とはバランス。悪を育てることもまた自らすべき役目だと彼はソクのようなものを支援した。  だが、デジモンイレイザーとは単なるテロリスト集団ではない。世界の管理者そのものを傀儡とし、その法則さえも弄ぶ神をも喰らう災厄だったのだ。  自らが信じ守り続けてきた秩序。その拠り所たる管理者そのものが敵の手に落ちていたという絶望。  それでも彼の誇り高き魂はまだ折れてはいなかった。  消えゆく意識の中、ゴッドドラモンはもはや声にならぬ意志の力で、右掌に宿る半身へと最後の命令を下した。 (アモンよ……我が破壊の半身よ。我が身はもはや此処まで。だが、我が魂は、我が信じる秩序は、まだ潰えぬ……!)  主の覚悟を感じ取り、紅蓮の竜アモンが咆哮する。それは主との別れを悲しむものではない。  主の最後の意志を遂行できる誉れに打ち震える、戦士の雄叫びだった。 (最後の破壊を、汝に託す。あの災厄の根源を……この世から消し去れ……ッ!)  ゴッドドラモンの最後の意志を乗せ、アモンはその紅蓮の肉体を極限まで燃え上がらせた。  それはもはや炎ではない。破壊を司る竜の魂そのものの輝きだった。  紅蓮の流星と化したアモンは、狼狽するデュアルビートモンエリスが持つ、《シフトイレイザー》のカードそのものへと、一直線に突撃した。  エリスが悲鳴を上げる間もなく、忌まわしきカードは聖なる自爆の炎に包まれ、その理不尽なデータごとこの世界から完全に焼き尽くされ消滅した。 「イレイザー様からいただいた、お力がっ……!!」  四大竜の一角、ゴッドドラモン消滅。  その代償として、最凶の切り札を失ったという事実。  最大の勝利を手にしたはずのデュアルビートモンエリスの顔に浮かんだのは、しかし、征服者の悦びではなく計画が狂ったことへの明確な焦りの色だった。  竜神は死してなお、一矢報いたのだ。  そのプライドと、歪んでいようとも最後まで守り抜こうとした秩序への執念を目の当たりにし、騎士は、そしてユンフェイは言葉もなく静かに武器を構えた。  騎士の胸に宿るのは、もはやエリスへの哀れみだけではない。  ゴッドドラモンが遺した「秩序を守る」という意志。  赤城が命がけで暴こうとした「闇」。  ティンカーモンが純粋な想いで指し示した「道」。  レイラが乗り越えようともがく「過去」。  この館で交錯したすべての魂の叫びが、今や騎士の背中を押し、彼をただの冒険者からこの歪な物語の結末を担う者へと変えていた。  ユンフェイもまた同じだった。彼の瞳にはもはや私怨の炎はない。  ゴッドドラモンの圧倒的な力と、それでもなお届かなかった無念の死。  それは、彼が追い求めてきた剣の道の、遥か先にある風景だった。  ティンカーモンの仇を討つという個人的な戦いは、今この世界の均衡を守るための、より大きくそして聖なる戦いへと昇華されていた。 「エリスさん……!」  レイラが、スナリザモンを庇うように一歩前に出る。その瞳にはもう恐怖の色はない。  過去の自分と決別し、未来を守るための、揺るぎない覚悟だけがあった。  ワイズモンは分厚い本を胸に抱き、静かに、しかし素早く思考を巡らせる。彼の役割は、歴史の目撃者として、友の勝利への道をその知略で切り拓くことだ。  残された者たちが、それぞれの決意を胸に、狂った魔女へと対峙する。  最後の戦いの舞台は整った。 8.2:『嵐の結末』  静まり返った竜天回廊に、ゴッドドラモンの体が完全に消滅して残った光の粒子だけが、銀河の星屑のように静かに、そしてゆっくりと舞い落ちていた。  最大の切り札を失ったデュアルビートモンエリスが、焦りの色を浮かべながらも剥き出しの狂気で再びグランクワガーモンと共に襲いかかろうとする。  その禍々しいオーラが、この戦いを絶望的な結末へと導こうとしていた。  しかし、竜神の死は無駄ではなかった。  ゴッドドラモンという絶対的な存在が消え失せたことで、彼が展開していたこの聖域『竜天回廊』もまた、その維持能力を失い始めていた。  空間の至る所で亀裂が走り、銀河の背景がノイズ混じりに明滅する。  そして、エリスが竜天回廊全体に展開していた進化を封じる呪縛《エボリューションリミッター》の緑色の光の網が、燃え尽きた糸のように音もなく霧散していった。  デジモンたちの体にかけられていた進化の枷が、外れる。  その解放感を、誰よりも敏感に感じ取ったのは騎士だった。  体の奥底から、ズバモンとの絆を通し、失われていたはずの力が再び湧き上がってくるのを感じていた。 「ズバモン、行くぞッ!」  騎士の叫びが、反撃の狼煙となった。 「おう、ナイトォォッ!!」  ズバモンは、咆哮と共にその姿を進化させていく。  光の奔流が収まった時、そこに立っていたのは、黄金の装甲を纏った猛獣の如きズバイガーモンだった。  ユンフェイもまたデジヴァイスを通じてドラコモンに自らの怒りと、ティンカーモンへの誓いをデジソウルとして注ぎ込む。 「ドラコモン、ワープ進化ァッ! 我らの怒りを奴らに見せつけるのだ!」  主の魂に応え、青い鱗は光のデータへと書き換えられていく。  竜の四肢は鋭い剣となり、その背には誇り高き翼が広がる。  竜剣士スレイヤードラモンが、復讐の剣を手にこの絶望の盤面へと降臨した。  その勇壮な進化を前にしても、デュアルビートモンエリスの表情に揺らぎはない。  その瞳は、盤上の駒の動きを完璧に予測し数手先まで読み切る冷徹な策士のそれに戻っていた。 「甘いわね、騎士。貴方の戦い方などもう何百回とシミュレートしてきたわ」  エリスは、騎士がズバイガーモンの初動の速さを活かすために、ディーアークを構えるのを待たずに、まるで未来を予知していたかのように先手を打った。 「カードスラッシュ、《ジュレイモンの霧》」  騎士が《高速プラグインD》をスラッシュするのと、ほぼ同時。  濃密な幻惑の霧が、加速しようとするズバイガーモンの進路を完璧に塞ぎ、その勢いを根こそぎ奪い去る。 「くっ……! 動きが読まれている!」 「怯むな、騎士!」  ユンフェイがスレイヤードラモンに紅蓮のデジソウルを纏わせ虚空を蹴った。  スレイヤードラモンと合わせた彼の卓越した剣技による援護がこの膠着を破るはずだった。  しかし、その動きすらも、グランクワガーモンの巨体がまるで、あらかじめそこにいると知っていたかのように立ち塞がり割り込んでくる。  その巨腕の一振りは、山脈を動かすかのような絶大な質量をもって、ユンフェイとスレイヤードラモンの連携を容赦なく分断した。  個々の力では、究極体とそれを操る策士の前に圧倒的に不利。そして、頼みの綱である連携は、ことごとく完璧に読まれ、封じられる。  巧みな戦術妨害の前に有効打を一切与えられず、希望の光がじりじりと、しかし確実に死の闇へと塗り潰されていく。 「レイラさん、下がって!」  後方で、ワイズモンが必死に叫んでいた。  彼は戦闘が不得手ながらも、残された仲間を守るため、己の知識の源泉である本のページを次々と破り捨て、それを盾とする防御魔法の壁を展開する。  だが、その健気な抵抗もグランクワガーモンが『ディメンションシザー』を放たれる。  空間ごと切り裂く斬撃のほんの僅かな余波を受けただけで、ステンドグラスのように脆く砕け散った。 「ぐはっ……!」  ワイズモンは衝撃で大きく吹き飛ばされ、叡智の詰まった本のページを血飛沫のように撒き散らしながら銀河の床を無様に転がっていく。 「ワイズモン!」  レイラの悲痛な叫びが、虚しく響き渡った。 「遊びは、もう終わりよ」  デュアルビートモンエリスは、騎士との剣戟の合間に、まるで指揮者がタクトを振るうかのように、優雅に、そして無慈悲にディーアークをかざした。 「木竜将軍様からいただいた、この素晴らしい力を……見せてあげるわ。カードスラッシュ、《ドラグーンヤンマモン》」  そのデータが、グランクワガーモンの巨大な顎にまるで雷を宿したかのように集束していく。 「『ライトニング・オーケストラ』!!」  その宣告と同時に世界から音が消えた。  無数の電光が、音もなく、しかし空間そのものを震わせるほどのプレッシャーと共に放たれる。  それは、もはや雷ではなかった。  1本1本が、天を貫くほどの太さと密度を持つ光の弦。  それらが複雑に絡み合い、交差し、絶望という名の壮麗な旋律を奏でる。  破壊の光が、暴威のオーケストラとなってズバイガーモンとスレイヤードラモンへと降り注いだ。  それは、避けようのない美しくも残酷な死の調べ。  このままではジリ貧だ。いや、全滅はもはや時間の問題。  その、誰もが諦めかけた絶望的な状況を打ち破ったのはレイラの覚悟に満ちた静かな声だった。 「このままでは、各個撃破されるだけです!」  彼女は血を流して倒れるワイズモンを庇うように立ちその震える足で1歩、前に出た。 「私に策があります! かつて私が金のためだけに仲間を道具として弄んだ力……。でも、今度こそ! 仲間を守るためにこの力を使います!」  彼女は、その瞳に強い決意を宿し騎士とユンフェイを見据えた。 「『デジクロス』です!」  その言葉は、彼女が過去の罪と完全に向き合った贖罪の狼煙だった。 「スレイヤードラモンを核に、ワイズモンの知恵と、ズバイガーモンの伝説の力を加え、そして、この子……私のかけがえのないスナリザモンを1つに!」  レイラの魂からの号令一下、4つの魂が、1つの願いとなって共鳴を始める。  スレイヤードラモン、ワイズモン、ズバイガーモン、そしてスナリザモン。  4体が眩い光の奔流となって解け合いスレイヤードラモンという名の器へと、渦を巻いて注ぎ込まれていく。  光が収まった時、そこに立っていたのは、神々しくもどこか哀しみを湛えた異形の竜騎士だった。  スレイヤードラモンの白き鋼の体に、ワイズモンの無限の知恵を象徴するかのように、七色に輝く宝玉が胸部に埋め込まれている。  その肩からはスナリザモンの砂漠のデータが再構成された、流砂のマントが星々の光を浴びて神々しくたなびいていた。  そして、その右手に握られていたはずの竜剣『フラガラッハ』は、ズバイガーモンの伝説の力が宿ったことで、黄金の聖剣へとその姿を変えていた。  その名は、『スレイヤードラモンX4』。  スレイヤードラモンX4は、流砂の如き黄金のマントをはためかせ、グランクワガーモンの猛々しい突進をまるで柳に風と受け流す。  胸に輝く宝玉はデュアルビートモンエリスの次の攻撃、三本の角から放たれる高圧電流を完璧に予測し最小限の動きで回避させた。  そして、反撃に転じる。  ユンフェイの赤いデジソウルを纏う黄金に輝く聖剣の一閃が、グランクワガーモンの漆黒の甲殻に、これまで誰も与えることのできなかった深い亀裂を刻み込んだ。 「今だ騎士ッ!」  ユンフェイが、魂を振り絞るように叫んだ。  騎士は、この一撃に、この館で失われたすべての魂の想いを懸ける。彼はディーアークに、最後のカードを、祈りを込めてスラッシュした。  カードの名は、《竜の力を継ぐもの》  それは、ゴッドドラモンが消滅する際に遺した、最後の力の欠片を集める。  天竜の魂が、絆という名の引力に導かれ黄金の聖剣の先端へと集束していく。 「喰らえぇぇぇぇぇえええええっ!!」  スレイヤードラモンX4が放つ必殺の剣閃に、ゴッドドラモンの力が秩序を取り戻せという最後の祈りと共に上乗せされる。  究極の一撃、『天覇竜斬剣・神竜斬破(てんはりゅうざんけん・しんりゅうざんは)』が、この狂った物語に終止符を打つべくグランクワガーモンへと迫った。  絶望的な一撃。デュアルビートモンエリスは、咄嗟にディーアークを構え、自らのカードで対抗しようとする。  だが、その手をどこからか放たれた閃光が正確に撃ち抜いた。  パァン! と乾いた破裂音。  ディーアークが手から弾き飛ばされ銀河の闇へと虚しく回転しながら消えていく。 「あらやだ! 手が滑っちゃった!」  声の主は、いつの間にか隠れていたベーダモンだった。  彼女は騒ぎに気づき、2階から様子を見にきて巻き込まれた。  その後は隠れてずっと様子をうかがっていたのだ。そして、この千載一遇の好機を彼女は見逃さなかった。  ベーダモンとしてのアブダクト光線銃が、この最終局面で決定的な仕事をしたのだ。  防御手段を失い完全に無防備となったグランクワガーモンに、『天覇竜斬剣』の刃が、深々とそして慈悲なく突き刺さった。 「ギ……イイイイイイイイイイイッ!!」  聖なる炎が、その巨体を内側から焼き尽くしていく。漆黒の甲殻は砕け散り断末魔の叫びと共にその体は0と1のデータへと分解を始めた。  消えゆく光の中で、グランクワガーモンの巨大な姿は、元の優しかったフローラモンの姿へとゆっくりと戻っていく。  彼女は、もはや霞んでいく視界の中で、力の限りその手を伸ばした。 「ズバモン……くん……」  か細い声が、ズバモンの耳にだけ確かに届いた。 「ずっと……好き、だったよ……。あなたはナイトくんと……仲良く、ね……」  その言葉を最後に、彼女の体は光の粒子となって完全に掻き消え、あとには、ただ静寂だけが残った。  ズバモンは、その場でただ嗚咽を漏らし泣き崩れることしかできなかった。  最強の駒を失ったデュアルビートモンエリス。  彼女は、すべてを諦めたかのように、その場に力なく膝をついた。 「……終わった、のか……」  ユンフェイが、安堵と疲労の入り混じった声で呟く。  長かった戦いがようやく終わったのだ。誰もが、そう信じた。  仲間を失った悲しみ、かつての戦友を追い詰めた後味の悪さ、そして何よりもこの悪夢のような状況から解放されたというかすかな安堵。  張り詰めていた緊張の糸が、ほんの一瞬、緩んだ。  だが、それこそが、魔女が仕掛けた最後の罠だった。  最後の力を振り絞り、近くに倒れているディエースの元へと駆け寄ると、その華奢な首筋に鋭く尖った爪を立てた。 「これで……これで、本当に終わりよ……! せめてこの女を道連れにしてあげる!」  そのあまりにも卑劣で救いのない行為に、騎士の中で、張り詰めていた最後の何かが音を立てて切れた。  彼は、スレイヤードラモンX4から分離したズバイガーモンを、悲しみにくれる暇も与えず再びアームズモードへと変える。  もう躊躇はない。  ディエースを救うため。  そして、これ以上かつての戦友に罪を重ねさせないため。  黄金の流星となってエリスへと突貫する。  騎士は自らの手で、彼女を殺すことを決断した。  だが、彼女は、迫りくるその黄金の剣を回避しようとはしなかった。  その瞳には、恐怖も、後悔もない。  どこか安堵したような、そして、この瞬間をずっと待ち望んでいたかのような虚ろな光だけが宿っていた。 「そう……それでいいのよ、騎士……」  彼女は騎士に殺されることこそが、自らが犯した罪からの唯一の解放であると信じていたのだ。  黄金の刃がエリスの体を何の抵抗もなく貫いた。  彼女は人間へと戻りながら、ごふ、と赤い血を吐きながらも、その唇には満足げな笑みさえ浮かんでいた。 「ありが……とう……ござい……ました……。デジモン、イレイザー様……」  彼女が感謝したのは、騎士ではない。彼女に、この歪な生を与えてくれた絶対的な悪意そのものだった。 「絶望の中にいた私に……生きる意味を……与えてくれて……」  その言葉を最後にエリスの体もまた、フローラモンの後を追うように光の粒子となって静かに消えていった。  静まり返った『竜天回廊』に、騎士の慟哭だけが響き渡った。  自らの手で、かつての仲間を殺めてしまった。その罪の重さに、彼はただ、子供のように泣き叫ぶことしかできなかった。  ユンフェイもまた、ティンカーモンの仇を討ったはずなのに、その表情は晴れない。複雑な思いで声をかけられずにいる。  レイラたちは、少女の心をここまで歪ませたデジモンイレイザーという存在に、改めて底知れぬ恐怖を感じていた。  その時、意識を取り戻したディエースが、ふらつきながらも立ち上がり泣きじゃくる騎士を、そっと、しかし力強くその柔らかな胸で抱きしめた。 「……少年は、悪くないわ」  その優しい囁き声が、傷ついた騎士の心に、甘い毒のように染み渡っていく。 「アタシを助けるために、やったんでしょ? ヒーローなんだから胸を張りなさい」  その温かい感触が、彼の罪悪感を、偽りの安らぎでゆっくりと包み込んでいく。  多大な犠牲の果てに、イレイザーの手先であった魔女エリスは死んだ。  破壊と再生を繰り返す「青嵐の館」の惨劇は、こうして一応の終わりを迎えたかに見えた。  しかし、この物語の本当の脚本家はより残酷な舞台の幕開けを、静かに、そして楽しげに待っていた……。 8.3:『癒えぬ傷痕』  主を失い戦いの場という役目を終えた竜天回廊が崩壊し、一同は現実のロビーへと引き戻されていた。  エリスとフローラモンが消えた後の空間には、死のような静寂だけが満ちている。  夕食前の自室。  騎士は、無言でベッドに腰掛け、ディエースから手際よく傷の手当てを受けていた。  チリ、と消毒液が染みるたびに顔をしかめるが、彼女のどこか慣れた手つきにただなされるがままに身を任せている。  部屋の隅ではズバモンが心配そうに、しかし何も言えずに、ただじっとその様子を見守っていた。  騎士の心は重く沈んでいた。  自らの手でかつての仲間を殺めてしまったという罪悪感。  ズバモンもまたフローラモンの最後の言葉が耳の奥底にこびりついて離れない。 「なあ、ナイト。覚えてるか?」  重苦しい沈黙を破ったのは、ズバモンの、努めて明るい声だった。 「前にさ、ブラックワーガルルモンの部下と戦った時、エリスのウィッチモン、すっげー強かったよな! 私に任せなさいって言ってさ、全部やっつけちまった!」  その言葉は、閉ざされていた騎士の記憶の扉を、そっと開く鍵となった。  ぽつり、ぽつりと、騎士は語り始めた。  エリスとの出会いを。  森の中で迷っていた自分たちを、ぶっきらぼうに、しかし的確に導いてくれたことを。  はじめて共に戦った時の背中を預けられる安心感を。 「あいつは、いつも強がってた。誰よりも冷静で、皮肉屋で。でも、本当は……誰よりも仲間思いだったんだ」  騎士の声が微かに震えた。 「フローラモンが、ちょっと枝で足を擦りむいただけでも血相を変えて、夜通し看病するような奴だったんだ。  俺が無理して突っ込んで、ピンチになった時だって、いつも一番に駆けつけてくれたのは、あいつだった」  過去を語るほどに、現在の現実がより鋭利な刃となって心を抉る。 「……信じられないんだ。あんなことをするなんて。エリスは、あんな奴じゃなかったんだ……」  騎士は自分に言い聞かせるように、何度も、何度もそう繰り返した。  そう信じなければ、心が壊れてしまいそうだったから。 「でも、それって本当にそうかしら?」  騎士の包帯を結び終えながら、ディエースが静かに、しかし刃物のように核心を突く言葉を囁いた。 「優しい部分も、残酷な部分も、どっちも『本当の彼女』だったんじゃない? 強い自分も、弱い自分も。人間って、案外そーゆーもんでしょ?」  その、あまりにも無邪気で、あまりにも冷徹な真理。  それは、騎士が必死に目を背けていた事実を容赦なく突きつけてきた。  騎士が狼狽し言葉を失う。その様子をディエースはどこか楽しむかのように悪戯っぽく笑って見せた。  騎士は、ディエースの言葉に何も返せないまま、塞ぎ込んでいた。  そんな彼の両腕を、ズバモンとディエースが左右から掴む。 「腹減ったー! ナイト、飯行こうぜ!」 「そーよ! せっかくベーダモンおばちゃんが腕によりをかけてくれてるのに、冷めちゃうじゃない!」  半ば強引に、引きずるようにして、1人と1匹は騎士を食堂へと連れて行った。  食堂では、ユンフェイ、レイラ、ワイズモンも、それぞれの思いを胸に、静かに席に着いていた。  誰もが何人もの仲間を失ったこのテーブルで何を話せばいいのか分からずにいた。  その重苦しい空気を吹き飛ばしたのは、ベーダモンのいつも以上にけたたましい声だった。 「やーねぇ、揃いいも揃って、しけた顔しちゃって! 雇い主もいなくなっちまった今、あたしゃヤケクソだい!  この館にある高級食材、ぜーんぶ使ってやったからね! さあ、食った食った! 明日のことなんざ知るもんか!」  そう叫ぶ彼女がテーブルに並べたのは、これまでで最も豪華で、そして心のこもった料理だった。  星屑のように輝くパエリア、彗星の尾を思わせるローストビーフ、銀河を溶かし込んだかのような温かいスープ。  その破れかぶれの心意気に重く沈んでいた場の空気がほんの少しだけ和らいだ。  しかし、騎士は目の前の豪華な料理を前にしてもなかなかスプーンが進まなかった。  一口食べれば、エリスを手にかけた感触が蘇る。スープを飲めばフローラモンの最後の言葉が心をよぎる。  ふと、騎士は思い出した。  ワイズモンが絶望していたレイラを説得した時の言葉を。 『これはただの飯じゃない。生きるための、この子を最後まで守り抜くための、『誓い』なんすよ』  そうだ。エリスもフローラモンももう食べることはできない。生き残ってしまった自分は、彼らが生きたかったはずの明日を彼らの分まで生きる義務がある。  騎士は、罪悪感という名の鉛を飲み込むように、一口、また一口と力強く食事を口に運び始めた。  それは生き残った者の痛みを伴う誓いだった。 「んー、美味しい! けど、この味とも明日でお別れかぁ」  食事が進む中、ディエースが本当に名残惜しそうに呟いた。  その一言が、この束の間の平穏が長くは続かないこと、そして、それぞれが新たな道へと旅立つ時が、もうすぐそこまで来ていることを、その場の全員に予感させた。  夕食後、騎士は『青嵐の湯』へと向かった。  星屑が静かに舞う湯船に浸かり目を閉じる。今日一日で起きた出来事が、走馬灯のように頭を駆け巡った。  そこへ、静かにユンフェイもやってきた。2人は、しばらく言葉もなくただ湯に体を沈める。男同士、言葉は不要だった。  やがて、ユンフェイが切り出した。その声は迷いを振り切った者の静かで力強い響きを持っていた。 「騎士、お前に頼みがある」  彼は、この館を拠点に、本格的にデジモンイレイザーへと対抗するための組織を結成するつもりだと語った。 「ゴッドドラモン殿が守ろうとした秩序。ティンカーモンが命がけで我々に示そうとした希望。  それらすべてを引き継ぎ、今度は我々がこの世界の盾となる。ティンカーモンのような犠牲者を、二度と出さないために。  ……私達には君の力が必要だ」  その真摯で力強い言葉は騎士の心を強く揺さぶった。共に戦いたい。その想いは本物だった。  だが、騎士の胸には誰にも明かせない秘密があった。  ゴッドドラモンの裏の顔――ソク師範と共謀した非道な人身売買。  ユンフェイたちが「清い遺志」と信じているものが、決してそうではないという残酷な真実。  これを話せば、彼らの決意を挫きこの結束を壊してしまうかもしれない。  赤城もソク師範も、真相を知る者はもういない。この重い秘密は自分が墓場まで持っていくべきなのか。 「……少し考えさせてくれ」  騎士は、そう答えるのが精一杯だった。  風呂から上がると、ユンフェイの元へワイズモンとレイラが駆け寄ってきた。 「友とこの世界のたくさんの『物語』を守るために。例の話、僕も協力しますよユンフェイさん」 「過去の罪を償い、そして、この子と生きる未来を守るために。私も戦わせてください」  彼らもまた、それぞれの戦う理由を見つけ組織への参加を決意していた。  そこへ、ディエースが「お、密談?」とひょっこり顔を出す。  ユンフェイが彼女にも改めて組織への誘いをかけるが、「ごっめーん! アタクシ、『本業』が結構忙しいからさ!」と、悪びれもせずにこやかに断った。  それぞれの道が緩やかに、しかし確かに分かれ始めていた。  自室に戻った騎士の元へ、追いかけるようにディエースが入ってきた。  ベッドの隅では、今日の激闘ですっかり疲れ果てたズバモンが、すでにすうすうと寝息を立てている。 「ねぇ少年。結局さ、そのお腹の中の『刻の龍珠』ってやつ、どうなってるわけ? なんか変な感じとかしないの?」  ディエースは騎士の隣に当たり前のように腰を下ろすと、心底心配だという表情で騎士の腹部や胸にそっと手を触れた。  龍珠の気配を確かめるように、その指先が、騎士の服の上を滑る。 「ワイズモンが言ってたじゃない。このままじゃ、騎士くんの魂がなくなっちゃうって。本当、心配なんだから」  その言葉に寝ぼけ眼のズバモンが「そうだぞナイト! 俺、ナイトがいなくなるの、嫌だぞ!」と、不安そうに声を上げた。 「んもー、しょうがないわねぇ」  ディエースは、大げさにため息をつくと、悪戯っぽく笑った。 「アタシが添い寝してあげる。夜中に少年がおかしくなったりしないようにずーっとそばで見ててあげるから」  そう言って、彼女は本当にベッドの中へ潜り込もうとする。その無防備でいて大胆な行動に騎士の堪忍袋の緒が切れた。 「いい加減にしろ!」  騎士は、思わず彼女の腕を強く掴んだ。そして、半ば無理やり、しかしどこか名残惜しさを感じながら彼女を部屋から追い出した。  扉の向こうから「ちぇー、ケチんぼー」という声が聞こえてきたが、騎士はそれに構わず鍵をかけた。  ディエースを追い出した後、部屋には、騎士とズバモンだけが残された。  静寂が、傷ついた二人の心を優しく包む。 「なあ、ナイト……」  ズバモンが、ベッドの上で丸くなりながら、ぽつりと呟いた。 「フローラモン、かわいそうだったな……。俺も、ちょっとだけ、好きだったかも……」  その、あまりにも純粋な言葉が騎士の心の琴線に触れた。  そこから2人は、静かに語り合った。  今は亡きエリスとフローラモンとの他愛ない思い出を。  一緒に戦った時のこと。そして、くだらないことで笑い合った日のことを。  そこにはもう、憎しみも、罪悪感もなかった。  ただ、確かに共に在った仲間への温かい追憶だけがあった。  語り合ううちに騎士の心は固まっていった。 「俺は、進まなきゃいけない」  彼は、眠りに落ちそうなズバモンを抱きしめ、静かに誓った。 「ユンフェイさんたちと、とはまだ決められない。でも、エリスやフローラモンが生きたかったはずの明日を守るために俺は戦う」  窓の外には、破壊と再生を終えた青嵐エリアのどこまでも澄んだ満点の星空が広がっていた。  明日からはまた新しい1日が始まる。  騎士は、腕の中の温かい重みを感じながら、来るべき夜明けに備え深い眠りへと落ちていった。  デジモンイモゲンチャー外伝The Knight's Lost Memories 3rd MEMORIAL『クリーナーズ』 序章:『馬鹿な女』  騎士は、深い、深い眠りの底にいた。  竜天回廊での死闘。エリスをその手にかけた魂に焼き付いて消えない感触。  心と体は鉛のように重く意識は底なしの沼に沈んでいくかのようだった。  腕の中には、同じく疲れ果てて眠るズバモンの温かい重み。  その規則正しい寝息だけが、この悪夢のような現実の中で唯一、騎士に安らぎを与えてくれるものだった。  窓の外では、破壊と再生を終えた青嵐エリアの新たな夜明けが近づいている。星々の光も、夜の闇の底でその輝きを増しているようだった。  だが、その静寂は、騎士の体内から発せられた微かな脈動によって破られた。  トクン。  心臓の鼓動とは違う。もっと深く、もっと根源的な場所から響く音。  腹の奥に宿る『刻の龍珠』が再び歓喜に打ち震えるように脈打ち始めたのだ。  抗う間もなかった。意識はまるで渦に吸い込まれる小舟のように急速に時空の奔流へと引きずり込まれていく。  視界が白く染まりズバモンの温もりが急速に遠のいていく。  最後に耳に残ったのは、「ナイト……?」という、相棒の寝惚けたようなしかしどこか不安げな声だった。     ☆  デジタルワールドがその秩序を保つのは、テイマーたちの献身的な努力あってこそだ。  彼らはパートナーデジモンと共に、日々デジタル空間の均衡を守るため、あるいは発生するさまざまな問題に対処するため、奔走していた。  そんなテイマーたちの拠点となるのが、テイマーユニオンである。  テイマー同士が情報交換を行い、時に協力し合うギルドのような組織だった。  薄暗い部屋に、モニターの冷たい光だけがディエースの顔を青白く照らしていた。  ユニオンに残されていたという古い映像記録。  彼女はそれを、ぼんやりとした頭で、まるで他人の人生を覗き見るかのように眺めている。  再生されているのは、ユニオンの訓練風景らしきものだった。  映像の中の自分は、驚くほどに活き活きとしていた。太陽のような笑顔を振りまき、ユニオンの仲間たちと楽しそうに談笑している。  その隣には、屈強でありながらもどこか愛嬌のあるパートナーデジモンが、彼女の言葉に耳を傾けている。  二人の間には、長年培われたであろう揺るぎない信頼と絆が空気のように流れていた。  そして、まだ幼さの残る顔立ちの新人テイマーに、手取り足取りまるで雛鳥に餌を与えるかのように丁寧に指導している姿。  その眼差しには慈愛と微かな期待が宿っているように見えた。 「へえ、私ってこんなにお節介焼きだったんだ」  ディエースは他人事のように呟いた。記憶がないのだから当然他人事なのだが、その声には微かな皮肉が混じっていた。  画面の中の「自分」の眩しいほどの熱量に、今の「自分」はひどく辟易しているかのようだった。  映像は切り替わり、一転してデジタルワールド全体を揺るがすような激しい戦いの場面になった。  それはまさに、世界の終焉を予感させる光景だった。デジタルデータが嵐のように荒れ狂い、空間が歪む。  デジモンたちの悲鳴と咆哮が入り混じり、秩序は無残に引き裂かれていく。  ユニオンのテイマーたちは緊急招集され、この未曽有の危機に立ち向かうべく、決死の覚悟で戦場へと身を投じていった。  映像の中のディエースもまた、その渦中にいた。必死な顔でデジヴァイスを握りしめ、喉が張り裂けんばかりにパートナーデジモンに指示を飛ばす。  彼女の隣には、あの新人テイマーもいた。  当初、彼女はあくまで「先輩」として、『彼』を導くつもりだった。  危険な場所からは遠ざけ、的確なアドバイスを与え、『彼』の未熟な部分を補う。  それが、彼女に与えられた役割であり、当然の義務だと信じていた。  彼女が与える任務に従い、初々しくも懸命に戦う『彼』の姿に、映像の中の自分は温かい視線を送っていた。  しかし、戦いが激化するにつれて、状況は一変した。あの新人の成長は、皆の想像をはるかに凌駕していたのだ。  彼はまるで生まれながらの戦士であるかのように、驚くべき速さで強敵たちを打ち倒し、デジタルワールドの深淵へと、誰よりも早く突き進んでいく。  その動きは迷いがなく、ただひたすらに、前へ、前へと。  彼女は必死に『彼』の後を追うが、その背中は遠ざかっていく。  映像の中の「過去の自分」の顔に、みるみるうちに焦燥と無力感が広がっていく。  その表情は曇り、唇は固く結ばれ、瞳には劣等感が滲んでいる。『彼』の背中を追うほどに、彼女の表情は絶望に染まっていくようだった。  自分の存在がもはや『彼』の足枷になっているのではないかという苦痛に満ちた自問自答。 「ついていけてないじゃない。情けない」  ディエースは冷めた、氷のような目でモニターを見つめる。  画面の中の自分が、『彼』に追いつこうと必死になっている姿は、滑稽ですらあった。あの無駄な熱量は何なのだろう。  力の差は歴然としているのに、なぜ無謀にも追いつこうとしているのか。今のディエースには、その感情が全く理解できなかった。  その時、映像に歪んだ影が映り込む。どうやら敵のデジモンのようだ。  その声は直接聞こえないが、ディエースには画面の端に表示されるテロップで内容が理解できた。  見るからに悪の存在は、強大な力を今すぐ手に入れる事が可能な安易な方法を彼女に提示している。  一瞬、映像の中の「過去の自分」の表情に迷いがよぎる。その瞳は、『彼』の圧倒的な力を渇望し、『彼』と肩を並べたいという欲望で揺れ動いている。  次の瞬間、彼女は顔を横に振った。その誘惑を、きっぱりと拒否したのだ。 「馬鹿ねー。力なんていくらでも手に入れてから考えればいいじゃない」  今のディエースは、その選択が当然だとばかりに呟いた。  しかし、映像の中の「過去の自分」にあるのは単なる誘惑への拒絶だけではなかった。  その瞳の奥には、『彼』と同じ力を求める渇望と、それでもテイマーとしての正義感、そして優しさとの間で激しく葛藤する魂が見て取れた。  安易な力を選ばなかったのは単なる倫理観だけではない。  彼との関係性の中で培われた、彼女なりの誇りと、『彼』に対する深い思いがあったからではないのか。  記憶を失ったディエースには理解できない、熱い何かがそこには確かにあった。  やがて『彼』の活躍で戦いが終わり、デジタルワールドに再び平穏が訪れたとき、映像の中の女は静かに決意を固める。  その顔には、一抹の寂しさと揺るぎない覚悟が刻まれている。もっと強くなるために、修行の旅に出る、と。  そして、旅立つ朝、彼女はあの新人に微笑みかけ優しく頭を撫でた。  その指先が、ほんの少し『彼』の髪に触れる時間が長かったように見えたのは、ディエースの気のせいだろうか。 『ええ、少しね。もっと色々なことを学びたくて。また、いつか会えるわ』  映像の中の自分が切なそうにそしてどこか決意に満ちた震える声で語りかける。 「な~んだこれ」  ディエースは思わず吐き捨てるように言った。映像の中の自分が抱いていたのは『彼』への恋心だったのだろう。  あの圧倒的な強さを見せつけた年下の男の子に、この女は恋をしていた?  画面の中の「自分」の頬は微かに朱に染まり、瞳は『彼』だけを追っている。その表情はまさに恋に落ちた乙女そのものだった。 「馬鹿な女。そんなに好きなら一緒に居ればいいじゃん」  ディエースは心底呆れたようにため息をついた。強くなりたい、という願望はディエースにも理解できる。  しかし、それも恋心のせいで生まれたものだ。そんなにまでして彼の隣に並び立ちたかったのか。  記憶のないディエースには、彼女の切実な思いがまったく理解できない。  理解不能な情熱に突き動かされていた「過去の自分」が、ただただ滑稽に見えた。  その感情は、今のディエースにとって意味不明なバグでしかなかった。  そして、映像はそこでぷつりと途切れる。ディエースはモニターを消し再び暗闇の中に身を置いた。  静まり返った部屋の中で、自分の鼓動だけがやけに大きく響く。  映像の中の同じ姿をした女。その情熱も秘めたる恋心も今のディエースには何の響きも持たない。  あの「過去の自分」が辿った道筋が、あまりにも愚かで、そしてムダな努力に満ちているように思えてならなかった。  ディエースは、自らを押し殺し続けたあの馬鹿な女のようにはならないようにしようと決意した。  映像の中の彼女が切実に望んでいた力は、もう既に得ているのだから。  そうして、ディエースが過去の自分に思いを馳せている時、けたたましい声と共にドアが開く音がした。 「見つけたであります見つけたであります! 吾輩のタイムモンが、この時間軸に不正アクセスしている存在を捕捉したのであります!  それがなんとディエース殿の部屋からなのであります!  さぁディエース殿、部下の危機に颯爽と参上する理想のリーダーたる吾輩を褒め称え敬いその体を捧げるであります!!」  どこか子供のようでありながら、老成した響きを持つ声。  声の主は青灰色の肌に悪魔の羽を生やした浮遊装置によってふわふわと浮かぶ少女だった。 「んー安定のカス。尊敬されたきゃ、その性癖を抑えなさいよ。……え? ちょっとまって? 時間軸に不正アクセス? どういうこと?」 「タイムモンによると、未来からお前にシンクロして覗いてる奴がいるって話なんだよねぇ~。どうするアミーゴ、放っておくわけにはいかないだろう?」  セーロの後ろから、メキシコの民族服であるチャロスーツに身を包んだ男が心配そうに眉を寄せた。 「そうでありますシエーン殿の言う通りであります! タイムモンで時を超えて我輩たちの力をわからせてやるのがいいであります!  ついでにそいつが女なら吾輩の魅力で骨抜きにして玩具として遊んでやるのであります! 勿論飽きたら捨てるであります」 「んー安定のカス。こいつさっさと死なねぇかな。ま、見られるのは嫌だけどさ、そこまでしなくていいんじゃない?  面白いじゃん。誰か知らないけど、わざわざ時間を超えてアタクシに会いに来てくれたんでしょ?」  ディエースは、まるで映画の特等席にでも座るかのように、面白そうにそしてどこか冷ややかに見つめていた。 「じゃ僕がタイムモンにシャットモンをアプリンクで時空干渉を強制切断しとくよ。最後に、なにか言う事あるかいディエース」  ディエースは時空の向こう側にいる名も知らぬ観測者に、甘く、そして獰猛な笑みを向けた。 「ええ、もちろん」  その声は恋する乙女のように弾み、その瞳の奥には獲物を見つけた狩人のような冷たい光が宿っている。 「未来で私を見つめている君。いつかアタシと出会うんでしょ? 待っていてあげる。君がこの胸に飛び込んでくる、その時まで」  彼女はうっとりと目を細め挑発的に唇を舐めずりした。 「首を長くして待ってる。だから……本当の私を見つけ出してね、ヒーロー。その時は君のぜーんぶ、アタクシが頂くから」  その言葉と同時に強制的に何かが断ち切られた。  騎士が最後に感じたのは、暗闇の中で喉を鳴らし獲物の到来を待ちわびる、飢えた虎の心だった。     ☆ 「きゃあああああああああああっ!」  唐突な絶叫が、騎士の意識を暗く甘い追憶の底から無理やり現実に引き戻した。  目を開けると、そこはもう薄暗い部屋ではない。朝日が差し込む、見慣れた自分の部屋だった。  絶叫は、隣室から聞こえてくる。レイラのものだ。  そのただならぬ響きに、騎士はベッドから飛び起き、何が起きたのか確かめるため、ズバモンと共に慌てて部屋を飛び出した。  廊下へ飛び出すと、ひやりとした朝の空気が肌を刺す。  その空気とは対照的に、レイラの部屋の扉が大きく開け放たれ、彼女自身が廊下の床にへたり込んでいた。  スナリザモンが必死に主の肩を抱き、震える背中をさすっている。彼女の瞳は恐怖に見開かれ、唇はわなわなと震えていた。  その指さす先は、螺旋階段へと続く薄暗い廊下の奥だった。 「見たんです……! 今、確かに……そこに……!」  その声は、悪夢の残滓に喉を締め上げられたかのように、か細く掠れていた。 「ソクさんが……! 消えたはずのソクさんが、そこに立っていたんです……!」  その名に騎士は思わず息を呑んだ。  レイラの絶叫は、館の僅かな生存者たちを再び悪夢へと引き戻した。  ユンフェイが険しい表情で自室から現れ、ワイズモンも慌てたように宙を舞いながら駆けつける。  ディエースだけが「なーに、朝から騒々しい」と欠伸をしながら、のんびりと姿を見せた。 「幻なんかじゃ……確かにこの目で……!」  レイラは半狂乱で訴えるが、彼女が指さした廊下には、不気味な静寂が広がるだけだ。人影はもちろん何者かがいた気配すらなかった。 「……念のため館内をくまなく探すぞ」  ユンフェイが事態の収拾を図るように重々しく告げた。  一同は手分けをして、館内を徹底的に捜索し始めた。  騎士もズバモンと共に、レイラが指さした廊下から厨房、娯楽室に至るまで、床の染み1つ見逃すまいと注意深く見て回った。  だが、ソク師範の巨体が通ったであろう痕跡はどこにも見当たらない。  管理室のセキュリティシステムにも、不審な侵入記録は一切残っていなかった。  捜索は徒労に終わり、一同は重い足取りでロビーへと戻った。  ユンフェイは、憔悴しきったレイラの肩にそっと手を置き、静かにしかし有無を言わせぬ響きで語りかけた。 「レイラ殿。お気持ちは察するが、おそらくは疲れが見せた幻だろう。我々も昨日の戦いで心身ともに限界に近い。少し休まれよ」  ワイズモンも、友人を気遣うように、しかし現実を受け入れるよう促した。 「そっすよレイラさん! きっと、夢の続きを見ちゃったんすよ。僕もたまにあるっす」  味方であったはずの2人にまでそう言われ、レイラはもはや抵抗する気力もなかった。  彼女自身の目撃した光景にさえ自信が持てなくなり、力なく項垂れる。 「……そう、なのでしょうか。やっぱり見間違い……だったのかも、しれません」  その姿に、ディエースが追い打ちをかけるように、無邪気に残酷な言葉を放った。 「……本当にソクのおっちゃんが無事でさ。今までのことが夢かジョークで、みんながここに居たら良かったのにね」  その一言が、場の空気を凍てつかせた。失われた仲間たちの顔がそれぞれの脳裏に浮かび、談話室はしんみりとした気まずい沈黙に包まれる。  騎士だけが、その言葉を別の意味で受け止めていた。人身売買の元締め、ソク・ジンホ。  たとえ彼が本当に生きていたとして、彼の真実を知ったならば、それを素直に喜べる者がこの中にいるのだろうか。  真実を知る者と、知らぬ者。その間に横たわる見えない溝の深さを、騎士は改めて痛感していた。  青嵐の館での最後の朝は、こうして癒えぬ傷痕を抉るかのように、静かに幕を開けたのだった。 第1章:『最後の平穏と旅立ちの誓い』  ソク師範の亡霊騒ぎが残した不穏な余韻は、朝食の席にまで重く垂れ込めていた。  誰もが口数少なく、ただ黙々と食事を胃に流し込む。  その葬儀のような沈黙に耐えかねたように、ワイズモンがわざとらしいほど明るい声でパン、と手を叩いた。 「ねえねえ、皆さん! こんなジメッとした空気、もうやめにしません?  せっかく外の世界もピッカピカに生まれ変わったんすから、みんなで展望室に行きやしょうよ!  この館での最後の思い出に、世界の誕生ショーでも見物しようぜって話っすよ!」  そのどこまでも楽観的で、だからこそ今は救いのように響く提案に、誰も異を唱えることはできなかった。  展望室の扉が開かれた瞬間、言葉を失うほどの光の奔流が一同を包み込んだ。  壁一面のモニターに映し出されていたのは、創造のエネルギーが渦巻く、奇跡そのものの光景だった。  無数の光の粒子がまるで天の川を逆再生するかのように立ち上っていく。  その光が集まり、絡み合い、新たな大地のワイヤーフレームを瞬く間に構築していく。  緑のテクスチャが生命の息吹のように地面を覆い岩や木々のポリゴンが、神の見えざる手によって形作られていく様は圧巻という他なかった。  それは、傷ついた彼らの魂を優しく洗い流す、聖なる浄化の光のようでもあった。  誰もが、しばし言葉を忘れ、ただその神々しい光景に見入っていた。  この4日間で負った心の傷が、この世界の再生と共に、少しずつ癒されていくのを感じていた。  やがて、再生の光が落ち着き、新たな世界の輪郭が定まった頃、ユンフェイが静かに一歩前に出た。  彼の瞳には、絶望を乗り越えた者の、静かで、しかし揺るぎない覚悟の光が宿っていた。 「皆、聞いてほしい」  彼の声が、展望室の静寂に響き渡る。 「我々は、この館で多くのものを失った。だが、失っただけで終わりにはしない。  ゴッドドラモン殿が守ろうとした秩序、ティンカーモンが命がけで示そうとした希望……  それらすべてを無駄にしないために、私は戦うことを決めた。デジモンイレイザーという、この世界の理を歪める絶対的な悪と」  彼は、集まった仲間たちの顔を一人ひとり、ゆっくりと見渡した。 「私はこの青嵐の館を拠点に、イレイザーに対抗するための組織を立ち上げようと思う。  まだ私たちだけの小さな始まりだ。だが、この決意は変わらない。  いつか、ティンカーモンのような犠牲者を2度と出さない世界を作るために。……それで、いくつかチーム名の候補を考えてみたのだが」  ユンフェイは、少し照れくさそうに咳払いをすると、いくつかの名前を挙げ始めた。 「秩序の番人『オーダー・ガーディアンズ』……いや、少々堅苦しいか。  あるいは、夜明けをもたらす者『ドーンブリンガーズ』……これはヒロイックすぎるか。  あとは……そうだな、奴らの汚した世界を浄化するという意味で『クリーナーズ』というのも……」 「ぷっ……あはは! お掃除屋さん!?」  ディエースが、堪えきれないというように吹き出した。 「なーにそれー! 全然強そうじゃないじゃん! ダサいダサい、却下!」  彼女は腹を抱えて笑い転げている。  その無邪気な反応に場の空気も和んだが、騎士だけは、ディエースの笑い声の中に、ほんの僅かな拒絶の響きを感じ取り、微かな違和感を覚えていた。  夢で見たディエースの過去が頭から離れない。彼女にそのことを話すべきか、騎士は迷っていた。 「……とにかく、私はやる。騎士」  ユンフェイの声が、騎士を思考の海から引き戻した。 「お前も、私達の組織に来てくれるよな」  その瞳は絶対的な信頼を物語っていた。  騎士の心は、激しく揺れた。ユンフェイの誘いに応えたい。仲間と共に戦いたい。その想いは本物だ。  しかし、赤城が遺したファイル、ゴッドドラモンの裏の顔という、誰にも話せない重い秘密が、彼の決断を鈍らせる。  ユンフェイが築こうとしている組織の土台は、ゴッドドラモンへの清い信頼の上にある。その土台そのものが偽りであると知ったら彼はどうなるだろうか。  そして騎士にはもう1つ懸念があった。自身の体に巣食う『刻の龍珠』だ。  自らの体内に宿る災厄。これをどうにかしなければ、彼らと道を同じくすることはできない。だが、目指す先は同じはずだった。 「今はまだ無理だ。俺がやるべきことをすべて終えたら、その時は必ずあんたたちの元へ駆けつける。約束する」  それは、偽りのない魂からの誓いだった。 「……ああ。待っている。お前は私に勝った男だからな」  差し出されたユンフェイの硬い手を、騎士は力強く握り返した。2人の間に、言葉以上の固い約束が交わされた。  再生の完了と共に、長らく沈黙していた館のシステムが完全に復旧した。  ロビーのマザー・クリスタルがひときわ強く輝き、閉ざされていたワープゲートが再起動する。  それは、悪夢からの解放と、新たな旅立ちの時を告げる合図だった。  一同は、四日ぶりに館の外へと足を踏み出す。  再生されたばかりの大地は、まだ誰も踏み入れていない生まれたての光に満ち溢れ、澄んだ空気が肺を満たした。  振り返れば、四日間の惨劇の舞台となった青嵐の館が、何事もなかったかのように静かに佇んでいる。 「騎士さん、本当に、ありがとうございました」  レイラが深く頭を下げた。その表情にはもう絶望の色はなく、過去の罪を背負いながらも未来へと歩き出す覚悟を決めた静かな強さが宿っている。 「あなたがいなければ、私はきっと、自分の弱さに飲み込まれていたでしょう。この御恩は、決して忘れません」 「僕もっす! マジで騎士さんとディエースさんたちがいなかったら、僕らとっくにイレイザーの餌食でしたよ!  これからはユンフェイさんたちと、この世界を守るために頑張るんで、またどこかで会ったら一緒に旅しましょう!」  ワイズモンはいつもの軽い口調だが、心からの感謝を告げた。スナリザモンもその横でこくこくと何度も頷いている。  その温かい言葉に、騎士は少し照れくさそうに「俺は、何も……」と頭を掻いた。 「あんたたちには世話になったねぇ」  ベーダモンが、騎士たちの肩をバンバンと力強く叩いた。 「あたしゃどうしようかねぇ。雇い主もいなくなっちまったし、また宇宙の放浪者にでも戻るとしますか!  あんたたちも、腹が減ったらいつでもあたしのギャラクシーフルコースを食べに来な!  このデジタルワールドのどこにいたって届けてやるからさ!」  彼女らしい豪快な別れの言葉に、誰もが思わず笑みをこぼした。 「待っているぞ、騎士」  ユンフェイは、ただ一言、そう力強く告げた。その背中には、もう迷いはない。  ドラコモンもまた、騎士とズバモンに力強く頷いて見せた。 「じゃあね、ヒーロー! またどこかで会えたら面白いわね!」  ディエースだけが、最後まで別れを惜しむ様子もなく、ひらひらと軽く手を振った。  その笑顔はどこまでも無邪気で、その瞳の奥底に何を隠しているのか、騎士には最後まで読み解くことはできなかった。  それぞれが、それぞれの想いを胸に、再生された世界へと歩み出さんとする。  これが、悪夢の館で生き残った者たちが共有した最後の平穏な時間だった。 第2章:『絶望のゾンビゲーム』  再生された世界への希望を胸に、新たなる旅路へと騎士がその一歩を踏み出そうとした、まさにその瞬間だった。  背後で、先ほどまで穏やかな光を放っていたはずのワープゲートが、再び不吉な音を立てて起動した。ゲートの中心が、まるで病んだ心臓のようにどす黒く脈打つ。  放たれたのは祝福の光ではない。あらゆる希望を嘲笑うかのような禍々しく粘つく紫色の閃光だった。  光が収まった時、そこに立っていたのは、誰もが忘れたいと願っていた悪夢の残滓そのものだった。 「ソ……ク……師範……!?」  レイラの声が、恐怖に引きつった。  顔面を、屈強な肉体を、まるで呪いの紋様のように墨の如き黒い縞が覆い尽くしている。  その瞳に、かつての豪胆さや狡猾さの光はなく、ただ命令を待つだけの、虚ろな闇が広がっていた。  隣に立つマスターティラノモンもまた同様に汚染され、低い唸り声を上げている。  その絶望的な再会劇を演出するかのように、館のスピーカーから、甲高いノイズ混じりの、場違いに明るい声が鳴り響いた。 「やっほー! エリスちゃんのゲーム、クリアおめでとー! デジモンイレイザーからのご褒美と、新たなるゲームの始まりだよ~ん!」  声の主は幼く無邪気でそして残酷な響きを持っていた。 「ご褒美は、消えちゃったみんなの再生だよ! そういうことできちゃう! それで新しいゲームのほうはね、再生した彼らから逃げ回る『ゾンビゲーム』!  捕まったら君も仲間になっちゃうゾ! さぁて、今度は誰が生き残れるかな~? 今度もこのイレイザーちゃんを楽しませてね~」  その狂った宣戦布告が開幕の合図だった。  驚愕に凍りつく一同のほんの僅かな隙を突き、ソクたちが地を蹴った。  その動きは生前の彼からは想像もつかないほど俊敏で、獰猛だった。  彼らの体に纏わりつく黒い縞模様がまるで生きているかのように蠢き、無数の黒い帯となって鞭のようにしなりながら襲いかかってきた。  狙われたのは、最も近く、最も油断し、最も無防備だった2人。 「きゃっ!?」 「あらやだ!」  悲鳴を上げる間もなかった。黒い帯は、逃げ惑うディエースの足に絡みつき、ベーダモンの体を雁字搦めに捕らえる。  2人の体は瞬く間に黒い呪縛に覆われ、抵抗も虚しくその瞳から理性の光が急速に失われていく。  数秒後、彼女たちはゆっくりと顔を上げた。その顔には、ソクたちと同じ墨染めの縞模様が浮かび上がっていた。 「ディエース! ベーダモンさん!」  騎士が叫ぶ。ユンフェイもまた、怒りにデジヴァイスを構える。  だが、汚染されたマスターティラノモンの圧倒的な質量と苛烈な攻撃が、彼らの前に立ち塞がった。  ゴッドドラモンが認めていた実力者の彼らの前に進化する暇さえ与えられない。 「逃げるんだ!」  ユンフェイが叫び、一同は散り散りになって駆け出した。もはや戦いではない。ただの狩りだ。  ユンフェイが再生されたばかりの木々の間を駆け抜けていた、その時だった。  茂みの奥から、か細い、しかし聞き覚えのある声がした。 「ユンフェイ……」  振り向いた彼の目に映ったのは、信じられない光景だった。そこに、ティンカーモンが立っていた。  その体にはまだ汚染の証である黒い縞模様はない。ただ、怯えたように、潤んだ瞳でユンフェイを見つめている。 「ティンカーモン!」  ユンフェイの体が硬直する。罠だ。頭の片隅で、冷静な自分が叫んでいる。  だが、彼女の羽が淡く、そして妖しく輝き始めた瞬間、彼の理性は音を立てて崩れ始めた。  キラキラとした金色の鱗粉――『フェアリーパウダー』が、そよ風に乗ってふわりと舞いユンフェイの全身を優しく包み込む。  咄嗟に口元を覆うが遅かった。  甘い香りと共に吸い込んだ鱗粉が、脳の奥でじわりと溶け、警戒心という名の錠前を錆びつかせていく。 (罠だ、近づくな……でも……ティンカーモンちゃんが、あんなに怖がっているじゃないか……!)  思考が、急速に単純化されていく。  自制心という名の壁が脆くも崩れ落ち、「彼女を助けなければ」という、子供のように純粋で絶対的な衝動だけが心を支配した。 「ユンフェイ……助けて……こわいの……」  か細い声で伸ばされた小さな手。それが、最後の引き金だった。 「ああ、今行く!」  ユンフェイは何の疑いもなく彼女へと駆け寄った。  失ったはずの、守りたかったはずの小さな存在。その無事な姿を前にして、彼の心はあまりにも無防備だった。 「ああ、良かった……本当に……!」  ユンフェイが、安堵と後悔の入り混じった表情で彼女を抱きしめようと腕を伸ばした、その瞬間。  ティンカーモンの無垢な笑顔が、ぞっとするほど冷たいものに変わった。  彼女の小さな体から、黒い帯が蛇のように伸び、ユンフェイの体に音もなく巻き付いていく。 「なっ……!?」 「ユンフェイ……ずっと、一緒だよ……」  虚ろな声が、耳元で囁かれる。それが、彼が聞いた最後の言葉だった。  その一部始終を、少し離れた場所から見ていた騎士は、絶望に歯を食いしばった。  仲間が目の前で次々と敵へと変わっていく。  触れただけで、その魂ごと汚染されてしまう黒い帯の脅威。  ソクとマスターティラノモンに加え、新たに加わった操り人形たち。戦力差は、もはや絶望的だった。 「……逃げるぞ!」  騎士は、悲しみに立ち尽くすドラコモンの腕を掴むと、森のさらに奥深くへと身を翻した。  レイラとワイズモンも、恐怖に顔を歪ませながら、必死にその後を追う。  青嵐の館での惨劇は、終わってはいなかった。  それは、より悪質でより救いのない、新たなる絶望のゲームとして再びその幕を開けたのだった。 第3章:『真犯人』  息を切らし背後から追ってくる気配がないことを確認すると、一同は鬱蒼と茂る森の奥深く、苔むした大木の根元に身を隠すようにして座り込んだ。  再生されたばかりの森は、真新しい生命の匂いに満ちている。だが、その瑞々しい空気も、彼らの絶望に満ちた心を潤すことはできない。  静寂の中、ドラコモンの嗚咽だけがやけに生々しく響いていた。彼は主を失った悲しみと怒りで、その巨体を小刻みに震わせている。 「ユンフェイ殿……! 我が主……! なぜだ……なぜあんな罠に……!」  レイラもまた、血の気の引いた顔で膝を抱え、ただ一点を見つめていた。  再び仲間を失ったという事実が、ようやく取り戻しかけた彼女の心を、容赦なく打ち砕こうとしている。 「ママ……大丈夫だよ。僕が……僕がついてるからね」  スナリザモンが必死に彼女の腕に擦り寄るが、その声も今は虚しく響くだけだった。 「……くそっ」  ワイズモンが、悔しげに地面を拳で殴りつけた。その顔から軽薄さは消え失せ、純粋な怒りが浮かんでいる。 「完全に、奴らの手のひらの上で踊らされてたってわけか……。  ネットワークが回復した瞬間を狙って、館のシステムに外部から干渉しやがったんすね、イレイザーの本体が……。  それでソク師範たちを再生、洗脳したんすよ……!」  それは最も合理的で、最も絶望的な推論だった。だが騎士は、その可能性を否定した。 「……いや、違う」  その声に、全員の視線が集まる。 「レイラさんがソク師範の幻を見たのは、通信が回復するもっと前のことだったはずだ」  騎士の脳裏に、今朝のレイラの恐怖に歪んだ顔が蘇る。 「あの時点で、ソク師範はすでに蘇っていた。そして、館の中を徘徊していたんだ。通信が回復する前から。だとしたら、答えは1つしかない」  騎士は、言い知れぬ確信と共に、その場の全員に告げた。 「この一連のゲームを仕組んだ犯人は、外部の侵入者じゃない。最初から俺たちの中にいたんだ」  その言葉は、凍てつくような静寂を森にもたらした。誰もが息を呑み、互いの顔を見合わせる。  裏切り者は、この中に? 「そんな……! ナイト、生き残ってるのは、俺たちだけだぞ……!?」  ズバモンが、信じられないというように叫んだ。  その疑念が再び鎌首をもたげる。だが、騎士はそれを制するように、自らの推理を続けた。 「俺はずっと考えていた。本当にエリスたちだけでこれだけのことができるのか、と」  彼の脳裏で、この4日間の出来事が、凄まじい速度で逆再生されていく。  散らばっていたピースが、1つの歪な肖像画を浮かび上がらせるように、音を立てて嵌まっていく。 「始まりは、ソク師範の消失。秘宝探しを最初に提案したのはエリスだった。  だが、2日目の朝、俺たちがまだ戸惑っている中で、積極的に『秘宝探しに行こうぜ!』と皆を煽り混乱を助長させたのは誰だ?」  騎士の視線が、虚空の一点を見据える。 「ソク師範が消えた夜、彼女は勝手に俺の部屋に来て、ベッドを占領して疲れて眠っていた。  だが、俺が夜中に目を覚まし、ソク師範の影を見てユンフェイやレイラさんと話したあとに戻ると、彼女の姿はどこにもなかった。  彼女は、その時一体どこで何をしていたんだ?」 「次に、ティンカーモンの消失事件。生体反応を偽装する装置が見つかったのは、彼女の部屋からだった。  ゴッドドラモンさんはユンフェイさんと一緒に夜警していたというアリバイがあったから、彼女は容疑者から外された。  だが、もし実行犯のエリスと最初から協力関係にあったとしたら?」  騎士の声は、熱を帯びていく。 「そういえば……」  レイラが、はっとしたように顔を上げた。 「2日目に娯楽室で『秘宝探し』をしていた時、確かに……ディエースさんとエリスさんは、初対面とは思えないほど、親しげに話していました。  まるで、ずっと前から知っている仲のように……。あの時は、ただ気が合うだけだと思っていましたが……」  その証言が、騎士の推理に、確信という名の最後のピースを嵌めた。 「ズバモン、ドラコモン、覚えているか? 管理室での四大竜の通信記録を見たときのことを。  あの直後に起きた、謎のハッキング事件。  あの時、システムの近くにいてあれだけの芸当ができる技術を持っていたのは誰だ?  あの異常現象が起きたのは、ディエースがコンソールに触れたまさにその直後だったよな」 「そして、赤城さんを追放した時の議論。エリスの扇動が最後の決め手になった。  だが、赤城さんを追い詰めるもっとも決定的で、もっとも悪意に満ちた『証拠』を提示したのはディエースのセーブモンだった」 「まさか……ディエースさんが……?」  レイラが、信じられないものを見る目で呟いた。あの、能天気でどこまでも明るかった彼女が? 「……俺は彼女にしか出来ないことが多すぎると思っている」  そして騎士は、最後の、そしてもっとも決定的なピースをはめ込んだ。 「俺たちは、あまりにも彼女を無邪気で、何も考えていない女だと思いすぎていた。  だが、彼女にはサクシモンがいる。悪魔のような知略を持つ軍師が。あのアプモンこそが、この完璧な犯罪計画の頭脳そのものだったんだ」  恐るべき結論。エリスもまた彼女にいいように操られた、哀れな被害者の1人に過ぎなかったのかもしれない。 「彼女に声をかけたディエースは何かのカードを渡していた。おそらくあの時渡したものが『シフトイレイザー』のカードだ」  騎士は自らの推理を確信へと変えながら、静かに、しかし強く言い放った。 「真犯人は、ディエースだ」 第4章:『人虎、本性を現す』  静まり返った森の中、騎士が下した決断は、あまりにも無謀で、そして英雄的だった。 「俺が囮になる」  その静かだが、揺るぎない声に、ワイズモンが「正気っすか!?」と素っ頓狂な声を上げた。 「相手は洗脳能力持ちの集団っすよ! しかも黒幕はまだこの近くに潜んでる! 今戻るなんて、ただの自殺行為だ!」  レイラもまた、蒼白な顔で首を横に振る。 「ダメです、騎士さん! 騎士さんまでいなくなったら私たちは……!」  その必死の制止を、騎士は穏やかな視線で受け止めた。 「だからこそ、だ。このままじゃジリ貧になるだけだ。誰かが動かなきゃ、全員が喰われる。  俺が時間を稼ぐ。その隙に、みんなはできるだけ遠くへ逃げてくれ」  その瞳には、もはや生還を期さない者の覚悟が宿っていた。  騎士の隣に、ドラコモンが並び立つ。 「俺も行きます」  彼の瞳には、主を失った悲しみを乗り越え、その無念を晴らすという復讐の炎が燃え上がっていた。 「ユンフェイ殿の……ティンカーモン殿の仇は、この俺が討つ!」  二人の決意は、もはや誰にも止められない奔流となっていた。  レイラとワイズモンはただ頷くことしかできなかった。騎士は、彼らに背を向け最後の言葉を告げる。 「生きてくれ」  それは、嵐を乗り越えた仲間へのそしてこの狂った物語を生き延びてほしいという、魂からの祈りだった。  騎士とドラコモンは、来た道を引き返し再び悪夢の舞台となった青嵐の館へと向かった。  1歩、また1歩と近づくにつれ、張り詰めた空気が肌を刺す。  やがて、森を抜け、館の荘厳な姿が視界に開けた。  その入口に、彼女はいた。  まるでピクニックにでも来たかのように、何事もなかったかのように、ディエースが屈託のない笑顔で立っていた。  その能天気な佇まいは、この絶望的な状況において、あまりにも異質で不気味だった。 「おかえり、ヒーロー」  彼女は、まるで待ち合わせに遅れてきた恋人を迎えるかのように、甘い声で言った。  その瞳には、これまでの狂気の痕跡など微塵も感じられない。 「アタクシが真犯人だって、ようやく気づいた?」  あまりにもあっさりとした自白。騎士は、息を呑んだ。心の準備はしていた。だが、その悪びれない態度に、怒りよりも先に底知れぬ寒気を覚えた。 「……なぜだ」  騎士の声が、乾いた地面に落ちる。 「なぜ、こんなことを……! エリスも、ユンフェイさんも、ティンカーモンも! みんな、お前が!」 「そうだよ」  ディエースは、うっとりとした表情で自らの罪を肯定した。  そして、恍惚と語り始める。その声は愛を囁くように甘く歪んでいた。 「始まりはね、ぜーんぶ、少年のためだったのよ?  あの夜ね、少年のお部屋をこっそり抜け出した後、偶然聞いちゃったの。  ソクのおっちゃんが、『あの小僧のレジェンドアームズは極上の逸品だ』なんて、いやらし~い声で独り言を言ってるのをね。  少年が大切にしてるズバモンちゃんに、ああいう汚い大人が触ろうとしてるなんて……アタクシ、我慢できなかったんだもーん」  彼女は、ぺろりと舌なめずりした。 「だから、お掃除してあげたの。虫けら一匹、プチッてね。本当は、それで終わりで良かったんだけど……見つけちゃってたのよね。  任務に忠実で、心が壊れかけの可愛いお人形さんを」  ディエースの視線が、虚空にエリスの姿を捉える。 「あの子、談話室で話しかけたらさ。イレイザー軍にだけわかるサインを送ってたのよ。だから、私がイレイザーだって教えてあげたの。  そしてさ、色々あの少女に協力してあげたの。  アスタ商会で戯れに作ってた試作品の『シフトイレイザー』のカードを渡してあげたのも私。  そしたら、どう? 予想以上に面白い舞台になったじゃない!」  騎士は、その告白に戦慄した。すべてがこの女の掌の上だったというのか。 「そして、最高だったのはやっぱり少年よ」  ディエースの瞳が、熱を帯びた狂気でぎらついた。 「エリスをその手にかけて、罪の意識に苛まれて……あの、泣き叫ぶ顔!  最高だったわ! もっと見たい、もっと傷つけたい、もっと絶望させたいって、ゾクゾクしちゃったの!」  それは、もはや愛情などという生易しいものではない。所有欲と破壊衝動が歪に混じり合った、純粋な悪意だった。 「だからさ。我慢できなくなって新しいゲームを始めてあげたの。少年の、もっと素敵な顔を見るためにね」 「貴様っ……!」  ドラコモンが、怒りに咆哮する。 「お前が……お前が、真のデジモンイレイザーなのか!」  騎士が、最後の問いを突きつけた。その問いに、ディエースは心底楽しそうに、くすくすと笑った。 「んー、ちょっと違うかなー。見ればわかるだろうけど」  彼女は、おどけるように首を傾げると、その口が耳元まで裂けて歪む。 「変身(シェイプシフト)ッ!!」  ゴキ、ゴキ、と骨が軋むおぞましい音が響き渡る。  彼女のしなやかな肉体が、ありえない角度に捻じ曲がり、再構築されていく。  赤いボディスーツは皮膚と融合するように変色し、その表面に禍々しい虎の縞模様を浮かび上がらせた。  美しい顔立ちは見る影もなく、虎のようになった顔は墨で覆われ、口は獣のように裂け、鋭い牙が剥き出しになる。  両腕は、まるで必要ないというように、ぶちり、と肩から千切れ落ち、黒い帯となって蠢き始め、その体を伝っていく。  代わりに、豊満だった胸部はより大きくに、腹部は消失し、剥き出しの背骨が腰へと不気味に繋がっている。  太ももは膨れ上がり筋骨隆々な虎のようだが、脛から下はまるで骨のよう。  その背中には、巨大な目のついた羽が浮き出て、ぎょろりと騎士たちを睨みつけていた。  そこに立っていたのは、もはや人間の姿ではなかった。  美しさと醜さ、官能と冒涜が歪に同居する、腕のない人虎。 「これが私の本当の姿。イレイザー様に捕まった馬鹿な女とそのデジモンたちが生まれ変わった、人でもデジモンでもないスーパーデジタルクリーチャー」  その名は、『EXイレイザーͱ(ヘータ)』 「あの時の約束通り、本当の私を見つけてくれたご褒美よ。最高に気持ちいい絶望を味合わせてあげる」 第5章:『折れない心』 「……っ、化け物がッ!」  ドラコモンの絶叫が、変貌した悪夢を前にした唯一の抵抗だった。  その青い鱗は、主を操られた屈辱と怒りで逆立ち、凄まじい光と共にデータが書き換えられていく。  たとえ主がいなくとも、その魂は、その怒りは、共に在る。 「ドラコモン、ワープ進化ァァッ! スレイヤードラモン!」  復讐の竜剣士が、白銀の剣を手に、主の仇である人虎へと咆哮を上げた。 「ズバモン、俺たちも行くぞ!」 「おう、ナイトォォッ!!」  騎士の叫びに応え、ズバモンもまた黄金の光を放つ。 「ズバモン、進化! ズバイガーモン!」  2体の勇姿を前にしても、人虎イレイザーヘータはただ楽しげに、喉の奥でくつくつと笑うだけだった。  先陣を切ったのはスレイヤードラモン。その剣閃は音を置き去りにし、イレイザーヘータの喉元を正確に狙う。  ズバイガーモンもまた、その巨体を活かした猛然たる突進で追撃する。  だが、ヘータは自らその死の刃が舞う間合いへと、踊るように軽やかにステップを踏み込んだ。  スレイヤードラモンの剣を紙一重でいなし、ズバイガーモンの突進を最小限の動きで受け流す。  それはもはや戦闘ではなく、猛獣を手玉に取る調教師の戯れだった。 「遅い、遅い、おっそーい! そんなんじゃアタシの心は満たされないわよぉ!」  嘲笑と共に、イレイザーヘータの目が、ぎょろりと不気味に開く。  その瞳から放たれる圧倒的なプレッシャーが、2体の動きを僅かに、しかし確実に鈍らせた。 「くそっ、このままじゃ……! カードスラッシュ、《高速プラグインD》!」  騎士はディーアークを構え、反撃の活路を開こうとする。だが、その行動すら、ヘータの掌の上だった。 「だーめ」  イレイザーヘータの太腿から伸びる、鍵のついた黒い帯が、まるで蛇のように空間を走り、ディーアークから放たれたデータを絡め取る。  チリ、とハッキングの火花が散った。 「そのカードはね、《鈍足プラグインD》に変えといたから」  瞬間、ズバイガーモンの体に鉛のような重さがのしかかる。  自慢のスピードが奪われ、その動きは見る影もなく鈍重になった。 「あーあ、少年に裏切られて可哀想にねー、ズバイガーモンちゃん。少年は、アタシのヒーローなの」  イレイザーヘータは煽るように言うと、心底楽しそうに手を叩いた。 「そうだ、いいこと思いついちゃった! たしかティンカーモンちゃんが考えてた、ユンフェイさん最強計画だよ~ん!」  その言葉と共に、ズバイガーモンを弱体化させたものとは別の黒い帯が、鞭のようにしなり、その体を捕らえ侵食していく。 「グッ……ギギ……!」  ズバイガーモンの体が痙攣し、その瞳から理性の光が急速に消えていく。 「アームズモード」  イレイザーヘータの命令の下、ズバイガーモンは大剣へと姿を変える。  その黄金の輝きに纏わりつく黒い帯によって、まるで虎のような印象を与える。 「さぁユンフェイちゃん受け取って~」  ヘータが手招きすると、転送装置が再び作動し、洗脳されたユンフェイが、感情のない人形のように姿を現した。 「確か、ティンカーモンちゃんが夢見てた最強のユンフェイさんだよ~ん。喜んでくれるかな?」  そう言ってイレイザーヘータはズバイガーモン:アームズモードをユンフェイに渡す。  主の剣技と、レジェンドアームズの力が、最悪の形で融合する。 「さあ、お遊びの時間よ。この最強のユンフェイちゃんに勝てるかしら?」  スレイヤードラモンは、絶句した。  目の前に立つのは、敬愛する主と、友の最強の姿。その2つが、今や自分を殺すための刃となって牙を剥いている。 「ユンフェイ殿……ズバモン殿……!」  悲痛な叫びも虚しく、洗脳ユンフェイは無感情に剣を構え、スレイヤードラモンへと切りかかった。  レジェンドアームズの圧倒的な力と、ユンフェイの磨き抜かれた剣技が合わさった一撃。  究極体であるはずのスレイヤードラモンでさえ、受け止めるのがやっとだった。  キィン、と甲高い金属音が響き渡り、スレイヤードラモンの体勢が大きく崩れる。  一撃、また一撃と、容赦ない剣戟が、彼の白銀の装甲に深い傷を刻み込んでいった。  ズバモンを奪われた騎士は、その光景にただ立ち尽くすことしかできなかった。無力感と絶望が、心を蝕んでいく。 (俺のせいで……俺が弱いから、ズバモンが……!)  だが、その絶望の淵で、彼は見た。  どれだけ傷を負っても、どれだけ追い詰められても、スレイヤードラモンが、決して主と友に反撃の刃を向けることなくただ必死に耐え続けている姿を。  その瞳には、諦めの色など微塵もない。必ず主を取り戻すという、不屈の闘志だけが燃え盛っていた。  その姿に、騎士の心に再び火が灯った。  そうだ諦めるな。俺の相棒は、あんなもので終わるはずがない。  騎士は、武器も持たず、丸腰のまま剣を振るう洗脳ユンフェイの前に躍り出た。 「……邪魔だ」  洗脳されたユンフェイの無感情な声と共に、黄金の剣が騎士の肩を袈裟斬りにする。  肉が裂け、骨が軋む激痛。だが、騎士は怯まなかった。  その一瞬の隙を突き、彼は血を流す腕で、ズバイガーモンの柄を、強く、強く掴みしめた。  そして、叫んだ。魂のすべてを振り絞るように。 「ズバモンッ! 目を覚ませ! お前は、俺の相棒だろぉぉっ!!」  その言葉が、洗脳の奥底に眠っていたズバモンの魂に、直接突き刺さる。  黄金の剣がピクリと震えた。その刀身に宿る意識が、黒い呪縛に抗い、必死にもがいている。  次の瞬間、ズバイガーモンから黒い帯が、まるで焼き切られたかのように弾け飛んだ。 「……ナイト!」  相棒の声。騎士の腕の中に、温かい重みが戻ってくる。 「なっ……!?」  イレイザーヘータの顔に、初めて焦りの色が浮かんだ。黒い帯による絶対的な洗脳が、純粋な絆の力ごときに敗れた。  計算外の事態。  最終的には全員を捕獲し、自分の完璧なコレクションに加えるつもりだった計画が、脆くも崩れ始めたことに、彼女の理性が、プツン、と音を立てて切れた。 「……ムカついた」  その声は、もはや遊びの色を含んでいなかった。 「ユンフェイさん、もういいよ。全員、今すぐここで壊してあげる」 終章:『そして始まる物語』  イレイザーヘータの宣言は、絶対的な捕食者の宣告だった。  遊びの時間は終わり、ただ無慈悲な蹂躙だけが始まる。  スレイヤードラモンは、その圧倒的な殺気を前に一歩も引かなかった。ここで退くなど、四大竜の試練を超えた竜型デジモンの誇りが許さない。 「たとえ相打ちとなろうとも……貴様だけは!」  白銀の竜剣士が、最後の闘志を燃やし尽くさんと地を蹴った。だが、その英雄的な突撃は、あまりにもあっけない結末を迎える。  イレイザーヘータは、迫りくる剣閃を避けることすらしなかった。  ただ、つまらなそうに、そのしなやかな脚でスレイヤードラモンの胴体を蹴り上げた。  それだけの、単純な一撃。  だが、その蹴りは究極体の強固な装甲を、まるで卵の殻のように粉砕し、スレイヤードラモンの巨体を「く」の字に折り曲げ、遥か後方の館の壁面へと叩きつけた。  轟音と共に壁が崩落する。瓦礫に埋もれた白銀の体から進化の光が霧散し、傷だらけのドラコモンの姿へと戻り意識を失う。 「……さてと」  邪魔者を片付けたとばかりに、イレイザーヘータは騎士とズバイガーモンへと向き直る。 「アタクシ、最速最強だからさ。本気出すと速すぎて自分でもどこにいるかわかんなくなっちゃうのよね。ちゃんと目で追ってなさいよ、ヒーロー?」  その言葉を最後に、彼女の姿が、プツリと、何の予兆もなく消えた。  残像すら残らない。空間が歪む気配もない。ただ、そこにあったはずの存在が、忽然と消え失せた。 「どこだ!?」  騎士が全方位に神経を張り巡らせるが、捉えられない。その、ほんの一瞬の思考の隙。 「ここよ」  耳元で、甘い囁きがした。振り返る間もなく、背中に衝撃が走る。  次の瞬間には、イレイザーヘータは再び消え、今度はズバイガーモンを足場に、楽しげに跳ねていた。 「ほらほら、こっち!」  その声は右から、いや、左から聞こえる。まるで瞬間移動。次元の違う速度の前では、騎士たちの反撃は、空を切る風のように無意味だった。  そして、イレイザーヘータが消えるたびに、絶望が1つ、また1つと騎士の目の前に陳列されていく。  一瞬、彼女の姿が掻き消えたかと思うと、次の瞬間には、その腕に気を失ったワイズモンが、ぐったりと抱えられていた。 「まずは、賢者様ゲット~」  再び消え、現れた時には、スナリザモンごとレイラが捕らえられている。 「次は、訳ありママね」  そして、最後に、泡を吹いて気絶したベーダモンまでもがゴミのように放り出された。 「ついでに、お料理おばちゃんも」  騎士が必死で守ろうとした者たちが、あまりにもあっけなく、すべて捕獲されてしまった。  彼らの体を黒い帯が這い回り、その瞳から理性の光が消えていく。  イレイザーヘータは、騎士が築き上げた絆、守ろうとした希望、そのすべてを1つ残らず踏みにじり、騎士の心を折るための道具へと変えていく。 「どう、少年? ぜーんぶ、元通りにしてあげたわよ。貴方が頑張ったこと、なーんにも意味なかったねぇ」  その光景に、騎士は、もはや怒りさえ感じなかった。  そうだ。もう俺しかいない。ドラコモンも倒れ、仲間もすべて奪われた。  ならば、もう守るものもない。失うものもない。  あるのは、この手の中の相棒と、最後まで折れないという、ただ1つの覚悟だけ。  騎士の口から、乾いた声が漏れた。 「まだ俺の心が折れると思ってるのか?」  彼は、自らを奮い立たせるように、イレイザーヘータを挑発した。 「お前は速い。だが、攻撃はすべてその足だけ。近接攻撃しかない。なら攻撃の瞬間なら、斬れるはずだ。  さぁ正面から俺の懐に飛び込んでくる度胸があるなら、やってみろよ!」 「……へえ」  イレイザーヘータの目が、愉悦に細められた。 「いいわ。その挑戦、受けてあげる。貴方の心が、ぽっきり折れる瞬間をこの至近距離で味わってあげる」  最後の駆け引き。騎士は、ズバイガーモンの柄を強く握りしめ、全身の神経を研ぎ澄ませた。  来る。  彼女が消えた瞬間、騎士は目を閉じた。視覚は、もはやこの化物の速さには追いつけない。  肌を撫でる空気の流れ、地面を伝わる微かな振動、そして、殺気の匂い。  その全てを感知し、ただ一点に、未来を予測して、剣を振るう。 「ここだッ!!」  騎士の叫びと、黄金の剣閃が空を裂く。  それは完璧なタイミングだった。虚空から現れたイレイザーヘータを、ズバイガーモンの切っ先が寸分の狂いもなく捉える。  だが、力の差はあまりにも絶望的だった。  ズバイガーモンの刃は彼女の体に突き刺さる寸前で、まるで分厚いゴムに阻まれたかのようにぴたりと止められた。 「……やるじゃない」  イレイザーヘータの口元が、三日月のように歪む。 「でも、私に傷をつけたいならレジェンドアームズと言えど究極体を持ってこないとね」  彼女の太腿から伸びた3本の帯と、その先についた禍々しい鍵が、逆襲の鞭となって騎士へと襲いかかった。  ザシュッ、と肉を断つ生々しい音。  凄まじい衝撃と共に、ズバイガーモンの黄金の刀身が、鍵によって両断された。  そして、その勢いを殺しきれなかった3つの刃は、騎士の顔面を左顎から額にかけて深く斬り裂いていった。 「ぐ……あああああっ!」  視界が、閃光と激痛で真っ白に染まる。骨が軋む音が頭蓋に直接響いた。  切断されたズバイガーモンが、悲鳴を上げる間もなく光の粒子に分解され黄金のデジタマへと還っていく。  騎士もまた、血飛沫を上げながら、崩れ落ちるように地面に倒れた。  薄れゆく意識。遠のいていく現実。  その、生の最後の瞬きの中で、騎士は見た。  最後の幻視を。    ☆  そこは、緑豊かな渓谷だった。だが、その平和は炎と黒煙によって無残に引き裂かれている。  無数のデジタマが安置された巣が、凶暴化したメガドラモンやギガドラモンの軍勢によって蹂躙されていた。  まだ幼いパートナーデジモンを連れた子供たちが、必死の形相で応戦しているが、戦況は絶望的だった。  その中で、1人の少年が、ひときわ眩い黄金色のデジタマを胸に抱き、必死に逃げ惑っている。  だが、その背後から、メガドラモンの影が迫る。 「やめて、虐めないで! デジタマを壊さないで!!」  少年の悲痛な叫び。それは、自分の声ではない。だが、その絶望は、まるで自分のもののように騎士の魂を締め付けた。  メガドラモンは、少年の懇願など意にも介さず、その巨大な爪を振り上げる。  少年は、自らの体を盾にするように、必死にデジタマを庇った。 「やだ、やめて! この子は僕の……僕のパートナーデジモンなんだ!!」  だが、暗黒の使者たちにその祈りは届かない。  メガドラモンの無慈悲な一撃が、少年を吹き飛ばす。  そして、その腕から放たれたミサイルが黄金のデジタマを薙ぎ払った。  パリン、と澄んだ、しかし残酷な音が響き渡る。  砕け散った黄金の殻は、孵ることのなかった命の光と共に、虚空へと掻き消えた。  少年の世界が、絶望の色に塗りつぶされていく。 (……うるさい)  誰の記憶だ。知らない。こんなものを見ている場合じゃない。 (俺の相棒はまだデジタマに戻っただけだ。完全に終わっちゃいない……!)  見知らぬ少年の絶望が、黒い奔流となって騎士の意識を飲み込もうとする。  だが、騎士は抗った。自らの血の匂い、砕けた骨の痛み、そして何よりも、この手の中に残るはずのズバモンのデジタマの温もりを、必死に手繰り寄せるように。 「……戻れよ」  幻視の闇の中で、騎士は強く願った。 「俺は、まだ終われない……ッ! 俺は……相棒のデジタマを……守りぬく!!」  その強い意志が、時空の奔流を逆流する。  暗転した視界が、ゆっくりと、現実の光を取り戻していった。    ☆  現実へと意識を引き戻した騎士の目に映ったのは、苛立ちに顔を歪めるイレイザーヘータの姿だった。 「ちっ……! 面倒くさいことしてくれたわねー」  洗脳でも、消去でもない。ただのデジタマへの退化。  彼女の計算が狂ったことに、その舌打ちが苛立ちを隠さずに物語っていた。 「あー、もう失敗は消すに限る! 消してスッキリしよ!」  イレイザーヘータは、興味を失った玩具を処分するかのように、地面に転がる黄金のデジタマへと、無造作に歩み寄る。  その太ももから伸びた黒い帯が、蛇のように鎌首をもたげ、デジタマを串刺しにせんと狙いを定めた。 「させる……かよ……ッ!」  騎士は、満身創痍の体を無理やり引きずろうとした。だが、動かない。全身の骨が悲鳴を上げ、神経が焼き切れたかのように反応しない。  幻視で見た、あの光景。パートナーを失った少年の絶望。  砕け散った黄金のデジタマ。あの慟哭は、自分の未来なのだと、魂が理解してしまった。 (やめろ……やめてくれ……!)  心の中で叫ぶ。だが、その声は誰にも届かない。絶望が、冷たい泥のように心を塗りつぶしていく。  その、諦観が全てを支配しかけた、瞬間だった。  トクン、と腹の奥底で、忘れかけていた脈動が響いた。 (違う。あれは俺の記憶じゃない! でも、これだけは……これだけは絶対に繰り返させない!)  誰かの絶望ではない。今起きているこれは俺の絶望だ。だからこそ。 (俺の相棒は……俺が守るんだッ!!)  その強い、あまりにも純粋な意志が、引き金となった。  騎士の体内にある『刻の龍珠』が、主の魂の叫びに呼応し歓喜に打ち震えるようにその封印を内側から食い破った。  ズキィッ!!  脳の血管がすべて焼き切れるかのような、凄まじい激痛。  魂そのものが、過去と未来に無理やり引き伸ばされるような、おぞましい感覚。  騎士の視界が、ぐにゃりと歪んだ。  イレイザーヘータが振り下ろそうとする黒い帯の動きが、まるで水飴の中を進むかのように、無限に引き伸ばされていく。  遅い。  肉体は、もう騎士の意志とは無関係に動いていた。  騎士の強い意思で暴走した龍珠の力が、満身創痍のはずの体を、時空の理を超えた操り人形のように動かす。  騎士の体が、残像を残して掻き消えた。彼はデジタマと彼女の間に滑り込んでいた。  勝てなくていい。ただ、この温もりだけは、絶対に失わせない。  騎士は、最愛の相棒が遺した最後の光を自らの背中で庇うように覆いかぶさった。  ザクリ、と肉を抉る鈍い音。  イレイザーヘータの帯の先端についた鍵が、何の躊躇もなく騎士の背中を深々と貫いた。 「ぐ……あ……」  今度こそ、意識が完全に暗闇へと落ちていく。  遠退く思考の中、彼はただ腕の中のデジタマの確かな重みだけを感じていた。  守れた。それだけで、良かった。 「ふぅん。そんなに大事だったんだ。よしよし、ちゃんと守りきって偉いわね、ヒーロー」  イレイザーヘータは、まるで愛しい子供に褒美を与えるかのように、その髪を優しく撫でた。 「でも、もう邪魔はいないわね。さ、今度こそ、お掃除の時間よ」  彼女が、3度、デジタマへと黒い帯を振り上げた、その瞬間だった。  ゴォォォッ、と背後のワープゲートが、これまでとは比較にならないほどの激しい光を放って起動した。  閃光の中から現れたのは、純白の鎧に身を包んだ、気高き剣士。  その右手に握られた聖剣デュランダルが、日の光を反射し、神々しく煌めいていた。  白きデュランダモンは、現れるや否や、イレイザーヘータが放った黒い帯を、聖剣の一閃でいとも容易く弾き返した。 「なっ……!?」  驚愕するイレイザーヘータの前に、ゲートからゆっくりと一人の男が歩み出る。  その姿を見て、彼女の顔が、初めて本物の驚きに染まった。 「……赤城……鋼太郎!? 馬鹿な、エリスちゃんが消したんじゃなかったの……!」 「フン、その名で呼ばれるのも1日ぶりだな」  男は、忌々しげに呟くと、ゆっくりと事の真相を語り始めた。 「3日目の朝、僕が牢にいる時、ゴッドドラモンが密かに訪ねてこられた。彼は、取引を持ちかけてきた。 『貴方の潔白は信じよう。だが、もはや誰が敵か分からぬ。どんな手段を使ってでも、この館で起きたことの最後の証人となってほしい』と」  赤城の瞳が、遠い記憶をたどるように細められる。 「僕はその取引を受け、消失を偽装した。君たちが朝食を摂っている頃に牢から出してもらい、自らの手で、あの牢を破壊した。  その後、館の外周部……システムの監視が届かぬさらなる地下へと潜み、息を殺していたのさ。  ゴッドドラモン殿が牢への道を封鎖したのは、私を隠すためだ。  あの隠し通路は、エラーで閉じ込められた場合、内側から破壊して脱出できるようになっている。 『もし明日の朝、私が牢への封鎖を解かなければ、何かが起きたということだ』と、彼は言い遺してな」  赤城は、そこで一度言葉を切ると、イレイザーヘータを射殺さんばかりの鋭い視線で睨みつけた。 「そして、その『何か』が起きた。だから出てきた。  ゴッドドラモン殿の言う通りあの牢こそが、この館でもっとも安全な場所だったというわけさ」  全ては、竜神が遺した最後の策謀だったのだ。  その時、森の方から、新たな2つの影が駆けつけてきた。 「影太郎さん!」  快活な声と共に現れたのは、彼とコンビをくんでいたパーカーを着た少女、赤城アカネと、そのパートナーであるシャニタモンだった。 「アカネ! そこの少年とデジタマを頼む……!」  赤城鋼太郎――いや、本名を秋月影太郎と呼ばれる男は、彼女に騎士の保護を命じる。  アカネは、ただならぬ様子に頷くと、シャニタモンと共に倒れた瀕死の騎士に、仲間が作った特製の回復薬を打ち込む。  そして、黄金のデジタマとともに手際よく安全な場所へと運び始める。  守るべきものを託し、影太郎は、もはや何の躊躇いもなくその剥き出しの憎悪をイレイザーヘータへと向けた。 「僕の目の前で……! あの時のように、デジタマを消そうとした貴様だけはッ! 絶対に許さんッ!!」  それは、学者を演じていた男の仮面の下に隠されていた、彼の本質。  過去に深い傷を負った1人の復讐者の咆哮だった。  秋月影太郎の剥き出しの憎悪が、イレイザーヘータへと突き刺さる。  デュランダモンが聖剣を構え、今まさに最後の戦いの火蓋が切られようとした、その時だった。  空が、唐突に影に覆われた。  見上げれば、巨大なデジシップが音もなく上空に滞空し、その船底から一筋の影が凄まじい速度で降下してくる。 「アミーゴ! 助けに来たぜぇ~!」  陽気な声と共に現れたのは、眼の前のイレイザーヘータと同じく異形の存在だった。  蟻を思わせる外骨格と6つの手足。その全身には、無数の重火器が無造作に搭載されている。  そして何より異様なのは、頭部が存在しないことだった。 「『EXイレイザーϸ(ショー)』様が来たからには、もう安心だ!」  その名は、影太郎の脳内に直接響くように、認識された。  イレイザーショーは、降下しながら、その両腕に持つ銃から水の銃弾を乱射する。  だが、その銃弾は誰かを傷つけるものではなかった。  空中に展開される魔法陣を通過するたびに、水滴はきらめく光の粒子へと変わり、影太郎たちの足元へと、まるで優しい雨のように降り注いだ。  瞬間、彼らの足元に、複雑な紋様の魔法陣が浮かび上がる。 「しまっ……! 強制転送か!」  影太郎が叫ぶが、もう遅い。  眩い光が視界を焼き、強烈な浮遊感が全身を襲う。  抵抗する間もなく、彼らの体は、この絶望の舞台から、強制的に退場させられていった。  ワープアウトした先は、新たなデジモンの誕生と再生を司る聖地、フォルダ大陸に存在する『はじまりの街』だった。 「くそっ……! あと一歩だったというのに……!」  影太郎は、悔しげに地面を叩いた。だが、今は感傷に浸っている場合ではない。  彼の視線の先には、アカネとシャニタモンに抱えられ、ズバモンのデジタマを胸に抱いたまま、静かに眠る騎士の姿があった。  その顔に刻まれた生々しい傷跡が、この戦いの凄惨さを物語っている。 「急いで! ケンタル医院へ運ばないと!」  アカネの声に促され、影太郎は憎しみを胸の奥に押し込め、騎士を抱え上げると、街へと駆け出した。    ☆  一方、青嵐の館の前では、イレイザーヘータの姿から戻ったディエースが、忌々しげに舌打ちをしていた。 「ちぇー、邪魔が入っちゃった。シエーン、余計なことしないでよ」 「おっとすまねぇ、アミーゴ。ま、そんなに支障はないだろ?」  軽口を叩くシエーンの隣で、セーロがじっとりとした視線をディエースに向ける。 「おやおやシエーンを責める前に、吾輩の目は誤魔化せませんぞディエース殿」  セーロは浮遊装置の上でふんぞり返り、品定めするような目で続けた。 「あの少年、どうして殺さなかったでありますか? 最後の一撃、やろうと思えばデジタマごと貫き、消滅できていたはずであります」  その追及に、ディエースはつまらなそうに鼻を鳴らした。 「『刻の龍珠』の消滅を優先したのよ。あの一撃で、あの少年の記憶と、『刻の龍珠』も、綺麗にイレイズしてあげたから。  もうあの子の中にはズバモンとの思い出も、この館での絶望も、何も残っちゃいないわ。その後はあの白いのに防がれちゃった」 「それはそれは、お優しいことでありますなぁ」  セーロの口調が、さらにねっとりと甘くなった。 「てっきり、吾輩はディエース殿があの少年に何か特別な思い入れでもあるのかと、勘繰ってしまったでありますよ。  我々、デジモンイレイザー様のエイリアスたる『クリーナーズ』の流儀からすれば、随分と甘い処置でありましたからなぁ」  その挑発的な言葉に、ディエースの纏う空気が、ピリ、と変わった。  彼女はゆっくりと振り返ると、これまで見せたことのない、恍惚と狂気が入り混じった妖しい笑みを浮かべた。 「あるに決まってるじゃない」  その声は、恋する乙女のように弾んでいたが、瞳の奥には獲物を嬲り殺す捕食者の光が宿っている。 「私のことを、わざわざ時間を超えてまで見つけ出してくれた子よ? 女の子なら運命を感じて当然じゃない。ねえ、そうでしょ?」  彼女はうっとりと目を細め、自らの指先を唇でなぞった。 「これで少年は、アタシと同じになったの。過去も、記憶も、大事なものも、ぜーんぶ失くした、空っぽの人形に。面白いでしょ?  それでもし、真っ白になった彼が、また私のもとにたどり着くっていうのなら……その時は、特別に私たちの仲間に入れてあげようかなって」  その歪んだ独占欲に、シエーンは「へっ相変わらずだな、アミーゴは」と面白そうに笑い、セーロは「やれやれであります」と呆れたように首を振った。 「しかしこの館はいい拠点だねぇ」  シエーンが、再生されたばかりの緑豊かな大地を見渡し、満足げに言う。  話題は、もはやディエースの歪んだ恋情から、より現実的なものへと移っていた。 「うむ! このエリアを切り取って吾輩たちのゾーンにさせてもらうであります!!」  この日、デジタルワールドの地図から、青嵐エリアは忽然と消失した。    ☆  時は過ぎ、はじまりの街、ケンタル医院。  騎士の意識は、真っ白な世界を漂っていた。  白いベッドの上で、彼は静かに眠り続けている。  その胸の上には、黄金のデジタマが。彼の心臓と呼応するように、微かな、しかし確かな温もりと光を放っていた。  やがて、眠り続ける彼の頬を、一筋の涙が静かに伝った。  そのたった1つの小さな命を救う代償は、少年自身のすべてだった。  両親に与えられた名も、友と育んだ絆も、喜びも、悲しみも、彼が生きてきた物語は奪われ、そこには空っぽの器だけが残された。  だが、無になった少年の手に残された、唯一の真実。守り抜いた命の黄金の温もり。  その小さな鼓動こそが、彼の最初の記憶となり、最初の絆となり、そして、真っ白な未来という地図に記される、唯一の道標となるだろう。  The Knight's Lost Memories. Fin. エピローグ:『イレイザー』  光の粒子が、ロビーの床で静かに渦を巻き、寄り集まり、やがて人の形を成していく。  エリス・ローズモンドは、まるで深い眠りから覚めるかのように、ゆっくりとその瞼を開いた。  目の前には、見慣れた赤いボディスーツに身を包んだディエースが、にこやかな笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。 「おはよう、エリスちゃん。よく眠れた?」  その声には、何の感情も温度もなかった。エリスはゆっくりと身を起こし、自分の手を見つめる。  騎士に貫かれたはずの胸、竜神の炎に焼かれたはずの肌。そこには、痛みも傷跡も、何一つ残っていなかった。 「……約束通り、生き返らせてくれたのね」 「当然でしょ? 優秀な道具は、壊れたら修理してまた使うのが一番効率的じゃない。感謝しなさいよね」  感謝も、喜びもない。ただ、契約を履行した者と、された者との間の、乾ききったやり取りだけが、静寂の中に響いた。  ディエースは、まるでこれから始まる舞台の幕開けを告げるように、楽しげに手を差し伸べた。 「ちょうど今から面白いショーが始まるんだけど、見る? 感動の再会劇よ」  その言葉に誘われ、エリスは、何の感情も映さない虚ろな瞳のまま、食堂へと足を向けた。  食堂の中央では、かつてベーダモンが腕を振るった厨房の代わりに、自動調理器が禍々しい青い光を放ち地響きのような駆動音を立てていた。  その前で、悪夢の続きが演じられていた。  洗脳を解かれたレイラとスナリザモンが、蘇生させられたかつての部下たち『グラニットガーディアンズ』の面々と再会を果たしていた。 「みんな……すまない……! 私が、お前たちを見捨てたばかりに……!」  レイラは涙ながらに罪を告白し、罵倒されることを覚悟した。だが、返ってきたのは、彼女の心を根こそぎ抉り取る、歓喜の声だった。 「何言ってんだ大将! あんたの判断は正しかったぜ!」 「そうだ! 俺たちを犠牲にしてでも生き延びる! それこそ俺たちが惚れた悪女! 大将の器量じゃねえか!」  これが悪党の価値観。彼らは、見捨てられたことすらも、彼女の冷徹な判断力として、心からの賞賛を送っていた。  生まれ変わろうともがいていた彼女にとって、過去の自分を肯定されることこそが、最大の罰だった。 「違う……私は……もう、そんな人間じゃ……!」  耳を塞ぎ、その場に崩れ落ちるレイラの姿を、ディエースは心底楽しそうに眺めていた。 「ねぇレイラさん、辛い?」  苦しみもだえるレイラの耳元で、ディエースが悪魔のように甘く囁く。 「過去の罪からも今の苦しみからも、ぜーんぶ解放させてあげる。記憶なんて消しちゃえばいいのよ。  ただの真っ白な人形になれば、もう何も感じなくて済むわ。それが本当に生まれ変わるってこと」 「ママを騙すな!」  スナリザモンが、主を守ろうとディエースに飛びかかる。  だが、彼女の体から伸びた黒い帯が、まるで鬱陶しい蝿でも払うかのように軽くいなし、スナリザモンは壁に叩きつけられ気を失った。  レイラは、もはや抵抗する気力もなかった。  この苦しみから解放されるのなら。  彼女は最後に一度だけ、動かなくなったスナリザモンを強く、強く抱きしめた。 「ごめんね……。私にはやっぱり、あなたを育てる資格がなかったみたい……」  涙ながらにそう呟くと、彼女は自らの意思で、青い光を放つ改造された調理器へとゆっくりと歩み寄っていった。  レイラ、そして気絶したままのスナリザモン、グラニットガーディアンズの面々が、次々と調理器の光の中へと吸い込まれていく。  内部で金属が軋むようなおぞましい音が響き、やがて排出トレイから現れたのは、青い宇宙服のような無機質な装甲に身を包んだ、個性のない兵士だった。 「これが、アタシたちの玩具、イレイザー。人間とデジモンの融合体。  えーっと、マニュアルによると元々はデジタルワールドの作成者がエンシェントツリー、即ちイグドラシルを用いて作った存在らしいのよ。  その力は究極体6体を連れたゴールドランクのテイマーに勝てるが、進化も退化も必要ないからサーバーへのストレスも少ない。  記憶も自我も、感情もない。ただ命令に従うだけの、完璧な人形よ」  ディエースの言葉に、エリスが食堂の隅に視線を向ける。  そこには、既に同じ姿の兵士たちが、ずらりと機械的に整列していた。 「ああ、あれ? ソクのおっちゃんとマスターティラノモンにゴッドドラモンを混ぜたやつ。  隣のはユンフェイさんとドラコモンくんにティンカーモンちゃんを混ぜたの。み~んなイレイザーになってもらったわ」  その光景は圧巻であり、そして絶望的だった。  ディエースは、1枚のカードをエリスに見せる。 「貴女に使わせた『シフトイレイザー』のカード。あれは、この子たちの戦闘形態をカード化した試作品。  エリスちゃんのおかげで四大竜にも通じるといういいデータが取れたわ。疑ってたけど本当に権限が上なのね」  自らの切り札が、この無個性な兵士を量産するための、ただの実験に過ぎなかったという事実。  それが、エリスの砕け散ったプライドの欠片を、さらに細かく踏み潰した。  ディエースは、エリスと、蘇生させられてその傍らに佇むフローラモンに、最後の選択を迫った。 「さて、エリスちゃんはどうする?  今までの働きに免じて、木竜軍団に戻してあげてもいいわよ。デュアルビートモンも、優秀な部下が戻れば喜ぶでしょうね。  ……それとも、もっと楽で、気持ちよくて、強くなれる道を選ぶ?」  その言葉に、フローラモンが必死に主の手を握る。 「エリス、もう一度、戦いましょう……! 今度こそ、復讐を……!」  だが、エリスの心はとうに壊れていた。戦う意志も、復讐心も、燃え尽きていた。 「……楽に、なりたい」  彼女はフローラモンの手をそっと振り払うと、何も映さない虚ろな瞳で、自ら調理器へと向かった。  主人の後を追うように、絶望したフローラモンもまた、調理器の青い光の中へと、その身を投じた。  新たな『イレイザー』が生産され、完璧な兵士の列に加わる。  その無個性な集団の中には、かつて騎士と絆を結び、戦い、涙した者たちの姿があった。  彼らの魂はもはやどこにもない。  ただ、新たな命令を待つだけの、空っぽの人形が並んでいるだけだった。