再び始まる海の冒険(嘘)第二部 2-1 昼下がりの告白  十件ほどの議案書に目を通して承認のサインを入れると、それで今日の仕事は終わりだった。 「お疲れ様でした、陛下」  パネルを受け取って出ていくアルマンを見送って、俺はひとつ伸びをした。昼まではまだ時間がある。 「少し散歩でもしようかな。リリス?」  振り返ると、仕事中一言も発さずに背後に控えていたブラックリリスが、静かに頭を下げた。  初夏のリヨンは緑のにおいがした。石畳の上を吹いてくる、かわいた風が気持ちいい。  仕事中か休憩中か、通りを行き交うバイオロイド達が手を振ってくれるのへ挨拶を返しながら、のんびりと大通りを歩く。 「午後は近くの共同体を視察だったよな。何か、準備しておくことある?」 「お車の準備は整っております。一応タイムテーブルもありますが、短いものなので移動中にでも目を通していただけば十分かと」  昔からオルカにいる子や、最近合流したばかりの子。まだ合流するかどうかを決めかね、見学に来ているだけの子。多くのバイオロイドとこうして触れあい、この目で様子を確かめるのも大事な仕事だ。  そう、決して仕事がし足りないなんて思うべきではない。面白半分で冒険に出かけるのもなしだ。幹部級メンバー全員から、順番に一対一でこんこんと説教され続けたあの一日は控えめに言って地獄だった。二度とあんな目に遭わないためにも、当分は余計なことをせず、皆が望む理想の司令官でいようと思う。  それに、散歩に出た理由はもう一つあった。 「午後はシフトも交代だよね」 「はい。ペロとフェンリルがお供させていただきます」  それならやはり、今片付けておいた方がよさそうだ。川沿いの並木のすみにちょうどいいベンチを見つけて、俺は腰を下ろした。リリスにも隣に座るよう促す。 「なあリリス。最近、元気がない気がするんだけど。何かあった?」 「いえ、何も……」 「……」 「……」  さっき「幹部級メンバー全員から説教された」と言ったが、正確には全員ではない。リリスはそこにいなかったのだ。  俺があの正体不明の地下施設を探検していた時、コンパニオンは休暇で海水浴に行っていた。それは俺が休暇を出したからだが、自分が休んでいる間に俺が危険な目に遭ったなどというのは、いつものリリスなら誰よりも取り乱しておかしくないはずだ。半狂乱になって怒鳴り込んでくるのをなかば覚悟していたのだが、リリスは最後まで俺のところに来なかった。  それ以来、彼女の様子がおかしい。  もしかして、とうとう愛想を尽かされてしまったのだろうか。いや、それならまだいい。逆に、変な風に自分を責めておかしくなっているのではないだろうか?  リリスは目を伏せ、俺と視線を合わせようとしない。それでもじっと待っていると、とうとう観念したように顔を上げた。 「……そうですね。今日、告白しようと思っていました。ご主人様、申し訳ありません。リリスはご主人様に嘘をつき、騙しておりました」 「騙していた?」 「シデンさん」  リリスは突然、この場にいない人物の名を呼んだ。その視線を追って、自分の足下に目を落とした俺は仰天した。 「うわあああ!?」  日射しが芝生の上に、くっきりと黒い俺の影を落としている。その影の中から、シデンの頭がにゅっと現れたのだ。  シデンはそのまま、水から上がるようにするりと影を抜け出し、リリスの隣に立った。 「ムラサキ流忍法、潜り影。元はツキカゲ流の奥義だったのを儂が盗み出し、磨き上げた秘術じゃ。どうだ、驚いたじゃろ」 「驚いたけど……」  それが今、この状況と何の関係があるのか。ぽかんとしている俺に、シデンは続けた。 「あの日、お主らが探検に行っておった日もな。儂は、この術でお主をこっそり護衛しておった」 「え? こっそり……護衛……?」  言葉の意味が頭に浸透してくるにつれ、俺は愕然とした。 「ずっと俺と一緒にいたのか? 俺たちが地下を探検していた時も、鉄虫が出た時も?」 「ああ」 「トリアイナが落ちた時も!?」 「その通りじゃ」 「なん……」  なんで助けてくれなかったんだ、という俺の言葉を予想していたように、シデンは言った。「お主に一人で、自由にふるまってもらうためよ」 「私がそのように依頼したのです。ご主人様自身の身に危険がおよぶまでは、何があっても手出しは無用と」  リリスは地面に膝を突いて、深く頭を垂れた。  ―――― 「ご主人様の秘密警護をお願いしたいのです」  司令官公邸の使われていない部屋にシデンを呼び出したブラックリリスは、単刀直入に言った。 「……引き受けてもよい。じゃが、なぜ儂に? そして、なぜ秘密にする必要がある?」  用心深くシデンは問い返した。彼女が司令官の警護隊長であることはシデンも知っている。一、二度模擬戦の相手をしたが、個人的な会話をしたことは一度もない。 「ご主人様がこのたび、私達コンパニオンに休暇をくださいました」シデンの質問に答える代わりに、リリスは続けた。 「ふむ?」 「もちろん、私達のためを思ってのことでしょう。ですが、つかの間でも私達に見張られることなく、自由気ままにお過ごしになりたい……そんなお気持ちもあるのだろうと、私は推察しています。そのお気持ちは尊重しなくてはなりませんが、だからといってご主人様を専任警護もなしに放っておくことなど絶対にできません」  それは少し、気を回しすぎではないか……という揶揄を、シデンは飲み込んだ。リリスの目は真剣そのものだ。 「スペックノートを拝見しました。ちょっと信じられないのですが、シデンさんは人の影の中に潜ることができるそうですね」 「実際に潜るわけではないがな。光学迷彩と光吸収性ホログラフィを組み合わせて……まあ理屈はよい、それに近いことができるのは確かじゃ。つまり、潜り影の術で、本人に気どられぬようあやつを警護してほしい、と?」 「はい。ただし、あくまでご主人様が自由に行動している体を崩さないよう、ご主人様の身が本当に危なくなるまでは手を出さないでほしいのです。何があっても」  “何があっても”……その言葉に含まれた意味は、シデンにも理解できた。「あやつが、それを是とするか?」 「それは関係ありません」リリスは言下に答えた。 「ご主人様の安全を守ること。ご主人様の望みをかなえること。重要なのはそれだけです。私や私の行動がどう思われようと、それは二の次です」  うすぐらい部屋の中で、リリスの眼差しだけが炯々と輝いていた。 「……オウカといい、あやつ忠義な部下に恵まれすぎじゃ」シデンは息を長く吐いて、組んだ腕をほどいた。 「お役目、確かに承った。任せてもらおう」 「ありがとうございます。もしご主人様に見つかった時は、私の指示だと正直に仰って下さい。あなたには決して咎が及ばないよう尽力しますので」 「そんな真似はせぬ。ばれた時は、一緒に頭を下げようではないか」  ―――― 「儂が手を出したのは一度だけ、洞窟を脱出するのに、崖からお主らが飛び降りた時じゃ。セイレーン殿に気づかれぬよう、こっそり岸へ後押しをさせてもらった」  全然気づかなかった……。まだ呆然としている俺の肩に、シデンがそっと手を置いた。 「のう、小僧。儂もこの数ヶ月でほとほと思い知ったが、オルカのバイオロイド達はみな、お主を心から慕っておる。いつでも思っておるのだ。お主に尽くしたい、お主のためになることをしたい……そしてまた、お主の嫌がることはしたくない、お主の気分を害したくない、とな」 「……」 「お主はそんなことを望んではおらぬかもしれん。じゃが望んでおらぬからといって、無いものにはならん。皆がお主のために何をしておるか……のみならず、何をせずにおるか。そこへもう少し目を向けてよいのではないかな」  胸に突き刺さる言葉だった。そして同時に、あの一日中続いた説教の中で、誰ひとり口にしなかった言葉でもあった。  俺は自分で思うよりはるかに、バイオロイド達の配慮に包まれて生きているのだ。わかっているつもりだったのに、何度でも思い知らされる。 「すまんな、新参者の分際で口幅ったいことを言った。じゃが、新参者なればこそ見えるものもある。年寄りの愚痴と思うてくれい」 「いや、ありがとう。胸に刻むよ」  俺はシデンに頭を下げてから、リリスの方へ向き直った。膝を突いたままのリリスに、俺もしゃがみ込んで目線の高さを合わせる。  あの時コンパニオンに休暇を出したのは、姉妹揃ってゆっくり休んでほしいという気持ちからだった。でも確かにリリスの言うように、たまには警護抜きで、気ままに行動してみたいという欲求がなかったとはいえない。 「リリスも、ありがとう。いつも俺のわがままに付き合わせてすまない。俺が今でも五体満足で生きてるのは、リリス達のおかげだ」 「ご主人様……」  涙に潤んだ目が俺を見た。俺は彼女の手を取って、強く握った。 「どうかこれからも、警護のために君が必要と思ったことは何でもしてくれ。たとえ俺に秘密だったり、俺の意に反することでも構わない。俺がそれを悪く思うことはないと約束する」  リリスは黙って、俺の手を引き寄せた。手の甲に、熱い涙がぽたぽたと落ちるのを感じた。  俺はリリスの手を引いて立ち上がった。気がつけばもう昼近い。「二人とも、昼飯を一緒にどう? 今日は和食だって言ってたよ」 「悪くないの」 「リリスも。せっかくの機会だし、シデンと一緒に護衛の苦労話とか聞かせてよ」 「……苦労など、何もありません」リリスは目元をぬぐって微笑んだ。「でも、せっかくのお誘いですので、ご相伴にあずからせていただきます」  そうして俺は右手にリリスの、左手にシデンの手を握って公邸に帰り、楽しい昼食の時間を過ごした。  それから二週間ほど後のことだった。  南米に向かったトリアイナ達が帰ってこないという知らせが入ったのは。 2-1B 闇の中で  目を開けても、閉じても、何も変化がなかった。  それほどに濃密な闇だった。トリアイナは自分が本当に目を開けているのか自信がなくなってきた。  やがて混濁していた意識が急速に覚醒をむかえ、トリアイナは跳ね起きた。 「…………!!」  殴りつけるようなひどい頭痛が襲ってくる。額を押さえて、何が起きたのか思い出そうとする。  南米。海賊の楽園、憧れのカリブ海。奇怪な鳥の鳴き声のような音が聞こえてくるという島の噂を聞いた。  その島の中腹には大きな洞窟があり、正体不明の微弱な電波さえ検知した。これは絶対なにかある。喜び勇んでみんなで入ってみたところ…… (落ちた……んだったよね?)  そのあたりの記憶が今ひとつはっきりしないが、落下したのは確かだ。トリアイナは体の上に積もった砂利と土を払いのけた。 「……そうだ、みんな! ディオネ!」  声に出して見回しても、何も見えないのは変わらない。しかし反響で、それなりに広い空間にいるとわかった。手を伸ばして周囲を探る。むき出しの素足と手に触れるのは、ザラザラゴツゴツとした濡れた感触。泥と、岩だ。中腰で立ち上がり、両手で地面をさすりながら探索の範囲を広げていく。 「落ち着いて、落ち着いて。私は最高の探検隊長。パニックなんか起こさない。いつでもみんなを守る……」  世界最高の探検隊長であるトリアイナは大抵のものは平気だが、暗闇と孤独のセットだけは好きではない。たった一人で海の底に潜り、見つけるものといえば仲間の遺骸ばかりだった、あの頃を思い出すからだ。少しずつ速くなる指先に、つるつるした曲面が触れた。 「ソーフィッシュ!」  愛機のことなら、見なくても何がどこにあるかわかる。飛びついてライトのスイッチを入れると、まばゆい光の円錐が暗闇を切りとった。  意外なほどすぐ近くに皆はいた。ディオネ、セイレーン、ネレイド、ウンディーネ、テティス。全員砂利の中に埋もれ、一番奥のテティスは壁から半身が生えたようになっている。駆けよって全員息があることを確かめてから、トリアイナはまずディオネを引きずり出した。 「起きて、ねえ、起きて!」 「ん……お姉ちゃん…………?」  ぼんやりと焦点の合わない目をトリアイナに向けていたディオネだが、すぐに覚醒して状況を認識する。 「お姉ちゃん、水ある? ソーフィシュに救命キット入ってたよね」 「そうだった、出してくる」 「あと、この音なに?」 「音?」  トリアイナもその時初めて気づいた。ソーフィッシュの駆動音の反響に、別の音が混じっている。重たく硬質で、しかし妙に軽やかにステップを踏みつつ迫ってくるこの音は…… 「鉄虫!?」  二人が声に出すのと同時に、暗闇の中に赤く渦を巻いた瞳が浮かび上がった。  トリアイナは救命キットをディオネに投げると、そのままソーフィッシュのシートにつく。 「私が相手するから、ディオネはみんなを起こして!」  ディオネも余計なことは言わず、キットを受け取ってすぐ救助にかかる。今はそれが最善手だとお互いわかっている、姉妹の呼吸だった。  幸いにも鉄虫の数は少なく、ソーフィッシュ一機で楽に撃退することができた。そのあいだに他のメンバーも無事意識を取り戻し、なお幸いなことに誰も大きな怪我はしていなかった。 「とにかく、ここをすぐ離れましょう」  経緯を聞いたセイレーンが真っ先に言った。鉄虫は群れで行動する。なぜここにいるのかはわからないが、あれで全部ということはまずない。おそらく先遣隊か、偵察隊だろう。 「テティス、上へ行ける? 私たち、落ちてきたと思うんだけど」  背中の装備をごそごそやっていたテティスが首を振った。「ダメです。ローターが歪んじゃいました」 「私のラファールユニットは大丈夫みたいだけど……」  ウンディーネが装備の照明を奥の壁へ、それから天井へ向けた。泥と砂利がどこまでも積み重なり、落ちてきたはずの穴はどこにも見えない。 「これ、ただ穴に落ちたんじゃなくて、天井ごと崩れたんじゃない? 完全に埋まっちゃってるわ」 「ネリがよじ登ってみようか」 「やめておきましょう。土が脆いですし、また崩れたら困ります」セイレーンが止めて、あらためてあたりを見回した。「戻れない以上、奥へ進むしかないと思いますが……トリアイナさん?」 「もちろん、進みましょ!」トリアイナはソーフィッシュから勢いよく飛び降りて胸を叩いた。「もともとこの洞窟を探索するつもりだったんだし。これぞロマンってもんよ!」 「ええ〜」テティスが顔をしかめた。「探検隊ってこんな行き当たりばったりなんですか? ついてくるんじゃなかったあ……」 「ついてきたんだから、ぶつくさ言わない」 「まあ、お姉ちゃんが行き当たりばったりなのはその通りですけど」  六人と一機は騒がしく歩き出す。  その足音がゆっくり遠ざかっていくのを、血のように赤い瞳がじっと見つめていることに気づいた者はいなかった。 2-2 グレナディーン諸島 《トリアイナとディオネ、ホライゾン隊員からなる六名の探検隊がヨーロッパ本部からカラカスに到着し、ラ・グアイラで大型ヨットを一艘借りたところまでは確認できた。カリブ海に向かうと言っていたそうだ》  龍から報告があったのは、知らせを聞いた翌日のことだった。  本当なら自分で探しに行きたいところだが、何しろあんなことがあった後ではちょっと動きにくい。またあの地獄の一日を繰り返すのはごめんだ。幸い、龍の乗っている巡洋艦が南米にいたので、頼んだところ二つ返事で承諾してくれた。 《ヨットは一週間で返却するか、もしくはレンタル延長の申し入れをすることになっていた。しかし今日まで何の連絡も入っていない》 《私はイントラネットの履歴を調査した》アルバトロスが付け加えた。運のいいことに、彼も装備のテストで同じ艦に乗っていたのだ。 《該当のバイオロイド集団はラ・グアイラ市内に一泊し、情報ネットを何度も利用している。強い関心を示した語句をピックアップすると、「海賊の秘宝」「ナチスの隠し財産」……そして「グレナディーン諸島」だ》  この二人が組んで調査してくれるなら、俺が下手に何かするよりずっと確実だ。実際こうして、あっという間に捜索の手はずを整えてくれた。 「グレナディーン諸島って?」 《カリブ海の東端にある島々だ。小さな無人島が数百も点在していて、旧時代には富裕層のリゾート地として使われていた。海賊の秘宝といった伝説も……まあ、あったようだな》龍の言葉からは、苦笑しているような気配が伝わってきた。 《実に低俗なロマンチシズムだ》対照的にアルバトロスの口調は冷淡そのものだ。《単純に、その探検とやらに熱中して連絡を怠っているだけという可能性はないのか》 「トリアイナはああ見えて、安全に関わる決まり事はきちんと守るタイプだ。ディオネもいるし、その可能性は低いと思う」 《何より、ホライゾンの隊員が一緒だ》  龍もきっぱりと言った。《彼女たちが海の規則を破ることなど絶対にない》  アルバトロスもそれ以上何も言わなかった。龍がもういちど地図を呼び出す。 《小官らはこれからグレナディーン諸島へ向かう。先ほど言ったように数百の島があるから、簡単にはいかないかもしれないが……いくつかの島には、バイオロイド共同体が生活していると報告されている。情報収集ついでにオルカへの勧誘もしてくるつもりだ》 「よろしく頼む」  通信画面を切って、俺はデスクに向き直った。二人とも頑張ってくれている。こちらでできることは何もない。雑念を振り払って、今日の仕事に集中することにた。  その翌日、早くも龍から次の連絡が入った。 《貸し出されたヨットを発見した。探検隊が上陸したのはこの島で間違いないだろう》 「見つかったのか! どこなんだ?」  さすがは龍だ。しかし喜ぶ俺と裏腹に、龍の声は沈んでいた。 《位置的にはバトヴィア島の近くだが、名前もついていない小さな島だ。中央に山があり、中腹に小さな洞窟がある》 「じゃあ、そこに入っていったんじゃないか」 《小官もそう思う。しかし……》  龍が言いよどみ、アルバトロスが後を続けた。《洞窟は100メートルほど入ったところで埋まっている。ここ数日以内に崩落があったようだ》  背筋を冷たいものが走った。  つまり、トリアイナ達は洞窟の中に閉じ込められた……? 《取り急ぎ救出隊を編制した。今、機材を下ろしてキャンプを設営している。申し訳ないが、少し長丁場になりそうだ、主》 「……ありがとう。頼む」  俺はそう言うのがやっとだった。何が申し訳ないものか。ホライゾンは龍の部下だ。しかも探検隊のセイレーン01は、オルカに一番古くからいたセイレーンだ。マーリンが来るまでは龍の副官を務め、龍が手塩にかけて育ててきたセイレーンなのだ。心配でないはずはない。 《もう一つ、些細な情報だが報告しておこう》言葉が出ないままの俺に、アルバトロスが付け加えた。《近隣住民への聞き込みによれば、この島には奇妙なニックネームがつけられている》 《アルバトロス中将、それは》龍が眉をひそめる。 《どんなことでも報告すべきだ。何が手がかりにつながるかわからない》 「何だ? ニックネーム? 教えてくれ」俺が先をうながすと、アルバトロスは続けた。 《……悪魔の鳴く島、と》 2-2B さまよえる探検隊 「ねえ、気のせいかもしれないけど」 「はい」 「この洞窟って、めちゃくちゃ広いんじゃない?」 「はい……」  歩けども歩けども、洞窟の風景に変化はない。  たまに鉄虫と出くわしては、少数なら倒し、大勢なら逃げる。闇の中で昼夜はわからないが、時計ではすでに丸一日近くが経過し、方角もわからなくなりはじめていた。 「方向はこっちであってるんですよね?」 「あってるわよ。……たぶん」 「たぶん!?」 「いやいやいや、ちゃんと調べながら進んでるからね! えーと、そうだ、風向きとか!」 「この人が探検隊長で大丈夫なんですか? 毎回こんななんですか?」 「……」 「…………」 「あれ、誰もフォローしてくれない……?」  一行の間に沈滞した空気がただよい始めた頃、突然ディオネがぱん、と一つ大きく手を叩いた。 「ご飯を食べましょう!」  皆がぽかんとした顔になる。「ご飯?」 「ずっと歩いてるし、疲れてお腹空いてるといい考えも出ないですよ。ほら、あのあたりとか平らになってるし、天井も高くて居心地よさそうじゃないですか?」  ディオネはさっさと走っていって、携帯コンロを取り出して組み立てる。 「お姉ちゃん、ソーフィッシュのシートの後ろに調理器具入ってるから出して」 「え、あ、うん」言われたとおりにシートを倒してから、ふと怪訝そうにするトリアイナ。 「あれ? ここ、金貨とか首飾りとか入ってなかった?」 「出して私の荷物入れたよ」 「えー!? 大事な私のお宝!」 「オルカにちゃんと置いてあるよ。だいたい財宝探しに行くのに財宝持ってってどうするの。どうせ、昔見つけたものを積み込んでそのまま忘れてたとかでしょ」 「うっ……」 「今あったかいスープ作りますね。パンとリゾットとヌードル、どれがいいですか?」  手早く湯を沸かし、人数分のコップを配るディオネ。小さなコンロの火と、コトコト音を立てるコッヘルを囲み、インスタントとはいえ温かい食事を口にすると、皆なんとなく落ち着いてほう、と息をついた。 「リゾットおいしー……見た感じ、軍用レーションよね。どこの?」 「マーメイデンの制式採用品だそうです。色々試して一番美味しかったので持ってきました。コーヒーいかがですか?」 「そんなに水を使って大丈夫なんですか? 節約した方がいいんじゃ……」 「ふふふふふ」ディオネは背中に提げた大きなタンクを自慢げにゆする。「さっき水場を渡った時にたっぷり汲んであります。濾過して沸かせば飲めますよ」 「頼もしい……!」全員が一斉に拍手をする。 「もうディオネさんが隊長でいいんじゃ」 「えっ」  真顔になるトリアイナと裏腹に、ディオネは苦く笑った。「ううん、私なんかじゃ務まりません。私はむしろ皆さんに謝らないといけなくて」 「謝る? 何を?」 「こないだの、地中海のあの島では、私ちょっとおかしくなってました。ダメダメでした」  ディオネは熱いコーヒーを皆のコップに注いでいく。「お姉ちゃんのことばっかり気にして、わがまま言って皆さんに迷惑をかけて。あげくの果てに司令官様まで危険な目に遭わせて……ライフセーバー失格です」 「それは……」  セイレーンが口ごもる。ディオネの過去に何があったのか、ホライゾンの面々もあのあと聞かされていた。事情を知ってしまえば、とがめることなどできない。 「だから私、汚名返上しないといけないんです。そのつもりで今回はしっかりバッチリ準備してきました」ディオネはぐっと握りこぶしを作って、背負った大きなリュックを叩いた。「何日遭難しても、絶対皆さんの安全と健康をお守りしますから!」 「いや、何日も遭難したくはないけど……」 「このコーヒー、ちょっとしょっぱいね」ネレイドが唐突に言う。 「あー、塩は濾過できないから……すみません。一応、真水を足して薄めたんですが」 「海水だったってことよね。ここって海面より下なのかしら」 「どれくらい落ちてきたかがわからないので、なんとも言えませんね」 「全員気絶してたんだし、相当の高さから落ちたんじゃないです?」 「それにしては、誰もそんなに怪我してないのが変なんですよね……」 「それなんだけどさ」ネレイドがしきりに首をひねりながら手を上げた。「落ちる前に、ビリビリって来なかった?」  全員がばっと首を回し、いっせいにネレイドの方を見た。 「……そういえば」 「私も……何か電撃みたいな……」 「そうだ、そうですよ! 思い出しました、床が変にくぼんでる所があって、みんなで調べてたらバチって! あれ電気トラップだったんじゃないですか」  落下のショックで曖昧になっていた皆の記憶が、急激に鮮明になる。思い返せば思い返すほど、間違いなくあれは自然な現象ではなかった。 「つまり、侵入者を落とす仕掛けがあった……?」 「鉄虫がそんなことするかなあ」 「もともと何らかの防衛システムを持った施設だったのかもしれません。警備AGSが鉄虫に感染したのかも……」セイレーンが皆を順繰りに見回した。 「頭を切り替える必要がありそうです。私達は偶然の事故で落ちたのではなく、罠によって落とされた。つまり、ここは敵性エリアと見なすべきです。ウンディーネさん、テティスさん、ネレイドさん」  名を呼ばれた三人の表情が引き締まる。 「トリアイナさんとディオネさんの指示は引き続き尊重します。ですが場合によっては、私達は探検隊でなくホライゾンとして行動しなくてはならなくなるかもしれません。それを胸に留めておいて下さい」  三人が小さく敬礼し、トリアイナとディオネもうなずく。セイレーンが小さく息をついて、にっこりと笑った。 「ふう。ディオネさんのおかげで人心地がつきました。お腹が空いていると思考が鈍るって本当ですね」 「ネリも装備フルで持ってくればよかったかなあ」片方だけの機関砲をぺしぺしと叩きながら、ネレイドがため息をつく。 「あんな大きなやつ背負って洞窟探検とか無理でしょ」 「でもさー」  ――キョオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――  突如、異様な音が洞窟の空気を切り裂いた。 「!?」  トリアイナの後ろで降着体勢のままアイドリングしていたソーフィッシュが、凄まじい激突音とともに宙に舞った。サーチライトの光が空を乱舞して、すぐに消える。 「ソーフィッシュ!?」 「お姉ちゃん!」  思わず身を乗り出したトリアイナをディオネが引き戻す。そのディオネを引き倒して、セイレーンがミニガンを構えた。  風を切る音がする。ホライゾンの副官として鍛え抜かれたセイレーンの目には、超高速で飛来した何かが体当たりでソーフィッシュを弾き飛ばしたのが見えていた。 「ネリさん、対空弾幕を! テティスさん、レーダーで敵の補足を……きゃあっ!」  ミニガンが弾き飛ばされる。とっさに飛び出したディオネが、ジェットパックガンを乱射した。高圧水流が至る所に水の壁を作り、それを貫いて飛んだ影がわずかにひるんだ気配があった。 「こんのー!」  ネレイドの機関砲が暗闇に炎の破線を描き、その中を飛び交うものの姿を一瞬だけ照らし出す。 「みんな、こっち! 私の声についてきて!」  トリアイナが高台に横穴を見つけて飛び込むと、全員があとに続く。穴に入ってしまうと、謎の敵は明らかに手を出しあぐねたようだった。  甲高い飛行音はそのあともしばらく聞こえていたが、やがて遠ざかっていった。 「助かりました、トリアイナさん」  セイレーンが深々と息を吐き、小声でささやく。 「いざという時の避難経路を確認するのは探検隊長の務めよ。でも、私のソーフィッシュが……」 「もう少し待って、回収しに行ってみましょう。それにこの道、このまま奥へ進めそうですね」 「何だったんですかあれ……鉄虫ですよね?」テティスの声はわずかに震えていた。 「でっかい翼があったから、レーダーかな」 「レーダーはあんなに速く飛べないし、小回りも利かないわよ。どっちかっていうとあれは……」 「…………」  しばしの沈黙が流れたあと、口を開いたのはトリアイナだった。 「……ロクに似てなかった?」  空気が凍り付いた。全員が同じことを考えていたのだ。  赤く光るY字形のゴーグル。ひどく鋭いシルエットの大きな翼。黒いボディと鉤爪。何より、あの目にも止まらぬ飛行速度。はっきりと姿を捉えたわけではないが、確かにその特徴はオルカにいる漆黒のAGS、ロクと気味が悪いくらい一致していた。 「……どういうことなんですかね」テティスの声は、今度ははっきりと震えていた。 「ロクさんがどこかにもう一機いた? でも、あの方はブラックリバーの特注モデルのはずだし……」 「まさか、オルカのロクさんが…… 「ごめん、自分で言っといてなんだけどこの話おしまい!」今度はトリアイナが手を叩いて、皆が静かになった。 「憶測しても仕方ないわ。あいつはなんかヤバいってことだけわかってれば十分。んじゃ、ソーフィッシュ取りにいってくるね」 「お姉ちゃん、私も行くわ」  二人が出ていったあと、ホライゾンの隊員達は黙って目を見交わす。トリアイナが強いて明るい声を出していたのは誰もがわかっていたし、問題を後回しにしただけであることもわかっていた。  それでも誰もそれを指摘することはせず、二人が無事ソーフィッシュを回収して戻ってくると、一行はそれきり口をつぐんで歩き始めた。 2-3 遺産ふたたび 《RF87ロク、偵察任務より帰還いたしました》  ロクからの通信が入ってきたのは、ちょうど最後の書類を片付けてアルファにパネルを渡そうとした時だった。 「ご苦労さま。どうだった、アフリカの方は?」 《前回とおおむね変化ありません。沿岸地帯に鉄虫が不規則に出没しており、総数は計測不能です。少なくともモロッコ北岸をあるていど制圧しないかぎり、オルカ号を安全に地中海へ入れることは難しいでしょう。詳細は別途、レポートにまとめて提出させていただきます》 「やっぱりか……」  探検隊を探している間にも、オルカは日々動き続けている。心配してばかりいるわけにはいかないのだ。無理にでも気持ちを切り替えて、食堂のメニューと地中海南岸の地図を交互に見たりしていると、まだ通信を切っていなかったロクがふいに言った。 《ところで閣下。指揮官用ネットワークで目にしたのですが、トリアイナ嬢率いる探検隊が行方不明になったそうですね》 「ああ。今龍とアルバトロスに探してもらってる」  そういえば、ロクと出会ったきっかけもトリアイナの探検隊だったと俺は思い出した。あの時のロクは今とだいぶ様子が違っていたし、彼も何か思い入れがあるのかもしれない。 《しかも、その場所がカリブ海のグレナディーン諸島だとか》 「そうだ。知ってるのか?」 《直接訪れたことはありません。ですが、何と言いますか……噂を聞いたことがあるのです》  ロクにしては珍しく、歯切れの悪い物言いだった。俺はパネルを置いて、ロクの通信画面に向き直った。 「噂って、どんな?」 《旧時代の単なる伝聞であり、私自身が確認したわけではありませんが》ロクは念を押すように前置きしてから言った。 《グレナディーン諸島には、アンヘル公の墓所の予備があるかもしれません》 「な……!?」  俺は身を乗り出した。隣にいるアルファも顔色を変える。 「どういうことだ。どこで聞いた!?」 《旧時代、私がアンヘル公に仕えていた当時のことです。私は常に公のお側におりましたので、仕事上の話や、時には私的な会話も耳にする機会がありました。あの方は私のようなAGSに……なんと申しますか、「人格」を認めていませんでしたので、どのような会話でも平気で私に聞かせたのです》  アルファの方を見ると、彼女も小さくうなずく。アンヘルならあり得る、という意味だ。 《公の墓所の建造に関する話もたびたび出ました。申すまでもなく墓所はフィリピン近海に建造されましたので、それらの地名はしばしば耳にしましたが、他に「グレナディーン諸島」という地名も確かに何度か口にされました。時に、「第二」という言葉とセットで》  第二……か。 「俺はアンヘル・リオボロスの人柄をよくは知らない」俺は慎重に言葉を選んで言った。「ロクからみて、彼が自分の墓の予備を作るってことはありうると思うか?」 《十分にありえます》ロクは即座に答えた。 《公は何事にも完璧を期し、執拗なほどに入念な方でした。そしてまた、敵の多い方でもありました。全財産と自分自身の死後の安寧を託す場所を設けるにあたり、予備ないしダミーを用意しない方がむしろ不自然といってもいいほどです》  俺はもう一度、アルファと顔を見合わせた。ロクがこうまで言うからには、リオボロスの墓所の予備は実際にあるに違いない。そして、それがグレナディーン諸島にある可能性も決して低くない。  だが龍の話では、グレナディーン諸島には数百もの島があるという。トリアイナ達の行方不明とリオボロスの墓所が関係しているかどうかは、まだわからないはずだ。そう考えようとする俺に、ロクはさらに続けた。 《繰り返しますがこれらはあくまで伝聞と推測に過ぎず、信頼性は高くありません。しかし、気がかりなことがもう一つあります》  まだあるってのか……。俺は黙って先を促した。 《製造記録から確かなのですが、私と私の兄弟には予備機が一セット存在します。どこに配備されたのか、あるいは配備されず廃棄されたのかは不明でしたが、もしも墓所の予備があるなら……》  ……ロクの予備機がそこにいる可能性は、決して低くない。俺はアルバトロスの言っていた、あの島のあだ名を思い出した。  「悪魔の鳴く島」。  時折、その島の方から、鳥のような獣のような奇怪な声が聞こえる夜がある。朝になると決まって、農具や、車や、時にはAGSなど、機械類が村から消えるのだという。 「アルファ」 「はい」 「今すぐ南米へ向かう。集まれる幹部だけを緊急招集。オルカ出航の準備を」  もしロクの推測が当たっていれば、トリアイナ達はとんでもない危険に直面していることになる。今すぐ助けに行かなくてはならない。そのためなら、あの地獄の一日を百回繰り返したってかまいはしない。 「かしこまりました。会議は十五分後に。オルカの出港準備は一時間以内に整えます」アルファはそれだけ言って一礼し、すぐに出ていった。俺はもう一度通信画面に向き直る。 「ロク、帰ってきたばかりで悪いけど、カリブ海まで飛べるか?」 《無論です。僭越ながら、私一機ならオルカ号よりはるかに早く着くでしょう》 「それじゃ、必要な補給をしてすぐ先行してくれ。龍達の位置情報を送っておく。合流して今の話を伝えるんだ」 《かしこまりました。では》  通信画面が消えた。俺はひとつ深呼吸をし、頬をぴしゃりと叩くと、大股に会議室へと向かった。 2-3B 墓所 ○月×日  この洞窟をさまよい始めて何日になるだろうか。もう時間の感覚も失われつつある。いつかこれを読む者のために、私にわかるかぎりのことを書き残しておこう。  あの怪鳥はいったい何者なのか? わかっているのは途轍もない速さで飛ぶこと、鉤爪を持ち全身からつねに放電していること。そして、鉄虫の仲間であること。あれが来る前か後に、必ず鉄虫が現れる。我々はあの怪鳥を「ブラックバード」と名付けた。  ブラックバードと鉄虫から逃げているうち、もう自分たちがどこにいるのかさえわからなくなってしまった。この洞窟はどうやら想像以上に複雑に広がっているようだ。もう島の反対側、もしかすれば海底にまで来ているのではないだろうか。  あと今日の朝ごはんはオニオン 「何やってんの、お姉ちゃん」  頭を引っぱたかれて、トリアイナは不満げに手帳から顔を上げた。 「いや、もしも私たちが遭難した時、次の探検隊に手がかりを遺したいじゃない?」 「縁起でもないこと言わないの! 扉開けるの手伝ってよ」 「あ、掘り出せたんだ?」  それは数日もの間この洞窟をさまよって、初めて目にする人工物だった。周囲の岩から溶出した石灰分と泥に覆われて、ほとんど岩と同じようになっていたのをトリアイナが目ざとく発見したのだ。 「ん。しょ……っと」  露出した取っ手をソーフィッシュのマニピュレーターで力任せに引っぱると、ギリギリと軋みながら扉が開いていく。その向こうから、空調の効いた空気が流れ込んできた。 「うわ……!」  広い通路だった。黒曜石のようになめらかに輝く、黒い金属の床と壁。内側からほのかに光を放つ赤黒い柱が、左右どちらにもまっすぐに連なっている。トリアイナ達がくぐったのは柱の陰の壁に、目立たないように設けられた通用口のようなドアだった。 「文明の香り! もうあんな岩と泥だらけのところを歩き回らなくていいんだあ……!」テティスが真っ先に飛び込んで、壁に頬ずりをした。 「気を抜かないで下さい、テティスさん。ここも敵地かもしれないんですよ」セイレーンがたしなめる。 「でもこんなにちゃんとした施設なら、地上への出入口もあるはずです。それを探せばいいんですよ!」ディオネが力強く言って、皆は頷くと歩き出した。  通路は時折ゆるやかにカーブしながら、いつ終わるともなく続いていた。空気は冷たく乾いている。何かがひくく唸っているような規則的な音が遠くでずっと聞こえているが、それがかえって痛いような静けさの印象を強めていた。 「誰もいないのかしら……」ウンディーネがぽつりと言った。 「ウンディーネ、怖いんですかあ?」ちょっと元気の戻ってきたテティスがすかさずからかう。 「こ、怖くなんかないわよ! ただこんなにきれいに管理されてるのに、バイオロイドもAGSもいないのって変じゃない? そう、不自然なのよ不自然!」 「確かに、ちょっとおかしな感じですね」ディオネも同意した。「誰が何のために作った場所なんでしょう。……なんだか、お墓みたい」 「あ!」  ネレイドが突然立ち止まって大声を上げた。 「思い出した! ネリネリ、ここ知ってる! リオボロスの金庫だよ!」  トリアイナも目を丸くして、大きく手を叩く。「そうだ、それだ! この壁とか柱の感じ!」 「金庫って、お姉ちゃんが前に探検したっていうあれ?」 「あれってフィリピンの方にあったんでしょ? ほんとですかあ?」テティスが胡乱げに言う。この探検隊の中で、ディオネとテティスだけがあの島を知らない。 「あれは爆発して吹っ飛んだじゃないの。なんでここにあるのよ?」 「兄弟がいたとか?」ネレイドが首をかしげる。 「アンヘル・リオボロスって兄弟なんかいたっけ」 「お姉さんがいたでしょ、ほらエンプレシスハウンドの」 「あの人のお墓はスヴァールバルにあるじゃん」 「そんなことより、ここが本当にリオボロスの金庫なら、もしかして……」  ――キョオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――  もう聞き慣れてしまった奇怪な鳴き声に、一行はピタリと立ち止まった。  ゆっくり背後を振り返る。通路の向こうから足音が近づいてくる。無数の足音が。 「みんな、ソーフィッシュにつかまって!」  全員が返事もせずソーフィッシュの機体にしがみつく。トリアイナがタービンを全開にすると、丸っこい機体が轟音と共に滑走をはじめた。  それと同時に、背後の足音も速度を増した。セイレーンが振り返ると、ちょうど通路の向こうの曲がり角からおびただしい鉄虫がぞろぞろと出てくるところだった。 「来ました! 鉄虫です!」 「やばいやばいやばい!」  通路は広くまっすぐで、敵弾を遮るものはない。さらに鉄虫の群れの一番後ろから、悠然と姿を現したものを見てセイレーンは息を呑んだ。 「ブラックバードもいます!」 「マジ!?」  操縦に専念しているトリアイナ以外の全員が後ろを振り返った。  細身だが頭を天井にこするほどの長身。漆黒のボディと、ブレード状の推進ユニットを何枚も連ねた翼。血のように赤く光るY字形のゴーグル。  明るい照明のもとで見ると、それは確かにロクだった。そして、全身を走る赤く脈打つラインと、頭部を覆う灰白色の結晶装甲が、彼が完全に鉄虫化していることを示していた。  二本の脚で歩いているのはせめてもの幸いだ。通路が広いとはいえ、ブラックバードが飛べるほどの広さはない。しかしそのかわり、ブラックバードは通路いっぱいに翼を広げ、青白く光る雷の球を生み出す。 「やばいやばいやばいやばい!」  それが放たれる直前、ソーフィッシュは脇道に飛び込んだ。背中にぶら下がったネレイドの靴の先を高熱の塊が通り過ぎ、ぱちぱちと静電気が弾ける。 「ひえええええ!」 「トリアイナさん、金庫の地図って覚えてます!?」 「そんなの覚えてないわよ!」割れたキャノピーの隙間から吹き込む風に顔をしかめつつトリアイナが怒鳴り返す。「あ、でも一つ……」  言い終える前に、ソーフィッシュの足が何かを踏んだ。警告音も何もなく、高圧電流が床を走り強化ラバー製のソールを貫通してソーフィッシュの片足を焼いた。 「あの金庫って、やばいトラップがいっぱいだったよね!」 「それ今思いだしても役に立たないですーっ!!」  咄嗟に飛行ユニットを起動したウンディーネが肩を支え、片足でなんとかバランスをとりながらソーフィッシュは全速力で逃げる。キャノピーにぶら下がった強化アクリルの破片をむしりとって捨てると、床のトラップで一瞬のうちに灰になり、数秒後に鉄虫に踏み砕かれて、あとには何も残っていなかった。 2-4 洞窟救助 「もう少し、もう少し上げて……そう、そこでストップ。ゆっくり前へ……あっ、あーっ! ダメダメダメ下がって下がって!」  崩れた土砂が流れ込み、仮設足場が傾く。土埃をはらいのけながら無敵の龍は大股に、テントの横で頭を抱えるグレムリンに歩み寄った。 「難しいか」 「申し訳ありません……」グレムリンは髪をぐしゃぐしゃ掻き回してうなだれる。「まだいくつか試せることが残ってはいますけど……ちょっとこれは、素人工事じゃどうにもならないかもしれません」  救助作戦は難航していた。  今回龍が海上作戦訓練のため座乗していたミサイル巡洋艦には工兵隊は配備されていない。機関室と工作室のグレムリンを中心に臨時の救出隊を組んではみたが、むろん彼女たちも洞窟救助など未経験である。 「明日の昼には工兵隊が手配できそうだ。第7工兵大隊を乗せた輸送船がここへ寄ってくれる」 「本当ですか、助かります」 「任務を終えてヨーロッパへ帰る途中だったそうだから、恨まれるかもしれんがな」 「うっ……」 「龍中将、地下の超音波走査が一段落した」  二人の上に影が差したと思うと、アルバトロスが音もなく降下してきた。 「状況はよくない。この島の地下には、細く複雑な海底洞窟がきわめて大規模に広がっているようだ。全域走査はまだ完了していないが、隣の島まで達している可能性がある」  携帯端末に送信された簡易マップを一目見て龍も眉をひそめる。「スポンジマットだな、まるで」 「的確な比喩だ。探索が困難であるのみならず、強い衝撃を与えれば広範囲が一度に崩落する懸念もある」 「ここは?」  網目のように細かくびっしりと広がる洞窟の一画に、真っ白な矩形があるのを龍は指さした。 「それがもう一つの懸念だ。洞窟系の最下層に、明らかに人工と見られる構造がある。磁場計測と微小重力計測も試みたが内部の状態がわからない」 「わからない?」 「シールドが張られている。まだ解析中だが、電磁波パターンからおそらくブラックリバー系の技術だ」 「つまり、この地下にブラックリバーの秘密施設があると?」龍は眉を上げた。「それはだいぶ話が変わってくるぞ」 「同感だ。ゆえに方針の変更を提案する。多少のリスクは……」  緊急コールの音が、アルバトロスの言葉を遮った。 《第二分隊です! 鉄虫と遭遇、交戦中!》 「すぐに向かう! 防御しつつ後退せよ!」 「中将、乗れ」  龍が飛びつくと、アルバトロスは戦場へと空高く舞い上がった。  第二分隊が遭遇した鉄虫は十匹足らずの小集団にすぎず、龍とアルバトロスの二人がいればあっという間に片付いた。 「ウンディーネ252大尉!」  乱れた髪を整えながら、龍は上陸部隊の護衛責任者を呼びつける。「制圧は済んだと報告を受けていたな」 「もっ、申し訳ありません!」すっ飛んできたウンディーネは泣きそうな顔をして、それでもきゅっと唇をむすんだ。「でも、本当です! 島中の鉄虫は残らず掃除したはずなんです!」  真剣な顔つきに、言いわけや保身の影はない。龍はポケットに櫛をしまった。「確かか?」 「はい。小さな島ですから、海岸も内陸も私が自分でくまなく偵察しました。鉄虫の居場所は全部チェックして、地上部隊と一緒に掃討しました。発見数と撃破数は一致してます。この島に鉄虫はもう一匹もいないはずでした」 「私も簡易的にだが、上陸前に広域スキャンを行った。戦闘部隊による事前掃討の後、この島に鉄虫はいなかったはずだ」アルバトロスが言い添える。  龍の目が水平線に向けられた。隣の島まではほんの数キロ。ホライゾン隊員なら楽に泳いで渡れる距離だが、この程度のせまい海でも鉄虫は決して足を踏み入れない。飛行型ならともかく、さっき現れた鉄虫はチックタイプだったのだ。 「大尉、いないはずの鉄虫が現れるとしたら、どこからだと思う?」 「えっ? えーと……」 「アルバトロス中将、地下洞窟は細かく複雑だと言ったな。超音波走査に引っかからない程度のごく小さい……鉄虫がぎりぎり通れる程度の穴が、この島の別の場所に開口している可能性はあるか?」  一瞬の演算のあと、アルバトロスは答えた。「あるな」 「あ、じゃあ……」ウンディーネの顔がぱっと明るくなる。「そこから地下に入れるかもしれませんよね」 「かもしれんが、状況はそれほど良くはない」反対に、龍の表情は険しかった。 「つまり、地下には鉄虫がいるということだ。来てくれ、中将。救出計画を見直す」 2-4B 決戦 「! ここは……?」  どれくらい逃げただろう。一行は突然、広い部屋に突き当たった。  正面の壁際に天上まで届く巨大なパネルが立ち、青く輝く大きな球体ディスプレイが埋め込まれている。左右の壁には見るからに頑丈そうな隔壁めいた扉がいくつも並んでいる。それまで見かけた部屋とは明らかに違う、重要な場所であることは一目でわかった。  こじ開けて入った扉を、ウンディーネとネレイドが両側から力任せに閉める。 「これで、少しは時間が稼げるといいけど……」 「あの球、見覚えある」トリアイナがソーフィッシュから身を乗り出した。 「金庫の管理システムのコアだよ、確か」 「コア!?」テティスが必死に息を整えながら顔を上げた。「それって、金庫の一番奥に来ちゃったってことですか!?」 「ど、どうしようどうしよう」ディオネも周囲を見回す。「どの扉をこじ開けます?」 「いえ。ここでブラックバードを迎え撃ちましょう」セイレーンが決然と言った。  皆の視線がセイレーンに集まる。手に握りしめていた水兵帽をかぶり直して、セイレーンは皆を順番に見た。 「いつまでも逃げ続けるわけにもいきません。以前ロクさんから聞いた話ですが、金庫の番人はこのコアを壊すことはできないそうです。ブラックバードも同じなら、この部屋で戦えば勝ち目があるかもしれません」  一瞬の沈黙が流れた。ウンディーネがちらりと、トリアイナとディオネの方を見る。 「……どうする? 私達はセイレーンが上官だから、もちろん従うけど……」 「やりましょう」ディオネが頷いた。トリアイナが心配げな顔をする。 「いいの?」 「セイレーンさんの言ったとおり、いつまでも逃げることはできません。私も戦わせて下さい」  ずっと背負っていたリュックを下ろし、ジェットパックガンを取り出してタンクに繋ぐディオネ。 「好きじゃないとは言いましたけど、経験はあるんですよ。なんたって滅亡戦争を生き抜いたんですから、私!」 「そうですね。頼りにさせて下さい」  明らかに強いて作っているとわかる笑顔だったが、それでもセイレーンは頷くほかなかった。  こちらの人数は六人。みな疲労はあるものの大きな怪我はしていない。しかし、装備の方は惨憺たるものだ。フル装備を身につけているのはテティスとウンディーネのみ。しかもテティスの飛行ユニットは破損している。ネレイドの機関砲は片方だけ、それも弾切れ寸前。セイレーンに至っては副兵装のミニガンを一門携帯しているだけだ。あとはディオネの放水銃と、片足が駄目になったソーフィッシュ一機。  これだけの兵力で、ブラックバードに勝てるだろうか。パワーと凶暴性を増したロクにほかならない、あの鉄虫に? 「司令官がいればなあ……」ネレイドがぽつりと呟いた。 「やめて下さい! 司令官様がこんな危険なところにいていいわけないでしょう」語気が必要以上に強くなってしまったのは、同じことを思っていたからだ。 「来ますよ!」扉に耳を押しつけていたテティスがするどく叫ぶと、皆は顔を見交わし持ち場につく。  その直後、扉が轟音と共に大きくへしゃげ、そして外側から強引にこじ開けられた。  セイレーンの読み通り、コアのある部屋に入ってきたブラックバードは明らかに動きが鈍った。  小火器しか持たないセイレーンとテティス、トリアイナはもっぱら牽制と、入ってくる小型鉄虫の制圧。ディオネがジェットパックガンで水をまき散らして雷球を妨げ、鉤爪による攻撃はウンディーネがいなし、なんとか隙を作ってトリアイナの機関砲を食らわせる。 (……と、いう戦法ではたぶん押し負ける……!)  一撃入れるまでのこちらの消耗が大きすぎる。ブラックバードもそれを察しているのか、決して攻めを焦らずこちらを削りに来ている。余裕のある時は余裕を見せる……そんな所は確かにロクそっくりだ。  そして、そこがセイレーン達の狙い目だった。  ネレイドの機関砲が外れた。弾幕の途切れた隙を見逃さず、ブラックバードが一瞬でネレイドの目の前に迫る。 「今です!」  セイレーンの合図で、擱座したように見せかけておいたソーフィッシュの両肩のサイクロンタービンが遠隔操作でフル回転し、極低温の竜巻を発生させる。ネレイドを仕留めるため広げられたブラックバードの翼に、それは過たず命中した。  耳障りな機械音とともに、ブラックバードの動きがぎごちなく止まる。過充電状態となったロクは、急激に体を冷やされると高確率で中枢回路にエラーを起こす。かつてロク本人から……彼の兄弟を仕留めるために……聞いた弱点だ。どうやら、鉄虫になっても克服はされていなかったらしい。 「トリアイナさん!」 「さらば、ソーフィッシュ! いけーっ!」  両肩からブリザードを噴き出しつつソーフィッシュが突進する。そのコクピットにはパイロットの代わりに、ウンディーネのFFミサイルと、テティスのスワローミサイルが積み込まれている。 「退避!」  コアを埋め込んだパネルの裏に六人が逃げ込むのと、ブラックバードに組み付いたソーフィッシュが大爆発を起こすのが同時だった。 「…………!!」  広いとはいえ密閉された部屋の中を高熱と爆風が荒れ狂い、パネルの裏にも達した。耐熱強化された軍用皮膚のホライゾン隊員が、トリアイナとディオネを内に囲んで熱から守る。  爆風が収まった時には、四人とも背中が真っ赤に焼けただれていた。 「あちち……」 「やったのかな……うわっ!?」  広い部屋の壁という壁がめちゃくちゃに歪み、へこみ、床には至る所に鉄虫の残骸が散乱している。その中央に、翼が片方もげて全身にソーフィッシュの破片が食い込んだブラックバードが、なおも立ち上がろうともがいていた。  しかし駆動系のどこかが壊れたのだろう、その動きは鈍い。セイレーンはネレイドから機関砲を借りると狙いをつけ、正確に頭部を打ち抜いた。 「や、やったんですか……?」 「やった……! やったよ!」  連結体クラスの大型、それもあのロクを素体にした鉄虫を倒したのだ。間違いなく大金星である。  ディオネがへたへたと崩れ落ちる。ネレイドとウンディーネ、テティスが手を打ち合わせる。セイレーンとトリアイナが目を見交わして、大きな息をつい。  その時、部屋が鳴動しはじめた。  爆発の余波ではない。どこか、それほど遠くないところで、何かが起動した音だ。低いサイレンのような唸りがそれに混じる。 「何、これ?」 「警報?」  たった今逃げ込んでいたコアパネルの裏もまた、ひときわ頑丈な扉になっていたことに皆はそのとき気づいた。コア……驚くべきことに、爆風をまともに浴びてもそれは無事であり、変わらず青く明滅していた……の光が強まると同時に、ロックが外れた音がし、扉がゆっくりと開き始める。 「……ねえ、みんな。こんな時に悪いんだけど、すっごく不吉なこと思い出しちゃった」トリアイナの声は少しだけ震えていた。 「じゃあ言わないで下さいよ!」 「いえ。私も思い出しました」  セイレーンの顔は青ざめていた。「ロクさんは本来、双子のAGSだったんです。片方が外で行動しているあいだ、もう片方はコアを守る、そういう警備体制なのだと、以前聞きました」 「片方が……」 「コアを守る」  ネレイドとウンディーネが阿呆のように言葉を繰り返すと、それが合図だったように、血のように赤いY字形の光がともった。扉の奥の暗闇で。  雷光のはじける音がした。 「撤退!!」  というセイレーンの叫びを待つまでもなく、全員が一目散に部屋から飛び出した。 2-5 マスコットガール 「第7工兵中隊のランバージェーン866技術大尉です。埋まった洞窟を掘り抜く任務とうかがいましたが……」 「よく来てくれた。実は少々事情が変わってな。中将、よろしいか?」 「ああ。まずは直接見てもらうのがいいだろう。私に乗るがいい」 「あ、アルバトロス中将に!?」ランバージェーンが目を丸くした。「いいんですか」 「時間が惜しい。早くせよ」  遠慮しいしい黒いフロートユニットに足を乗せたランバージェーンと数名の工兵隊、それに無敵の龍とともにアルバトロスは舞い上がり、しばらく飛んでから島のほぼ反対側に降下した。  そこはせまい磯で、目の前からすぐに岩が立ち上がって崖になっている。崖の中腹に大きな亀裂があり、奥は深い闇となっていた。 「あの亀裂が、地下洞窟につながっている可能性が高い。プローブを何機か入れてみたが中とは通信できなかった。鉄虫による電波妨害と考えられる」 「つまり、穴を掘るよりここから潜るのが早いと」ランバージェーンがプロの目になって、すばやく周囲の地形を観察する。「とりあえず足場を組んで、電気を通して……入り口を掘り広げる? 脆い地盤といってもそれくらいは……」 「そんなことしてたら間に合わないかもしれないよ」  ランバージェーンの足の間から、一緒についてきた工兵隊の一人……ダッチガールがトコトコと進み出た。 「私が入ってみるよ。私の体格なら入れるでしょ」 「中には鉄虫がいる可能性が高いぞ」さっさとヘルメットをかぶり、ライフベルトを巻きはじめたダッチガールに龍が思わず口を出す。 「さっき聞いた。中にいる探検隊の人達はもっと危ないんでしょ」 「そうだが……」  ダッチガールはオーバーオールの肩紐をぐいと持ち上げて、そこに留められた「A」のバッジが龍に見えるようにした。オリジンダスト置換により、Aランク相当の昇級処置を受けた印だ。 「ちょっとは頑丈だから、私」  ランバージェーンがロープの端を持った。「大丈夫、できる子よ。やらせましょう」 「む……わかった」  工兵隊の長が言うなら、龍に反対する道理はない。顎ひもを調整しながら、ダッチガールがふと海の方を見た。 「私、探検隊のマスコットガールだったんだ。あの、リオボロスの島で」 「マスコットガール?」 「トリアイナさんに頼まれたの。探検隊にはそういうのがいるものなんだって。洞窟の入り口のところで、イベント用のドレスを着て手を振ってただけだから、誰も覚えてやしないだろうけど」 「……ははあ」龍は顎を撫でた。「すると君が、ダッチガール2501か」 「知ってるの?」ダッチガールが目を丸くする。 「以前ネレイド曹長から聞いた。探検の行き帰りに手を振ってくれるのがとても可愛らしく、力づけられたとな」  龍は微笑んで、大きなヘルメットに手をあてた。 「そういうことなら、任せよう。探検隊の仲間を、私の部下達を、どうか助け出してほしい」 「……ん」  ヘルメットの縁で目を隠して、ダッチガールは小声で答えた。そして愛用のドリルを背中にかつぐと身軽に岩場を登り、あっという間に亀裂の中へ姿を消した。  狭くて暗い岩の隙間を、さぐりさぐり進む。  ある所ではゆるやかな坂、ある所では急角度の階段のようになりながら、亀裂は全体としてずんずん下へ向かっていた。ロープに預ける体重は半分。足場の確保を忘れずに。ロープがこすれて切れないよう、鋭い岩は避ける。かつて鉱山で何度となくやらされた作業が、こんな形で役立つとは思わなかった。  小さな身体とみじかい手足は、こういうことには抜群に役立つ。暗いのも、狭いのも、一人なのも、ダッチガールは平気だ。 (すごいねえ。私は暗いのとか一人なのとか苦手だからさ、尊敬しちゃうよ)  トリアイナの言葉が、ふいに蘇ってきた。マスコットガールにスカウトされた時のことだ。  鉄虫が来る前、ダッチガール2501の人生には苦しさとひもじさと痛さしかなく、幸福とはそれらが無い状態のことだった。鉄虫が来た後も、苦痛の原因が人間から鉄虫に変わっただけで、人生に大して変化はなかった。オルカに拾われてからは苦しいこともひもじいことも痛いこともなくなり、自分を幸福だと考えるようになったが、特にそれ以外の感情はわかなかった。  トリアイナの頼みを引き受けたことにも大した理由はなかった。というより、単に断る理由が思いつかなかったのだ。 (いよー、ダッチちゃん。今日もがんばってくるぜ) (ダッチ、焼きソーセージ食べる?) (ダッチちゃんほら見て見て、こんなに大きな宝石!)  手を振り返してもらうたび、笑いかけられるたび、頭をなでられるたびに、胸の奥に小さなあぶくのようにぽくぽく浮かんでくるものが何なのか、だからあの時の2501にはわからなかった。理解できたのはもう少し後になってからだ。あの時自分は初めて、単に苦痛がないだけとは違う幸福のあり方を知ったのだと。  人生とは楽しめるものだ、という可能性が、2501の前に初めて開けたのはあの時だったのだ。  ブーツのかかとが岩を噛む音が、遠くから何重にもなって返ってくる。すぐ近くに大きな空間があるのだ。ダッチガールは足を速め……そして、ぴたりと止まった。  自分以外の足音が聞こえる。 (探検隊かな? いや、違う……)  声に出さずに考える。この、小刻みに何度も足踏みを繰り返すような足音はフォールン……そして、それに鉄虫が寄生したチックタイプのものだ。  足音を立てないよう慎重に、数歩だけ前へ進む。下り坂はそこで途切れ、もっと広い空洞の天井付近に開いた穴になっていた。爪先のすぐ下を、真紅の渦巻き状の光が通りすぎた。 (ナイトチック……!)  冷たい唾を飲み込む。手が無意識にロープを握りしめた。このロープを二度引けば、上に非常事態が伝わって引き上げてもらえる。  しかし、その時ダッチガールの耳がもう一つの音をとらえた。 「…………。…………………」 「……! ……………」  人の声。  何重にも反響して、何を言っているのかはまるで聞き取れない。だがあれは間違いなく、トリアイナとネレイドの声だ。  そして、声は少しずつ遠ざかりつつある。地上に戻ってから引き返してきたら、もういなくなっているかもしれない。  もう一度足元を見た。ナイトチックは一匹だけだ。地上に通じるこの穴を見張っているのだろうか。どこかに仲間がいるのだろうか? (……考えてる暇はないよね)  ダッチガールはお守りとして一本だけポケットに入れていたタバコを取り出して噛みしめた。それからドリルを起動し、鉄虫の頭めがけて飛び降りた。 「たあああーーーっ!!」  どうやって戦ったのか、よく覚えていない。ただ飛び降りた最初の一撃が鉄虫のコアを直撃したのは確かだ。敵の動きは明らかに鈍く、そのおかげで恐怖に震えながらも相手の動きを見てダイナマイトワームを繰り出し、破壊することができた。  震えがどうにか収まるとダッチガールはすぐにヘルメットのライトをつけ、小さな体で出せるめいっぱいの大声で怒鳴った。 「トリアイナ! みんな! 助けに来たよ! こっちだよーっ!!」  一瞬の静寂。  そして、いっせいにわき起こる鉄虫の足音。当然だ、あれだけの戦闘音を立てた上に大声でわめいたりすれば気がつくに決まってる。すくむ手足を踏ん張って、ダッチガールは二度、三度と叫び、そして待った。 「……! ……………!!」 「…………ガール? ダッチガール!?」  やがて、待ち望んでいた声が近づいてきた。 「こっち! こっちだよ! ここから地上につながってるよ!」  ダッチガールはライトを最大光量にし、ぴょんぴょん飛び跳ねた。揺れる光の輪の中に、トリアイナ達が岩棚を這い上がってくるのが見える。二人、三人……よかった、全員いるようだ。しかしダッチガールの笑顔はそこで凍り付いた。  走ってくるトリアイナ達の、そのまた背後から、とんでもない数の赤く輝く瞳が迫っていたからだ。 2-6 シムルグ  最初にテティスが、すぽんとシャンパンの栓を抜くように亀裂から飛び出してきた。 「テティス中尉!」  龍が駆け寄る。「無事か! ほかの者は!?」 「全員無事です……続いて来ます……!」龍の腕に抱き留められたテティスが声を張り上げる。「そのあとから鉄虫がいっぱい……ヤバいのが来ます……!」  それだけ言うと、くったりとテティスの体から力が抜けた。その華奢な体をランバージェーンに渡したのとほとんど同時に、ウンディーネが亀裂からよろめき出てくる。続いてネレイド、セイレーン、トリアイナ。最後にディオネがダッチガールに支えられて姿を現したところで龍はサーベルを抜いた。 「工兵隊は下がれ。海兵前へ!」  数秒後、亀裂から這い出てきた最初の鉄虫は、龍が呼び寄せておいた戦闘部隊の集中砲火を受けて一瞬で破片に変わった。次も、その次の鉄虫も同様だった。 「出口が狭いのが、こうなると幸いだな」  一度に出てこられるのは一匹か、せいぜい二匹。総数がどれだけいるかわからないが、この調子なら順に仕留めていけば何の苦労もない。 「そう甘くはあるまい」  アルバトロスの不吉な言葉通り、やがて鉄虫の出現がぴたりと止まった。周囲の岩がびりびりと震え始める。 「地下に……地下にとんでもないのがいるのよ……」  毛布にくるまれたトリアイナが、ふらふらと立ち上がる。「リオボロスの金庫がもう一つあって……ロクも……!」 「ロクだと?」  龍が思わず振り返ったのと、崖そのものが内側から吹き飛ばされたのはほぼ同時だった。 「な……!!」  爆散する岩と土にで部隊がわずかに後退する。土煙の中、まがまがしい赤い雷光を全身から発する異形のAGSが、竜巻とともに空へ舞い上がるのが見えた。血のように赤く輝くカメラアイが無敵の龍にぴたりと据えられたと思うと、それは一瞬の躊躇もなく凄まじい速度で突っ込んできた。 「!!」  咄嗟に飛びすさろうとした龍のすぐ目の前で、しかし背後から飛来したもう一本の雷光が、赤い雷光を弾き飛ばした。  衝撃波と岩の破片が、再度周囲をなぎ払う。ようやく視界が晴れた時、そこには赤い雷光をまとったAGSと、そしてもう一機……黄金の雷光をまとったAGSがいた。 「やれやれ、ずいぶん急いできたつもりですが、ギリギリの到着になってしまいました」 「ロク……!? 貴殿はオルカのロク殿だな?」 「いかにも私です」ロクは慇懃に頭を下げた。 「そして、あれは私の予備機……いや正確には、私の兄弟の予備機ですな」  赤い雷光……過充電によって赤熱したもう一機の怪鳥が、龍とロクの目の前でゆっくりと立ち上がった。 「RE87左番機(レフト・ナンバー)『シムルグ』。……よもや、このような形で再会が叶うとは」  不意打ちを受けたにもかかわらず、シムルグはさしたるダメージを受けた様子もない。そしてシムルグの背後、吹き飛んだ崖の穴からは、おびただしい数の鉄虫が這い出してきつつあった。  龍がすばやく号令をかけて陣形を立て直す。アルバトロスもそれに合わせて、エネルギーフィールドを展開した。 「RF87ロク、この島のことを知っているのか?」 「憶測のみでしたが、たった今確信したところです。この島の地下にはアンヘル・リオボロス公の墓所の予備がある。そして私と兄弟の予備機がここに配備されている。残念ながらそのすべてが、すでに鉄虫の寄生を受けていたようですが」ロクが皮肉めかして赤いゴーグルを瞬かせる。「そのあたりの情報と私の到着予定は、25分も前にあなたに送信したのですがね、アルバトロス中将殿」 「すまんな、その時にはもう戦闘状態に入っていたので共有しそこねた」アルバトロスが小さく首を振った。「空は任せていいのだろうな?」 「愚問です。というより、我が兄弟の相手を余人に任せる気はない!」  ロクが大きく翼を広げ、身をかがめた。シムルグも同じ体勢をとる。二機の怪鳥は同時に、弾丸のように大空へ舞い上がった。  クアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――  キョオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――  怪鳥の叫びが二筋、空に谺する。RF87モデルが出力を最大にした際、超高電圧を帯びたデトネイターユニットが発する共鳴音だ。 (迅い……!)  ロクは音声に出さずに内部回路だけでコメントを走らせた。音速で交錯するたび、お互いのボディのどこかがわずかずつ削れていく。  二機一組で設計されたRF87モデルの右番機と左番機に性能の差はない。唯一、後頭部に伸びるクレスト型アンテナがロクは一本、シムルグは二本という外見上の違いがあるだけだ。  シムルグの外観は、ロクの記憶にあるデータから変わっていない。墓所のシムルグもそうだったが、鉄虫の侵食はまず内部機構から始まるのだ。しかし出力も速度もカタログデータよりはるかに上がっており、それはすなわち内部の鉄虫化がそれだけ進んでいるということを意味していた。 「だが私とて、あの頃の私ではないぞ!」  ロクは論理回路の出力を増幅する。オルカでの鍛錬、装備の改修や最適化。数え切れない戦いの経験と、それ以外の経験。それらによって積み上げられてきたものが、汚らわしい鉄虫による侵食などに後れを取るとは断じて結論しない。  翼の形状を精妙に変化させ、空力を利用して速度を落とさないまま側面に回り込む。六基のライトニング・デトネイターが発する雷球が直撃し、シムルグの左翼が火花を噴いた。即座に牽制の雷球をばら撒いて距離をとるシムルグ。 (何かが、奇妙だ……?)  戦闘が始まってから数十秒。わずかな時間ではあるが、すでに百度近くの激突を経たロクはふと違和感をおぼえた。シムルグの戦い方はおかしい。何かが決定的に欠落している。 「アルバトロス、対空支援はできないのか?」 「遺憾ながら困難だ。あのレベルの高速戦闘に誤射の危険なく支援を入れるのは……少なくとも地上部隊の指揮を取りながらでは負担が大きい」  地上戦の指揮をとりながら、龍はちらちらと上空へ目をやる。そこで繰り広げられている戦いはあまりに速く、龍でさえなんとか目で追える程度だ。 「龍、指揮に集中しろ。観測だけなら私がしておく。生体脳はAGSほどマルチタスクに向いていまい」  アルバトロスに指摘されて意識をもどす。鉄虫は地中からとめどなく涌き続けている。大物はいないが、あまりにも数が多い。ミサイル巡洋艦に搭載された海兵は敵艦への殴り込みか、殴り込まれた時の防衛が本務であり、広域破壊に長けたバイオロイドは少ないのだ。艦からのミサイル掃討も考えて戦線を下げたいところだが、もともとが幅の狭い磯なので陣形の選択肢も少ない。 「くそ、主の直接指揮があればもっとずっと効率的に戦えるものを……」 「ほらほらセイレーン、アルバトロス中将も私と同じこと言ってる」 「喜んでる場合ですか!」  救助対象だったはずの探検隊のセイレーン達すら、戦力として動員している有様だ。龍は歯がみしつつ、ひしめく鉄虫のうごめきの中からつけいる隙を見いだそうと意識を集中させた。 「ほえー、すごい。空見てみなよ、速すぎて何が起きてるか全然わかんない」 「わかんないもの見てないで、傷口ちゃんと押さえてお姉ちゃん!」  鉄虫はとんでもない数がいるようだった。つい先ほどまで地下にいたディオネ達でさえ、どこにこれだけの数が潜んでいたのかと驚いたほどだ。ホライゾンの皆は応急手当を受けて栄養剤を飲んだだけで前線へ飛んでいってしまい、ディオネ達も救護班に協力している。 「止血帯もっとください!」 「水持ってきたよ! 止血帯は今取ってくる」  戦場に戻すために傷を治療する……ということに、ライフセーバーとして矛盾を感じていた時代もあった。だがこの戦いはオルカの戦い、皆を守るための戦いであり、自分にはその中でできることがある。今のディオネはそれに集中するだけの心の強さを持っている。何より、この戦いは自分たちのせいで起こったのだ。何もせずにいられるわけがない。 「機関砲の補給が終わったってさ! これ誰の……きゃーっ!?」  爆風が空から降ってきて、一瞬天地がわからなくなる。目を開けるとトリアイナと一緒にテントの布地に絡まっていて、ロクの黒いボディが目の前の地面に埋まっていた。 「失礼、見苦しいところをお見せしました」 「い、いえ!」 「ありがとね、ロク!」  二人ですぐにテントを立て直しにかかる。なぜ姉が礼を言ったのかディオネは一瞬怪訝に感じたが、すぐにロクが放電していないことに気づいた。あの高圧電流の塊のような状態でここへ落ちてこられたら、医療機器が全部駄目になってしまう。落下の寸前に出力をカットしたのだ。 「何か、私達に手伝えることありますか?」 「特には……いや、そうだ。私の予備機はどこにいるかご存じありませんか? 目の前のあいつと対になるはずの機体です。地下でコアの警備でもしていますか?」 「あ、それは……」ディオネは一瞬言いよどむ。だがトリアイナが得意げに、 「私達がやっつけちゃった!」 「なんと!?」ロクのゴーグルがちかちかと点滅した。本心から驚いたサインだ。 「本当ですか? 私を……しかも鉄虫に感染した状態の私を貴女がたが?」 「本当だよ! ソーフィッシュが犠牲になったけどね。あっちの方がもっと鉄虫化が進んだ感じで、見た目も変わってたよ。ねーディオネ」 「あ、はい。洞窟の中でずっと追いかけられてたんですけど、あの、コアでしたっけ? 青いやつのある部屋で迎え撃って、なんとか」 「なるほど、私達はコアを攻撃できませんから、それを盾にしたというわけですか。それにしても、いやはや……」ロクは感慨深げに頭を振ろうとして、ぴたりと止めた。 「今なんと言いました?」 「ご、ごめんなさい! 申し訳ないとは思ったんですけど、どうしても戦うしかなくて……」 「その話ではない。青い?」ロクは素早く遮った。「何が青かったと?」 「えっ? ええと、はい、青く光ってる大きな丸いのがあって……あれがコアじゃないんですか?」 「……ハッ! ハハハ!」ロクは笑いながら身を起こした。 「ディオネ嬢、貴女はトリアイナ嬢の姉妹機なのでしたね。貴女がた姉妹はいつも私に驚きをくれる。そう、その球体が墓所のコアです。青く光っているということは、エネルギー蓄積モードに入っていることを意味します」 「?」  きょとんとした顔をするディオネとトリアイナ。 「ご記憶ですか? アンヘル公の墓所で、コアはすべてのエネルギーをシムルグに注ぎ込んで自爆した。その時コアは赤色に発光していた。エネルギー注入モードだったからです」 「ええと……つまり?」 「つまり、あの時とは状況が逆だということです。あそこにいるシムルグは単に私達の足止めをしているだけで、コアからのエネルギー供給を受けていない。ほら、私達がこうして会話していても、攻撃も仕掛けずにああしているでしょう?」  確かにロクの言うとおり、シムルグは空中で待ち構えるようにロクをにらみ据えたまま動かない。地上にいる鉄虫たちの援護をする様子もない。 「こやつらの企みがなんであれ、その中心は地下、墓所のコアにある。聞いているでしょうね、アルバトロス!」 《ああ聞いている!》アルバトロスの声が大音量で響いてきた。《地下空間に複合スキャンをかけた。金庫の中心部付近に……信じがたい反応が出現している》 「もったいを付けずに早く言うがいい!」ロクが起き上がって戦闘態勢をとる。 《あまりにデータの少ない状態で憶測を発言したくないのだが……想定される事態があまりに重大ゆえやむを得ない》アルバトロスは一瞬だけ音声を止めてから再開した。 《ごく微量ではあるが、アルタリウムの反応がある。もしかすると奴らはここに、鉄の塔を建設しようとしているのかもしれん》 2-7 最初で最後の、ただ一度だけの 「鉄の……」 「塔だと!?」  龍のサーベルが一瞬だけ止まった。 「冗談で言っていいことではないぞ、アルバトロス!」 「だから憶測を発言したくないと言った」アルバトロスの声は冷静だった。「しかし、そう考えればこの鉄虫の数も説明できる。予備として使われないまま廃棄された墓所に、これだけのAGSが保管されていたとは考えがたい」  龍は周辺の島で聞いた噂を思い出した。「悪魔の鳥が機械を盗んでいく……」 「おそらくはあのシムルグが周辺の共同体からAGSを集めたか、あるいは墓所のどこかにプラントがあって製造しているのかもしれん」  後方、救護班のテントでは、ロクとシムルグのにらみ合いがまだ続いていた。 「トリアイナ嬢、あのシムルグの頭が見えますか。あなたの記憶と違うところがあるのに気づきますか?」 「え? いや急に言われても、うーん」トリアイナは顔をしかめて目をこらす。 「……頭のツノが二本?」 「正解です。シムルグと私の唯一の違いが頭部のクレストアンテナの形状なのですよ」ロクは教師のようにうなずいた。「墓所の時は、私との戦闘でアンテナがすでに破損していましたからね。気づかなかったでしょう」 「そうだったんだ。……それが?」 「つまり、もう手段は選んでいられないということです」  ロクはふわりと軽やかに舞い上がる。放電が医療機器に影響を与えない高さまで上昇すると、全身から放電して加速をかけた。 《アルバトロス中将。ツィゴイネルワイゼンの最初の16小節を数字譜で》 「何?」 《私のコア・アドミニストレーションコードです》  アルバトロスはセンサーを上空へ向けた。すでにロクとシムルグの第二ラウンドが始まっている。 「論理的な説明を求める」 《あのシムルグには私とのデータリンク機能が残っている可能性が高い。今からハッキングを試みます》 「ハッキングだと」アルバトロスは驚いた。「そんなことが可能なのか」 《通常なら不可能です。しかし、私とシムルグはお互いがエラーを起こした時のための介入プログラムを持っている。それを使って強制的に初期化をかけられれば、一瞬だが本来の人格プログラムが起動する可能性がある》 「アルバトロス中将、何をしている!」  龍の声に、アルバトロスはロクとの会話に意識を割きすぎていたことに気づいた。メモリを再配分し、AGS部隊の配置とエネルギーフィールドの強度をチェックする。その間にもロクの通信は続く。 《ハッキングは専門ではないので集中する必要がある。その間、私のボディのオペレートをお願いしたい。これで理解できましたか? それとも、負担が大きすぎますかな?》 「……!」アルバトロスは瞬間的に生成した34通りの返答を最終的にすべて却下してシンプルに答えた。「問題ない。完璧に操縦してやろう」 《それは重畳。では始めますよ》  戦闘指揮を続けながら、アルバトロスは予備回路とエネルギーをすべて投入し思考速度をブーストした。アドミニストレーションコードの送信と同時に、ロクの全センサー情報がすさまじい速度で流れ込んでくる。 「ぐ、む……」  ロクとシムルグの座標と速度と姿勢、現在のスラスターの状態と推力ベクトル、周囲の気流と熱、流れ弾や破片の軌道。それらの情報を元に、ロクのボディが次の瞬間にとるべき行動をアルバトロスが選択する。ロク自身のセンサー情報だけを元にしたのではデータの送受信とエミュレートの分だけ遅延が生じるため、アルバトロス側の戦術情報も統合してコマンドを予測送信。この戦闘速度では、飛行中の相対距離の変化によるピコ秒レベルの通信ムラも無視できない。しかも地上のAGS部隊の指揮と、アルバトロス自身の戦闘マニューバの精度も落とすわけにはいかない。 「ぬおおおおお……!」 「中将、どうした!?」 「何でもない! 戦闘に集中しろ!」  だが、やってみせねばならない。ロクが、これまでかたくなに自分との指揮リンクを拒んでいたあのロクがコア接続コードを開示したのだ。そこには単なる戦術的合理性を超えた重大な心理的インシデント……人間的に言うなら「決意」が存在していることを、アルバトロスは理解していた。  この作戦は絶対に、そして完璧に成功させなくてはならない。自分のためではない。オルカと司令官のためだけでもない。ロクが、ロクの決断と信頼が正しかったと証明するためにだ。アルバトロスは緊急時用の強制冷却システムを作動させ、中枢回路にさらにブーストをかけた。  暗闇の中に無数の刃が突き出している。その奥へ手を伸ばし、扉を探り当てる。シムルグのシステムへの介入は、感覚的に表現すればそのような作業だった。奥へ行くほど刃は密度を増し、伸ばした手が切り裂かれる。  もう昔のままの「彼」がどこにもいないことは、ここからでも感じとれた。たとえ扉の向こうに光があったとしても、それもすぐに闇に飲み込まれるだろう。それでも、扉は絶対に開けてみせる。そしてその向こうに必ず、たとえほんの欠片であったとしても「彼」はいる。そう信じて伸ばし続けた手が、ついに何かを掴んだ。 「……!」  ロクの視界が復旧する。ハッキング作業にすべて投入していたメモリを再分配し、自己の感覚を取り戻す。ボディに不具合はない。アルバトロスは見事に操縦してくれたようだ。 「シムルグ!」ロクは風にかき消されないよう最大音量で怒鳴った。「貴様もアンヘル公の側近を務めたAGSならば、その様はなんだ! 鉄虫などに、いつまでも好きにされているんじゃあないッ!!」  思い切り上体を反らし、シムルグの顔面に額を叩きつけると同時に、最後のコードを送信する。血のように赤いシムルグのゴーグルが一瞬ブラックアウトし、ノイズのような白い光の線が無数に走った。  そして、弱々しいが確かに、それまでの赤とは違うオレンジ色の光が、ゆっくりと灯った。 「……ロク?」  一秒に満たない間、ロクの思考回路を無数の言葉が高速で循環した。しかし、最終的に出てきた言葉はシンプルだった。 「ああそうだ、シムルグ。久しいな」  シムルグは頭を振り、ロクの方へ向けた。意志の感じられる動きだった。 「自己診断プログラムを強制終了……質問したい事項が250ほどあるが、その時間はないようだな」 「話が早くて結構だ」ロクはゴーグルをチカチカと瞬かせた。 「重要事項は二つだけだ。1:お前に残された時間はあと12秒。2:俺達は命に代えても、この島の地下にあるコアを消滅させねばならん」 「それだけわかれば十分だ」  二機の怪鳥は戦闘から一転、軌道をそろえ螺旋状に回転しながら空高く舞い上がっていく。 「龍中将、アルバトロス中将、全軍の避難を。決戦軌道攻撃をかけます」 《……! 了解した!》  さすがに二人とも無駄な質問はしなかった。地上の戦線がさっと動きを変え、海の方へ引いていくのが見てとれる。  二機一組の双子機でありながら、ロクとシムルグにはコンビネーション戦闘プログラムのようなものはない。 「単体として十分に優れた能力を有していれば、連携が必要な時にはそれを行える。それだけでいい」  というのが、アンヘル・リオボロスの設計理念だったからだ。  実際に二機は戦闘訓練において、必要な時には見事な連携をやってみせた。アンヘルに仕えるようになってからは稀に戦闘出撃もあったが、二機同時の出撃が必要になる敵などは存在しなかった。  だからこの技は、実戦で使用したことは一度もない。RF87モデルが総力を挙げて撃滅しなければならない敵が現れた時のために、たった一つ作られていた連携攻撃マニューバ。 「セットアップ。ディサイシブ・ダブルヘリカル・コンバットマニューバ」 「起動承認。測距完了。カウントダウン開始」  螺旋が加速する。二機の間に放電が発生し、竜巻となって風を呼び、雲を呼ぶ。積雲高度まで上昇してから反転した竜巻は、無数の稲妻をまとってまっすぐ降下する。 「「リリース。コード〈ガオケレナ〉!!」」  激突の瞬間、二機の間に蓄積された膨大な電荷が解放される。それは巨大な雷球となって、空と大地とそのあいだに存在するあらゆる帯電物質との間に猛烈な放電現象を引き起こしながら地下へと突き進む。地下のコアと接触した雷球は爆発し、そのとてつもない熱量ですべてを焼き尽くしながら上空へと駆け上がる。  その瞬間、龍とアルバトロス、そして地上にいるすべての隊員は、目を焼かんばかりに輝く、天を貫く雷の大樹を見た。  雷が消えた後、もはやそこは崖でも山でもなかった。ただ溶けてガラス化した表面がなめらかに落ち込んでゆく、地の底まで続く大穴であった。  穴の底には、炎と水蒸気とに包まれて、一機の黒いAGSだけが立っていた。 2-8  オルカが島に着いた時には戦いが終わっていたどころか後始末までだいたい終わっていて、俺を出迎えてくれたのはすっかり作業着姿が板についた龍と、もうほとんど怪我も治った探検隊の面々だった。 「キャプテン!」 「司令官! 会いたかったよー!」  まだベッドに寝かされたままぱたぱたと手を振る皆を順番に抱きしめてキスをする。 「みんな、お疲れさま。たいへんな状況でよく頑張ったな」 「えへへ」 「特にディオネ。今回はディオネがいたおかげで、皆すごく助かったと聞いたよ」 「そんな……これくらい当然です」頬に大きな絆創膏を貼ったディオネは口元を動かしづらそうだったが、それでもぎごちなく笑ってくれた。「この前は自分のことでいっぱいいっぱいで、司令官様にまでご迷惑をかけてしまいましたから……皆さんの役に立ててよかったです」 「ほんと、ディオネの持ってきた食料がなかったら探検どころじゃなかったわよ」ウンディーネが同意する。 「そもそも、探検に行くのに食料を用意してない方がおかしくないです?」テティスがほっぺたを膨らませて、じろりとトリアイナの方を睨む。 「今度こそ仲間はずれにされたくないからついてったのに、散々な目にあいました」 「お嬢ちゃん、教えてあげる。真の探検家っていうのはね、ロマンを食べて生きるものなのよ」  トリアイナは俺の隣で不敵に笑った。探検隊の中でも一番消耗していたはずなのに、なぜか真っ先に回復した彼女はさっさと退院して調査隊を手伝っている。近隣の共同体との交渉がスムーズに進んだのは、先にあちこちの島を訪れては誰彼構わず仲良くなっていた彼女の人脈によるところが大きいそうだ。 「トリアイナさん一番食べてましたよね!?」 「はは、大変だったなテティス。治ったら足裏マッサージ、特別コースでやってあげるよ」 「ほんとですか!?」とたんに顔を輝かせるテティス。「絶対ですよ!」 「あー、テティスずるい! ネリもネリも!」 「わ、私も……」  うーむ、宝蓮直伝のマッサージはどこへ行っても大人気だ。仕事がなくなったらマッサージ屋を開店しようかな。 「お前達、そのへんにしておけ。まずは治療と体力回復、それが終わったら調査隊への参加だ。主のご褒美をいただくのはその後だな」  ええー、という声が上がる。俺は笑って龍の方へ向き直った。 「龍も、ありがとう。技術班を連れてきたから、調査は引き継ぐよ」 「そうさせてもらおう。すっかり日に焼けてしまった」  龍はさすがに疲れた様子で笑う。口では厳しいことを言っていても、救助作戦の陣頭指揮からつづく激務の間中、暇を見つけてはホライゾンの見舞いに来ていたことも俺は聞いている。 「鉄の塔か……」  今頃ドクターとアザズが嬉々として穴の中を調べているだろうが、まだまだわからないことだらけだ。 「今はまだ、そうかもしれん、というだけだ。また別の計画だった可能性もある……ともかく、阻止できたことを喜ぼう」 「そうだな」  もし本当に鉄虫がここに鉄の塔を建てようとしていたのなら、未然に阻止できて本当によかった。またあの時のような総力戦をやる力は、オルカに戻っていない。 「そういえば、近くの島の共同体が合流してくれるんだってね」 「ああ、今朝また増えた。今回のことで不安を感じたようだ。皆、カラカスへ移住したいと言っている」  あの洞窟がどこまで広がっているのかも調査中だ。今回の戦闘で崩落した箇所も多いため、完全な踏査は不可能かもしれない。鉄虫は海を渡らないという前提があるからこそ孤立した島での暮らしに安心があったのに、海底洞窟でつながっているかもしれないと言われれば不安になるのも当然だろう。 「できるだけ受け入れてあげてくれ。どのみち、ここにはしばらく調査隊を置くだろ? 島に残った子たちの護衛も兼ねてあげてほしい」 「そのつもりだ。空になった村を、調査隊のキャンプとしてそっくり使わせてもらうよう交渉を進めている」  さすが龍、合理的な手配だ。 「そうだ、よければ沖に停泊している輸送船にもあとで寄っていただけないか。主に会えるかもしれないというので、工兵隊が休暇を返上して残って待っている」 「必ず行くよ」  テントを出た俺とトリアイナの前に、大きな影が二つ、ふわりと降下してきた。 「閣下、わざわざのお越し、ありがとうございます」 「司令官、必要な報告と引き継ぎを終えた。私はそろそろ師団本部に戻らせてもらおうと思う」  ロクとアルバトロス。カリブ海の陽射しに温められた黒い装甲に手を当てて、俺は頭を下げる。 「二人ともありがとう。君たちがいなかったら今回の戦いは勝てなかった。俺は後からのこのこ来ただけで、何もできなかったよ」 「過分なお褒めの言葉、恐縮です」 「総司令官とは本来そうあるべきものだ。むやみに前線に出ることはない」 「ロク、ごめんね」トリアイナが珍しく、しおらしい様子でぺこりと頭を下げた。 「ごめんとは?」 「鉄虫とはいえ、あなたの予備機を壊しちゃった。そのうえ、あなたの兄弟も……」 「ハハハハハ!」ロクは高らかに笑った。「何を言うかと思えば。実戦経験のない予備機、しかも鉄虫と化したなれの果てとはいえ、このRF87ロクをたった六人で撃破したのです。謝るよりむしろ誇ってもらわねば困る。それに兄弟に関していえば……」  ロクはすっと身をかがめ、トリアイナと目線を合わせた。 「二度と会えないと思っていた奴と、もう一度話すことができた。本当に貴女はいつも、私に思いがけない体験をくれる」  ロクはふわりと浮き上がった。イオノクラフト特有の、うぶ毛が逆立つような感覚が顔をなでる。 「おっと、そうだ。大事なことを一つ忘れていました。お手数ですが閣下、近いうちにマスター権限を使って私のアドミニストレーションコードを変更していただけませんか。誰にも教えずに」 「待て、どういうつもりだ」アルバトロスが驚いたように大声を出した。「コードは私にも共有してもらおう」 「冗談ではありません。今回のことはあくまで一時的な緊急措置。私はあなたの傘下に入ったわけではない」言いながら、ロクはゆっくり上昇していく。 「そんな勝手が許されると思うな。そもそも、すべてのAGSの一元的な統制こそが……」アルバトロスもそれを追って飛んでいく。「ああくそ、司令官! ともかく当面コードはそのままで頼む」 「コード変更の手続きはいささか複雑ですので、あとでマニュアルをお送りいたします、閣下」 「待てというのに!」  言い合いをしながらどんどん高く昇っていく二機をしばらく見送って、俺はトリアイナと顔を見合わせ、くすりと笑った。 「あーあ。さすがの私も、ちょっと疲れちゃった」  そんなことを言って、トリアイナは俺の胸に頭をもたせかける。 「もう、冒険はしばらくいいや。ソーフィッシュ壊れちゃったし、調査隊の仕事もあるし。ディオネとも、ゆっくり話してみたいしね」 「そうか」  トリアイナでもそんな気分になることもあるのか。という言葉を俺はそっと胸にしまって、彼女の肩に手を置き、沖に見える輸送船の方へ、磯づたいにのんびりと歩いていった。  それから一週間とたたないうちに、トリアイナは再びやってきて、 「キャプテン! 今北極海! 北極海がアツいのよ! 探検隊の新メンバー募集中なんだけど参加しない?」 「お姉ちゃん! 調査隊から頼まれた仕事がまだでしょ!」  ……ディオネに襟首を捕まれて去っていった。 「真の冒険家ってのは、いつでも冒険を求めずにいられないものなんだなあ」 「何を仰っているんですか」  つぶやいた俺に、アルファが呆れた顔をした。 「私は興味がありませんが……冒険というのは冒したリスクと達成した成果の大きさで決まるのでしょう? でしたら、旦那様以上の冒険家なんて歴史上何人もいませんよ」  え、そうかな?  俺は肩をすくめて、残り少ない今日の仕事に戻ることにした。これが済んだら、マッサージ屋でも開こうかな。俺に似合いの冒険なんて、そんなところだ。 End