初めて魔物を殺したのは11歳の時だった。その日より前のことは、ぼんやりとしか覚えていない。  駱駝や駝竜を連れて旅をし、荷を贖い、運び売るのを生業としていた、はずだ。国から国へ、村から村へ、隊商の列は砂漠と人の住処の隙間をすり抜けて進む。サラバは危険の地だ。危険だからこそ居場所がある。魔物棲まうサラバに人は暮らせないが、人の街にも流浪の民の住処はない。  隊商の人々の顔は思い出せない。隊商に語り継がれてきた、昔話や秘密も、歌や手品も、ただのひとつも記憶にない。覚えているのは、どこまでも広がるサラバの砂、そこに残る足跡、そして皺だらけの女の手。先に立って手を引き、文字の読み方や、ちょっとした魔術などを教えてくれた手。 「砂漠の王は不死者なんだよ。人間の手が及ぶものじゃない」  深夜に轟く魔物の咆哮。行く手を閉ざす砂嵐。それらをもたらすのがサラバ砂漠だ。サラバの奥には、恐ろしい王がいる。手の主はよくそう語っていた。 「もしも出会ってしまったら、平伏して慈悲を乞うのだよ。決して剣など向けてはいけない。砂漠を殺すことはできないし、砂漠を離れることもできない。あたしらの住処は、この砂漠にしかないのだから」  手の主の記憶もやはりおぼろだ。覚えていることは、あともう一つだけ。皺だらけの手の中に握られていた、石を連ねた首飾り。 「これはあたしのお祖母さんのお祖母さんの、そのまたお祖母さんから引き継がれたものさ。いつか、おまえにあげようね」  いつかは思ったよりも早くやってきた。 「逃げろ!火蜥蜴だ!ばらばらに逃げるんだ!」  後に知ったことだ。隊商を襲い、壊滅させた火蜥蜴の群れは、サラバ砂漠の魔物の中では、危険のうちに入らない。  しゅううと興奮した噴気音が響く。駱駝の悲鳴が上がり、荷があかあかと燃え上がる。大きく開いた火蜥蜴の口の中で、白い歯が閃いた。その歯が肉に埋まると、人間はもがきもせずに倒れる。隠れようと思いつきもせずに立ち尽くし、殺戮の様子をただ見つめていた。自分もああなるのだと思った。  冷たい、硬いものが首に巻きついた。首飾りの石だった。首飾りをかけた手が、背を強く叩いた。 「お逃げ!後ろを見ないで!」  言われたとおりに数歩走り、振り絞るような絶叫を聞いて、言いつけを破って振り向いた。  これまで自分の世界だったものの、何もかもが燃え上がっていた。うねり渦巻く炎の光に照らされ、世界が狂おしく揺れている。その光の中、馬ほどもある蜥蜴が背を向けてうずくまり、何かを食べている。  頭の中で何かが囁いた。今なら殺せる。  砂の中から突き出していた棒切れを引き抜く。振り下ろした棒は、あやまたず蜥蜴の目に食い込んだ。  蜥蜴は怒りの咆哮を上げ、頭を激しく振った。棒切れが、傷の中に先端を残したまま折れる。傷ついた蜥蜴は怒り狂い、口を開いた。赤い舌の上に折れた棒を突き込む。  仲間が争い、傷つき、力尽きるまでを、火蜥蜴たちは遠巻きに見つめていた。一番近くにいたものに向け、血にまみれた棒切れを構えて威嚇する。蜥蜴は首を傾げた。火に照らされて、鳥に似た丸い瞳が宝石のように光った。 「殺してやる」  声は自分のものではないようだった。蜥蜴は再び首を傾げた。炎の光が届かぬ場所、より深くなった闇の中、目がいくつも光る。 「来い、みんな殺してやる。おまえも、おまえも、おまえも!」  棒を振り回す。きらめく目は振られる棒を、不思議そうに眺めながら後退り、闇の中に消えた。  死んだ蜥蜴だけが残された。巨大な怪物は、隊商の人々と同じように、砂の上に横たわっていた。怒りが凍りついたように、胸の中で疼く。それはなぜか、悲しみに似ていた。この怪物は、先程まで生きて動いていた。残酷な歯を生やす口も、砂色の鱗も、なんと美しかったことだろう。今はもう、動かない。  燃え上がる荷が、昼のように周囲を照らしていた。駱駝も人も、それを殺したものも、踊る火に照らされて、ゆらゆらと影を引いた。  どこかで長く獣が吼えた。去らねばならなかった。血の匂いが、魔物たちを呼び寄せるだろうから。  砂漠を歩き続けるうちに、目は閉じても湿らなくなり、舌は干乾びて上顎に貼り付いた。  動くのは早朝と夕方だった。明け染めし空の金色と、暮れる空の緋色の下を歩く。  朝になれば、目覚めた太陽が、無表情に砂漠を睥睨した。太陽に見られてはならない。その目は無慈悲な神の目だ。見つかればたちまち焼き焦がされてしまう。  夜になれば、何万もの星々が空を埋め尽くした。凍りつく砂漠の闇の中、まだ温かい砂に身を埋めて朝を待った。夜闇を渡る風に乗って、獣の遠吠えが届く。月は太陽よりも静かに、冷酷に見下ろしていた。目の前で何が起きようと、降りて助けてやりはしないと。  恐ろしくはなかった。何が現れても、殺すつもりでいた。たとえそれが、砂漠の王その人であろうとも。  涙は一滴も出なかった。灼熱の太陽が、涙と悲しみを奪い去ってしまったのかもしれなかった。  行く手にはどこまでもどこまでも、青い空と赤い砂が広がる。その残酷さを骨の髄まで教え込まれてなお、否定しようがなく、サラバ砂漠は美しかった。  干からび焼け焦げて村に辿り着いた子供を、たまたま居合わせた隊商のひとつが迎え入れた。  大人と同じに駱駝を引き、荷を積み下ろしして、どこまでも砂漠を歩く。砂漠の環境は厳しい。ただでさえ口がひとつ増えたのだ、子供であれ、特別に気遣う余力はない。  一度は血にまみれた手で駱駝の手綱を取り、無慈悲だったはずの砂漠で、星を数えながら眠った。世界が燃え尽きた後も、サラバの砂は変わらず行く手にあった。ここは自分の居場所ではないと、心のどこかで感じはしたが、その気持ちも徐々に薄れていった。何も起こらなければ、死者が砂に埋もれるように、怒りは日々の暮らしに埋もれて忘れ去られたかもしれない。  人の棲まぬ砂漠に、いくつも松明の火が燃える。サラバに人は棲めない。だが人の街に居場所を失くした盗賊たちは、しばしば危険を冒して砂漠の中に身を隠す。  鋭い鬨の声が、夜闇を裂いて響く。隊商の男たちが剣を抜いた。女が子供らを呼び集める。砂漠に潜む盗賊の噂は既に聞いていた。魔物が相手ならば、荷を捨てて逃げもしよう。しかし獰猛な砂漠の怪物に比べれば、人は遥かに脆くか弱い。  隊商の長が駆け出した。暗闇の向こう、激しい剣戟の音が響き始める。悲鳴が上がり、血の匂いが鼻に届く。胸の奥で、何かが身じろぎした。自分はあそこに立つべきではないか。  静かだった空を、不意に砂燼が覆った。千の口が悲鳴を上げたように、ひいと甲高い風の音が上がる。  砂嵐が訪れた。そのあるじと共に。 「アテンだ!」  盗賊が悲鳴を上げた。 「アテンが来る……アテンが」  言葉が途切れ、身の毛もよだつ絶叫に取って代わる。 「サラバは我が領土」  渦巻く砂嵐に乗って、声が轟いた。砂と風の唸りの中、サラバ砂漠自体が口を開いたかのように、声は明瞭に響き渡った。 「好き勝手に踏み荒らしてくれたものだ」  隊商のひとりが叫んだ。人間のものではない影が、その男に襲いかかる。砂漠の王のしもべたちは、盗賊と隊商を区別しなかった。 「償えとは言うまい。二度と我が土地に踏み入らなければ、それで十分だとも」  スフィンクスが吼えている。人間とも獣ともつかぬ異様な声。煙を固めたような白い前脚が、血にまみれて赤く染まる。  吠えたける砂嵐の中、巨躯がゆらりと歩み出た。砂漠の王。サラバのアテン。  その首がふっと動いた。怒りの叫びが聞こえる。盗賊たちが、仲間を助けに来たのか。敵わぬ相手と知っているだろうに。  あの日と同じに、何かが囁いた。殺せ。  砂を蹴立てて駆け出す。死体の腰から剣を引き抜く、一歩、二歩、大きく跳ねて、跳びかかった。  異形の巨体が振り向いた。挨拶でもするように持ち上げた手から、包帯がはじけた。包帯は大蛇のように、体に巻き付き締め上げる。殺すつもりか。ふざけるな。私が、お前を殺すんだ。怒りに身を任せ、包帯を掴んだ。  掌から炎が吹き出す。かつてあの手が教えてくれた、灯りの魔術だった。魔術が戦闘に使えるなどと、思ったことは一度もなかったのに。  不死なる王は動じず、ひょいと手を振った。包帯は音もなく解けた。地面に叩きつけられた右肩が、鈍い音を立てて外れた。 「殺す」  頭を上げて、睨みつける。動く側の手で剣を構える。痛みなど感じない。煮え立つように熱い血が、全身を音を立てて巡っていた。  砂漠の王は思いがけず動きを止めた。微かに皮肉の気配を孕んで、低い声が風に乗って届いた。 「若き勇者殿」  目の前の人間に殺されうるとは、毛ほども思っていない声だった。 「蛮勇と勇気を履き違えてはいかんな。勝てぬ敵に挑むのは愚か者のすること」  砂嵐の中、金の目が光る。その光が細くなる。 「今私が君を殺さないのは、君が取るに足らぬ存在だからだ」  アテンはその一言を残し、躊躇なく背を向けた。砂嵐があるじに従い、生あるもののように移動していく。嵐の行く先で、新たな悲鳴が聞こえた。  剣を握ったまま、思い出す。包帯に覆われた異形の巨躯を、奇妙に柔らかく響いた低い声を、今しがたまで見つめ合っていた、人間のものならぬ目を。その目は、人を喰らう蜥蜴の、天空しろしめす太陽の、酷薄な月の光を湛えていた。  おまえは砂漠そのものだ。残酷で理不尽で、そして。  いつか殺してやる。  隊商の長が、鎮まりつつある砂嵐の中を潜り抜け、あえぎながら走ってくる。 「お前は生き延びたか。皆を呼び集めるぞ、急げ……」 「勇者か」  長は狂人を見る目をした。 「私は勇者だ」  名を失ったのはその日のことだ。  突然勇者を名乗り始めた小娘を、初めは嘲笑と哀れみを込めて、後には信頼と尊敬を込めて、誰もが勇者と呼ぶようになった。  あの日全てを奪った火蜥蜴を、今は苦もなく殺すことができる。だが、何を殺そうと、隊商の日々は帰らない。帰りたいとも思えないのだ。あの頃持っていたものは、すべて砂の中に消えた。名でさえも、もう自分のものではない。  砂漠はすべてを奪い、すべてをもたらした。新たな名と、新たな運命、そして宿敵を。  時々、首飾りを外して眺めてみる。今となっては、あの手の主の顔も思い出せないが、自分を過去と繋ぐものは、この首飾りの他にないのだ。