Chapter6:『開示されていく真実』  6.1:『疑惑の坩堝、砕かれた絆』  静まり返った『天竜の間』は、今や神聖な領域ではなく、疑心暗鬼という名の毒が充満する密室と化していた。  再生の光が満ちる三日目の朝。しかし、その光は誰の心にも届かず、ただ互いの顔に浮かぶ恐怖と不信の影を色濃く照らし出すだけだった。  新たな失踪、そして牢獄の惨状。  あまりにも異常な事態を前に、この館の絶対的な主であったはずのゴッドドラモンは、ただ狼狽し、その権威の残骸の上でなすすべもなく立ち尽くしていた。  その、死んだように淀んだ空気を切り裂いたのは、エリスの氷のように冷たい声だった。 「馬鹿馬鹿しい。だから答えはもう出ているじゃない」  彼女の青い瞳がゆっくりとユンフェイを、次に騎士を射抜く。その視線はもはや、尋問ではなく断罪だった。 「牢を破壊できるだけの圧倒的な斬撃。ティンカーモンを消し去るほどの隠密な行動力。その両方を満たす手段を持つのは、この中で二人だけ。  レジェンドアームズを従える戦場騎士。そして、四大竜の試練を超えたスレイヤードラモンを従える貴方よ、ユンフェイ」  その言葉は研ぎ澄まされた刃となって、二人の間に横たわる亀裂をさらに深く抉った。  ユンフェイは、ティンカーモンを失った絶望と、突如向けられた疑惑の刃に、血の気を失った顔で唇を震わせる。 「待ってくれ」  静かだが、強い意志を込めて反論したのは、騎士だった。 「確かに、ズバモンもスレイヤードラモンも、あの牢を破壊することは可能だろう。だが、可能性のある存在はもう1人居る」  騎士の視線が、今度はエリスへと真っ直ぐに向かう。 「エリス。お前の使うディーアークだって、強力なカードを組み合わせれば一点集中の破壊も可能だ。  カードスラッシュの組み合わせ次第では、あの程度の鉄格子を破ることなど造作もないはずだ」  矛先は、見事に逸らされた。しかし、エリスは少しも動じない。まるで、その反論すら予測していたかのように、薄く笑みを浮かべた。 「ええ、そうね。でも、それは貴方にも同じことが言えるわ。そして……」  エリスの視線が、今度は宙で青ざめているワイズモンを捉えた。 「賢者のローブを纏うそこの魔人型デジモンにもね。『パンドーラ・ダイアログ』……その必殺技は、他者の技を記録し再現できる。  貴方がこれまでどんな強力な技を見て、盗んできたかなんて、私たちには知る由もない。牢を破る一撃くらい、その膨大な知識の中に隠していてもおかしくないでしょう?」 「なっ……僕が、ですか!?」  疑惑は、制御を失ったウイルスのように瞬く間に拡散していく。  エリス、騎士、ユンフェイ、そしてワイズモン。誰もが容疑者であり、誰もが告発者となりうる。  絆などという脆いものは、この坩堝の中ではとうに溶け落ちていた。 「いや……もう、いやぁぁぁぁっ!」  その狂気の連鎖を断ち切ったのは、レイラの悲鳴だった。彼女は両手で耳を塞ぎ、恐怖に顔を歪ませる。 「誰が犯人かとか、どうでもいい! 誰が味方で、誰が敵かなんて、もうわかりません! みんな……みんなが私を殺そうとしているように見える!」  その瞳は、もはや誰のことも映してはいなかった。彼女はスナリザモンの手を掴むと、もつれる足で走り出す。 「もう誰も信じられない……」  そう叫ぶと、レイラは天竜の間を飛び出してしまった。 「レイラさん……!」  ワイズモンは、後を追おうとして、力なくその場で止まった。自分を信じてくれていたはずの友人からの、完全な拒絶。それは、彼の心を打ち砕くのに十分すぎた。 「……僕が……僕が彼女をここに連れてきてしまったからだ……僕のせいで……」  絶望に染まった彼は、誰に言うでもなくそう呟くと、ふらふらと展望室の方角へと消えていった。  だが、再生を始めた世界の奇跡的な光景でさえ、彼の虚ろな心を癒すことはないだろう……。  残されたのは、凍りついた空気だけだった。ゴッドドラモンは、自らの聖域で繰り広げられた醜い争いに、ただ呆然としている。  このままでは、本当に全員が壊れてしまう。  騎士は、深く息を吸い込み、この混沌に1つの筋道を立てるべく声を張り上げた。 「もうやめよう! このままじゃ、犯人の思う壺だ。俺たちは、感情に流されるんじゃなく事実を探すべきだ」  彼は、絶望に沈むユンフェイの肩を掴みそしてエリスを睨みつけた。 「二人が最後にどこにいたのか。失踪前に何か手がかりを残していないか……。まずはティンカーモンの部屋と赤城さんの部屋を調べよう!」  それは、崩壊寸前の共同体をつなぎとめる最後の提案だった。  6.2:『二つの捜索、それぞれの思惑』  騎士の提案は、混沌の只中にいる彼らに、かろうじて進むべき道を示した。  一同は『天竜の間』を後にし、重い足取りで宿泊エリアへと向かう。  誰もが、口を固く結んでいた。言葉を交わせば、再び互いを傷つける刃となってしまうことを、本能的に理解していたからだ。  その中で、ユンフェイだけが、まるで魂を抜き取られたかのように茫然と立ち尽くしていた。  彼の視線は、虚空の一点を彷徨っている。慕ってくれていた小さな妖精の喪失。  そして、仲間から向けられた冷たい疑惑。その2つの重圧が、彼の誇り高い心を軋ませていた。  騎士は、そんな彼の前に静かに立った。何を言えばいいのか分からない。  慰めの言葉など、今の彼には届かないだろう。だから、騎士はただ、事実を伝えることにした。 「ユンフェイさん。……ティンカーモンは、昨夜、俺にこう言っていました」  騎士は、昨夜のティンカーモンの無邪気で、しかし危うい笑顔を思い出しながら、言葉を絞り出した。 「『ユンフェイを最強にする秘宝への道を見つけた』と……。  そして、こうも言っていました。 『私はユンフェイに笑っていてほしいの。ただ、それだけなの……!』と」  その言葉は、ユンフェイの虚ろな心に、静かに、しかし深く染み渡った。  彼女が、自分のために。ただ、俺の笑顔が見たいという、その一心で。  ティンカーモンの健気な想いが、映像となって脳裏に蘇る。自分の後をついて回り、拙い言葉で応援してくれた、あの小さな姿。  その純粋な想いを、名も知れぬ何者かが、無慈悲に踏みにじり、消し去った。  その事実が、彼の心の中で静かに燃え始めた。それは悲しみや絶望ではない。剣士として、人として、決して許すことのできない、聖域を汚された者への、底なしの義憤だった。 「…………そうか」  ユンフェイは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳から、迷いの色は消え失せていた。そこにあったのは、悲しみを乗り越え、怒りを力に変えた、鋼のような決意の光だった。  彼は、騎士に倣うようにゴッドドラモンへと向き直り、深く、そして丁寧に頭を下げた。 「ゴッドドラモン様。貴方様にお願いがございます。ティンカーモンが最後に過ごした部屋を、この手で調べさせていただきたい。  彼女が残した想いを、無駄にはしたくないのです」  ユンフェイが、自分をこの館の「主」として敬意を払い筋を通そうとしている。  その真摯な姿勢は、度重なる事件で傷ついていたゴッドドラモンの竜としての誇りを静かに満たしていく。  彼は失いかけていた威厳を取り戻すかのように、ゆっくりと、しかし力強く頷いた。 「……許可しましょう。この青嵐の館の主として貴方の思い、確かに受け取りました。存分に調べてください」 「待ちなさい」  エリスが、その背中に冷たい言葉を投げかける。 「私も行くわ。貴方が証拠を隠滅しないよう見張っておくの」  彼女は、冷静さを装いながらユンフェイの後に続く。  だが、その隣を歩くフローラモンは、どこか悲しげに、そして心配そうに、主人の横顔を見つめていた。  彼らの姿を見送った騎士もまた、ゴッドドラモンに向き直った。 「ゴッドドラモンさん。俺も赤城さんの部屋を調べさせてほしい」  赤城の最後の言葉が、騎士の心に重くのしかかっていた。 「よろしい。貴方にも許可します」  ゴッドドラモンが静かに頷いた、その時だった。 「はーい! じゃあアタシも、少年のお手伝いしちゃおっかなー!」  ディエースが、いつもの軽い調子で騎士の腕に絡みつこうとした。その腕を、ゴッドドラモンの静かな、しかし有無を言わせぬ一言が制止する。 「お待ちください、ディエース様」  ゴッドドラモンの表情から、先ほどまでの狼狽は完全に消え失せていた。そこにあったのは、竜神としての威厳と、全てを見通すかのような冷徹な理性。 「貴女には、1つ、お聞きしたいことがある」  彼は、ゆっくりとディエースを見据えた。その瞳は、もはや信頼の色ではなく、鋭い分析の光を宿している。 「あの自動調理器。あれはこの館が建造された当初から存在する、古代のオーバーテクノロジーの産物。  それを、外部の技術者である貴女が、修理できたことは本当に称賛に値します  そして、昨夜の天竜の間へのハッキング。あのシステムは、外部からのあらゆる干渉を遮断する完璧なセキュリティのはず。  それを突破し、あまつさえ記録を改竄できるほどの技術を持つ者は、あの場に居た者の中で私が知る限り……」  彼は、そこで一度言葉を切り、絶対零度の如き視線でディエースを射抜いた。 「……かの自動調理器を修復した貴女ほどの技術者をおいて、他に考えられませんな」  それは、揺るぎない論理に基づいた、完璧な指摘だった。 「えー、何それー? アタシのこと疑ってんのー? ひっどーい!」  ディエースは、いつものおどけた口調でごまかそうとする。  だが、その笑顔は、冷徹な竜神の前では薄っぺらい仮面のように見えた。 「疑っているわけではございません。ただ、事実を確認したいだけ」  ゴッドドラモンは、彼女に逃げ場を与えない。 「この館の主として、これ以上の悲劇は看過できません。  貴女には、私と共に再び管理室へ戻り、その卓越した技術で、犯人が残した痕跡を解析していただきたい。それが、貴女の潔白を証明する、何よりの手段となるでしょう」  それは、拒むことのできない要求だった。 「……わーったわよー! やればいいんでしょ、やれば!」  ディエースは、苛立ちを隠しもせずにそう叫ぶと、乱暴に髪をかき上げた。  こうして、騎士とユンフェイがそれぞれの捜索へと向かう中、ハッキングの容疑者であるディエースは、竜神の鋭い監視の下へと、再び引き戻されることになった。  6.3:『赤城の残した箱』  赤城の部屋は、彼の性格をそのまま映したかのように、整然としていた。  本棚には、デジタルワールドの生態系に関する専門書や論文が背表紙を揃えて並び、机の上には書きかけの研究ノートと数本のペンが、寸分の狂いもなく置かれている。  生活感というものが、そこには希薄だった。 「どこにも、それらしいものはないな……」  騎士は、引き出しやクローゼットの中を慎重に調べていくが見つかるのは着替えやフィールドワーク用の機材ばかり。  赤城が「託す」と言った特別な何かは見当たらない。 「赤城のおっちゃん、一体何を隠してたんだろなー」  ズバモンは、退屈そうに部屋の中をうろついていたが、ふと、ベッドの脇に置かれた荷物の一つに鼻を近づけ、クンクンと匂いを嗅ぎ始めた。 「ナイト、これ……なんだか、俺と同じような匂いがする!」  ズバモンが指し示したのは、何の変哲もない、頑丈そうな鋼鉄製のツールボックスだった。  騎士がそれを手に取って隅々まで調べてみるが、鍵穴も、暗証番号を入力するキーパッドも見当たらない。  まるで、開けることを拒絶しているかのような、無骨な鉄の塊だ。  だが、箱を裏返した騎士は、その側面に存在する奇妙な意匠に気づいた。  そこには、細長いスリット状の窪みが、一つだけ彫り込まれている。  その形状、その深さ、そして僅かに湾曲した角度。それは、騎士の脳裏に浮かんだ1つの姿と、恐ろしいほどに一致していた。 「……まさか」  騎士の脳裏に、赤城の最後の言葉が蘇る。『もしも明日の朝、僕がこの牢から消えていたなら……その時は、君に全てを託す』。  彼は、自分が消されることを予期していた。  そして、レジェンドアームズであるズバモンを持つ騎士がこの部屋を捜索することまでも。 「ズバモン、アームズモードだ!」 「おう!」  騎士の鋭い号令に、ズバモンが眩い光と共にその姿を変えていく。  黄金の装甲を纏った猛獣の姿は一瞬で光の粒子に分解され、騎士の右手に収束する。現れたのは、黄金の刀身を持つ、猛々しい刀剣だった。  騎士は、ごくりと唾を飲み込んだ。これは一種の儀式だ。赤城が遺した、最後の謎を開けるための。  彼はズバイガーモンの切っ先を、慎重に、ミリ単位で調整しながら、箱のスリットへと差し込んだ。  まるで、失われたピースが収まるべき場所を見つけたかのように剣先は窪みに吸い込まれるようにフィットする。  その瞬間、スリットから青白い光が奔り、剣の刀身を走る紋様と共鳴した。 『LEGEND-Arms Code: Zubamon……Verified』  無機質な電子音声と共に、カシュッ、と小気味よい音を立てて、重厚なロックが解除される。  音もなく開かれた箱の中から現れたのは、一枚の薄型情報端末だった。  騎士は、慎重に端末を手に取り、起動させる。  画面には、いくつかのファイル名が並んでいた。その一番上に表示された、『G.G.Report』という文字に、騎士は指を伸ばした。  ファイルを開くと、画面に表示されたのは、かつてデジタルワールドでその名を轟かせた傭兵部隊『グラニットガーディアンズ』の活動記録だった。  輝かしい戦歴、幾多の紛争を鎮圧したという美辞麗句。だが、ページをめくるごとに、その裏に隠された暗部が露わになっていく。  非合法なデータの密輸、敵対企業への破壊工作、そして、金のためならどんな汚い仕事も請け負う、冷酷な部隊の真実の姿。  そして、騎士の目は最後の新聞記事で釘付けになった。 『傭兵部隊グラニットガーディアンズ、鳥竜型デジモンの巣を焼き払う依頼の遂行後、消息不明に』  その見出しに、騎士の指が触れたその瞬間だった。  6.4:『砂上の楼閣』  記事の文字が、ぐにゃりと歪んだ。  騎士の視界が急速に色を失い、自分の体の奥で、あの虹色の球体が脈動を始めるのを感じた。  ユンフェイの記憶を見た時と同じ、抗いがたい浮遊感。  ズバモンの「ナイト、どうしたんだ!?」という悲鳴が、まるで水の中から聞こえるかのように遠のいていく。  意識は、もはや騎士のものではなかった。それは、1人の女の傲慢と転落、そして再生を巡るあまりにも鮮烈な過去へと引きずり込まれていった。     ☆  乾いた風が、灼熱の砂を巻き上げる。  ここは、見渡す限りの砂漠地帯。  若く、自信と野心に満ち溢れたレイラ・シャラフィが、鉄壁の傭兵部隊『グラニットガーディアンズ』を率いて、その砂上に君臨していた。  彼女の瞳には、慈悲などという甘ったるい感情は欠片もなかった。  金こそが絶対の神であり、デジモンは便利な道具、そして弱者は踏みつけて楽しむための玩具でしかなかった。  レイラの記憶が、断片的な映像となって、騎士の脳裏に次々と流れ込んでくる。  ある時は、トレーニング道場を開きたいという男からのメール依頼を受け、平和なデジモンの集落を蹂躙した。  レイラの号令一下、先陣を切ったタンクモン隊の砲撃が、集落の入り口を木っ端微塵に吹き飛ばす。  ヴォルクドラモンが灼熱のブレスを吐き、穏やかな住居は瞬く間に炎上し、黒煙を上げた。  城壁のごときルークチェスモンが、抵抗しようとする長老格のデジモンを巨大な体で弾き飛ばし、その道を阻むもの全てを薙ぎ払っていく。 「いいですね、もっと泣き叫んでくれませんか。その悲鳴が、私の報酬を高くするので」  逃げ惑うデジモンたちの姿をモニター越しに見ながら、レイラは愉悦の笑みを浮かべた。  任務完了後、依頼主から分厚いBitのデータが転送されると、彼女は満足げに鼻を鳴らした。  またある時は、とある大手製薬会社から、ライバル企業の新製品を入手する依頼を請け負った。  配下のデジモンに命じ、ターゲット企業のサーバーへ侵入。  新薬の開発データを盗み出すだけでは飽き足らず、記録を改竄し有害物質が混入したかのようなフェイクニュースをダークウェブに拡散させた。  結果、ライバル企業は社会から激しい糾弾を受け株価は暴落。そのニュース映像をシャンパングラス片手に見ながら、レイラは冷ややかに呟く。 「真実なんて、金でいくらでも作れます」  最も非道な仕事は、悪辣な借金取りと共謀した「取り立て」だった。  多額の借金を背負い返済不能に陥ったテイマー。  その目の前で、レイラの部隊は泣き叫ぶテイマーから、長年連れ添ったパートナーデジモンを力づくで引き剥がし、デジヴァイスを奪い取った。 「金を返せない貴方が悪いのです。そうだ、いいことを教えてあげましょう。貴方自身も、いい商品になれます。どうですこの契約書のサインしては?  必死に働いて金を稼げば、いつかそのデジモンを取り戻せるかもしれませんよ」  レイラはそう嘲笑うと、テイマー自身も捕縛させ、ダークエリアのオークションリストに「商品」として追加させた。  美しい絆ですね、と彼女は思う。でも、金の前ではあまりに無力だ、と。  彼女の部隊『グラニットガーディアンズ』に所属するデジモンたちも、その大半はこうして捕獲・購入された者たちだった。  レイラへの忠誠というよりは、力と金で繋がれた、あまりにも脆い関係性。だが、彼女はそれを疑うことすらなかった。  その砂上の楼閣が崩れ落ちるのは、一瞬だった。  絶対的な暴力との遭遇。ユンフェイの記憶でも見た、あの戦場。  最強戦力であるはずの『ルークチェスモンX4GG』が、ネオデスジェネラルを名乗る暴竜の『テラーズイグザーション』によって、いとも容易く粉砕される。  絶対的な力の前に、彼女の慢心は木っ端微塵に砕け散った。  私を守って死ね。  その言葉は、レイラの口から何の躊躇もなく吐き出された。背後で響く、かつての仲間たちの断末魔の叫び。  だが、彼女の耳には、それはただの耳障りな雑音としか聞こえなかった。デジモンなど、たかがデータの塊。代わりなんて金でいくらでも買える。  この屈辱さえ忘れなければいくらでも再起できる。今日の出来事は運悪く災害にあっただけ。  彼女の魂に焼き付いたのは、部下への罪悪感ではなく、絶対的な暴力の前に脆くも崩れ去った自分への焼けつくような敗北の記憶だけだった。  しかし、闇の世界は落ちぶれた女王に決して優しくはなかった。  かつての「グラニットガーディアンズのレイラ」というブランドは失墜し、情報屋や商人はハイエナのように彼女の足元を見た。 「悪いが、部下を見捨てて逃げるようなお前さんに売れるデジモンはいないね。お前さん、やりすぎたんだ。恨みを買いすぎてんだよ。  お前さんに売ったってのがバレたらうちが厳しくなる。どうしてもって言うなら、相場の3倍……いや5️倍はもらわないと割に合わねぇ」 「前金だ。今のアンタを信用できるほど、俺たちもお人好しじゃないんでねぇ」  新たな戦力としてデジモンを購入しようにも、相場の数倍の値をふっかけられる。  金で解決しようにも、その金が、かつてのように万能ではなくなっていた。  それでも彼らの要求を飲んでいたほうが、マシだったかもしれない。しかし、レイラのプライドは彼らに金を払うことを拒んだ。  それから彼女を追い詰めたのは、過去の亡霊たちだった。  かつて彼女が踏みにじった者たちからの復讐の影が、常にその背後に付きまとう。  夜、ベッドに入っても、窓の外に人影が見える気がして眠れない。食事に毒が盛られているのではないかと、1口ごとに疑心暗鬼に駆られる。  安眠できる夜など、1日たりともなかった。  そのストレスから逃れるように、レイラは非合法カジノと薄暗い酒場に入り浸った。  最初は有り余る金で豪遊し刹那の快楽に身を委ねた。だが、酒は悪夢の濃度を増しギャンブルの女神は決して彼女に微笑まない。  チップが、かつての部下たちの命のように、虚しくテーブルから消えていく。  モニターに表示される貯金の残高が減るたびに、彼女の心はさらに荒んでいった。  彼女のプライドを誇示していた高価な宝飾品は売り払われていき、豪華だった隠れ家は、いつしか空の酒瓶が転がるただの薄汚いねぐらに成り果てていた。  酒に酔い意識が朦朧とするたびに、あの暴竜に両断されたルークチェスモンX4GGの姿と見捨てた部下たちの顔がフラッシュバックする。  その度に、激しい吐き気と共に便器に突っ伏す夜が続いた。 「このままじゃ終われない……!」  再起を図るため、なけなしの金で、腕の悪いチンピラ傭兵──ガジモンとゴブリモンたち数体を雇った。  目的はただ一つ、砂漠地帯にあるという高値で取引される希少なデジタマの強奪。  だが、作戦はあまりにも杜撰だった。集落を守っていたのは巨大な顎を持つサンドヤンマモンの群れと、毒の尾を鎌首のように持ち上げるスコピオモンたち。  ゴブリモンは、超高速で飛来したサンドヤンマモンの鋭い顎に頭を噛み砕かれ、一撃で絶命。  ガジモンも、毒針で腹を貫かれ、口から紫の泡を吹きながら痙攣し、やがて動かなくなった。  チンピラ傭兵たちは、阿鼻叫喚の地獄の中、次々と砂の中に引きずり込まれ、肉を食い千切られる音だけがレイラの耳に届いた。 「……馬鹿な連中」  彼女は、その惨状を丘の陰から冷ややかに見つめると、混乱に乗じて守りが手薄になった巣からデジタマを1つだけ盗み出すことに成功する。  当初の目的の希少なデジタマではなかったが、十分だ。今はこれで妥協するしかない。  それが彼女の人生を大きく変えることになった。  盗んだデジタマ。彼女にとって最後の金づるのはずだった。  しかし、孵化したスナモンを前にした時、レイラの凍てついた心に、計算外の感情が芽生え始めた。  彼女にとって、生まれてはじめてゼロからデジモンを育てる経験。  最初はただの「商品」として、義務的に餌を与え、世話をしていた。  だが、スナモンは、そんな彼女の打算など知る由もなく、無邪気に後をついて回り眠る時にはその体に擦り寄ってきた。  鬱陶しい。そう思うのにその小さな温もりがなぜか心を離さない。  ある夜、悪夢にうなされ、荒い息で目覚めたレイラの頬を、スナモンがぺろりと舐めた。そして、つぶらな瞳で彼女を見つめこう言ったのだ。 「ママ?」  その一言が、レイラの心のもっとも硬い部分を、音を立てて砕いた。ボスでも、大将でもない。  見返りを求めない絶対的な信頼を込めた「ママ」という響き。  彼女は、人生ではじめて、誰かに無条件で愛されるという経験をした。  スナモンが怪我をすれば、自分のことのように心を痛め、必死で治療法を探した。彼が喜ぶ顔が見たくて、なけなしの金をはたいて好物を買ってきた。  やがてスナモンはゴロモン、そしてスナリザモンへと進化していく。  大きくなった彼が、今度は震えるレイラを守ろうと、その前に立ちはだかる。  その健気な姿に、かつて自分が見捨てた部下たちの顔が鮮明に重なった。  彼らにも、守りたい誰かがいたのかもしれない。彼らも、誰かにとっての「かけがえのない存在」だったのかもしれない。  後悔の念が、灼熱の楔となって胸を焼く。スナリザモンの純粋な瞳を見つめながら、レイラは、心からの涙を流した。 『私には……お前を育てる資格なんてない……!』  レイラの瞳から、後悔の涙が、はじめて止めどなく溢れ出した。  スナリザモンの純粋な瞳は、彼女が犯してきた罪のすべてを映し出す鏡だった。  もう、この瞳を曇らせるような生き方はできない。  スナリザモンのためにも、そして、贖罪のためにも今度こそ生まれ変わる。  過去を捨て去り正しい道を歩もうと、彼女は強く決意した。  しかし、過去は影のように彼女を追い続けた。  かつて裏切った組織の追っ手、踏みにじった者たちの怨嗟の声。  レイラはスナリザモンを連れ、ただひたすらに逃げるように旅を続けた。  そんな逃避行の途中で出会ったのが魔人型デジモン、ワイズモンだった。 「お二人さん、なんかワケありな感じっすねー! でも、そういうの、僕、嫌いじゃないっすよ!」  彼の底抜けに明るく、軽薄で、しかし悪意のない人柄に、心を閉ざしていたレイラも、少しずつ警戒を解いていった。  ワイズモンは、旅の目的地として、ある不思議な場所の話をした。 「青嵐の館って知ってます? そこ、マジでヤバいんすよぉ~!  定期的に世界がドッカーンって壊れて、またピッカピカに生まれ変わるってさ!  世界が再生する瞬間が見れる場所とか超絶エモいと思いません!?」 『再生』  その言葉は、罪の意識に苛まれるレイラの心に、一条の光のように差し込んだ。  この場所なら。その、破壊と再生を繰り返す場所なら、私のような人間でも本当に生まれ変われるかもしれない。 「……行ってみたい、です。その、青嵐の館に」  か細い声で、しかし確かな希望を込めてレイラは言った。  こうして彼女は一縷の望みを胸に、ワイズモンと共に運命の館へと足を踏み入れたのだった。     ☆ 「───ナイト! しっかりしろって!」  必死な声が、騎士の意識の深淵に突き刺さる。  ハッと息を呑むと、視界が急速に現実の色を取り戻した。目の前には、心配そうに自分の顔を覗き込むズバモンの姿があった。  騎士は、ゆっくりと瞬きをした。赤城の部屋の、無機質な光。端末の冷たい感触。  だが、彼の心には、まだレイラが流した後悔の涙の熱が、生々しく残っていた。  彼女が犯した罪の重さ、絶望の深さ、そして、一匹のデジモンに向けた再生への祈り。その全てが、まるで自分の体験のように、魂に深く刻み付けられている。 「……大丈夫か、ナイト? 突然倒れ込んで、すごくうなされてたぞ!」 「……ああ。大丈夫だ」  騎士は、か細い声で答えると、ゆっくりと身を起こした。  レイラ・シャラフィ。  かつて金のためなら手段を選ばず、弱者を踏みつけ、部下さえ見捨てた傲慢な悪女。  だが、騎士が今、心に抱いているのは、彼女への嫌悪感ではなかった。  誰よりも不器用に、誰よりも孤独に、過去の罪と向き合い、ただ1つの光のために生まれ変わろうともがいている1人の人間の姿だった。 「……そうか。彼女もまた……この世界で戦っていたんだな」  静かな呟きは、誰に言うでもなく、部屋の静寂に溶けていった。  6.5:『暴かれる闇』  レイラの壮絶な過去から引き戻された騎士は、しばらく呆然としていたが、すぐに気を取り直し、再び端末へと視線を落とした。ズバモンが心配そうに隣から画面を覗き込む。  騎士は、2つ目のファイル『イレイザー侵攻記録』をタップした。  まず、デジモンイレイザーを構成する7つの軍団の概要が画面に表示された。 # デジモンイレイザー七大軍団  デジモンイレイザー七大将軍(ネオデスジェネラル)が率いる軍団。  副将級として魔将と呼ばれる強力な新種のデジモンが確認できる軍団も多い。  1. 月竜軍団:月竜将軍ニョイハゴロモンが率いる裏工作を専門とする隠密部隊と思われ、所属するデジモン達もほとんど情報がない。  2. 火竜軍団:火竜将軍テラケルモンが率いる粛清部隊。その苛烈な矛先はデジモンイレイザー軍自体にも向けられるという。  3. 水竜軍団:水竜将軍オキグルモンが率いていた海戦部隊だが人間界侵攻作戦に失敗しオキグルモンは捕縛のち離反。  現在は冷熱魔将ホムコールモンが水龍将軍を名乗り再建を進めている。主な所属デジモンは水棲型デジモンや氷雪型デジモン。  4. 木竜軍団:木竜将軍ドラグーンヤンマモンが率いる侵略部隊。昆虫型デジモンで構成された軍団で統率力と策略で幾多のデジタルワールドの都市を侵略してきた。  副将の遊雷魔将デュアルビートモンも侮れず、軍団内には猛獣魔将と呼ばれ強力なデジモンを操る存在も度々確認できるという。  5. 金竜軍団:金竜将軍ファーブニモンが率いる支援部隊。かつては人間がその地位についていたが、都市鉱山ダスタータウンを奪取後離反したという。  6. 土竜軍団:土竜将軍スカルスカモンが率いていた暗殺部隊。数年前にロイヤルナイツを襲うも敗北し失踪。  現在は副将であった音盤魔将メタルサタモンが代理を務める。  7. 日竜軍団:日竜将軍は変化が激しく、これと言った確定情報が少ない。  この他にもイレイザー軍には七大将軍や魔将に匹敵するデジモンを確認でき、その力は底しれない。  騎士は概要を読み飛ばし、個別の侵攻記録をスクロールしていく。  画面には、デジタルワールド各地を蹂躙する、デジモンイレイザー七大軍団の恐るべき活動記録が、無機質なテキストと凄惨な画像データで綴られていた。  そして、その中の木竜軍団が『星脈の交易所』を陥落させた記事が目に止まった。  記事には、統治者マジラモンが戦死し、都市が内部から崩壊した経緯が記されていた。  騎士が気になったのは、防衛側で奮闘したオウリアモンの活躍だ。 『防衛の要であった「オウリアモン」は、昆虫型デジモンで構成された木竜軍団に対し絶大な戦闘力を誇示。  しかし、指揮官であった遊雷魔将デュアルビートモンの策略により、詳細は不明なものの友軍であったはずのデジモンたちが突如として裏切ったという。  内部からの奇襲を受け、戦線は崩壊。統治者マジラモンの戦死後、交易都市は木竜軍団に降伏し、今ではデジモンイレイザーを支える拠点となっている』  記事を読み終えた騎士は、息を呑んだ。オウリアモンはエリスのフローラモンの完全体だ。  これは、偶然なのだろうか? いや、今はそのことについて考える暇はない。  そして、騎士は最後のファイルを開いた。 『ダークエリア人身売買調査』  タイトルからして、不穏な空気が漂っている。ファイルには、ダークエリアを拠点とする大規模な人身売買ネットワークの調査記録がまとめられていた。  記録映像に映し出された大物バイヤーのシルエットと、その手口を示すテキストに、騎士は息を呑んだ。  捕らえたテイマーやデジモンを「門下生」として自身の道場に引き取り、そこから闇市場へと売りさばく。赤城が遺した調査メモには、こうも記されていた。 『当該道場の公表されている門下生数と、実際に修練場や宿舎で確認できる人数には、常に大きな乖離が存在する。  消えた門下生は旅に出たとされているが、その行方は誰も知らない。  また、道場には、デジモンの力を弱めるための特殊な設備が存在するとの情報あり。  これを使ってより負荷を高めたトレーニングが可能とのことだが、実際には対象を無力化し、安全に出荷するまでの調教施設である可能性が極めて高い。  追記:最近、このバイヤーは金に執着するだけでなく各地の秘宝の噂にも強い関心を示しており、独自の調査網でその情報を収集している形跡がある』  その手口、そして何よりモニターに映る恰幅の良いシルエット。 「間違いない……ソク師範だ……!」  騎士の中で、点と点が線で繋がっていく。だが、記録はそこで終わらなかった。 『このバイヤーに「商品」を供給しているのは、デジタルワールドでも屈指の大物デジモンである可能性が高い。  その供給源は、ダークエリアとの繋がりが深い大物魔王型デジモン(七大魔王、あるいはグランドラクモン、ガルフモン等)か? さらなる調査を要す』  赤城の推測は、ダークエリアの深淵へと向けられていた。  彼自身、この館に来るまでは、まさか天を司る竜神様がその黒幕だとは夢にも思っていなかったのだろう。  だが、騎士には分かってしまった。  デジモンの力を弱める特殊な設備。それは、この館の地下牢で見たものと、まったく同じ機能を持つはずだ。  この館は、避難所。それは事実だろう。  だが、同時に、デジタルストームという名の災害を利用して、助けを求める無力な者たちを集め、選別し、「商品」として地下牢に確保するための巨大な罠でもあるのだ。  ソク師範とゴッドドラモンの繋がり。  そして、赤城の本当の目的。  彼は、ただの学者ではなかった。この非道な人身売買の証拠を掴むために、命がけでこの館へ潜入した、孤高のエージェントだったのだ。  すべてのピースが、カチリと音を立てて嵌まった。  ソク師範の不審な行動、赤城が彼に抱いていた敵意、そして、赤城がゴッドドラモンの管理室へ強引に侵入しようとした理由。  そのすべてが、この悍ましい真実へと繋がっていた。  しかし、騎士の心には、新たな、そしてより深い疑問が湧き上がっていた。  なぜだ? なぜ、秩序と調和を誰よりも重んじるはずのゴッドドラモンが、こんなにも卑劣な行いに手を染めている?  その動機が、まったく見えない。  真実を知るには、彼に直接問いただすしかない。だが、それはこの館の絶対的な主を敵に回すことを意味する。  下手をすれば、その場で消されかねない。  騎士は、端末を強く握りしめたまま、言葉を失っていた。  ふと気づく。この赤城の記録の中に、ゴッドドラモンへの言及が一切ないことに。  まるでこの館の主が誰であるかを知らないかのように。  これは赤城がこの館に来る前に書かれた記録だ。  つまりプロテクトをかけたのもその前ということになる。  だとしたら、なぜ。  なぜ、この館に来る前の赤城が、俺のズバモンでしか開けられない特殊なプロテクトを仕込むことができた?  俺がこの館に来たのはまったくの偶然だ。  だというのに、この箱を見つけ出すことまで正確に予知していたかのように───。  それに俺に起きているこの奇妙な現象はなんだ?  ユンフェイ、そしてレイラの過去を、まるで自分の体験のように追体験してしまう、この異常な感覚は。  答えの出ない問いが、騎士の思考を、底なしの迷宮へと引きずり込んでいく。  俺は一体、誰の筋書きの上で踊らされているんだ? 6.6:『優先すべきもの』  赤城の部屋には、彼が遺した真実と、それ以上に重い沈黙が満ちていた。  騎士の指先は、情報端末の冷たい表面をなぞる。  ゴッドラモン、そしてソク・ジンホ。その2人が紡ぎ出した欲望に塗れた人身売買という悍ましい闇の物語。  そして、それとはまったく別の次元で進行する、デジモンイレイザーという理解を超えた悪意。  騎士の頭の中で、2つの巨大な悪が、互いを喰らい合うかのように渦を巻いていた。  どちらも許されるべきではない。だが、今この閉ざされた館で、2つの悪を同時に相手にするのは無謀を通り越して自殺行為に等しい。  より巨大な脅威、世界の理そのものを歪めようとするデジモンイレイザー。  その正体不明の敵を討つためには、この館の秩序をこれ以上乱すわけにはいかない。そして、その秩序の歪んだ中心にいるのは、他ならぬゴッドドラモンなのだ。  皮肉な結論だった。悪を討つために、別の悪を利用する。それは、騎士がこれまで培ってきた信条とは、あまりにもかけ離れた選択だった。 「……ロックを」  騎士の声は、自分でも驚くほど乾いていた。自らの決断の重さに、喉が張り付くようだ。 「頼む、ズバモン」 「……ナイト?」  ズバモンは、パートナーの顔に浮かぶ、見たことのない苦悩の色を敏感に感じ取り、不安そうにその顔を覗き込んだ。  だが、彼は何も問わなかった。ただ、主人の決意を信じるように、こくりと頷いた。 「……おう!」  再び、黄金の光がほとばしる。ズバモンの持つレジェンドアームズとしての力が、赤城が遺した禁断の知識を封印するように、情報端末に吸い込まれていった。  厳重なプロテクトが施された端末を騎士はまるで忌まわしい遺物のように扱い、赤城の荷物のもっとも深い場所へと押し込んだ。  これでいい。今は、これでいいのだ。  真実を暴くべき時が来るまで、この箱は眠らせておく。  部屋を出ると、ちょうど隣の部屋の扉がゆっくりと開くのが見えた。騎士の目と鼻の先、ディエースの部屋だ。  重厚な扉の隙間から、ゴッドドラモンの巨大な影と、それに続いてディエースのしなやかなシルエットが吸い込まれていく。  彼らは、ティンカーモン失踪の謎を追って、独自の調査を始めようとしているらしい。  あるいは、竜神は別の目的で、あの掴みどころのない女狐の能力を必要としているのかもしれない。  騎士は壁に背を預け、数秒間、目を閉じた。これから自分が演じなければならない役割を、その重さを、改めて魂に刻み込むために。  大丈夫だ。俺は、狂わない。  自分にそう言い聞かせると、騎士はゆっくりと、隣室の扉をノックした。  扉を開けると、そこはすでに調査の場と化していた。  ディエースはアプリドライブを片手に、まるで精巧な医療機器を扱う外科医のように、天井の隅々まで丹念にスキャンしている。  その背後では、ゴッドドラモンが腕を組み、猛禽のような鋭い眼差しで彼女の一挙手一投足を見守っていた。 「ディエース、ゴッドドラモンさん。これは一体……?」  騎士が、何も知らないふりをして問いかけると、ディエースが肩越しに振り返った。その表情にはいつもの軽薄さはなく、プロの技術者としての冷徹な光が宿っていた。 「ああ、少年。丁度いいところに来たわ。管理室で確認したけど、昨夜の監視記録に改竄の形跡はなかった。  私たちが見回りしていた間の映像は、完璧よ。でも、ティンカーモンちゃんは消えた。……とすれば、答えは1つじゃない?」  彼女の視線が、天井の一点に向けられる。 「犯人は、システムを直接ハッキングしたんじゃない。もっと原始的で、もっと狡猾なやり方で、私たちの目を欺いたのよ。  この館の構造データによると、ティンカーモンちゃんの部屋であるスペードの10号室の真下は、ここ。アタシの部屋。  もしここから、天井裏に偽の生体反応を送るダミー装置でも仕掛ければどうなる?  監視モニターには、ティンカーモンちゃんがずっと部屋で眠っているように映り続けることになるわ。私たちは今、その証拠を探しているの」  まるで完璧な脚本を読み上げるように、彼女はよどみなく語る。その推理が真実であるかのように。あるいは、真実であってほしいと願うかのように。  その言葉を裏付けるかのように、ディエースが構えるアプリドライブが、ピ、と微かな電子音を立てて反応を示した。  彼女は近くの椅子に飛び乗ると、天井の通気口のカバーを手際よく外し、その暗い穴の中へと躊躇なく腕を差し入れた。  彼女の指先が、何かを捉える。  粘着テープが剥がれる。ねちゃり、という生々しい音と共に、通気口の奥から引きずり出されたのは小さな、そして酷く粗末な機械だった。  デジタマの殻を筐体代わりにし、そこから数本の銅線が、あり合わせの電子チップへと乱雑に半田付けされている。  動力源は、どこかの機器から抜き取られたであろう小さなボタン電池だ。  それはまるで子供の夏休みの工作のように拙く、しかし、微弱な生体エネルギーを絶えず放ち続ける悪意に満ちた心臓だった。 「ビンゴ。でも……思ったよりチャチな代物ね」  ディエースは、その装置を指でつまみ上げ、まるで汚物でも見るかのように顔をしかめた。 「これなら専門知識がなくてもそこら辺のジャンクパーツを組み合わせれば誰にでも作れる程度の小細工。  問題は、これをいつ、誰がこの部屋に仕掛けたかってことだけど……」  その言葉は、その場にいる全員に、新たな問いを投げかけた。自分がティンカーモンとロビーで別れ、彼女が部屋に戻ったのを確認したのは、昨夜のことだ。  工作が行われたのは、それよりも前か、あるいは自分が交代した後の、夜が明けるまでの間。  だが、その後、この部屋の主であるディエースはユンフェイと共にいた。夜通し、館内を見回り続けていたはずだ。   完璧な密室。完璧なアリバイ。このチャチなガラクタが、この事件をより深く、そして解決不能な迷宮へと引きずり込んでいく。 「……あれ? アタシの部屋にこんなものが仕掛けられてたってことは、やっぱり、アタクシが犯人だってことになっちゃう?」  ディエースは、今さら気づいたというように、大げさに慌ててみせた。その芝居がかった狼狽を、ゴッドドラモンの冷徹な視線が貫く。 「ご冗談を、ディエース様」  静かだが、有無を言わせぬ威厳に満ちた声が、彼女のわざとらしい演技を切り捨てた。 「もしディエース様が真犯人ならば、自らを不利にするような証拠を、我々の目の前でわざわざ発見してみせるはずがない。  貴女ほどの方が、そんな詰めの甘い策を弄するとは思えませんな」  ゴッドドラモンの論理は、氷のように冷たく、そして鋭利だった。彼はディエースから視線を外すと、今度は天井の穴を検分しながら続ける。 「それに、ティンカーモン殿が失踪したと思われる時間帯、貴女はユンフェイ様と共に見回りをしていた。  四大竜の試練を突破した、あの誇り高き剣士が偽りの証言をするとは考えられない。貴女のアリバイは完璧です」  その言葉は、ディエースの潔白を証明すると同時に、この事件の異常性をさらに際立たせた。 「となると、その偽装工作は、貴女がユンフェイ様と夜警で部屋を留守にしている間に、何者かによって仕掛けられたということになる。  しかし……昨夜は私が管理室のモニターで館全体を厳重に監視しておりました。  貴女の部屋に誰かが侵入した記録はない。つまり、それもまたシステムの改竄か、あるいは……この館の、私の知らない侵入経路が存在するということか」  ゴッドドラモンの瞳にはじめて本物の焦りの色が浮かんだ。自らが作り上げた完璧な城に、未知の抜け道が存在する可能性。  それは、この館の主である彼のプライドを、根底から揺るがすものだった。  ディエースのアリバイが証明されることで、彼女への容疑はいったん晴れた。  だが、同時に「誰が、いつ、どうやって偽装を仕掛けたのか?」というより深い謎が生まれてしまった。 「ティンカーモンの反応偽装の件は、いったん置いておきましょう」  騎士は、混沌とした議論の流れを変えるために、あえて別の、しかしより深刻な謎を突きつけた。 「赤城さんの牢屋はどういうことなんですか。昨夜、俺が見張りに行った時は、彼は確かに無事だった。ティンカーモンも一緒にそれを確認しています」  騎士の言葉に、ディエースが思い出したように手を叩いた。 「あ、そうそう! アタシたちも、朝食前にユンフェイ君と一緒に見に行ったんだった! 『おはようございまーす』って挨拶したらさ、すっごい気だるそーに『……ああ』って返事してくれたもん。あれが偽物だったとは思えないなー」  その証言を基に、ゴッドドラモンは、今朝、食堂に宿泊客が集まった順番を、改めて確認した。  まず厨房で準備をしていたベーダモンと、早くから席に着いていたエリス。  次に、見回りを終えたユンフェイとディエースが合流。  それから少しして、レイラとワイズモンが、やってきた。  その後、赤城の部屋を調べていた騎士が食堂に現れ、最後に、館の主であるゴッドドラモンが姿を見せた。  証言を照らし合わせると、赤城が消滅した時刻は、ユンフェイたちが牢を訪れてから食堂にたどり着くまでの、わずか十数分という極めて短い時間帯に限定された。  しかし、そのタイムラインが、この事件を完全な「不可能犯罪」へと昇華させてしまった。  誰もが、食堂にいた他の誰かと共にいたのだ。互いが互いのアリバイを証明し合う、完璧な鉄鎖。  この短い時間で、どうやってあの鉄壁の牢を破りあそこまで破壊できるというのか。  謎は、雪だるま式に膨れ上がっていく。 「もう一度、現場を調べさせてほしい」  膠着した空気を打ち破るように、騎士はゴッドドラモンに強く申し出た。  ディエースも「そーだそーだ! 何か見落としがあるかも!」と同調する。  真相究明のためには、牢に残された痕跡を徹底的に調べることが、唯一にして最善の手段のはずだった。  しかし、ゴッドドラモンは、その提案を「危険です」という一言で、断固として拒絶した。 「すでに牢への道は再び封印しております。瓦礫が散らかっていて危ないですからな」  騎士は確信した。 (ゴッドドラモンが隠したいのは、赤城失踪の真相じゃない。彼が恐れているのは、あの牢に残されているはずの『人身売買の証拠』そのものだ……!)  騎士の心の奥底で、竜神への不信感が黒い炎となって燃え上がった。  だが、ゴッドラモンもまた、この沈黙の中で好機を逃すほど愚かではなかった。彼はまるで何もかもを見透かしたような、鋭い視線で騎士に問いかけた。 「ところで騎士様。貴方は赤城様の部屋で、何か『発見』はありましたかな?」  その問いは、明らかに鎌をかけていた。ゴッドラモンもまた、騎士が何かを掴んでいることに気づいているのだ。 「いえ、特に何も見つかりませんでした。ただの几帳面な学者の部屋でした」  騎士は、心の動揺を完璧に押し殺し何食わぬ顔で嘘をついた。その言葉が、ゴッドラモンの口元にかすかな、しかし確かな笑みを浮かばせた。  互いが、互いの秘密のカードを胸に隠しながら、協力者という仮面を被って向き合う。  目に見えない火花が、二人の間に散った。  協力関係という名の薄氷の上で、命がけの腹の探り合いが、静かに、そして確かに始まっていた。  この歪な館の物語は、もはや誰にも止められない速度で、より深く、より複雑な迷宮へと、その足を狂わせていく。  6.7:『騎士と剣士の同盟』  ディエースの部屋での調査を終え、一同の足は自然と4階へと向かっていた。  ゴッドドラモンが「ティンカーモン殿の部屋も念のため確認を」と促したからだ。  階段を上る一行の先頭には、騎士たちよりも早くティンカーモンの部屋へと向かっていたユンフェイと、彼を監視するという名目のエリスの背中が見えた。  彼らは、もう部屋の調査を始めているようだった。  扉を開けると、そこは他の宿泊客に割り当てられた部屋と何ら変わりのない、規格化された空間が広がっていた。  しかし、主を失ったその部屋は、がらんとした静寂に満ち、やけに広く、そして冷たく感じられた。  備え付けのベッドのシーツには乱れた跡もなく、小さなクローゼットも固く閉じられている。  ただ、壁に数枚、拙いクレヨンで描かれた星や花の絵が無邪気に貼られているのが、  ここにかつて小さな妖精がいたことの、そしてもういないことの、痛々しい証明となっていた。  ユンフェイは、その部屋の中央、ティンカーモンが使っていたであろう小さな木製の机の前に、力なく膝をつき、一枚の紙片を呆然と見つめていた。  ドラコモンが、心配そうにその肩に寄り添っている。  ユンフェイが手にしていたのは、ティンカーモンが描いたであろう一枚の絵だった。  それは、一見すると、子供が描いた拙い風景画にしか見えない。  クレヨンで力強く描かれた青嵐の館は、どこか歪んでいる。  その特徴である巨大な風車は、実際の大きさよりも遥かに大きく、まるで館そのものを飲み込むかのように描かれている。  軒先に揺れる風鈴の数も、明らかに多い。  そして、ロビーの中央にそびえるはずのマザー・クリスタルの形状は、角ばった宝石ではなく、なぜか滑らかな球体として表現されていた。  ユンフェイには、その絵に込められた意味がまったく分からなかった。  ただ、絵の隅に彼女の小さな文字で震えるように書きなぐられたメッセージだけが、彼の心を強く、強く締め付けた。 『ユンフェイのためにぜったいにみつけるぞー!』  これが、彼女が遺した最後の言葉。最後の想い。  自分を最強にするため。ただ、自分の笑顔が見たい、その一心で。この小さな妖精は、たった一人で、得体の知れない館の秘密へと挑んだのだ。 「ティンカーモン……」  ユンフェイの声が、絞り出すように漏れた。 「必ず……必ず、お前の仇は……!」  彼は、その絵を宝物のように、しかし皺になるほど強く握りしめた。その瞳に宿るのは、もはや悲しみではない。全てを焼き尽くす、復讐の炎だった。  その一部始終を、エリスは壁に寄りかかりながら、氷のように冷たい視線で見つめていた。  彼女は、その拙い絵に隠された意味を、冷静に、そして正確に分析しようと試みていた。 (風車……風鈴……水晶……。展望室、ロビー……館の特定の施設を指している? ただの落書きではないわね。あの妖精、一体何を見て、何に気づいたというの……?)  そこへ、騎士たちが部屋へ入ってきた。ゴッドドラモンがディエースの部屋で見つかった偽装装置のことを手短に説明し、「犯行の痕跡は、ティンカーモン殿の部屋ではなく、やはりディエース様の部屋で間違いないでしょうな」と、半ば独り言のように断定した。だが、もはやその言葉に耳を傾ける者はいなかった。  皆の心は、ティンカーモンが遺した謎の絵と、復讐の化身と化した剣士の背中に釘付けになっていた。  調査は、何の進展もないまま解散となった。ユンフェイはティンカーモンの絵を懐にしまうと、誰とも視線を合わせず、一人、部屋を後にしようとした。その背中に、騎士が静かに声をかけた。 「ユンフェイさん」  振り向いたユンフェイの瞳に、騎士は強い意志の光を見る。 「少し、二人だけで話がしたい」  ユンフェイは無言で頷くと、騎士を人気のない場所へと誘った。行き先は、2階の男子トイレだった。 「俺たちもトイレ〜!」  二人の緊迫した雰囲気を察してか、ズバモンとドラコモンは、気を利かせたのか、あるいはただ本当に催しただけなのか、隣り合った個室へと駆け込んでいった。  静まり返った手洗い場の鏡の前で、二人の剣士は、言葉もなく、しばらく互いの顔を見つめていた。  個室の中から「うーん!」「ん〜〜〜っ!」「で、出た〜〜っ!」などと、2体のパートナーデジモンが力む声と安堵の声が聞こえてくる。  それがこの異常な状況下では、かえってシュールな滑稽さを生んでいた。  その間の抜けたやり取りが、張り詰めていた空気をわずかに和らげたのか、先に口を開いたのはユンフェイだった。 「デジモンイレイザーの目的は、この館の秘宝だ。それは、もはや間違いないだろう。ならば、我々が取るべき道は一つ」  彼の声は、鋼のように硬く、そして揺るぎなかった。 「我々が、奴らよりも先に秘宝を探し出す。犯人は必ずそれを奪いに現れるはずだ。そこを、叩く」 「……俺たちの力を、囮に使うと?」 「そうだ。それ以外に、奴らの尻尾を掴む方法はない」  ユンフェイはそこで言葉を切ると、鏡に映る自分の顔を、そしてその後ろに立つ騎士の顔を見つめ静かに問うた。 「騎士、この狂った盤面をよく見てみろ。ソク・ジンホが消え赤城殿が陥れられティンカーモンが消された。  この一連の流れで、もっとも利を得た者は誰だ?  誰が、この混沌を巧みに利用し、自らの目的へと駒を進めている?」  その問いは答えを求めるものではなく騎士の思考を試すためのものだった。 「最初に秘宝の存在を声高に叫び、我々の欲望を煽ったのは誰だ?  赤城殿が暴走した際、もっとも効果的に、そしてもっとも冷酷に彼を断罪へと導き、追放したのは誰だ?  そして、その結果として、今、もっとも自由に動けもっとも疑われにくい立場にいるのは誰だ?」  ユンフェイの言葉1つ1つが、騎士の記憶の扉を叩く。  そうだ。最初に秘宝という名の甘い毒をこの館に撒いたのは、エリスだった。  ソク師範や赤城を、まるで舞台の上の役者のように操り、自らの望む展開へと導いた。  あの投票の時もそうだ。彼女は論理と恐怖を巧みに使い分け、集団心理を完璧に掌握していた。  あの時のウィッチモンの激昂。地下牢で見た、秘宝を前にした時の尋常ではない執着心。  すべてのピースが、1つの歪な肖像画を浮かび上がらせていく。 「……エリスのことですよね」  騎士の口から確信に満ちた声が漏れた。  ユンフェイはゆっくりと頷いた。その瞳には、侮蔑でも憎しみでもない、ただ冷徹な分析者としての光が宿っていた。 「そうだ。彼女の言動には、一貫した目的がある。この館の宿泊客を混乱させ、互いを疑わせ、その隙に自らが漁夫の利を得るという、あまりにも明確な意志が。  あの冷徹さは、ただ用心深いというだけではない。それは、この悲劇の渦中にいながら、自らを安全な場所から見下ろす、観客……いや、脚本家の視点だ」  ユンフェイの言葉に、騎士はもはや反論できなかった。かつて共に戦った仲間。信じたい。  だが、彼が見てきた数々の事実が、ユンフェイの指摘する真実の輪郭を、残酷なまでにくっきりと描き出していた。 「……わかりました」  騎士は、覚悟を決めた。騎士の脳裏には、かつて共に戦ったエリスの、勝ち気で、しかし仲間思いだった笑顔が蘇る。信じたい。  だが、今の彼女は、あまりにも違う。エリスを信じるためにも、彼女の真意を、その仮面の奥にあるものを確かめなければならない。 「やりましょう」  差し出されたユンフェイの硬い手を、騎士は強く握り返した。  その時、トイレの個室から、スッキリした顔でズバモンとドラコモンたちがでてきた。  目の前で固い握手を交わす二人のパートナーの姿を見て、何が起こっていたのか分からずに、ただ不思議そうに顔を見合わせるだけだった。  共通の敵を討ち、失われた仲間の想いに報いるための「同盟者」として、騎士と剣士は、今、ここに固く結束したのだ。  密約を交わした2人は、それぞれ自室へと戻り、これからの計画を練ることにした。  まずは、エリスの動向を注視し、ティンカーモンの絵が示す「秘宝の道」を解き明かすこと。  そして、イレイザーが現れた時に、確実に仕留めるための罠を準備すること。やるべきことは、山積みだった。  6.8:『食べるということ』  昼食の時間を告げる鐘が鳴り響く。しかし、食堂にレイラの姿はなかった。  あの後、出口に近い談話室へと閉じこもってしまったきり、一度も姿を見せていないという。 「私が様子を見て、食事を届けてきましょう」  心配したゴッドドラモンが席を立とうとしたのを、騎士が静かに制した。 「いえ、私に行かせてください」 「おお、ナイト! なら俺も行くぜ!」 「僕も! 僕も行きます! 彼女をここに誘ったのは僕なんですから!」  ズバモンとワイズモンが、口々にそう言う。騎士は2人を伴い、レイラがいるであろう談話室へと向かった。  やはり、彼女はそこにいた。暖炉の前、一番大きなソファの隅で、スナリザモンに寄り添われながら、ただ小さく膝を抱えている。  騎士たちの気配に気づいても、彼女は顔を上げない。その瞳は虚ろに炎を見つめたまま、ぴくりとも動かなかった。  騎士は、何を言うべきか一瞬ためらったが、回りくどい言葉は今の彼女には届かないと判断した。  彼は意を決してレイラの前にゆっくりと腰を下ろし、まっすぐに彼女を見据えた。 「レイラさん、俺は貴方を放ってはおけない。貴方が1人で、過去と戦おうとしているのが分かったからだ」  その言葉に、レイラの肩がびくりと震えた。その虚ろな瞳が、かすかに騎士を捉える。 「……戦う? 笑わせないで。私はただ逃げているだけ。臆病で、仲間を見捨てた人間のクズよ。あなたたちみたいな、眩しくて正しい人とは違うの」  声は、乾ききっていた。自嘲と諦観だけが、その響きに含まれている。 「正しい人間なんて、この世界にいるのか?」  騎士の声は、静かだった。だが、その言葉には、彼自身の葛藤と痛みが滲んでいた。 「俺だって、自分の信条を曲げて、今ここにいる皆を利用しようとしている。  ユンフェイさんも、過去の自分に縛られて、剣を握る意味さえ見失いかけていた。  誰もが完璧じゃない。傷だらけで、間違いだらけだ。……あんただって、そうなんだろ?」  騎士は、そこで一度言葉を切ると、より深く彼女の魂の奥底へと踏み込んだ。 「俺は赤城さんのファイルで……貴方がこれまで、どんなことをしてきたのか……その一部を知った」  その言葉は、ナイフのように鋭く、しかし騎士の声はどこまでも穏やかだった。  レイラの顔から、サッと血の気が引いていくのが分かった。軽蔑される。罵られる。そう覚悟したように、彼女は顔を伏せ、唇を固く噛みしめた。  だが、騎士が続けた言葉は、彼女の予想を完全に裏切るものだった。 「貴方のしていた数々の悪事は許されることじゃないかもしれない。でも、あんたがスナリザモンと出会って、必死で変わろうとしていることも俺は知っている。  その罪の重さをすべて1人で背負って、それでも立ち上がろうとするのは、『逃げ』なんかじゃない。それは……誰にも真似できない、本物の『強さ』だ」  その、思いがけない言葉。 「強さ」と、彼女がもっとも自分から遠いと信じていた言葉が、騎士の口から紡ぎ出された瞬間、レイラの心の奥で凍りついていた何かが、音を立ててひび割れた。 「やめて……」  絞り出すような声が、彼女の唇から漏れた。 「そんな言葉、気休めにもならない……。あなたに、私の何がわかるっていうの……!」  突き放すような言葉とは裏腹に、彼女の瞳からは、堪えきれなくなった涙が大粒となって次々とこぼれ落ちていく。  その時、レイラの膝の上で心配そうに様子をうかがっていたスナリザモンが、彼女の濡れた頬を、ぺろり、と優しく舐めた。 「ああ……うう……!」  レイラは、嗚咽を抑えることができなかった。 「私に……私にそんな資格なんて……!」 「レイラ……僕を育ててくれたママ……泣かないで……」  スナリザモンが、必死に主を慰めようとする。その健気な姿が、レイラの心の最後の堤防を決壊させた。 「私には……私にはそんな資格、ない……!」 「違う! 資格なんて、誰かが与えるものじゃない。あんたが自分で決めるんだ!」  騎士が、強い声で彼女の自己否定を断ち切る。 「スナリザモンが、あんたを『ママ』と呼んで、信じている。それ以上の資格が、どこにある!?」  レイラは、スナリザモンの温もりと、騎士の力強い言葉に心が引き裂かれるような痛みを感じていた。 「でも……! どうすればいいのですか……。私がここにいるだけで、この子を危険に晒しているのです!  私が犯してきた罪の報いが、いつかこの子に向かうのが、怖くて、怖くてたまらない……!」  彼女の叫びは、談話室の静寂に悲痛に響いた。 「私が死んで償えるなら、それでもいい。本当に……。でも、この子だけは……スナリザモンだけは、生き延びてほしいんです……!  何も知らずに、ただ私を信じてくれた、この優しい子だけは……!」  彼女は震える手でスナリザモンを、壊れ物を抱くように、最後の宝物を守るように力強く抱きしめた。  それは、すべてを失いすべてを捨てた悪女が、最後に手にした唯一にして最大の、母性という名の魂の祈りだった。  その、あまりにも痛切な光景を、ワイズモンは、これまで黙って見ていた。  彼は、ゆっくりと、しかし確かな足取りで近づくと、食事の乗ったトレイをそっと暖炉の前のローテーブルに置いた。 「レイラさん」  彼の声は、いつもの軽薄さが嘘のように、静かで、そしてどこか達観した響きを持っていた。 「僕もさ、デジタルワールドをあちこち旅してきたけど、マジで酷いもんすよ。見てらんないくらいにね」  ワイズモンは、暖炉の炎を見つめながら、遠い目をした。 「明日の食い扶持のために、昨日まで笑い合ってた仲間同士で牙を剥き合う奴らもいた。  自分の子供にほんの少しのデジタケを食わせるために、自分より遥かにデカい相手に挑んで、無様に喰われていった親代わりのデジモンも見た。  それでもさ、みんな、死ぬためじゃなく、『生きる』ために戦ってたんすよ。  泥水啜って、プライドも何もかも捨てて、それでも『生きたい』って、喉が張り裂けるくらいみっともなく叫んでた」  彼の言葉の1つ1つが、旅の中で見てきたであろう無数の生と死の記憶に裏打ちされ、重く、そして深くレイラの心に染み渡っていく。 「あんたはまだ、何も捨ててないじゃないすか。その手で、まだこの子を守れる。その足で、まだ明日へ歩ける。  どんな悪事だって死んで償えるなんて思うのはね、一番楽で、一番卑怯な逃げ道っすよ。  一番キツくて、一番尊いのは、その重い罪を全部背負ったまま、それでもみっともなく生きて、守りたいものを、命がけで守り続けることっしょ」  ワイズモンは、ふっと息をつくと、トレイの上からスープの入ったカップを手に取り、レイラに差し出した。 「だから、食べましょうよ、レイラさん。これはただの飯じゃない。生きるための、この子を最後まで守り抜くための、『誓い』なんすよ」  彼の視線が、騎士へと向けられる。 「僕も一緒に誓うっすよ。騎士さんもお願いします。僕らが、あんたたち2人を、絶対に死なせねぇっていう誓いをね」  ワイズモンの力強い言葉と、彼の旅人としての揺るぎない覚悟。そして、それを静かに、しかし強く肯定するように頷く騎士。  レイラは、目の前にいる二人の覚悟と、腕の中で温かい命を震わせるスナリザモンの存在を感じていた。  涙でぐしゃぐしゃになった顔をゆっくりと上げる。  その瞳にはまだ深い絶望の色が残っていたが、その奥の本当に深い場所に、か細くも確かな再生の光がゆらりと灯り始めていた。  彼女は震える手でゆっくりと、その温かいスープカップを受け取った。