Chapter5:『混迷はより深く』    5.1:『偽りの平穏』  投票という名の断罪劇が終わり、館には奇妙な静けさが戻っていた。  一人の「危険人物」を追放したことで得られた、脆く、歪んだ安堵感。  その空気に馴染むことも抗うこともできず、騎士はユンフェイたちと共に星屑の舞う『青嵐の湯』の湯船に、重い身体を沈めていた。 「いやー、マジで後味悪いっていうか、なんつーか……」  湯気を手で払いながら、先に湯を楽しんでいたワイズモンが軽薄な口調とは裏腹に、どこか棘のある言葉を漏らした。 「多数決って、マジで怖いっすねー。赤城さんのやり方も相当ヤバかったけどエリスさんの言い分に乗っかったらあれじゃただの魔女狩りじゃないすか。  次は俺が吊るされるかもって思ったら、ゆっくり風呂にも入ってらんないっすよ」  その言葉は、この場にいる全員が感じていたしかし口には出せなかった不安そのものだった。  場の空気が、湯の温度とは対照的にすっと冷える。  騎士は、黙って湯に浸かるユンフェイの横顔を見た。昼間の手合わせで露わになった彼の絶望。その傷はまだ癒えていないように見える。  何か言葉をかけなければ。そう思った騎士は努めて静かな声を作った。 「ユンフェイさん。……大丈夫ですか」  その問いにユンフェイはゆっくりと顔を上げた。その瞳は静かな湯面のように落ち着いているが、その奥底には複雑な感情が渦巻いているのが見て取れた。 「……ああ。心配には及ばん。ただ考えていただけだ。力だけでは守れないものもあるのだと。  今日の投票のように人の心は、力の及ばぬところで容易く流されてしまう」  ユンフェイは、ふっと息を吐き、星屑が舞う湯気を見つめた。その視線は、どこか遠くを見ているようだった。 「もし、絶対的な力、誰にも文句を言わせないほどの圧倒的な力が手に入るとしたら……。  例えば、噂の『刻の龍珠』のようなものが実在するとしたら、人は正しい道を選び続けられるのだろうかとな」  その哲学的な問いは、騎士にはすぐには答えられなかった。  ただ、隣で気持ちよさそうに泳ぐズバモンを見て、彼との絆こそが自分の答えだと漠然と感じていた。  気まずい沈黙が流れたその時だった。 「皆様……」  重厚だが、疲労の滲む声と共に、湯気の中から館の主ゴッドドラモンが姿を現した。  その顔には責務を果たした満足感などなく、むしろ度重なる心労で威厳が少しだけ削がれているように見えた。その肩は、どこか重そうだ。 「今宵はこれで、ようやく……平穏に過ごせる、はずです」  その言葉は、自分に言い聞かせているかのようでもあった。  その姿にワイズモンが噛みついた。 「平穏、ねぇ。ゴッドドラモンさん、アンタが仕組んだ魔女狩りで得た平穏なんてちっとも嬉しくないっすよ。  そもそもソク師範が消えたのも、赤城さんが暴走したのもアンタがこの館の何かを隠してるせいじゃないんすか?」  ワイズモンの直接的な非難に、ゴッドドラモンは目を伏せた。 「……隠し事など。私はただこの館の秩序と皆様の安全を考えているだけです。それ以上の意図は、何も」 「その秩序が、誰かを犠牲にして成り立つものならばそれは偽りだ」  静かだが、強い意志を込めて反論したのは、ユンフェイだった。 「ゴッドドラモン殿。私は貴殿に受けた試練で、その誇り高き魂を知っている。貴殿がソク師範を手にかけたとは思わない。  管理室の鍵を預けるほどの古い友人だというのも信じよう。  だが、貴殿が何かを隠し我々を欺いていることもまた事実。その行いがこの混乱を招いているのではないか?」  ユンフェイの言葉は、ゴッドドラモンを信じているからこその、鋭い追及だった。  しかし、ゴッドドラモンは、その忠告にすらただ疲れたように、慈悲深い笑みを無理やり浮かべて返すだけだった。 「秩序を守るためには、時に……非情な決断も必要です。全ての真実を明かすことが、必ずしも平穏に繋がるとは限りません。  大体、考えようによっては赤城様こそがもっとも安全な場所にいるのです。  何者かが潜むこの館において、あの地下牢ほど犯人の脅威から完全に守られた場所はありませんからな。  それに……赤城様が犯人でないという証拠も……残念ながら、ございません」  その歪んだ論理。  正しさと狂気が入り混じった言葉に、騎士もユンフェイも、もはや返す言葉を見つけられなかった。  ただ、疲弊した竜の姿だけが、星屑の舞う湯気の向こうで静かに揺らめいていた。  5.2:『軍師サクシモン』  星屑の湯で温まったはずの体とは裏腹に、騎士の心は冷え切っていた。  湯船の中で交わした言葉が、冷たい石のように胃の底に沈んでいる。  ゴッドドラモンの歪んだ正義、ワイズモンの軽薄さに隠された恐怖、そしてユンフェイの瞳の奥に宿る深い絶望。  それら全てが、この館を覆う闇の深さを物語っていた。  自室の扉を開けると、そこには案の定、ディエースがいた。  彼女は騎士のベッドに寝転がり、雑誌でも読むかのようにスマホをいじっていたが、騎士の姿を認めると、にっこりと笑って手を振った。 「お帰り、ヒーロー。スッキリした?」  その、からかうような声が、今の騎士にはひどく耳障りだった。彼は無言で扉を閉め、その背に凭れかかった。  ディエースはそんな騎士の様子を面白そうに観察しながら、言葉を続ける。 「なーに、その顔。まだ赤城さんのこと気にしてるわけ? あの人、自業自得じゃない」 「……あれは間違っている」  騎士は、絞り出すように言った。ディエースに苛立ちをぶつけるのはお門違いだと分かっていながら、抑えきれなかった。 「赤城さんのやり方は、確かに独善的で許されるものじゃなかった。でも、だからといって、あんな風に多数決で誰かを断罪するなんて……。  俺たちは、真実から目を逸らしただけだ。彼を牢に入れたことで、犯人は笑っているかもしれない。真実は、もっと遠のいたんだ」  その言葉に、ディエースは心底つまらなそうに、はぁ、とため息をついた。 「真実、真実って……そんなもの、今の状況で何の意味があるわけ? 犯人が誰かなんてどうでもよくない?」  彼女は上半身を起こすと、挑発的な瞳で騎士を見つめた。 「それより、エリスちゃんが言ってた秘宝『刻の龍珠』よ!  それさえ手に入れれば、犯人がイレイザーだろうがゴッドドラモンだろうが、なんだってやっつけられるじゃない?  力には力。パワーこそパワー。それが一番手っ取り早くて、確実な解決法よ」  そのあまりに短絡的で、しかし抗いがたい魅力を持つ言葉に、騎士は思わず反論した。 「無駄だ。エリスやレイラさんでさえ、丸一日探して見つけられなかったんだぞ。俺たちが今から闇雲に探したって、何にもなりはしない」  それは、正論だった。だが、ディエースは待ってましたとばかりに、ベッドから勢いよく体を起こした。その動きで、赤いボディスーツに包まれた豊かな胸が大きく揺れる。 「だからこそよ、少年」  彼女の瞳が、悪戯っぽく、そしてどこか猟奇的な輝きを放った。 「素人がちょこちょこ探しても見つからないような、とんでもないお宝なの。なら、狙う場所は1つしかないでしょ? この館の全てを知る『心臓部』を、直接叩くのよ」  ディエースは、唇に人差し指を当て、内緒話をするように囁いた。 「つまり、ゴッドドラモンが必死に隠している『管理室』よ」  その言葉に、騎士はハッとした。  そうだ。なぜ気づかなかった。  ソク師範の失踪、ゴッドドラモンの不可解な言動、そして古くから伝わる秘宝の伝説……。  散らばっていた全てのパズルのピースが、その一点に集約されていく。全ての答えはきっとそこに眠っている。 「……管理室」  騎士の口から無意識に言葉が漏れた。そうだ、そこしかない。  しかし、思考はすぐに新たな、そして絶望的な壁に突き当たった。 「だが、どうやって……? 赤城さんの失敗で証明された。あの部屋は厳重にロックされている。ゴッドドラモンさん自身が開けない限り、入ることは不可能だ」  どうやって、あの狡猾で誇り高い竜神に、自ら城門を開かせるというのか。  二人は顔を見合わせ重い沈黙に包まれた。答えの見えない問いが静かな夜の闇に溶けていく。  その沈黙を破ったのは、ディエースのどこか吹っ切れたような笑い声だった。 「なーに、その顔。そんな難しい顔したって、竜神様は扉を開けてくれないわよ」  彼女はベッドから飛び降りると、不敵な笑みを浮かべてアプリドライブDUOを構えた。 「こういう時は、餅は餅屋、策略は策略のプロに聞くのが一番よ」  その言葉と共に、ディエースの全身から、これまでとは質の違う、鋭く澄んだオーラが立ち上る。 「アプモンチップ! レディ!」 『バッテリモン プラス カードモン!』  2つのアプモンチップから放たれた光が回転し重なりあい、全く別の存在へと変わっていく。 『アプ合体! サクシモン!』  眩い光が部屋を満たし、その光量に、ベッドの隅で丸くなっていたズバモンが、もぞもぞと身じろぎした。 「ん……うわっ、まぶしっ! なんだなんだ、ナイト? またディエースが変なこと始めたのか?」    光が収まった時、そこに立っていたのは、まるで古代の戦場から抜け出してきたかのような静謐な佇まいの軍師だった。  黒を基調とした装束に、鋭い眼光を宿した仮面。その手には、白く艶やかな羽根で編まれた『羽扇(うせん)』が握られている。  シミュレーションの能力を持つ超アプモン、サクシモン。  彼は、感情の窺えない仮面の奥から騎士たちを静かに見据えると、羽扇でゆっくりと口元を隠し、深く全てを見通すような響きを持つ声で問うた。 「──呼んだか。我が主よ。して、今回の戦場(いくさば)は?」  その圧倒的な存在感に、騎士は思わず息を呑む。  ディエースは満足げに頷くとこれまでの経緯──ソク師範の失踪、疑心暗鬼に陥った宿泊客、そして鉄壁の管理室──を、手短にしかし的確に説明した。  サクシモンは黙って主の話を聞いていたが、全てを聞き終えると、ふむ、と1つ頷いた。羽扇で静かに顎を撫で、目を閉じて数秒間思考を巡らせる。 「なるほど。城は堅固、兵は疲弊し、将は疑心に満ちている。だが、城主には致命的な弱点がある」  彼はゆっくりと目を開くと、手にしていた羽扇をすっと広げた。  すると、その白い羽根から淡い光が放たれ、空中に複雑なホログラムが投影される。  館の見取り図、宿泊客たちの相関図、そしてゴッドドラモンの心理状態を示すグラフまでもが、立体的に浮かび上がった。 「城を力で攻めるは下策、心を攻めるが上策。あの竜神がもっとも執着するのは、『館の主としての体面』と、自らが作り上げた『秩序の維持』。  この2つを揺さぶり、自ら城門を開かせる策を授けよう」  サクシモンの声には、揺るぎない自信が満ちていた。彼は羽扇をあおぐと、その悪辣にして緻密に連動する、3つの策を語り始めた。 「まず、《第一の策:懐柔の計》  策の基本は『勢』と『利』です。しかし、今の我々に、あの竜神を屈服させるだけの勢はない。ならば、まず与えるべきは利。  ゴッドドラモンという城主は、プライドが高く、自らの『秩序』という名の統治に絶対の自信を持っている。  しかし、その内面では、長年解決できぬ問題に苛立ちを覚え有能な協力者を渇望している。  我々はその心の隙間に、慈雨の如く恩を売るのです。  善意の行動で『我々は貴方の味方であり、この館の秩序を守るための協力者である』という絶対的な信頼を植え付ける。  これは単なる信頼稼ぎではありません。後に我々が放つ毒を、相手が『良薬』と信じて飲み干すための甘い蜜です」 「かいじゅー? 怪獣の計? なんか強そうな技だな!」  騎士の隣で話を聞いていたズバモンが、寝ぼけ眼をこすりながら頓珍漢な相槌を打った。  サクシモンは羽扇を動かし、ホログラムの中のゴッドドラモンと騎士たちの間に、太い信頼のラインを描き加えた。 「次に、《第二の策:離間の計》  信頼という名の城壁を築いた後、次はその城壁を利用し、敵の兵……すなわち他の宿泊客たちを、我らの旗の下に集わせます。  人は共通の不満を持つ者に強く惹かれるもの。我々はゴッドドラモンへの不満の『受け皿』となることで、彼らの心を掌握する。  それは館の主導権という名の兵糧を無血で奪い取るに等しい行為。ゴッドドラモンは、我々が不満分子を鎮撫していると信じ込み安堵するでしょう。  己の足元が静かに崩れ始めていることにも気づかずに」 「そして、《第三の策:背水の計》  積み上げた不満という火薬に、我々が点火するのです。『脅迫』と『進言』は紙一重。  重要なのは、我々が最後まで『忠実なる協力者』の仮面を被り続けること。我々は民意という名の津波を背に、城主に迫るのです。 『門を開かなければ、貴方が築き上げた秩序もろとも、この津波に飲み込まれることになる』と。  彼は自らのプライドと秩序を守るため、自らの手で城門を開けるしかない。  我々は一滴の血も流さず、城の心臓部を手に入れることができるのです」  その策のあまりの狡猾さに、騎士は背筋が凍るのを感じた。 「……客のみんなまで利用するのか。それは人の心を弄ぶ悪魔の所業だ」  その声には抑えきれない嫌悪感が滲んでいた。  ワイズモンや怯えるレイラそしてユンフェイの顔が脳裏に浮かぶ。  彼らの不安や恐怖を自分たちの目的のために利用するなどということは、騎士の信条が許さなかった。 「ナイト……? どうしたんだよ、難しい顔して。なんか悪いことなのか?」  ズバモンが、心配そうに騎士の顔を覗き込む。彼の純粋な問いかけが騎士の罪悪感をさらに深く抉った。  しかし、その葛藤をディエースの冷たい一言が断ち切った。 「じゃあどうするの? このまま次の犠牲者が出るのを指をくわえて待ってるの?  それとも、少年は赤城さんみたいに誰かをスケープゴートにして満足するの?  次の朝、また誰かがソクのおっちゃんみたいに消えてるのを見たいわけ?  もしかしたら……アタシやズバモンがそうなっても少年はまだ『正しいやり方』にこだわるわけ?」  彼女の瞳には、一切の同情もためらいもなかった。 「綺麗事だけじゃ誰も救えないわよ、ヒーロー。時には、自分の手を汚さなきゃ守れないものだってあるでしょ。違う?  少年は、アタシが消えてもいいの? ねぇ、ズバモンがそうなっても、平気なの?」  ズバモン。その名前を出された瞬間、騎士の心臓が大きく軋んだ。  自分の信条か、仲間を守るための非情な手段か。天秤は、あまりにも残酷な重さで揺れ動く。  そうだ。彼女の言う通りだ。  このままでは赤城のように、また誰かが生贄になるかもしれない。犯人は今もこの館のどこかで高笑いしているかもしれないのだ。  真実を知るためには前に進むしかない。たとえその道が泥にまみれていたとしても。  騎士は強く唇を噛みしめた。目を閉じズバモンの無邪気な顔や、怯えるレイラの顔を思い浮かべる。守りたい。その一心だった。 「……わかった。やろうディエース」  その瞳には自らの手を汚す覚悟の光が、静かに、しかし強く灯っていた。 「おう! ナイトがやるなら、俺も手伝うぜ!」  ズバモンは、まだ状況をよく理解していなかったが、パートナーの覚悟を感じ取り元気よく飛び跳ねた。  それを見たディエースは、にっこりと花が咲くように笑う。  その笑顔は純粋な少女のようでありながら、その瞳の奥には獲物を手に入れた捕食者のような、暗い光が宿っていた。  5.3:『第一の策、懐柔の計』  サクシモンの策を受け入れたとはいえ、騎士の足取りは鉛のように重かった。  自らの心を偽り信頼を騙る。その行為は、騎士が生きてきた誇りを少しずつ蝕んでいくようだった。  ディエースは、そんな騎士の葛藤など気にも留めず鼻歌交じりで螺旋階段を下りていく。  ロビーでは館の主であるゴッドドラモンが、水晶柱の前に立ち深く長い溜息をついていた。  その黄金の巨躯は、今日の度重なる騒動と、宿泊客たちからの突き刺さるような視線にすっかり疲弊しきっているように見える。  威厳に満ちていた背中は今はひどく小さくそして孤独に見えた。 「ゴッドドラモンさん」  騎士が意を決して声をかけると、ゴッドドラモンはびくりと肩を震わせ警戒心に満ちた瞳で振り返った。  その表情は、まるで次にどんな非難や追及が飛んでくるのかと、うんざりしながら身構えているかのようだった。 「……おや、騎士様、ディエース様。何か私に言いたいことでも?」  声には隠しきれない疲労と苛立ちが滲んでいる。    しかし、騎士が口にしたのは彼の予想を完全に裏切る言葉だった。 「いえ。俺たちは、ゴッドドラモンさんの力になりたいんです。この館の秩序を取り戻すために俺たちに何か出来ることがあれば貢献したい」  その言葉にゴッドドラモンは目を丸くした。  今日一日、彼が向けられてきたのは、疑いと非難と責任の追及だけだった。  そんな中、差し伸べられた予想外の協力の申し出に、彼はどう反応していいのか分からずただ困惑したように二人を見つめる。  ディエースが、畳みかけるように明るい声で続けた。 「そうそう! 犯人探しとか、そういうギスギスしたのって、アタシたち向いてなくってさー。  それより、もっと建設的なことでお手伝いしたいなーって。  そうだ! ゴッドドラモンさん。ここの自動調理器って、もう何年も壊れたままなんですよね?」  その言葉は、ゴッドドラモンの心の、最も柔らかな部分を的確に突いていた。  彼は、騎士たちの真意を測りかねながらも、その話題には食いつかずにはいられなかった。 「……ええ。ですが、あれはもう……」 「アタクシ、こういう機械の扱い、実は得意なんですよ。本業はメカニックなんで!  もし直せたら少しはこのギスギスした空気もマシになると思いません?  ベーダモンおばちゃんの料理も最高だけど、みんなでワイワイ言いながら色んな料理を選べたらきっと楽しいじゃない?」  ディエースの屈託のない笑顔と騎士の真摯な眼差し。  ゴッドドラモンは、その2つの光を前に、張り詰めていた心の糸が、ふっと緩むのを感じた。 「……本当に直せるのですか?」  その声には長年の悩みの種に対する諦めとそしてほんのかすかな期待が入り混じっていた。 「あれは数年前、何の前触れもなく完全に沈黙してしまいましてな……。  管理室のデータ上は、今も正常に稼働していると表示されるのに物理的にはうんともすんとも言わない。  この館の高度な自己修復機能すら働かず原因は全くの不明。専門家にも見せましたが、首を傾げるばかりでしてな。  緊急で料理人としてベーダモン殿を雇いましたが、ありがたいことに彼女の料理が宿泊客にすこぶる好評でして。  正直、もうこのままで良いと半ば諦めておりました……」  彼は誰にも言えなかった長年の悩みをまるで告解するように語り始めた。  館の主としての威厳を損なう、些細でしかし根深い問題。それを解決しようという申し出は彼の乾いた心に染み渡る慈雨のようだった。 「俺たちが、必ず直してみせます」  騎士が力強く約束した。その声には、一片の嘘もなかった。今はまだ策のためだとしても、やるからには全力を尽くす。それが騎士の流儀だった。 「任せとけって! 俺とナイトとディエースにかかれば、ちょちょいのちょいだぜ!」  ズバモンが、隣で胸を張る。 「この館の平穏を、俺たちの手で取り戻すために」  ゴッドドラモンは、その真っ直ぐな瞳をじっと見つめ、やがて、深く、深く頷いた。 「……感謝します。騎士殿、ディエース殿。あなた方のような方がいてくれて、本当に良かった」  彼の瞳には長年の懸案を解決してくれるかもしれないという淡い期待と、そして、この混沌とした状況の中で初めて見出した明確な信頼の光が宿っていた。  5.4:『叩けば治ることもある』  夜の静けさが食堂を支配していた。ベーダモンも自室に戻ったのか、厨房はしんと静まり返っている。  その一角に鎮座する、巨大な自動調理器。  流線形のメタリックなボディは、かつては未来的な輝きを放っていたのだろうが、今はただの鉄の塊として分厚い埃を被っていた。 「さてと、アスタ商会が誇るメカニックの腕の見せ所ね!」  ディエースは慣れた手つきで髪をまとめると、ゆったりとした袖をたくし上げた。その瞳は、もはやおどけた少女のものではなく、獲物を前にした職人のそれだった。  彼女は調理器のパネルに指を滑らせ、内部構造をスキャンしていく。  その指の動きは、まるで熟練のピアニストが鍵盤を奏でるかのように滑らかで、一切の迷いがない。 「ふーん、なるほどね。この調理器、普通のやつとは構造が全然違うわ。  普通はさ、デジタケとかエグの実みたいな素材を取り込んで調理するんだけど……こいつは、もっとヤバいものを『食材』にしてる」  ジショモンがホログラムスクリーンに複雑なエネルギーフローの図を映し出し、ディエースが騎士に解説を始めた。 「この館の真下には、膨大なエネルギーラインが走ってるの。  それは、この『青嵐エリア』で発生するデジタルストーム現象、つまり『破壊と再生』のデータを直接取り込むためのもの。  破壊されたデータの残滓を『スパイス』に、再生時のデータを『素材』として、ストックし新たな料理を『創造』する……。  ほぼ無から有を生み出す、まさに錬金術みたいなシステム。古代の遺物かしらね。そりゃ普通の技術者じゃ手も足も出ないわけだわ」  ディエースは感心したように言いながらも、その手は止まらない。  コンソールを開き、無数のケーブルが複雑に絡み合う内部へと躊躇なく腕を突っ込む。  指先でケーブルのテンションやエネルギーの流れを確かめ、まるで生き物の脈を診るかのように、慎重にしかし大胆に内部構造を探っていく。  だが、ゴッドドラモンの言う通り、物理的な破損やシステムのエラーはどこにも見当たらなかった。 「通常の手順じゃダメか……。なら!」  ディエースの口元に、不敵な笑みが浮かぶ。 「ウラテクモン! 出番よ!」 「アプモンチップ、レディ! アタクシ注入!」  光の中から現れたウラテクモンは、主の意向を即座に理解し、巨大なゲームコントローラーを構えた。 「ボス! 俺様に任せるウラ!」 「ウラテクモン! このクソったれなシステムの隠しコマンドかデバッグモード、裏技の類を、片っ端から探しなさい!」  ウラテクモンの指が、常人には見えないほどの速さでコントローラーを叩き始める。  画面には無数のコードが滝のように流れ落ち、システムの深層、開発者でさえ存在を忘れているような領域へと強制的にアクセスしていく。  やがて、ウラテクモンが「見つけたウラ!」と叫んだ。 「ボス! 最終強制排出(ラスト・イジェクト)の裏コマンドを発見したウラ! でも実行するにはコンソール操作だけじゃダメみたいウラ!  筐体の側面、第三冷却フィンの下にある物理スイッチを、コマンド入力と同時に強く叩く必要があるウラ!」 「物理スイッチですって? 面倒な……。でも、面白そうじゃない!」  ディエースはニヤリと笑うと、拳を固めた。 「ウラテクモン、カウントなさい! アタシが最高のタイミングでぶち込んでやるから!」 「了解ウラ! スリー! トゥー! ワン! ……今ウラーーーッ!」 「喰らいなさい! イジェクト・パーンチッ!!」  ディエースの拳が、ウラテクモンが示した筐体の一点に、寸分の狂いもなく叩き込まれた。  その瞬間、自動調理器が、まるで断末魔の叫びを上げるかのように、けたたましい警告音を鳴らし始めた。  ガコン、ゴウン、と重い音を立てて内部機構が無理やり動き出す。  コンソールの表示が「レシピ不明:NoData」に切り替わり、内部に滞留していた最後のデータを、強制的に排出しようと動き出した。  ゴウン、という地響きにも似た重低音の後、排出トレイがゆっくりとスライドしてくる。  しかし、そこから現れたのは料理ではなかった。  虹色だった。まるで宇宙の星雲をそのまま閉じ込めたかのような美しい光を内に秘めた小さな飴玉のような球体。  それは薄暗い厨房の中で、自ら淡い光を放ち静かにそこに鎮座していた。 「なんだこれ? 美味そうじゃん!」  待ちくたびれていたズバモンが、その美しい輝きに吸い寄せられるようにひらりと飛びついた。 「待て、ズバモン! そんなもの食べようとするな!」  騎士は咄嗟に叫び、ズバモンがその飴玉を口に入れようとする寸前でその手からはたき落とした。  はたかれた飴玉は綺麗な放物線を描いて宙を舞い、騎士の口の中へと寸分の狂いもなく飛び込んでしまったのだ。 「かっ……!?」  驚いて咳き込む間もなく、騎士の喉が、ごくり、と意思に反して動いた。  虹色の球体は何の抵抗もなく食道を滑り落ちていく。  その瞬間、騎士の体内でまるで眠っていた巨大な龍が長い眠りから目覚めるかのような熱い奔流が駆け巡った。  細胞の一つ一つが焼き尽くされるような激しい熱。  しかし、それは一瞬のことで、特別な変化は感じられない。 「え……? ええええええええええ!? ちょ、少年! 今の飲んだ!? 吐き出して! 早くペッてして!」  ディエースが、血相を変えて騎士に駆け寄る。その顔からいつもの余裕は完全に消え失せ本気の焦りの色が見て取れた。 「バッカじゃないの!? あれが何なのかも分かんないのに食べちゃうなんて! 少年、バッカじゃないの!?」  彼女はそう叫ぶと、先ほど調理器に放ったのと同じように、騎士の背中に向かって拳を振り上げた。 「こうなったら! イジェクトパーンチ! イジェクトパーンチ!」  ペチペチと間抜けな音を立てて、ディエースの拳が騎士の背中を叩く。だが、当然、飴玉が出てくる気配はない。 「何すんだよ! 痛ぇだろ!」 「うるさーい! 出てくるまでやる! イジェクトパーンチ!!」  二人が子供のような喧嘩を繰り広げている間にも、システムは作動し続けていた。  内部で異物として認識されていた「飴玉」が排出されたことで、長年のエラーが解消されたのだ。  ピロリン、と軽快な起動音が鳴り、自動調理器のコンソールに「システム正常。いつでもご利用いただけます」という文字が、誇らしげに浮かび上がった。  修理完了の報告を受けたゴッドドラモンは、食堂に駆けつけ、完璧に動作する自動調理器を見て感極まったように声を震わせた。 「おお……! なんということだ……! 長年の悩みの種が、こんなにもあっさりと……!」  彼は、騎士とディエースに深く、深く頭を下げた。 「騎士様、ディエース様。このゴッドドラモン、御恩は決して忘れませぬ。貴方達は信頼に値する方々だ」  その瞳には、もはや一片の疑いもなかった。  サクシモンの《懐柔の計》は、騎士の胃の中に謎の物体を残しながらも、完璧すぎる形で成功を収めたのだった。  5.5:『第二の策、離間の計』  自動調理器の修理という大きな「手柄」を立てた騎士とディエースは、息つく間もなく、サクシモンが授けた第二の策《離間の計》を実行に移す。  その目的は、館の主であるゴッドドラモンへの不満を、自分たちへの信頼へと巧みにすり替え、水面下でこの館の主導権を掌握すること。  偽りの信頼を武器に、彼らは夜の館へと散っていった。  談話室の暖炉の前では、ワイズモンとレイラが燃える炎をぼんやりと見つめていた。今日の投票劇は彼らの心に暗く重い影を落としている。 「……僕、実は赤城さんに入れちゃいました。エリスさんの言う通りだってあの時は思っちゃったんすよ。  でも、今になって考えると、やっぱりおかしいっすよね。あれじゃただの魔女狩りじゃないすか。もしかしたら次は僕が……」  ワイズモンは、いつもの軽薄さが嘘のように弱々しい声で後悔と恐怖を吐露した。  レイラもまた、蒼白な顔で膝を抱えている。彼女の震える肩を、パートナーであるスナリザモンが必死に抱きしめていた。 「レイラ、大丈夫…? 僕が、僕がずっとそばにいるからね。だから、もう泣かないで…」 「スナリザモン……ごめんなさい。私、怖くて……」  そこへ、騎士とディエースが、まるで旧知の友に声をかけるように、自然に近づいた。 「今日の投票、やっぱり後味が悪かったですよね」  騎士が共感を示すように言うと、ワイズモンは待ってましたとばかりに顔を上げた。 「騎士さん! ディエースさん! マジでそうなんすよ! あのままじゃ、本当にヤバい! 次は誰が吊るされるか、ビクビクしてなくちゃいけないなんて!」  騎士は、そんな彼らの不安を真正面から受け止める。 「だから、俺たちがゴッドドラモンさんと話してみます。もう、あんな不毛な投票はさせません。必ず皆が納得できる形で真実を明らかにしますから」  その力強い言葉にレイラがすがるような瞳を向けた。  ワイズモンもまた騎士とディエースという存在に、暗闇の中の一筋の光を見出したかのように安堵の表情を浮かべた。  娯楽室では、ユンフェイが一人、暗がりの中で木剣をただ握りしめていた。  その背中からは、昼間の手合わせの時とは比較にならないほどの、冷たい絶望のオーラが漂っている。 「ユンフェイさん……」  騎士の声に、ユンフェイはゆっくりと顔を上げた。その瞳は、もはや何の感情も映さない底なしの沼のように濁っている。 「……来たか。忠告か? 慰めか? どちらも今の私には無意味だ」 「いえ。俺たちは、この状況を変えたい。ゴッドドラモンさんと直接話をつけて真実を明らかにしようと思っています」  その言葉に、ユンフェイは、ふっ、と自嘲的な笑みを漏らした。 「真実? 話し合い? 馬鹿なことを。なぜ、もっと簡単な方法を選ばん」  彼はゆっくりと立ち上がり、騎士の目の前に立つ。 「すべて、力で解決すればいいのだ。疑わしきはすべて斬り伏せ真実を無理やりにでも暴き出す。  このデジタルワールドでは、それこそが正義だ。議論など、弱者の戯言にすぎん」  その瞳には、狂信的なまでの力への渇望が宿っていた。だが、次の瞬間その光は急速に萎んでいく。 「……それは絶対的な力を持つ者の特権。四大竜の試練に挑んだ際、私は見たのだ。ゴッドドラモン殿の底しれぬ力を。  今の我々など彼の前では赤子同然。宿泊客の全員が力で挑んだところで返り討ちに合うだけだろう」  彼は悔しげに木剣を握りしめた。 「……すまない、騎士。君に当たってしまった。結局、私に……この状況を覆すだけの力がないのが悪いのだ」  ユンフェイはそう言って、深く頭を下げた。  騎士は、彼の深い闇に触れたような気がして何も言えなかった。  そのやり取りを柱の影から見ていたティンカーモンの瞳に危うい決意の光が灯った。 (ユンフェイがあんなに苦しんでる……。私に何かできることは……。そうだ力よ! 彼に、もっと、もっと強い力を……!)  宿泊エリアの薄暗い廊下で、騎士たちはエリスとフローラモンに遭遇した。エリスは自室の扉に寄りかかり、腕を組んで冷ややかに二人を見ている。 「あ、エリスちゃん、これ談話室に落ちてたよ。遊んだ時に落としたんでしょ?」  ディエースが、どこで拾ったのか、1枚のカードをひらひらとさせながら差し出した。  エリスはそのカードを見て、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに無表情に戻りそれを受け取った。 「……ありがとう」  その、珍しく素直な感謝の言葉に、騎士は少し驚きながら一歩前に出た。 「エリス、俺たちはゴッドドラモンさんと話をつける。エリスも本当はこんな状況を望んでいないはずだ。真実を知りたいなら、協力してほしい」  その言葉に、エリスはふん、と鼻を鳴らした。 「好きにすれば? 私は私のやり方で、私の求める真実に辿り着くだけよ」  彼女はそう言い捨てると、部屋の中へと姿を消した。 「エリス、本当に良かったの? あんな言い方しちゃって……。本当は、騎士くんたちのこと信じてるよね?」  扉の向こうで、フローラモンの声が小さく聞こえた。  最後に訪れた食堂では、ベーダモンが一人で黙々と後片付けをしていた。 「おや、騎士ちゃんたちじゃないか。どうしたんだい、こんな時間に」 「いえ、少し、皆さんと話をしていました」  その言葉に、ベーダモンは手を止め、ふう、と息をついた。 「あんたたち、調理器を直してくれただけじゃないんだねぇ。みんなの話も聞いて回ってるんだって?  えらいじゃないか。あたしゃ、ただの雇われだけどさ、今日の投票は見てて胸糞が悪かったからね。頑張りなよ」  厨房から得たささやかな、しかし温かい支持を背に騎士たちはロビーへと戻った。  恐怖と後悔に揺れる者、力への渇望に溺れる者、それぞれの思惑を抱える宿泊客たちの不満。《離間の計》は、成った。  館の主であるゴッドドラモンはそれらを管理室のモニターから眺めている。  自らが信頼した騎士たちが、面倒な宿泊客たちのガス抜きをしてくれていると信じ込み、その行動を感謝すらして静観している。  全ての駒は、盤上に揃った。  5.6:『第三の策、背水の計』  夜が更け、館は深淵のような静寂に包まれていた。いよいよ、サクシモンが描いた謀略の最終段階、《背水の計》の火蓋が切られる時が来た。  ロビーの中央、水晶柱が放つ淡い光の下で、館の主は一人、佇んでいた。  その背中にはすでに疲労の色はなく、絶対者としての静かな威厳が漂っている。  そこへ、騎士とディエース、そしてズバモンが静かな足取りで近づいていった。 「ゴッドドラモンさん」  騎士の声は、夜の静寂に柔らかく響いた。それは協力者としての誠意と、抑えきれない切迫感が絶妙に混じり合った響きを持っていた。  ゴッドドラモンはゆっくりと振り返る。その瞳には、彼らへの信頼の色がはっきりと見て取れた。 「騎士様、ディエース様。どうかなさいましたか?」 「先ほど、館のみんなと話をしてきました。誰もが、今日の投票に心を痛め明日のことを深く不安に思っています。  このまま疑心暗鬼が続けば、この館の秩序は内側から崩壊してしまうかもしれません」  騎士は、あえて「皆の代弁者」として語り始めた。それは、これから始まる要求が、個人的なものではなく、館全体の総意であると印象付けるための、計算された言葉だった。 「我々は、これ以上不毛な投票を繰り返すべきではないと考えています。どうか明日の投票は中止にしていただけないでしょうか」  その要求にゴッドドラモンはわずかに眉をひそめる。だが、騎士は間髪入れずに次の手を打った。 「ソク師範は、我々が眠っている間に忽然と姿を消しました。  二度と同じ悲劇を繰り返さないため、そして皆の不安を少しでも和らげるため今夜から交代で夜間の警護を行うことを提案します」  具体的な安全対策の提示。秩序の維持を最も重んじる彼にとって、それは無視できないむしろ歓迎すべき提案のはずだった。 「夜警、ですと? たしかに今の状況では必要でしょうが、貴方達だけでは心許ない」  ゴッドドラモンがそう言った、その時だった。 「ならば私も協力しよう」  ロビーの螺旋階段の側から、静かだが芯の通った声が響いた。ユンフェイだった。  彼の傍らには心配そうに、しかしどこか誇らしげなティンカーモンが寄り添っている。彼女がユンフェイをここまで連れてきたのだ。 「剣を持つ者として、何もせず朝を待つのは性に合わん。騎士の提案、理にかなっている」  ユンフェイという館屈指の実力者からの賛同。それは、騎士の提案に抗いがたい重みと説得力を与えた。  そして、騎士は最後の一手を打つ。ここが勝負の分かれ目だった。 「しかし、ゴッドドラモンさん。効果的な警護を行うにはこの広大な館の死角や構造を正確に把握する必要があります。見えない敵から皆を守るためには」  騎士は、まっすぐにゴッドドラモンの瞳を見据えた。その瞳には、一片の曇りもない。  あるのは、この館の安全を心から願う協力者としての誠意だけ。 「そのためにも、どうかこの館の心臓部である『管理室』を、我々に開示していただけないでしょうか。  貴方を信じる我々だからこそ、この館の安全を貴方と共に守りたいのです」  それは、脅迫ではなかった。貴方を信じる協力者として、秩序崩壊を防ぐための最後の手段という、拒むことのできない大義名分をまとった完璧な要求。  ゴッドドラモンは完全に追い詰められた。  自らが全幅の信頼を寄せた協力者にその信頼そのものを盾に詰め寄られている。  断れば、彼らの信頼を失うだけでなく、安全対策を拒んだ館の主として、他の宿泊客からの信頼も完全に失墜するだろう。  そうなれば彼が最も重んじる「館の秩序」は、内側から音を立てて崩壊してしまう。  受け入れるしかない。彼らに主導権を明け渡してでも自らの体面を守るしかない。 「……わかりました」  長い、長い沈黙の末、ゴッドドラモンは力なく頷いた。その声は、策略の完全な勝利を告げる重い降伏宣言だった。 「皆様を、管理室へご案内しましょう。この館の……最も神聖なる場所へ」  三つの策は完璧に連動し、ついに鉄壁の城門を内側からこじ開けることに成功した。  一同は、観念した竜神に導かれ、館の心臓部へと足を踏み入れる。  5.7:『鍵は開かれ虎が見つめる』  重厚な偽装ハッチが、音もなく開かれた。展望室の天井から、眩い光の粒子が滝のように降り注ぎ、螺旋を描きながら天へと続く階段を形作る。  それは、神域への入り口のようでもあり断頭台への階段のようでもあった。  ゴッドドラモンは、観念したように深く息を吐き、その光の階段へと足を踏み入れた。その背中には、策略によって誇りを砕かれた竜の深い屈辱が滲んでいる。  後に続く騎士たちの足取りもまた、決して軽くはなかった。勝利の代償として背負った罪悪感が、見えない枷となって彼らの歩みを鈍らせる。  光の階段を上りきった先は、館の主であるゴッドドラモンのプライベート空間。  管理室である『天竜の間』だった。  足を踏み入れた瞬間、誰もが息を呑んだ。  そこは、この館の混沌とした意匠とは一線を画す、静謐で荘厳な神域だった。  床や壁面には、まるで生きているかのように青白いエネルギーラインが走り、足を踏み入れるたびに光が波紋のように広がる。  部屋の中央には、ロビーのマザー・クリスタルと直結した巨大な球状のコンソールが、静かに青い光を放っている。  そして、四方の壁には、四大竜の威容を象った祭壇が鎮座していた。  東にはチンロンモン、北にはホーリードラモン、南にはメギドラモン、そして西にはゴッドドラモン自身の祭壇が、それぞれ神聖なオーラを放っている。  ゴッドドラモンは、自らの聖域を荒らされたような苦々しい表情でコンソールに触れた。プライドを押し殺し、この館のシステム情報を、侵入者たちに開示する。 「……これが、この館の全てです」  球状のコンソールから、淡い光が空間に放たれ、立体的なホログラムが展開された。  最初に表示されたのは、現在の宿泊客の情報リストだった。  しかし、そこに記されていたのは、当たり障りのない個人データと、それぞれに割り当てられた部屋番号だけだった。  戦場騎士: 3階・赤・ハートの11号室  ディエース: 3階・赤・ハートの10号室  チェン・ユンフェイ: 4階・黒・スペードのK(13)号室  エリス・ローズモンド: 4階・黒・クラブのQ(12)号室  ティンカーモン: 4階・黒・スペードの10号室  レイラ・シャラフィ: 3階・赤・ダイヤの7号室  ワイズモン: 4階・赤・ダイヤのA(1)号室  ソク・ジンホ: 3階・黒・スペードの1号室(ERROR: Connection lost)  赤城鋼太郎: 3階・黒・クラブの3号室(STATUS: Contained)  コンソールのモニターには、地下牢の映像も映し出されていた。  そこには、力なく膝を抱える赤城の姿があった。特に変わった様子はなく、彼が真犯人ではないことを、その無力な姿が静かに物語っていた。 「これでは……何もわからないな」  ユンフェイが、秘宝の手がかりが見つからないことに、失望の色を隠せずに呟いた。 「……これも信頼の証です」  ゴッドドラモンは、皮肉と諦観を滲ませながらも、プライベートな通信記録を再生した。  球状のコンソールが静かに駆動し、四方の祭壇が呼応するように淡い光を放つ。やがて、管理室の空間そのものが歪み、三体の巨大な竜の立体映像が、それぞれの祭壇の上に荘厳な姿を現した。  東の祭壇には、雷雲を纏い、威厳に満ちた眼差しでこちらを見据える、デジタルワールド東方を守護するチンロンモン。  西の祭壇には、無数の聖なるリングを揺らし、慈愛に満ちた光を放つ、生命の調和を司るホーリードラモン。  そして南の祭壇には、灼熱の炎と底なしの影を背負い、静かに、しかし圧倒的な存在感を放つ、邪竜メギドラモン。  その巨躯は、時折、禍々しい紫の騎士、カオスデュークモンの幻影と重なるように揺らめいて見えた。 『集まったか、同胞よ』  最初に口火を切ったのは、チンロンモンだった。その声は、轟く雷鳴のように重く、世界の均衡を憂う王者の風格に満ちている。 『もはや聞き及んでいよう。イグドラシルの懐刀たるロイヤルナイツが、奴ら……デジモンイレイザーの前に敗れ去った。デジタルワールドの秩序は、今、未曾有の危機に瀕している』  その重い言葉に、ホーリードラモンが悲しげに瞳を伏せた。 『イレイザーの脅威だけではありませぬ。世界の理が乱れたことで、人の子らもまた、数多くこの世界へ迷い込んでいます。彼らの魂を、我々はどう導けばよいのか……』  彼女の声は、全ての生命を憂う母のような、深い慈愛と悲しみに満ちていた。  二体の竜が世界の行く末を憂う中、これまで沈黙を守っていたメギドラモンが、静かに、しかし全ての音を喰らうような響きで口を開いた。  その声は、彼の破壊的な外見とは裏腹に、氷のように冷たく、そして理知的だった。 『フン……。お前たちはまだ、奴らの本質を理解しておらん』  その瞳が、一瞬、策略を巡らすカオスデュークモンのそれと重なる。 『デジモンイレイザーの行動は、一見、支離滅裂。  ロイヤルナイツという秩序の象徴をいとも容易く打ち砕くほどの力を見せつけながら、次の瞬間には、取るに足らぬ道化を演じ、瑣末な遊戯に興じている。  それは単なる破壊衝動ではない。我々が信じる“価値”そのものを汚し、揺さぶるための高度な精神汚染(クラッキング)だ』  メギドラモンは、他の竜たちを見回す。 『奴らは、この世界の物語を破壊しようとしているのだ。  我々が信じる正義、慈悲、誇りといった概念そのものを、無意味で陳腐なものへと貶めようとしている。  そのような混沌に、生半可な秩序で対抗するなど愚の骨頂。  混沌には、より強大な混沌を。あるいは……絶対的な力による完全な支配を課すのが、唯一の理(ことわり)であろう』  彼の言葉は、単なる暴力の肯定ではなかった。理解不能な敵に対する、彼なりの冷徹な分析と、それに基づいた究極の解答だった。  三者三様の意見がぶつかり合う中、最後にゴッドドラモンが、この天竜の間の主として、そして自らの信義を告げた。 『力も、慈悲も、そして知略も、時に道を誤る。  我らは神ではない。ロイヤルナイツの如く義務を背負っているわけでもない。  ただ力ある者の責任として、それぞれの信義に基づき、それぞれの領域でかろうじて傾きを保つこの天秤を支え続けるのみ。  私はこの青嵐の館から善と悪、破壊と再生を持って、世界の秩序を見守り続けよう』  その言葉は、彼ら四大竜が絶対的な支配者ではなく、それぞれが信じる正義の下で世界の均衡を保とうとする孤独な守護者であることを示していた。 「ふぁ~……。真面目な話ばっかりで、つまんなーい」  ディエースは大げさにあくびをして見せた。この壮大な世界の危機すら彼女にとってはただの退屈しのぎにもならないらしい。  舘の犯人にも秘宝につながる情報も、ここにもなかった。  そうして、通信記録が終わりモニターが暗転したかと思った、その瞬間だった。  再生リストの末尾に、先ほどは存在しなかった【Unidentified_Log】という名のファイルがまるで生きている心臓のように不気味にそして蠱惑的に明滅しながら出現した。 「なにこれ? 新着動画?」  ディエースが面白がり、誰かが止める間もなく、その吸い寄せられるような光の点滅に、指を触れてしまった。  再生されたのは、音声も映像もない、ただの暗黒。すべてを吸い込むような、深淵の闇だった。  その闇の中心に、静かに、しかし抗いがたい存在感を放ち、1つの歪んだ鍵がゆっくりと浮かび上がった。  あらゆる秩序、あらゆる論理、あらゆる心の壁を嘲笑うかのように、蠢いている。万物を解錠する黒い鍵。  それがモニターの中心、仮想の鍵穴へと吸い込まれ、「カチリ」と、世界の理が外れるような、耳障りでそれでいて甘美な音を立てた。  その瞬間、解錠された鍵穴から黒い奔流が溢れ出した。  それはデータではない。ねっとりとした粘性を持ち、生命を宿した『墨』だった。  墨は物理法則を無視しモニターを侵食し、やがて神聖なはずの管理室の壁や床にまで呪いのように染み渡っていく。  それは冒涜的にうねりながらも、どこか官能的で美しい、虎の獣皮を思わせる力強い縞模様を描き出した。  ふ、と。  墨の一点が、心臓のように脈動を始めた。  そこからゆっくりと、ぬるりと、瞼が開くように、漆黒の眼球が姿を現す。  1つ、また1つと、墨の至る所から無数の瞳が開き、そこにいる者たちの魂を、直接覗き込むように、じっとりと見つめてきた。  その無数の目が、一斉に騎士を捉えた。 『ソノ瞳ニ見ツメラレルナ』  射貫かれた瞬間、騎士の脳髄を、恐怖ではなく、背徳的な悦楽が駆け巡った。  全身の産毛が総立ちになるような、甘美な戦慄。  抗えない。抗うという思考そのものが、愚かで、無意味に思えた。  心臓が歓喜に打ち震える。全身の細胞が、あの瞳に見つめられることを、悦んでいる。  ダメだ、と抵抗しようとする理性が叫ぶ。だが、本能から湧き上がる歓喜の叫びに掻き消されていく。 (見られている……ああ、俺だけが、この瞳に選ばれた)  呼吸が熱を帯び、思考が溶けていく。 (この怪物に喰われることは、きっと、至上の快楽なのだろう。  この身を捧げ、飲み込まれ、墨のように溶かされ、1つになりたい。それは死よりも甘い極上の快感に違いない) 『ソノ声ニ耳ヲ貸スナ』  けたたましい、デジタルな断末魔のような警告音が、耳の奥で直接響く、不快でしかし心地よい旋律に変わる。  管理室全体を染め上げる緊急の赤色灯が、情欲を掻き立てるような、いやらしい深紅の光に見えた。  もう、逃れられない。いや、逃れたくない。  喰われ、犯され、彼のものになる。それが、至上の幸福なのだと、魂が理解してしまった。  その甘美な誘惑に、意識が完全に飲み込まれそうになった、その瞬間── 『喰ワレルゾ』  パツン、と糸が切れるように、すべての異変が掻き消えた。  嵐のように、唐突に。  管理室は、何事もなかったかのように元の静寂を取り戻した。ただ、じっとりとした汗と、言い知れぬ悪寒だけが生々しく肌に残っている。 「デジモンイレイザー……! これは、奴らからの挑戦状だ! この『天竜の間』にまで、直接干渉してくるとは……!」  ゴッドドラモンの顔面は蒼白だった。彼はすぐさまシステムに異常がないか、震える指で必死にコンソールのチェックを始めた。  ただ一人、ティンカーモンだけは、その騒動の片隅で、別のものを見ていた。 (今の、なんだろう……墨の中から目玉が出てきたとき、コンソールの隅っこに、一瞬だけ……!)  彼女の純粋な瞳が捉えたのは、マザー・クリスタルのエネルギー経路を示す設計図。  そして、その図の今まで誰も気づかなかった僅かな歪み。  それは、まるで巨大なエネルギー体、あるいは隠された空間を覆い隠すために意図的にデータが改竄されたかのような、不自然な流れだった。  ユンフェイを強くしたい一心で秘宝の手がかりを探していたティンカーモンは、その小さな発見が何を意味するのかは分からない。  しかし、これこそがユンフェイを救う鍵になるかもしれないとその異常なエネルギー経路図を、妖精の小さな記憶に、強く、強く焼き付けた。  5.8:『夜警』  管理室から戻ったロビーは、まるで葬儀の後のように、重く冷たい沈黙に支配されていた。  一同の前で、ゴッドドラモンは夜警の担当者を指名する。その声は、もはや館の主としてではなく、狂ったゲームの進行役のように、無機質に響いた。 「犯人の襲撃に備え、そして……互いの監視という意味も込めて、今宵は夜警を立てていただきます。  最初の担当は、この中でも戦闘経験が豊富で信頼できる騎士様と、最も非力で……警戒対象から外れるティンカーモン殿にお願いしたい」  その言葉は、ティンカーモンが取るに足らない存在であると宣告するも同然だった。  騎士は意外な組み合わせに驚きながらも、断る理由もなく静かに頷いた。  ティンカーモンは、内心ではユンフェイと組みたかったという落胆と、騎士と二人きりになるという別の意味での緊張で、小さな胸をドキドキさせていた。 「その次の担当は、ユンフェイ様とディエース様です。お互い変な気を起こさないよう、しっかりと見張り合ってください」  ゴッドドラモンは、そう釘を刺す。ユンフェイは何も言わず、ただ黙って頷くと、仮眠を取るために自室へと背を向けた。 「はーい! じゃ、おやすみー」  ディエースは、まるでこれからデートにでも行くかのように軽く手を振り、ユンフェイの後に続く。 「私、頑張るね、ユンフェイ!」  ティンカーモンが、振り絞るような健気な声で呼びかけるが、ユンフェイは一度も振り返ることなくその姿を闇の中へと消していく。  力なく落とされる彼女の肩を、騎士は黙って見つめていた。隣に立つズバモンと共に、静かな夜警が始まった。  静まり返った館の廊下は、まるで巨大な墓所のようだった。自分たちの足音だけが、やけに大きく響く。  各階の扉が固く閉ざされていることを確認しながら、騎士とティンカーモンの間には、気まずい沈黙が流れていた。  その沈黙を破ったのは、ティンカーモンだった。彼女は、指先をもじもじとさせながら、意を決して騎士に問いかけた。 「ねぇ、騎士……。ズバモンを、ユンフェイに貸してあげてくれないかな?」 「なっ、何言ってんだティンカーモン! 俺はナイトの相棒だぜ!?」  ズバモンが、心外だと言わんばかりに騎士の隣で声を上げた。騎士もまた思わず足を止め、呆れたように彼女を見返した。 「断る」  即答だった。 「ズバモンは俺の相棒だ。誰にも渡さない」  そのきっぱりとした拒絶に、ティンカーモンは「……そうだよね」と俯き、消え入りそうな声で呟いた。  その小さな背中は、今にも泣き出しそうに震えているように見えた。  だが、彼女はすぐに顔を上げた。その潤んだ瞳には涙の代わりに、強い、強い決意の光が宿っていた。 「私、ユンフェイのこと、まだよく知らないんだ。会ったばかりだし、彼がどんな旅をしてきたのかも、どんなことで悩んできたのかも。でも、そんなのどうでもいいの!」  彼女は、小さな拳をぎゅっと握りしめた。 「あの時、アタシは足を怪我して、もうダメだって思った。あの黒い嵐に飲み込まれて、消えちゃうんだって。  そしたら、ユンフェイが……王子様みたいに現れて、アタシを助けてくれた! 強いだけじゃないの。優しく足を治療してくれて……ここまで抱っこしてくれたんだから!」  ティンカーモンの頬が、ぽっと赤く染まる。その鮮烈な記憶は、彼女にとって何よりも大切な宝物なのだ。 「だから、今度はアタシがユンフェイを助ける番なの! ユンフェイはすごく努力してる! 誰よりも剣の道を信じて、ずっと戦ってきたんだよ!  なのに、あなたに負けてから……あんなに悔しそうで、見てるこっちが苦しくなっちゃう……。私、ユンフェイに笑っていてほしいの。ただ、それだけなの……!」  飾り気のない、純粋な言葉。それは、恋する妖精の、魂からの叫びだった。  騎士の胸に、その一途な想いが、ちくりと痛みを伴って突き刺さる。ズバモンも、黙ってその言葉に聞き入っていた。 「だからね」  ティンカーモンは、騎士の目をまっすぐに見つめ、にこりと、どこか秘密めいた笑みを浮かべた。 「私、もう見つけたんだ。ユンフェイを最強にする秘宝への『道』を。騎士には内緒だけどね」  その言葉は、子供の戯言のようでありながら、揺るぎない確信に満ちていた。 「明日、絶対に見つけるから! ユンフェイを最強にする、すっごいお宝を! そしたら、ユンフェイはもう苦しまなくて済むんだ!」  そう宣言する彼女の瞳は、あまりに純粋で、そして、あまりに危うかった。  騎士は、その無邪気な笑顔の裏に潜む、恋という名の狂気に、背筋が冷たくなるのを感じずにはいられなかった。  ひととおりの見回りを終え、異常がないことを確認した騎士は、「最後に、赤城さんの様子も見ておこう」とティンカーモンを連れて地下牢へと向かった。  地下牢の重い扉を開けると、ひやりとした空気が肌を撫でた。  鉄格子の向こうで赤城鋼太郎は一人、静かに壁に背を預けて座っていた。  彼のいパートナーであるカイザーレオモンは、この牢が放つデジコアを弱めるフィールドの影響を避けるためか、既にデジヴァイスの中へとしまわれているようだった。  孤独な学者は、まるで己の罪と向き合うかのように、深く目を閉じている。 「……フン、見回りか。ご苦労なことだな」  騎士たちの気配に気づくと、彼は目を開け、自嘲気味に笑った。 「僕のような大罪人はこの牢獄がお似合いさ。ティンカーモン君やズバモン君のような純粋な子たちにまで、怖い思いをさせてしまって本当に申し訳ないと思っているよ」  その言葉には、昼間の狂気的なまでの激しさはなく、反省の色が見て取れた。  ズバモンとティンカーモンは、その意外なほどの優しさに、少し戸惑ったように顔を見合わせる。  騎士は、彼を刺激しないよう、慎重に言葉を選びながら、管理室での出来事をありのままに話した。 「あなたを陥れたかったわけじゃない。ただ、俺たちも真実が知りたいだけだ」  管理室に秘宝の手がかりが何もなかったという事実に、赤城は「そうか……」と静かに己の過ちを認めた。 「僕はまた、1つの可能性という名の妄執に囚われて、周りが見えなくなっていたらしい。  結局、成功したとしても何も解決しなかったどころか、君たちを危険な目に合わせてしまっただけか……」 「でもさ、赤城のおっちゃん! レイラさんをいじめたのは、やっぱ良くないと思うぜ!」  ズバモンが正義感から声を上げる。ティンカーモンもその横でこくこくと頷いた。 「そうだよ! レイラさん、すごく怖がってたもん!」  赤城は、二人の純粋な叱責に、ぐうの音も出ないというように苦笑を浮かべるしかなかった。 「……ああ、その通りだ。弁解のしようもない。僕の独善が彼女を深く傷つけた」  そして再び騎士に向き直る。 「騎士君とユンフェイ君が、最後に私を庇おうとしていたことは分かっている。感謝はしないが、その行動は記憶しておこう」  それは赤城なりの最大の信頼の表明だった。  それから騎士は本題を切り出した。  天竜の間で起きた異常現象について、詳細に語り始めた。 「黒い鍵、虎の縞模様……そして目か。もしそれが1体のデジモンだというのならそんな特徴を持つデジモンなど聞いたことがない。少なくとも僕の知識の範疇にはないな……」  彼は数秒間、目を閉じ高速で思考を巡らせる。それから1つの、しかしもっとも恐ろしい可能性にたどり着いた。 「……既存のデジモンではないとすれば、答えは1つだ。 デジモンイレイザーが作り出した『新種』、あるいは、未知の技術による『改造デジモン』だろう。  これは厄介なことになったな……」  赤城の声には、これまで見せたことのない、本物の焦りの色が滲んでいた。  脅威の正体が不明であること。それは、彼の緻密な計算と論理が通用しない可能性を意味していた。  そして、赤城は鉄格子越しに真剣な眼差しで騎士を見据えた。その瞳は、ズバモンとティンカーモンにも優しく諭すように向けられていた。 「よく覚えておきたまえ。君たちは僕の相棒のカイザーレオモンを知っているよな。彼はハイブリッド体だ。  ハイブリット体という名称は伝説の十闘士が遺した『スピリット』の力を受け継ぎ、人間がデジモンへと姿を変え戦う事例から来ている。  僕のは、混ざりっけなしの完全なデジモンだがね」  騎士は、その言葉に目を見開いた。 「人間が、デジモンに……? では、そのスピリットを隠し持った者が、犯人だと?」  赤城は、静かに首を振った。 「さぁな。そして、その逆もまた然りだ。強力なデジモンが人の姿を取ることだって、このデジタルワールドでは日常茶飯事と言っていい。  君が見ているものだけを信用することはできないということだ。姿形など、いくらでも偽れる」  その言葉は、この館にいる宿泊客の中に、「人間に化けたデジモン」や「デジモンに化けられる人間」がいる可能性を示唆していた。  それは、騎士の足元を揺るがす、新たな疑念の種だった。 「ここはゴッドドラモンの言う通り舘の中で最も安全だよ。食事もベーダモンが気を利かせてここまで運んできてくれるしな。  だが……もしも明日の朝、僕がこの牢から消えていたなら……その時は、君に全てを託す。頼んだぞ」  赤城はそう言うと、静かに目を閉じ、背を向けてしまう。彼の言葉は、騎士の心に重い楔として、深く、深く打ち込まれた。  交代時間となり、騎士とティンカーモンはロビーで待っていたユンフェイとディエースに夜警を引き継いだ。 「何か変わったことはあった?」  ディエースの軽い問いに、騎士は「何も」とだけ答えた。赤城との会話は、まだ誰にも話すべきではないと判断したからだ。  剣の達人であるユンフェイと、掴みどころはないが実力は確かなディエース。  騎士は、この二人ならば大丈夫だろうと、ある種の安心感を無理やり自分に言い聞かせ自室へと戻った。  日中の疲労と夜警の緊張。ベッドに倒れ込むように身体を横たえると、騎士の意識は糸が切れたように、急速に深い闇へと沈んでいった。  5.9:『ユンフェイの見た聖剣』  眠りの中で騎士の体内に宿る虹色の球体が、静かに、しかし確かな脈動を始めた。  騎士の意識は、己のものではない、誰かの過去へと飛んでいった。     ☆  アスファルトに染み込んだ昨夜の雨が、生温い空気を立ち上らせる。  ユンフェイは、目的もなく歩いていた。手にしたスマートフォンには、大手IT企業からの「不採用通知」のメールが冷たく表示されたままだ。  これで何社目だろうか。もう数える気にもなれない。 「985大学」──誰もが羨む国内トップクラスの大学の卒業証書は、今のユンフェイにとってはただの重荷だった。  入学した頃は、輝かしい未来が約束されていると信じていた。  しかし、現実は「内巻(ネイジュアン)」と呼ばれる終わりのない競争地獄。  自分より優秀な人間はいくらでもいて、彼らもまた数少ない安定した職を求めて必死にもがいていた。  昨夜の夕食の光景が脳裏に蘇る。 「お前の兄さんは、また昇進したそうだ。お前は一体いつになったら…」  父親の言葉は、ため息と共に吐き出された。向かいに座る母親は何も言わない。その沈黙が何よりも雄弁に失望を物語っていた。  金融街で成功を収めている二人の兄は、もはやユンフェイをいないものとして扱っている。  彼らにとって、卒業しても定職に就けない弟は一族の恥でしかなかった。 「まだ若いんだから選り好みしないでどこかにまず入ったらどうだ?」  選り好みなどしていない。プライドを捨て中小企業にも何十社と応募した。  しかし、返ってくるのは無慈悲なまでの「お祈りメール」か、良くて異常な長時間労働を前提とした低賃金の「996」求人だけ。  あまりの過酷さに、全てを投げ出して無気力に寝そべる「躺平(タンピン)」という言葉が、甘美な響きをもってユンフェイの心を誘惑する。  だが、それを許さない家族の視線が鉛のように彼を地面に縛り付けていた。  居場所がない。家にも、この社会にも。  ふと、ユンフェイは路地裏に寂れたゲームセンターの看板が灯っているのに気づいた。  子供の頃、兄たちに連れられて何度か来たことがある。  吸い寄せられるように中へ入ると、最新のVRゲームが派手な音を立てる中で、隅の方に古びたアーケードゲーム機が数台忘れられたように置かれていた。  その一台が奇妙な光を放っていた。 『WELCOME DIGITAL WORLD』  引き寄せられるようにユンフェイが画面に手を伸ばした瞬間、スマホがポケットの中で激しく振動し、画面が勝手に点灯した。  表示されていた不採用通知の文字が、緑色の0と1の羅列に変わっていく。 「!」  スマホから溢れ出した光が、ゲームセンターの筐体の光と共鳴し渦を巻く。  視界が真っ白に染まり強烈な浮遊感が全身を襲った。  父親の怒声も、母親の失望のため息も、兄たちの冷たい視線も、急速に遠のいていく。  意識が浮上すると、鼻腔をくすぐったのはアスファルトと排気ガスの匂いではなく、乾いた土と金属が錆びるような匂いだった。  ユンフェイが体を起こすとそこは見渡す限りの赤茶けた荒野だった。  雲にはモザイクのようなパターンが薄っすらと走り、時折データの欠片のような光が流星のように消えていく。  その非現実的な光景に呆然としていると突如、地響きと共に爆音が轟いた。 「何だ!?」  音のする方へ視線を向けると丘の向こうで激しい戦闘が繰り広げられていた。  チェスの駒、それも城壁を模したような巨人を筆頭に、重厚な陣形を組んでいる。  その中心で、褐色の肌をした凛々しい女性が冷静に腕を振り、指示を飛ばしていた。 「ルークチェスモン、防衛線を維持してください! ヴォルクドラモン、前へ! タンクモン隊は引きつけてから砲撃です!」  彼女の号令一下、屈強なモンスターたちが一糸乱れぬ動きで敵の攻撃を防ぎ、反撃に転じる。  統率の取れた、まさに軍隊だった。  それと対峙しているのは、統制も何もない、獣のような雄叫びを上げるモンスターたちの軍団だ。  炎の羽を持つ巨大な鳥や、神話に出てくるような飛竜の群れ。  数で圧倒しようと波状攻撃を仕掛けるが、ルークチェスモンたちの鋼の装甲に阻まれ、次々と弾き返されていく。  あまりの光景に、ユンフェイは現実感を失っていた。  あの「不採用通知」も、家族の冷たい視線も、まるで遠い世界の出来事のようだ。彼は本能的に近くの岩陰に身を隠し、ただ固唾をのんで戦いを見守った。  その時、足元で小さな物音がした。見ると、青い鱗に覆われた小さな竜の姿をしたデジモンが、傷つき、怯えきった様子で震えている。  その翼は破れ、つぶらな瞳には恐怖の色が浮かんでいた。 「……大丈夫か?」  思わず手を差し伸べると、小竜はビクリと体を震わせたが、ユンフェイに敵意がないことを感じ取ったのか、おずおずと彼の腕の中に潜り込んできた。  その小さな温もりが、凍てついていたユンフェイの心をわずかに溶かす。  これが、恐怖に怯える「ドラコモン」との出会いだった。  戦況は、指揮官の女性が率いるルークチェスモン軍の優勢で進んでいた。このまま押し切るかと思われた、その瞬間だった。  戦場に天を裂くような咆哮と共に、何かが現れた。  それは、まさしく暴竜だった。ティラノサウルスを彷彿とさせる獰猛な頭部、燃えるような赤い鎧に覆われた屈強な体躯。  そして何より目を引いたのは、両腕に備わった巨大な剣だった。  それは単なる武器ではなく、体の一部として融合しているかのように、禍々しくも美しい青白い光を放っていた。  竜人は、どちらの軍に味方するでもなくただその圧倒的な存在感を戦場に誇示していた。 「邪魔だ」  低く地を這うような声が響くと同時にその姿が霞んだ。  次の瞬間には、鉄壁を誇っていた亀のような怪獣の前に移動しており両腕の剣が閃光を放つ。  甲高い金属音と共に、分厚い装甲がいとも容易く豆腐のように切り裂かれた。  防御も、陣形も、戦略も、その絶対的な「個」の力の前に意味をなさなかった。  ユンフェイが息をのむ前で、戦場のパワーバランスは完全に崩壊した。  突如現れた竜人型デジモンの圧倒的な暴力は、統率された軍という概念そのものを嘲笑うかのように次々とその剣閃で薙ぎ払っていく。  追い詰められた女性指揮官は、しかし冷静さを失ってはいなかった。  その瞳の奥には、全てを覆すための冷たい決意が燃えていた。彼女は高く掲げたデバイスを握りしめ、叫んだ。 「もはや出し惜しみはできません!! ルークチェスモン、ヴォルクドラモン、タンクドラモン、メイルドラモンをデジクロス!」」  その号令が、戦場に響き渡る。  火山のような甲殻を持つ巨大な竜ヴォルクドラモン。  無限軌道を軋ませ銃火器を備えたタンクドラモン。  そして鋼の鎧を纏ったメイルドラモンが光の粒子となって分解され、一体の巨大なルークチェスモンへと殺到した。  城壁のごとき巨体が核となり、そこに火山の翼と砲塔が装着され、全身がさらなる重装甲で覆われていく。  それはもはや単なるデジモンではなく、戦略兵器と呼ぶべき威容を誇っていた。  翼から灼熱の空気を放ち、肩の砲塔が敵意をむき出しにする、まさに「鉄壁の移動要塞」。  その力は、先ほどまでの個々のデジモンとは比較にさえならないだろう。  だが、赤い竜人型デジモンは、自らを遥かに超える巨体を前にしてもなお、静かだった。 「グラニットガーディアンズ最強の守護神の前に震えて、声も出ないでしょう!」  興味深そうに、あるいは、つまらなそうに新たなる融合体を一瞥する。 「無駄にデカくなりやがって。ネオデスジェネラルである俺様の歩みを邪魔すんじゃねぇ」  そして、ゆっくりと両腕を天に掲げた。  両の掌の間に、大地から吸い上げた空間が歪むほどの高エネルギーが凝縮されていく。  世界中の光を吸い込んだかのような、灼熱の球体へと姿を変えた。太陽の如き絶対的な力の塊。  しかし、技はそこで終わらなかった。球体は急速に収縮しながら、凄まじい速度で回転を始める。  甲高い耳を劈くような高周波を放ちながら、その姿は光り輝く漆黒の円盤──―あらゆるものを切断する、死の円環へと変貌を遂げた。 「焼き斬れ」  竜人型デジモンが、技の名を宣告する。 「────『テラーズイグザーション』!」  放たれた光の円盤は、音さえ置き去りにして空間を裂いた。  デジクロスによって誕生した超巨大要塞は、その全砲門から迎撃の弾幕を放つが、すべてが無意味だった。 『テラーズイグザーション』は弾幕を霧散させ、重装甲をバターのように貫き、抵抗する時間すら与えずに、その巨大な胴体を一撃で両断した。  一瞬の静寂。 そして、デジクロス体が断末魔の叫びを上げる間もなく歪んだかと思うと大爆発を起こし、0と1のデータの嵐となって消滅した。 「そん……な……」  褐色の女性の顔から、冷静さとプライドが剥がれ落ちた。  そこに浮かんだのは、理解を超えたものに対する、原初的な恐怖。彼女の最強の切り札が、文字通り一撃で粉砕されたのだ。 「ひっ……!」  短く悲鳴を上げると、彼女は踵を返した。そして、まだ生き残っていた配下のデジモンたちに向かって、震える声で叫んだ。 「て、敵を食い止めろぉぉぉぉ! ここで私を守って死ぬのは貴様らの誉れと思え!!」  それは、もはや指揮官の命令ではなかった。  ただ生き延びたいという一心で、今まで忠誠を誓ってきた部下たちを「捨て駒」にする、卑劣な絶叫だった。  何らかのデバイスを操作すると、その足元にトランポリンのようなものが現れ、彼女の体は瞬く間に遠く離れた場所へと飛んでいた。  それを繰り返し、あっという間にその姿は見えなくなった。  戦場には、敬愛する主に裏切られたデジモンたちの絶望と、それを静かに見下ろす竜人型デジモンだけが残された。 「哀れだな。だが俺様は優しい。まとめて楽にしてやるよ。ダークネスローダー、強制デジクロス!」  褐色の女性が使っていたものよりも禍々しい形をした黒いデバイスを掲げると、残されたデジモンたちは1つに融合する。  彼らは合体することで強くなった。これならば大将を倒したこのデジモンにさえ勝てるかもしれない。そう考えた。  そして、暴竜はそれを容赦なく一太刀で斬り捨てると、はじめから何もない道だったかのように、ゆっくりと前へと進んでいった。  岩陰でそのすべてを見ていたユンフェイは、言葉を失っていた。  圧倒的な力。  その力の前では、忠誠も絆もたやすく踏みにじられるというこの世界の冷酷な現実。  しかし、ユンフェイには竜人のその圧倒的な姿が恐ろしいと同時に、どうしようもなく美しく映った。  ユンフェイはふと、思い出した。  子供の頃、アニメや映画のヒーローに夢中になった。  剣で悪を討つ孤高の剣士に強く憧れていた。  いつしかそんな気持ちは、受験戦争や「内巻」の波の中で擦り切れ、忘れてしまっていた。  社会の歯車になること、安定した職に就くことだけが正しいのだと、自分に言い聞かせてきた。  だが、今、目の前にいるのは何だ。  誰の指図も受けず、何者にも媚びず、ただ己の力と剣技だけで、この世界にその存在を刻み付けている。  腕の中で恐怖に震えるドラコモン。それを守る術を持たない無力な自分。そして、全てを切り伏せるあの圧倒的な剣。  ユンフェイの中で、何かが音を立てて繋がった。「985大学」の卒業証書も、大手企業の肩書も、ここでは何の価値もない。  ならば、何に価値がある?  ──強さだ。  あの竜人のような、絶対的な強さだ。  恐怖に震えるドラコモンを見て、ユンフェイは決意した。もう、他人の評価に怯えるのは終わりだ。  誰かが敷いたレールの上を歩く人生は、ここにはない。 「怖がるな」  ユンフェイは、ドラコモンに優しく語りかけた。その声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。 「俺は、あれになる。あの暴竜のように、強くなる。この世界で、剣の道で生きていく」  彼の瞳から、現実世界でまとわりついていた無気力と絶望の色が消えた。  燃えるような赤い鎧を纏う全てを焦がしたような黒き竜を映し、初めて確かな意志の光が宿った。     ☆  騎士は、窓から差し込む神々しい光で目を覚ました。  昨日までの、全てを飲み込むような静寂の闇とは全く違う。そこには、圧倒的な生命の律動があった。  窓の外に広がるのは、神々の創造を早送りで見ているかのような、奇跡の光景だった。  破壊され尽くした無の空間から、無数の光の粒子が、まるで天に昇る蛍のように立ち上っている。  その光が集まり、絡み合い、新たな地形のワイヤーフレームを構築していく。  緑のテクスチャが地面を覆い、岩や木々のポリゴンが瞬く間に形成されていく。  これが青嵐エリアの再生。  世界の始まりを見ているかのような、その神々しい光景のほうが、今の騎士にとって夢のようだった。  5.10:『3日目の犠牲者』  騎士は、自分が見たものについて考える。  あれは夢だった。だが、夢にしては、あまりにも鮮明すぎた。  不採用通知の冷たい感触、家族の失望のため息、そして、戦場で見た暴竜の圧倒的な存在感とそれを見つめる男の絶望と決意。  それら全てが、まるで自分が体験したかのようにリアルな手触りをもって騎士の記憶に刻み付けられていた。  あれは、ユンフェイの記憶だ。そう直感した。彼の抱える深い闇と、デジタルワールドに来てからのひたむきな姿が繋がり、胸に複雑な思いが込み上げる。 「ナイト、起きたのか? すげーぞ! 外がキラキラだ!」  ズバモンがベッドから飛び降り、窓に張り付いて歓声を上げた。  騎士もまた、重い体を引きずるようにベッドから降りると、ズバモンと共に食堂へと向かった。  食堂に足を踏み入れると、そこには嵐の後の晴れ間のような、穏やかな空気が流れていた。 「騎士さん! ディエースさん!」  レイラとワイズモンが、安堵に満ちた表情で駆け寄ってくる。 「騎士さんたちのおかげで、昨日は安心して眠れました! 本当にありがとう!」 「マジで! あんな物騒なことがあった後だったから、夜警してくれてるってだけで全然違ったっすよ!」  二人は心からの感謝を口にする。騎士は少し照れくさそうに頭を掻いた。  そのやり取りを見て、館の主であるゴッドドラモンも安堵したように微笑んだ。  彼の目元には深い隈があり寝不足は明らかだったが、その表情には久々の平穏への喜びが浮かんでいた。 「管理室のモニターから、皆様の無事を確認しておりました。騎士様、ユンフェイ様……そして、ディエース様とティンカーモン殿も。夜警、誠に感謝いたします」  彼は深々と頭を下げた。その姿は、このかりそめの平穏が、自らの築いた秩序の上にまだ成り立っていると信じている者のそれだった。  ベーダモンが腕を振るった豪華な朝食がテーブルに並び、一同はそれぞれの席に着いた。 再生を祝うかのような明るい雰囲気の中で、皆が食事を始める。  修復された自動調理器で、好きな食事を購入する者もいる。  しかし、いつまで経っても、ユンフェイの隣にあるはずの小さな席が空いたままだった。 「ティンカーモンは、寝坊かしら?」  ディエースが、自動調理器で作ったクロワッサンを頬張りながら屈託なく笑う。  ユンフェイも、「昨夜は遅くまで起きていたからな。無理もないだろう」と、その時はまだ軽く考えていた。彼の口元にはかすかな笑みさえ浮かんでいる。  しかし、朝食が終わる時間になってもティンカーモンは姿を現さない。ユンフェイの表情から余裕が消え、徐々に焦りの色が滲み始める。  異変を察した騎士が「俺が見てきます」と席を立とうとしたのをゴッドドラモンが制した。 「いえ、私が行きましょう」  重い足取りでゴッドドラモンが席を立つ。数分後、彼は血の気の引いた顔で戻ってきた。 「部屋は……もぬけの殻でした。争った形跡は、一切……」  その報告は、食堂の空気を一瞬にして凍てつかせた。ソク師範の消失。その悪夢の再来だった。 「まさか……また誰か消えたというのか!?」  ワイズモンが悲鳴に近い声を上げる。レイラの顔が蒼白になる。 「そんな……夜警はどうなっていたのですか!」  ゴッドドラモンが、夜警担当だったユンフェイとディエースに事情を問う。二人は顔を見合わせ、きっぱりと首を振った。 「我々が担当している間、異常はありませんでした。彼女の部屋から誰かが出てくる姿など、一度も見ていません」 「そうそう。アプモンたちがずーっとロビーで見張ってたもんね。絶対に見逃してないって!」  ユンフェイとディエースの証言により、ティンカーモンが最後に目撃されたのは、騎士が夜警を引き継ぐためにロビーで別れた時となる。  騎士の脳裏に、昨夜のティンカーモンの言葉が、呪いのように蘇った。 『私、もう見つけたんだ。ユンフェイを最強にする秘宝への『道』を』  一同は手分けして、館内をくまなく捜索し始めた。  ユンフェイは、普段の冷静さを完全に失い、鬼気迫る表情で「ティンカーモン!」と叫びながら駆け巡っている。  その時、ワイズモンが「そうだ! 赤城さんなら何か知ってるかも!」と叫び、地下牢へと向かう。騎士たちもその後を追う。  しかし、地下牢へと続く階段を下りるにつれ、肌を刺すような異様な空気が一行の足を鈍らせた。  鼻腔をくすぐるのは、カビ臭い湿気ではない。金属が焼ける焦げ臭さと、高密度のエネルギーが放つオゾンの匂い。  ゴクリと誰かが唾を飲む音が響く。扉の前にたどり着いた騎士が、意を決してその重い鉄の扉を押し開けた。  その瞬間、誰もが息を呑み、そして絶句した。  そこに広がっていたのは、もはや「牢獄」と呼べる空間ではなかった。狂気の斬撃が吹き荒れた、凄惨な処刑場そのものだった。  昨日まで赤城を閉じ込めていたはずの分厚い鉄格子は、もはや影も形もない。  まるで神話の獣に噛み砕かれたかのようにズタズタに引き裂かれ、高熱で溶解した鉄屑となって床に無残に散らばっていた。  だが、異常はそれだけではなかった。破壊は、牢全体に及んでいた。  石造りの頑丈な壁には、巨大な爪で引き裂いたかのような無数の斬撃痕が縦横無尽に走っている。  床も、天井も、まるで紙細工のように切り刻まれ、構造を維持しているのが奇跡に思えるほどだった。  そこには、憎悪や怒りといった生々しい感情すら感じられない。  ただ、対象の存在そのものを、この世から完全に抹消するという、冷たく、そして絶対的な意志だけが空間に満ちていた。 「こ、これは……一体、何が……」  ワイズモンが、震える声で呟いた。軽薄な態度は完全に消え失せ、その顔には原初的な恐怖が浮かんでいる。  あまりの光景に、レイラは「ひっ」と短い悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。  牢の中は、もぬけの殻だった。赤城も、彼のデジヴァイスの中にいたはずのカイザーレオモンも、その痕跡すら残さず、完全に消え失せている。  その異常な破壊痕を前に、レイラが呟いた。 「……レジェンドアームズか、スレイヤードラモンじゃなければ、こんな芸当は……不可能よ……」  その震える言葉と怯えた視線は、まるで呪いのように、騎士とユンフェイの心に突き刺さる。  2人の間に、疑念を通り越した、殺意にも似た冷たい空気が流れた。 「馬鹿な……! ありえん……!」  報せを受けたゴッドドラモンは、血相を変えて『天竜の間』へと急行する。騎士たちも、その後を追った。  しかし、神聖なる管理室で彼のプライドを待ち受けていたのは、完全な敗北だった。 「記録には……何の異常もないだと!?」  監視モニターには、鉄格子が無傷のままで、赤城が静かに座っている映像が、ただ延々とループ再生されているだけだった。  誰かがシステムに侵入し、記録そのものを完璧に改竄している。それは、昨日彼らを襲った黒い虎のデジモンイレイザーによる犯行を、強く、強く示唆していた。  自らが誇る館の絶対的な監視システムが、いとも容易く破られたという事実。それは、ゴッドドラモンのプライドと、この館の秩序が、根底から崩壊した瞬間だった。  狼狽するゴッドドラモンに、エリスが氷のように冷たい声で追い打ちをかける。 「記録が信用できない以上、もはや頼れるのは人間の記憶だけ」  彼女の冷たい視線が、凍りついたように立ち尽くすユンフェイを射抜いた。 「最後にティンカーモンと親しげにしていたのは、貴方。そして、この牢を破壊できるだけの剣を持つデジモンを従えているのも、騎士と……貴方だけよね、ユンフェイ」  全ての視線が、容疑者を見る目となって、ユンフェイへと突き刺さる。彼は、慕ってくれていた小さな妖精を失った悲しみと、突如向けられた疑惑の刃に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。 「待て!」  その絶望的な沈黙を、ドラコモンの鋭い声が切り裂いた。彼は、主人の前に飛び出すと燃えるような瞳でエリスを睨みつける。 「我が主を愚弄するのは許さんぞ! ユンフェイ殿がそのようなことをするはずがないだろう!」  彼は必死に、主人の無実を訴えた。 「ユンフェイ殿は、昨夜の夜警中、ずっとティンカーモン殿の身を案じていた! 彼女が無事に部屋に戻った後も、部屋の扉を何度も心配そうに見つめていた!  僕らはずっと見回りをしていた。それは、ディエースさんも証言できるはずです!」  ドラコモンがディエースに視線を向けると、彼女は面倒くさそうに肩をすくめた。 「そーそー。ユンフェイ君、ずーっとソワソワしてて面白かったよー。ティンカーモンちゃんのこと、大事だったんだねぇ。  だから、ユンフェイ君が犯人ってことはないんじゃないかな? 食堂が開くまでずっと見回りしてたんだからいつ消せるの?」  ディエースのあっさりとした証言で、ユンフェイの夜警時間中のアリバイは証明された。だが、エリスは少しも動じない。 「アリバイなんて、監視記録が改竄されている以上、どうとでもなるわ。  重要なのは『手段』。ティンカーモンの失踪理由は不明。でも、あの牢を破る手段を宿泊客の中で持っているのは騎士と貴方だけ。その事実は変わらないでしょう?」  三日目の朝。再生の光が満ちる館で、平穏は完全に崩れ去った。  底なしの疑心暗鬼と、見えざる敵への恐怖だけが、一同の心を支配し始めていた。