デジモンイモゲンチャー外伝The Knight's Lost Memories  1stMEMORIAL『空から落ちてきた女』  風がデータで構成された草の海を優しく揺らし、遠くのポリゴンで描かれた山脈が薄紫のシルエットを描く。陽光に照らされて金色の輝きを放つ、ここはデジタルワールドの広大な平原だ。  ロングコートをなびかせ、磨き上げられたブーツで軽快に進むのは、戦場騎士(いくさば・ないと)とその相棒ズバモン。  コートには、ズバモンのいたずらで描かれた「20」の白い文字が、陽光に映えてかすかに揺れる。  騎士は、この退屈になりがちな旅路を、隣で跳ね回るズバモンとの他愛もない会話で紛らわせるのが常だった。  ズバモンは小さな体を弾ませ、軽快な口調で話しかける。 「なぁ、ナイト! このあたり、めっちゃ平和じゃん! なんかド派手な事件起きねぇかな?」  そのお気楽な声に、騎士は片眉を上げて冷ややかに返す。 「余計なトラブルはごめんだ。静かに進むのが一番だろ」  だが、口調とは裏腹に、彼の唇には微かな笑みが浮かんでいた。ズバモンの軽いノリが、長い旅の退屈を紛らわせてくれるのだ。  その時、遠くで鈍い爆発音が響き渡った。空が一瞬赤く染まり、騎士が鋭い視線をそちらへ向ける。 「なんだ!?」 「なんか来るぞナイト!」  ズバモンが飛び上がり、空を指さす。見上げると、黒い影がものすごい勢いでこちらへ向かってくる。  騎士がディーアークを握りしめ身構える間もなく、その影は彼に直撃。草地をゴロゴロと転がり、騎士は地面に叩きつけられた。土埃が舞い、草の匂いが鼻をつく。 「ナイトぉ~無事かー!?」 「ぐっ……重っ……!」  下敷きになった騎士が呻く。  彼を押し潰していたのは、赤いボディスーツが体のラインを際立たせた一人の女性だった。  ファーのついたブーツを履いた足が、転がった拍子に騎士の足に引っかかり絡んでいる。  彼女は、慌てた様子で飛び起きた。 「うわっ! ご、ごめんってー! ねぇ君、大丈夫!? 怪我してない!?」  その声は、まるでこの日の陽光のように弾けていた。  だが、騎士は顔を真っ赤にして視線を逸らす。  転倒の衝撃と、潰されてもがくうちに、いつの間にか彼女の豊満な胸に手が触れてしまっていたのだ。  柔らかい感触に、咄嗟に手を引っ込めるも、もう遅い。  女性もそれに気づき、目を見開いて叫ぶ。 「き、君ぃ! ドサクサに紛れてどこ触ってんのよー!」  彼女の頬がみるみる赤く染まる。騎士はムッとして反論する。 「わざとじゃねぇ! つか、なんで空から降ってくんだよ!」  ズバモンは草の上で腹を抱えて笑い転げる。 「ハハッ! 騎士、女の人に押し潰されて、しかもセクハラって! 最悪じゃん!」  その言葉に、騎士の額に青筋が浮かぶ。 「うるせぇぞ、ズバモン! 黙ってろ!」 「ううぅー!! まったく、いきなり乙女のピンチを襲うなんて、悪い子はお仕置きしなきゃね!」  ゆったりとした袖から彼女は朱殷と黒に彩られたアプリドライブDUOを取り出す。  騎士はそれを初めて見たが、これまでの経験から自身が持つディーアークと同じようなデジヴァイスだろうと判断した。 「やる気か!?」  騎士は、ズバモンに目配せする。 「ズバモン、準備しろ!」 「オッケー! やっと面白くなってきたぜ!」  ズバモンが飛び跳ね、騎士はディーアークを構える。 「アプモンチップ! レデ……あれぇ……!? レイドラモンのチップどこぉ!? まさか落とした?」  がさごそと袖をまさぐりながら何かを探す女性とそれを呆れ顔で見守る騎士。 「なんでぇ……うそぉ……今あるアプモンチップこれだけぇ!? 神(ゴッド)も極(アルティメット)もどこいったのぉ……!? あーもう超(スーパー)ならなんでいいや!  アプモンチップレディ! アタクシ、注入!」  いただきました。  超アプリアライズ! ウラテクモン!  ウラテクモン! とは 『攻略』の能力を持つ アプモンだ!  ABILITY:攻略  TYPE:ゲーム  GRADE:(超)スーパー  POWER:13500  それは巨大な腕の生えたデカいゲーム機を頭に被った猿というような姿をしていた。このような存在を騎士は初めて見る。 「ウラテクモン……? 見たことのないデジモンだ」 「はー何もわかってないのねー。冥土の土産にお姉ちゃんが教えてあげるよ少年。ウラテクモンはデジモンじゃなくてアプモン!」 「少年!? 俺はもう16だ。子供扱いするな」 「子供じゃないならアタシの胸触った責任取ってぇ! 不同意わいせつ罪で捕まってぇ留置場で反省しなさいよー!!」  ウラテクモンがゲーム機らしきコントローラーを操作しながら飛び帽子の巨大な腕をズバモンめがけて振り下ろす。 「うわっ、危なっ!」  ズバモンは素早く横へ飛び退いた。ウラテクモンの拳が地面を叩きつけ、大地が揺れる。  叩きつけられた場所からは土煙が大きく舞い上がり、草が吹き飛んだ。 「アプモン……だと? だが、襲ってくるなら容赦はしない!」  騎士はディーアークを構え、ウラテクモンを見据える。  その目は冷静ながらも、目の前の未知なる存在への警戒を強めていた。  今の一撃は成長期のデジモンでは耐えるのは難しいだろう。おそらく成熟期に近い威力。  ならば騎士もまたズバモンを成熟期であるズバイガーモンに進化させ互角の条件で戦うのが基本。  だが騎士には他の手札があった。文字通り、デジモンカードが。 「カードスラッシュ! 高速プラグインH、ハイパーアクセル!」  高速プラグインによって素早さのあがったズバモンが、基本性能で勝っていたはずのウラテクモンを翻弄する。  騎士には自信があった。ズバモンならば1世代程度の差は、こうやって自分がカードで援護すれば容易く埋めれる差であると。  それは、これまで幾度となく共に窮地を切り抜けてきたパートナーへの信頼であった。  ズバモンもまた的確に援護を行う騎士を信頼しているからこそ、心に余裕を持って戦える。  素早さで勝ったズバモンを捉えることができず、ウラテクモンの空振りが続く。  そして大きく隙ができたところを、ズバモンは頭の剣で切りつける。 「ギャヒ~! ボス! こんなんじゃ俺様の『裏技』を使う暇もないウラ!」 「ディーアーク使いはこれだからなー。ア~タクシもアプリドライバーの戦いってやつを教えてあげちゃうよ~ん!」  そういうと彼女は袖からアプリドライブを取り出し、再びアプモンチップを読み込ませる。 「アプモンチップ! レディ!」  スリー! トゥー! ワン!  ウラテクモン! プラス レースモン!  ウラテクモンの背後に亀のヘルメットを被ったうさぎのようなアプモンがオレンジ色に光り輝き浮かびあがった。 「あれは……? ひとまず離れろズバモン!」 「おう!」  騎士の冷静な判断を受け、飛び退き様子を見るために距離を離そうとするズバモン。  だが、飛び退いた先に待っていたのは、先回りしていたウラテクモンが放った巨拳であった。 「うわああああ!」  ズバモンは自ら拳に飛び込んだ形になり、カウンターヒットで吹き飛んでいく。このダメージは大きいだろう。  これまでとは段違いにスピードが違うウラテクモン。一体何が起きたのか。 「これがアプモンの強み、アプリンクだよ少年」 「アプリンク……!?」 「レースモンはレースの能力を持つアプモン。アプリンクしたことでウラテクモンはその能力を獲得し、常に相手より速く行動できる。  たとえデジタルワールド最速のアルフォースブイドラモンやメルクリモン相手にだってね!」 「速さで勝てないなら! ズバモン、進化だ!」  その言葉に応えズバモンは四足獣の姿であるズバイガーモンへと進化を果たす。 「えー!? 成熟期に進化できるのに今までしてなかったのー!? まだ完全体や究極体、隠してるんじゃないでしょうねー?」 「さぁどうかな」  騎士はとぼけるが、これが彼らが繰り出せる今の全力だ。  ズバイガーモンの鋭い刃が陽を浴びてきらめき、戦いの場には緊張が走る。  先に動くのは当然ウラテクモンだ。相手より常に一手速い動きで拳によるラッシュを繰り出す。 「ウラウラウラウラウラウラウラウラウラウラウラウラァッ!」  ズバイガーモンはそれに対して尻尾の刃を使っての防戦一方だ。  騎士は冷静に相手の力を分析し始める。たしかにレースモンとやらの能力で速さでは勝てない。  しかし、それ以外のパワーやらはどうやら据え置きだ。  ズバイガーモンの体力を一瞬で削り切れるほどではない。やはりあのウラテクモンというのは成熟期と同格に近い。 「なら! カードスラッシュ! メタルアーマー!」  騎士が読み込んだ新たなカードの力によってズバイガーモンの体にメタルマメモンの兜のデータが付与されていく。  拳を捌くことを辞め、まともに受け止める。  ズバイガーモンの体はウラテクモンの拳から伝わる衝撃など、気にする必要もないほど硬くなっていた。  そして過剰な速さによる代償を受けることとなり、殴ったウラテクモン自身が拳を痛め悶える。 「ここからは俺のターンだぜ! 『ヴァンシオン』!!」 「ギャヒィィィ!?」  拳が通じず動きの止まった相手に対し、ズバイガーモンは体を一回転させ尻尾の刃で敵を切る必殺技、『ヴァンシオン』を放ち、ウラテクモンの体を切り裂く。 「ほー。やるわねー。今のお姉ちゃんの手持ちのアプモンじゃあのアーマーを攻撃で突破するのは、無理そうだねー。  たしかシエーンが前に言ってたわね。  普通のテイマーはデジモンを強く鍛え上げ、時にはアイテムでサポートする育てる力。  紋章持ちは人間が持つ美徳や悪徳でデジモンに影響を与え進化させる心の力。  デジソウル使いは人間とデジモンで対等に力を合わせることで生みだす協力という力。  ジェネラルは幾多のデジモンを従え状況に応じて1つにまとめる指揮能力と、その指示に従えるデジモンとの絆によって生まれる力。  そしてディーアーク使いはデジモンを状況に応じたカード捌きで支える、それをデジモンが信じて受け入れる信頼の力」 「……?」 「それでアタシたちアプリドライバーは、幾多のアプモンを状況に応じてリンクさせ組み替えることで、新たな未来を創り出す……全能にして創造の力だってね!  さぁーもう速さは要らない。なら次の手に行きましょ! アプモンチップ! レディ!」    スリー! トゥー! ワン!  ウラテクモン! プラス ゲンゴーモン!  今度はウラテクモンの後ろに鶏のような髪をしたアプモンが青い光りを伴って現れる。  一体今度はどのような能力を持っているのか。  そう思う間もなく、ウラテクモンから周囲に青白い光が広がって半径に円を作っていく。  デジタルワールドの平原を書き換えて、何かしらの領域が作られたのだ。 「"¡Oye, Caballero! ¿Qué hacemos?"(おい、ナイト! どうする?)」  ズバイガーモンがなにか言っているが、何を言っているのか騎士にはわからない。 「"Was ist das!? Was hast du gesagt, Zubaygamon?"(なんだ!? なんて言ったんだズバイガーモン)」 「"骑士? 啊,什么!? 那是哪个国家的语言!? "(ナイト? えっなに!? それどこの国の言葉!?)」 「ゲンゴーモンは翻訳の能力を持つアプモン。この力で、言語を崩壊させ意思疎通をできなくし信頼を崩す。  こういうのはシエーンがやる戦術なんだけどさー。アプモンチップがなさすぎてお姉ちゃんがやっても仕方ないよね!」  ディエースの言葉もまたどこかの国の原語に翻訳され、彼らには伝わらない。 (どうやらこの空間じゃ言葉が通じなくなっちまったみたいだ! 俺のカードすらもどこかの言語に置き換わって読めなくされている……!)  騎士たちはコミュニケーションを封じられて混乱する中、女性は次の手を打つ。 「ようやく隙ができたわねー。ここいらでお姉ちゃんが少年にすっごいウラテク見せちゃおっかー!」 「ウラテク巨大化コマンドウラー!!」  ウラテクモンが手に持っているコントローラーで素早くコマンドを実行すると、どんどん体が大きくなっていく。  そしてズバイガーモンを握りつぶせるほど大きくなった腕を撃ちつける。  それを避け切ることはできなかったズバイガーモンは、もろに食らって吹き飛ぶ。  メタルアーマーによる防御力の上昇がなければこの一撃で終わっていただろう。  いや、倒れ伏すズバイガーモンはまだ息があり体をなんとか動かせるというだけで勝負自体はもはや決まったも同然だ。 (どうすればいい!? 言葉を封じられたうえで敵は巨大化! デジタルだからって好き放題やりやがって!  まるで調子の悪いときに見る悪夢みたいだ。せめて英語に翻訳してくれたら分かるのに!)  騎士は考える。デジタルワールドでの旅は楽しかったが、危険も多かった。  その中で最も命の危険を感じた時があった。  落ちていたガラスの靴を拾ってしまった結果、究極体サンドリモンに襲われた時だ。  あの時と比べれば今の状況はそんなに悪くはないと思える。 (あの女はディーアーク使いの強みは互いを受け入れる信頼と言ってた。そのとおりだ。オレたちの信頼は言葉なんかなくても伝わるんだよ!)  もう一度、拳を振り下ろそうとする巨大ウラテクモン。  騎士は倒れたズバイガーモンを見据えると一直線で走り出す。 「えっ、なにしてるの少年!?」  その姿を見たズバイガーモンもまた騎士の意図を汲み取りその体を変化させる。  ズバモン、そしてその進化先であるズバイガーモンはレジェンドアームズと呼ばれる特別なデジモンだ。 『天使が持てば世界を救い、悪魔が持てば世界を滅ぼす』という言い伝えを持つ武器へと変形する事ができる。  ズバイガーモンが変形したのは剣。巨大な刀身と、その左右に爪のような意匠のついた剣だ。  騎士はその柄を握り締め今まさに、自身へと振り下ろされる拳へと向けて斬り上げる。  閃光が迸った。  ウラテクモンは真っ二つに斬り裂かれていた。  レジェンドアームズは武器となってこそ真価を発揮する。  その威力は、デジモンにとって絶対的な差を齎す世代差を超える力を与えるほどだ。  人間が振るってなお、その切れ味に変わりはない。いや、むしろ心から信頼できる人間が振るうからこそなのかもしれない。  ウラテクモンとゲンゴーモンがデータの光となりそれぞれのアプモンチップへと戻る。  色を失いディアクティブ状態へとなったアプモンチップは、しばらく使用不可能だ。  彼等を操っていた女性は一瞬の出来事に口を開けて唖然とする。 「どうだ……俺達の勝ちだ!」  騎士は相棒を掲げ勝ち誇る。  だが、その言葉に女性は両手を上げて肩を竦める。 「教えてあげるよ少年! パートナーを失ったら負けの大抵のデジモンテイマーと違って、アプリドライバーの負けってのはアプモンが消耗してアプリドライブのバッテリーが切れた時なの。  そしたらアプモンが残っていても負け。でも、残っているなら次のアプモンで戦えちゃうんだなぁ! アプモンチップ! レディ!」  バッテリモン プラス カードモン!  アプ合体! サクシモン!  サクシモン! とは 『シミュレーション』 の能力を持つ アプモンだ!  ABILITY:シミュレーション  TYPE:ゲーム  GRADE:(超)スーパー  POWER:21000  新たなる超アプモンの登場に騎士の心に絶望が宿る。  ウラテクモンをなんとか倒したとはいえ、ズバイガーモンはだいぶ傷ついている。一刻も早く手当てをしたかった。  しかし、まだ戦いは終わっていない。  あのサクシモンが今までと同じぐらい厄介な能力を持つアプモンならば、このまま戦いが続けば勝っても相棒の寿命が危ないかもしれない。  突然、女性の腹からグゥ~と情けない音が響いた。 「うっ……やば……腹減った……」  彼女は顔を押さえてその場に倒れ動かなくなってしまう。  同時に、サクシモンもまた光となりアプモンチップへと戻る。  あまりの急展開に、騎士は目を丸くする。 「お前……マジかよ」  騎士は深いため息をつき、戦意を失った女性を見下ろす。彼女の肩は力が抜け、まるで子供のようだ。  早急に回復フロッピーと絆創膏でズバモンの手当をしたのち、倒れ伏したままの女性をどうするか考える。 「……ほっとくわけにもいかねぇか」  騎士は渋々呟き、近くの集落に食事処があることを思い出す。 「おい、起きろ。ついてこい。腹空かせたままじゃ話にもならねぇ。オレが飯食わせてやる」  彼女の目がキラキラと輝く。 「マジ!? めっちゃいい奴じゃん少年!」  さっきまでの敵意は消え、彼女は一気に上機嫌だ。  ズバモンは「こいつ、ほんと調子いいな!」と笑いながら後を追う。  小さな食事処は、木造の暖かな建物で、香ばしいスープの匂いが漂っていた。  店主はティラノモンで、このあたりは恐竜型デジモンが多く生息する平原のため、自分も含め多く食べる彼等のためにボリュームを重視した食を出しているとのことだ。  女性は騎士の奢りで、山のような料理を次々と平らげていく。  デジモン向けの料理であるはずの色鮮やかで肉を主体としたザウルスピザやとんでもないボリュームのジュラシックバーガーを平然と食べ尽くす。  店主のティラノモンも「ダイナモンでもそんなに食わないぞ人間すげぇな」と言い出すほどだ。  騎士の支払いが10000BITを軽く超えたところで満足げに頬を緩め、ようやく落ち着いた彼女は、口元を拭きながら話し始めた。  彼女の名前はディエース。  アプリモンスターズカンパニー、通称アスタ商会を経営する二人の仲間と共に、空を飛ぶ船であるデジシップでデジタルワールドを駆け巡っていたのだが、  デジモン同士の戦いの流れ弾か何かが偶然当たり、その時ちょうど甲板に出ていた所を放り出されたのだという。  その際、彼女にとってのパートナーデジモンと言えるバディアプモンだったレイドラモンとも逸れ、さらに手持ちのアプモンもほとんどがまだデジシップに居るだろうという。  そしてここ最近は新商品の研究開発に夢中になって食事を抜かしてたためこんなに食べただけで普段はそんな食べないのだと言い張っている。  乙女として見栄を張っているのだろう。騎士は余計なツッコミを入れずに黙って聞いていた 「じゃあ普段はダイナモンぐらいってこと!?」  ズバモンは容赦なくツッコんだ。  ディエースは赤面し袖で顔を隠した。 「まぁこれで恋人でもないのに初対面のお姉ちゃんのおっぱい揉みしだいたことはチャラにしてあげるよ少年」  ディエースの言葉に、騎士も顔を赤くする。 「チャラって……お前、まだその話引っ張るのかよ!」 「ナイト、顔真っ赤じゃん! ディエースに完敗だな!  ズバモンは横でケラケラと笑いながら追い打ちをかける。 「だから少年の奢りでこんなご馳走食べられたんだから、許してあげるってば! でもさ、次はアタシと一緒に冒険しない? アプモンとデジモンの夢の共演、面白そうでしょ?」  とウインクしながらディエースは微笑みかける。  騎士は考えたのち、「お前と一緒に旅をするのはとても苦労しそうだな」と言いながら、唇には微かな笑みが浮かんでいた。    デジモンイモゲンチャー外伝The Knight's Lost Memories  2nd MEMORIAL『嵐の舘』  Chapter1『嵐からの逃亡』  1.1『穏やかなりし列車旅』  窓に額を寄せると、ひんやりとしたガラスが触れた。  デジタルワールドの風景が、柔らかな緑の波となって目の前を流れていく。  リズミカルな車輪の音が心地よく響き、揺れに身を任せながら、騎士はただその景色に目を奪われていた。  窓の外には、広大な草原が広がっている。陽光がデジタルデータの粒となってきらめき、風がそよぐたびにポリゴンで出来た草が波のように揺れる。  遠くの丘では、トリケラモンがのんびりと草をはんでいる。  角の生えた巨体がゆっくりと動き、口元で草をむしゃむしゃと噛む姿は、どこか牧歌的で微笑ましい。  時折、首を振って鼻息を鳴らすと、近くのフラウモンたちが驚いて花びらを散らし、色とりどりの花弁が風に舞う。  やがて、視界に川が飛び込んできた。  ピヨモンたちが水辺で羽をぱたぱたさせ、キラキラと輝く水しぶきを上げている。  少し離れたところでは、ゴマモンが水面を滑るように泳ぎ、楽しげにくるりと回転する。  川辺にある公衆トイレに急いで駆け込むエアドラモンの姿もあった。  自販機でジュースを買って飲んだが味が不味かったのか苦い顔をしているテイマーと、どうやら悪戯が成功して笑っているピコデビモンも見える。  おそらく彼らは騎士とズバモンのようにパートナーなのだろう。 「平和だな……」  つい口をついて出た。デジタルワールドは、こんなにも穏やかな場所だったか。  戦いの記憶も遠く、ここではただ時間がゆっくりと流れている。 「いやぁレッシャモンあってよかったぁ!! 少年、こんな移動手段初めてでしょ?」  ディエースは座席にふんぞり返り、足を組んで得意げに笑う。  赤いボディスーツは、窓から差し込む明るい光に映え、彼女のボディラインを強調していた。  レッシャモンは、乗換アプリから生まれた蒸気機関車のような姿をしたアプモンだ。  黒いボディに、煙突から白い蒸気を吐き出し、車輪が地面をガタゴトと力強く叩く。  客車をつけたその車体は、このデジタルワールドを疾走するために生まれたかのような威容を誇る。  車内は未来的な雰囲気に満ちており、壁には青を基調とした幾何学的なデジタル迷彩が複雑に走っている。  天井には鮮やかな青い発光ラインが交錯し回路のように浮かび上がり輝いている。  窓からは明るい光が差し込み、車内のハイテクな内装を際立たせている。  座席は赤い背もたれに鮮やかなピンクの発光ラインと、金色の枠が施されており、全体的に先進的かつダイナミックな空間を演出している。 「まぁ悪くない」  騎士はまた窓の外に目をやる。  ティラノモンが一頭、こちらをちらりと見て、まるで挨拶するように首を傾げた気がした。  ズバモンは座席の上で飛び跳ね、頭の剣をキラリと光らせながら無邪気に笑う。  彼らは今、宛もなく気ままな旅をしている。  騎士はディエースに自らの仲間を探さないのかと聞いたが、GPSの能力を持つサテラモンがあるのだから、そのうちあちらから迎えにくるだろうとのことだ。 「全部アプモン頼りだったから電話番号もメールもその他連絡手段も覚えてないしさ。ま、それまでは休暇と思って楽しめばいいじゃん」  ディエースはケラケラ笑いながら、座席の背もたれに体を預けた。  そうして進む中、豊かな平原に反して、段々とデジモンたちの姿が少なくなっていく。  騎士が不審に思ったその時、レッシャモンの車体が大きく揺れ、けたたましい警笛が響き渡った。  1.2:『黒い嵐』  窓の外では、雲が厚みを増し、紫電が空を裂く。デジタルワールドの天候が急変し、データが乱れ空間にノイズが走りだす異様な空気が漂い始める。  周辺にいた僅かなデジモンたちは何かを察したのか、全速力で走り出していく。 「な、なんだ!?」  騎士がディーアークを握りしめ、窓に飛びつく。  ディエースも慌てて立ち上がり、アプリドライブDUOを手に持つ。  レッシャモンの車内スピーカーから低く響く声が答える。 「前方に高エネルギー反応。黒い嵐が接近中。エリア崩壊の危険有り」  騎士の顔が強張る。ズバモンは窓に張り付き、外の様子を覗き込む。 「ナイト、ヤバいぞ! あれ、見てみろよ!」  遠くの地平線では、黒い渦が地面を抉りながら迫ってくる。地面は砕け散り、草や岩が吸い込まれるように消えていく。  逃げ遅れたデジモンは容赦なく飲み込まれ、その体のテクスチャを剥がされ、ワイヤーフレームからポリゴンが奪われ存在を失っていく。  まるで世界そのものが解けていくような光景だ。 「なにこれー!? えーっとえーっとガッチモンはないし……ジショモンなら分かるかなー!?」  ディエースはアプリドライブにアプモンチップをセットし、素早く操作する。 「アプモンチップ! レディ! アタクシ注入!」 『スリー! トゥー! ワン! アプリアライズ! ジショモン!』  巨大な本の形をしたアプモン、ジショモンが車内に現れる。  ページが自動でめくれ、輝く文字がホログラムのように浮かび上がる。 「デジタルストーム。特殊な地域、青嵐エリアで自然発生する現象。  一定期間ごとにエリアを崩壊させ、その後、新たなる環境を再生することでデジモンの新たな進化を探る実験的エリアと思われる。  このエリアを記したデジタルワールド百科事典にある記録によれば、近くにはデジタルストーム現象を凌ぐための避難所及び宿泊施設として機能する『青嵐の館』が存在。  座標は……」  ジショモンの落ち着いた声が、座標データを投影する。ディエースが目を輝かせる。 「よっしゃ! レッシャモン、ジショモンをアプリンクしてこの座標に全速力で向かって!」 「ラジャー。レッシャモン、急行列車として運行を開始します。次は青嵐の舘~青嵐の舘~」  レッシャモンの車体が唸りを上げ、煙突からさらに勢いよく蒸気を噴き出し、荒れ狂う風の中を突き進む。  騎士はディーアークを握りしめ、窓の外の嵐を見つめる。 「青嵐の館、か……。こんな嵐の中、無事にたどり着けるといいんだが……」  ズバモンが肩を叩き、ニヤリと笑う。 「ナイト、そう不安になるなって! ディエースのおかげでなんとか逃げ切れそうじゃん!」 「その通り! Sランクアプリドライバーのア~タクシ、ディエースちゃんと一緒なら、どんな冒険も楽勝よ!」  ディエースがウインクしながらその豊満な胸を張る。  だが、その瞬間、レッシャモンが再び大きく揺れ、車内に緊張が走る。  デジタルストームの咆哮が、すぐそこまで迫っていた。  1.3:『赤いスピード狂』 「なぁ本当に大丈夫か!?」 「少年は心配性だねぇ~! 電卓アプリのカリキュモンに計算させてみよっか!」  ディエースの声が車内に響くや否や、彼女はアプリドライブDUOを掲げ、素早くアプモンチップをスロットに差し込んだ。  すると、車内にキラリと光る光沢のあるシルバーボディをしたアプモン、カリキュモンが現れた。  その体には計算用のキーが埋め込まれている。 「カリキュモン、デジタルストームの速度と軌跡を計算よろしく! 青嵐の館まであと何分でたどり着ける? 今のレッシャモンで間に合う!?」  ディエースが矢継ぎ早に指示を出す。カリキュモンのディスプレイが一瞬暗くなり、けたたましい打鍵音が響く。  カリキュモンは即座にレッシャモンのシステムとリンクし、車内のデジタル迷彩パネルに数式とグラフを投影し始める。 「計算完了。デジタルストームの現在速度:時速300キロメートル、進行方向:北北東。  レッシャモンの現在位置から青嵐の館までの距離:15キロメートル。現在の速度で進行した場合、到達予測時間:3分42秒。  ただし、ストームの加速率を考慮すると、1分以内にデータ破壊圏に巻き込まれる可能性73.4%」 「73.4%!? やばいって、姉ちゃん!」  ズバモンが頭の剣を振り回しながら叫ぶ。騎士はディーアークを握りしめ、窓の外を睨む。黒い渦はさらに勢いを増し、地平線を飲み込むように迫ってくる。  地面が震え、ポリゴンが剥がれ落ちる音がまるで悲鳴のように響く。 「27.6%の可能性に賭けるしかないのか……?」 「ふっふーん。まだわかってないようだね少年。アプリドライバーとは望む未来を創造する者だと! 追い越されそうなこの状況下なら……」 「なにをす……あっ!」  ディエースの言葉に、騎士の背筋に寒気が走る。  前回の戦いで彼女の戦術を知る騎士には、ディエースの企みが手に取るようにわかった。  そして、それが実行されたらとんでもない事態になることも。 「ズバモン!! 備えろ!」 「えっ? 備えろって何だナイト!?」 「アプモンチップ! レディ!」 『スリー! トゥー! ワン! アプリンク! レッシャモン! プラス レースモン!』  アプリンクしたことでレースモンの能力を得たレッシャモンの速度はデジタルワールドの物理法則を無視するかのような速度に達した。  かつては安定していた車輪のリズムが、容赦なく甲高い金切り声に変わり、近未来的な車内は天井の青く光る回路線を不規則に明滅させる激しさで振動した。  座席はガタガタと音を立て、荷物は床に叩きつけられ、急加速の混乱の中で転げ落ちた。  騎士は座席にしがみつき、ディーアークを握る指の関節を真っ白にし、あまりの激しさに体を押し返した。  不意を突かれたズバモンは座席から滑り落ちて通路に転げ落ち、剣のような角が金属音を立てて床に刺さる。  ディエースは混乱をよそに自信たっぷりに立ち、赤いボディスーツが明滅する照明の下でキラキラと輝き、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。 「レッシャモン+レースモン=究極のスピードマシン! ヒャア~~~!! このスリルとスピードぉぉぉぉぉぉぉ~~~!!  たまらなぁぁぁぁぁぁ~~~~~~い! 最速最強最速最強最速最強最速最強最速最強最速最強!!」  嵐を置き去りにする狂った高笑いが車内に響きわたるのを聞きながら、騎士は気を失った。  Chapter2『舘での出会い』  2.1:『館の主、ゴッドドラモン』  青嵐の館は、大きな風車のような外観をしていた。  土台こそオランダに存在する風車(ふうしゃ)のような塔だったが、ついている羽は色鮮やかな八重の風車(かざぐるま)だ。  そして瓦の屋根からはバカバカしいほど大きな風鈴が垂れ下がっており、塔の上には風速計とコカトリモンを模した風見鶏が回っている。  このような様々な要素が融合した混沌とした建築はデジタルワールドの至るところで見られるものだ。  デジタルワールドに来たばかりの人間ならばともかく、騎士もディエースもその奇妙な外観に驚くようなことはない。  入口となる扉は存在せず、手前にある複数のワープゲートによって内部へと入れる仕組みだ。  ワープゲートは巨大なデジモンを想定したものもあり、騎士たちはレッシャモンに乗ったまま入ることが出来てしまった。    舘の内部もまた奇怪ながらも綺麗なものだった。外観で見た通り、内部の壁はレンガ調のテクスチャで覆われていた。  床は磨かれた黒い大理石のような素材で、足を踏み入れるたびにカツカツと軽い音が響く。  天井は高く、複雑な幾何学模様が刻まれたアーチが交差し、青と緑の光が柔らかく瞬く。まるで星空を閉じ込めたような幻想的な雰囲気だ。  中央の空間には巨大な水晶の柱がそびえ立ち、内部でカラフルな光が螺旋状に流れ、まるで生きているかのように脈動している。 「すっごいねーこれ! めっちゃオシャレじゃーん!?」  レッシャモンから降りたディエースが目を輝かせ、アプリドライブを手にキョロキョロと周囲を見回す。 「ジショモン、この館のこともっと教えて!」  ジショモンがページをパラパラとめくり、ホログラムの文字を投影する。 「青嵐の館。デジタルワールドの避難所兼宿泊施設。  デジタルストームの影響を受けない特殊なバリアに守られており、内部ではデジモンやテイマーが一時的に休息を取ることが可能。  館の管理者はゴッドドラモン。施設内には自動で稼働するサービス機能が備わっており、宿泊者に食料や寝室を提供する。  また、館の水晶柱はデジタルワールドの環境データを記録し、デジタルストームの発生周期を予測する機能を持つとされている」 「詳しいですね、ご客人。しかしその情報はもう古いものですね。自動調理はやってないんです。数年前に壊れてしまいましてね」  そう話しかけてきたのは館の主であるゴッドドラモンだ。筋骨隆々とした腕を持つ東洋竜の姿をした彼は、両手を合わせながら丁寧に騎士たちを迎え入れる。 「えーっ! そうなの!? じゃあ、ご飯どうすんのよー!」 「ご安心ください。現在はベーダモンが調理を担当しております。レパートリーは少なくなりましたが、自動調理機よりも味は保証いたしますよ」  その言葉を聞くと、ディエースはすぐに機嫌を直し夕飯のことで頭がいっぱいになっているようだ。  その隣で、戦場騎士は冷静に周囲を見回している。彼の相棒であるズバモンは、すでに館の水晶柱に興味津々で、柱の周りをぴょんぴょんと跳ね回っていた。 「ったく、お前は少しは落ち着けっての」  騎士が呆れたように言うと、ズバモンはいたずらっぽく舌を出した。 「ま、いーじゃん!」  ディエースが騎士の腕を掴んで揺さぶる。  ゴッドドラモンは、ロビーの一角にある受付カウンターへと騎士たちを促した。 「まずは宿泊の登録を済ませていただきましょう。それぞれのデジヴァイスを軽く読み込ませていただければ結構です」  騎士はディーアークを取り出し、ゴッドドラモンの前に差し出した。  ゴッドドラモンはそれに軽く触れると、水晶柱から淡い光が放たれ騎士とズバモンのデータが登録されていく。 「戦場騎士殿、ようこそ青嵐の館へ。ズバモン殿もごゆっくりお過ごしください」  次にディエースが自身のアプリドライブを差し出す。彼女も同様に登録を終えはしゃいだ声を出した。 「これでアタシたちも晴れて青嵐の館のお客様ってわけね! やったー!」  ゴッドドラモンは、二人に宿泊エリアの場所を案内した。 「お二人の部屋は三階の10号室と11号室でございます。螺旋階段を上がって右手にお進みください。  何かご不明な点がございましたら、いつでも私にお声がけください」  ゴッドドラモンに促され、騎士とディエースは宿泊エリアへと向かった。 「こちらの部屋になります、ごゆっくりお過ごしください」  右手にあった螺旋階段を登り、騎士とディエースはそれぞれ自身の部屋に案内された。  宿泊エリアは3階と4階に広がって存在しており、各階には細い回廊に沿ってトランプが描かれた26の個室が存在し、左右で赤と黒にわかれていた。  ゴッドドラモンの案内でそれぞれに割り当てられた部屋に入ると、騎士はまず荷物を置いた。  シンプルな内装だが、ベッドと小さな窓があり、外のデジタルストームの音が微かに聞こえてくる。  ズバモンはさっそく部屋の中を飛び回り、物珍しそうに壁や天井を眺めている。 「ふぅ、ようやく落ち着けるな」  騎士が小さく息をつくと、ディエースがひょこっと顔を出した。 「ねーねー、少年! これからどうする? アタシ、なんか暇になってきちゃった!」 「俺はトレーニングルームに行く。ズバモンのレベル上げもしたいしな」  館内の施設が書かれたパンフレットを見ながら騎士は言った。 「えー、つまんなーい! アタシもついてこうかなー。でも鍛えるとかアプモンには意味ないしなー」 「意味がない?」 「デジモンと違ってアプモンはステータスが変動することはないの。だから同じアプモンなら全く同じ能力値で個体差はなし。  アプモンが持つ七属性への耐性を調整することは出来るんだけどそれくらいね。その僅かな調整で差が出るからアプリドライバー同士の戦いは面白いんだけど」 「ふーん。俺、強くなれるデジモンに生まれてよかったー!」  ズバモンはそういいながらファイティングポーズを取りシャドーボクシングのような動きを始める。 「じゃあアタシは談話室でも行ってみるよ! なんか面白そうな人いるかもしれないし!」  結局、ディエースはそう言い残し、さっさと自分の部屋へ戻っていった。  2.2:『騎士の再会』  騎士は一人で館内を進み、5階にあるトレーニングルームの扉を開けた。  そこではデジモン育成の基本的なトレーニングが可能になっており、すでに器具を使用している先客の姿があった。  一組は長髪の剣士だった。彼はデジソウルを纏った木剣でスレイヤードラモンと実戦さながらに打ち合っている。  そして長髪の剣士に熱い目で応援を送るティンカーモンがとても目立っていた。  もう一組は魔女のようなトンガリ帽子を被った金髪の女性。彼女はパートナーであるフローラモンと共に、ストイックな表情でトレーニングに打ち込んでいる。 「……エリス?」  騎士は彼女のことはよく知っていた。エリス・ローズモンド、かつて共に荒くれ者のデジモンから小さな集落を守ったことがある。  軽い挨拶ぐらいはするべきかと逡巡する間にズバモンがエリスとフローラモンに勢いよく近づくと、騎士は一瞬ためらいながらもその後を追う。  トレーニングルームは、剣士の放ったデジソウルの残響と汗の匂いが混ざり合い、ほのかに熱を帯びている。  エリスは器具のそばでフローラモンに指示を出しながら、騎士とズバモンを鋭い視線で一瞥する。  美しい金髪がトンガリ帽子の下で揺れ、青い瞳にはまるで獲物を値踏みするような冷たさが宿っている。 「よっ、フローラモン! 久しぶり! どんな技鍛えてんだ~?」  ズバモンの無邪気な声が響くと、フローラモンは花弁を揺らし、驚いたようにエリスを見る。  エリスは眉をひそめ、ズバモンをじろりと観察してから、騎士に向き直る。 「……あなたのパートナー、相変わらず賑やかね」  エリスの声は氷のように冷たく、言葉の端々に探るような棘がある。騎士は彼女の顔を見て、胸にちくりと痛みを感じる。 「エリス、久しぶり。覚えててくれると嬉しいけど。前にブラックワーガルルモンと戦った時以来だよね」  騎士は気まずさを隠しながら軽く笑ってみせるが、エリスの反応はそっけない。 「ああ、そんなこともあったわね。で、こんなところで何? ただの偶然かしら?」  彼女の口調には、騎士の意図を試すような不信感が滲む。騎士は一瞬言葉に詰まる。  前はもっと気さくに話しかけてきたはずだ。彼女の変化に、騎士の心にざわめきが広がる。  かつてのエリスはもっと……温かかった。一緒に戦った時、彼女は分析的ではあったが、笑顔を浮かべ、仲間を気遣う優しさを見せていた。  あの頃の彼女は、こんな冷ややかな瞳をしていなかった。 「うん。偶然、かな。デジタルストームに追われて、たどり着いたのがここでさ……」  騎士の話に、エリスは小さく鼻を鳴らす。 「ストームから逃げてきた、ね。随分都合のいい話。青嵐の館に来る人間は、たいてい何か事情があるものよ。例えば良からぬことを企んでいたり、ね」  エリスの言葉に、騎士は眉をひそめる。彼女の声には、かつての仲間への信頼のかけらもない。  マフィアと戦った時は、エリスは騎士の戦い方を褒め、フローラモンとズバモンが並んで笑い合っていた。  騎士はエリスの変化に戸惑いながら、慎重に言葉を選ぶ。 「企むって……。前に一緒に戦った時、結構いいコンビだったはずだろ。フローラモンとズバモンも、仲良くやってた」  騎士は過去の記憶を掘り起こし、エリスに訴えかける。だが、エリスは一瞬目を伏せ、唇に苦い笑みを浮かべる。 「仲良く、ね。……あの頃は、私も甘かったわ。デジタルワールドじゃ、信頼なんて脆いものよ。あなたのパートナー、ちょっと無防備すぎるんじゃない?」  エリスの視線がズバモンに向けられる。 「え、俺!? 無防備じゃねえよ! いつでもバッチリ戦えるぜ!」  ズバモンは頭の剣を振り回しながら胸を張る。  フローラモンがくすっと笑い、花弁から甘い香りが漂う。 「ズバモン、相変わらず元気だね……。ねぇエリス、ちょっと話してみたら? 昔みたいにさ。前は騎士と一緒に戦うの楽しかったって言ってたじゃん?」  フローラモンの優しい声に、エリスは一瞬表情を緩めるが、すぐに冷たい仮面に戻る。 「フローラモン、余計なこと言わないで。……昔は、昔。もう関係ないわ」  騎士はエリスの言葉に胸が締め付けられる。彼女の声には、深い傷の痕跡がある。  一体、彼女になにがあったというのだろう。  トレーニングルームの反対側からは、剣戟の音が響く。剣士とスレイヤードラモンが模擬戦はいよいよクライマックスとなり激しさを増していく。 「ユンフェイ! かっこいいぞー!」  ティンカーモンは剣士を応援し忙しなく飛び回っている。  エリスはそちらを一瞥し、呟く。 「……あの剣士、少なくとも騒がしいだけじゃないわね。動きに無駄がない」  彼女の言葉は、ズバモンや騎士への間接的な皮肉のようにも聞こえる。 「騒がしいって……まぁ、ズバモンは確かに賑やかだけどな……。エリス、昔の君の方が、ズバモンと似ていた気がする。  ほら、あいつらを倒して、一緒にジュース飲んだ時さ、一緒に思いっきり笑っただろ?」  騎士は少し強引に過去を振り返る。エリスの目が一瞬揺れるが、すぐに硬い表情に戻る。 「子供っぽい思い出話はいいわ。騎士、あなたもデジタルワールドで生き延びたいなら、もっと用心しなさい。純粋さなんて、ここじゃただの弱点よ」  エリスの言葉は鋭く、騎士の心に突き刺さる。だが、フローラモンがそっとエリスの袖を引く。 「騎士、ズバモン、ごめんね。私達もあれから色々あったの……」 「……もう行くわよフローラモン。そろそろ休憩しましょう」    2.3:『剣士との出会い』  そうしてエリスとフローラモンがトレーニングルームを去った後、騎士はしばらくその場に立ち尽くしていた。  エリスの冷たい言葉と、かつての温かな笑顔のギャップが、騎士の心に重くのしかかる。彼女に何があったのか。  考えを巡らせても、答えは見つからない。  ズバモンはそんな騎士の様子を気にもせず、トレーニング器具に飛びつき無邪気に叫ぶ。 「ナイト! 俺もなんか鍛えようぜ! このマシン、めっちゃカッコいいぞ!」  その時、トレーニングルームの反対側から、剣戟の音がピタリと止んだ。剣士とスレイヤードラモンの模擬戦が終わったらしい。 「ユンフェイ! 最高だったよ~! ますます惚れちゃう~!」  小さく跳ねながら叫ぶ声が響く。  ユンフェイと呼ばれた男は木剣を収め、汗を拭いながらゆっくりと騎士たちの方へ歩み寄ってくる。  長い黒髪が漢服の裾とともに揺れ、彼の落ち着いた雰囲気がトレーニングルームの熱気を一瞬和らげる。 「君も……私と同じ剣士だな」  ユンフェイの声は低く、穏やかだが、どこか相手を試すような響きがある。  彼の鋭い眼差しが騎士を捉え、続けてズバモンに視線を移す。 「ほう、噂には聞いたことがある。武器になるデジモン、レジェンドアームズに巡り会った者か。剣に生きる者として、羨ましいな」  ユンフェイの言葉に、ズバモンが目を輝かせる。 「お! スゲー剣技の剣士さんが俺のこと褒めてくれてる? やったぜナイト!」  騎士は少し気を取り直し、ユンフェイに軽く会釈する。 「えっと……あのスレイヤードラモンとの練習、すごい剣戟でしたね」  ユンフェイは小さく微笑み、木剣を肩に担ぐ。 「ふむ。見ていたか。私の相棒とは長い付き合いだ。剣は心を映す鏡……互いの信頼がなければ、あの動きはできん」  彼の言葉には、武者修行を通じて磨かれた信念が滲む。  スレイヤードラモンから退化したドラコモンが、ユンフェイの横でにやりと笑う。 「ユンフェイ殿と四大竜の試練を突破したこの俺の剣技の前に、敵は居ませんよ」 「究極体へと進化を果たしたことで高ぶるのは構わんが調子には乗るなドラコモン。奢りは剣を鈍らせる」 「す、すいませんユンフェイ殿」  四大竜の試練。  ゴッドドラモン、チンロンモン、メギドラモン、ホーリードラモンの4体の竜型デジモン究極体が、同じ竜型デジモンへ与える試練。  突破したものはスレイヤードラモンへと進化を果たすことが出来るという話は、旅の中で騎士も聞いたことがある。  このドラコモンはそれを突破しスレイヤードラモンへと進化することの出来た実力者ということだろう。 「相棒がすまんな。私はチェン・ユンフェイ(陳雲飛)だ。君の名も聞きたい」 「戦場騎士です」 「騎士か。どうだ。明日の昼にでも私の練習に付き合ってもらえないか? 伝説の武器デジモンの担い手だ。君も剣の腕は相当な実力者と見た」 「わかりましたユンフェイさん。俺も剣には自信がありますから」  騎士は珍しく即答した。彼の剣技には同じく剣を扱う者として心を揺さぶられる物があったからだ。  ユンフェイから学べば自分たちはもっと強くなれる。そんな気がしていた。 「ところであそこでユンフェイを見てるティンカーモンはなんなんだ~?」  ズバモンがずっと思っていたことを尋ねる。 「この嵐に巻き込まれようとしていたところを私たちが助けここへ連れてきたのだ。それ以来、付きまとわれている……」 「当然でしょう。俺のユンフェイ殿はかっこいいですから!」  ドラコモンのパートナー自慢に苦笑しながら、ユンフェイは首を振る。 「馬鹿なことを言ってないで、休憩が終わったらトレーニングに戻るぞドラコモン」  騎士もまた当所の予定通りズバモンを器具で鍛えさせることにした。  しばらくズバモンのトレーニングに没頭していると、トレーニングルームのスピーカーからゴッドドラモンの声が響く。 「宿泊者の皆様へ。まもなく館内で交流イベントを開催します。  談話室にお集まりください。嵐が収まるまでの3日間、共に過ごすこととなる仲間たちとの絆を深める機会です」  あまり気乗りはしなかったが、行かないのも面倒になると思い騎士はトレーニングを辞め、ユンフェイたちと共に談話室へと向かうこととなった。  ロビーの左側にある談話室は、暖炉が壁に埋め込まれており、柔らかなオレンジ色の光が部屋を照らしていた。  すでに今回の宿泊客の大半が集まっているようだった。その中にはエリスに絡んでいるディエースの姿も見える。  エキゾチックな装いをした褐色肌の女性がソファに座り、パーカーとリュックサックを背負った学者風の男が見える。   彼らにワイズモンが何やら質問を投げかけているようだ。  エリスに追い払われたディエースが騎士を強引に自分の近くへ呼び寄せる。  そうして、最後に青と白の韓服風ローブを纏いサングラスをしている恰幅の良い中年男性が談話室へと入ってくると、  入り口にいたゴッドドラモンが今回の宿泊客が全員この場に集まったことを告げ、それぞれの自己紹介が始まった。  2.4:『ソク師範と赤城博士』  最後に談話室へ入ってきた男は、悠然とした足取りで中央に進み出た。  青と白の韓服風ローブが、その恰幅の良い体にゆったりと纏われ、顔には威厳を感じさせるサングラス。  その奥に隠された瞳は、これまで騎士が出会った誰とも違う、練達の気を宿しているように見えた。  彼は静かに一礼すると、張りのある声で自己紹介を始めた。 「ソク・ジンホと申します。普段はトレーニング道場を営んでおりましてな。 『ソク師範のこれで貴方も即マスター!』という、デジモンの育成指南書も出させてもらっておる。これ以上の自己紹介はあるまい」  騎士には聞き覚えのない名だったが、その言葉にソファに座っていた学者風の男の表情がわずかに動いたのを騎士は見逃さなかった。 「赤城鋼太郎といいます。デジモンの生態調査を専門としています。ソク師範の本については僕も読ませていただいております」 「おお、私の著書を読んでくれているようだね、関心関心!」  ソク師範は満足げに頷き、一見すると和やかな雰囲気が漂い始める。  赤城は眉間に深い皺を寄せ、ソク師範の言葉を遮るように、静かだが確固たる口調で反論した。 「ええ、デジモンに関する貴重な本だ。特に育成指南や各種デジモンへの接し方などはデジタルワールドに着たばかりの初心者には重宝するでしょう。  ……しかし、貴方の本には誤りも多い」 「誤り、だと? 若造が何を言うか!!」  その瞬間、談話室の空気が凍りついた。ソク師範の顔から温厚な笑みが消え失せ、サングラスの奥から鋭い光が放たれる。  長年の経験と実績に裏打ちされた自身の知識を否定されたことへの、露わな怒りだった。 「私の書は、数多のデジモンとテイマーを育て上げてきた、紛れもない真実と経験の結晶だぞ!」  ソク師範の声は低く、怒りに震えていた。  彼のパートナーであるマスターティラノモンが、地響きを立てるような低い唸り声を上げ、今にも飛びかかりそうな姿勢を取る。  赤城も一歩も引かず、理知的な瞳に強い意志を宿して反論した。 「経験は尊重します。しかし、真実には疑問が残る。学術的な検証に基づかない記述が多く見受けられる。  例えば、特定のデジモンの進化条件に関する記述は、最新の研究データと矛盾している箇所がある。  それは、初心者にとって誤った知識や偏見を植え付けることに繋がりかねません」  赤城のパートナーであるカイザーレオモンもまた、鋭い眼光でマスターティラノモンを睨みつけ、威圧的なオーラを放ち始める。  一触即発の事態に、周囲の宿泊客たちは固唾を飲んで見守っていた。  騎士もまた、この緊迫した状況に身構える。 「貴様、学者風情が! 実戦の伴わない机上の空論を振り回すな! デジモン育成は、データだけでは語れんのだ!」 「データに基づかない育成こそ、非効率的で無責任だと言わざるを得ません。少なくとも明確な誤りは訂正すべきでしょう」  二人の主張は平行線を辿り、感情的な口論へとエスカレートしていく。  マスターティラノモンとカイザーレオモンも互いに牙を剥き出し、今にも激しい戦いが始まりそうな雰囲気に、談話室の熱気は最高潮に達した。  その時、重々しい声が響き渡った。 「おやめなさい、お二人とも!」  館の主であるゴッドドラモンが、二人の間に割って入った。  その巨体が発する威厳に、マスターティラノモンもカイザーレオモンも動きを止め、二人の口論もぴたりと止まる。 「この青嵐の館は、デジタルワールドの混沌から逃れ、一時的な休息と交流を求める人々のための場所。争いの場ではございません」  ゴッドドラモンの言葉は、両者に平等に響き、ようやく場の収拾がついた。  しかし、二人の間に漂う険悪な空気は、そう簡単には消えそうになかった。  2.5:『ロストメモリー・ディエース』  赤城鋼太郎とソク師範の険悪な空気が残る中、次に自己紹介を始めたのはディエースだった。  彼女は満面の笑みを浮かべ、アプリドライブをひらひらとさせながら、明るく弾んだ声で口を開いた。 「はーい! ここはアタシの番だね! アタシはディエース! 見ての通り、超絶キュートなアプリドライバー! 男子からのファンレター募集中!  せっかく知り合ったんだし、みんなと仲良くなれると嬉しいなー!」  その無邪気な自己紹介に、場が少し和んだように見えた。しかし、ソク師範が彼女の言葉を遮った。 「失礼だが、なぜ名字を名乗らないのだ? 自己紹介においては、名を名乗るのは基本中の基本であろう」  ソク師範の問いかけに、ディエースは少しだけ顔を曇らせた。いつものおどけた表情から、一瞬真剣な面持ちに変わったことに、騎士は彼女の内心の揺らぎを感じ取った。 「実はア~タクシって記憶が消えてましてねー。ディエースって名前もこっちで拾ってくれた人に名付けられたものなの。  まっ、記録はあったんで過去の自分がどういう人間だったかは分かるんだけど……なんていうか、記憶がないと自分のこととしての実感がないんだよねぇ」  彼女の声には、一見明るく響く響きの裏にどこか深い虚ろさが滲んでいた。  過去の記録はあっても、それが自身のものとして感じられない。そのもどかしさが、彼女の言葉の端々に表れているようだった。 「記憶を無くしている? 近頃噂に聞くデジモンイレイザーとやらの仕業であろうか」  ユンフェイが尋ねたが、ディエースは首を傾げるばかりだ。 「それも忘れちゃってて、よくわかんないんだよねー」  ディエースは他人事のように答える。  だが、その「デジモンイレイザー」の名が談話室に響いた途端、ソファに座っていたアラビア風の装いをした女性の様子がおかしくなった。  彼女の呼吸が荒くなり、表情に恐怖の色が浮かび上がる。パートナーのスナリザモンが慌てて彼女の肩に触れ、宥めようと必死になっている。  その様子を見たディエースは、普段の無邪気な表情から一変、瞬時に対応した。 「ねぇ君、大丈夫!? ちょっと待ってて!」  彼女は迷うことなく、近くのテーブルに置いてあった水差しとコップを手に取り、素早くレイラの元へと駆け寄った。 「はい、これ飲んで! 落ち着いて落ち着いて!」  ディエースの優しい声と差し出された水を口にすると、レイラは震える手でそれを受け取りゆっくりと飲み干した。  やがて、荒かった呼吸が落ち着き、恐怖に歪んでいた表情も、少しずつ和らいでいく。  2.6:『レイラ・シャラフィとデジモンイレイザーの傷跡』  ようやく落ち着きを取り戻したレイラは、スナリザモンにそっと背を撫でられながら、震える声で話し始めた。  彼女のキメの細やかな褐色の肌は、恐怖の余韻でわずかに青ざめているように見えた。 「お見苦しいところをお見せしました。私はレイラ・シャラフィと申します。かつてはクロスローダーを持つジェネラルとして傭兵をしていました」  彼女の言葉に、騎士はわずかに目を見張った。クロスローダーを持つジェネラル。  それは、複数のデジモンを操り、部隊を率いる指揮官としての力量を意味する。  傭兵として、デジタルワールドの過酷な戦場を渡り歩いてきたのだろう。しかし、その後の言葉に、談話室の空気が再び重く沈んだ。 「しかし、とある戦場にて、デジモンイレイザーの部下……ネオデスジェネラルと名乗った強力なデジモンに敗北し……仲間たちを全て殺されたのです」  その告白に、騎士の胸にチクリと痛みが走った。デジモンイレイザー。その配下である強大な七大軍団は、ロイヤルナイツすらも破ったという噂が流れるほどだ。  レイラは、その恐ろしい組織と直接対峙し、そして仲間を失ったのだ。  想像を絶するような凄惨な光景が、彼女の脳裏に焼き付いているのだろう。 「それから私は駄目になってしまいました。彼らは必死で私を逃がしてくれたというのに、仇を討つことも出来ず、ただ恐怖に怯え隠れ偲ぶ日々……。  そんな私を慰めてくれたのが、このスナリザモンです。  彼は、私がデジタルワールドを彷徨っていた時に拾ったデジタマから、一から育て上げた、私にとってかけがえのない存在なのです」  レイラは隣に寄り添うスナリザモンに視線を向け、その表情には深い感謝と愛情が滲んでいた。  失意の底にあった彼女を支え続けた、かけがえのないパートナー。  騎士は、もし自分がズバモンを失ったとしたら……と想像し、心が締め付けられるような痛みに襲われた。  レイラの言葉は、騎士自身の心の奥底にある、ズバモンへの強い絆を改めて認識させた。 「ここへ来たのも、そこのワイズモンさんに誘われてのことです。  破壊と再生が巻き起こるこの地で過ごすことで、私自身も生まれ変われるのではないか……という思いからなのです」  彼女の瞳には、まだ深い悲しみが宿っていたが、その奥にはかすかな希望の光が揺れていた。  デジタルストームがもたらす破壊と再生。そのサイクルに、彼女は自らの再生を重ね合わせようとしているのかもしれない。  しかし、その場に響いたディエースの言葉は、騎士の耳を疑わせるものだった。 「つまりねーちゃんは勝てない相手に挑んで負けた上に、自軍を全滅させた無能な指揮官さんってことねー」  イレイザーの名を聞くだけでトラウマとなっているレイラに対して、あまりにも無神経すぎる、残酷な言葉だった。  騎士は思わず息を呑んだ。 「いくらなんでもそういう言い方はなかろう!」  レイラに同情したソク師範が、強い口調でディエースを嗜めた。  しかし、レイラ自身は顔色一つ変えず、静かに、そしてどこか諦めたように言った。 「ええ、ええ、そのとおりです。私は無能です。庇われるより、そうして事実を言われるほうが気が楽になります」  レイラのその言葉に、ソク師範もそれ以上は何も言えなかった。  レイラのスナリザモンはディエースを睨みつけ、低い唸り声を上げている。  それでも、ディエースは全く気にする様子もなく、ただまっすぐな瞳でレイラを見つめていた。その表情には、悪意もなければ、深い侮蔑もない。  ただ、彼女自身の考える「事実」を口にしただけ、という風に見えた。   2.7:『旅人ワイズモン』  レイラの話が終わり、談話室に沈黙が降りた後、次に自己紹介の番が回ってきたのは、魔人型デジモン、ワイズモンだった。  彼は賢者のようなローブを纏い、宙に浮いた分厚い本を開いている。  見た目はいかにも知的な雰囲気だが、その口から飛び出した言葉は、騎士の予想を裏切るものだった。 「魔人型デジモンのワイズモンでーす! デジタルワールドってぇ、いろんな不思議な場所があるじゃないですかぁ~?  僕そういうとこ色々見て回るの好きでぇ!  ここに来たのもー大体そういう感じなんだけどぉ……  レイラさんがね、ちょっと元気ないみたいだったから、この館の再生のエネルギーを感じてまた笑顔になってほしくてさ!」  ワイズモンは、宙に浮いたままくるりと一回転し、その分厚い本をパタパタと羽ばたかせる。  騎士は思わず首を傾げた。賢者然とした外見とのギャップに、デジモンの見た目と性格が必ずしも一致しないことを改めて実感させられる。  都会ではアクセサリーで個性を出すデジモンもいるが、デジタルワールドのほとんどのデジモンは、基本的な姿のままだ。  ワイズモンのように、その本質が姿と乖離している個体も珍しくないのだろう。 「あ、皆さん展望台にはもう行きました!? 嵐が全てを破壊していく凄ェ景色見れますよ~!  2日目はダークエリアのようになって、3日目には大地が再生し始める神秘的な景色が見れるそうなんでぇ~、興味ある方はぜひ僕と一緒に見ましょうよぉー!」  興奮気味に身振り手振りで語るワイズモンに、ノリの近いディエースはすぐに同調した。  そして、レイラもまたワイズモンの自分への配慮を感じ取ったのか、先ほどまで沈痛な面持ちだった表情にわずかながらも温かい色が宿った。 「……大地の再生。本当に、見てみたいですね」  ワイズモンは、そんな彼らの反応に満足げに頷き、宙でゆらゆらと揺れていた。  2.8:『騎士の自己紹介』  ワイズモンの軽快な自己紹介に続いて、騎士の番が来た。彼は一歩前に出ると、落ち着いた口調で語り始めた。 「戦場騎士。イギリス人と日本人のハーフで16歳だ。俺はデジタルワールドに導かれ、相棒のズバモンと共に冒険の日々を送っている」  簡潔な言葉だったが、その響きにはデジタルワールドでの様々な経験が凝縮されているようだった。  彼の隣に立つズバモンは、騎士の言葉に誇らしげに胸を張っている。 「へへん! 俺とナイトは最強コンビだからな! 究極体にだって勝ったんだぜ!」  ズバモンが元気よく付け加えると、騎士は軽く笑い、視線を談話室の窓へ向けた。  外では相変わらず、デジタルストームが吹き荒れている。 「数時間前、旅の途中で強力な黒い嵐に襲われてな。俺たちとディエースが乗るレッシャモンもろとも巻き込まれる寸前だったんだ。  幸い、この青嵐の館が避難所になってくれて助かった。まさに間一髪だった」  彼は、あの時感じた嵐の猛威と、館に辿り着いた時の安堵を思い返すように、ゆっくりと話した。  デジタルワールドでは、常に予期せぬ危険が潜んでいる。だからこそ、頼れる相棒の存在が何よりも重要だった。  ソク師範が興味深そうにサングラスの奥から騎士を見つめた。 「ほう、レジェンドアームズの担い手であったか。噂には聞いておる。珍しいデジモンを相棒に持ったものだ」  ユンフェイもまた、騎士の言葉に静かに頷いていた。同じ剣を扱う者として、騎士の持つ雰囲気に共感する部分があるのだろう。  騎士は自己紹介を終えると、談話室に集まった人々の顔を改めて見回した。それぞれの胸に秘めた過去と、この館に集まった理由。  彼らとの出会いが、これからどんな物語を紡いでいくのか、騎士は静かに思いを巡らせていた。  2.9:『ユンフェイの道』  騎士の自己紹介が終わり、次に立ち上がったのは長髪の剣士、チェン・ユンフェイだった。  彼の纏う漢服は、静謐な雰囲気を漂わせている。ユンフェイは、隣に立つドラコモンに視線をやり、穏やかな、しかし芯の通った声で語り始めた。 「チェン・ユンフェイだ。私は現実世界を捨て、剣に生きると決めた男。デジタルワールドこそが、私の研鑽の場だ」  その言葉には、迷いも未練もない、確固たる覚悟が感じられた。  彼の生き様が、その短い言葉の中に凝縮されているようだった。横で腕組みをしていたドラコモンは、誇らしげに鼻を鳴らす。 「ユンフェイ殿は、剣の道を極めるためならば、どんな困難も乗り越えるお方です! 我が主の剣技は、もはや神域に達していると言っても過言ではありません!」  ドラコモンの大袈裟な賛辞にユンフェイは苦笑いを浮かべた。 「ドラコモン、私はそのように大層なものではない。まだまだ未熟者だ」 「す、すいませんユンフェイ殿」 「そして、この館に来たのは、四大竜の試練をこなすためだ。  この舘の主であるゴッドドラモンの試練を突破し、このドラコモンがスレイヤードラモンへと進化できたのは、すべて剣の道に精進した結果だ」  ユンフェイの言葉に、ソク師範や赤城鋼太郎も感心したように頷いている。  四大竜の試練。旅の途中で騎士もその噂を聞いたことがある。  ゴッドドラモン、チンロンモン、メギドラモン、ホーリードラモンの四体の竜型デジモン究極体が、同じ竜型デジモンに与える試練。  それを突破したデジモンは、スレイヤードラモンへと進化を果たすことができるという。このドラコモンが、まさにその実力者である証だった。  2.10:『ティンカーモンの恋心』  ユンフェイの自己紹介が終わると、彼の傍らを忙しなく飛び回っていた小さなデジモン、ティンカーモンが、待ってましたとばかりに前に進み出た。  彼女は興奮した様子で、小さな体を震わせながら、矢継ぎ早に言葉を繰り出した。 「はぁい! 次はアタシの番だよー! アタシはティンカーモン! ユンフェイのこと、いっつも応援してるんだー!  っていうか、もーマジでサイコーにカッコいいんだから! え? なんでかって!? そりゃあねー!  アタシが野良デジモンとのバトルで足を怪我して動けなくなって、あの黒い嵐に巻き込まれそうになってた時、ユンフェイが助けてくれたの!  しかもね、ちゃんとアタシの足を治療してくれて、この青嵐の館までえっと、抱っこして運んでくれたんだから!  もう王子様みたいでキュンキュンしちゃったの~!」  彼女の言葉は飾り気のない、純粋な感謝と興奮に満ちていた。  ティンカーモンにとって、ユンフェイはまさに命の恩人であり、憧れの存在なのだ。  彼女の言葉に、ユンフェイはわずかに照れたような表情を浮かべ、ドラコモンは得意げな顔で頷いていた。 「だからね、アタシ、ユンフェイのこと、ずーっと応援する。世界で一番かっこいい剣士は、ユンフェイだよー!  マジでイケメンだし、強いし、優しいし、もう完璧なんだからっ!」  ティンカーモンはそう叫び、再びユンフェイの周りをくるくると、まるで止まらない風車のように飛び回った。  その無邪気でキャピキャピした姿は、談話室に漂っていた重い空気を、ほんの少しだけ明るくしたようだった。  2.11:『エリス・ローズモンドの提言』  最後に立ち上がったのは、魔女のようなトンガリ帽子を被った金髪の女性、エリス・ローズモンドだった。  彼女のパートナーであるフローラモンが、心配そうにその傍らに寄り添っている。  エリスの青い瞳は、談話室の全員を射抜くかのように冷たく、その口調には一切の感情が感じられなかった。 「エリス・ローズモンド。14歳イギリス人。はっきり言うわ。ここへ来たのは青嵐の館に隠された秘宝を手に入れるためよ。……貴方達も本当はそうなんでしょう?」  その言葉は、談話室にいた全員の心をざわつかせた。秘宝? そんなものがあるのだろうか。  騎士は、エリスの言葉で談話室の空気が一変するのを感じた。  それまでの自己紹介で築き上げられつつあった緩やかな空気が、一瞬にして凍り付いたかのようだ。 「フン、やっぱりね……。力を求めていなければこんな辺境にはこないわよ」  エリスは、まるで周りの反応を楽しむかのように、薄く口元を歪ませた。 「へー。ねーゴッドドラモン! そんなすごいお宝ここにあるのー?」  ディエースが目を輝かせて、無邪気にゴッドドラモンに尋ねた。 「ディエース様、この館にそのような宝などありません。エリス様にも何度も申し上げているのですが……」  ゴッドドラモンは困惑したように答える。その声には、度重なるエリスの問いに辟易しているような響きがあった。  しかし、ソク師範がその言葉を否定したことで、談話室のざわめきは一層大きくなった。 「いや、この私も聞いたことがありますぞ。青嵐の館には、デジモンを強化する秘宝、古の伝説に語られる神具が隠されていると。  嵐が天を覆い、世界が混沌に呑み込まれる時のみ、姿を現す。『刻の龍珠』の輝きは、デジモンの真の力を覚醒させ、未知なる高みへと昇る道を示さん。  今の今まで忘れていましたがな。まさか、このような話に真実味があろうとは……」  ソク師範の言葉は、火に油を注ぐようなものだった。  彼の口から出た具体的な秘宝の名と、それがデジモンを強化するという情報に、談話室の宿泊客たちは、互いに顔を見合わせ、疑心暗鬼の視線を交わし始める。  誰もが、秘宝の存在に色めき立っているのが見て取れた。  ゴッドドラモンは大きくため息をついた。その表情には、諦めにも似た感情が浮かんでいる。 「……わかりました。レクリエーションとしてこれから皆さんにはクイズ大会を行ってもらおうと思っていました。  ですが、予定を変更してこの青嵐の館を探検してもらいましょう。そのような秘宝があるならば、どうぞ見つけてもらおうじゃありませんか」  ゴッドドラモンの言葉は、挑戦的でもあり、ある種の投げやりな響きも持っていた。  こうして、秘宝を巡る探索が、この青嵐の館で始まることになる。  それは、それぞれの思惑が複雑に絡み合い凄惨な結末へと続く物語の幕開けだった。  Chapter3『館の探検』  3.1:『展望室の光景』  談話室での顔合わせを終え、宿泊客たちはそれぞれの思惑を胸に、館の探索へと向かうことになった。  騎士は一旦、与えられた部屋に戻ると、先に部屋に戻ったはずのディエースがベッドに寝転がってアプリドライブをいじっていた。  どうやら、最初から騎士の部屋に入り浸るつもりらしい。  ズバモンはディエースの隣で、退屈そうに身体をくねらせている。 「どうする、ズバモン。サボってこのまま部屋にいるか?」 「えー、つまんねー! ちゃんと秘宝探しに行こうぜ、ナイト!」  騎士がパンフレットの館内マップを広げると、ディエースがひょいと顔を覗かせた。 「少年、何見てんの? あ、館の地図じゃん! ね、ね、この展望室ってとこ行ってみない?  最上階にあるらしいよ! デジタルストームがよく見えるってワイズモンも言ってたしねー!」  ディエースの目が輝いた。彼女はそのゆったりとした袖をひらひらとさせながら、興奮気味に騎士を誘う。  ズバモンもその言葉に乗り気で嬉しそうに飛び跳ねた。騎士は彼女の勢いに押され、結局その提案を受け入れた。  こうして、騎士、ディエース、そしてそれぞれのパートナーデジモンであるズバモンは、最上階の展望室を目指すことになった。  螺旋階段を一段一段上るごとに、外から響く嵐の音が大きくなっていく。  展望室の重厚な扉を開けると、そこはデジタルワールドの荒々しい息吹が満ちる空間だった。  円形の部屋の壁面全てが巨大なモニターになっており、そこには今まさに吹き荒れるデジタルストームの猛威が360度で展開されていた。  轟音と共に渦が荒れ狂い、無数の雷光がスパークする。  時折、吹き飛ばされた巨大なワイヤーフレームの塊がモニターに激突するような錯覚を覚え、思わず身体がのけぞりそうになる。  全ての大地からテクスチャーを剥がし破壊しつくす、まさに混沌の極み。  その圧倒的な光景は、館の安全な内部にいるにもかかわらず、本能的な恐怖を呼び起こすほどだった。 「すっごーい! これぞデジタルワールドの醍醐味って感じ! テンション上がるわー! 一緒に写真取ろうよ少年!」  ディエースは目を輝かせ、スマホを構えて撮影を始めようとしたが、カメラアプリが存在しないことに気づき、項垂れている。 「そっか……キャメラモン、いま無いもんなー……アプモンに頼り切りだとこうなるのねー……」 「ナイト、見てみろよ! 雷がすっげー光ってんぞ! なんだか力が湧いてくるみてーだ!」  ズバモンはモニターに張り付くようにして、嵐のエネルギーを全身で感じ取っているようだった。  騎士は、その壮大な光景を前に、ワイズモンの言葉を思い出していた。  展望室には既に何人かの先客がいた。  片隅のソファには、褐色肌の女性、レイラ・シャラフィがパートナーのスナリザモンと共に静かに座っていた。  彼女の瞳はモニターに映る嵐をじっと見つめているが、その表情にはかすかな憂いが漂っている。  デジモンイレイザーに仲間を奪われた彼女にとって、この嵐の光景は、破壊の記憶を呼び起こすものなのかもしれない。  スナリザモンが心配そうに彼女の肩に寄り添っているのが見えた。  もう一方には、宙に浮いた分厚い本を抱えたワイズモンが、興奮気味に身振り手振りで何かを説明していた。  彼の隣には赤城鋼太郎とカイザーレオモンが、真剣な表情でワイズモンの話に耳を傾けている。 「……つまり、このデジタルストームはデジタルワールドの深層にあるデータ構造の再構築、あるいは生命サイクルそのものを司るプロセスだと?」  赤城博士が眼鏡を押し上げながら尋ねる。ワイズモンは嬉しそうにパタパタと本を羽ばたかせた。 「そーっすよ、アカギさん! デジタルワールドっていうのはね、常に変化してて、時にはドッカーンって壊れて、また新しいものが生まれちゃうの!  この嵐もその1つ! だからね、この景色をよーく観察すると、超絶ヤバい発見があるかもしれないんだよぉ! マジで刺激的っしょ!?」  ワイズモンの声には、知的探究心よりも、刺激を求めるようなチャラい響きがあった。  赤城博士は苦笑しつつ、自身の持つデータと比較しているようだった。 「確かに、デジタルワールドで巻き起こる通常の嵐の観測データとは異なる動きを示している。データ構造の複雑性も異常だ。  これが自然現象だとすれば、新たなデジモン種の誕生や、既存のデジモンの変異を促す要因にもなり得る。あるいは……」  赤城の言葉が途切れた時、ワイズモンが身を乗り出すように宙で揺れた。 「あるいは、この嵐自体が、何かを呼び覚まそうとしているのかもしれない……っすね!  例えば、この青嵐の館に秘められたずっと眠っていた超すげぇ何かを!  伝説の秘宝とやらが、この嵐が何らかのトリガーになってる可能性もマジでゼロじゃないってことっすよぉ!」  ワイズモンの言葉は、ソク師範が語った「嵐が天を覆い、世界が混沌に呑み込まれる時のみ、姿を現す」という秘宝の伝承と重なり合う。  騎士は、嵐の壮大さ、そしてそれが持つ意味を噛みしめながら彼らの会話に耳を傾けた。  ワイズモンが再び宙をくるりと回ると赤城鋼太郎は小さく息をついた。 「ワイズモン、あなたの言うデータの奔流というのは理解できる。  しかし、それが具体的な物質、例えば『刻の龍珠』のようなものを生み出すあるいは出現させるトリガーになると考えるのは、いささか飛躍しすぎではないだろうか?」  赤城は冷静に反論する。ワイズモンは顔を膨らませた。 「えー、でもアカギさん、そういうのってロマンあるっしょ!? データが物質になることだって、デジタルワールドじゃ普通にあることだしー!  もしかしたら、この嵐自体が、巨大なデジモンが進化しようとしてる時のエネルギー放出とか、そういうスケールのでかいことなのかもよ?」  ワイズモンの突飛な発想に、赤城は首を振った。  騎士は、二人の会話が秘宝の手がかりに繋がるかもしれないと期待し、思い切って声をかけた。 「すみません、ワイズモンさん、赤城さん。その『刻の龍珠』について、何か知っていることはありませんか?」  騎士の問いに、赤城鋼太郎が眼鏡のブリッジを押し上げた。 「『刻の龍珠』の伝承は、僕もいくつか文献で読んだことがある。しかし、あくまで伝説の域を出ないものだ。  デジタルワールドの各地には、数多の秘宝や伝説のアイテムの噂が存在するが、その大半は根拠のないものか、あるいは単なるデジモンの能力の誇張に過ぎない。  この嵐がそれを呼び覚ます引き金というのも、現状では我々の単なる憶測に過ぎない」 「そっすよねー! でもロマンは捨てちゃダメっしょ、ナイト君!」  ワイズモンはあっけらかんと言い放つ。やはり、彼から具体的な情報は引き出せそうにない。  ディエースが騎士の腕を引っ張った。 「ねー少年、お腹空いたー! 夕食の時間まだだけどさぁ! 食堂行こうよー!」  ズバモンも「腹減ったー!」と同意する。  展望室にはこれ以上、秘宝の手がかりはなさそうだと判断し、騎士たちは食堂へと向かうことにした。  3.2:『食堂のベーダモン』  螺旋階段を下りて二階へと向かうと、食堂の扉が静かに開いていた。  長い木製のテーブルが中央に存在し、窓からは外でスパークする雷光が差し込み、不気味な雰囲気を醸し出している。  窓のない側の壁には自動販売機のようなものが並んでいたが、どれも故障中の張り紙がしてあった。  簡素な調理場では、ベーダモンが何かを炒める音と、独特の低い唸り声が聞こえてくる。 「なんか、すごい匂いするねー。ベーダモンって、どんな料理作るんだろ?」  ディエースが興味津々に調理場を覗き込む。  こんなところに何か隠されているものなどなさそうだと騎士は次へ行こうとしたが、  ディエースが「今晩の料理なんですか!」とベーダモンに尋ねに行ってしまった。  しかし、ベーダモンから帰ってきた返答は騎士たちには理解しがたいものだった。 「オヤッザ、クウェルヴァス、ステル’ヴァガントゥ! ホディ’ス・レコム’ザ? フフン、ギャラ’クズィム・プリム’ヴォルコース・ザトゥ!  メイナス・エス・ネブル’ステカーダ、ジュー’シス・エト・オラ’ステルパルヴ・エクズ’プローダ!  サイド’エス・ルナ’マシュ’ポタティス、ミステリ’サポル・デ・ルナ’オクタヴィ!  デゼルタ・エス・ブラクホール’タルティス、グラヴィ’ドゥルク・トラクティス!」 「……何を言ってるのか全くわからないねナイト~」  ベーダモンは独自の言語を話しているようで、一切わからない。  騎士もズバモンも首を傾げるばかりだ。するとディエースは、にやりと笑って胸を張った。 「ふふん、こういうときはお姉さんに任せなさい! こっちが本来の使い方なんだから!」  ディエースはゲンゴーモンをアプリアライズし、ベーダモンの謎宇宙語を翻訳させようとする。  するとさっきの内容は、こういうものだったらしい。 「おやおや! いらっしゃい、星の旅人さん! 今日の料理? ふふん、そりゃもう銀河一のギャラクシーフルコースだよ!  メインは星雲ステーキ、ジューシーで口の中で星屑みたいに弾けるんだから!  付け合わせは月光マッシュポテト、ほら、月原産の芋を使ってるから、ちょっと神秘的な味がするのさ。  デザートにはブラックホールタルト、甘さの重力に引き込まれちゃうよ!」 「……このベーダモン、お喋りなおばちゃんだ!」  ズバモンは騎士とディエースが思っていたことを、思わず叫んだ。ベーダモンは調理の手を止め、くるりと振り返る。 「あらやだ! あたしの言葉通じちゃうの!? へぇーあなたアプモンっていうの。はじめまして、最近は便利になったのねぇ!  まさにそのとおりなのよ、あたしはお喋り大好き銀河スパイスのようにピリッと賑やかなベーダモンおばちゃんだよ!  今こうやってあんたたちの夕食を腕によりをかけて作ってるからね! 量が物足りなかったら追加のオーダーだって受け付けてるよ!」  おかわりも出来ることを聞いてディエースは既に顔が緩んでいる。  騎士は、これは秘宝の手がかりを聞くチャンスかもしれないと思い、ベーダモンに尋ねてみることにした。 「あの、ベーダモンさん。この館には、何か隠された秘宝があるって話を聞いたんですけど、何かご存じですか?」  ベーダモンはフライパンを揺らしながら、きょとんとした顔で騎士を見た。 「ごめんねぇ、おばちゃん雇われだからねぇ。こんな館にそんなものが隠されてるなんて、初めて聞いたわねぇ。  ああ、でもそういえば不思議なことに、ゴッドドラモンさんが時々消えるのよねぇ。  ここ2階じゃない? 階段を登っていったなら見えるのよ。  でもね、あたしはゴッドドラモンさんが昇るところなんて一度も見なかったのに、一階のどの部屋にもいなかったことがあってねぇ。  ゴッドドラモンさんの部下のウモンさんに用事は伝えられたから別にいいんだけどねー。  もしかして秘宝の話と関係あったりするのかい?」  騎士たちは思った以上に重要な情報を聞けたことで、ベーダモンにお礼を言った。 「あらいいのよ別に! もし秘宝ってのが見つかったらおばちゃんにも見せてほしいわ!  あらやだ話し込んじゃってスープちょっと煮込みすぎちゃったかしら?」  ベーダモンの言葉に、騎士の頭の中でパズルのピースが繋がり始めた。 「一階のどの部屋にもいなかったのに消える」という現象は、隠された通路や部屋があることを示唆している。  そして、それが秘宝と関係している可能性も否定できない。こうなると怪しいのは一階である。  騎士とディエースは一階の探索へと向かうことにした。  3.3:『隠された部屋』  ロビーに戻ると、既にエリスと彼女のパートナー、フローラモンが、中央にそびえ立つ水晶柱の基部を熱心に調べているところに遭遇した。  彼女の氷のような眼差しは、水晶柱の表面に刻まれた、ゴッドドラモンの手甲を模したような左右一対のレリーフに注がれていた。  片方は燃えるような赤、もう片方は稲妻のような青で装飾されている。 「ねぇエリスちゃん、ゴッドドラモンが変な消え方するって! 一階に隠し部屋あるかもよ!」  ディエースは無邪気さを装って、ベーダモンから得た情報をエリスに共有した。エリスはちらりと騎士たちに視線を向けた後、ふっと鼻で笑った。 「隠し部屋、ね。……秘宝に繋がるのなら、時間の無駄ではないでしょう。  私もこのレリーフが怪しいと睨んでいたところよ。何かギミックがあるはずなのに、どうしても開かないの」  騎士は考えた。左右一対のレリーフ。  確かゴッドドラモンの手甲には「破壊」を司る紅炎のアモン、そして「再生」をつかさどる蒼雷のウモンが封印されているはずだ。  騎士の頭の中で、パズルのピースがカチリと音を立てた。 「おそらく、ゴッドドラモンはアモンとウモンを使ってこのギミックを起動させているはず……」  騎士の推測に、エリスは苛立ちを露わにした。 「それはもう試したわ。でも開かないのよ」 「あれー? エリスのフローラモンの進化先ってウィッチモンだよなぁ?」  かつて共に戦った時の記憶を元に、ズバモンが疑問を呈する。ウィッチモンは風と水系の魔術を得意とするデジモンだ。炎や雷とは縁がないはず。 「ズバモン。忘れたの? エリスは貴方の主人と同じくディーアーク使いよ。カードスラッシュすれば炎も雷も出せるの」  フローラモンが、さも当然とばかりに答えた。なるほど、と騎士は納得した。  ディーアークのカードスラッシュなら、デジモン自身の属性に囚われずに様々な属性の技を発動できる。  エリスは既に炎と雷の力を試していたということか。しかし、それでもギミックは起動しなかった。  騎士は再度、ゴッドドラモンの手甲に刻まれた二体の龍、紅炎のアモンと蒼雷のウモンの「破壊」と「再生」という役割を思い出した。 「なぁエリス、なんのカードを使ったんだ?」 「メラモンの『バーニングフィスト』とエレキモンの『スパークリングサンダー』。こんなところで威力の高いカードを使うわけには行かないでしょ?」  炎は「破壊」の象徴としては申し分ない。ならば、雷はどうだろうか?  単純な「雷」の力だけでは足りないのかもしれない。それとタイミングも重要だ。 「エリス、もう一度、炎のレリーフに炎を放ってもらえないか? それとディエース、確か充電する能力のアプモン持ってるって言ってたよな?」  騎士の提案に、エリスは不審げに眉をひそめた。 「私の試みが無駄だとでも言うつもりかしら?」 「いや。ただ、一つ試したいことがあるんだ。  雷のレリーフには、単純な雷じゃなく『再生』の力が求められているのかもしれない。ディエースのアプモンなら、それが可能かも。  それに、おそらく二体のデジモンが同時に能力を使う必要があると思うんだ」  騎士の真剣な眼差しに、エリスは少し考えた後、フン、と鼻を鳴らした。 「やってみる価値はあるわね。フローラモン、準備しなさい」  フローラモンは光を帯びて進化する。 「フローラモン進化! ウィッチモン!」  鮮やかな赤のローブを翻し、魔女の姿になったウィッチモンが紅炎のレリーフに向かって拳をかざす。 「アプモンチップ、レディ!」  ディエースはアプリドライブを操作し、光の中から、文字通り電池の形をしたアプモン、バッテリモンを出現させた。 「バッテリモン! あの青いレリーフをフル充電して!」 「了解でござる!!」 「……カードスラッシュ!」 「『バーニングフィスト』!」  メラモンのカードの力によってウィッチモンの拳が燃え上がり、紅炎のレリーフを叩くと、炎が吸い込まれていく。 「『エレクトリックチャージ』!」  同時にバッテリモンも同時に両手で拳を地面に叩きつけると、その蓄えられたエネルギーが蒼雷のレリーフへと一直線に伸びていった。  その電力供給がレリーフに到達した瞬間、轟音と共に水晶柱の根元がガタッと音を立て、地面にヒビが入る。  そして、水晶柱の周囲の壁の一部がゆっくりと、しかし確実に内側へとスライドしていった。  開いた空間からは、ヒューッという冷たい風が吹き上がり、薄暗く湿った空気が漂い出す。その奥には、地下へと続く石階段が姿を現していた。 「あった……! 隠し階段あった!」  ディエースが声を上げた。  エリスも、その冷たい瞳の奥にわずかな驚きの色を浮かべていた。  三人と二体のデジモンは、期待と不安を胸に、地下へと続く階段を下りていく。  3.4:『牢獄』  階段を下りた先には、重厚な鉄格子とデジタルロックで封鎖された小部屋がいくつも並ぶ牢屋が広がっていた。  壁は冷たく湿った岩で覆われ、薄暗い青い光がわずかに空間を照らすのみで、外界とは隔絶された陰鬱な雰囲気が漂っている。  秘宝の気配は全くなく、失望感が広がる。  エリスもまた、無表情のまま牢屋の奥を見つめている。 「……秘宝はこんな薄汚い場所に隠されているはずがないわ」  エリスは平坦な声で呟いた。意外にもその言葉に、失望や苛立ちの色はほとんど見られない。 「えー、ここどうみても牢屋じゃん! ギミックを解いたときはワクワクしたのにー! 誰かいるのかな?」  ディエースは拍子抜けしたように、興味本位で鉄格子を覗き込んだ。  ズバモンは牢屋の陰鬱な雰囲気に、少し怯えたように騎士の足元に隠れた。  その時だった。突如として、音もなく背後に気配が現れた。 「おお、まさか見つけてしまうとは思いませんでしたよ、この場所を……!」  振り返ると、そこには館の主、ゴッドドラモンが浮遊していた。彼の表情はいつもの穏やかなものではなく、どこか困惑を帯びているように見えた。  ゴッドドラモンはゆっくりと騎士たちの側まで浮き上がり、牢屋の鉄格子に視線を向けた。 「……この場所は、青嵐の館において、明かしたくない秘密です。本来ならば、決して宿泊客の皆様の目に触れるべきではない場所でした」  ゴッドドラモンは深い声で語り始めた。 「ここは、かつては館内の秩序を乱す者、あるいはデジタルワールドの安全を脅かす存在が現れた時、一時的に収容するための施設でした。  無論、今はもう使われてはいませんがね」  彼の視線が、再び牢屋の奥に向けられる。その瞳には、複雑な感情が宿っていた。 「残念ながら、秘宝とやらは、この場所にはございません。何度も申し上げた通り噂は噂でございます」  ゴッドドラモンがそう言い終えた瞬間だった。 「よくもそんなことが言えるわねっ!!!」  エリスの傍らにいたウィッチモンが、抑えきれない怒りを爆発させるかのように、ゴッドドラモンに向けて鋭い声を放った。  その魔女の瞳には、かつて見たことのないほどの激しい怒りの炎が宿っている。  騎士は驚きに目を見開いた。いつも冷静沈着なエリスのパートナーであるウィッチモンが、ここまで感情を露わにする姿は初めて見た。  ズバモンもまた、普段から穏やかで優しいウィッチモンの豹変ぶりに、思わず「うわっ、怖っ!」と声を漏らし、騎士の影にさらに深く隠れた。 「何が『残念ながら』よ! いい加減なことを言って、私たちを欺こうとしているのよ!!」  ウィッチモンは怒りに震え、その手の先には小さな魔力の光が点滅している。  今にもゴッドドラモンに襲いかからんばかりの勢いだ。ゴッドドラモンは、その威圧的な怒りに対し、困惑したように首を傾げた。 「いや、私は真実を申し上げたまでですが……」 「真実ですって!? ふざけないでちょうだい! 秘宝は……『刻の龍珠』はどこっ……!」  騎士は慌ててウィッチモンとゴッドドラモンの間に割って入った。 「ウィッチモン! 落ち着いてくれ! ゴッドドラモンも、もう少し説明してやってくれませんか」  ディエースも慌てた様子で二人の間に入ろうとする。 「ね、ね、ウィッチモンちゃん! 喧嘩はダメだよー! お腹減ったし、とりあえずご飯食べに行こ!」  ズバモンの腹の虫が鳴ったかのようなタイミングで、館全体から夕食の準備を告げる軽やかな音楽が聞こえてきた。  その音は、張り詰めた牢屋の空気をわずかに緩める。  ゴッドドラモンは、はぁ、と小さく息をついた。 「……申し訳ありません。皆様には不快な思いをさせてしまいましたね。  ひとまず、夕食の準備が整ったようですので、食堂へ向かいましょう。詳しい話は、後ほど改めて」  そう言うと、ゴッドドラモンは静かに身を翻し、牢屋の奥から地下の階段を浮上していった。  エリスは、ウィッチモンの激しい怒りをよそに、冷静な表情のまま騎士たちに続いた。  秘宝は見つからなかった。そして、館の隠された一面と、エリスのパートナーの豹変。  気まずい雰囲気を抱えたまま、騎士たちは食堂へと向かったが、騎士の心には、新たな疑問の波紋が広がっていた。  3.5:『星屑の晩餐』  食堂に足を踏み入れると、甘く香ばしい匂いが鼻をくすぐる。 「さあ、お星様たち! 銀河一のギャラクシーフルコースの始まりだよ!」  ベーダモンが自慢げに声を張り上げ、食卓には色とりどりの料理が並べられていた。  メインの星雲ステーキは、まるで宇宙を切り取ったかのように美しいマーブル模様が広がり、一口食べるとジューシーな肉汁が口いっぱいに広がる。  その豊かな風味は、まるで舌の上で小さな星々が瞬いているかのようだ。  添えられた月光マッシュポテトは、ほのかな甘みと神秘的な香りが特徴で、口に入れるととろけるような滑らかさで、まさに月で育った芋だと納得させられた。  その優しい味わいは、デジタルワールドの混沌を忘れさせるほどの安らぎを与えてくれる。  デザートのブラックホールタルトは、見た目も味も、文字通り甘さの重力に引き込まれるような、抗いがたい魅力を持つ絶品だった。 「うっま! なんだこれ、超美味いじゃんナイト!」  ズバモンは目を輝かせ、次々と料理を口に運ぶ。 「ベーダモンおばちゃん、天才すぎる! これならいくらでも食べられちゃう! ☆5確定だよこんなの」 「へぇ、この味はなかなか興味深いっすねぇ! 宇宙の法則が乱れちゃうくらい美味いっすよこれ!」  ディエースは興奮しながら語りワイズモンも、目を輝かせながら料理を味わっている。  そして、レイラの隣にいたスナリザモンが、目を大きく見開いて料理を見つめていた。 「う、うわぁ……! こんなに美味しいもの、初めて食べた……!」  スナリザモンは感激したように、星雲ステーキをゆっくりと口に運ぶ。彼はまだ若く、これまでの旅路で十分な食事に恵まれることが少なかったのだろう。  その小さな身体が震えるほど、料理の美味しさに感動しているのが見て取れた。  レイラも、そんなスナリザモンの様子を見て、小さく微笑んでいる。  その美味しさに、張り詰めていた空気も、一時的に和らいだ。皆が食事の幸福感に包まれていた。  しかし、その平穏は長くは続かない。食事も中盤に差し掛かった頃、ディエースが興奮気味に口を開いた。 「ねぇねぇ、みんな! さっきさ、一階に隠し部屋があって、地下に牢屋があったんだよ!」  その言葉に、食堂の空気が一変した。他の宿泊客の視線がゴッドドラモンへと集中する。  ゴッドドラモンは、いつもの穏やかな表情を崩さず、皆の視線を受け止めた。 「ええ、その通りです。まさか発見されてしまうとは思いませんでした」  ゴッドドラモンは静かに頷き、その牢屋について語り始めた。  レイラ・シャラフィは、ディエースの言葉を聞いても、特に表情を変えることはなかった。彼女は静かに食事を続けている。  隣のスナリザモンも、ただ静かにレイラの食事を見守っている。  ワイズモンは面白がって宙をくるくる回りながら騒ぎ立てた。 「マジで!? 超ヤバいじゃん! なんかいるんすかー!? 極悪最強囚人とかー!?」  ゴッドドラモンはワイズモンの問いかけに、穏やかに答えた。 「ご安心ください。今はもう使われておりません。手入れもしてませんので入るのはおすすめしませんが」  彼の説明に対し、エリスの傍らにいるフローラモンが、ピクリと反応するも、エリスがその頭を静かに撫でると、落ち着きを取り戻した。 「牢屋か。その構造はどのようなものだ? 施錠システムは?」  赤城博士が、科学者としての純粋な好奇心から、身を乗り出すように問いかける。彼のパートナーであるカイザーレオモンも、興味深そうに耳を傾けている。 「はい。あの施設は、かなり特殊な構造をしております。  各房は強固なデジタルロックで封鎖されており、内部には捕らえた相手のデジコアを弱め、戦闘力を一時的に無力化させるための装置が備え付けられています」  ゴッドドラモンの言葉に、食堂にざわめきが走った。無力化装置の存在は、その牢屋がただの監禁施設ではないことを示唆していた。 「……デジコアを弱める装置、だと。そんなものがこの館にあったとは」  ユンフェイが腕を組み、真剣な表情で呟いた。彼のパートナーであるドラコモンも、警戒するように周囲を見回している。  何時もキャピキャピしていたティンカーモンすら、何かを考えているようで大人しい。 「恐ろしい機能ですね……この舘の平穏のためではあるのでしょうが……」  レイラもまた不安そうに身を寄せ合い、顔を曇らせる。  一同に緊張が走る中、ソク師範が静かに口を開いた。 「そうか、地下にそのような場所が。ゴッドドラモン殿の言う通り、この館には長き歴史があり、様々な事情から設けられた施設もあるだろう。  秘宝『刻の龍珠』も、所詮はそのような事情が歪曲して伝えられた言い伝えに過ぎぬのかもしれぬ。  そのようなもの、この世に存在せぬと見るのが妥当であろう。ま、探検ごっこはなかなか楽しかったがの」  ソク師範は、穏やかな口調で秘宝の存在自体を否定し、あくまで「噂」であると結論付けた。  彼の言葉は、場の空気を落ち着かせようとする意図が感じられたが、騎士はなぜかその言葉に拭いきれない違和感を覚えた。  そもそもエリスの発言に乗って秘宝探索をさせたのは、ソク師範ではないか。  まるで、何かを隠しているかのような、あるいは知っていて敢えて否定しているかのような、不自然な響きがそこにはあった。  ソク師範の言葉で表面上は落ち着いたものの、牢屋の存在と、そこに備え付けられた無力化装置、  そして秘宝の行方を巡る疑念は、宿泊客たちの間に消えない染みのように広がっていた。  会話は途切れがちになり、食事の音だけが響く気まずい雰囲気が食堂を満たす。  食事が終わり、各自が重い足取りで席を立とうとした、その時だった。 「ねー少年! お風呂行こーよお風呂! こんな時こそさっぱりしなきゃ!」  ディエースが、気まずい空気を吹き飛ばすかのように明るく提案した。 「ベーダモンおばちゃんが言ってたよ! ここのお風呂、『青嵐の湯』って言って、ウモンの力で疲れが吹っ飛ぶんだって!」 「風呂か! いいな、ナイト!」  ズバモンもその提案に飛びついた。騎士も、このまま部屋に戻っても重苦しい考えに囚われるだけだろうと思い、頷いた。 「私も行こう。剣を振るった後の汗は、流しておかねばな」  ユンフェイも静かに立ち上がり、騎士と視線を合わせた。まだどこかぎこちない空気が二人の間には流れている。  こうして、騎士とズバモン、そしてユンフェイとドラコモンは、食堂の反対側にあるという大浴場へと向かうことになった。  女湯の方からは、既にディエースやティンカーモンのはしゃぐ声が微かに聞こえてきていた。  3.6:『星屑の湯』  のれんをくぐり、脱衣所を経て浴場へと足を踏み入れた騎士は、思わず息を呑んだ。  湯気の中に、無数の光の粒がキラキラと舞っている。  破壊されたデータの残滓が、ウモンの癒やしの力によって浄化され、まるで星屑のように立ち上っているのだ。  広々とした湯船に満たされた青みがかった湯は、肌に触れるとじんわりと温かく、体の芯から疲労が溶けていくような心地よさがあった。 「うひょー! すっげー綺麗だな! まるで宇宙に浮いてるみてーだ!」  ズバモンは歓声を上げ、ざぶんと湯船に飛び込んだ。水しぶきが上がり、星屑の光が乱反射する。  湯船には既に先客がいた。湯気の向こうから、野太い声が響く。 「おお、騎士殿ではないか。ユンフェイ殿も。いやはや、いい湯ですな、ここは!」  声の主は、ソク師範だった。彼の巨体は湯船の大半を占領し、隣には主人の背中を流すマスターティラノモンの姿もある。  その光景は、どこか微笑ましくもあり、異様な圧迫感も放っていた。 「ソク師範も、お疲れ様です」  騎士が挨拶を返すと、ユンフェイも静かに会釈し、湯船の反対側へと静かに入っていった。  ソク師範は、気持ちよさそうに目を細め、豪快に笑った。 「フハハハ! 探検ごっこでかいた汗を流すのは格別ですな! ま、結局は骨折り損のくたびれ儲けでしたがな!」  彼はそう言うと、湯の中で気持ちよさそうに泳ぐズバモンに、目を細めた。  その視線は、孫に向ける好々爺のようでありながら、どこか値踏みするような鋭さを帯びていることに、騎士は気づかなかった。 「しかし、何度見ても見事なデジモンですな、そのズバモン殿は」  ソク師範は、ゆっくりとズバモンに近づいていく。 「へへん、だろー! 俺はナイトの最高の相棒だからな!」  褒められたズバモンは、得意げに胸を張った。 「フム。レジェンドアームズ……伝説の武器デジモンか。その輝き、その存在感……ただの成長期デジモンとは格が違う。  まるで、丹念に磨き上げられた、極上の宝石のようですわい」  ソク師範は、うっとりとした表情でズバモンを見つめ、その手を伸ばして頭の剣にそっと触れようとした。  その瞬間、マスターティラノモンが低い唸り声を上げ、騎士を牽制する。騎士は咄嗟にズバモンを庇うように一歩前に出た。 「……何か用ですか」  騎士の声には、無意識のうちに警戒の色が滲んでいた。ソク師範は、慌てたように手を引っ込め、人の良さそうな笑顔を浮かべた。 「いやいや、失礼。あまりに見事なものですから、ついな。しかし騎士殿、貴殿は幸運ですな。  これほどの逸材をパートナーに持つとは。その真の価値を、正しく理解しておりますかな?」 「価値……?」 「左様。その輝きは、ただの武器として戦場で使い潰すにはあまりにも惜しい。  正しく導き、その力を最大限に引き出すことができれば、それこそあらゆる究極体をも凌駕する、唯一無二の存在となりましょう。  そのためには、相応の環境と……指導者が必要ですがな」  ソク師範の言葉は、一見するとデジモン育成の師範としての親切な助言に聞こえた。  だが、その瞳の奥には、ギラリとした欲望の光が宿っている。  まるで、ズバモンを自分のコレクションに加えたいとでも言うかのような、粘つくような視線。 「俺の相棒の価値は、俺が一番分かっています。それに、こいつの指導者は俺だけで十分だ」  騎士は、きっぱりと言い放った。ソク師範は、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐにまた豪快な笑い声を上げた。 「フハハハ! 若いですな! その意気やよし! ですがな、騎士殿。その相棒は、大切にするのですよ。  多くの者が……そう、良からぬ輩が、その伝説の力を欲しがるでしょうからな。フフフ……」  意味深な言葉を残し、ソク師範は「少しのぼせましたかな」と、マスターティラノモンと共に湯船から上がっていった。  去り際の彼の背中が、やけに大きく、そして不気味に見えた。  残された騎士は、湯気の向こうで黙って湯に浸かるユンフェイと視線を交わすが、彼は何も言わなかった。  ただ、星屑のように舞う光の粒だけが、騎士の胸に生まれた新たな疑念を照らし出しているかのようだった。  3.7:『深まる闇と疑惑の影』  部屋に戻ると、ディエースはベッドに飛び乗り、興奮冷めやらぬ様子で今日あったことを矢継ぎ早に話し始めた。  その瞳は、まるで夜空の星を全て映し込んだかのようにキラキラと輝いている。 「ね、ね、ナイト! あのギャラクシーフルコース、マジでやばかったよね!? 星雲ステーキの肉汁、口の中でプチプチ弾ける感じ!  あれ、本当に宇宙の味がしたよ宇宙の! 月光マッシュポテトもさ、クリーミーなのにどこかシャキッとしてて、一口食べるごとに月が見えるみたいだった!」  ディエースは身振り手振りを交えながら、食事の感想を熱弁する。ズバモンも隣でうんうんと頷いている。 「ブラックホールタルトも最高だったし、ベーダモンおばちゃん、ありゃプロの料理人だね! 明日も明後日も食べれるなんて最高!」  彼女は興奮のあまりベッドの上で飛び跳ねる勢いだ。騎士はそんなディエースの様子に苦笑しながら、相槌を打つ。  ディエースの表情は目まぐるしく変化していく。 「あ、そうだ! そういえばさ、ウィッチモンにはちょっとびっくりしたよね。あんなに怒るなんてさ。  エリスちゃんも、普段通りって感じだったけど、なんかちょっと様子変だったもんね?」  食事の話題から一転、ディエースはふと、ウィッチモンの豹変とエリスの冷静さに触れた。  騎士の心に、再び疑問が蘇る。確かに、いつも穏やかで、感情を表に出すことの少ないウィッチモンが、あそこまで激情を露わにしたことはなかった。  それが、まるでスイッチを切り替えたかのように何事もなかったかのように振る舞う姿には、得体のしれない不自然さを感じずにはいられなかった。  そして、ウィッチモンの激昂を前にしても、エリスは微動だにせず、ただ淡々と制しただけだった。  彼女の冷淡な態度と、パートナーデジモンのあの豹変。  騎士の頭の中では、二人の間に隠された過去の断片が、まるで闇の中のパズルのピースのように散らばり始めていた。 (一体、エリスとフローラモンに何があったんだ? かつての彼女は、もっと感情豊かな少女だった。そして、フローラモンも変だ。  あの時のウィッチモンは、まるで何かに取り憑かれたように……いや、あれは彼女自身の感情だったのだろう。  しかし、なぜあの時だけ、あそこまで秘宝に執着し、怒りを露わにしたんだ?  まるで、秘宝が彼女たちにとって、よほど重要な失ってはならないものかのように……)  騎士がエリスのことについて考えていると、探検と満腹感からか、ディエースとズバモンはあっという間に眠りに落ちてしまっていた。  ディエースと、ズバモンの小さな寝息が静かに部屋に響く。 「ここ俺の部屋なんだが……」  騎士は思わず呟いた。自分のベッドを占領し、無防備に眠るディエース。  その規則正しい寝息を聞きながら、騎士は彼女との出会いの時を思い出してしまった。  事故とは言え触ってしまった柔らかな胸の感触が蘇る。騎士の顔が、わずかに熱を持つ。16歳の男にとって、それは衝撃的な出来事であった。  必死に、別のことを考えようとするが、寝息を立てるディエースの姿を見ていると、余計にドギマギしてしまう。  ふと、彼女は記憶喪失だと言っていたことを思い出した。だから、こんなにも子供っぽくて無防備なのだろうか。  そう思うと、お姉さんを気取る彼女が年下に見えてくる。見た目よりも、精神的には幼いのかもしれない。それでも、男の部屋で寝るのはどうかと思う。  少年、少年って……俺だって男なんだぞ。  騎士はそれ以上ディエースのことを視界に入れず考えないようにして、今日一日で得た情報、特に浴場でのソク師範の言葉の違和感を考え続けた。  ソク師範は、なぜあんなに唐突に、秘宝の存在を否定したのだろう?  最初に秘宝の伝承を語り、探索を促したのも彼だったはずだ。それが、牢屋が見つかった途端に「所詮は言い伝えに過ぎぬ」と。  まるで、秘宝が見つからないことを確定させるかのように。あるいは、秘宝が「牢屋にはない」という事実を強調したかったのか?  だとしたら、なぜ?  館の主人であるゴッドドラモンが秘宝の存在を否定するならまだしも、宿泊客であるソク師範が、あそこまで断言する理由は何だ?  まるで、彼が秘宝の存在を知っているにもかかわらず、それを隠そうとしているかのように……。あるいは、誰かに知られたくない真実があるのか?  騎士の思考は堂々巡りし、どうにも眠気は来なかった。  退屈を持て余した騎士は、ディエースを起こさないようそっと部屋を出た。  眠れない夜の暇つぶしに、館内を少し探索してみようと考えたのだ。  窓の外から響き渡っていたデジタルストームの轟音も、夜になるとだいぶ静かになっていた。  廊下は薄暗く、不気味な静けさに包まれている。足音を殺し、壁に手を添えながらゆっくりと歩みを進める。  館の歴史を感じさせる重厚な調度品が、闇の中で巨大な影を落とし、まるで生きているかのように見えた。  騎士は宛てもなく館内を歩いていると、ふと、遠くの廊下の曲がり角で、誰かの影が視界の端をよぎった。  その動きは滑らかで、まるで闇に溶け込むかのようだ。思わず足を止めて身を潜めると、その影はソク師範のようだった。  普段の様子とは異なり、どこか焦ったような、あるいは何かを探しているかのような素振りで、壁や床に指先を這わせ、まるで何かを確かめるように進んでいく。 その視線は、まるで特定の何かを探しているかのように、食堂やロビーの方向、あるいは、見覚えのない壁の窪みなどを注意深く確認しているようにも見えた。  彼のパートナーであるマスターティラノモンの姿は見当たらない。 (ソク師範……やはり、何か隠しているのか? こんな夜中に、一人で何を探している?)  騎士は正体を探ろうと、物音を立てないよう、さらに慎重に後を追う。  しかし、騎士がほんの少しだけ踏み出した瞬間、床の古い木材が小さく「ミシッ」と軋む音を立ててしまった。  ソク師範の影は、その微かな音に気づいたかのようにピクリと反応し、俊敏な動きで一瞬にして視界から消え去ってしまった。  まるで、闇に吸い込まれるかのように。  ソク師範を見失った騎士は、別の場所へと足を向ける。  ふと、娯楽室の明かりがついていることに気づき、中を覗いた。そこには、レイラとユンフェイがいた。  二人のデジモン、スナリザモンとドラコモンも傍らにいる。レイラはどこか不安げな表情で、ユンフェイに何かを話しているようだった。  ユンフェイは真剣な顔でレイラの話に耳を傾けている。  騎士には二人の会話の内容までは聞こえないが、その真剣な雰囲気に、ただならぬ事情があることを感じ取った。  邪魔をしないよう、そっとその場を離れようとした。  しかし、ユンフェイが騎士に気づく。 「おお、騎士か。こんな時間にどうした?」  ユンフェイは、表情を崩さず、しかし友好的な声で騎士に問いかけた。 「明日の昼、一緒にトレーニングする約束を覚えているか? 剣を合わせること、楽しみにしているぞ」  騎士は頷き、簡単な挨拶を交わす。ユンフェイは笑顔で応じ、ドラコモンも尻尾を振って応えた。 「では、レイラ殿、これにて失礼します」  ユンフェイはレイラに丁寧に挨拶をすると、ドラコモンと共に娯楽室を後にした。  娯楽室に残されたのはレイラとスナリザモンだけになった。  騎士は、意を決してレイラに近づいた。彼女は相変わらず静かに座っており、スナリザモンが心配そうにその傍らに寄り添っている。  スナリザモンが、騎士の顔を見上げ、小さな声で尋ねた。 「あの……騎士殿、秘宝は……本当に、あるんですか?」  その幼い瞳には、純粋な好奇心と、かすかな期待が宿っている。 「俺は、どこかにあるんじゃないかと……」  騎士は、エリスへの信頼と、ソク師範の不自然な態度を思い出しながら言った。  レイラは、スナリザモンの頭を優しく撫でた。 「どうでしょうね、スナリザモン。ソクさんは『言い伝えに過ぎぬ』と仰っていましたが、このデジタルワールドでは、時に伝説が現実となることもあります。  秘宝があって噂が生まれるのではなく、噂があったから秘宝が生まれる。そういう因果の逆転が起こり得るのがデジタルワールドです。  特に、この館のように、何かを隠しているかのような場所では……」  レイラは言葉を濁し、視線を窓の外、嵐が収まりゆく闇の中へと向けた。スナリザモンが不安そうにレイラの腕に擦り寄る。 「騎士さん。もし、本当に秘宝が存在するのなら……なにか、良くないことが起きそうな気がするんです……」  彼女の声は静かだが、その言葉には深い諦めのような響きがあった。  デジモンイレイザーに仲間を奪われた過去を持つ彼女にとって、この混沌とした状況は、再び悲劇を呼び込む前兆のように感じられているのかもしれない。  騎士はそれ以上、言葉を継げなかった。  レイラとスナリザモンに別れを告げ、騎士は館内の自動販売機でジュースを買い、一口飲んだ。  冷たいジュースが、夜の館の緊張感を少しだけ和らげる。  ジュースを飲み終え、自分の部屋に戻ると、ディエースの姿がないことに気づいた。ベッドはもぬけの殻だ。  騎士は一瞬驚くが、日中の疲労と夜中の活動で、もはや深く考える気力はない。  ディエースが自分の部屋に帰ったのか、それとも何か別の目的で部屋を出たのか、騎士の思考はそこで停止する。  騎士の心には、ソク師範の不審な行動、レイラの言葉、そしてディエースの不在が重なり、新たな疑念と、拭いきれない不穏な予感が募る。  デジタルストームの轟音が止んだことも、その不穏さを一層際立たせていた。  館の平和な雰囲気の裏に隠された真実が、少しずつ顔を覗かせているような気がしてならなかった。  騎士は、残されたベッドに倒れ込むようにして、そのまま深い眠りについた。  Chapter4:『消えたソク師範』  4.1:『静寂の朝、空っぽの器』  騎士は、耳鳴りのような静寂の中で目を覚ました。  昨日、絶え間なく館を叩き続けていたデジタルストームの音は、嘘のように消え失せている。  そのあまりの静けさは、安らぎよりもむしろ、嵐の中心に迷い込んだかのような息苦しさを伴い騎士の鼓膜を圧迫した。  ベッドから身を起こし窓に歩み寄る。窓の外に広がっていたのは、夜とも朝ともつかない不思議な光景だった。  昨日までの荒れ狂う黒い嵐が全てを解体し尽くした世界は、静かなるダークエリアの如き底なしの闇に沈んでいた。  空も大地もその境界を失い、ただ破壊されたデータの残滓が蛍火のように儚く明滅しながら、重力から解放されたようにゆっくりと漂っている。  それは、世界の終わりを静かに見届けているかのような、幻想的で、そして不気味な光景だった。  制御された部屋の明るさと時計だけが、今が朝なのだと示している。 「ナイトー! 腹減ったぞー!」  ズバモンがベッドの上で飛び跳ね、静寂を破った。その無邪気な声に、騎士はわずかに頬を緩める。  重苦しい予感を振り払うように、食堂へと向かった。 螺旋階段を下り、食堂の扉を開けると、意外な光景が騎士を迎えた。  そこには、昨夜の疑心暗鬼に満ちた夕食の席が嘘のような、明るく賑やかな空気が満ちていたのだ。  嵐が止んだという純粋な安堵感が、ベーダモンが腕を振るう厨房から漂う香ばしい匂いと相まって、人々の心を解きほぐしているらしい。 「いやっほー! 少年、嵐止んだじゃーん! これで明後日には出られるってことよね!?  ベーダモンおばちゃんのこの銀河一美味い朝食、最終日まで思う存分堪能しなきゃ損損!」  ディエースはすでに席に着き、両手にパンを持ちながら上機嫌に叫んでいる。  ズバモンも「うっひょー! 今日も美味そうだ!」と目を輝かせ、彼女の隣に飛び乗った。 「マジそれな! 2日目はダークエリアみたいな景色が見られるって話だったけど、ホントに真っ暗っすねー!  でも、こういう非日常感もまた、旅の醍醐味ってやつっしょ! マジエモい!」  ワイズモンも宙をくるくると回りながら興奮気味に同意する。その楽天的な雰囲気に、レイラでさえ強張っていた表情をわずかに和らげていた。  その向かいの席では、エリスとフローラモンが静かに食事をしていた。  昨夜、地下牢で激昂したウィッチモンの姿が嘘のように、フローラモンは穏やかな表情でスープを口に運んでいる。  エリスもまた、普段と変わらない冷めた様子でパンをちぎっている。  騎士の視線に気づいたフローラモンが、小さく会釈した。  その様子からは、昨夜の出来事など何もなかったかのような平穏さが感じられた。  この平穏が、嵐の後のかりそめのものだと、この時の誰もが気づいていなかった。 「おはようございます、皆様」  そこへ、館の主であるゴッドドラモンが姿を現した。しかし、彼の声にはいつもの張りがなく、表情もどこか硬い。  場の明るさとは不釣り合いなその様子に、騎士は微かな違和感を覚えた。ゴッドドラモンは食卓を見渡し、ふと眉をひそめる。 「…おや? ソク師範とマスターティラノモン殿の姿が見えませんな」  その一言で、食堂の賑やかな空気に、初めて冷たいヒビが入った。 「師範なら、毎朝のトレーニングでもしてるんじゃないっすか? 5階のトレーニングルームとか。真面目そうだし」  ワイズモンが軽口を叩くと、その言葉にユンフェイが静かに反応した。 「いや、私とドラコモンは夜明け前からトレーニングルームにいたが、師範たちの姿は見かけていない」  ドラコモンも頷く。 「ええ、俺とユンフェイ殿以外、誰もいませんでしたよ」  時間が一分、また一分と過ぎていく。ベーダモンが次々と料理を並べ終えても、恰幅の良い師範とその巨大なパートナーが現れる気配はなかった。  楽観的なざわめきが、しだいに明確な不安へと変わっていく。 「私が部屋の様子を見て参ります」  沈黙に耐えかねたように、ゴッドドラモンはそういうと、足早に食堂を後にした。  残された者たちの間に、張り詰めた空気が落ちる。皆、食事の手を止め、ゴッドドラモンが下りていった螺旋階段の方を固唾を飲んで見守っていた。  やがて、ゴッドドラモンが険しい表情で戻ってきた。 「……お留守のようです。扉は内側からデジタルロックがかかっており、応答がありません」  彼はそういうと、一同を促し、三階の宿泊エリアへと向かった。  ソク師範の部屋の前で、ゴッドドラモンは自らの指先から光の鍵を生成する。  デジモンは武器などの様々なアイテムをデータ化し、その電子の体の中に収納出来る。これもその応用だ。 「マスターキーで開けます」  その鍵が錠に差し込まれると、電子音と共にロックが解除された。ゆっくりと扉が開かれる。  その先に広がる光景に、誰もが息を呑んだ。 部屋は完璧に整頓されていた。  ベッドのシーツには1つもシワがなく、壁際に置かれた荷物もきちんとまとめられている。  だが、そこにいるはずのソク師範と、山のような巨体を誇るマスターティラノモンの姿は、どこにもなかった。  ただ、部屋の中央、磨き上げられた床の上に、ポツンと1つの物体が転がっていた。ソク師範がいつも腰に下げていた、旧式のデジヴァイスだ。  赤城が慎重にそれを拾い上げ、スクリーンを点灯させる。  そこに表示されたのは、空っぽのデータスロットと、冷たいシステムメッセージだった。 「……いない。マスターティラノモンのデータが、完全に消去されている」  赤城の冷静な声が、その場の空気を凍てつかせた。デジヴァイスは無傷。  しかし、その魂であるはずのパートナーデジモンだけが、跡形もなく消え失せている。  完全な密室で、争った形跡もなく、2つの巨大な存在だけが、忽然と消えたのだ。  先ほどまでの食堂の明るい喧騒が、遠い昔の出来事のように感じられた。 「そんな……まさか……デジモンイレイザーの仕業……」  レイラが蒼白な顔で呟いた。彼女の瞳には、かつて暴竜に仲間たちが蹂躙された戦場の光景が、鮮明に焼き付いたかのように揺らめいている。  スナリザモンが必死に彼女の肩を抱きしめるが、レイラの震えは止まらない。 「そ、そんなはずは……この館のセキュリティは完璧なはず……ありえん……」  ゴッドドラモンが狼狽しながら呟く。その威厳を失い、泳ぎ続ける視線を、赤城鋼太郎は見逃さなかった。 「外に出ただけとかかもしれねーぜ」 「バカを言わないで。外なんて存在しないわ」  ズバモンの言葉に、エリスが呆れたように突っ込む。 「デジタルストームによって、今の青嵐の館は、外へ出ることも外から来ることも不可能な電子の孤島だ。  ……つまりソク・ジンホ氏を消失させた犯人が居るとすれば、我々の中にいるということだ」  赤城の言葉で、その場にいた全員の呼吸が止まった。  それまで漠然と感じていた恐怖が、冷たく鋭い刃となって、互いの間に突き立てられた瞬間だった。  昨日まで同じ食卓を囲み、言葉を交わした仲間。その中に、ソク師範とマスターティラノモンを密室から消し去った、得体の知れない「敵」がいる。  誰もが、隣に立つ者の顔を盗み見る。友好的な笑みも、心配そうな眼差しも、全てが信じられなくなる。  疑念はウイルスのように瞬く間に広がり、それぞれの心に巣食った。  この絶望的な状況を打ち破ったのは、ディエースの場違いなほど明るい声だった。彼女はパン、と手を叩き、皆の注目を集める。 「ねぇみんな、落ち込んでてもしょうがないじゃん! イレイザーが犯人なら、普通に探しても見つかんないって!」  彼女はくるりと回り、エリスを指さした。 「それより、エリスちゃんが言ってた秘宝『刻の龍珠』を見つけようよ! それがあれば、イレイザーだってやっつけられるかもしれないじゃん? 力には力だよ!」  その言葉は、暗闇の中に差し込んだ一筋の、しかしあまりにも眩しすぎる光だった。  恐怖に支配された心にとって、「力」という言葉は抗いがたい魅力を持っていた。 「そ、それ面白そうっすねー! 超絶ヤバいパワーゲットで、犯人なんかボコっちゃいましょー!」  ワイズモンが真っ先に飛びつき、宙をくるくると回る。 「力……力があれば、もう誰も失わずに済む……」  レイラもまた、震える声で呟き、すがるような瞳でエリスを見た。彼女にとって、論理や推理は、失った仲間を呼び戻してはくれない。  だが、圧倒的な力があれば、これからの悲劇は防げるかもしれない。その希望に、彼女は賭けようとしていた。  秘宝の存在を信じ、その力を渇望するエリスも、当然のようにその輪に加わる。  その流れを、ユンフェイが冷ややかな声で断ち切った。 「馬鹿なことを言うな。敵の正体もわからぬまま、不確かな伝説に頼るのは愚者のすることだ。我々は冷静に犯人を探し出すべきだ」  彼の言葉には、剣士としての揺るぎない理性が宿っていた。 「ユンフェイ様の言う通りだよ!」  ティンカーモンが彼を支持し、赤城も頷く。 「その通りです。まずは情報の整理と論理的な分析が必要だ。感情に流されては、犯人の思う壺でしょう」  館の主であるゴッドドラモンも、自らの管理する館で起きた惨劇に責任を感じているのか、秩序の回復を望み「犯人探し派」に付いた。  こうして、嵐の館に閉じ込められた宿泊客たちの目的は、二つに分かれた。  秘宝の力による解決を求める『秘宝探し派』と論理による真実を求める『犯人探し派』。  騎士は、どちらの意見にも一理あると感じ、どちらにも与しなかった。  秘宝という甘い誘惑も、犯人を追い詰めるという正義感も、今のこの状況ではあまりに危ういものに思えた。  この静かなる闇の世界で、ただ独り、自らの目で真実を探り出すことを決意していた。  4.2:『騎士と剣士』  トレーニングルームの扉を開けると、そこには既にユンフェイがいた。  彼は漢服の袖をたくし上げ、静かに木剣の素振りを繰り返していた。  事件のことなど意に介さないかのように、その動きは水が流れるように滑らかで、一切の力みがない。  しかし、その背中からは、張り詰めた弦のような緊張感が漂っていた。 「来たか」  ユンフェイは素振りを止め、振り返る。その瞳は、昨日よりも遥かに鋭く、騎士の心の奥底まで見透かすようだった。 「こんな時に、とは思うか?」 「いや」  騎士は首を振った。 「俺も、剣を握りたかった。言葉だけじゃ、何も信じられない」 「同感だ」  ユンフェイは、騎士に木剣を投げ渡した。 「疑心暗鬼は剣を鈍らせる。誰が敵で誰が味方か、もはや言葉では分からん。ならば、剣で語るまで。  お前の剣に、曇りはないか。その魂は、信ずるに足るものか。この手合わせで、見定めさせてもらう」  彼の言葉は、騎士の胸に静かに染み込んだ。そうだ、自分も同じことを考えていた。  この男が、背中を預けるに値する相手かどうかを。  カッ、カッ、と木剣が触れ合う乾いた音が、静かな部屋に響き始める。  それはもはや、ただの稽古ではない。互いの存在の真偽を問う、魂の対話だった。  部屋の隅では、ズバモンとドラコモンが、固唾をのんでその様子を見守っている。 「ナイト……」 「ユンフェイ殿……」  パートナーたちの声が、二人の剣士の闘志をさらに燃え上がらせた。  しばらく打ち合った後、ユンフェイはふっと息をつき、騎士から距離を取った。 「君の剣には、迷いがない。多くの戦場を潜り抜けてきた者の剣だ。その剣ならば……信じてもいいのかもしれん」  その言葉は、騎士への信頼の証であり、同時に、真剣勝負への誘いだった。  ユンフェイの瞳に、静かな炎が灯る。 「──ここからは実戦形式で手合わせをしよう。君がこれまでの旅路で築き上げてきたもの、その全てを、この剣で示してもらおうか!」  その言葉と共に、ユンフェイの背後でドラコモンが咆哮を上げた。 「ドラコモン、ワープ進化! ──スレイヤードラモン!」  青い鱗の体躯が光のデータに包まれ、瞬く間に巨大な竜剣士へと姿を変える。その威容は、部屋の空気を圧迫するほどだ。  しかし、ユンフェイはスレイヤードラモンに命じるのではなく、その右手に握られた白銀の大剣『フラガラッハ』に手を伸ばした。 「レジェンドアームズと打ち合うにはそれ相応の剣が必要……借りるぞ、スレイヤードラモン」 「御意、ユンフェイ殿!」  スレイヤードラモンから手渡されたフラガラッハは、ユンフェイの手に吸い付くように収まった。  その瞬間、彼の全身から燃えるような紅蓮のデジソウルが立ち上り、大剣を真紅に染め上げる。  それは、テイマーとデジモンが一体となった、究極の剣の姿だった。  騎士もまた、呼応するようにディーアークを構えた。 「ズバモン、進化だ!」 「おう!」  眩い光と共に、ズバモンのデータが書き換えられていく。 「ズバモン、進化! ──ズバイガーモン!」  黄金の装甲を纏った、猛獣の如きデジモンが雄叫びを上げる。だが、騎士はそこで止まらない。 「さらに、アームズモード!」  ズバイガーモンは再び光となり、その姿を巨大な剣へと変えた。黄金の刀身を持つ猛々しい大剣。  紅の剣士と、金の騎士。二人の放つ闘気がぶつかり合い、トレーニングルームの空気がビリビリと震えた。  次の瞬間、二つの影が床を蹴り、部屋の中央で激突した。  紅のデジソウルを纏ったフラガラッハと、黄金のズバイガーモンがぶつかり合い、衝撃波が部屋全体を揺るがす。  それはもはや、模擬戦などではなかった。互いの全てを懸けた、真剣勝負。  ユンフェイの剣は、磨き抜かれた「技」の極致。一振り一振りが芸術品のように美しく、そして致命的な威力を持つ。  フラガラッハが宙を舞うたび、紅の残像が複雑な軌跡を描き、騎士を幻惑する。  対する騎士の剣は、経験と直感によって編み上げられた「戦」の結晶。定石もなければ、型もない。  敵の剣を体で受け流し、体勢を崩しながらも、獣のような獰猛さで反撃の牙を剥く。  ズバイガーモンの剣身が唸りを上げ、黄金の光が嵐のように吹き荒れた。  剣戟の音は、もはや聞き取れない。  ただ、絶え間なく続く衝撃音と、閃光だけが、二人の死闘を物語っていた。  決着は、あまりにも唐突に訪れた。  ユンフェイが放った必殺の突き。それは、光速と見紛うほどの、完璧な一撃だった。  誰もが、それで勝負は決したと思った。  だが、騎士はそれを、常人ではありえない反射神経で、剣の腹で受け流した。ズバイガーモンの刀身が大きくしなり、凄まじい衝撃を吸収する。  そして、騎士は、その衝撃を殺さず、逆に利用した。しなった剣の反動を、そのまま回転力に変え、コマのように身体を回したのだ。  遠心力によって加速された黄金の剣閃が、ユンフェイの懐に、下から抉るように突き上げられた。  それは、どんな教本にも載っていない、ただ生き残るためにその場で編み出された、天才的な一撃だった。  キィン、と澄んだ音を立てて、ズバイガーモンの切っ先が、ユンフェイの喉元で寸止めされる。  紅のデジソウルが霧散し、静寂が訪れた。  ユンフェイは、己の喉元に突き付けられた黄金の剣を、ただ呆然と見つめていた。  負けた。  己の全てを懸けた一撃が、それを遥かに凌駕する才能の前で、いとも容易く破られた。  じわり、と掌に汗が滲む。それは、戦いの熱によるものではない。  圧倒的な才能の差を突き付けられたことによる、冷たい汗だった。 「……君は、天才、なのだな」  ユンフェイは、絞り出すように言った。その声には、賞賛と共に、深い、深い絶望の色が混じっていた。  彼はフラガラッハを床に落とし、両膝をついた。  デジモンとの絆の力? 過酷な実戦経験が成せる技? そんなものではない。  これは、決して越えることのできない、天賦の才という名の断崖絶壁だ。  自分も、そうなりたかった。  あの、絶対的な輝きを放つ、伝説の剣。そんなものに選ばれる剣士になりたかった。  騎士は、ズバイガーモンを退化させ、元のズバモンの姿に戻した。  そして、ユンフェイの前に歩み寄り、静かに手を差し伸べた。 「俺は、天才じゃない」  その声は、落ち着いていた。 「ただ、ズバモンと一緒に、何度も負けて、何度もギリギリで勝ってきただけだ。ユンフェイさん、あなたの剣は綺麗すぎる。  俺みたいに、泥水を啜るような戦いを、してこなかったんだろう」 「……何が言いたい」  ユンフェイは、差し伸べられた手を振り払うこともできず、悔しげに顔を歪ませた。 「才能の差を、泥水で埋めろとでも言うのか。それは、持たざる者への慰めに過ぎん」 「違う」  騎士は、きっぱりと否定した。 「俺が言いたいのは、剣は一人では振れないってことだ。俺の剣は、ズバモンがいて初めて意味を持つ。  ユンフェイさんの剣だって、あのスレイヤードラモンがいて、初めて完成するんじゃないのか?  デジソウルは人間とデジモンで対等に力を合わせることで生みだす協力という力……って聞いたぜ」  その言葉に、ユンフェイはハッとして顔を上げた。  視線の先には、心配そうに自分を見つめるスレイヤードラモンの姿があった。 「ユンフェイ殿! お怪我は!?」  パートナーの言葉が、ユンフェイの凍てついた心に染み渡る。  そうだ。今の自分は一人ではなかった。  かけがえのない相棒がいる。四大竜の試練という、途方もない苦難を共に乗り越えてきたではないか。 「すまない、スレイヤードラモン。お前の剣を借りておきながら、このザマだ」 「いえ、ユンフェイ殿。俺は、貴方の力となれたのならば誇りに思います」  しかし、それでも。心の奥底で燻る渇望は消えない。 「今日のところは、私の負けだ。……今は、放っておいてくれ」  ユンフェイは、騎士の手を取ることなく、よろよろと立ち上がると一人トレーニングルームを後にしてしまった。  残されたスレイヤードラモンも、悲しげに主の後を追う。 「……なんか、悪いことしちまったかな、ナイト」  ズバモンが、心配そうに騎士の顔を見上げた。 「さあな」  騎士は、ユンフェイが消えていった扉を、ただ静かに見つめることしかできなかった。  その二人の剣士の姿を、二つの異なる視線が捉えていた。  柱の影から、ティンカーモンが瞳をハートの形にして、その光景に見惚れていた。 (ユンフェイ、かっこよかった~! でも、負けちゃった……あんなに、あんなに悔しそう……)  彼女の純粋な恋心は、ユンフェイの絶望を目の当たりにし、危険な決意へと変わる。 (もっと、もっと強い力がユンフェイにあったら……!)  彼女の視線が、騎士の持つズバイガーモンに、じっとりと注がれた。  そして、部屋の入り口では、エリスがそのティンカーモンの姿を、氷のように冷たい視線で見つめていた。  4.3:『秘宝探し組の発見』  一階の娯楽室では、『秘宝探し派』がテーブルに広げられたボードゲーム盤を囲んでいた。  ジュークボックスから流れる穏やかなメロディーが、この部屋だけを事件の緊張感から切り離しているかのようだ。 「いっけー! アタシのターン! サイコロの出目は……6! 1、2、3……やった! ワイズモンの土地、買収~~~!」 「げげっ! マジすかディエースさん! そこの土地、このゲームの銀座的な場所なのにー! 破産しちゃうっすよぉ!」  ディエースとワイズモンが、子供のようにはしゃいでいる。  その隣で、レイラは眉間に皺を寄せ、落ち着きなく指先でテーブルを叩いていた。  ソク師範が消え、犯人がこの中にいるかもしれないという状況は、彼女の神経を極限まですり減らしていた。 (早く、ここから出たい……。安全な場所へ……)  その焦燥を、スナリザモンだけが感じ取っていた。彼は心配そうにレイラの顔を覗き込む。 「レイラ、大丈夫? 顔色が悪いよ」 「ええ、大丈夫よ、スナリザモン。ただ、少し……疲れただけ」  そんな彼女を気遣うように、ワイズモンが明るく声をかけた。 「レイラさん、考えすぎは体に毒っすよー! こういう時こそ、ゲームで頭を空っぽにするのが一番! さ、レイラさんの番っすよ!」  ワイズモンの気遣いは嬉しかったが、レイラの心は晴れない。  意外なことに、そのゲームの輪にはエリスも加わっていた。彼女は表情一つ変えず、淡々とコマを進めている。  しかし、その冷たい視線は、時折、部屋の入り口へと向けられていた。まるで、誰かを待っているかのように。  彼女の足元では、フローラモンがそわそわと部屋の隅を嗅ぎ回っていたが、誰もその奇妙な行動には気づかない。  そこへ、ティンカーモンが俯きがちに部屋へ入ってきた。ユンフェイの敗北で、しょんぼりと肩を落としている。  その姿を認めると、エリスの隣にいたフローラモンが、そっと彼女に歩み寄った。 「ティンカーモンちゃん」  穏やかで、優しい声。 「ユンフェイさんのこと、心配なんだね。……でも、落ち込んでるだけじゃ、何も変わらないよ」 「フローラモンちゃん……。でも、私、何もユンフェイのためにできなくて……」 「ううん、できることはあるよ」  フローラモンは、ティンカーモンの小さな手を優しく握った。 「秘宝を見つけるの。その力があれば、きっとユンフェイさんも元気を出してくれる。エリスもね、本当は心配してるんだよ。ただ、素直じゃないだけ」  フローラモンの言葉は、ティンカーモンの心に温かく染み渡った。そうだ、落ち込んでいる場合じゃない。 「うん……! 私、探す!」 「あっちのスクリーン、調べてみよう? 何か面白いもの、隠れてるかもしれないから」  フローラモンに導かれ、ティンカーモンは中央の大型ホログラムスクリーンの前へと向かった。  そこでは、過去のデジモンバトルの名勝負がアーカイブとして再生されている。 「きっと、この中に何かあるはず……!」  ティンカーモンは、必死になって操作パネルをいじり始めた。膨大な量のバトルアーカイブを、一つ、また一つと再生していく。  チャンピオンたちの華麗な技、伝説の戦い。しかし、それらは何のヒントも与えてはくれない。  それでも彼女は諦めなかった。映像を早送りし、巻き戻し、隅々までチェックしていく。  その執念が、ついに一つの綻びを見つけ出した。  とある無名のバトルデータの、終了間際の数フレーム。そこに、本来あるはずのない、別のデータが隠されていたのだ。  ティンカーモンが慎重にそのデータを展開すると、スクリーンにノイズが走り、見知らぬテイマーの顔写真と、断片的な調査ログが映し出された。 『青嵐の館、調査記録。対象は館の主、ゴッドドラモン。彼の行動には不可解な点が多い。  特に、定期的に『展望室』で何らかの儀式を行っているフシがある。嵐のエネルギーと同期しているのか?』  その記録は、突然ブツリと途切れ、ゴッドドラモンの顔写真が大写しになったかと思うと、 『このデータは館の管理者に転送されました』という冷たいメッセージが表示され、スクリーンは元のバトル映像に戻ってしまった。 「な、何今の!?」  見守っていたワイズモンが驚きの声を上げる。 「ゴッドドラモンが……儀式? やっぱり、あのデジモン、何か隠してるんだわ……」  レイラの呟きは、その場の全員のゴッドドラモンへの疑念を、確信へと変えさせた。そして、彼女は蒼白な顔で付け加えた。 「……今のテイマー、無事なのかしら。こんな記録を残して……ゴッドドラモンに気づかれて、消されてしまったんじゃ……」  その言葉に、娯楽室の空気が一気に冷え込む。ソク師範の消失と、見知らぬテイマーの不吉な記録が重なり、この館の闇の深さを改めて全員に突きつけた。  しかし、ティンカーモンは、その恐怖よりも、希望の光に目を向けていた。 「『展望室』……! きっとそこに、秘宝の手がかりがあるんだわ!」  ティンカーモンの瞳に、再び強い光が宿る。  エリスは、その様子を満足げに見つめ、口元にかすかな笑みを浮かべていた。  4.4:『新たなるルール』  昼食の鐘が鳴り、一同は食堂へと足を運んだ。螺旋階段を上る足取りは、誰もが重い。  ソク師範の失踪と、見えざる犯人の影が、館全体を鉛色の空気で満たしていた。  しかし、食堂の扉を開けた瞬間、その重苦しい空気を吹き飛ばすかのような、香ばしくスパイシーな匂いが彼らを包み込んだ。 「おやおや! 星の旅人さんたち、お腹はペコペコかい? 今日のランチは、特製ギャラクシーカレーだよ! 隠し味の彗星パウダーがピリリと効いてるからね!」  ベーダモンが、銀河の星々を溶かし込んだかのような、美しい紫色のカレーをテーブルに並べていく。  その圧倒的な存在感と美味しそうな匂いに、張り詰めていた一同の表情が、わずかに和らいだ。 「うっま! なんだこれ! 辛いのにフルーティーで、超美味いじゃんナイト!」  ズバモンは、早速カレーに飛びつき、目を輝かせている。  騎士も一口運び、その複雑で奥深い味わいに、思わず息を漏らした。  どんな状況でも、美味しい食事は心を癒す。それは、このデジタルワールドでも変わらない真理らしかった。  ふと騎士は、少し離れた席で一人、黙々とカレーを口に運ぶユンフェイの姿に気づいた。  模擬戦の後、彼の背中にはどこか近寄りがたい雰囲気が漂っている。 (少し、言い過ぎたか……)  騎士は、自分が放った「泥水を啜るような戦い」という言葉を思い出し、胸に微かな痛みを感じた。  彼を励ますつもりだったが、プライドを傷つけてしまったのかもしれない。  ズバモンも、騎士の視線の先にいるユンフェイとドラコモンを気にしているのか、そわそわと落ち着きがない。  そんな中、食事の手を止めたエリスが、静かに口を開いた。 「午前中、『秘宝探し派』が調査した結果を報告するわ」  ティンカーモンが、少し誇らしげに、そして少し震える声で続けた。 「娯楽室のスクリーンに、昔のテイマーが残した記録が隠されてたの! そこには、ゴッドドラモンさんが展望室で何か『儀式』をしてるって……!」  その報告に、ゴッドドラモンは「儀式などと、人聞きの悪い」と顔をしかめる。  しかし、彼の言葉を遮るように、赤城が鋭い声で言った。 「フン、そんな不確かな情報より、物的な証拠があります」  彼はテーブルに小さなデータ端末を置くと、情報ホログラムを投影した。 「このデータを見てください。ソク師範の部屋から、極めて微量ですが、砂漠地帯に生息するデジモン特有のデータ痕跡を発見しました。  そして、この中でその条件に該当するパートナーを持つのは、ただ一人……」  赤城の指が、一直線にレイラを指した。 「あなただけだ、レイラ・シャラフィ!」  食堂の空気が凍りつく。レイラは、スプーンを持ったまま凍りつき、その顔から急速に血の気が引いていく。 「そ、そんな……。スナリザモンは、ずっと私と……」 「僕じゃない! 僕は、昨日の夜、レイラとずっと一緒にいたよ!」  スナリザモンが必死に叫ぶが、赤城の暴走は止まらない。 「僕は知っている。あなたは、かつて『グラニットガーディアンズ』という傭兵部隊を率いていた。  そして、金のためなら汚い依頼も請け負った悪名高いチームだったことも。  金で動く傭兵が、デジモンイレイザーに雇われ、この館に潜入した……。その可能性は、決してゼロではない!」  赤城の断定的な口調に、ゴッドドラモンが「おやめなさい、赤城鋼太郎様!」と割って入った。 「痕跡があったというだけで、彼女を犯人と決めつけるのは早計です。それに、そのデータは以前の宿泊客のものかもしれません。あなたは思い込みが激しすぎる」  館の主として、宿泊客を擁護するその姿は、一見すると公平に見えた。  しかし、ゴッドドラモンは、この機を逃さなかった。 「ですが、このままでは、赤城様のように疑心暗鬼が広がるばかり。皆様の夜の安全と館の秩序のため、一つルールを設けたい!」  彼は、集まった全員の顔をゆっくりと見渡し、告げた。 「今宵の夕食後、皆様の投票によって、最も疑わしいと思われる人物を一人、選んでいただきたい。  そして、最も票の多かった者を朝まで地下の牢にて『保護』するのです」 「正気か!?」  赤城が怒りに声を震わせる。 「多数決で確証もなくそんなことをすれば中世の魔女狩りと同じだ! 僕は断じて認めん!」 「お言葉ですが、赤城様」  ゴッドドラモンは、静かにしかし有無を言わせぬ響きで反論した。 「牢屋はこの館で最も強固で安全な場所。ソク師範のように、密室から忽然と消えることなど決してありえません。  考えようによっては牢に入れられた者こそが、犯人の脅威から逃れられる最も安全な人物となるのです」  その歪んだ論理に一瞬誰もが言葉を失った。  沈黙を破ったのは、ワイズモンの軽薄な声だった。 「なるほどー! それならアリかも! 生贄じゃなくて一晩だけのVIPルーム行きみたいなもんすね! 安全第一っしょ!」  ワイズモンのその一言が、場の空気を決定づけた。安全という言葉が、恐怖に支配された者たちの心に甘く響く。 「確かにねー。何もしないでまた誰か消えちゃうよりはマシじゃない?」 「そうね。夜、部屋で怯えながら過ごすのはごめんだわ」  ディエースとエリスが同調し、レイラもまた、自らの安全のために、力なく頷いてしまう。  こうして悪魔のルールは、赤城の怒声と騎士たちの無力な沈黙を飲み込みながら可決されてしまったのである。  食堂の空気はもはやカレーの匂いさえ感じられないほど、冷たく凍てついていた。  4.5:『ディエース』  昼食の後、騎士とズバモンは、重い足取りで自室へと戻っていた。  ディエースも、何食わぬ顔でその後ろをついてくる。  部屋に戻るなり、ディエースはベッドにどさりと倒れ込んだ。 「いやー、なんかすごいことになってきたねー!」  彼女の声は、まるで面白い映画でも見たかのように、明るく弾んでいた。その能天気さに、ズバモンですら不満げに口を尖らせる。 「全然すごくねーよ! なんかみんなピリピリしてて、嫌な感じだぜ。なあナイト、本当にこの中に、ソクのおっちゃんを消した犯人がいるのか?」  ズバモンの問いに、騎士は静かに首を振った。 「……わからない。だが、俺はまだ信じたくない。昨日まで一緒に飯を食ってた彼らを、疑うなんてこと……」  騎士の脳裏に、豪快に笑うソク師範の太った顔が浮かぶ。彼が消えたことは事実だ。  だが、この中にいる誰かが彼を消したとは、どうしても思いたくなかった。赤城のやり方は乱暴すぎるし、ゴッドドラモンの提案はあまりに危険だ。  しかし、ディエースはそんな騎士の葛藤を気にも留めず、ベッドの上で足をばたつかせた。 「えー、でも、そういうのってワクワクしない少年? 犯人は誰だ! みたいなミステリーゲーム! 今夜の投票で誰が選ばれるか、楽しみじゃない?」 「ディエースは、この状況を楽しんでいるのか……?」  騎士は、信じられないものを見る目で彼女を見た。 「ソク師範がいなくなったんだぞ。次は、俺たちの中の誰かが消されるかもしれない。お前だって……。なのに、なぜそんな風に笑えるんだ?」  その真剣な問いかけに、ディエースはくすくすと楽しそうに笑うだけだった。そして、くるりと寝返りを打つと、挑発的な視線を騎士に向ける。 「アタクシが狙われたら、少年が助けてくれるでしょ? ね、ヒーロー?」 「……からかうな」 「あ、でもさ」  ディエースは楽しそうに言葉を続けた。 「もし少年が犯人だったら、アタシ、襲われてもいいかもな~」 「なっ!?」  そのあまりに不意打ちで、誘うような言葉に、騎士の顔にカッと熱が集まった。心臓がドクンと大きく跳ねる。  彼女の赤いボディスーツが、やけに目に焼き付いて離れない。  騎士が狼狽する様子を見て、ディエースは満足げに、にやりと笑った。 「なーんてね。でも、今の少年じゃ無理かな。アタシが満腹なら、少年には絶対勝てるし」  彼女はそう言うと、けらけらと悪戯っぽく笑った。その笑顔は、どこまでが本気で、どこからが冗談なのか、全く読ませない。  騎士は、そんな彼女の態度に翻弄させられながらも、同時に、漠然とした違和感を覚えていた。  記憶を失っているから、こんなにも奔放なのか。それとも、何か別の理由が……?  彼女のことが、出会った頃よりも、さらに分からなくなっている。  騎士は、その掴みどころのない年上の少女から、そっと視線を逸らすことしかできなかった。  4.6:『赤城鋼太郎の狂気』  昼食を終えた後の時間は、まるで嵐の前の静けさのように、重く、そして不気味に過ぎていった。  ベーダモンの作った絶品のカレーも、喉を通ればただのエネルギーの塊となり、心を温めるには至らない。  誰もが、次に何が起こるのかという漠然とした不安に苛まれ、自室に戻る者、娯楽室の喧騒に逃げ込む者、  ただロビーのソファに沈み込む者と、行動はバラバラだった。その淀んだ空気を切り裂いたのは、やはりあの男だった。  赤城鋼太郎は、ロビーの中央、神秘的な光をゆらめかせ続ける水晶柱の前で、有無を言わせぬ強い口調で全員の召集をかけた。  プライベートな時間に水を差された何人かは不満げな顔をしたが、彼の鋭い眼光とただならぬ雰囲気に逆らうことはできず、皆、何事かとロビーに集まってくる。  「一体なんなのよー、人が気持ちよく昼寝してたってのに」  ディエースが気だるそうに欠伸をしながら現れ、エリスは壁に寄りかかり、腕を組んで冷ややかにその様子を眺めている。  ユンフェイは静かに、しかし警戒を解かずにその場に立ち、騎士もまた、ズバモンを連れ、赤城の次の言葉を待っていた。  全員の顔を見渡し、赤城はまるで法廷に立つ検事のように、衝撃的な言葉を突きつけた。 「集まってもらったのは他でもない。もはや一刻の猶予もないからだ。この中にいる犯人は、十中八九、デジモンイレイザーだ」  その名が出た瞬間、ロビーの空気が凍りついた。  レイラが「ひっ」と短い悲鳴を漏らし、スナリザモンが慌てて彼女の前に立つ。  ワイズモンも軽薄な笑みを消し、ゴクリと唾を飲む音がやけに大きく響いた。 「馬鹿な……。イレイザーが、こんな場所に、何の目的で……」  ゴッドドラモンが絞り出すように言ったが、赤城はそれを鼻で笑った。 「目的はある。だからこそ、ソク・ジンホは消された。奴らの恐ろしさを、あなた方はまだ理解していない」  赤城は、自分の知識がこの場の誰よりも優れていることを誇示するかのように、言葉を続ける。 「デジモンイレイザーは、単にデジモンを消去するだけの野蛮な集団ではない。  彼らは、テイマーの記憶や感情といった、最も根源的なデータすら消し去るという報告がある。  これは誇張された噂などではない。僕はその犠牲者を何人か見てきた。  肉体的には無傷のまま、ただ魂を抜かれた抜け殻のようになっていた者もいる。  愛するパートナーのことも仲間と過ごした日々のことも全てを忘れ植物人間のようになった犠牲者だ」  彼の言葉には、実体験からくる揺るぎない確信があった。その事実の重みが、じわりと全員の肌を刺す。  それは、単なる「死」よりも残酷な、存在そのものの抹消だった。 「なぜソク師範だけで留まっているのかは不明だ。奴は気まぐれだからな。だが、このまま悠長に構えていればどうなるか……。  次の朝には僕達全員が、互いの名前さえ思い出せない抜け殻となって、このロビーを彷徨っていても、何らおかしくはない」  赤城が煽る極度の危機感は皆の心に深く根を張り恐怖という名の冷たい蔓を伸ばし始めた。  完全に場の主導権を握った赤城は、緊迫した空気の中、公開尋問を開始した。 「犯人の目的を探るには、まず被害者の足取りを追うのが鉄則だ。昨日、夕食後にソク師範の姿を見た者は? どんな些細なことでもいい、報告しろ」  重い沈黙が流れる。誰もが、自分の発言が誰かを犯人へと導いてしまうことを恐れていた。  その沈黙を破ったのは、厨房からひょっこりと顔を出したベーダモンだった。 「ああ、そういえば。夜食の片付けをしてたら、師範が厨房の水を飲みに来たよ。ひどく落ち着かない様子でねぇ。  何かを探してるってわけでもなさそうだったけど、やけにキョロキョロと辺りを見回してたのが気になったかねぇ」  一つの証言が、堰を切ったように次の証言を呼び起こす。 「そういえば……」  ロビーのソファで寛いでいたワイズモンが、思い出したように言った。 「夜中に展望室に行こうとしたんすけど、その途中の廊下でソク師範とすれ違いましたねー。  ベーダモンさんの言う通り、なんかそわそわしてて。壁とか床とか、手で触って確かめたりしてて、マジで挙動不審でしたよ。何か落とし物でもしたんすかね?」  そして、最後に騎士が、意を決して一歩前に出た。 「俺も、昨夜、不審な影を見た」  騎士の言葉に、全員の視線が集まる。 「夜中に眠れずに館内を歩いていたら、遠くの廊下の曲がり角で、誰かが何かを探しているようだった。  顔まではっきりとは見えなかったが、体格からして、おそらくソク師範だったと思う。壁や床に指を這わせて、何かを確かめるように進んでいた。  俺が気づいたことに気づいたのか、すぐに姿を消してしまったが……」  4.7:『三つの証言、偽りの天秤』  ベーダモン、ワイズモン、そして騎士。三つの証言が、一つの事実を浮かび上がらせた。  ソク師範は、失踪する直前、館のどこかで必死に「何か」を探していた。  その事実が、ロビーに集まった者たちの疑心暗鬼に、具体的な形を与えてしまう。  最初に口火を切ったのは、やはり赤城鋼太郎だった。彼は、昼食後の僅かな時間で成し遂げた調査の成果を、勝利を確信した検事のように突きつけた。 「ソク・ジンホが秘宝を探していたことは明白だ。そして、それを独占しようとした犯人に消された。  ここまでは、もはや議論の余地はない。問題は、誰がそれを成し得たかだ」  彼はデータ端末を操作し、ホログラムスクリーンに館内ネットワークのログを表示させる。 「昼食後、私は館のネットワークログを解析させてもらった。  すると、昨夜、ソク師範の部屋のデジタルロックが、外部から不正なハッキングを受けて解除された記録が残っていた。  そして、そのハッキングに使われたコードの痕跡を追ったところ、発信源は……」  赤城の指が、一直線にレイラを指した。 「驚くべきことに、レイラ、君の部屋だった!」  決定的な物的証拠。食堂での告発とは、わけが違う。レイラは息を呑み、その顔から急速に血の気が引いていく。 「そ、そんな……私に、ハッキングなんて……」 「傭兵なら、その道に詳しい仲間が一人や二人いてもおかしくないだろう。あるいは、君自身がその技術を隠し持っていたとしても、驚きはしないがね」  赤城が冷たく言い放った、その時だった。 「嘘です!」  レイラが、恐怖を振り絞るように叫んだ。 「私は、昨日の夜、娯楽室で騎士くんと話した後、私は部屋に戻らず、ここのソファで……ずっと夜を明かしました。  私の部屋には、誰もいなかったはずです!」  アリバイの主張。赤城が提示した「物的証拠」と、レイラの「証言」が、正面から激突した。  ハッキングの記録は真実なのか。それとも、レイラが嘘をついているのか。あるいは、その両方が、誰かの仕掛けた罠なのか。  レイラは勢いを借り、自らのアリバイを補強するために、震える指でエリスを指さした。 「私がソファにいた時、エリスさんとフローラモンさんが、こっそりロビーの中央、あの水晶柱のあたりを調べているのを見ました!  彼女なら、私の部屋に罪をなすりつけることくらい簡単だったはずです!」  全員の視線がエリスに集まるが、彼女は全く動じない。涼しい顔で、レイラの告発を受け流した。 「ええ、調べていたわよ。でもそれは、この賢者様が不審な行動を取っていたから、その注意を逸らすため。そして、私にも証拠があるわ」  その言葉に、今度はワイズモンが「え?」と素っ頓狂な声を上げる。  エリスの傍らで、フローラモンが眩い光に包まれた。 「フローラモン進化! ウィッチモン!」  現れた魔女は、その鋭い瞳でワイズモンを睨みつけた。 「私のウィッチモンが、ソク師範が消えた部屋の前で、微弱な魔術の残滓を感知したの。  それは、空間の情報を盗み見るための、高度な探査魔法の痕跡。そして、この魔術体系は……」  エリスは、そこで一度言葉を切り、ワイズモンを侮蔑するように見つめた。 「同じウィッチェルニー出身のデータを持つ私には分かる。賢者のローブを纏う魔人型デジモンが、最も得意とする術式よ」  ウィッチモンが断言する。  ウィッチェルニー。魔術を操るデジモンたちの故郷。その出身者による専門的な証言は、抗いがたい説得力を持っていた。 「なっ!? 魔術の残滓ですって!?」  追い詰められたワイズモンは、大げさに驚いてみせる。 「それこそ、この館の主が仕掛けた監視魔法とかじゃないんすか!? 僕らを嵌めるための!」  矛先は、とうとう館の主へと向けられた。 「そもそも、ソク師範を密室から消せるなんて芸当ができるのは、この館のシステムを完全に掌握してるゴッドドラモンさんしかいないっしょ!  僕らの知らない隠し通路の一つや二つ、絶対にあるはずっすよ!」  物的証拠、アリバイ、専門的証拠。それぞれが、もっともらしい輝きを放ちながら、乱れ飛ぶ。  誰もが容疑者であり、誰もが告発者となりうる。  騎士は、この泥沼のような罵り合いを黙って見ていた。隣に立つズバモンが、不安そうに騎士の服の袖を掴む。 「なあナイト……誰が嘘ついてんだ……?」 「……わからない。わからないから、今は黙って見てるしかない」  ロビーは、もはや誰を信じればいいのか分からない、疑心暗鬼の坩堝(るつぼ)と化していた。  この狂気の連鎖を断ち切ったのは、ユンフェイの静かだが、芯の通った声だった。 「もうよせ。これではただの醜い罵り合いだ。証拠もなく互いを貶め合うのは、武人のすることではない」  彼の言葉が、わずかに場の熱を冷ます。  しかし、一度燃え上がった不信の炎は、そう簡単には消えなかった。 「……皆様、落ち着きなさい」  最後に、ゴッドドラモンが重々しく口を開いた。その表情には疲労の色が濃い。 「このままでは埒が明かない。決着は、夕食後の投票に委ねるしかありますまい」  館の主による、非情な宣言。議論は、最悪の形で強制的に打ち切られた。  一同は、夕食の席で、誰に「断罪」の一票を投じるか、それぞれの思惑を胸に秘めたまま、重い足取りで解散するしかなかった。  4.8:『二日目の自由時間』  投票の刻まで、あと数時間。  告発合戦で生まれた決定的な亀裂は、もはや修復不可能だった。  ロビーに集っていた者たちも、今は互いの視線を避けるように散り散りになり、  それぞれが最後の情報を求めて、あるいは自らの投票先を固めるために、館内を静かに動き始めていた。  騎士は、ソファの隅で小さく膝を抱え、震えているレイラの姿から、目を逸らすことができなかった。  無数の敵と戦ってきた。時には、裏切りにも遭遇した。だが、こんな風に、証拠もなく仲間を吊し上げようとする状況は、初めてだった。  その時、ディエースが騎士の隣に座り、甘えるような声で囁いた。 「ねー少年、あんな子ほっといてさ、こんな時こそ部屋でゲームでもしない? 退屈しのぎにはなるって」  騎士は彼女の能天気な言葉に無性に腹が立った。 「……断る。ディエースは、この状況が楽しいのか?」 「えー、別にー? でも、どうせなら楽しんだ方がお得じゃん」  ディエースはケラケラと笑う。  騎士はそれ以上相手にせず、立ち上がると、レイラの元へと歩み寄った。  ディエースは、その背中を、面白くなさそうに、じっとりと見つめていた。 「レイラさん」  騎士が声をかけると、レイラはびくりと肩を震わせ、怯えた瞳で彼を見上げた。 「俺は、まだ誰も信じられない。それは、誰も犯人だと思いたくないからだ。あなたもそうだろ?」  その言葉に、レイラの瞳から、張り詰めていたものが、ぽろりと涙になってこぼれ落ちた。 「私じゃ……ありません……!」 「わかってる。だから、確かめに行こう。赤城さんが言ってた、ハッキングの証拠ってやつを」  騎士の言葉に、レイラはこくりと頷いた。その二人の元へ、ワイズモンが慌てたように飛んでくる。 「僕も行きます! レイラさんは、僕がこの館に誘ったんすよ! 彼女が犯人なわけない! 僕がこの身の潔白と共に、彼女の潔白も証明してみせます!」  ワイズモンの必死な様子に、騎士は少し意外に思った。 「なんで、そこまでレイラさんを?」 「そりゃ、ダチだからっすよ! 旅の途中で会って、意気投合したんす! 彼女の過去も聞いた。だからこそ、信じられるんすよ!」  ワイズモンは、いつもとは違う真剣な表情で言った。  そこへ、背後から重い足音が近づいてくる。 「フン、感傷に浸っている暇があるのか。お前たちが何か企んでいないか、我々も監視させてもらう」  赤城と、その隣にはカイザーレオモンが立っていた。 「赤城、いささか強引が過ぎるのでは。彼女らが犯人であると決まったわけでは……」 「黙れカイザーレオモン。奴らが証拠隠滅に走る可能性もある。見過ごすわけにはいかん」  カイザーレオモンは、主人の暴走を諌めようとするが、聞き入れられないと悟ると、申し訳なさそうに騎士たちに一礼した。  こうして、四者四様の目的を持つ、奇妙な共同捜査チームが結成された。 「さて、どこから調べますかねぇ……」  ワイズモンが宙で腕を組み、思案するように言った。赤城はロビー全体を見渡し、難しい顔で腕を組む。 「闇雲に探しても時間の無駄だ。何か手がかりが……」 「僕に任せてください!」  ワイズモンはそう言うと、ローブの袖から水晶の振り子を取り出した。 「こういう時は、魔術的ダウジングに限るっす! この館の中で、最も強く『隠された何か』の気配がする場所を探知してみせますよぉ!」  ワイズモンは目を閉じ、呪文を唱え始める。彼の周りを淡い光が渦巻き、水晶の振り子がゆっくりと揺れ始めた。  振り子は徐々に振れ幅を大きくし、やがて、一直線にロビーの受付カウンターを指し示した。 「ビンゴ! やっぱりここっすよ! カウンターの中から、何かを隠蔽してる強力な魔力の流れを感じます!」  ワイズモンの言葉に、一同は受付カウンターへと視線を集中させる。  近づいてみると、カウンターは頑丈なデジタルロックで施錠されており、物理的にも魔法的にも、固く閉ざされているのが分かった。 「フン。魔術的な小細工か。だが、物理的な構造の前では無力だ」  赤城が、カウンターの構造を冷静に分析し始める。 「このロックは、内部の物理的な機構と連動している。特定箇所に精密な衝撃を与えれば、あるいは……」 「その『特定箇所』なら、心当たりがあります……」  レイラが、傭兵の顔つきに戻っていた。彼女はカウンターの側面を指さす。 「装甲の継ぎ目。あそこが、一番脆いはず……」 「よし……ズバモン!」 「おう、ナイト!」  騎士の呼びかけに、ズバモンが剣となってその手に収まる。騎士は、レイラが示した一点に狙いを定め、鋭く剣を振り抜いた。  ガキン、という金属音と共に、カウンターの隠しパネルが弾け飛ぶ。  その奥から現れたのは、一枚の古びたカードキーだった。 「あった!」  ワイズモンが歓声を上げる。騎士がそれを拾い上げると、表面に「J.S.」というイニシャルが刻まれているのが見えた。 「J.S.……? ソク・ジンホ、か?」  赤城が呟く。ソク師範が、ゴッドドラモンの秘密を探っていた証拠だろうか。  スナリザモンが、不安そうにレイラの袖を引いた。 「レイラ、これって……」 「わからない……。でも、何か、嫌な予感がする……」  皆がそのカードの意味を測りかねている中、赤城だけは、その形状から旧式の『管理室用マスターキー』であることを見抜いていた。 「……危険なものだ。私が預かっておく」  赤城は、そう言うと、カードキーを半ばひったくるようにして、自らの懐にしまい込んだ。     ☆  娯楽室の奥、ジュークボックスから流れる気怠いジャズだけが、二人の時間を彩っていた。  ディエースとエリスは、他の宿泊客がいないのをいいことに、テーブルに広げられたデジモンカードゲームに興じている。  その親密さは、昨日出会ったばかりの人間同士のものとは、到底思えなかった。 「アタシの場にいるピヨモンをヴリトラモンに進化、そこからエリスちゃんをアタック、アタック時にアグニモン進化からエンシェントグレイモンにまで昇るよ!」  ディエースが楽しげに宣言すると、彼女の傍らに佇む、トランプの兵隊のようなアプモン――カードモンが、進化時にドローしたカードを差し出す。 「エリスちゃん、セキュリティチェック2点、よろしくね!」 「……オプションカード、『グリーン・メモリーブースト』。2枚目、『アジリティ・トレーニング』。どちらも場に置くわよ」  エリスは、感情の乗らない声でカードをプレイマットに置く。戦況は、彼女が不利だった。だが、その瞳に焦りの色はない。まるで、このゲームの勝敗など、どうでもいいとでも言うかのように。 「ちょっ、盾強すぎ~!」  ディエースは唇を尖らせながら、手札を整理する。そして、ふと、全く違う話題を口にした。 「そういえばさ、例の秘宝の件だけど。アタシのカリキュモンに、この館の構造データと、ソクのおっちゃんが残した伝承をぶち込んだりして計算させてみたのよ」  彼女は、アプリドライブを操作し小さなホログラムをエリスに見せる。そこには、館の見取り図と、いくつかの特定の場所にマーキングがされていた。 「計算結果によると、膨大なエネルギーが集約され、かつ物理的に隠匿可能な場所は、三つ。  昨日見つけた地下牢の最深部、展望室の天井裏にあるであろう隠し部屋……そして、ロビーのあのバカでかい水晶柱の内部。このどれかに『刻の龍珠』がある確率は、87.4%だって」 「87.4%……。随分と、中途半端な数字ね」 「ま、あくまで確率論だからねー。せめて検索の能力を持つガッチモンでもいれば、もっと楽に見つかったんだけどねー。あいつ、今どこにいんのかしら」  ディエースは、本当に残念そうに肩をすくめる。その様子を、エリスは冷たい視線で見つめていた。 「……人が減って、疑心暗鬼が渦巻いている。秘宝を手に入れるには、好都合な状況だわ」 「その秘宝を手に入れるために、あの妖精ちゃん、利用してるんでしょ?」  ディエースの言葉に、エリスの傍らのフローラモンが答えた。 「ティンカーモンの、ユンフェイへの恋心。あれは、私たちの良い『駒』になりますわ。彼女なら、きっと喜んで『鍵』を探しに行ってくれるでしょう」  その非情な言葉から、話題は自然と、よりパーソナルなものへと移っていく。 「で、恋と言えばディエース。貴方、騎士のこと、好きなんでしょ?」  エリスは、カードを一枚引きながら、唐突に尋ねた。 「えー? 恋愛なんて、記憶と一緒に無くしちゃって、わかんなーい。それより、アタシのターン! ドロー!」  ディエースは、わざとらしく話を逸らし、山札からカードを引く。 「そう。なら、私が彼を貰ってもいいわよね。昔から好きだったの」  エリスが、挑発するように嘘をついた。その瞬間、カードを引いたディエースの指が、ピタリと止まる。  彼女の顔から、能天気な笑顔が消え失せ、その瞳が、射殺さんばかりの鋭さでエリスを睨みつけた。娯楽室の空気が、一瞬にして凍りつく。  エリスは、その反応を見て、勝ち誇ったように口の端を吊り上げた。 「……その反応こそが『好き』ってことじゃない?」 「……さあ、どうだか」  ディエースは、ふいと顔をそむけると、引いたカードを乱暴に手札に加えた。 「ま、私は騎士に興味はないわ。男なんてどうでもいい。でも……」とエリスは続ける。 「フローラモンは、ズバモンのことが好きだったみたいだけど」 「ちょっと、エリスのバカァ! 余計なこと言わないで!」  フローラモンが、顔を真っ赤にして主人の肩を叩いた。その様子に、二人は、先ほどまでの殺伐とした空気が嘘のように、くすくすと笑い合う。  それは、この狂った館の中にある、唯一、歪な平穏の形だった。  そして、ディエースは、静かに自分のターンを再開する。  その瞳の奥に宿した、嫉妬とも独占欲ともつかない暗い光には、誰も気づかないまま。     ☆  トレーニングルームの静寂の中、ユンフェイは木剣を握りしめ、瞑想していた。  騎士に敗北した絶望。告発合戦で見た人間の醜さ。彼の心は、暗い沼の底に沈んでいた。  そこへ、ティンカーモンが目を輝かせながらやってくる。 「ユンフェイ! すごい計画を思いついたの!」  彼女は、ユンフェイに、無邪気に、そして残酷な計画を打ち明けた。 「秘宝を手に入れて、ユンフェイを最強にするの! そのためにね、あの騎士のパートナーをちょっとだけ借りるの。レジェンドアームズの力があれば、ユンフェイはもっともっと強くなれるよ!」  ユンフェイは、その幼い計画の危うさに、思わず眉をひそめた。だが、今の彼には、彼女の純粋な想いを、真正面から否定する気力がなかった。  成長期のティンカーモンに、大それたことができるはずもない。そう高をくくった彼は、力なく呟いた。 「……好きにしろ」  黙認。それは、最も無責任な肯定だった。  ユンフェイは、目を閉じたまま思考する。レイラも、騎士も、このティンカーモンも犯人ではない。四大竜の試練で見たゴッドドラモンも、違うだろう。ならば、残るは……。 「だが、ティンカーモン」  ユンフェイは、目を開けずに言った。 「気をつけろ。秘宝を狙っているのはお前だけではない。特に、あのアプリドライバーと魔女には……近づきすぎるな」  それは、今の彼ができる、精一杯の警告だった。     ☆  夕食の時間を告げる音が館に鳴り響く。  最後の自由時間は、終わりを告げた。  それぞれの胸に、新たな情報と決意、そして拭いきれない疑念を抱えたまま、彼らは、運命の投票が行われる「最後の晩餐」へと、重い足取りで向かうのだった。  4.9:『断罪の投票』  食堂に、重苦しい雰囲気の中、今日の晩餐が並べられる。  ベーダモンが腕によりをかけて作った星屑のシチューは、見た目も香りも一級品だった。  しかし、その豊かな風味は、疑心暗鬼という猛毒に蝕まれた舌には届かない。  誰もが、これから始まる投票議論と、その先にある運命を思い、スプーンの動く音だけが、葬送曲のように、やけに大きく響いていた。  その重圧に耐えかねたように、赤城は「少し、頭を冷やしてくる」と、無言で席を立った。  カイザーレオモンが、心配そうにその背中を見つめながら駆け寄る。  主人の瞳に宿る、焦りと、そして狂気にも似た正義感の色を、彼だけは感じ取っていた。  赤城の真の目的は、この時間を利用した証拠の確保。自らの手で、この腐った状況を打開するための、唯一の活路。  彼は、昼間手に入れたカードキー「J.S.」を強く握りしめ、館の最上階、展望室の奥にあるという『管理室』への侵入を試みた。  静まり返った螺旋階段を、足音を殺して駆け上がる。ゴッドドラモンは食堂にいる。他の者たちも、互いを牽制し合って動けないはずだ。今しかない。  管理室の扉は、他の客室とは明らかに違う、重厚な金属の威圧感を放っていた。  カードキーのスロットを見つけ、彼は、まるで神に祈るかのように、震える手でそれを差し込んだ。 (これで、全ての謎が解ける……! ゴッドドラモンの欺瞞を暴き、真実を白日の下に……!)  しかし、彼の浅はかな希望は、次の瞬間、絶望の音を立てて砕け散った。  スロットはカードキーを飲み込むと、肯定の青ではなく、拒絶の赤に点滅。  同時に、鼓膜を突き破るようなけたたましい警報が館内に鳴り響き、彼の体は、壁から瞬時に射出された電磁ネットのトラップに捕らえられてしまった。 「ぐっ……! しまった、これは……罠か!」 「赤城様!」  カイザーレオモンが駆け寄るが、青白い火花を散らす電磁ネットに触れることすらできない。  それは、侵入者を想定した、ゴッドドラモンのあまりにも分かりやすい罠だった。  警報を聞きつけ、全員が管理室の前へと駆けつける。  そこには、獲物のようにネットにかかり、無様に身動きが取れなくなった赤城とカイザーレオモンの姿があった。  ゴッドドラモンは、舞台役者のように、わざとらしく嘆いてみせる。 「おお、赤城様……なんということを。皆の信頼を裏切り、暴力的な手段で館の心臓部へ侵入しようとするとは……。私は、あなたを信じておりましたのに」  食堂へと引きずり戻された赤城を、ゴッドドラモンはゆっくりと解放する。そして、投票前の最後の議論の口火を切った。 「皆様、もはや議論の必要もないかもしれませんな。この男以上に危険な人物がいるでしょうか?」  館の主による、巧みな誘導。場の空気は、一気に赤城断罪へと傾きかける。  だが、騎士とユンフェイが、その一方的な流れを断ち切った。 「待ってください、ゴッドドラモンさん」  騎士が、鋭い視線でゴッドドラモンを射抜く。 「赤城さんのやり方は、確かに乱暴だったかもしれない。でも、彼がそこまで追い詰められたのは、あなたに隠していることがあるからじゃないんですか?  このカードキーに刻まれた『J.S.』のイニシャル……。これはソク・ジンホのイニシャルですよね?  なぜ、ソク師範のものが、あなたが管理するカウンターの奥に、まるで隠すように仕舞われていたんですか?」  騎士の追及に、ゴッドドラモンは観念したように、はぁ、と重いため息をついた。 「……認めましょう。ソク師範は、この管理室へ出入りできる、数少ない客人でした。彼とは、長い付き合いでしてな。  私のこの館のトレーニング設備を、彼の道場の門下生のために、時折貸していたのです。  今回、彼がこの館に来ていたのも、私が古くなった設備の点検を頼んでいたから……。そんな、長年の友である彼を、この私が消すはずがないでしょう」  その言葉に、ユンフェイが静かに頷いた。 「私も、そう思う。私は、四大竜の試練を受けるため、この館でゴッドドラモン殿と対峙した。  その御方は、何よりもデジタルワールドの秩序と調和を重んじる、誇り高き竜だった。  たとえ友と意見が対立しようと、このような卑劣な手段で消すような方ではない」 「そうだよ! ゴッドドラモン様は、ユンフェイに厳しい試練を与えたけど、すごく立派だったんだから!」 「ユンフェイ殿とティンカーモンの言う通りです。あのお方には、一点の曇りもなかった。我らドラモン族の誇りにかけて、それは保証する」  ティンカーモンと、試練を受けたドラコモンまでもがゴッドドラモンを擁護し、彼の潔白が証明されたかのような、温かい空気が一瞬だけ流れた。  しかし、その空気を、ディエースの場違いに明るい声が、ナイフのように切り裂いた。 「あーもう、友情ごっことか、めんどくさーい! でもさー、ともかく赤城さんがヤバい人なのは、確定じゃない?」  彼女はアプリドライブを構え、新たなアプモンをアプリアライズする。 「アプモンチップ、レディ! アタクシ注入! セーブモン!」  光の中から現れたのは、小さな姿をしたアプモンだった。  その体は光沢のあるダークブルーのスーツに包まれ、頭には白く奇妙に折れ曲がったフードを被っている。  顔の大部分を覆う赤いゴーグルが怪しく光り、口元は矢印が描かれている。  その手から放たれる光から、二つの巨大なホログラムスクリーンを空間に投影した。 「アタシ、昼間に赤城さんがネットワークログを調べてた時、なんか変な感じがしたから、こっそりセーブモンでその時のバックアップを取っておいたのよ。   ほーら、見てみて。ソクちゃんのお部屋をハッキングしたのが、レイラちゃんの部屋からっていう記録、バックアップには影も形もなーい! これってさ、赤城さんが、レイラちゃんを犯人に仕立て上げるために、証拠を捏造したってことじゃないの?」   決定的な証拠。   ディエースの無邪気な声が、赤城の築き上げた正義の砦を、根底から破壊した。 「そん……な、馬鹿な……この僕が……ありえん……!」 「なぜ、こんなことをしたんですか……?」  レイラが、震える声で赤城を問い詰めた。  これまでの恐怖と、濡れ衣を着せられた怒りが、彼女を突き動かしていた。  赤城は、もはやこれまでと観念したように、自らの歪んだ意図を語り始めた。 「……君を、試したのだ。悪名高い傭兵部隊の元リーダー。  君ほどの人間を極限まで追い詰めれば、その疑惑を晴らすために、なりふり構わず、最短距離でこの館の秘密を暴き出すだろうと考えた。  そのためには、多少の演出も必要だった……」 「私を……利用したというの……? 私の過去も恐怖も全てあなたの手のひらの上で……?」  レイラはそのあまりに独善的な正義に言葉を失いその場にへたり込んだ。 「フン、演出、ね」  エリスが、追い打ちをかけるように冷たく言い放つ。 「証拠を捏造し、無実の者を陥れ、暴力でシステムを破壊しようとする。まるで、目的のためなら手段を選ばない、デジモンイレイザーそのものじゃないかしら」 「まさか、あなたが……」  ゴッドドラモンが、心底驚愕したかのように芝居がかった声で赤城を見る。 「あなたが、ソク師範を……?」  ゴッドドラモンの問いかけは、もはや尋問ではなかった。それは、これから始まる魔女裁判の、開始を告げる鐘の音だった。 「違う! 我が主は断じてそのようなことはしない!」  カイザーレオモンが、主人の前に立ちはだかり、必死に否定する。その獅子の瞳には、悔しさと、そして自らの無力さへの怒りが滲んでいた。 「待ってくれ!」  騎士が、思わず声を上げていた。 「赤城さんのやり方は、確かに間違っていた。許されることじゃない。  でも、だからといって彼がイレイザーだなんてあまりに飛躍しすぎだろ!  俺は彼を信用できない。だけど、彼がソク師範を消した犯人だとはどうしても思えない!」  騎士の言葉に、ユンフェイも静かに続いた。 「私も同感だ。彼の瞳には、歪んではいるが彼自身の信じる正義があった。それは、ソク師範を消すような者とは明らかに異質のものだ」  騎士とユンフェイの擁護に、場の空気がわずかに揺れる。  レイラも、赤城への怒りは消えないものの、彼をイレイザーと断定することには、戸惑いを見せていた。  ワイズモンも、どちらにつくべきか、困惑したように宙で揺れている。  本当に、このまま彼を断罪していいのか。  その、か細い良心の声を、エリスの冷たい一言が、無慈悲に踏み潰した。 「甘いわね」  彼女は、呆れたように、ため息をついた。 「彼がイレイザーかどうかなんて今は些細な問題よ。重要なのは、彼がこの館で最も危険な不確定要素であるという事実。そうでしょ?」  エリスは、集まった全員の顔をまるで値踏みするようにゆっくりと見渡した。 「ソク師範を消した真犯人は、まだこの中にいるかもしれない。  そんな状況で、証拠を捏造し、無実の者を陥れ、平然と嘘をつく人間を野放しにしておけるのかしら?  次の朝、私の部屋の扉を彼が開けないとどうして言い切れるの?」  その言葉は、恐怖という最も原始的な感情に直接訴えかける。 「……イレイザーかどうかは、もはや問題じゃない。  少なくとも、今夜、私たちが安眠するためにはこの『危険人物』を安全な場所に移しておくべき。私はそう思うけど違うかしら?」  それが、決定打だった。  真実の探求よりも、今そこにある恐怖からの逃避。集団心理は、あまりにも脆く、そして残酷な方へと傾いた。 「……確かに、そうだ」 「夜、怯えながら過ごすのは、もうごめんだわ……」  誰かが呟きそれが伝染していく。  投票はもはや形式的なものだった。圧倒的多数で、赤城鋼太郎の牢屋行きが決定する。 「愚かな選択だ……」  赤城は力なく項垂れた。その瞳からは正義の光が消え失せている。 「僕を牢屋へと入れたこと、必ず後悔するぞ……真犯人は、お前たちの中に……」  ゴッドドラモンは、悲しげな表情を装いながら赤城とカイザーレオモンを地下牢へと連行していく。  残された者たちは、これで今夜は安全だと安堵する者、後味の悪さに顔を曇らせる者、そして計画通りに進んだことにほくそ笑む者に分かれる。  狂気の夜は一人の「生贄」を出すことで一応の幕を下ろしたかに見えた。  Chapter5:『混迷はより深く』    5.1:『偽りの平穏』  投票という名の断罪劇が終わり、館には奇妙な静けさが戻っていた。  一人の「危険人物」を追放したことで得られた、脆く、歪んだ安堵感。  その空気に馴染むことも抗うこともできず、騎士はユンフェイたちと共に星屑の舞う『青嵐の湯』の湯船に、重い身体を沈めていた。 「いやー、マジで後味悪いっていうか、なんつーか……」  湯気を手で払いながら、先に湯を楽しんでいたワイズモンが軽薄な口調とは裏腹に、どこか棘のある言葉を漏らした。 「多数決って、マジで怖いっすねー。赤城さんのやり方も相当ヤバかったけどエリスさんの言い分に乗っかったらあれじゃただの魔女狩りじゃないすか。  次は俺が吊るされるかもって思ったら、ゆっくり風呂にも入ってらんないっすよ」  その言葉は、この場にいる全員が感じていたしかし口には出せなかった不安そのものだった。  場の空気が、湯の温度とは対照的にすっと冷える。  騎士は、黙って湯に浸かるユンフェイの横顔を見た。昼間の手合わせで露わになった彼の絶望。その傷はまだ癒えていないように見える。  何か言葉をかけなければ。そう思った騎士は努めて静かな声を作った。 「ユンフェイさん。……大丈夫ですか」  その問いにユンフェイはゆっくりと顔を上げた。その瞳は静かな湯面のように落ち着いているが、その奥底には複雑な感情が渦巻いているのが見て取れた。 「……ああ。心配には及ばん。ただ考えていただけだ。力だけでは守れないものもあるのだと。  今日の投票のように人の心は、力の及ばぬところで容易く流されてしまう」  ユンフェイは、ふっと息を吐き、星屑が舞う湯気を見つめた。その視線は、どこか遠くを見ているようだった。 「もし、絶対的な力、誰にも文句を言わせないほどの圧倒的な力が手に入るとしたら……。  例えば、噂の『刻の龍珠』のようなものが実在するとしたら、人は正しい道を選び続けられるのだろうかとな」  その哲学的な問いは、騎士にはすぐには答えられなかった。  ただ、隣で気持ちよさそうに泳ぐズバモンを見て、彼との絆こそが自分の答えだと漠然と感じていた。  気まずい沈黙が流れたその時だった。 「皆様……」  重厚だが、疲労の滲む声と共に、湯気の中から館の主ゴッドドラモンが姿を現した。  その顔には責務を果たした満足感などなく、むしろ度重なる心労で威厳が少しだけ削がれているように見えた。その肩は、どこか重そうだ。 「今宵はこれで、ようやく……平穏に過ごせる、はずです」  その言葉は、自分に言い聞かせているかのようでもあった。  その姿にワイズモンが噛みついた。 「平穏、ねぇ。ゴッドドラモンさん、アンタが仕組んだ魔女狩りで得た平穏なんてちっとも嬉しくないっすよ。  そもそもソク師範が消えたのも、赤城さんが暴走したのもアンタがこの館の何かを隠してるせいじゃないんすか?」  ワイズモンの直接的な非難に、ゴッドドラモンは目を伏せた。 「……隠し事など。私はただこの館の秩序と皆様の安全を考えているだけです。それ以上の意図は、何も」 「その秩序が、誰かを犠牲にして成り立つものならばそれは偽りだ」  静かだが、強い意志を込めて反論したのは、ユンフェイだった。 「ゴッドドラモン殿。私は貴殿に受けた試練で、その誇り高き魂を知っている。貴殿がソク師範を手にかけたとは思わない。  管理室の鍵を預けるほどの古い友人だというのも信じよう。  だが、貴殿が何かを隠し我々を欺いていることもまた事実。その行いがこの混乱を招いているのではないか?」  ユンフェイの言葉は、ゴッドドラモンを信じているからこその、鋭い追及だった。  しかし、ゴッドドラモンは、その忠告にすらただ疲れたように、慈悲深い笑みを無理やり浮かべて返すだけだった。 「秩序を守るためには、時に……非情な決断も必要です。全ての真実を明かすことが、必ずしも平穏に繋がるとは限りません。  大体、考えようによっては赤城様こそがもっとも安全な場所にいるのです。  何者かが潜むこの館において、あの地下牢ほど犯人の脅威から完全に守られた場所はありませんからな。  それに……赤城様が犯人でないという証拠も……残念ながら、ございません」  その歪んだ論理。  正しさと狂気が入り混じった言葉に、騎士もユンフェイも、もはや返す言葉を見つけられなかった。  ただ、疲弊した竜の姿だけが、星屑の舞う湯気の向こうで静かに揺らめいていた。  5.2:『軍師サクシモン』  星屑の湯で温まったはずの体とは裏腹に、騎士の心は冷え切っていた。  湯船の中で交わした言葉が、冷たい石のように胃の底に沈んでいる。  ゴッドドラモンの歪んだ正義、ワイズモンの軽薄さに隠された恐怖、そしてユンフェイの瞳の奥に宿る深い絶望。  それら全てが、この館を覆う闇の深さを物語っていた。  自室の扉を開けると、そこには案の定、ディエースがいた。  彼女は騎士のベッドに寝転がり、雑誌でも読むかのようにスマホをいじっていたが、騎士の姿を認めると、にっこりと笑って手を振った。 「お帰り、ヒーロー。スッキリした?」  その、からかうような声が、今の騎士にはひどく耳障りだった。彼は無言で扉を閉め、その背に凭れかかった。  ディエースはそんな騎士の様子を面白そうに観察しながら、言葉を続ける。 「なーに、その顔。まだ赤城さんのこと気にしてるわけ? あの人、自業自得じゃない」 「……あれは間違っている」  騎士は、絞り出すように言った。ディエースに苛立ちをぶつけるのはお門違いだと分かっていながら、抑えきれなかった。 「赤城さんのやり方は、確かに独善的で許されるものじゃなかった。でも、だからといって、あんな風に多数決で誰かを断罪するなんて……。  俺たちは、真実から目を逸らしただけだ。彼を牢に入れたことで、犯人は笑っているかもしれない。真実は、もっと遠のいたんだ」  その言葉に、ディエースは心底つまらなそうに、はぁ、とため息をついた。 「真実、真実って……そんなもの、今の状況で何の意味があるわけ? 犯人が誰かなんてどうでもよくない?」  彼女は上半身を起こすと、挑発的な瞳で騎士を見つめた。 「それより、エリスちゃんが言ってた秘宝『刻の龍珠』よ!  それさえ手に入れれば、犯人がイレイザーだろうがゴッドドラモンだろうが、なんだってやっつけられるじゃない?  力には力。パワーこそパワー。それが一番手っ取り早くて、確実な解決法よ」  そのあまりに短絡的で、しかし抗いがたい魅力を持つ言葉に、騎士は思わず反論した。 「無駄だ。エリスやレイラさんでさえ、丸一日探して見つけられなかったんだぞ。俺たちが今から闇雲に探したって、何にもなりはしない」  それは、正論だった。だが、ディエースは待ってましたとばかりに、ベッドから勢いよく体を起こした。その動きで、赤いボディスーツに包まれた豊かな胸が大きく揺れる。 「だからこそよ、少年」  彼女の瞳が、悪戯っぽく、そしてどこか猟奇的な輝きを放った。 「素人がちょこちょこ探しても見つからないような、とんでもないお宝なの。なら、狙う場所は1つしかないでしょ? この館の全てを知る『心臓部』を、直接叩くのよ」  ディエースは、唇に人差し指を当て、内緒話をするように囁いた。 「つまり、ゴッドドラモンが必死に隠している『管理室』よ」  その言葉に、騎士はハッとした。  そうだ。なぜ気づかなかった。  ソク師範の失踪、ゴッドドラモンの不可解な言動、そして古くから伝わる秘宝の伝説……。  散らばっていた全てのパズルのピースが、その一点に集約されていく。全ての答えはきっとそこに眠っている。 「……管理室」  騎士の口から無意識に言葉が漏れた。そうだ、そこしかない。  しかし、思考はすぐに新たな、そして絶望的な壁に突き当たった。 「だが、どうやって……? 赤城さんの失敗で証明された。あの部屋は厳重にロックされている。ゴッドドラモンさん自身が開けない限り、入ることは不可能だ」  どうやって、あの狡猾で誇り高い竜神に、自ら城門を開かせるというのか。  二人は顔を見合わせ重い沈黙に包まれた。答えの見えない問いが静かな夜の闇に溶けていく。  その沈黙を破ったのは、ディエースのどこか吹っ切れたような笑い声だった。 「なーに、その顔。そんな難しい顔したって、竜神様は扉を開けてくれないわよ」  彼女はベッドから飛び降りると、不敵な笑みを浮かべてアプリドライブDUOを構えた。 「こういう時は、餅は餅屋、策略は策略のプロに聞くのが一番よ」  その言葉と共に、ディエースの全身から、これまでとは質の違う、鋭く澄んだオーラが立ち上る。 「アプモンチップ! レディ!」 『バッテリモン プラス カードモン!』  2つのアプモンチップから放たれた光が回転し重なりあい、全く別の存在へと変わっていく。 『アプ合体! サクシモン!』  眩い光が部屋を満たし、その光量に、ベッドの隅で丸くなっていたズバモンが、もぞもぞと身じろぎした。 「ん……うわっ、まぶしっ! なんだなんだ、ナイト? またディエースが変なこと始めたのか?」    光が収まった時、そこに立っていたのは、まるで古代の戦場から抜け出してきたかのような静謐な佇まいの軍師だった。  黒を基調とした装束に、鋭い眼光を宿した仮面。その手には、白く艶やかな羽根で編まれた『羽扇(うせん)』が握られている。  シミュレーションの能力を持つ超アプモン、サクシモン。  彼は、感情の窺えない仮面の奥から騎士たちを静かに見据えると、羽扇でゆっくりと口元を隠し、深く全てを見通すような響きを持つ声で問うた。 「──呼んだか。我が主よ。して、今回の戦場(いくさば)は?」  その圧倒的な存在感に、騎士は思わず息を呑む。  ディエースは満足げに頷くとこれまでの経緯──ソク師範の失踪、疑心暗鬼に陥った宿泊客、そして鉄壁の管理室──を、手短にしかし的確に説明した。  サクシモンは黙って主の話を聞いていたが、全てを聞き終えると、ふむ、と1つ頷いた。羽扇で静かに顎を撫で、目を閉じて数秒間思考を巡らせる。 「なるほど。城は堅固、兵は疲弊し、将は疑心に満ちている。だが、城主には致命的な弱点がある」  彼はゆっくりと目を開くと、手にしていた羽扇をすっと広げた。  すると、その白い羽根から淡い光が放たれ、空中に複雑なホログラムが投影される。  館の見取り図、宿泊客たちの相関図、そしてゴッドドラモンの心理状態を示すグラフまでもが、立体的に浮かび上がった。 「城を力で攻めるは下策、心を攻めるが上策。あの竜神がもっとも執着するのは、『館の主としての体面』と、自らが作り上げた『秩序の維持』。  この2つを揺さぶり、自ら城門を開かせる策を授けよう」  サクシモンの声には、揺るぎない自信が満ちていた。彼は羽扇をあおぐと、その悪辣にして緻密に連動する、3つの策を語り始めた。 「まず、《第一の策:懐柔の計》  策の基本は『勢』と『利』です。しかし、今の我々に、あの竜神を屈服させるだけの勢はない。ならば、まず与えるべきは利。  ゴッドドラモンという城主は、プライドが高く、自らの『秩序』という名の統治に絶対の自信を持っている。  しかし、その内面では、長年解決できぬ問題に苛立ちを覚え有能な協力者を渇望している。  我々はその心の隙間に、慈雨の如く恩を売るのです。  善意の行動で『我々は貴方の味方であり、この館の秩序を守るための協力者である』という絶対的な信頼を植え付ける。  これは単なる信頼稼ぎではありません。後に我々が放つ毒を、相手が『良薬』と信じて飲み干すための甘い蜜です」 「かいじゅー? 怪獣の計? なんか強そうな技だな!」  騎士の隣で話を聞いていたズバモンが、寝ぼけ眼をこすりながら頓珍漢な相槌を打った。  サクシモンは羽扇を動かし、ホログラムの中のゴッドドラモンと騎士たちの間に、太い信頼のラインを描き加えた。 「次に、《第二の策:離間の計》  信頼という名の城壁を築いた後、次はその城壁を利用し、敵の兵……すなわち他の宿泊客たちを、我らの旗の下に集わせます。  人は共通の不満を持つ者に強く惹かれるもの。我々はゴッドドラモンへの不満の『受け皿』となることで、彼らの心を掌握する。  それは館の主導権という名の兵糧を無血で奪い取るに等しい行為。ゴッドドラモンは、我々が不満分子を鎮撫していると信じ込み安堵するでしょう。  己の足元が静かに崩れ始めていることにも気づかずに」 「そして、《第三の策:背水の計》  積み上げた不満という火薬に、我々が点火するのです。『脅迫』と『進言』は紙一重。  重要なのは、我々が最後まで『忠実なる協力者』の仮面を被り続けること。我々は民意という名の津波を背に、城主に迫るのです。 『門を開かなければ、貴方が築き上げた秩序もろとも、この津波に飲み込まれることになる』と。  彼は自らのプライドと秩序を守るため、自らの手で城門を開けるしかない。  我々は一滴の血も流さず、城の心臓部を手に入れることができるのです」  その策のあまりの狡猾さに、騎士は背筋が凍るのを感じた。 「……客のみんなまで利用するのか。それは人の心を弄ぶ悪魔の所業だ」  その声には抑えきれない嫌悪感が滲んでいた。  ワイズモンや怯えるレイラそしてユンフェイの顔が脳裏に浮かぶ。  彼らの不安や恐怖を自分たちの目的のために利用するなどということは、騎士の信条が許さなかった。 「ナイト……? どうしたんだよ、難しい顔して。なんか悪いことなのか?」  ズバモンが、心配そうに騎士の顔を覗き込む。彼の純粋な問いかけが騎士の罪悪感をさらに深く抉った。  しかし、その葛藤をディエースの冷たい一言が断ち切った。 「じゃあどうするの? このまま次の犠牲者が出るのを指をくわえて待ってるの?  それとも、少年は赤城さんみたいに誰かをスケープゴートにして満足するの?  次の朝、また誰かがソクのおっちゃんみたいに消えてるのを見たいわけ?  もしかしたら……アタシやズバモンがそうなっても少年はまだ『正しいやり方』にこだわるわけ?」  彼女の瞳には、一切の同情もためらいもなかった。 「綺麗事だけじゃ誰も救えないわよ、ヒーロー。時には、自分の手を汚さなきゃ守れないものだってあるでしょ。違う?  少年は、アタシが消えてもいいの? ねぇ、ズバモンがそうなっても、平気なの?」  ズバモン。その名前を出された瞬間、騎士の心臓が大きく軋んだ。  自分の信条か、仲間を守るための非情な手段か。天秤は、あまりにも残酷な重さで揺れ動く。  そうだ。彼女の言う通りだ。  このままでは赤城のように、また誰かが生贄になるかもしれない。犯人は今もこの館のどこかで高笑いしているかもしれないのだ。  真実を知るためには前に進むしかない。たとえその道が泥にまみれていたとしても。  騎士は強く唇を噛みしめた。目を閉じズバモンの無邪気な顔や、怯えるレイラの顔を思い浮かべる。守りたい。その一心だった。 「……わかった。やろうディエース」  その瞳には自らの手を汚す覚悟の光が、静かに、しかし強く灯っていた。 「おう! ナイトがやるなら、俺も手伝うぜ!」  ズバモンは、まだ状況をよく理解していなかったが、パートナーの覚悟を感じ取り元気よく飛び跳ねた。  それを見たディエースは、にっこりと花が咲くように笑う。  その笑顔は純粋な少女のようでありながら、その瞳の奥には獲物を手に入れた捕食者のような、暗い光が宿っていた。  5.3:『第一の策、懐柔の計』  サクシモンの策を受け入れたとはいえ、騎士の足取りは鉛のように重かった。  自らの心を偽り信頼を騙る。その行為は、騎士が生きてきた誇りを少しずつ蝕んでいくようだった。  ディエースは、そんな騎士の葛藤など気にも留めず鼻歌交じりで螺旋階段を下りていく。  ロビーでは館の主であるゴッドドラモンが、水晶柱の前に立ち深く長い溜息をついていた。  その黄金の巨躯は、今日の度重なる騒動と、宿泊客たちからの突き刺さるような視線にすっかり疲弊しきっているように見える。  威厳に満ちていた背中は今はひどく小さくそして孤独に見えた。 「ゴッドドラモンさん」  騎士が意を決して声をかけると、ゴッドドラモンはびくりと肩を震わせ警戒心に満ちた瞳で振り返った。  その表情は、まるで次にどんな非難や追及が飛んでくるのかと、うんざりしながら身構えているかのようだった。 「……おや、騎士様、ディエース様。何か私に言いたいことでも?」  声には隠しきれない疲労と苛立ちが滲んでいる。    しかし、騎士が口にしたのは彼の予想を完全に裏切る言葉だった。 「いえ。俺たちは、ゴッドドラモンさんの力になりたいんです。この館の秩序を取り戻すために俺たちに何か出来ることがあれば貢献したい」  その言葉にゴッドドラモンは目を丸くした。  今日一日、彼が向けられてきたのは、疑いと非難と責任の追及だけだった。  そんな中、差し伸べられた予想外の協力の申し出に、彼はどう反応していいのか分からずただ困惑したように二人を見つめる。  ディエースが、畳みかけるように明るい声で続けた。 「そうそう! 犯人探しとか、そういうギスギスしたのって、アタシたち向いてなくってさー。  それより、もっと建設的なことでお手伝いしたいなーって。  そうだ! ゴッドドラモンさん。ここの自動調理器って、もう何年も壊れたままなんですよね?」  その言葉は、ゴッドドラモンの心の、最も柔らかな部分を的確に突いていた。  彼は、騎士たちの真意を測りかねながらも、その話題には食いつかずにはいられなかった。 「……ええ。ですが、あれはもう……」 「アタクシ、こういう機械の扱い、実は得意なんですよ。本業はメカニックなんで!  もし直せたら少しはこのギスギスした空気もマシになると思いません?  ベーダモンおばちゃんの料理も最高だけど、みんなでワイワイ言いながら色んな料理を選べたらきっと楽しいじゃない?」  ディエースの屈託のない笑顔と騎士の真摯な眼差し。  ゴッドドラモンは、その2つの光を前に、張り詰めていた心の糸が、ふっと緩むのを感じた。 「……本当に直せるのですか?」  その声には長年の悩みの種に対する諦めとそしてほんのかすかな期待が入り混じっていた。 「あれは数年前、何の前触れもなく完全に沈黙してしまいましてな……。  管理室のデータ上は、今も正常に稼働していると表示されるのに物理的にはうんともすんとも言わない。  この館の高度な自己修復機能すら働かず原因は全くの不明。専門家にも見せましたが、首を傾げるばかりでしてな。  緊急で料理人としてベーダモン殿を雇いましたが、ありがたいことに彼女の料理が宿泊客にすこぶる好評でして。  正直、もうこのままで良いと半ば諦めておりました……」  彼は誰にも言えなかった長年の悩みをまるで告解するように語り始めた。  館の主としての威厳を損なう、些細でしかし根深い問題。それを解決しようという申し出は彼の乾いた心に染み渡る慈雨のようだった。 「俺たちが、必ず直してみせます」  騎士が力強く約束した。その声には、一片の嘘もなかった。今はまだ策のためだとしても、やるからには全力を尽くす。それが騎士の流儀だった。 「任せとけって! 俺とナイトとディエースにかかれば、ちょちょいのちょいだぜ!」  ズバモンが、隣で胸を張る。 「この館の平穏を、俺たちの手で取り戻すために」  ゴッドドラモンは、その真っ直ぐな瞳をじっと見つめ、やがて、深く、深く頷いた。 「……感謝します。騎士殿、ディエース殿。あなた方のような方がいてくれて、本当に良かった」  彼の瞳には長年の懸案を解決してくれるかもしれないという淡い期待と、そして、この混沌とした状況の中で初めて見出した明確な信頼の光が宿っていた。  5.4:『叩けば治ることもある』  夜の静けさが食堂を支配していた。ベーダモンも自室に戻ったのか、厨房はしんと静まり返っている。  その一角に鎮座する、巨大な自動調理器。  流線形のメタリックなボディは、かつては未来的な輝きを放っていたのだろうが、今はただの鉄の塊として分厚い埃を被っていた。 「さてと、アスタ商会が誇るメカニックの腕の見せ所ね!」  ディエースは慣れた手つきで髪をまとめると、ゆったりとした袖をたくし上げた。その瞳は、もはやおどけた少女のものではなく、獲物を前にした職人のそれだった。  彼女は調理器のパネルに指を滑らせ、内部構造をスキャンしていく。  その指の動きは、まるで熟練のピアニストが鍵盤を奏でるかのように滑らかで、一切の迷いがない。 「ふーん、なるほどね。この調理器、普通のやつとは構造が全然違うわ。  普通はさ、デジタケとかエグの実みたいな素材を取り込んで調理するんだけど……こいつは、もっとヤバいものを『食材』にしてる」  ジショモンがホログラムスクリーンに複雑なエネルギーフローの図を映し出し、ディエースが騎士に解説を始めた。 「この館の真下には、膨大なエネルギーラインが走ってるの。  それは、この『青嵐エリア』で発生するデジタルストーム現象、つまり『破壊と再生』のデータを直接取り込むためのもの。  破壊されたデータの残滓を『スパイス』に、再生時のデータを『素材』として、ストックし新たな料理を『創造』する……。  ほぼ無から有を生み出す、まさに錬金術みたいなシステム。古代の遺物かしらね。そりゃ普通の技術者じゃ手も足も出ないわけだわ」  ディエースは感心したように言いながらも、その手は止まらない。  コンソールを開き、無数のケーブルが複雑に絡み合う内部へと躊躇なく腕を突っ込む。  指先でケーブルのテンションやエネルギーの流れを確かめ、まるで生き物の脈を診るかのように、慎重にしかし大胆に内部構造を探っていく。  だが、ゴッドドラモンの言う通り、物理的な破損やシステムのエラーはどこにも見当たらなかった。 「通常の手順じゃダメか……。なら!」  ディエースの口元に、不敵な笑みが浮かぶ。 「ウラテクモン! 出番よ!」 「アプモンチップ、レディ! アタクシ注入!」  光の中から現れたウラテクモンは、主の意向を即座に理解し、巨大なゲームコントローラーを構えた。 「ボス! 俺様に任せるウラ!」 「ウラテクモン! このクソったれなシステムの隠しコマンドかデバッグモード、裏技の類を、片っ端から探しなさい!」  ウラテクモンの指が、常人には見えないほどの速さでコントローラーを叩き始める。  画面には無数のコードが滝のように流れ落ち、システムの深層、開発者でさえ存在を忘れているような領域へと強制的にアクセスしていく。  やがて、ウラテクモンが「見つけたウラ!」と叫んだ。 「ボス! 最終強制排出(ラスト・イジェクト)の裏コマンドを発見したウラ! でも実行するにはコンソール操作だけじゃダメみたいウラ!  筐体の側面、第三冷却フィンの下にある物理スイッチを、コマンド入力と同時に強く叩く必要があるウラ!」 「物理スイッチですって? 面倒な……。でも、面白そうじゃない!」  ディエースはニヤリと笑うと、拳を固めた。 「ウラテクモン、カウントなさい! アタシが最高のタイミングでぶち込んでやるから!」 「了解ウラ! スリー! トゥー! ワン! ……今ウラーーーッ!」 「喰らいなさい! イジェクト・パーンチッ!!」  ディエースの拳が、ウラテクモンが示した筐体の一点に、寸分の狂いもなく叩き込まれた。  その瞬間、自動調理器が、まるで断末魔の叫びを上げるかのように、けたたましい警告音を鳴らし始めた。  ガコン、ゴウン、と重い音を立てて内部機構が無理やり動き出す。  コンソールの表示が「レシピ不明:NoData」に切り替わり、内部に滞留していた最後のデータを、強制的に排出しようと動き出した。  ゴウン、という地響きにも似た重低音の後、排出トレイがゆっくりとスライドしてくる。  しかし、そこから現れたのは料理ではなかった。  虹色だった。まるで宇宙の星雲をそのまま閉じ込めたかのような美しい光を内に秘めた小さな飴玉のような球体。  それは薄暗い厨房の中で、自ら淡い光を放ち静かにそこに鎮座していた。 「なんだこれ? 美味そうじゃん!」  待ちくたびれていたズバモンが、その美しい輝きに吸い寄せられるようにひらりと飛びついた。 「待て、ズバモン! そんなもの食べようとするな!」  騎士は咄嗟に叫び、ズバモンがその飴玉を口に入れようとする寸前でその手からはたき落とした。  はたかれた飴玉は綺麗な放物線を描いて宙を舞い、騎士の口の中へと寸分の狂いもなく飛び込んでしまったのだ。 「かっ……!?」  驚いて咳き込む間もなく、騎士の喉が、ごくり、と意思に反して動いた。  虹色の球体は何の抵抗もなく食道を滑り落ちていく。  その瞬間、騎士の体内でまるで眠っていた巨大な龍が長い眠りから目覚めるかのような熱い奔流が駆け巡った。  細胞の一つ一つが焼き尽くされるような激しい熱。  しかし、それは一瞬のことで、特別な変化は感じられない。 「え……? ええええええええええ!? ちょ、少年! 今の飲んだ!? 吐き出して! 早くペッてして!」  ディエースが、血相を変えて騎士に駆け寄る。その顔からいつもの余裕は完全に消え失せ本気の焦りの色が見て取れた。 「バッカじゃないの!? あれが何なのかも分かんないのに食べちゃうなんて! 少年、バッカじゃないの!?」  彼女はそう叫ぶと、先ほど調理器に放ったのと同じように、騎士の背中に向かって拳を振り上げた。 「こうなったら! イジェクトパーンチ! イジェクトパーンチ!」  ペチペチと間抜けな音を立てて、ディエースの拳が騎士の背中を叩く。だが、当然、飴玉が出てくる気配はない。 「何すんだよ! 痛ぇだろ!」 「うるさーい! 出てくるまでやる! イジェクトパーンチ!!」  二人が子供のような喧嘩を繰り広げている間にも、システムは作動し続けていた。  内部で異物として認識されていた「飴玉」が排出されたことで、長年のエラーが解消されたのだ。  ピロリン、と軽快な起動音が鳴り、自動調理器のコンソールに「システム正常。いつでもご利用いただけます」という文字が、誇らしげに浮かび上がった。  修理完了の報告を受けたゴッドドラモンは、食堂に駆けつけ、完璧に動作する自動調理器を見て感極まったように声を震わせた。 「おお……! なんということだ……! 長年の悩みの種が、こんなにもあっさりと……!」  彼は、騎士とディエースに深く、深く頭を下げた。 「騎士様、ディエース様。このゴッドドラモン、御恩は決して忘れませぬ。貴方達は信頼に値する方々だ」  その瞳には、もはや一片の疑いもなかった。  サクシモンの《懐柔の計》は、騎士の胃の中に謎の物体を残しながらも、完璧すぎる形で成功を収めたのだった。  5.5:『第二の策、離間の計』  自動調理器の修理という大きな「手柄」を立てた騎士とディエースは、息つく間もなく、サクシモンが授けた第二の策《離間の計》を実行に移す。  その目的は、館の主であるゴッドドラモンへの不満を、自分たちへの信頼へと巧みにすり替え、水面下でこの館の主導権を掌握すること。  偽りの信頼を武器に、彼らは夜の館へと散っていった。  談話室の暖炉の前では、ワイズモンとレイラが燃える炎をぼんやりと見つめていた。今日の投票劇は彼らの心に暗く重い影を落としている。 「……僕、実は赤城さんに入れちゃいました。エリスさんの言う通りだってあの時は思っちゃったんすよ。  でも、今になって考えると、やっぱりおかしいっすよね。あれじゃただの魔女狩りじゃないすか。もしかしたら次は僕が……」  ワイズモンは、いつもの軽薄さが嘘のように弱々しい声で後悔と恐怖を吐露した。  レイラもまた、蒼白な顔で膝を抱えている。彼女の震える肩を、パートナーであるスナリザモンが必死に抱きしめていた。 「レイラ、大丈夫…? 僕が、僕がずっとそばにいるからね。だから、もう泣かないで…」 「スナリザモン……ごめんなさい。私、怖くて……」  そこへ、騎士とディエースが、まるで旧知の友に声をかけるように、自然に近づいた。 「今日の投票、やっぱり後味が悪かったですよね」  騎士が共感を示すように言うと、ワイズモンは待ってましたとばかりに顔を上げた。 「騎士さん! ディエースさん! マジでそうなんすよ! あのままじゃ、本当にヤバい! 次は誰が吊るされるか、ビクビクしてなくちゃいけないなんて!」  騎士は、そんな彼らの不安を真正面から受け止める。 「だから、俺たちがゴッドドラモンさんと話してみます。もう、あんな不毛な投票はさせません。必ず皆が納得できる形で真実を明らかにしますから」  その力強い言葉にレイラがすがるような瞳を向けた。  ワイズモンもまた騎士とディエースという存在に、暗闇の中の一筋の光を見出したかのように安堵の表情を浮かべた。  娯楽室では、ユンフェイが一人、暗がりの中で木剣をただ握りしめていた。  その背中からは、昼間の手合わせの時とは比較にならないほどの、冷たい絶望のオーラが漂っている。 「ユンフェイさん……」  騎士の声に、ユンフェイはゆっくりと顔を上げた。その瞳は、もはや何の感情も映さない底なしの沼のように濁っている。 「……来たか。忠告か? 慰めか? どちらも今の私には無意味だ」 「いえ。俺たちは、この状況を変えたい。ゴッドドラモンさんと直接話をつけて真実を明らかにしようと思っています」  その言葉に、ユンフェイは、ふっ、と自嘲的な笑みを漏らした。 「真実? 話し合い? 馬鹿なことを。なぜ、もっと簡単な方法を選ばん」  彼はゆっくりと立ち上がり、騎士の目の前に立つ。 「すべて、力で解決すればいいのだ。疑わしきはすべて斬り伏せ真実を無理やりにでも暴き出す。  このデジタルワールドでは、それこそが正義だ。議論など、弱者の戯言にすぎん」  その瞳には、狂信的なまでの力への渇望が宿っていた。だが、次の瞬間その光は急速に萎んでいく。 「……それは絶対的な力を持つ者の特権。四大竜の試練に挑んだ際、私は見たのだ。ゴッドドラモン殿の底しれぬ力を。  今の我々など彼の前では赤子同然。宿泊客の全員が力で挑んだところで返り討ちに合うだけだろう」  彼は悔しげに木剣を握りしめた。 「……すまない、騎士。君に当たってしまった。結局、私に……この状況を覆すだけの力がないのが悪いのだ」  ユンフェイはそう言って、深く頭を下げた。  騎士は、彼の深い闇に触れたような気がして何も言えなかった。  そのやり取りを柱の影から見ていたティンカーモンの瞳に危うい決意の光が灯った。 (ユンフェイがあんなに苦しんでる……。私に何かできることは……。そうだ力よ! 彼に、もっと、もっと強い力を……!)  宿泊エリアの薄暗い廊下で、騎士たちはエリスとフローラモンに遭遇した。エリスは自室の扉に寄りかかり、腕を組んで冷ややかに二人を見ている。 「あ、エリスちゃん、これ談話室に落ちてたよ。遊んだ時に落としたんでしょ?」  ディエースが、どこで拾ったのか、1枚のカードをひらひらとさせながら差し出した。  エリスはそのカードを見て、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに無表情に戻りそれを受け取った。 「……ありがとう」  その、珍しく素直な感謝の言葉に、騎士は少し驚きながら一歩前に出た。 「エリス、俺たちはゴッドドラモンさんと話をつける。エリスも本当はこんな状況を望んでいないはずだ。真実を知りたいなら、協力してほしい」  その言葉に、エリスはふん、と鼻を鳴らした。 「好きにすれば? 私は私のやり方で、私の求める真実に辿り着くだけよ」  彼女はそう言い捨てると、部屋の中へと姿を消した。 「エリス、本当に良かったの? あんな言い方しちゃって……。本当は、騎士くんたちのこと信じてるよね?」  扉の向こうで、フローラモンの声が小さく聞こえた。  最後に訪れた食堂では、ベーダモンが一人で黙々と後片付けをしていた。 「おや、騎士ちゃんたちじゃないか。どうしたんだい、こんな時間に」 「いえ、少し、皆さんと話をしていました」  その言葉に、ベーダモンは手を止め、ふう、と息をついた。 「あんたたち、調理器を直してくれただけじゃないんだねぇ。みんなの話も聞いて回ってるんだって?  えらいじゃないか。あたしゃ、ただの雇われだけどさ、今日の投票は見てて胸糞が悪かったからね。頑張りなよ」  厨房から得たささやかな、しかし温かい支持を背に騎士たちはロビーへと戻った。  恐怖と後悔に揺れる者、力への渇望に溺れる者、それぞれの思惑を抱える宿泊客たちの不満。《離間の計》は、成った。  館の主であるゴッドドラモンはそれらを管理室のモニターから眺めている。  自らが信頼した騎士たちが、面倒な宿泊客たちのガス抜きをしてくれていると信じ込み、その行動を感謝すらして静観している。  全ての駒は、盤上に揃った。  5.6:『第三の策、背水の計』  夜が更け、館は深淵のような静寂に包まれていた。いよいよ、サクシモンが描いた謀略の最終段階、《背水の計》の火蓋が切られる時が来た。  ロビーの中央、水晶柱が放つ淡い光の下で、館の主は一人、佇んでいた。  その背中にはすでに疲労の色はなく、絶対者としての静かな威厳が漂っている。  そこへ、騎士とディエース、そしてズバモンが静かな足取りで近づいていった。 「ゴッドドラモンさん」  騎士の声は、夜の静寂に柔らかく響いた。それは協力者としての誠意と、抑えきれない切迫感が絶妙に混じり合った響きを持っていた。  ゴッドドラモンはゆっくりと振り返る。その瞳には、彼らへの信頼の色がはっきりと見て取れた。 「騎士様、ディエース様。どうかなさいましたか?」 「先ほど、館のみんなと話をしてきました。誰もが、今日の投票に心を痛め明日のことを深く不安に思っています。  このまま疑心暗鬼が続けば、この館の秩序は内側から崩壊してしまうかもしれません」  騎士は、あえて「皆の代弁者」として語り始めた。それは、これから始まる要求が、個人的なものではなく、館全体の総意であると印象付けるための、計算された言葉だった。 「我々は、これ以上不毛な投票を繰り返すべきではないと考えています。どうか明日の投票は中止にしていただけないでしょうか」  その要求にゴッドドラモンはわずかに眉をひそめる。だが、騎士は間髪入れずに次の手を打った。 「ソク師範は、我々が眠っている間に忽然と姿を消しました。  二度と同じ悲劇を繰り返さないため、そして皆の不安を少しでも和らげるため今夜から交代で夜間の警護を行うことを提案します」  具体的な安全対策の提示。秩序の維持を最も重んじる彼にとって、それは無視できないむしろ歓迎すべき提案のはずだった。 「夜警、ですと? たしかに今の状況では必要でしょうが、貴方達だけでは心許ない」  ゴッドドラモンがそう言った、その時だった。 「ならば私も協力しよう」  ロビーの螺旋階段の側から、静かだが芯の通った声が響いた。ユンフェイだった。  彼の傍らには心配そうに、しかしどこか誇らしげなティンカーモンが寄り添っている。彼女がユンフェイをここまで連れてきたのだ。 「剣を持つ者として、何もせず朝を待つのは性に合わん。騎士の提案、理にかなっている」  ユンフェイという館屈指の実力者からの賛同。それは、騎士の提案に抗いがたい重みと説得力を与えた。  そして、騎士は最後の一手を打つ。ここが勝負の分かれ目だった。 「しかし、ゴッドドラモンさん。効果的な警護を行うにはこの広大な館の死角や構造を正確に把握する必要があります。見えない敵から皆を守るためには」  騎士は、まっすぐにゴッドドラモンの瞳を見据えた。その瞳には、一片の曇りもない。  あるのは、この館の安全を心から願う協力者としての誠意だけ。 「そのためにも、どうかこの館の心臓部である『管理室』を、我々に開示していただけないでしょうか。  貴方を信じる我々だからこそ、この館の安全を貴方と共に守りたいのです」  それは、脅迫ではなかった。貴方を信じる協力者として、秩序崩壊を防ぐための最後の手段という、拒むことのできない大義名分をまとった完璧な要求。  ゴッドドラモンは完全に追い詰められた。  自らが全幅の信頼を寄せた協力者にその信頼そのものを盾に詰め寄られている。  断れば、彼らの信頼を失うだけでなく、安全対策を拒んだ館の主として、他の宿泊客からの信頼も完全に失墜するだろう。  そうなれば彼が最も重んじる「館の秩序」は、内側から音を立てて崩壊してしまう。  受け入れるしかない。彼らに主導権を明け渡してでも自らの体面を守るしかない。 「……わかりました」  長い、長い沈黙の末、ゴッドドラモンは力なく頷いた。その声は、策略の完全な勝利を告げる重い降伏宣言だった。 「皆様を、管理室へご案内しましょう。この館の……最も神聖なる場所へ」  三つの策は完璧に連動し、ついに鉄壁の城門を内側からこじ開けることに成功した。  一同は、観念した竜神に導かれ、館の心臓部へと足を踏み入れる。  5.7:『鍵は開かれ虎が見つめる』  重厚な偽装ハッチが、音もなく開かれた。展望室の天井から、眩い光の粒子が滝のように降り注ぎ、螺旋を描きながら天へと続く階段を形作る。  それは、神域への入り口のようでもあり断頭台への階段のようでもあった。  ゴッドドラモンは、観念したように深く息を吐き、その光の階段へと足を踏み入れた。その背中には、策略によって誇りを砕かれた竜の深い屈辱が滲んでいる。  後に続く騎士たちの足取りもまた、決して軽くはなかった。勝利の代償として背負った罪悪感が、見えない枷となって彼らの歩みを鈍らせる。  光の階段を上りきった先は、館の主であるゴッドドラモンのプライベート空間。  管理室である『天竜の間』だった。  足を踏み入れた瞬間、誰もが息を呑んだ。  そこは、この館の混沌とした意匠とは一線を画す、静謐で荘厳な神域だった。  床や壁面には、まるで生きているかのように青白いエネルギーラインが走り、足を踏み入れるたびに光が波紋のように広がる。  部屋の中央には、ロビーのマザー・クリスタルと直結した巨大な球状のコンソールが、静かに青い光を放っている。  そして、四方の壁には、四大竜の威容を象った祭壇が鎮座していた。  東にはチンロンモン、北にはホーリードラモン、南にはメギドラモン、そして西にはゴッドドラモン自身の祭壇が、それぞれ神聖なオーラを放っている。  ゴッドドラモンは、自らの聖域を荒らされたような苦々しい表情でコンソールに触れた。プライドを押し殺し、この館のシステム情報を、侵入者たちに開示する。 「……これが、この館の全てです」  球状のコンソールから、淡い光が空間に放たれ、立体的なホログラムが展開された。  最初に表示されたのは、現在の宿泊客の情報リストだった。  しかし、そこに記されていたのは、当たり障りのない個人データと、それぞれに割り当てられた部屋番号だけだった。  戦場騎士: 3階・赤・ハートの11号室  ディエース: 3階・赤・ハートの10号室  チェン・ユンフェイ: 4階・黒・スペードのK(13)号室  エリス・ローズモンド: 4階・黒・クラブのQ(12)号室  ティンカーモン: 4階・黒・スペードの10号室  レイラ・シャラフィ: 3階・赤・ダイヤの7号室  ワイズモン: 4階・赤・ダイヤのA(1)号室  ソク・ジンホ: 3階・黒・スペードの1号室(ERROR: Connection lost)  赤城鋼太郎: 3階・黒・クラブの3号室(STATUS: Contained)  コンソールのモニターには、地下牢の映像も映し出されていた。  そこには、力なく膝を抱える赤城の姿があった。特に変わった様子はなく、彼が真犯人ではないことを、その無力な姿が静かに物語っていた。 「これでは……何もわからないな」  ユンフェイが、秘宝の手がかりが見つからないことに、失望の色を隠せずに呟いた。 「……これも信頼の証です」  ゴッドドラモンは、皮肉と諦観を滲ませながらも、プライベートな通信記録を再生した。  球状のコンソールが静かに駆動し、四方の祭壇が呼応するように淡い光を放つ。やがて、管理室の空間そのものが歪み、三体の巨大な竜の立体映像が、それぞれの祭壇の上に荘厳な姿を現した。  東の祭壇には、雷雲を纏い、威厳に満ちた眼差しでこちらを見据える、デジタルワールド東方を守護するチンロンモン。  西の祭壇には、無数の聖なるリングを揺らし、慈愛に満ちた光を放つ、生命の調和を司るホーリードラモン。  そして南の祭壇には、灼熱の炎と底なしの影を背負い、静かに、しかし圧倒的な存在感を放つ、邪竜メギドラモン。  その巨躯は、時折、禍々しい紫の騎士、カオスデュークモンの幻影と重なるように揺らめいて見えた。 『集まったか、同胞よ』  最初に口火を切ったのは、チンロンモンだった。その声は、轟く雷鳴のように重く、世界の均衡を憂う王者の風格に満ちている。 『もはや聞き及んでいよう。イグドラシルの懐刀たるロイヤルナイツが、奴ら……デジモンイレイザーの前に敗れ去った。デジタルワールドの秩序は、今、未曾有の危機に瀕している』  その重い言葉に、ホーリードラモンが悲しげに瞳を伏せた。 『イレイザーの脅威だけではありませぬ。世界の理が乱れたことで、人の子らもまた、数多くこの世界へ迷い込んでいます。彼らの魂を、我々はどう導けばよいのか……』  彼女の声は、全ての生命を憂う母のような、深い慈愛と悲しみに満ちていた。  二体の竜が世界の行く末を憂う中、これまで沈黙を守っていたメギドラモンが、静かに、しかし全ての音を喰らうような響きで口を開いた。  その声は、彼の破壊的な外見とは裏腹に、氷のように冷たく、そして理知的だった。 『フン……。お前たちはまだ、奴らの本質を理解しておらん』  その瞳が、一瞬、策略を巡らすカオスデュークモンのそれと重なる。 『デジモンイレイザーの行動は、一見、支離滅裂。  ロイヤルナイツという秩序の象徴をいとも容易く打ち砕くほどの力を見せつけながら、次の瞬間には、取るに足らぬ道化を演じ、瑣末な遊戯に興じている。  それは単なる破壊衝動ではない。我々が信じる“価値”そのものを汚し、揺さぶるための高度な精神汚染(クラッキング)だ』  メギドラモンは、他の竜たちを見回す。 『奴らは、この世界の物語を破壊しようとしているのだ。  我々が信じる正義、慈悲、誇りといった概念そのものを、無意味で陳腐なものへと貶めようとしている。  そのような混沌に、生半可な秩序で対抗するなど愚の骨頂。  混沌には、より強大な混沌を。あるいは……絶対的な力による完全な支配を課すのが、唯一の理(ことわり)であろう』  彼の言葉は、単なる暴力の肯定ではなかった。理解不能な敵に対する、彼なりの冷徹な分析と、それに基づいた究極の解答だった。  三者三様の意見がぶつかり合う中、最後にゴッドドラモンが、この天竜の間の主として、そして自らの信義を告げた。 『力も、慈悲も、そして知略も、時に道を誤る。  我らは神ではない。ロイヤルナイツの如く義務を背負っているわけでもない。  ただ力ある者の責任として、それぞれの信義に基づき、それぞれの領域でかろうじて傾きを保つこの天秤を支え続けるのみ。  私はこの青嵐の館から善と悪、破壊と再生を持って、世界の秩序を見守り続けよう』  その言葉は、彼ら四大竜が絶対的な支配者ではなく、それぞれが信じる正義の下で世界の均衡を保とうとする孤独な守護者であることを示していた。 「ふぁ~……。真面目な話ばっかりで、つまんなーい」  ディエースは大げさにあくびをして見せた。この壮大な世界の危機すら彼女にとってはただの退屈しのぎにもならないらしい。  舘の犯人にも秘宝につながる情報も、ここにもなかった。  そうして、通信記録が終わりモニターが暗転したかと思った、その瞬間だった。  再生リストの末尾に、先ほどは存在しなかった【Unidentified_Log】という名のファイルがまるで生きている心臓のように不気味にそして蠱惑的に明滅しながら出現した。 「なにこれ? 新着動画?」  ディエースが面白がり、誰かが止める間もなく、その吸い寄せられるような光の点滅に、指を触れてしまった。  再生されたのは、音声も映像もない、ただの暗黒。すべてを吸い込むような、深淵の闇だった。  その闇の中心に、静かに、しかし抗いがたい存在感を放ち、1つの歪んだ鍵がゆっくりと浮かび上がった。  あらゆる秩序、あらゆる論理、あらゆる心の壁を嘲笑うかのように、蠢いている。万物を解錠する黒い鍵。  それがモニターの中心、仮想の鍵穴へと吸い込まれ、「カチリ」と、世界の理が外れるような、耳障りでそれでいて甘美な音を立てた。  その瞬間、解錠された鍵穴から黒い奔流が溢れ出した。  それはデータではない。ねっとりとした粘性を持ち、生命を宿した『墨』だった。  墨は物理法則を無視しモニターを侵食し、やがて神聖なはずの管理室の壁や床にまで呪いのように染み渡っていく。  それは冒涜的にうねりながらも、どこか官能的で美しい、虎の獣皮を思わせる力強い縞模様を描き出した。  ふ、と。  墨の一点が、心臓のように脈動を始めた。  そこからゆっくりと、ぬるりと、瞼が開くように、漆黒の眼球が姿を現す。  1つ、また1つと、墨の至る所から無数の瞳が開き、そこにいる者たちの魂を、直接覗き込むように、じっとりと見つめてきた。  その無数の目が、一斉に騎士を捉えた。 『ソノ瞳ニ見ツメラレルナ』  射貫かれた瞬間、騎士の脳髄を、恐怖ではなく、背徳的な悦楽が駆け巡った。  全身の産毛が総立ちになるような、甘美な戦慄。  抗えない。抗うという思考そのものが、愚かで、無意味に思えた。  心臓が歓喜に打ち震える。全身の細胞が、あの瞳に見つめられることを、悦んでいる。  ダメだ、と抵抗しようとする理性が叫ぶ。だが、本能から湧き上がる歓喜の叫びに掻き消されていく。 (見られている……ああ、俺だけが、この瞳に選ばれた)  呼吸が熱を帯び、思考が溶けていく。 (この怪物に喰われることは、きっと、至上の快楽なのだろう。  この身を捧げ、飲み込まれ、墨のように溶かされ、1つになりたい。それは死よりも甘い極上の快感に違いない) 『ソノ声ニ耳ヲ貸スナ』  けたたましい、デジタルな断末魔のような警告音が、耳の奥で直接響く、不快でしかし心地よい旋律に変わる。  管理室全体を染め上げる緊急の赤色灯が、情欲を掻き立てるような、いやらしい深紅の光に見えた。  もう、逃れられない。いや、逃れたくない。  喰われ、犯され、彼のものになる。それが、至上の幸福なのだと、魂が理解してしまった。  その甘美な誘惑に、意識が完全に飲み込まれそうになった、その瞬間── 『喰ワレルゾ』  パツン、と糸が切れるように、すべての異変が掻き消えた。  嵐のように、唐突に。  管理室は、何事もなかったかのように元の静寂を取り戻した。ただ、じっとりとした汗と、言い知れぬ悪寒だけが生々しく肌に残っている。 「デジモンイレイザー……! これは、奴らからの挑戦状だ! この『天竜の間』にまで、直接干渉してくるとは……!」  ゴッドドラモンの顔面は蒼白だった。彼はすぐさまシステムに異常がないか、震える指で必死にコンソールのチェックを始めた。  ただ一人、ティンカーモンだけは、その騒動の片隅で、別のものを見ていた。 (今の、なんだろう……墨の中から目玉が出てきたとき、コンソールの隅っこに、一瞬だけ……!)  彼女の純粋な瞳が捉えたのは、マザー・クリスタルのエネルギー経路を示す設計図。  そして、その図の今まで誰も気づかなかった僅かな歪み。  それは、まるで巨大なエネルギー体、あるいは隠された空間を覆い隠すために意図的にデータが改竄されたかのような、不自然な流れだった。  ユンフェイを強くしたい一心で秘宝の手がかりを探していたティンカーモンは、その小さな発見が何を意味するのかは分からない。  しかし、これこそがユンフェイを救う鍵になるかもしれないとその異常なエネルギー経路図を、妖精の小さな記憶に、強く、強く焼き付けた。  5.8:『夜警』  管理室から戻ったロビーは、まるで葬儀の後のように、重く冷たい沈黙に支配されていた。  一同の前で、ゴッドドラモンは夜警の担当者を指名する。その声は、もはや館の主としてではなく、狂ったゲームの進行役のように、無機質に響いた。 「犯人の襲撃に備え、そして……互いの監視という意味も込めて、今宵は夜警を立てていただきます。  最初の担当は、この中でも戦闘経験が豊富で信頼できる騎士様と、最も非力で……警戒対象から外れるティンカーモン殿にお願いしたい」  その言葉は、ティンカーモンが取るに足らない存在であると宣告するも同然だった。  騎士は意外な組み合わせに驚きながらも、断る理由もなく静かに頷いた。  ティンカーモンは、内心ではユンフェイと組みたかったという落胆と、騎士と二人きりになるという別の意味での緊張で、小さな胸をドキドキさせていた。 「その次の担当は、ユンフェイ様とディエース様です。お互い変な気を起こさないよう、しっかりと見張り合ってください」  ゴッドドラモンは、そう釘を刺す。ユンフェイは何も言わず、ただ黙って頷くと、仮眠を取るために自室へと背を向けた。 「はーい! じゃ、おやすみー」  ディエースは、まるでこれからデートにでも行くかのように軽く手を振り、ユンフェイの後に続く。 「私、頑張るね、ユンフェイ!」  ティンカーモンが、振り絞るような健気な声で呼びかけるが、ユンフェイは一度も振り返ることなくその姿を闇の中へと消していく。  力なく落とされる彼女の肩を、騎士は黙って見つめていた。隣に立つズバモンと共に、静かな夜警が始まった。  静まり返った館の廊下は、まるで巨大な墓所のようだった。自分たちの足音だけが、やけに大きく響く。  各階の扉が固く閉ざされていることを確認しながら、騎士とティンカーモンの間には、気まずい沈黙が流れていた。  その沈黙を破ったのは、ティンカーモンだった。彼女は、指先をもじもじとさせながら、意を決して騎士に問いかけた。 「ねぇ、騎士……。ズバモンを、ユンフェイに貸してあげてくれないかな?」 「なっ、何言ってんだティンカーモン! 俺はナイトの相棒だぜ!?」  ズバモンが、心外だと言わんばかりに騎士の隣で声を上げた。騎士もまた思わず足を止め、呆れたように彼女を見返した。 「断る」  即答だった。 「ズバモンは俺の相棒だ。誰にも渡さない」  そのきっぱりとした拒絶に、ティンカーモンは「……そうだよね」と俯き、消え入りそうな声で呟いた。  その小さな背中は、今にも泣き出しそうに震えているように見えた。  だが、彼女はすぐに顔を上げた。その潤んだ瞳には涙の代わりに、強い、強い決意の光が宿っていた。 「私、ユンフェイのこと、まだよく知らないんだ。会ったばかりだし、彼がどんな旅をしてきたのかも、どんなことで悩んできたのかも。でも、そんなのどうでもいいの!」  彼女は、小さな拳をぎゅっと握りしめた。 「あの時、アタシは足を怪我して、もうダメだって思った。あの黒い嵐に飲み込まれて、消えちゃうんだって。  そしたら、ユンフェイが……王子様みたいに現れて、アタシを助けてくれた! 強いだけじゃないの。優しく足を治療してくれて……ここまで抱っこしてくれたんだから!」  ティンカーモンの頬が、ぽっと赤く染まる。その鮮烈な記憶は、彼女にとって何よりも大切な宝物なのだ。 「だから、今度はアタシがユンフェイを助ける番なの! ユンフェイはすごく努力してる! 誰よりも剣の道を信じて、ずっと戦ってきたんだよ!  なのに、あなたに負けてから……あんなに悔しそうで、見てるこっちが苦しくなっちゃう……。私、ユンフェイに笑っていてほしいの。ただ、それだけなの……!」  飾り気のない、純粋な言葉。それは、恋する妖精の、魂からの叫びだった。  騎士の胸に、その一途な想いが、ちくりと痛みを伴って突き刺さる。ズバモンも、黙ってその言葉に聞き入っていた。 「だからね」  ティンカーモンは、騎士の目をまっすぐに見つめ、にこりと、どこか秘密めいた笑みを浮かべた。 「私、もう見つけたんだ。ユンフェイを最強にする秘宝への『道』を。騎士には内緒だけどね」  その言葉は、子供の戯言のようでありながら、揺るぎない確信に満ちていた。 「明日、絶対に見つけるから! ユンフェイを最強にする、すっごいお宝を! そしたら、ユンフェイはもう苦しまなくて済むんだ!」  そう宣言する彼女の瞳は、あまりに純粋で、そして、あまりに危うかった。  騎士は、その無邪気な笑顔の裏に潜む、恋という名の狂気に、背筋が冷たくなるのを感じずにはいられなかった。  ひととおりの見回りを終え、異常がないことを確認した騎士は、「最後に、赤城さんの様子も見ておこう」とティンカーモンを連れて地下牢へと向かった。  地下牢の重い扉を開けると、ひやりとした空気が肌を撫でた。  鉄格子の向こうで赤城鋼太郎は一人、静かに壁に背を預けて座っていた。  彼のいパートナーであるカイザーレオモンは、この牢が放つデジコアを弱めるフィールドの影響を避けるためか、既にデジヴァイスの中へとしまわれているようだった。  孤独な学者は、まるで己の罪と向き合うかのように、深く目を閉じている。 「……フン、見回りか。ご苦労なことだな」  騎士たちの気配に気づくと、彼は目を開け、自嘲気味に笑った。 「僕のような大罪人はこの牢獄がお似合いさ。ティンカーモン君やズバモン君のような純粋な子たちにまで、怖い思いをさせてしまって本当に申し訳ないと思っているよ」  その言葉には、昼間の狂気的なまでの激しさはなく、反省の色が見て取れた。  ズバモンとティンカーモンは、その意外なほどの優しさに、少し戸惑ったように顔を見合わせる。  騎士は、彼を刺激しないよう、慎重に言葉を選びながら、管理室での出来事をありのままに話した。 「あなたを陥れたかったわけじゃない。ただ、俺たちも真実が知りたいだけだ」  管理室に秘宝の手がかりが何もなかったという事実に、赤城は「そうか……」と静かに己の過ちを認めた。 「僕はまた、1つの可能性という名の妄執に囚われて、周りが見えなくなっていたらしい。  結局、成功したとしても何も解決しなかったどころか、君たちを危険な目に合わせてしまっただけか……」 「でもさ、赤城のおっちゃん! レイラさんをいじめたのは、やっぱ良くないと思うぜ!」  ズバモンが正義感から声を上げる。ティンカーモンもその横でこくこくと頷いた。 「そうだよ! レイラさん、すごく怖がってたもん!」  赤城は、二人の純粋な叱責に、ぐうの音も出ないというように苦笑を浮かべるしかなかった。 「……ああ、その通りだ。弁解のしようもない。僕の独善が彼女を深く傷つけた」  そして再び騎士に向き直る。 「騎士君とユンフェイ君が、最後に私を庇おうとしていたことは分かっている。感謝はしないが、その行動は記憶しておこう」  それは赤城なりの最大の信頼の表明だった。  それから騎士は本題を切り出した。  天竜の間で起きた異常現象について、詳細に語り始めた。 「黒い鍵、虎の縞模様……そして目か。もしそれが1体のデジモンだというのならそんな特徴を持つデジモンなど聞いたことがない。少なくとも僕の知識の範疇にはないな……」  彼は数秒間、目を閉じ高速で思考を巡らせる。それから1つの、しかしもっとも恐ろしい可能性にたどり着いた。 「……既存のデジモンではないとすれば、答えは1つだ。 デジモンイレイザーが作り出した『新種』、あるいは、未知の技術による『改造デジモン』だろう。  これは厄介なことになったな……」  赤城の声には、これまで見せたことのない、本物の焦りの色が滲んでいた。  脅威の正体が不明であること。それは、彼の緻密な計算と論理が通用しない可能性を意味していた。  そして、赤城は鉄格子越しに真剣な眼差しで騎士を見据えた。その瞳は、ズバモンとティンカーモンにも優しく諭すように向けられていた。 「よく覚えておきたまえ。君たちは僕の相棒のカイザーレオモンを知っているよな。彼はハイブリッド体だ。  ハイブリット体という名称は伝説の十闘士が遺した『スピリット』の力を受け継ぎ、人間がデジモンへと姿を変え戦う事例から来ている。  僕のは、混ざりっけなしの完全なデジモンだがね」  騎士は、その言葉に目を見開いた。 「人間が、デジモンに……? では、そのスピリットを隠し持った者が、犯人だと?」  赤城は、静かに首を振った。 「さぁな。そして、その逆もまた然りだ。強力なデジモンが人の姿を取ることだって、このデジタルワールドでは日常茶飯事と言っていい。  君が見ているものだけを信用することはできないということだ。姿形など、いくらでも偽れる」  その言葉は、この館にいる宿泊客の中に、「人間に化けたデジモン」や「デジモンに化けられる人間」がいる可能性を示唆していた。  それは、騎士の足元を揺るがす、新たな疑念の種だった。 「ここはゴッドドラモンの言う通り舘の中で最も安全だよ。食事もベーダモンが気を利かせてここまで運んできてくれるしな。  だが……もしも明日の朝、僕がこの牢から消えていたなら……その時は、君に全てを託す。頼んだぞ」  赤城はそう言うと、静かに目を閉じ、背を向けてしまう。彼の言葉は、騎士の心に重い楔として、深く、深く打ち込まれた。  交代時間となり、騎士とティンカーモンはロビーで待っていたユンフェイとディエースに夜警を引き継いだ。 「何か変わったことはあった?」  ディエースの軽い問いに、騎士は「何も」とだけ答えた。赤城との会話は、まだ誰にも話すべきではないと判断したからだ。  剣の達人であるユンフェイと、掴みどころはないが実力は確かなディエース。  騎士は、この二人ならば大丈夫だろうと、ある種の安心感を無理やり自分に言い聞かせ自室へと戻った。  日中の疲労と夜警の緊張。ベッドに倒れ込むように身体を横たえると、騎士の意識は糸が切れたように、急速に深い闇へと沈んでいった。  5.9:『ユンフェイの見た聖剣』  眠りの中で騎士の体内に宿る虹色の球体が、静かに、しかし確かな脈動を始めた。  騎士の意識は、己のものではない、誰かの過去へと飛んでいった。     ☆  アスファルトに染み込んだ昨夜の雨が、生温い空気を立ち上らせる。  ユンフェイは、目的もなく歩いていた。手にしたスマートフォンには、大手IT企業からの「不採用通知」のメールが冷たく表示されたままだ。  これで何社目だろうか。もう数える気にもなれない。 「985大学」──誰もが羨む国内トップクラスの大学の卒業証書は、今のユンフェイにとってはただの重荷だった。  入学した頃は、輝かしい未来が約束されていると信じていた。  しかし、現実は「内巻(ネイジュアン)」と呼ばれる終わりのない競争地獄。  自分より優秀な人間はいくらでもいて、彼らもまた数少ない安定した職を求めて必死にもがいていた。  昨夜の夕食の光景が脳裏に蘇る。 「お前の兄さんは、また昇進したそうだ。お前は一体いつになったら…」  父親の言葉は、ため息と共に吐き出された。向かいに座る母親は何も言わない。その沈黙が何よりも雄弁に失望を物語っていた。  金融街で成功を収めている二人の兄は、もはやユンフェイをいないものとして扱っている。  彼らにとって、卒業しても定職に就けない弟は一族の恥でしかなかった。 「まだ若いんだから選り好みしないでどこかにまず入ったらどうだ?」  選り好みなどしていない。プライドを捨て中小企業にも何十社と応募した。  しかし、返ってくるのは無慈悲なまでの「お祈りメール」か、良くて異常な長時間労働を前提とした低賃金の「996」求人だけ。  あまりの過酷さに、全てを投げ出して無気力に寝そべる「躺平(タンピン)」という言葉が、甘美な響きをもってユンフェイの心を誘惑する。  だが、それを許さない家族の視線が鉛のように彼を地面に縛り付けていた。  居場所がない。家にも、この社会にも。  ふと、ユンフェイは路地裏に寂れたゲームセンターの看板が灯っているのに気づいた。  子供の頃、兄たちに連れられて何度か来たことがある。  吸い寄せられるように中へ入ると、最新のVRゲームが派手な音を立てる中で、隅の方に古びたアーケードゲーム機が数台忘れられたように置かれていた。  その一台が奇妙な光を放っていた。 『WELCOME DIGITAL WORLD』  引き寄せられるようにユンフェイが画面に手を伸ばした瞬間、スマホがポケットの中で激しく振動し、画面が勝手に点灯した。  表示されていた不採用通知の文字が、緑色の0と1の羅列に変わっていく。 「!」  スマホから溢れ出した光が、ゲームセンターの筐体の光と共鳴し渦を巻く。  視界が真っ白に染まり強烈な浮遊感が全身を襲った。  父親の怒声も、母親の失望のため息も、兄たちの冷たい視線も、急速に遠のいていく。  意識が浮上すると、鼻腔をくすぐったのはアスファルトと排気ガスの匂いではなく、乾いた土と金属が錆びるような匂いだった。  ユンフェイが体を起こすとそこは見渡す限りの赤茶けた荒野だった。  雲にはモザイクのようなパターンが薄っすらと走り、時折データの欠片のような光が流星のように消えていく。  その非現実的な光景に呆然としていると突如、地響きと共に爆音が轟いた。 「何だ!?」  音のする方へ視線を向けると丘の向こうで激しい戦闘が繰り広げられていた。  チェスの駒、それも城壁を模したような巨人を筆頭に、重厚な陣形を組んでいる。  その中心で、褐色の肌をした凛々しい女性が冷静に腕を振り、指示を飛ばしていた。 「ルークチェスモン、防衛線を維持してください! ヴォルクドラモン、前へ! タンクモン隊は引きつけてから砲撃です!」  彼女の号令一下、屈強なモンスターたちが一糸乱れぬ動きで敵の攻撃を防ぎ、反撃に転じる。  統率の取れた、まさに軍隊だった。  それと対峙しているのは、統制も何もない、獣のような雄叫びを上げるモンスターたちの軍団だ。  炎の羽を持つ巨大な鳥や、  数で圧倒しようと波状攻撃を仕掛けるが、ルークチェスモンたちの鋼の装甲に阻まれ、次々と弾き返されていく。  あまりの光景に、ユンフェイは現実感を失っていた。  あの「不採用通知」も、家族の冷たい視線も、まるで遠い世界の出来事のようだ。彼は本能的に近くの岩陰に身を隠し、ただ固唾をのんで戦いを見守った。  その時、足元で小さな物音がした。見ると、青い鱗に覆われた小さな竜の姿をしたデジモンが、傷つき、怯えきった様子で震えている。  その翼は破れ、つぶらな瞳には恐怖の色が浮かんでいた。 「……大丈夫か?」  思わず手を差し伸べると、小竜はビクリと体を震わせたが、ユンフェイに敵意がないことを感じ取ったのか、おずおずと彼の腕の中に潜り込んできた。  その小さな温もりが、凍てついていたユンフェイの心をわずかに溶かす。  これが、恐怖に怯える「ドラコモン」との出会いだった。  戦況は、指揮官の女性が率いるルークチェスモン軍の優勢で進んでいた。このまま押し切るかと思われた、その瞬間だった。  戦場に天を裂くような咆哮と共に、何かが現れた。  それは、まさしく暴竜だった。ティラノサウルスを彷彿とさせる獰猛な頭部、燃えるような赤い鎧に覆われた屈強な体躯。  そして何より目を引いたのは、両腕に備わった巨大な剣だった。  それは単なる武器ではなく、体の一部として融合しているかのように、禍々しくも美しい青白い光を放っていた。  竜人は、どちらの軍に味方するでもなくただその圧倒的な存在感を戦場に誇示していた。 「邪魔だ」  低く地を這うような声が響くと同時にその姿が霞んだ。  次の瞬間には、鉄壁を誇っていた亀のような怪獣の前に移動しており両腕の剣が閃光を放つ。  甲高い金属音と共に、分厚い装甲がいとも容易く豆腐のように切り裂かれた。  防御も、陣形も、戦略も、その絶対的な「個」の力の前に意味をなさなかった。  ユンフェイが息をのむ前で、戦場のパワーバランスは完全に崩壊した。  突如現れた竜人型デジモンの圧倒的な暴力は、統率された軍という概念そのものを嘲笑うかのように次々とその剣閃で薙ぎ払っていく。  追い詰められた女性指揮官は、しかし冷静さを失ってはいなかった。  その瞳の奥には、全てを覆すための冷たい決意が燃えていた。彼女は高く掲げたデバイスを握りしめ、叫んだ。 「もはや出し惜しみはできません!! ルークチェスモン、ヴォルクドラモン、タンクドラモン、メイルドラモンをデジクロス!」」  その号令が、戦場に響き渡る。  火山のような甲殻を持つ巨大な竜ヴォルクドラモン。  無限軌道を軋ませ銃火器を備えたタンクドラモン。  そして鋼の鎧を纏ったメイルドラモンが光の粒子となって分解され、一体の巨大なルークチェスモンへと殺到した。  城壁のごとき巨体が核となり、そこに火山の翼と砲塔が装着され、全身がさらなる重装甲で覆われていく。  それはもはや単なるデジモンではなく、戦略兵器と呼ぶべき威容を誇っていた。  翼から灼熱の空気を放ち、肩の砲塔が敵意をむき出しにする、まさに「鉄壁の移動要塞」。  その力は、先ほどまでの個々のデジモンとは比較にさえならないだろう。  だが、赤い竜人型デジモンは、自らを遥かに超える巨体を前にしてもなお、静かだった。 「グラニットガーディアンズ最強の守護神の前に震えて、声も出ないでしょう!」  興味深そうに、あるいは、つまらなそうに新たなる融合体を一瞥する。 「無駄にデカくなりやがって。ネオデスジェネラルである俺様の歩みを邪魔すんじゃねぇ」  そして、ゆっくりと両腕を天に掲げた。  両の掌の間に、大地から吸い上げた空間が歪むほどの高エネルギーが凝縮されていく。  世界中の光を吸い込んだかのような、灼熱の球体へと姿を変えた。太陽の如き絶対的な力の塊。  しかし、技はそこで終わらなかった。球体は急速に収縮しながら、凄まじい速度で回転を始める。  甲高い耳を劈くような高周波を放ちながら、その姿は光り輝く漆黒の円盤──―あらゆるものを切断する、死の円環へと変貌を遂げた。 「焼き斬れ」  竜人型デジモンが、技の名を宣告する。 「────『テラーズイグザーション』!」  放たれた光の円盤は、音さえ置き去りにして空間を裂いた。  デジクロスによって誕生した超巨大要塞は、その全砲門から迎撃の弾幕を放つが、すべてが無意味だった。 『テラーズイグザーション』は弾幕を霧散させ、重装甲をバターのように貫き、抵抗する時間すら与えずに、その巨大な胴体を一撃で両断した。  一瞬の静寂。 そして、デジクロス体が断末魔の叫びを上げる間もなく歪んだかと思うと大爆発を起こし、0と1のデータの嵐となって消滅した。 「そん……な……」  褐色の女性の顔から、冷静さとプライドが剥がれ落ちた。  そこに浮かんだのは、理解を超えたものに対する、原初的な恐怖。彼女の最強の切り札が、文字通り一撃で粉砕されたのだ。 「ひっ……!」  短く悲鳴を上げると、彼女は踵を返した。そして、まだ生き残っていた配下のデジモンたちに向かって、震える声で叫んだ。 「て、敵を食い止めろぉぉぉぉ! ここで私を守って死ぬのは貴様らの誉れと思え!!」  それは、もはや指揮官の命令ではなかった。  ただ生き延びたいという一心で、今まで忠誠を誓ってきた部下たちを「捨て駒」にする、卑劣な絶叫だった。  何らかのデバイスを操作すると、その足元にトランポリンのようなものが現れ、彼女の体は瞬く間に遠く離れた場所へと飛んでいた。  それを繰り返し、あっという間にその姿は見えなくなった。  戦場には、敬愛する主に裏切られたデジモンたちの絶望と、それを静かに見下ろす竜人型デジモンだけが残された。 「哀れだな。だが俺様は優しい。まとめて楽にしてやるよ。ダークネスローダー、強制デジクロス!」  褐色の女性が使っていたものよりも禍々しい形をした黒いデバイスを掲げると、残されたデジモンたちは1つに融合する。  彼らは合体することで強くなった。これならば大将を倒したこのデジモンにさえ勝てるかもしれない。そう考えた。  そして、暴竜はそれを容赦なく一太刀で斬り捨てると、はじめから何もない道だったかのように、ゆっくりと前へと進んでいった。  岩陰でそのすべてを見ていたユンフェイは、言葉を失っていた。  圧倒的な力。  その力の前では、忠誠も絆もたやすく踏みにじられるというこの世界の冷酷な現実。  しかし、ユンフェイには竜人のその圧倒的な姿が恐ろしいと同時に、どうしようもなく美しく映った。  ユンフェイはふと、思い出した。  子供の頃、アニメや映画のヒーローに夢中になった。  剣で悪を討つ孤高の剣士に強く憧れていた。  いつしかそんな気持ちは、受験戦争や「内巻」の波の中で擦り切れ、忘れてしまっていた。  社会の歯車になること、安定した職に就くことだけが正しいのだと、自分に言い聞かせてきた。  だが、今、目の前にいるのは何だ。  誰の指図も受けず、何者にも媚びず、ただ己の力と剣技だけで、この世界にその存在を刻み付けている。  腕の中で恐怖に震えるドラコモン。それを守る術を持たない無力な自分。そして、全てを切り伏せるあの圧倒的な剣。  ユンフェイの中で、何かが音を立てて繋がった。「985大学」の卒業証書も、大手企業の肩書も、ここでは何の価値もない。  ならば、何に価値がある?  ──強さだ。  あの竜人のような、絶対的な強さだ。  恐怖に震えるドラコモンを見て、ユンフェイは決意した。もう、他人の評価に怯えるのは終わりだ。  誰かが敷いたレールの上を歩く人生は、ここにはない。 「怖がるな」  ユンフェイは、ドラコモンに優しく語りかけた。その声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。 「俺は、あれになる。あの暴竜のように、強くなる。この世界で、剣の道で生きていく」  彼の瞳から、現実世界でまとわりついていた無気力と絶望の色が消えた。  燃えるような赤い鎧を纏う全てを焦がしたような黒き竜を映し、初めて確かな意志の光が宿った。     ☆  騎士は、窓から差し込む神々しい光で目を覚ました。  昨日までの、全てを飲み込むような静寂の闇とは全く違う。そこには、圧倒的な生命の律動があった。  窓の外に広がるのは、神々の創造を早送りで見ているかのような、奇跡の光景だった。  破壊され尽くした無の空間から、無数の光の粒子が、まるで天に昇る蛍のように立ち上っている。  その光が集まり、絡み合い、新たな地形のワイヤーフレームを構築していく。  緑のテクスチャが地面を覆い、岩や木々のポリゴンが瞬く間に形成されていく。  これが青嵐エリアの再生。  世界の始まりを見ているかのような、その神々しい光景のほうが、今の騎士にとって夢のようだった。  5.10:『3日目の犠牲者』  騎士は、自分が見たものについて考える。  あれは夢だった。だが、夢にしては、あまりにも鮮明すぎた。  不採用通知の冷たい感触、家族の失望のため息、そして、戦場で見た暴竜の圧倒的な存在感とそれを見つめる男の絶望と決意。  それら全てが、まるで自分が体験したかのようにリアルな手触りをもって騎士の記憶に刻み付けられていた。  あれは、ユンフェイの記憶だ。そう直感した。彼の抱える深い闇と、デジタルワールドに来てからのひたむきな姿が繋がり、胸に複雑な思いが込み上げる。 「ナイト、起きたのか? すげーぞ! 外がキラキラだ!」  ズバモンがベッドから飛び降り、窓に張り付いて歓声を上げた。  騎士もまた、重い体を引きずるようにベッドから降りると、ズバモンと共に食堂へと向かった。  食堂に足を踏み入れると、そこには嵐の後の晴れ間のような、穏やかな空気が流れていた。 「騎士さん! ディエースさん!」  レイラとワイズモンが、安堵に満ちた表情で駆け寄ってくる。 「騎士さんたちのおかげで、昨日は安心して眠れました! 本当にありがとう!」 「マジで! あんな物騒なことがあった後だったから、夜警してくれてるってだけで全然違ったっすよ!」  二人は心からの感謝を口にする。騎士は少し照れくさそうに頭を掻いた。  そのやり取りを見て、館の主であるゴッドドラモンも安堵したように微笑んだ。  彼の目元には深い隈があり寝不足は明らかだったが、その表情には久々の平穏への喜びが浮かんでいた。 「管理室のモニターから、皆様の無事を確認しておりました。騎士様、ユンフェイ様……そして、ディエース様とティンカーモン殿も。夜警、誠に感謝いたします」  彼は深々と頭を下げた。その姿は、このかりそめの平穏が、自らの築いた秩序の上にまだ成り立っていると信じている者のそれだった。  ベーダモンが腕を振るった豪華な朝食がテーブルに並び、一同はそれぞれの席に着いた。再生を祝うかのような明るい雰囲気の中で、皆が食事を始める。  修復された自動調理器で、好きな食事を購入する者もいる。  しかし、いつまで経っても、ユンフェイの隣にあるはずの小さな席が空いたままだった。 「ティンカーモンは、寝坊かしら?」  ディエースが、自動調理器で作ったクロワッサンを頬張りながら屈託なく笑う。  ユンフェイも、「昨夜は遅くまで起きていたからな。無理もないだろう」と、その時はまだ軽く考えていた。彼の口元にはかすかな笑みさえ浮かんでいる。  しかし、朝食が終わる時間になってもティンカーモンは姿を現さない。ユンフェイの表情から余裕が消え、徐々に焦りの色が滲み始める。  異変を察した騎士が「俺が見てきます」と席を立とうとしたのをゴッドドラモンが制した。 「いえ、私が行きましょう」  重い足取りでゴッドドラモンが席を立つ。数分後、彼は血の気の引いた顔で戻ってきた。 「部屋は……もぬけの殻でした。争った形跡は、一切……」  その報告は、食堂の空気を一瞬にして凍てつかせた。ソク師範の消失。その悪夢の再来だった。 「まさか……また誰か消えたというのか!?」  ワイズモンが悲鳴に近い声を上げる。レイラの顔が蒼白になる。 「そんな……夜警はどうなっていたのですか!」  ゴッドドラモンが、夜警担当だったユンフェイとディエースに事情を問う。二人は顔を見合わせ、きっぱりと首を振った。 「我々が担当している間、異常はありませんでした。彼女の部屋から誰かが出てくる姿など、一度も見ていません」 「そうそう。アプモンたちがずーっとロビーで見張ってたもんね。絶対に見逃してないって!」  ユンフェイとディエースの証言により、ティンカーモンが最後に目撃されたのは、騎士が夜警を引き継ぐためにロビーで別れた時となる。  騎士の脳裏に、昨夜のティンカーモンの言葉が、呪いのように蘇った。 『私、もう見つけたんだ。ユンフェイを最強にする秘宝への『道』を』  一同は手分けして、館内をくまなく捜索し始めた。  ユンフェイは、普段の冷静さを完全に失い、鬼気迫る表情で「ティンカーモン!」と叫びながら駆け巡っている。  その時、ワイズモンが「そうだ! 赤城さんなら何か知ってるかも!」と叫び、地下牢へと向かう。騎士たちもその後を追う。  しかし、地下牢へと続く階段を下りるにつれ、肌を刺すような異様な空気が一行の足を鈍らせた。  鼻腔をくすぐるのは、カビ臭い湿気ではない。金属が焼ける焦げ臭さと、高密度のエネルギーが放つオゾンの匂い。  ゴクリと誰かが唾を飲む音が響く。扉の前にたどり着いた騎士が、意を決してその重い鉄の扉を押し開けた。  その瞬間、誰もが息を呑み、そして絶句した。  そこに広がっていたのは、もはや「牢獄」と呼べる空間ではなかった。狂気の斬撃が吹き荒れた、凄惨な処刑場そのものだった。  昨日まで赤城を閉じ込めていたはずの分厚い鉄格子は、もはや影も形もない。  まるで神話の獣に噛み砕かれたかのようにズタズタに引き裂かれ、高熱で溶解した鉄屑となって床に無残に散らばっていた。  だが、異常はそれだけではなかった。破壊は、牢全体に及んでいた。  石造りの頑丈な壁には、巨大な爪で引き裂いたかのような無数の斬撃痕が縦横無尽に走っている。  床も、天井も、まるで紙細工のように切り刻まれ、構造を維持しているのが奇跡に思えるほどだった。  そこには、憎悪や怒りといった生々しい感情すら感じられない。  ただ、対象の存在そのものを、この世から完全に抹消するという、冷たく、そして絶対的な意志だけが空間に満ちていた。 「こ、これは……一体、何が……」  ワイズモンが、震える声で呟いた。軽薄な態度は完全に消え失せ、その顔には原初的な恐怖が浮かんでいる。  あまりの光景に、レイラは「ひっ」と短い悲鳴を上げてその場にへたり込んだ。  牢の中は、もぬけの殻だった。赤城も、彼のデジヴァイスの中にいたはずのカイザーレオモンも、その痕跡すら残さず、完全に消え失せている。  その異常な破壊痕を前に、レイラが呟いた。 「……レジェンドアームズか、スレイヤードラモンじゃなければ、こんな芸当は……不可能よ……」  その震える言葉と怯えた視線は、まるで呪いのように、騎士とユンフェイの心に突き刺さる。  2人の間に、疑念を通り越した、殺意にも似た冷たい空気が流れた。 「馬鹿な……! ありえん……!」  報せを受けたゴッドドラモンは、血相を変えて『天竜の間』へと急行する。騎士たちも、その後を追った。  しかし、神聖なる管理室で彼のプライドを待ち受けていたのは、完全な敗北だった。 「記録には……何の異常もないだと!?」  監視モニターには、鉄格子が無傷のままで、赤城が静かに座っている映像が、ただ延々とループ再生されているだけだった。  誰かがシステムに侵入し、記録そのものを完璧に改竄している。それは、昨日彼らを襲った黒い虎のデジモンイレイザーによる犯行を、強く、強く示唆していた。  自らが誇る館の絶対的な監視システムが、いとも容易く破られたという事実。それは、ゴッドドラモンのプライドと、この館の秩序が、根底から崩壊した瞬間だった。  狼狽するゴッドドラモンに、エリスが氷のように冷たい声で追い打ちをかける。 「記録が信用できない以上、もはや頼れるのは人間の記憶だけ」  彼女の冷たい視線が、凍りついたように立ち尽くすユンフェイを射抜いた。 「最後にティンカーモンと親しげにしていたのは、貴方。そして、この牢を破壊できるだけの剣を持つデジモンを従えているのも、騎士と……貴方だけよね、ユンフェイ」  全ての視線が、容疑者を見る目となって、ユンフェイへと突き刺さる。彼は、慕ってくれていた小さな妖精を失った悲しみと、突如向けられた疑惑の刃に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。 「待て!」  その絶望的な沈黙を、ドラコモンの鋭い声が切り裂いた。彼は、主人の前に飛び出すと燃えるような瞳でエリスを睨みつける。 「我が主を愚弄するのは許さんぞ! ユンフェイ殿がそのようなことをするはずがないだろう!」  彼は必死に、主人の無実を訴えた。 「ユンフェイ殿は、昨夜の夜警中、ずっとティンカーモン殿の身を案じていた! 彼女が無事に部屋に戻った後も、部屋の扉を何度も心配そうに見つめていた!  僕らはずっと見回りをしていた。それは、ディエースさんも証言できるはずです!」  ドラコモンがディエースに視線を向けると、彼女は面倒くさそうに肩をすくめた。 「そーそー。ユンフェイ君、ずーっとソワソワしてて面白かったよー。ティンカーモンちゃんのこと、大事だったんだねぇ。  だから、ユンフェイ君が犯人ってことはないんじゃないかな? 食堂が開くまでずっと見回りしてたんだからいつ消せるの?」  ディエースのあっさりとした証言で、ユンフェイの夜警時間中のアリバイは証明された。だが、エリスは少しも動じない。 「アリバイなんて、監視記録が改竄されている以上、どうとでもなるわ。  重要なのは『手段』。ティンカーモンの失踪理由は不明。でも、あの牢を破る手段を宿泊客の中で持っているのは騎士と貴方だけ。その事実は変わらないでしょう?」  三日目の朝。再生の光が満ちる館で、平穏は完全に崩れ去った。  底なしの疑心暗鬼と、見えざる敵への恐怖だけが、一同の心を支配し始めていた。