・01 「お久しぶりですね、祭後さん」 その声は、風鈴の音に溶け込むように静かだった。 振り返った先で、浴衣姿の人々の間に一人異質な影があった。 確か、リーゼロッテ・モルゲンシュテルン。 白いドレスに近い衣装と、無機質な車椅子。 色素の薄い髪と血の気のない肌は、まるでこの夏祭りという熱の中に属していないように見えた。 「…キミ。なんで俺の名前を」 「ふふ。驚きましたか?私、あなたのことはよく知っていますもの」 その言葉は、こちらの様子を伺うような微笑と共に紡がれる。 「では、今ここであの日の続きを」 その言葉を聞いたシュウは、反射的にデジヴァイス01を装着した右手を跳ね上げる。 「…なんて、冗談です。真面目なんですね」 彼女は、笑い声が漏れるのを手で防ぐ。 電動車椅子が小さく唸る音とともに、リーゼロッテはシュウに近づいてくる。 「今日はオフの日なので見過ごしましょう─貴方も、見逃してくれますよね?」 上目遣いに見上げられたシュウは、視線だけで探るように、周囲を見回す。 灯籠の下、屋台の列…ちらほらと以前ともに戦った顔もある。 (戦力はあの時よりも整ってる…この子が暴れまわっても最悪どうにかできるハズだ) 「あらら?もしかして、誰かに助けを呼ぶつもりですか?」 リーゼロッテの言葉に毒気はあるが、どこか楽しげでもあった。 彼女はそのまま屋台の並ぶ狭い道へと進み出すが、そのランダムな人混みは車椅子での移動に適してはいなかった。 「…よくよく考えたら、車椅子でこのような場所に来るのは無理がありましたね」 そう言って苦笑するリーゼロッテの姿は敵でも、恐ろしい実験者でもなく、ただ一人の幼い少女だった。 腕を伸ばしても屋台のたこ焼きに届かず、もたつく様子を店員の女の子も困ったように見つめている。 その姿に、シュウはふいにあの夏の記憶が引きずり出された。 自分のせいで足を砕かれた親友・リョースケとは、それ以来顔を会わせることもできていない。 今の彼が、どんな顔と声なのか…もうわからない。 シュウに理解できるのは、自分の人生を壊した男の事なんか思い出したくもないと思っている…そんな確信だった。 真顔になったシュウは、一つため息を吐くと無言のままたこ焼きを受け取った。 「…なにを」 「悪いことしないんだろ?」 シュウはそのまま、リーゼロッテの膝の上にそっと暖かいたこ焼きを置いた。 彼女は一瞬、困惑したような顔をして、それから静かに笑った。 「なら、付き合わさせてあげます。私の言うことを聞きなさい」 リーゼロッテは穏やかに、それでいて命令のように告げた。 ただの同行ではない、何かを試されているような響きだった。 「…集合時間があるんだ。それまでな」 「私もそこまで一緒にいるつもりなんてありませんよ」 シュウの返事はあくまでそっけない。 だがその足取りは、拒絶ではなかった。 「リズでいいです。リーゼロッテじゃ長いでしょう?そう呼ばせてあげます」 「はいはい」 そしてリーゼロッテは、アレが欲しいコレが見たいとシュウを引っ張り回した。 一見すれば、ただの子供のわがまま。 だが天才と呼ばれた彼女が、ただの子供でいられる時間などそう多くはないはずだ。 ほんの少しだけ許されたその自由はどこか壊れやすく、儚く見えた気がした。 「─その人が、大切なんですか?」 シュウがスマートフォンで時間を確認する姿を見たリーゼロッテの声音に、微かな棘が混ざり始める。 「…大体、キミと同じ理由だよ」 シュウは少し間を置いて、ぽつりと答えた。 その声音はまっすぐで、言い訳のように聞こえる気配はなかった。 「昔はな、ダンスとかやってたんだけどな」 「…違います」 リーゼロッテの低く乾いた声に、ぼんやりと過去を思い返していたシュウは現実へと引き戻された。 「その人は、私とは」 彼女は視線を下げ、シュウから渡された射的の景品をグッと握りしめた。 (その人は、踊れた─たとえ今がどうであれ、かつてはそうだった) そもそも、なぜ敵とこんなことを話しているのだろうか。 初めて会ったような子供より、付き合いの長い人物を優先するのは当然じゃないか。 今まで一度も健常だったことのない自分には届かない場所─完璧な自分が“誰か"に嫉妬しているのが許せず、気持ちがぐちゃぐちゃになる。 「リズ…」 だから、一緒に。 シュウがそう続けようとするが、リーゼロッテはわずかに首を振った。 「やっぱり、それで呼ばせてあげません」 それは全ての音を拒絶し、断ち切る様な声だった。 そしてそのまま彼女は、車椅子をゆっくりと回す。 「今日は、ありがとうございました…その大切な人の所に行ってあげてください」 風鈴の音と共に、リーゼロッテの姿は祭りの灯の外に消えていった。 ・陽炎 彼女は落ち着いていて、ともすればどこか傲慢だった。 踊ることに誰よりも夢中だった彼女は、他人にも自分にも厳しかった。 高校で再会した頃の彼女は、まだ変わらず光を纏っていた。 二人の親友を喪い、ただ生きているだけの存在になっていたシュウは心のどこかで彼女に憧れていた。 ─そんな日々がもう遠い記憶になった頃、唐突にその名を口にした異形がシュウの前に降り立った。 「アイツは足を壊して、夢をダメにしたんデス」 チドリの相棒・ミツメちゃんを自称したソレの言葉は不思議な程に軽かったが、ずしりと重たく沈んでいた。 案内された先は、都心の片隅にあるマンションの一室だった。 再会の扉を開けたその瞬間、シュウの胸にひやりとした風が吹いた。 そこにいたチドリは、あの頃より幾分か幼く見えた。 壁に向かってぶつぶつと呟き、酔っ払ったようなテンションで、虚空に向かって笑っていた。 明るくて、雑で、ふざけた言葉─それがあまりにもよく知っているものに思えて、喉の奥が詰まった。 「もう大丈夫」 「とっくに終わったこと」 「だからその話はしなくていい」 それは壊れていないフリをするための言葉であり、仮面だ。 生きるために無理やり貼りつけた、薄くて脆いもの。 いや、自分は終わる度胸も無いだけか。 (…ああ、少し俺に似てるんだ) 頭の片隅に、あのニュース映像がフラッシュバックする。 何もできなかった後悔が、過去の叫びが、右手に残る古傷がをじわりと疼かせた。 その気配に気づいたのか、チドリがこちらを見た。 目を薄く開いて一瞬動きを止めた彼女は、また目を細めて笑った。 全身と共に振るった手の指先は、舞台に立つ女優が物語の終幕に見せるような所作のように感じた。 「あんれま〜、シュウちゃんおっひさ〜」 壊れたものの奥で必死に繕っているような明るさが、少しわかってしまう自分がいた。 せめて彼女がこれ以上は壊れないように、その夢物語に付き合っていこう。 そう心の奥で静かに誓いながら、シュウもいつもの─嘘の笑いを口元に浮かべて返した。 「よっ」 ・02 赤い紙提灯が風に揺れていた。 空にひらひらと舞い上がるのは綿菓子の袋か、あるいはすでに夜の気配に溶けかけている風船か。 人々が笑い、すれ違う脇に一人の場違いな姿の男が立ち尽くしていた。 "開運"と書かれたバッチ付きの麦わら帽子、ピンクのボンボンが縫われた真っ赤なスカーフ。 右の手首には厄除けと書かれた数珠風のブレスレット、手にはふさふさとした尻尾状のアクセサリー。 荒波が踊る絵柄のけばけばしい法被、そして─それらを纏った死んだ目の男。 ははっ。今、誰かが笑った。 パシャ。今、誰かが写真を撮影した。 「もしかして俺を芸人か何かと勘違いしてんじゃねえのか…?」 小さく呟いたシュウの喉奥は、どうしようもなく乾いていた。 更衣室を出たその先に、チドリの姿はなかった。 代わりに、赤いシロップが溶けかけたかき氷のカップがまだカウンターの端に残っていた。 アレはシュウが更衣室に入る前、彼女が片手でつついていたヤツで、わずかな甘い匂いだけがそこに残っていた。 『まずカッコよカッコ!そんな辛気臭い顔じゃあ〜ン、運も福も逃げてっちゃうゾ☆』 リーゼロッテとのやりとりに少し後悔した気持ちを覚えていたシュウに、チドリはいつもの調子で肩をぺしぺしと叩いた。 『ほい、服だけにってね〜っ!んほっほっほっほ!』 シュウはチドリから、妙に色々なモノが入った紙袋を押し付けられる。 こいつが酔ってるのか狂ってるのか、正直もうわからない。 どこか切実な思いがあるような猫なで声が、その匂いと一緒に頭の奥で反響し、シュウをまた一つ困らせている。 ・03 相も変わらず夜風はぬるく、空には幾つもの星が輝いていた。 揺れる夜店の明かり、次々とすれ違う人々…まるで祭りそのものが生き物のように蠢いていた。 そんな生き物の体内でシュウは、焦っていた。 行方知れずのチドリの姿を探し、浴衣姿の人混みの中をひとり進んでいた。 あの女はどこにいても浮く。 だから、見つからないと不安になる。 「これはこれは…名前の通りとは言え、本当にいらっしゃるとは思いませんでした」 そんな時、背後からかけられた声に思わず振り返った。 そこに立っていたのは白衣に赤いスカーフが特徴的な三つ編の女リサ・ルドギーだった。 この場にあまりにも不釣り合いなその姿に、シュウは思わず言葉を失った。 「どうでしょう?共に少し、回ってみるというのは」 「…何してんだ、あんた」 「お祭りですので、お祭りを」 涼やかな声でそう返すと、リサは周囲を一瞥し、ふっと小さく息を吐いた。 「ですが、こうして場の空気に水を差していては“愛と共にあれ"の理念にも反しますね。少し、整えてまいります」 それだけ告げると、リサは白衣の裾を翻して貸出更衣室の小さなテントに消えた。 しばらくしてテントの中から、浴衣姿のリサが出てくる。 二の腕に巻かれた赤いスカーフと首元に下ろされたサングラスだけが唯一、元の姿を残していた。 先程までの場違いな彼女は、今やすっかりと空気に馴染んでいた。 シュウはそれを見計らったように歩み寄り、右手に持ったパックを差し出した。 「ほれ焼きそば。来たばっかなら、腹も空いてんだろ」 リサはきょとんとしてから、両手で丁寧に受け取った。 「ありがとうございます。せっかくですから、こうした“地上の喜び"を味わうのも大切ですね」 おかしな言い回しにシュウは鼻を鳴らす。 「アンタの浴衣、ちょっと珍しいかもな」 「そもそも、普段から着るものではありませんよ」 「その普段の格好が格好なだけに余計ね」 返す言葉に、リサは楽しげに笑った。 色々な出店を回り、やがてくじ引きの店にたどり着いたとき…強烈な違和感がまた一つ増えた。 屋台の奥に立つ店主は、どう見ても古い携帯電話だった。 カチャカチャと音を立てながら二足歩行し、液晶画面をちらちら点滅させながら小さな箱に手…らしきパーツを突っ込んでくじをかき回している。 「ここに変な女が来なかったか?」 「へいらっしゃい…あ、そろそろ何者か知りたい人だ」 りんご飴を見つめるリサを置いて前に進み出たシュウは、四回分の料金を机の上に置きながら質問した。 「えっと変な女…心当たりが多すぎて特定できないんだけど。ほい、アクリルチャームと駄菓子セット三つ!その変な女の人によろしく」 二足歩行の携帯電話が、液晶をぱちぱちと点滅させながら景品を取り出してそう言った。 だが─よく考えたら、この場に歩く携帯電話以上の変な存在なんてモンは思い当たらない。 尋ねる相手を間違えたかと感じたその時、不意に周囲の喧騒が遠のいた気がした。 ─“そろそろ"? 景品を受け取ろうとしたシュウの足が止まっていた。 (当然だが、俺に携帯電話の知り合いはいない) 手元の景品に視線を落とす。 それは、以前シュウとユキアグモンが戦ったハイコマンドラモンを連れた仮面の男を模したストラップだった。 (…それに、アンタはただの一般人である俺の何を疑うってんだ?) その言葉を飲み、礼を口にすると店を離れて周囲を見回す。 違和感が確信に変わるまでに時間はかからなかった。 アクセサリー、串焼き肉、ラムネ…目立たぬように、それでいて確実に"居る"。 「…オアシス団か」 つぶやいて、隣を見る。 リサがちょうど、大口を開いてカステラを口に運んでいるところだった。 シュウの視線に気づいて、彼女は目を瞬きさせる。 「な、なんですか!人がカステラを食べているのが!そんなに珍しいんですか!」 あまりに無防備な顔をしていたのが恥ずかしかったのか、声を荒げながら体をぶんぶんと振る シュウはそんなリサを無視しながら、眉間を軽く叩いて脳内の整理を開始する。 ─所々に姿を見せるオアシス団。 ─オアシス団に所属する仮面の男。 ─そいつと知り合いの歩く携帯電話。 「なるほどそうか。あの携帯電話もオアシス団なんだな?」 「…はいぃ?」 一人で納得するシュウを、リサは本当に何のことかわからないという顔で見ていた。 『迷子のお知らせをいたします』 その時、館内放送のスピーカーから縁日の会場には似つかわしくない平坦で機械的な女性の声が響いた。 『25歳くらいの女性、チドリちゃんが、2階のおもちゃ売り場付近でお連れ様とはぐれてお待ちです。お心当たりの祭後終様は、至急、2階のサービスカウンターまでお越しください。』 目の前をすれ違った子供がその放送を聞くと、口にくわえたたこ焼きを吹き出して笑った。 「あはは。いい大人がね〜」 「そんなことよりあっちで金魚すくいしようぜ」 (…絶対に行かねぇ) 「迷える子羊を導くのも、オアシス団の代表候補である貴方の役目ですよ」 肩越しに、まるで囁くような声が降ってきた。 その響きは柔らかいが、何かを狙っているかのようにどこか芝居がかっていた。 「んー?この前は大首領じゃなかったか?」 顔をしかめるシュウに対し、リサは変わらぬ微笑みを浮かべる。 「用事が終わったら─また少しだけ、世界を変えるお話をしましょう」 「いやちょっと待て!そもそもオアシス団になんか入るつもりはないんだけど!?」 彼女は、すっと指先を空へとかざす。 その仕草はまるでこの世界の何かを撫でて整えるように、優雅で静かだった。 「私は先に戻っていますね」 袖をひるがえしながら背を向けたリサの姿は、夜店の影に消えていった。 ・04 シュウはしかたなく、足を引きずるようにしてチドリの元へと向かっていた。 案の定、迷子コーナーでは想像通りの地獄絵図が広がっていた。 壁にごつん、机にばたん。 顔を真っ赤にしたチドリが、おぼつかない足取りで身体をあちこちにぶつけていた。 ギリギリ踊っているようにも見えたが、たぶん倒れかけている方なんだろう。 彼女のそばにいた運営の女性は、困惑を通り越して無表情でチドリを眺めていた。 「やっと来てくれたわ、シュウちゃん」 チドリはぐねぐねと奇怪な動きで立ち上がり、シュウに近寄ってくる。 やかましい音を立てながら上着を着直しては脱ぎ、まるで自分を大物歌手だと思い込んでいるような振る舞いだった。 「…あの、やっぱり俺この人ちょっと無理なんで置いてっていいですか」 「だめです」 即答した運営の女性に、シュウは心底嫌そうな顔でため息をついた。 「あっははは、何その格好…え、ほんとになに?」 チドリは笑いながら指を差すが、服装を見てあからさまに引いた。 シュウは羽織っていた法被を脱ぎ、そのまま地面に叩きつけた。 「お、おめーが押し付けてきたんだろーが!!」 ・05 「んじゃ、忘れ物も拾ったし帰るとするか」 シュウがぽつりとつぶやくと、すぐ背後から声が飛んできた。 「え?どうして!?」 「色々あって、お前と会う前に俺は一通り見終わってるの」 祭りの盛り上がる場所には目もくれず、人混みがまばらになってきた出口の方にシュウは歩いていく。 「シュウちゃんズルいズルい!もひとつオマケにズルい!」 チドリは大声を出しながら提灯の間をグングンと進み、シュウの背後に回り込んだ。 彼女はシュウの背中をぐいぐい押しながら、進もうとする方向を強引に修正していく。 「でっへっへ。なぁ〜に力負けしそうになってんのぉ?」 「おっ、おい…この…」 シュウは抵抗するものの、足元がグラつき肩が揺れる。 思わず倒れそうになるが、ギリギリの所で踏み留まったシュウを見たチドリはニヤニヤと笑った。 「しょうがないにゃあ…アタシがシュウちゃんを痴漢から守ってあげる!よっしゃ、ついてこい!」 結局、シュウはチドリの祭り屋台巡りに付き合わされることになってしまった。 浮かれた格好に対して、いつも通り眠たそうな顔で歩くシュウ。 その横のチドリはというと、何かちょっかいをかけたくなる相手を探して目を光らせていた。 寂しそうな顔をした子供を見つけると、チドリはすかさず突撃して話しかけた。 「─よく言った!」 チドリは開口一番、両手を打ち鳴らして喜んだ。 「アタシもね、あの、花火というものがどうにも好きになれんのだよ」 子供が何を言ってチドリが花火の話をしだしたか…それはシュウに聞こえなかったが、この流れは確実にロクでもないことが起こると確信していた。 「他人が感動するから自分も感動する、そこに自分の意思はあるのかね?」 チドリは片手を高く掲げもう片方の手で子供の肩をガッシリ掴むと、あたかも世界の真理を語らんとする哲学者のように息巻いて喋りはじめた。 声の調子は大仰で語尾はやたらと伸び、語るたびに身体のどこかが舞台役者のように動く。 指を突き上げ、拳を振り上げ、時に胸に手を当て、時に空を仰ぐ。 その動作は無秩序でいて不思議な説得力を持ち、あまりの熱量に見ている者はたじろぐしかなかった。 「そもそも、花火というのはだね…」 語られる内容は花火批判のオンパレードで、次から次へと文句が溢れ出す。 騒音、群衆、形式化された感動、歴史の忘却、虚飾の美学─ひとつひとつに眉をひそめ、腕を振り下ろしながら、彼女は飽きもせず延々と語り続ける。 「夜空の美しさというのなら、静かに輝く月や、瞬く星々で十分じゃないか」 その姿は、繰り返される夜を讃える遊詩人が詩を高らかに詠み上げているかのようだった。 だが、問題はただ一つ─聞かされている子供の目が、完全に虚空をさまよっていた。 チドリの演説が最高潮に達したそのとき、柔らかな笑い声が割り込んできた。 「─あら、花火の話なら丁度よろしいですわね」 猫のように艶やかで大きな瞳、風に揺れるたびに絹のように柔らかな光沢を放つ茶髪、清楚な輪郭をさらに際立たせる白い帽子。 動きやすさと少女らしさを兼ね備えた無邪気な装いに対して、その楚々とした笑みはこちらを値踏みするようなひそやかな毒の匂いも混じっているように感じられた。 何より彼女はその場に在るというただそれだけで空気を一段階、低い温度に引き下げてしまうように思えた。 「お…オジョーサマちゃん…」 その愛らしさと不穏さを兼ね備えた少女、千本桜 冥梨栖。 彼女の唯我独尊っぷりに振り回された記憶に思わず一歩引きながら、ぼそりと彼女を呼ぶ。 「お久しぶりですわね、シュウさん」 冥梨栖は指先だけで扇を開き、静かに口元を隠した。 「実はあの後、20億3000万人のデジモンイレイザーを持ち帰りましたの」 その場の誰もが聞き返すより先に、冥梨栖は楽しげに続けた。 「その中に、あなたの妹さんが紛れ込んでいないかしらと思いまして」 「…でじもんいれいざぁ?」 シュウは一瞬、脳の理解が追いついていない自分を自覚した。 「ほら。うっかり花火として打ち上げてしまう前に、確認していただきたくて」 「どうやって人間を花火に─っていうか、妹って何だ!?ミヨのことを知ってるのか!?」 混乱するシュウをあっさりと置き去りにして、冥梨栖はあどけなく微笑んだ。 「あら、別のシュウさんでしたか。じゃあ普通の花火にしておきましょうか」 白く細い指先を高く掲げ、湖の向こうを指すように振る。 その仕草に合わせて、遠くの空に光の輪が咲いた。 ぱぁんと火花が空に弾け、続けざまにいくつもの花火が夜空を染め上げていく。 その仕草に誘われるように、夜に登った光が黒い空を様々な色に染めた。 爆ぜて咲いた光が、シュウたちの顔を照らした。 赤、青、金、そして白。 「全くキミはどこまでが冗談で、どこまでが本気なんだか…」 何か物騒なことが起こらずに済んで安心したシュウは、やれやれと頭をかいた。 シュウは花火を見るフリをしながら冥梨栖を横目で見ると、彼女はすぐ視線に気付いて微笑みを向けた。 その時─つい先ほどまで「野蛮だ」「虚飾だ」とこき下ろしていたチドリが、今度はまるで掌を返すように花火を讃えはじめていた。 「─私は花火そのものが嫌いなわけじゃない。むしろ、その良さが分からん人間は、少々気の毒に思うくらいだよ」 「言葉を交わさなくても、一つの感動を共有することで、人々は束の間、孤独から解放されるのだ。あれは、現代に残された、数少ない「共同体の儀式」と言えるんじゃないかね!」 その声は、まるで花火そのものと競い合うように高らかだった。 誰に向けて語っているのかはもはや不明で、唯一はっきりしているのは彼女が完全に自己陶酔しているという一点だった。 空にひらく花がいったん終わり、夜に静寂が戻ると、その隙間にさえチドリの熱弁がねじ込まれてくる。 花火は打ち上がり、チドリの情緒も打ち上がる。 感動で頬を濡らしているのか、声を張り上げ過ぎて発汗しているのかもはや境界は曖昧だった。 「…なんですのあの人」 「んんーん…」 少し間を置いてから、冥梨栖がぽつりと呟いた。 あまりの光景に喉の奥で濁った音を漏らしたシュウは、やがて答えにならない呻きだけを口からこぼした。 あれからというもの、シュウはチドリに手綱を握られたまま、祭りの隅から隅まで引きずり回された。 アクセサリー屋の店員を外へ連れ出し、鬼ごっこを始めたかと思えば迷子を本気で探して屋台裏を荒らし回った。 限界気味な女性に「元気出しな!」と声をかけ、なぜかそれを見ていたシュウのほうが怒られたり宗教家だのと言われる始末だった。 うさんくさい糸目同士で肩を並べて何かを話し合うと、男はシュウに頭を下げながらニヤニヤと笑っていた。 「あーっ!この人ね、アタシの同僚!」 チドリはそう言いながら、先程シュウが訪れた焼きそば屋の女性に手を振って見せた。 その“同僚"は三角巾をきちんと結び、黙々と鉄板に向き合っていた。 実直そうな雰囲気に反して、彼女はチドリの姿を認めた途端にその手を一瞬止めた。 ピクリと眉が動き、作られた笑みの奥に「ああ、来ちゃったか…」という苦味がほんのり滲んでいた。 シュウは「相変わらずコイツの人脈は謎だな」と呆れをこめて息を吐き、(お互い大変ですね…)と目線だけで語りかけるように女性を一瞥した。 「はいちょっと待ってー」 こっそりとシュウはその場を後にしようとしたが、背後から襟をチドリに捕まれてその場に倒れこんだ。 「女装大会だってー。参加するでしょ?女装のシュウちゃんだもんね、登録しておいたから」 コイツを見捨てないというあの日の誓いは、今からでも撤回しよう。 そう思ったのは今年に入って、たぶん40回目くらいだった。 ・06 「あっははは!今日はおもしろかったねぇ!」 チドリの高笑いが路地裏に響き渡る。 だがシュウにとってはもう、その音さえ悪夢の残響にしか聞こえなかった。 「くそっ…俺は帰るぞ。俺は─」 繰り返すように自分に言い聞かせながら、踵を返そうとした瞬間だった。 ビュッと黒い影が夜気を裂くように飛び抜け、シュウの肩をかすめる。 何かがすぐ近くを掠めた風圧に、彼の身体が思わずよろめく。 シュウたちが見上げた先に、一羽の宙を滑る異形の鳥がいた。 その翼の裏に埋め込まれた複数のスピーカーが、月明かりを鈍く反射している。 【サウンドバードモン:成長期】 シュウは地面に転がりつつも、デジヴァイス01に素早く指を走らせた。 表示されたデータ画面をひと睨みで引っ込め、代わりに地面へ向けて光を放つ。 赤い光が地を叩いて渦を巻き、そこから白銀の竜が跳ねるように出現した。 【ユキアグモン:成長期】 「っしゃあ!さっさと片付けるゼ!」 「帰ったら山盛りの焼きそばだ!気合い入れてけ!」 ユキアグモンは威勢よく前に飛び出し、爪を鳴らすように地を蹴った。 その身を纏う氷気がふわりと広がり、吐息に合わせて白い靄が揺れる。 「私のために争わないで〜っ!」 友人が攻撃されるような状況にありながらこのテンションでいるチドリに、シュウはもはや反応すらせず前方を見据える。 サウンドバードモンもまた無言のまま、ふわりと上空へと舞い上がった。 広げた翼のスピーカーが一斉に光を帯び、バチッと何かが弾けるような音がした。 【ギガスクリーム】 咆哮ではない。 ただの音─しかしそれが、圧倒的な攻撃として襲いかかってくる。 空気がねじれたかのように錯覚するほど、圧縮された音圧が路地全体を震わせてユキアグモンの身体に打ち付けられた。 「んぐおおっ!?鼓膜がビリビリすんゼ!」 頭を振って踏みとどまるユキアグモン。 だが、敵の追撃は速かった。 サウンドバードモンは旋回しつつ、ふたたび何かを光らせる。 「ユキアグモン、迎撃だ!」 「任せとけ、シュウ!」 シュウが指示よりも早く、爪に氷を纏わせてユキアグモンが飛び出した だがサウンドバードモンの身体がふわりと光を放ったのは、攻撃の合図ではなかった。 それはただ、敵を欺くための偽りの煌めき─巧妙なフェイントだった。 光を止め、ぐるんと回りながら無防備なユキアグモンの頭上へと躍り出る。 次の刹那、羽ばたきもなく重力に身を任せて鋭く急降下した。 鋼のような身体ごと突き立てるその一撃に、ユキアグモンは抗う間もなく地へ叩きつけられる。 (…強い) シュウが目を細めた、そのとき。 「シュウちゃん、あれあれ!なんか人がいる!」 チドリがシュウの肩をバシバシと叩き、指差した。 その先…夜の影が濃い路地の奥には、ひとつの人影が佇んでいる。 それは全身を包帯で巻かれた人物…深くフードを被った男だ。 顔はほとんど見えないが、その視線は皮膚の上を這うように鋭かった。 不意にそいつが口を開くと、ざらついた濁声が夜気に響いた。 「大したこと無いなァ、祭後終」 「…誰だ」 「ま。“お前"は覚えてねェか」 包帯の男は肩をかすかに揺らし、嗤う。 次の瞬間、男は地面を蹴りつけて叫んだ。 「だが俺様はお前を覚えてる!細胞ひとつひとつで焼き付いてるんだよ!祭後終!」 スマートフォンを片手に突き上げると、風が渦を巻いた。 その気流に乗るように、サウンドバードモンの羽音が強まっていく。 恐らく─いや、あの男がテイマーか。 男の正体も目的もわからない。だがひとつだけ確かなのは、ヤツは明確にこちらを狙っているということ。 「名前通りここで終わンのがてめぇの運命なぁんだよッ!」 「シュウ、来るゼ!」 サウンドバードモンが暗い夜をものともせず、獲物を狩ろうと再び急降下してくる。 「─ぐっ!」 ユキアグモンの背が再び地に叩きつけられる。 シュウは息を整え、すぐさまデジヴァイス01に指示を打ち込む。 【ホワイトヘイル】 ユキアグモンの放った氷柱が次々と街道に突き刺さる。 夏の気温がわずかにマシになり、霧が立ち込め始める─が、サウンドバードモンはその間をするりと抜ける。 「ノロマが!サウンドバードモンに当たるかよ!」 サウンドバードモンの翼がユキアグモンの頬を掠める。 「ユキアグモン、次だ!」 「おう!」 【ベビーブレス】 ユキアグモンが足元に高温の吐息を叩き込む。 氷柱がバキッと音を立てて割れ、白煙が爆ぜるように辺りを包んだ。 霧が広がり、視界が真っ白に染まる。 ユキアグモン、サウンドバードモン両者の姿は完全に消えた。 「ユキアグモンは冷たくするだけが芸じゃないぜ」 シュウはフッと笑うが、羽ばたく音と共に再びユキアグモンの身体が弾かれた。 素早く立ち上がったユキアグモンが氷弾を放つも、視界の悪いなかでは狙いが定まらない。 「墓穴を掘ったなァ!」 「ユキアグちゃん!」 チドリが思わず叫ぶが、シュウがその肩を手で制した。 「シュウ、霧の中でも動きがバレてるゼ…!」 「当たり前だッ!上空からの一方的な試合展開、小賢しい動きを封じる範囲攻撃、有視界に頼らない索敵能力…コレは俺様がテメェをブッ殺すために選んだ道具だッ!」 霧の中でも、サウンドバードモンは的確に動く。 ユキアグモンの周囲を自在に旋回し、絶妙な間合いから攻撃を差し込んできた。 霧は意味をなしていない─その時、シュウの瞳がわずかに鋭くなる。 (有視界に頼らない…?) シュウはデジヴァイス01の画面を再確認する。 サウンドバードモン…名前や技の通り“音"に特化したデジモン。 眠たげなシュウの目が、わずかに鋭くなった。 霧の奥から、黒い影がまた降りてくる。 だが今度、シュウの中では明確な像が結ばれていた。 「どーなってんだ!」 ユキアグモンはなんとか突撃をいなしながら叫ぶ。 シュウはすでにデジヴァイスを操作しながら、地形と氷の構造を走査するように思考を巡らせていた。 「…音を見ているなら、見えてる世界を壊してやればいいんだ」 再びデジヴァイス01からアップリンクされたコマンドを受け取ったユキアグモンは、ニッと笑った。 「なんだかわかんないけどわかったゼ!」 ユキアグモンが勢い良くホワイトヘイルを放つ。 看板、街灯、自販機の側面─氷柱はユキアグモンの雑さによってランダムに発生した。 「オイオイ当てずっぽうか?」 包帯の男は上擦った笑い声と共にスマートフォンを握り、指示を荒々しく打ち込む。 それを合図にサウンドバードモンが旋回する─だが、あきらかにその動きが鈍っていた。 霧の中で飛び回る黒いシルエットが、進路に迷いを見せている。 ユキアグモンは氷柱を蹴り上がる。 パルクールのように次々と駆け登り、狙い澄ました一瞬の跳躍でサウンドバードモンの真上を取った。 【スノークロー】 白い霧を裂いて、ユキアグモンが回転しながら蹴りを放つ。 爪の先端から放たれる冷気が渦を巻き、足の勢いと合わさって空気ごと敵を叩きつけた。 ゴッと鈍い音を立て、サウンドバードモンが地面に叩き落とされる。 翼がひしゃげ、肉体の潰れるような音が響いた。 「─な、なんだと!?」 包帯の男がスマートフォンを握り直し、驚愕の表情を見せた。 霧がわずかに晴れ、氷柱越しの視界にシュウが現れた。 「サウンドバードモンはコウモリのように超音波で周囲の索敵を行っている」 シュウはわざとらしいほどの微笑みを浮かべ、指でこめかみをトントンと叩いた。 「だからユキアグモンに周囲の形状を変えさせたんだ」 言葉の意味に気づいた包帯の男が、ハッとした顔で氷柱群を見渡す。 地面、壁、看板、自販機─あらゆる角度に突き刺さった氷が、反響の迷宮を描いていた。 「さっきのは当てずっぽうでもなんでもねぇ…俺様をハメやがったな!」 「その通り。音はいたるところから反射し、ユキアグモンの位置情報は誤魔化せるってコトさ」 霧を裂くような包帯の男の怒声に、シュウは指を鳴らして答えた。 「殺してやる…!」 包帯の男が怒声を吐き、スマートフォンを高く掲げた。 画面から溢れた黒い光が、夜の空気をザラつかせるように揺らす。 「─ユキアグモン!」 シュウもまたデジヴァイス01を構え、進化の光を起動させた。 白と黒、二つの光がぶつかり合うように空間を軋ませる。 にらみ合いの緊張が頂点を迎えた、その時─。 「ぐッ…!?」 包帯の男の身体に電撃のような痙攣が走る。 スマートフォンが一瞬チリッと火花を散らし、男は膝をついた。 「俺は…まだ、やれる…やれるんだ…!」 「おっ、おい!オマエ大丈夫か!?」 シュウが思わず声をかけると、ユキアグモンが男のスマートフォンを拾い上げる。 「うるせぇ!邪魔を、するな…ッ!」 包帯の男は近寄ってきたユキアグモンを突き飛ばそうとするが、それもままならない。 痙攣する手で顔を覆いながら呻いた次の瞬間、風に煽られてフードが外れる。 露わになったのは、ぐしゃぐしゃに乱れた桃色の髪。 色を失った肌と、虚ろな光を宿したままの瞳が、月明かりの下に晒された。 チドリは首を傾げるが、"Now Loading…"という文字が見えかねない程にピタッと動きを止める。 「ごっめーーん!やっぱわかんね!」 笑いながらその場でスッ転んだチドリを横目に、シュウは眉をひそめた。 包帯の男が呻きながら手を伸ばした瞬間、サウンドバードモンに匹敵する速度の何者かが現れた。  「んげっ!」 ユキアグモンが跳ね飛ばされ、そのヌメるような気配と共に男の前へ滑り出た。 【ラーナモン:ハイブリッド体】 「あいてて…新手かッ!?」 飛び起きて身構えたユキアグモンだが、ラーナモンはシュウたちに目もくれない。 「…えと。実験終了」 幼い子供のような口調でそう告げると、ユキアグモンの手から離れたスマートフォンをキャッチした。 そしてラーナモンは包帯の男の腹に拳をめり込ませ、男の意識を奪った。 気絶した包帯の男とサウンドバードモンの身体は、ラーナモンの生み出した淡い水の膜に包まれていく。 「あっ、おい!お前も一体…!?」 「さよなら」 シュウの声を振り切るようにして、ラーナモンは夜の闇へと滑るように消えていった。 「へっへーん!逃げられたね、シュウちゃん」 「なんでちょっと楽しそうなんだよ、お前は」 腰に手を当てて軽口を叩くチドリの背後で、シュウは深いため息をつくと壁に背を預けた。 霧や戦闘の名残はじわじわと風に溶け、夜はまるで夏祭りすら無かったかのように再び静けさを取り戻していった。 ・07 薄暗い室内は、機械音だけが支配していた。 無機質な壁と冷えた床に、蛍光灯の明かりすら情感を与えなかった。 そこは、研究のためだけに存在する空間だった。 ラーナモンの細い腕につつかれた水の膜はぱんっと音をたてて破裂した。 内部から包帯まみれの男が無造作に地面に転がり、ソレはまるで使い捨てられた人形のようだった。 「ふん…」 男への興味を失ったように鼻を鳴らしたラーナモンは、リーゼロッテへスマートフォンを差し出した。 「はい。これ」 「ありがとうございます。オディールさん」 リーゼロッテは、微笑を浮かべてそれを受け取る。 電動車椅子に腰かけたまま、滑らかな手付きでスマートフォンの画面を起動した。 指先が、薄いガラスの表面を静かになぞる。 映し出されたのは、つい先ほどの戦闘映像だった。 「この精神状態。ヒトメンタルの適合は成功ですね」 唇から漏れた言葉は、誰に語るでもない独白。 しかしその声音には、どこか確信めいた響きがあった。 彼女は、戦場の記録をなぞりながら続ける。 「クローン技術にヒトメンタル…死人の復活、ひいては不老不死…」 「目的は、ほぼ達したのではないでしょうか」 映像の中、氷を散らしてぶつかる竜と影。 リーゼロッテの目はある人物の姿を捉えていたが、記録映像越しの彼に言葉が届くことはない。 「…だからなに?ソレ、あたしに言って楽しい?」 ラーナモンがそっぽを向く。 その口ぶりには、ほんの少しの苛立ちが混じっていた。 リーゼロッテはくすりと笑い、画面をそっと閉じた。 「ふふ…ただの独り言、ですよ」 夏の終わりの熱気の中、ひとつの実験は着実に進行していた。 おわり .