3月。トレーナーにとっては春のG1戦線が本格化する大切な時期であると同時に、卒業する生徒や独立して新入生を迎えようとする新人トレーナーとの別れの時期でもある。 ついこの間まで見習いだったトレーナーが一人前になっていくというのは誰にとっても嬉しいものだ。そういうわけで祝いのために飲み会が開かれるというのもまた、この時期のお決まりの光景だった。流石に生徒を呼ぶわけにはいかないが。 そういう集まりでは大抵、既に担当のいるトレーナーはどうやって今の担当と出会ったのかという思い出話をさせられるものだ。その中でも自分が今の担当と出会った経緯は何故かやけに人気で、毎度毎度話せとせっつかれる。おかげですっかり語り慣れてしまった。 「話してやれよ。みんなお前とあの子の馴れ初めが好きなんだって」 酔った同僚の茶化す声は聞かなかったことにしたが。 その子の印象は、端的に言えば「優しすぎるほどに優しい」というものだった。自分も疲れているだろうに、練習が終われば他の子のために真っ先にタオルを取ってくるし、トレーニングルームの掃除やグラウンドの片付けをするときは、いつも最後まで残って使ったものを綺麗に整える。当時、新人として新入生の集団基礎練習を担当していた自分の目には、同年代のウマ娘が沢山いる環境だからか彼女の行動はいっそう印象に残った。 童話の中から出てきたような佇まいにはこの年頃の子供ならあってよいはずの俗な面がまるで感じられなくて、感心する以上に少し心配になった。それも手伝って、何かあると最後まで残ってくれる彼女とは、必然的に話す機会も多くなっていった。 「ごめんな、いつも手伝ってもらって。大変じゃないか?」 「ありがとうございます。でも、お掃除はけっこう好きなんです。掃除をしてると、心の中も整理できるような気がして。 それに、お礼ならトレーナーさんにたくさん言っていただいていますから」 励ますつもりがこんなふうに、逆に元気をもらうこともしばしばだったけれど。 ある日、トレーナー室の片隅で彼女は難しい顔をしていた。 いつも静かに微笑んでいる彼女がこんな表情を見せるのはひどく珍しく、また心配にもなって、思わず声をかけた。 「何かあったか?」 「あ、トレーナーさん…」 こういうとき、出会ったばかりの頃は遠慮がちになんでもないんです、と返すのが常であった彼女だったが、今日はほんの少しだけ逡巡した後にゆっくりと口を開いてくれた。 「授業で宿題が出て、ちょっと…悩んでいるんです」 試験勉強が過去の思い出になって久しいけれど、中学生の勉強ならなんとかなるかな、などと思いながら彼女の差し出してきた課題を見たが、その予想は大きく裏切られた。 そこに書かれていたのは英語でも数式でもなく、簡略化された服の型だったのだ。 「…どういう課題なんだ?これって」 「家庭科の授業で出た宿題なんです。自分の勝負服をデザインしてみよう、って…」 一般的な中学・高校相当の授業こそあるが、やはりそこはトレセン学園といったところだろうか。無論プロのデザイナーが作る本物には遠く及ばないだろうが、勝負服はレースを走るウマ娘の憧れだ。それを題材にすれば、平凡な裁縫の課題であっても熱の入り方が違うのは想像に難くなかった。 「いいじゃないか、トレセンらしくて」 「はい。みんな、楽しそうに描いていました。 でも…どうしても思いつかないんです。私に合う勝負服はどんなものなんだろうって」 そう口にする彼女の表情は、思いつかなくて困っているというよりも、思いつかないことが申し訳ないと言いたげな、どこか悲しそうな表情だった。 「気楽に、どういう服を着てみたいか考えればいいと先生はおっしゃっていたのですけれど、着てみたい服というのが全く思い当たらないんです。 それに、もし私がG1レースに出られたとしても、どんな格好をすれば皆さんに喜んでいただけるのかもわからないんです。応援してくださるのなら精一杯応えたいけれど、お返しできるものなんて思いつかなくて…」 きっと他の生徒たちは、夢の舞台に立った自分を無邪気に想像して、胸を躍らせながらなりたい自分を思い思いに描くのだろう。けれど彼女は、そんなときでも自分の夢よりも誰かのことを考えてしまうのだ。 そんな彼女の憂いを帯びた表情が、ひどく健気で、どこか痛ましく映った。 彼女は決して向こう見ずだったり、軽はずみな行動をとるわけではない。 だからこそ、放っておけないのだ。彼女が誰かを気遣ってしまう分まで、彼女の代わりに彼女のことを大切にしてあげたいと、どうしようもなく思ってしまう。 「ブーケが好きなものを入れたらいいんだよ。それだけでみんな喜ぶ」 「え…!それで、いいんですか? 私の好きなものが、皆さんの好きなものとは限らないんじゃ…」 「いいんだよ。それに、人が一番綺麗に見えるときって、一番好きなものを身に付けて楽しんでるときなんじゃないかな」 そんな気持ちに背中を押されて、日頃では考えられないくらい大胆なことを言ってしまった。だがその甲斐あってか、彼女は漸く自分の思いを口にしてくれた。 「お花は、やっぱり好きです。もし走るときも一緒にいてくれたら、すごく嬉しいです」 「うん。じゃあ、花はどこかに入れよう。俺もいいと思う」 「あ…でも、花柄はちょっと派手すぎるかも…」 花をあしらうという方向性は決まったが、確かに彼女の言う通り、服をただ花柄にするのは彼女のイメージに合わないような気もした。一歩間違えれば年寄り臭い印象を与えかねないし、何より彼女には落ち着いた色合いの装いが似合うだろう。 「あ…じゃあ、どこかの裏地に入れるとか。走ったら服が広がって綺麗なんじゃないかな」 「…!なら、表はシンプルなデザインがいいかも…花束の包み紙みたいに落ち着いた色と形にしたら、花がもっと綺麗に見えるかもしれません。 ありがとうございます…何か、掴めたかも」 そう呟いて机に向かう彼女の表情は、さっきとは違う、真剣だがどこか明るいものだった。 白と黒のシックなドレスは、静かな雰囲気の彼女によく似合う。だが、それにスカートの裏の花柄が与える華やぎは、晴れの舞台に相応しいものだろう。 彼女が描き上げた勝負服は、可憐で清楚な彼女の佇まいをそのまま形にしたような可愛らしくも美しいデザインだった。 「すごいな、本当に綺麗だ。そのまま本当の勝負服にしてもいいんじゃないか?」 「ふふ…ありがとうございます。トレーナーさんのアドバイスのおかげですね」 褒めてもらえるのはありがたいが、それは違う。確かに自分はほんの少しアイデアを出したが、それも彼女の魅力あってのものだ。 「俺はただ、ブーケの気持ちの通りにすればいいって言っただけだよ。 だから、何も返せないだなんて思わないでくれよ。ブーケの好きなものは、こんなに綺麗なんだから」 だから少しだけ、彼女にも彼女自身のことを大切にしてほしい。彼女が誰かを幸せにしたいと願うように、彼女にも幸せになってほしい。 いつからか、そう願うようになっていた。 それから暫く経ったある日、夜遅くまで仕事をしていたときのこと。 トレーナー室の自分の机に、手のひらに乗るような小さな袋が置かれていた。 「あ…」 中にはいくつかのお菓子が入っていた。動物の形をあしらったクッキーや小さなリボンで留められたマカロンなど、入れていた袋共々自分には全く縁のないような、目にも楽しいかわいらしい品々たちだった。だが、それと同じくらいに目を引いたのは、その袋の傍らに一輪の花が置かれていたことだった。 ガラスの花瓶は香辛料か何かの空き瓶を再利用したものだろうが、奇を衒わないその形は机の上という日常の風景によく馴染む。そして、そこに活けられた花の美しさもまた絶妙に引き立てられていた。 留まった蝶がそのまま花になってしまったような淡い桃色の花弁は、ドレスの裾のように美しく波打っている。思わず指先でそっと触れてみると、恥じらうようにそっと屈んだ花からほんのりと甘い香りが漂ってきた。 園芸に全く縁のなかった自分は、それが何という花なのかも知らなかった。だが、そんなことを知らなくても、その花が美しいことを理解するのには十分だった。 クッキーをひとくち齧ると、決して甘すぎない優しい味が、疲れた身体と頭にひどく沁みた。正直なところ残りの仕事は明日に回して帰ってしまおうかとも思っていたのだが、今は身体にも心にももうひと頑張りする力が戻っている気がする。 「終わらせて帰るか」 それにしても、いったい誰が置いてくれたのだろう。どの贈り物にも、贈り主の名は一切記されていなかった。 それからというもの、おおよそ一ヶ月に一度くらいの頻度で、自分の机にお菓子と花が人知れず置かれるようになった。夜遅く、あるいは朝早く、ふとトレーナー室に戻ってみると、いつの間にか机の上に贈り物があるのだ。 だが、依然として贈り主が誰なのかは分からなかった。面倒を見ている子の誰かだろうと思って全員に聞いてみたのだが、誰も心当たりはないと言う。 サンタクロースの正体を探ろうとして煙に巻かれる幼子のような気分だった。一目会ってお礼を言いたいという気持ちも虚しく、贈り物だけが積み上がっていった。 花を枯らしたくなくて、長持ちさせる方法を随分調べた。垢抜けない大の男が花鋏を買って、不器用な手つきで水切りをしている様はさぞかし滑稽だったろう。 それでも一月ごとに替わる色とりどりの花たちを綺麗なまま写真に収めると、季節の移ろいを閉じ込めているようで、自然と心が華やいだ。 ある日、ちょっとした用事で半日ほど席を外すことになった。幸い手続きが思っていたよりスムーズに進み、予定していた時間よりも一時間ほど早く学園に戻ることができた。 トレーナー室に帰り着いてドアを開くときは実に晴れ晴れとした気分で、その中で何が起きているかなど考えもしていなかったのだ。 「トレーナーさん…!なんで…」 薄桃色の小袋と、鮮やかな黄色の花を今まさに机の上に置こうとしていた彼女──カレンブーケドールがそこにいようとは、無論夢にも思わなかった。 「…君がずっと、持ってきてくれてたのか?なら、どうして…」 初めに贈り物をもらったとき、彼女にも心当たりがないか訊いた。というより、彼女が贈ってくれたのだろうと思っていた。 だが、彼女は黙って首を横に振るだけだった。そのあとは誰の仕業なのか見当もつかないまま、時間だけが過ぎていった。 「恥ずかしくて、言い出せなくて…でも、いつもトレーナーさんにはよくしていただいていますから。 …お礼をするのは、やめたくなかったんです。ごめんなさい」 彼女はひどく申し訳なさそうに俯いている。 そんな顔をさせたくなくて、面倒を見ていたはずなのだが。 「…謝らないでくれよ。俺こそ、ずっと気づかなくてごめん。 うれしかったよ。花もぜんぶ、家に持って帰って飾ってた」 落ち着かない心を抑えて、ずっと言いたかったことを漸く口にした。だが、彼女の表情は晴れることはなく、むしろ今にも泣き出しそうに歪んでいた。 「…私も、本当にうれしかったんです。あのとき声をかけてくれたことも、お花を大事にしてくれていたのも。 …だから…お別れも、言わないといけないのに、言い出せなくて…!」 何か言って慰めなくてはならないのに、言葉に詰まった。彼女の言っていることは、自分も無意識に後回しにしていたことだったからだ。だが、もうそれも無理だろう。今日の手続きもそのためのものだ。 先輩から、そろそろトレーナーとして独立してもいい頃だという話は少し前から来ていた。そうなれば、今の集団練習からは外れることになる。 彼女との関係も、そこで終わるのだ。 ずっと前から望んでいたことなのに、言い出す勇気が持てなかった。断られでもしたら、と思うと、怖くて言い出せなかったのだ。 でも、そのせいで彼女を悲しませてしまった。 「…今日、手続きをしてきたよ。来月から正式に担当を持てることになった」 「…!」 今だってそうだ。彼女はこんなにも自分のことを想ってくれていたのに。 彼女も同じ気持ちで、どこかで自然と言い出せる流れにならないかな、などと、なんとなく先送りにしていた。大人の自分が言わなければ駄目だったのに。 だって── 「…だから、俺の担当になってくれないか」 「…えっ」 彼女と一緒に夢を見たいと思ったのは、他でもない自分なのだから。 「…私で、いいんですか?」 「うん。君がいい」 「…ごめんなさい。私がこんな顔してるから、気を遣っていただいているんですよね。 でも、初めての担当なんですから、ちゃんと優秀な子を…」 「そんなことない。マイルでも、中距離でも長距離でも、どんな距離でもあんなに走れる子はそういないよ。 ちゃんと、トレーナーとして言ってる。嘘なんかじゃない」 「…本当に、本当の本当に、私がいいんですか? 私も、みんなみたいに輝けるって、思ってくれますか?」 目を潤ませて、彼女が問う。そんなことはわかりきっているのに。 そんな君だから、輝いてほしいんだ。 「優しくて頑張り屋な、ありのままの君のことが好きで応援したいって思う人は、絶対いるよ。 俺だってそうだよ。だから、君を選んだんだ」 彼女は何かを言おうとしたが、言葉を飲み込んで目尻を拭った。 そして今度ははっきりと、強いまなざしでこちらを見つめた。 「まだまだ、至らないところもあると思います。でも、頑張って期待に応えられるようになりますから。 それでもいいなら、これからも私と一緒に走ってくれますか」 差し出された小さな手を握り返したときのぬくもりは、今でも忘れられそうにない。 「うん。これからもよろしくな、ブーケ」 話し終えた後に余韻を味わうように沈黙されると、ひどく気まずい。話せと言ったのはそちらではないか。 その後に洪水のようにあれこれと訊かれるのも大変だ。相手が酔っ払いなら、なおさら。 「いいなー。うちの子にもそのくらい言ってたらもっと優しくしてくれたのかなー。最近すごい雑にあしらわれるんだよー…」 「ちゃんと幸せにしろよ??そこまで言わせたんだからさ?」 随分と含みのある言い方をされた。余計なお世話だ。 言われなくたって、彼女には絶対に栄冠を勝ち取らせてみせる。とうの昔にそう決めているのだから。 酔いを覚ましたくて、帰る前に一度トレーナー室に戻って顔を洗った。 今日も同じように、差し入れと新しい花が机の上に置かれていた。 思えば彼女の担当になってから、もう丸一年経ったのだ。それでもずっと、彼女はこうして尽くしてくれている。 「…やっぱり、なにかしないと駄目だよな」 思いついたまま行動に移さないのは、自分の悪い癖だ。 彼女の気持ちはそこにあるのだから。柄ではなかろうとなんだろうと、それに応えなくては。 明くる日のこと。 少し恥ずかしそうな面持ちでこちらに来た彼女を見て、何が言いたいのかは大体想像がついた。 「あの、これって…」 彼女の手の中には、小さな花瓶に活けられた薄桃色の薔薇が一輪あった。見返すとひどく面映ゆい気分になるが、花屋で一番いいものを選んできただけあって、しっかりと咲いている。 「やっぱり、ちゃんと口で言わないとだめだよな」 柄にもなく、贈るときの意味を調べもした。 ピンクの薔薇の花言葉のひとつは、感謝。 「いつもありがとう。こんなのじゃまだまだ、返しきれてないと思うけどさ。 それでも、やっぱり伝えたかったんだ。初めてもらったとき、すごくうれしかったから」 そしてもうひとつは、幸福。 彼女に出会えた奇跡を想うために、これ以上の花はないだろう。 「だから…これからも、一緒に頑張ろう。 今日はそれだけ言いたかったんだ。でも、なんか恥ずかしいな…改めて言うと」 結局最後に格好がつかないのは、あの頃からどうにも変わらないらしい。涙を拭う彼女に気の利いた言葉をかけられないのも、できれば直したかったのだが。 でも、悲しくて泣いていたあのときの彼女はもういない。 「はい…! ずっと、大事にします。この花も、トレーナーさんの気持ちも。 だから、どうかこれからも、私を見ていてくださいね。 私の、トレーナーさん」 涙を拭いた彼女は、どこまでも眩しい笑顔で微笑んでくれた。 彼女が笑ってくれるなら、なんだってできる気がする。 出会ったときも、今も、これからも。 花の色がいくら移ろっても、それだけは決して変わらないと思った。 柔らかな三つ編みを解いた湯上がりの彼女は、どこか恍惚とした微笑みを湛えて椅子に座っている。そんな彼女が机の上の花瓶に活けた一輪の薔薇と、密会でもするようにいつまでも見つめ合っている姿は、微笑ましさと仄かな色香を同時に感じさせるものだった。 彼が言ってくれた言葉を、彼に言った言葉を反芻する度に、彼女の頬には湯当たりとは違う甘い熱が宿るのだ。 控えめな性格の彼女は、何かを自分のものだと主張することに慣れていない。そんな彼女が、「私の」という枕詞をつけるとどこか甘美な響きを感じるようになったただ一つのものが、彼女に寄り添うトレーナーだった。 「…私の、トレーナーさん。 ふふふっ」 彼女は薄桃色の薔薇の花弁を、指先でそっと弾いた。目の前に彼がいて、同じ色に染まった頬をからかうように。 彼女の心は、今はそれだけで満たされるのだ。 この花をもらったとき、彼女の心はふたつに分かれた。 ひとつは、果てしない喜び。そしてもう一つは、甘やかな淡い期待に。 いつかこの薔薇が、目の覚めるような真っ赤な色に変わっていたらいいな、なんて。 恋を知ったばかりの彼女の可愛らしい空想が、そっと芽をつけようとしていた。