びゅうと吹く風が、肌寒い。
 団地といえど、その屋上にもなれば頬を切りつける風も相応に冷たく、余程の事がない限りは訪れる者もないだろう。
 だが、そんな場所に一人の少女は居た。
「…………………」
 少女──瀬奈みことは柵にもたれ掛かり、眼下の風景を眺めていた。
 その風景は、みことがかつて見たはずの景色と同じはずなのに、それとはかけ離れて、まるで別世界のようにも思える。
(なんでこんなところ来ちゃったんだろう……)
 ここに来るつもりなど、もう無かったはずなのに。
 苦い思い出がたくさん詰まった場所なのに。
 それでもみことは、ここに来てしまっていた。
「はあ……」
 吐いた息が白く染まって消えていく。
 さすがに防寒着もなしにこの寒空の下にいるのは、魔法少女であっても堪えるものがある。
(……嫌な気持ちになって、お手洗いに行くって言ってそのまま出てきちゃって)
(それで今はこんなところにいる)
「……ほんと、なにやってんだろう、私」
 みことは、そう独り言ちる。
 さらさらと、風が髪を揺らす。冬の冷たさが身に染みる。
 この屋上に、一人こうして居ることに、なんの意味もないのは分かっている。それでもみことはここから動く気になれなかった。
 どうしてこんなところに来てしまったのか、みこと自身でもよく分からなかった。
 一人になりたかったのはたしかなのに、今は心のどこかで孤独を恐れている。
(……ううん、本当はわかってる)
 ここがどこか懐かしい気がしてしまう理由も。この風景が悲しく感じる理由だって。本当は全部ぜんぶわかっているのだ。
 ただ、それを認めるのが、みことは少し怖かった。
「……………………」
 みことはしゃがみ込み、目の前に広げられている景色をぼんやりと眺める。
 外で遊ぶ子供の姿もない。昼時だと言うのに。
 人の気配なんてどこにもない。人は家の中にしかいない。
 血の繋がった家族も、もういない。
 最高の友達も、もういない。
「──誰も、いるわけないもんね」
「そうでもないぞ」
 一人しかいないはずの屋上に、自分のものではない声が響く。
 錆び付いたロボットのようにぎこちなく振り向くと、そこには一人の少年が立っていた。──目が、合う。
 彼だと確信する。
「「」、く……」
「ん、さっきぶり…ってほどでもないか」
 そう言って少年は少女の方へと歩んでくる。
 みことは、未だに驚きが抜けきれず動けずにいる。
 こんな所に来るなんて……それもまさか──いや、彼ならここに居てもおかしくは。そんな思いが駆け巡る。
 だが、上手く言葉が紡げない。呆然としてしまっている自分に歯嚙みする。
 そうしているうちに少年は彼女のすぐ側まで来てしまう。
「はい、そんな恰好じゃ寒いでしょ」
「え、あ。ありがと……」
「隣、いい?」
「……うん」
 みことに自分のコートを羽織らせた彼は、了承が取れると同時、ヒョイと軽々柵を飛び越えて彼女の隣に腰掛けた。
「ありがと、ちょっとお邪魔するよ」
「…………」
 みことは、何も言えずにいる。
 彼はそんなみことの隣で、ただ目の前を見据えている。
 その横顔が、とても綺麗で、それでいてなぜか哀しげに見えて。
「……………………怒って、ないの?」
「え?」
 そんなことを聞いてしまった。聞くべきことは他にあったはずなのに。
 みこと自身、何故その問いを先に発してしまったのかよく分かっていなかったが、自然と口をついて出てしまった。
 「」はきょとんした様子でこちらを見ている。
「その、みんなで集まってたのに、急に出ていっちゃったでしょ。だから、怒って連れ戻しに来たのかなって」
「あぁ…」
 「」の顔に納得の色が浮かぶ。
「別に怒ってはいないよ。他の人たちも割とよくすっぽかすし。まぁ、黙って出てったのは、よくはなかったかも」
「うん…ごめんなさい」
「うん、気にしてないからいいよ。あの集まりも今じゃそこまで大事なもんでもなくなっちゃってるしね」
 「」は苦笑しながら頭を搔く。
「そうなの?」
「最初の1、2回はよかったけど、今じゃ同じこと言って同じ流れになって同じように解散だなぁ…」
 みことと話しながらも、彼の視線は町の方へと向けられている。
 彼の目には何がどう映っているのだろうか。
「…同じって、いっつもあんな感じの空気なの?あんな事言われてるの?」
「そうだね。でも、それだけの事はしたし、みんなも全部本気で言ってるわけじゃないよあれ」
 立場上言わないといけないってだけ、と「」は笑った。
 本当にそうなのだろうかとみことは思う。だが、彼よりも彼女たちとの付き合いが浅く短い自分がそれに口を出す権利はないような気がしてしまって何も言えないでいる。
 それでも気になるものは気になってしまうのだ。
 少なくとも、
「私は、ちょっと悲しかった」
 少なくとも、みことはそう思っていた。
「そっか…嫌な思いさせてごめんね」
「うん……」
 「」の謝罪に、みことは曖昧に頷く。
 今はそれしかできなかった。何を言っていいのか、自分には何もわからない。
「…………」
「…………」
 二人の間に、沈黙が流れる。
 風は変わらず吹きつけてくるが、寒さはもう気にならなくなっていた。
 二人は、ただそこに座っていた。
「あの、ね」
 心地の良い沈黙だったが、それを自分で崩してでも、今のみことには吐き出してしまいたいものがあった。
「うん」
「私、変わっても、いいのかな」
 そう小さく呟く。
 ポロリと口から漏れ出てしまった言葉を、みことは上手く止めることができないでいた。
 ぽつりぽつりと零れてくる言葉を拾い集めて、なんとか形にしていく。
 その言葉が何を形作ろうとしているのかを、きっともう彼は分かっているのだろう。
 それでも何も言わず、自分に合わせてくれる彼に甘えてしまっている自分が嫌になるけれど、それでもみことは溢れ出るまま、そのまま言葉を吐き出していく。
「あの時会ってから、いろんなことがあって…昔みたいな魔女になっちゃう前みたいな、こともまたできるようになって…友だち、もできて…でも、」
 上手く纏まらなくて、まとまりがなくて。それでも吐き出す。
 言葉を探しながら話す間も、彼は静かに聞いてくれている。
「でも、そんな風に変わっていいのかなって。変わっちゃったら、大切な思い出も変わって、消えちゃうんじゃないかって。怖いの」
「……」
「自分が変わっていってるのが分かるから、怖い。でも、変わっていく自分を止められなくて、止めたくなくて」
 ゆっくりと、一言ずつ。話していくうちも心がぐちゃぐちゃになっていきそうで、上手く言葉になっていない気もしたけれど、それでも話すのをやめてはいけない気がしていた。
 吐き出すたびに何かが軽くなっていく。
「だけど、やっぱり、そんな風に変わっていったらいつか帆奈ちゃんのこと忘れた私になっちゃうんじゃないかって、それが一番、怖い」
 みことは、自分の胸の前で手をぎゅっと握り込む。
 その手は、小さく震えていた。
「……そっか」
「」はそうぽつりと呟き、空を見上げる。みことは、そんな「」の横顔をただ見ていた。
「みことちゃんは、死んでしまいたい死ぬしかないって気持ちまだある?」
「」は唐突に、そんなことを問う。
 みことは、少し面食らってしまうが、それでもなんとか首肯を返す。
「じゃあ、死にたくない、まだ生きてたいって気持ちはある?」
「……うん」
 続けて聞かれたことにも、みことは首肯せざるを得なかった。
 彼女の内には、この世界とそこに生きている人間に執着が生まれていた。更紗帆奈がいない世界を投げ出すことに際し、躊躇う要素が生まれ、増えていた。
「うん」
 みことの返答に、彼は満足そうに笑った。
「うん、それなら大丈夫だよ」
「…え?」
 さらりと言われてしまった言葉に、みことは間の抜けた返事しかできずにいる。
 だが、そんなみことに構わずに「」は続ける
「みことちゃんは、多分、『大事な人がいない世界で生きていられちゃうような人になっちゃうじゃないか』ってのが怖いんだと思う。それじゃ自分にとってその人がその程度の存在だったって言うみたいに感じてるんじゃないかな」
「……っ」
 パチリ、と。自分の中で欠片が嵌ったような錯覚が訪れる。
 もやもやとして口に出すのを躊躇っていたそれを、言葉にしてもらえたような、そんな感覚。
 だからこそ、何も言えずに黙っていることしかできない。
 そんなみことの反応に何を思ったのか、彼は更に続ける。
「……例えば、ね。弱いけど穏やかな心を持った男の人が、お嫁さんをもらって過ごしてたけれど、『殺されたくなければ妻の命を差し出せ』って凄く強くて大きなどうしようもない存在に脅され泣く泣く屈したとして、その男の人は奥さんを愛していなかったのかな?」
「それは……」
「そんな男の人を、力を持った”誰か”は、力を持たない”誰か”は『お前は彼女を愛していなかった』なんて責めたてられる?」
 彼は上体を捻り、みことの目を見据えて言う。みことはその目を見つめ返しながら、耳を傾けている。
「大切に思うってのは、距離とか、情熱の多寡とか、そういうの意味ないんだと思う。多分」
 「」の口からは、スルスルと言葉が流れ、紡がれていく。
 その瞳には確かな、真摯さのような温かさが見て取れた。みことはそれを正面から受け止める。
「だから、大切なものは大切、好きなものは好き、でいいんだよ。どれだけ離れても、何もできなかったとしても、それは、みことちゃんの気持ちを否定するには及ばない。みことちゃんが大切だって思ってる限り、きっとそれはずっと君と一緒に歩いて行ける。思い出にはなるけれど」
 彼は、そこまで言って上体を戻し、息を小さく吐くと
「ま、んなこと言っても悲しいもんは悲しいし、辛いもんは辛いから困っちゃうんだけどな!」
 そう、笑って言った。あっけらかんと。
「…………そこは、こう、なんかこう、いい感じにしめる所なんじゃないの?」
「でも、寂しいのは寂しいし、それを否定するのなんてできないだろ?」
「………………うん」
 確かに、その通りだ。
 どれだけこの思い出が暖かくても、寂しいものは寂しくて。否定なんてできるわけがない。
「あ…そっか…」
 だから、寂しいのも、辛いのも、憎いのも、楽しいのも、大切なのも、好きなのも、幸せなのも、それでいいのだ。
 自分の感情を、程度なんて無粋なもので測らなくても、認めていいのだ。
 初めて会ったあの時、彼が言っていたことがようやく、分かった気がした。
 自分でも呆れるくらい遅いと感じてしまうけれど、それでも今はそれでいいような気がしていた。
「何かを選んだとしても、選ばなかったものが大切じゃない、なんてことはないんだから、みことちゃんが自由に選んでいいんだ」
「そっか……そう、だね」
 みことはゆっくり頷く。そうだ、そうなんだと。
 そうやって一つ納得できると、その後は自然に心が軽くなっていくような気がしていた。
 本当に単純なものだと思うけれど、それで十分なのだとも思う。
「立てる?」
 気づけば、隣で座っていたはずの「」は立ち上がっていた。細い細い、縁の上でしっかりとその足で立ち、こちらに手を差し出していた。
 みことは、その差し出された手を、しっかりと握り返す。
 くん、と軽く引っ張られるままにみことも立ち上がり、それを確認してから、彼は手を離した。
 そのまま、二人で柵を飛び越えて着地する。
「………………もし、私が死ぬのを選んで死んじゃったら、悲しい?」
「当たり前でしょ」
「そっかぁ…………。それなら、もうちょっとだけ──」
「もうちょっと?」
「んふふ、秘密。おしえなーい」
「えぇ…」
 みことは、おかしそうに笑う。彼はそんなみことの様子に疑問符を浮かべているが、それでも笑ってくれているのは嬉しいようで、笑っている。
 今はまだ、これでいい。自分が、今よりももっともっと強くなって、いつか隣に並べる日が来たら。
 そんな日が来たら、思い出のように語ってやるのだ。




 かくして、鏡の魔女は超克された。
 そこにはもう、カタルシスのため仕立て上げられたラスボスも、悲劇のヒロインなんてものもいない。
 悲しみと苦しみをひきずりながら、変わらないまま変わりながら、それでもと自分が掴める幸せと幸せ以上の何かを求めて生きている、そんな
 そんな、どこにでもいる、普通の女の子がいるだけだ。