「……え?」

 一瞬、何が起こったのかわからず言葉を失う。
 私は薄暗い汚れた部屋の中で、一人がけの豪華なソファに腰を深く落ち着けて座っていた。

「私は……え……さっきまで初華の部屋にいて……」

 目の前には、型の古いブラウン管のテレビが壊れたガラクタのように積み重なっている。ぼんやりと青白く光る画面には、特に何の映像も映し出されていない。

「今の祥は――きっと“不思議の国のアリス”の気分ね」
「――睦」

 声の主は、白ウサギか、はたまたチェシャ猫か。振り返った先にいたのは、見覚えのない優雅な仮面を付けた睦だった。彼女は舞うように私の正面に立つと、じっと心の奥底を覗き込むように私の目を見つめてくる。

「祥は……見たままを受け入れる顔をしている。それは目覚めたいと思っているから。本当の目覚めも……近い」

 まるで舞台の演目のように、芝居がかったセリフで睦は語り掛けてくる。私が動揺を隠せずにいると、彼女はそれを知ってか知らでか無視するかのように続けざまに言葉を紡いでいく。

「祥は……運命を信じる?」
「睦……何をおっしゃっているの? ここは一体……それに初華は?」
「質問に、答えて」

 言葉を遮られ、彼女の有無を言わせぬ迫力に呑まれる。
 このままでは、埒が明かない。私はぐっと姿勢を正し、睦を真正面にとらえると、言葉の糸を手繰り寄せるように、心の中の真実を伝えた。

「いいえ、信じていません。人生とは運命でなく、自分で決めるものですわ」

 ゆっくりとうなづく睦。そしておもむろに、対面のソファに腰掛ける。いつの間にか私たちの間には、ガラスのテーブルが用意されており、そこには二組のティーカップとティーポットがおかれていた。

「私の質問にも答えて。どうして私はここにいるの。そもそもここはどこ。答えなさい、睦」
「祥がどうしてここに来たか……祥自身が知っているはず。説明できなくても……感じてはいる……ずっと感じてきた、違和感」

 ドクン――と、一度大きく鼓動を打つ。心の中を見透かされたような、得体のしれない恐怖感。どうしてそれを……睦が……。

「今の世界は……何かがおかしい。間違っている。頭がおかしくなりそうな、不安に駆られている……だから、祥はここに来た。……なんの話か、分かる?」
 ……意味がわからない。けれど、どこか心の片隅に手がかりがあるような気がして、私はその時脳裏に浮かんだ言葉を自然と口にしていた。
「……『AveMujica』?」

 わずかに、睦が微笑んだ気がした。それが錯覚でないことを証明するかのように、睦は身を乗り出してくる。

「祥は知りたい? ……それが何なのか」

 ……頷く。AveMujica――どこか懐かしいような、でも聞き覚えのない響き。
 本当に? 本当に私はその言葉を聞いたことがない?

「『AveMujica』はすべて……至る所にある。今この部屋の中にも……窓から外を見るときも……テレビをつけるときも……それはそこにある。授業中も……ライブ中も……練習するときも……。真実を隠すために……祥の目の前に下ろされた虚構の世界」
「……真実?」
「――祥が、奴隷であること。においも味覚もない世界に、祥は囚われている。まるで……心の牢獄」

 嘆息。睦が目を閉じる。長い静寂に包まれながら、どこかつかみどころのない彼女の話を受け入れはじめている自分に気づき……ほんの少しだけいら立つ。

「『AveMujica』の正体は……私が教えることはできない。祥が……自分の目で確かめるしかない」

 睦はティーポットを手に取ると、カップに静かに注ぎ始める。片方はコーヒー、片方は紅茶。そこで私は、微かに自分がコーヒーの香りを嫌っていたことを思い出した。

「これが……最後のチャンス。後戻りは……もうできない。コーヒーを飲めば、話は終わり。祥は、ベッドで目を覚まし、元の暮らしに戻れる。紅茶を飲めば、この不思議の国にとどまり……私がウサギの穴の奥底を見せてあげる」

 ――どうする? 無言のままティーカップを差し出す睦に、私は――

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	2.紅茶を飲む   → 	fu4803453.txt