──その様子を頭上から俯瞰する者がいた。しかし、姿は空中にない。二人が戦う大通りから少し離れた空き倉庫の中、一人の少女が背を丸め、祈るような姿勢で椅子に座っている。その目は地を見つめるが、魔術によって空間を超越した視界には激闘が映っていた。  少女は当初、魔術式の通信機を家に置いてきたことを後悔していた。いつものように、それを使って少年へ周囲の状況を伝えることができないからだ。  しかし、そんなことはもうどうでも良かった。地上約十メートルの視界に映るのは高速の攻防。雷雲の中にでもいるかのように電撃が縦横無尽に乱れ飛び、その間を二つの影が行き来する。少女にはそれを目で追うだけで精一杯であり、とても口を出せるような状況ではなかった。  だが、状況が決して良くないことは理解できる。少年は手数では圧倒するものの、巨大な鉄鎚は雷撃を尽く打ち払っていた。まるで、追ってくるヒグマへ小さな礫を投げながら逃げるようで、待ち構える惨劇が少女の脳裏を掠めた。 「勝って……。お願い……、お願い……、お願い……!」  両膝に顔を挟むようにいっそう身を丸め、小さく叫んだ。  そんな少女の姿を、周りに立つ男たちは冷ややかに、あるいはサディスティックな好奇に濡れた目で見ていた。 「随分イリヤにご執心だな、アンゲリーナ」  木製の荷箱の上で脚を組んでいたアナトーリイ・クズネツォフが呼びかけた。すでに男の声色には、いやらしい悪意とからかいが見え透いていた。 「アイツと一緒にいれば、ジジイどもに身体を売るよりずっと楽に生きられたものな。それとも……あのガキのがよっぽど良かったか?」  アンゲリーナがゆっくりと首を回した。魔術を解除した目は、真っ直ぐにアナトーリイを捉える。 「イーリャを侮辱しないで。彼は……わたしや貴方たちとは違うの」  先ほどの祈りとは程遠い、濁音の強い、憎しみの籠もった声だった。  アナトーリイは、わがままを言う子供を甘やかすように苦笑しながら肩を竦めた。その嘲笑の仕草がアンゲリーナには苛立たしかった。しかし、男は満足してそれ以上何も言わなかったので、彼女も怒りをぶつけることはしなかった。  対応を間違ったのは、周りで見ていた取り巻きの一人である。  ボスの威を借りて調子づいたその男は、おもむろにアンゲリーナへ近づいた。 「なんだよお前。可愛い顔してると思ったら、|そういうこと《・・・・・・》か。ただ待っているのにも飽きてたんだ。いくら出せばいいんだよ、オイ。ガキとヤるよりは満足させてやれるぜ」  男がアンゲリーナの肩に触れようとして、しかしその手はすり抜けた。シラフの割におぼつかない手元を不思議に思って見ると……親指以外の四本が、無い。  男が絶叫した。 「次に彼を侮辱したら、別のところを切り落としてあげるから」  うずくまる男へ、アンゲリーナは踏みつけるような目を向けていた。足元にはイモムシのような指が転がっている。彼女とて魔術師である。得意とするのは遠隔視だが、それだけしか使えないという訳ではない。愚かな男はそのことを忘れ、彼女を侮ったのだ。 「じょ、上等だ……! こ、殺してやる……!」  愚か者とはいえ、無頼漢らしい気骨はあったようだ。男は慣れない左手でナイフを抜いた。  だが動き出すよりも前に、男の身体が燃え上がった。踊るように跳び回ったかとおもえば足がもつれて倒れ、火を消そうと固いコンクリートへ身体を擦りつける。叫びながら炭へと変質していくその姿に、場は騒然とした。殺気立っていたアンゲリーナも流石に声を失う。 「おこぼれにあずかるだけのカスが調子に乗りやがって」アナトーリイは炭の塊を蹴りながら、残った男たちを顎で使った。「オイ、このゴミを片付けておけ」  恐る恐る仲間だったものを運ぶ男たちを尻目に、アナトーリイは少女へにじり寄った。 「アンゲリーナ、こうして目をかけてやってるのは、お前に利用価値があるからだ。と言っても、お前が女だからとか、そのつまらん魔術のためじゃない。お前があのガキの手綱を握ることができるからだ。分かっているな?」 「……だったら、どうしてイーリャにこんなことさせるの!? 降下教会と戦わせるなんて……! このままだと、死んじゃうわよ!?」 「かもな」  男の軽い言葉に、アンゲリーナは絶句した。 「だが降下教会を一人でも潰せれば“キーテジ”での俺たちの地位は一生安泰だ。まあ……アイツが勝てる可能性は五分ってところか。負けても手駒一人と引き換えなら、悪くない賭けだろ」 「五分? 相手は魔術師が十人束になっても勝てないような相手よ……!?」 「いや、アイツの場合はそうでもない」  男の不敵な笑みに、少女はたじろいだ。 「どういうこと?」 「先の大戦──と言ってもお前らは生まれていないから実感は無いだろうが──で、降下教会の修道女は十二人撃破されている。あの“魔術師殺し”のクソアマどもが、だ。ヤツらも無敵ってワケじゃない」  アナトーリイが顎髭に触れた。この男が得意げに何かを語るときに見せる所作であることを、アンゲリーナは知っている。どうやら、ある程度は信用できる話らしい。 「組織の成立からずっと降下教会と闘い続けてきた“キーテジ”は、あることに気がついたのさ。ヤツらは身体の変質によって、異常な身体能力と魔術への強い耐性を持つ。だが特例的に……同じキリスト教を典拠とした魔術に対しては耐性が弱いらしい、と。──つまり、そういった魔術を用いれば、少なくとも攻撃面では対等になれるのさ」 「!」  舌なめずりをするような言い方でアナトーリイは説明を続ける。 「その証拠に、大戦中に最も多くの修道女を殺したのが我らが“キーテジ”の上位構成員。そして過激派異端審問組織・黄金の風見鶏や、“騎士修道会”ども……。“魔術師殺し|殺し《・・》”の実績があるのは、いずれもキリスト教系組織だ。……シモン・マグスは聖|ペトロ《ペトル》の祈りで地に墜ちた。聖女気取りの異端どもには、お誂え向きの弱みってことさ」 「だとしたら、余計におかしいでしょう? イーリャの魔術は古代の雷神に連なるもののはず……。代表的な異教由来の魔術じゃない」  ロシアを含むスラヴ神話における雷神とは、つまりペルーンである。雷と嵐、それによってもたらされる豊穣の神であり、同時に荒々しい戦の神。その性質から古代ギリシャのゼウス、古代スカンディナビアのトールなどと比較されることもある。  イリヤが得意とする電撃の魔術は、このペルーン信仰から派生したものであるとアナトーリイは推定していた。 「そうだな。だが、イリヤもド田舎の生まれで、敬虔なキリスト教徒ってことさ。──まあ、実際に視たほうが早いだろう」  意味深な言い方に困惑しながら、アンゲリーナは再び目に魔術をかけた。