「これが──偵察だぁっ!!」
裂帛の気合と共に、高く地面を蹴った赤毛の少女がその手に握られた槍を奔らせる。
中空から稲妻の如く放たれたその一撃の先には、黒衣を纏った黒髪の少女。
鋭く迫る穂先を臆せず見据えたまま、彼女は不敵に微笑んだ。
「フッ……甘い。“†暗黒の羽衣(ダークネスオーラ)†”!」
黒髪の少女が叫び、鋭く息を吐くのとほぼ同時に、槍撃が少女へと激突する。
金属同士の衝突音にも似た、重く甲高い轟音が一帯に響いた。
木々を揺らす衝撃の後、ややあって場に静寂が訪れる。
舞い上がった砂煙が濛々と晴れると、やがて煙の中に黒衣の少女の姿が浮かび上がった。
致命の槍の一撃を払うでもなくその身で受け止めたはずの少女の体には、どういうわけか傷一つ無い。
静かに息を吐きながら、少女は傲然たる笑みを浮かべる。
「ほう……中々いい腕をしているな。少々、芯に響いたぞ」
「か、かったぁ〜! すごい! 相変わらず鉄みたい! よーしっ、じゃあ次はもっと思いっきり突くぞぉ!」
黒髪の少女と赤毛の少女。
どちらも臨戦態勢のまま、方や不敵に、方や底抜けに明るく、然るに獰猛に笑い合うのだった。
*
ことの起こりは、小一時間ほど前に遡る。
「……通行止め?」
金髪の男が、険しい顔つきを一層しかめて呟いた。
陰鬱な男だった。
くすんだ濃紺のマントで覆われた長身。背には金属製の棺を担ぎ、しかしどう見ても葬儀屋ではない、冒険者然とした出で立ちは、遠目にもただならぬ雰囲気を纏っている。
「はい。実は私も追い返されちゃって。何日か前から、その……少々、変わった女の子が橋の前に居座っているんです」
男に説明しているのは、たまたま同時期にこのオーライの村に到着していた冒険者、イルネ・サキニーである。
オーライはウァリトヒロイ王国北部に位置する、崖沿いの森近くの小村で、崖向こうへの吊り橋を利用する旅人が時たま行き交うだけの、それなりの村である。が、その橋が今は封鎖されているのだという。
「この村へは討伐依頼を受けて来たんですが、どうやらそれも彼女が勝手に達成してしまったらしく……」
「そうか」
興味なさげに短く返すと、長身の男は踵を返して歩き出した。向かう先は、今説明されたばかりの森の方である。
「まぁでも、私の調べによればもうすぐ“あの子”もお昼を食べにやってくる時間だから、それまで待てばきっと……って、サーヴァインさん!?」
聞こえているのかいないのか、サーヴァインと呼ばれた男は歩みを止めずに立ち去っていく。
その背には明らかに「知ったことか」という空気が浮かんでいた。
「あぁ……行っちゃった。彼なら心配いらないだろうけど……いえ、逆に荒事にならないかの方が心配ね」
小さくなっていく背中を見ながら、イルネはぽつりと呟いた。
*
サーヴァインが村外れの森を貫く小道を行くと、程なくして視界が開けてきた。
その眼前には、大人三人は並んで渡れそうな頑丈な作りの吊り橋が、切り立った崖の向こう岸へとかかっている。
そしてその支柱の上に、全身に黒衣を纏った少女が腰掛けていた。闇色のマントに長い黒髪を艶めかせ、その手には死神を彷彿とさせる大鎌を携えている。
少女はこちらに気付くと、大仰な仕草で額に指先を当てながら不敵な微笑を浮かべた。
「フッ……愚かな人間が性懲りもなく、また我が†冥府への門(ダークネスゲート)†を潜りにきたようだな」
「…………」
どや、と誇らしげに名乗る少女を一瞥し、サーヴァインが再び橋に視線を戻す。
「何度こようと無駄だ。この†天逆の魔戦士 アズライール†がいる限り、何者も此処を通れはし……って、ちょっと!」
前口上を無視して橋へと歩き出していたサーヴァインに、アズライールと名乗った少女が叫んだ。
行く手を阻むように柱から飛び降りてきたアズライールを、サーヴァインが半歩引いて躱す。
「人がまだ喋ってるでしょうがッ! ……ゴホン! まぁよかろう……」
気を取り直したアズライールが、再び独特なポーズを決めながら決め台詞を放つ。
「この我がいる限り──此処は決して通しはせんぞ」
「別に、お前の橋でもないだろう」
至極まっとうな感想だった。
「フッ……愚かな人間どもに、この橋は過ぎた代物よ。だから通さないというだけのこと」
「そうか。意味は全くわからんが……わかった」
心底面倒そうに溜息をつくと、サーヴァインは背負っていた棺をドスンと地面に降ろした。
その背面に括りつけられた肩紐用と思しき布が、シュルリと音を立てて緩む。
「子供の相手をしているほど暇じゃないんだがな」
「子供扱いすなッ! と、とにかく──大人しく村に戻るがいいッ!」
言うが早いか、アズライールが地を蹴った。幼さの残る細身の体躯からは想像もできない程の膂力に、蹴り上げられた土が舞う。
「ほぅ」と感心したように目を見開いたサーヴァインとの間を一息で詰めると、手に持った大鎌の刃先を返し、その背側を振り払う。
それを上体の動きで避けたサーヴァインが一歩下がると、間髪入れず、大鎌の石突が追うように突き出される。
今度はそれを紙一重でかわすと同時に、サーヴァインの手元が素早く動いた。
すると、ほんの一瞬の後、大鎌の柄に絡みつくように強靭な布が幾重にも巻き付いていた。
「え? ──きゃあッ!?」
突き出した大鎌を引っ張られてバランスを崩したアズライールの足をサーヴァインが払う。
宙に浮いたアズライールは勢いのままに地面に激突……をすることなく、そのまま中空で布に絡め取られていった。
「ちょ、ちょっと、ちょっとぉ!?」
「怖いなら神に祈りな」
あれよという間にぐるぐる巻きにされたアズライールが「ぐえ」と声を上げて地面に転がる。
それを布に包んだ大鎌ごとミノムシのように担ぎ上げると、もう片方の背に棺を担ぎ直し、サーヴァインは吊り橋を渡り始めた。
*
ぎいぎいと音を立てながら、長い吊り橋の中程をサーヴァインが歩く。
その背では先刻からずっと、アズライールがきいきいと喚いている。
「はーなーせー!」
「離すと落ちるぞ。……いや、転落の戦士とか言ってたか」
「†天逆の魔戦士†だッ!!」
じたばたと暴れるアズライールを鬱陶しそうに担ぎながら、サーヴァインがぽつりと呟く。
「あれだけ動けるのは大したもんだ。だがお前、本気じゃなかったな。なぜ通行人の邪魔をしていた?」
「お、愚かな人間風情に語ることなど……無い!」
「お前も人間に見えるが違うのか? それとも……魔王軍の信奉者か」
サーヴァインの声色に、薄っすらと冷酷さが混じる。
「あんな連中と一緒にするなッ!」
「……。まぁ、理由なんざどうでもいい。そら、着いたぞ」
言い放ってサーヴァインが布を引き戻すと、クルクル回りながらアズライールが地面に放り出された。
「あ〜れ〜!?」
どっと音を立ててアズライールが尻もちをつく。気付けば話している内に、向こう岸に着いていたらしい。
橋向こうはオーライ村の住民によって定期的に切り開かれているらしく、ちょっとした広場のようになっていた。
目を回しているアズライールを尻目にさっさと布を巻取ると、サーヴァインが冷たく呟いた。
「じゃあな。橋の番がしたいなら、こっち側でしておけ」
そう言い残してサーヴァインが背を向け、歩き出そうとした、その時。
「偵察の時間だぁーーーーーーーっ!!!!!」
突然、一帯にけたたましい大声が響き渡った。
見れば、広場の脇のひときわ高い樹上に誰かが立って、こちらを見下ろしている。
「とうっ!」
掛け声と共に、赤色の影が15mはあろうかという高木を一息に飛び降りた。
そして勢いのままに地面に激突するかと思われた寸前、その手に持った槍を地面に突き立て、滑り棒のように衝撃を殺しながら少女が着地する。
「アズライール! 今日こそこの橋を通してもらうよっ! そして私は……“偵察”をするっ!」
そう声を張り上げると、軽装鎧の赤髪の少女は槍を振り払い、ビシッとポーズを決めた。
「フン、来たか──†革命のパルチザン†。我が好敵手よ!」
サーヴァインの背後でよろよろと立ち上がりながら、アズライールが傲然と言い放つ。
「先刻見たことは忘れるがいい。忘れよ!」
「せんこくって……アズちゃんが目を回して崖の下に吐いてたこと?」
「忘れよッ!! あとアズちゃん言うな!」
「ええっ!? でもわかった!」
「……魔戦士、お前の知り合いか?」
放っとけばいつまででも漫才を続けそうな二人に辟易としたのか、サーヴァインが口を挟む。
「フ、そうとも言えるしそうでないとも言える──まぁ、さしずめ未来の宿敵といったところか」
「そーそー! アズライールね、すっごく強いんだよ! 倒さないと向こうの村に偵察に行っちゃダメなんだって!」
「……何?」
「えっと……最初に会った時、魔王軍の偵察任務だから通してって言ったんだけど、それなら我に勝ってからにしろって!」
魔王軍、という単語にサーヴァインがぴくりと目を細める。
「それで最初は勝ったんだけどね、そしたら三本勝負の一本目だったんだって教えてくれたの! 次はお互い万全な状態で続きをやろうって! それでこないだのニ戦目は負けちゃって、今日が三本目!」
サーヴァインが、アズライールを胡乱な目で一瞥する。
「……成程な」
「な、なんだその目は……い、一回目は相手が同じくらいの女の子だったから、ほんのちょっと油断しただけでだな……」
「数日前まで、あの村に他の冒険者や兵士はいなかった。お前が魔王軍を足止めしていたのか」
「ち、ちち違う! 我はただ、誰もそこの橋を渡らせたくない気分だっただけで……」
頬を赤く染め、しどろもどろにもにょもにょ言い出したアズライールから視線を移し、サーヴァインはパルチザンへと声をかけた。
「事情はわかった。……が、俺には関係ない。先を急ぐ身なんだ。……街道を抜けても?」
「あっ、そうだね! 戦いになったら巻き込んじゃうかもだから……どーぞ!」
パルチザンは笑顔で答え、森の先に続く道を指し示した。
「助かるよ」
短く返事をし、棺を担いだサーヴァインがゆっくりと歩き出す。
そしてパルチザンの横を通り過ぎながら、ふと思い出したように口を開いた。
「ところでひとつ聞きたいんだが……お前の上司はエビルソードか?」
「えっ! なんで知ってるの!? もしかして知り合い!?」
「そうか」
サーヴァインが薄く笑ったのと、その手が閃くのは同時だった。
マントで隠されていたサーヴァインの右手から、布を括りつけられたハーケンが飛び出す。
鋭く投擲されたそれは、きょとんとしたパルチザンが一瞬遅れて反応するよりも速くその喉元に迫り──
その手前で、弾けるような音を立てて“消失”した。
「オーオー、面白そうなことやってんじゃん」
緊張感の無い呑気な声が、広場脇の茂みから響いた。
ガサリと藪をかき分けて出てきたのは、とんがり帽子を目深に被った小柄な亜人である。
背丈は人の腰ぐらいまでだろうか、身のこなしの軽さから獣人のようにも思えるが、その素顔は帽子の影に隠れていてよく見えない。
「……伏兵、か」
先端部の消失した布を引き寄せながら、サーヴァインが毒づく。
「おおーっと、不意打ちはお互い様だぜ兄ちゃん。そうカッカすんなよ」
「ププールさん!? ついてきてたの!?」
パルチザン自身もその存在には気付いていなかったのか、驚愕の声を上げる。
「おーよ。なんかよー、最近パルちゃんがよく楽しそうにどっか行くからサァ、何してんのかって気になってな? 暇だし後を尾けてみたってワケ」
「そうなんだー! あのね、こないだカラヒメちゃんが偵察任務から帰ってきたの見てかっこいいなーって思って! 私も『偵察』やってみたいって思ったんだ!」
「ほーん。そんでこんなとこまで一人でてくてく遠出かい」
「うん! 『偵察ってどうすればいいの?』って聞いたら、『簡単カンタン☆ 敵地まで行ってェ〜、見てきた情報持って帰るだけだから!』って」
「なるほどネェ。それ散歩じゃね?」
パルチザンは先程のピンチをもう忘れたかのように騒いでいるが、ププールは相槌を打ちつつパルチザンの元に歩きながらもサーヴァインを視界を外さない。
サーヴァインもその視線を受け止めながら、再び両腕をマントの下に隠し、不気味に佇んでいた。
と、そこにズカズカ歩いてくる者がいた。アズライールだ。
「あんた……! さっきあの子に何しようとしたのよ!」
「さっき?」
「とぼけるなッ!! あいつが横槍入れてなかったら、あんたあの子を殺してたでしょうが!!」
その細腕のどこにそんな膂力を秘めているのか、サーヴァインを持ち上げんばかりの勢いでアズライールがその胸ぐらを掴む。
サーヴァインはそれを振りほどくでもなく、鬱陶しそうにアズライールの上気した顔を見下ろした。
「お前は違うのか? 元々あいつとケリをつけるつもりだったんだろう」
「ハァ!? 私はなにもそこまでするつもりは……」
「なら、どうするつもりだったんだ。適当に痛めつけてから帰すのか? あんな頭でも魔王軍だ。次は増援を連れてくるかもしれん。そうなれば村はどうなる?」
「っ……!」
言葉に詰まったアズライールに、サーヴァインがなおも問いかける。
「お前、冒険者なんだろう」
「……だったら、何だっていうのよ」
「いつまでもあの村に留まれまい。お前にも旅する目的があるはずだ」
アズライールの力が、徐々に弱くなっていく。サーヴァインはゆっくりとその手を握り、引き離した。
「それが何かは知らんが。あとで後悔したくないなら、今すべきことを迷うな」
そう言ってサーヴァインが横目でパルチザン達を睨みつける。
「お、そろそろ話し終わった?」
両手を頭の後ろで組んで暇そうにしていたププールが軽口を叩く。
「そっちの嬢ちゃんはともかく、アンタはこのまま見逃してくれそうにねえよな〜?」
「ププールさん、アズライールは私と勝負する約束なんだから“飛ばさない”でね!」
「わかってるわかってる。そっちはそっちで好きにやんな。……てなワケで、ノッポの兄ちゃん! 俺の指、何本に見える?」
脳天気な声色のまま、ごく自然な動作でププールが右手をサーヴァイン達に向ける。
サーヴァインがアズライールを突き飛ばしながら真横に飛ぶのと、空間が弾ける音が二人の間に響いたのは同時だった。
「あだッ! な、何すんのよ……って、……え……?」
「ぐッ……」
顔をしかめながらサーヴァインが右手を押さえる。その手首から先が、何かに抉られたように消失していた。
アズライールが絶句する。
「アリャ、いきなり動くから狙いが逸れちまった。半端に“飛ぶ”とそうなっちまうんだよナァ」
「……やはり、転移魔法の使い手か。──『現れよ』、『光の恩寵』」
サーヴァインが祝詞を唱える。
すると、傷口にかざした左手から淡い光が溢れ、鮮血が吹き出す手首を覆っていく。光の束が手の形に収束していくと、ほどなくして、そこには先程と変わらぬ右手が戻っていた。
「再生魔法!? なんだ兄ちゃん、そんなナリして高位のヒーラーかよ! めんどくせーにゃあ!」
ププールが驚くと同時に、横っ飛びに跳躍する。一瞬遅れて、ププールがいた地面に投擲されたハーケンが突き刺さる。
ハーケンに括りつけられた布を即座に引いて回収しつつ、サーヴァインが立ち上がる。
「アズライール。俺はあの魔法使いをやる。赤髪との決着はお前がつけろ」
「あんた、怪我は……」
「これくらいいつものことだ。俺には迷っている暇は、無い」
そう言い残すとサーヴァインが地を蹴って駆け出す。ププールも応戦の構えを見せつつ、二人は木々や地面を吹き飛ばしながら森の中へと入っていった。
*
木々がその幹を失い倒れる音と、飛び立つ鳥達のざわめきが、青空の下に響いていた。
「わ〜……二人とも、行っちゃったね。すごい戦闘!」
時折遠くの方から聞こえる戦闘音を聞きながら、パルチザンが能天気に呟く。
しばらくそれを眺めてから、不意によしっ、と気合を入れなおすと、迷いのない目でアズライールへと向き直った。
「じゃ、私達もやろっか!」
「あ、あぁ……」
対するアズライールの目は、心なしか揺れていた。
先程サーヴァインに言われたことが、ずっと心に引っかかっていた。
『あとで後悔したくないなら、今すべきことを迷うな』
(うっさいわね……わかってるわよ、そのくらい……!)
地面を睨んで唇を噛むアズライールに、パルチザンが心配そうに声をかける。
「……だいじょーぶ? あ、もしかしてお腹痛くなってきちゃった?」
パルチザンの声には煽るような響きは一切ない。
きっと彼女は、人類と敵対する魔王軍の尖兵でありながら、本当に心からこちらを心配してくれているのだろう。
その単純な善性を感じたからこそ、アズライールもこれまで本気の命のやり取りはしてこなかった。
──否。
本当は、そうじゃない。
自分でも薄々わかってはいた。ただ、『強い自分』が崩れる気がして認めたくなかっただけだ。
ただ単に、アズライールは人を殺したくないと思っていた。
アズライールは、別に暗黒の力を備えたりはしていない。
それどころか魔力も然程多いわけではない。闇魔法を使うことはおろか、そもそも魔法に関する知識もあまり持っていない。
ただ、内気功による異常なまでに硬い肉体と、冗談みたいな馬鹿力を備えているだけの、生粋の戦士。
それが†天逆の魔戦士 アズライール†──本名、ハナコ。
多大な期待を背負って故郷を飛び出してから、旅先で多感な時期に突入し、現在進行系で各地で黒歴史を作っているだけの少女だった。
彼女の中に眠るのは闇の力などではなく、生粋のフィジカルエリートの血筋。
“勇者が興した国”レンハート勇者王国における伝説的な戦士であり、今の魔王軍とは別の魔王を討ち果たした“勇者PT”の一人、『赤旋風のサキ』の血だ。
血統、教育、天賦の才。
恵まれた環境で王国でも指折りの実力に育ったハナコだが、実のところ、彼女自身は筋力よりも闇魔法の素質が欲しいと思っていた。
ともかく、ひとり反抗期の旅真っ最中のハナコだったが、王国で温かく育てられてきた彼女にとって、戦場での殺生はどこか遠い世界の出来事だった。
なにも、ただの一つも命を奪ったことがないわけではない。それほど甘い世界でないことは彼女自身、旅の中でよく味わってきている。
襲ってきた魔獣は容赦なく両断してきたし、街育ちの彼女とて腹が空けば野鳥や野ウサギを追いかけて命の味を噛みしめた。
だが、少なくとも会話をかわせるだけの知能を持った存在を殺めたことは未だ無い。
なまじハナコ自身が強すぎることもあり、山賊や通りすがりの魔族程度は殺すまでもなく、戦意喪失するまで一方的に打ちのめすことができたからだ。
だが、今ハナコの目の前にいるのは、どこまで加減できるかわからない強敵だ。
人間の少女(魔族に特徴的な角や肌の色がないことからハナコはそう判断していた)でありながら、今まで戦ってきた中でもずば抜けて強い相手。
なぜ人間が魔王軍にいるのかはわからないが、人類と敵対している以上、癪だがあの男の言う通り“命を奪う”ことは一つの正解のように思えた。
(でも……)
ハナコが面を上げると、こちらを心配そうに見つめるパルチザンと目があった。
素直な子なのだろう。もし今ハナコが戦いを拒めば、彼女も無理強いはしてこないはずだ。
だが。
今日この戦いを先送りにして、それから?
彼女が増援を伴ってまたやってくる性格かはともかく、現に今日、彼女に付いてくる形でププールが来てしまった。
自分とて旅する身だ。あの村をいつまでも守れるわけではない。
あの陰気な男が言っていた言葉が再び脳裏に浮かび上がる。ハナコは頭を振って血生臭い想像を追い出した。
──その時、ふとハナコの脳裏に閃くものがあった。
「……今、すべきこと……」
そう呟いた後、ハナコはゆっくりと目を閉じ、静かに息を吸った。深く吸って、静かに吐く。
己に問う。“それ”をする覚悟を。そしてそのまま数秒ほど立ち尽くすと──眼光鋭く、目を見開いた。
「──フ。ク、クク──ハーッハッハッハ!」
「あ、アズちゃん!?」
「アズちゃんって言うな!」
ぎょっとしたパルチザンを“アズライール”の傲慢な声がぴしゃりと打つ。
「変な根暗男に好き放題言われたり、急に飛び入り魔族が現れたりして、少しばかり面食らっていたが……なんのことはない」
大鎌を虚空に一振りし、構えるは独特な決めポーズ。
「我が名は†天逆の魔戦士 アズライール†! ただ思うまま、我が暗黒の力を振るうだけよ!」
「おおー! かっこいい!!」
ビシッと大鎌をパルチザンに突きつけたアズライールの目に、もう迷いはなかった。
その赤き瞳が放つ眼光を受け止め、パルチザンの背筋にゾクリとしたものが走る。
恐怖ではない。
嬉しいのだ。
パルチザンから見れば、アズライールとて常識外れに強い。それは今までのニ戦でもわかっていたことだが……どうやら今日は、さらに一味違うらしい。
あまり考え事が得意ではないパルチザンはその『何か』の正体について思考することはやめ、ただ槍に身を任せることにした。
即ち、背筋を貫く戦いの歓喜に。
*
「オット、向こうも始まったみてえだな」
金属同士がぶつかり合う剣戟の音を遠くに聞きながら、ププールは森の木々から木々を素早く駆け回っていた。
跳ねるように飛び去った枝に、クロスボウの矢が突き刺さる。
「そーらよ!」
矢の飛んできた方に見当をつけ、ププールが手をかざすと、木々に覆われた視界が一瞬でクリアになる。
追撃の矢ごと空間が消失し、鬱蒼と茂った樹木をどこかへと『飛ばして』いた。
「どーしたどーした! あんだけ啖呵を切った割には、ビビっちまって近づいてこねーじゃねえの!」
軽口を叩きながらサーヴァインを煽るものの、実際に接近戦になれば不利なのは自分であることをププールはよく理解していた。
とはいえ、向こうが転移魔法を警戒しているのも明白で、時折接近の素振りを見せてはくるものの、基本的には遠距離からの攻撃に終始している。
こちらの魔法が空間転移ということにも気付いているだろう。
本来なら入念な詠唱と複雑な計算が求められる術者に対し間断なく攻撃を仕掛け、立ち止まる暇を与えてこないのがその証左だった。
(めんどくせーナァ。……しっかし……)
あのノッポ、妙な棺桶背負ってやがる、とププールは思った。
先程からこちらを狙っているクロスボウも、最初に飛んできたハーケンの替えも、そして何度か接近を許した時に振るってきた剣も、手斧も。
おそらくあの棺桶から取り出されたものだ。
てっきり旅荷物でも入れてるのかと思ったが、どうやらあの中には武装が満載されているらしい。陰気な顔して血の気は多いようだ。
「ケ。物騒なこって」
大木に取り付き、しなやかな身のこなしで枝から枝へ、そして茂みの中へと姿を消しながら、ププールは素早く思考を巡らせた。
奴の武器は手数。なら、奴がププールのような魔法使いを前にした時、どういう動きをしてくるか。思い当たる経験は、あった。
「……ま、多分そんなトコだろ」
どうやら、奥の手を使う必要があるらしい。
獣じみた動きで茂みへと消えたププールを木々の間から睨みながら、サーヴァインもまた思考を巡らせていた。
あの魔法使いが得手としているのは、空間転移魔法。それは間違いないだろう。
だが、あまりに“気安すぎる”。
本来、空間転移は非常に高度な古代魔法である。誰彼構わず扱えるものではなく、それを十全に使いこなせるのであれば王宮魔術師にすらなれる程だ。
消費魔力の大きさもそうだが、とにかく空間を扱う魔法というのは計算が複雑なのである。
『自分の座標』『相手の座標』、そして『世界の座標』を認識し、正確に運用しなければ、転送先で対象が石の中に閉じ込められることにもなりかねない。
まして、刻一刻と自他の座標が変わり続ける戦場で転移魔法を扱うのは計算に時間がかかるし、何より危険性が大きすぎる。
ゆえに……あのププールは、おそらく『出口』のことを度外視しているのだろう、とサーヴァインは結論づけた。
どこに飛ぶかわかったものではない転移魔法。普通なら危なっかしくて使えたものではないが、遠くに敵を飛ばすだけなら計算を一つ省ける。
そしてそれが、おそらくププール自身が自分を転移してこの場を脱しようとしない理由に違いない。
あるいは、奥の手として自己転移を隠しているだけの可能性もあるが……。
「…………」
それと、もう一つ。ププールの転移魔法を見て、思い当たることがあった。
一度その可能性に思考が至ると、どうしようもなくサーヴァインの心がざわつく。
脳裏に、かつての記憶が浮かぶ。
サーヴァインが全てを失った日。黒煙立ち上り、粉塵が舞うばかりの『聖都』が陥落した、忌まわしき光景が感情を支配しそうになる。
黒い感情に塗り潰されそうになる心を必死で押し留めながら、サーヴァインは静まった森を注意深く見渡した。
確認する必要がある。
もし“そう”ならば、奴のこれまでの戦闘経験は豊富だ。おそらくまだ切り札を隠し持っているはず。で、あるならば。
「……『身構えろ』、『光の恩寵』」
先程とは異なる祝詞を呟きながら、サーヴァインは身をかがめるのをやめた。
茂みを抜け、あえて開けた道へ姿を現すと、どこかから見ているであろうププールに見せつけるように、踵を返して元きた方へと歩き始めた。
どうやら、奥の手を使う必要があるらしい。
*
「これが──偵察だぁッ!!」
「フッ……甘い。†暗黒の羽衣(ダークネスオーラ)†!!」
冒頭の一幕を経て、パルチザンとアズライールの攻防は続いていた。
気合と共に繰り出された槍撃を腰を落とした体勢で受け止め、弾き返したアズライールが前に出る。
ちなみに高々と叫んだ割には特に闇っぽいオーラとかは出ていないし、そもそも魔力光もあまり出てなかった気がする。
不思議だなぁと思いながら、パルチザンは返す刀で、いや槍で距離を詰めるアズライールに応戦した。
「すごいすごい! どうなってるのその体!?」
「内気功……いや、我が身に逆巻く“暗黒の力”の顕現よ。そしてこれが……我が必殺の!」
今度はアズライールが跳躍する番だった。
大きく振りかぶった大鎌をパルチザンが受け止めようとし、一瞬で「あ、これ多分無理そう」と悟って回避に切り替える。
「†暗黒の輪舞曲(ダークネスロンド)†!!」
叫びながら、全然舞っても回転してもいない愚直な一閃が振り下ろされる。
何のひねりもない叩きつけ攻撃だったが、その威力は絶大だった。パルチザンが間一髪避けた地面に大穴が空き、舞い上げられた土砂が雨のように周囲に降り注ぐ。
「ひえぇ〜!」
「これが我が業(カルマ)。触れるものみな傷つけずにはいられない、この身に宿る忌まわしき闇の力よ」
「言ってる意味はよくわかんないけど、すごい自信……! でも、私だって負けないよ! 燃えてきたぁっ!」
皮肉げに自嘲するアズライールに、パルチザンは再び槍を構えて突撃の構えを取った。
「偵察っ! からのぉ──突撃!」
強烈な突きからの、強烈な突き。特に変化のない二段攻撃をパルチザンが繰り出す。だがその威力は徐々に、しかし確実に勢いを増しつつあった。
先刻から続く連撃をアズライールは真正面から受け止め続けていたが、上がり続けるスピードに徐々に後退しはじめていた。
感覚派のパルチザンはやはりというべきか、その時のテンションによって攻撃の威力を増すタイプのようだった。
後ずさったアズライールの足に、ふと土とは違った感触が当たる。
チラリと視線をやると、いつの間にかオーライ村へとかかる橋のすぐ目の前まで来ていたらしい。
『ここ』だ。
そう確信し、アズライールはパルチザンを大声で挑発した。
「少しは気合が入っているようだな! だが、その程度か!? 貴様の本気の本気を見せてみよ!!」
「言ったな〜……! じゃあ行くよっ、これがァッ……!」
気合の乗った一撃。それをアズライールに当てた反動を利用して後ろに跳んだパルチザンが腰を落とし、グッと全身を縮めて姿勢を低くした。
──来る。
反射的にアズライールも腰を落として両足を踏ん張り、短く、鋭く、力強く息を吐いた。
「コングロード様……力を貸してください!!」
瞬間。
パルチザンが一筋の光となった。
「──全・軍・突・撃ぃぃぃぃ!!!!」
地を蹴って一瞬でアズライールと間合いを詰めたパルチザンが、突撃の勢い全てを乗せた槍撃を放つ。
空気の壁を突き破る程の速度で繰り出された穂先が炎を纏い、致命の一撃となってアズライールの中心部を襲う。
アズライールは避けなかった。否、避けるつもりなど毛頭なかった。
真正面からパルチザン渾身の一撃を受け止め、しかしあまりの勢いにその威力を殺しきれず肉体は浮いて、……否。
「……フンッッ!!」
気合とともに、アズライールは力任せに槍の穂先を上から殴りつけた。
パルチザンの攻撃のエネルギーを下へと流しつつ自身の縦回転へと変え、同時にアズライールが地を蹴った。
大地を踏み砕かんばかりの膂力で、真上へ。
「えッ!? わ、っとと!?」
受け流された槍が橋の目の前に深々と突き刺さり、パルチザンがバランスを崩す。
その背に影を落としつつ、上空へ高く舞い上がったアズライールが猛烈に縦回転しながら大鎌を振りかぶった。
『今すべきこと』に向け、アズライールが殺人的な勢いで落下する。
「ちゃんと避けなさいよッ! ──†暗黒の輪舞曲(ダークネスロンド)†ォォォォ!!!」
ただ振り下ろすだけではなく、パルチザンの攻撃の勢いを上乗せした、真なる回転撃。
†暗黒の魔戦士 アズライール†全身全霊の一撃が、隕石の如く大地を打ち砕いた。
*
「おいおい、寂しいじゃねーの。俺と遊ぶのは飽きたのか?」
油断なく歩くサーヴァインの前に、ガサリと茂みを抜けて出てきたのはププールである。
からかうような口調とは裏腹に、目深に隠された瞳は射抜くようにサーヴァインを見据えている。
「いいや。あの女を始末しに向かえば、お前は逃げるのをやめざるを得ないと踏んでいたからな」
「……へっ。別に俺ぁ子供のお守りをしにきたわけじゃねーんだけどな。中々ウチ向きの性格してるぜ、アンタ」
ププールの挑発を無視し、サーヴァインがぼそりと口を開く。
「ひとつ、聞きたいことがある」
「あ?」
射殺すような視線をププールに向けたまま。
「カンラークを、覚えているか?」
「……カンラークぅ? なんだったっけかなそりゃ……。あーいや待て待て、知らねえってこたねえと思うぜ? ウン。聞いたことはあんだよ、ソレ」
本当に思い出せないといった様子で顎に手を当ててうんうん唸っていたププールだが、やがてポンと手を打つと、あっけらかんと言い放った。
「──ああ! そっかァ! お前、エビルが滅ぼした聖騎士どもの生き残りか!」
サーヴァインの眉根に深い皺が寄る。
「いやどっかで見たことあるカッコだとは思ってたんだよ! あ〜〜ナルホドねぇ、結構前の話だからすっかり忘れてたぜ」
「……思い出したついでに聞くが。奴はあの日、突然聖都の中心街に現れた。何重にも築かれていた障壁を無視し、何の前触れもなく、だ」
「……ヘェ……?」
真意を察して、目を細めたププールが意地悪い笑みを浮かべる。
「──お前がやったのか?」
「いや〜〜、ほんっ……とスマネェ! ありゃ、事故だった!」
ペロッと舌でも出しそうな調子で、ププールが軽口を叩く。
瞬時にサーヴァインの顔が凄絶な笑みに歪み、マント越しに隠し持っていたクロスボウがププールに発射された。
想定通りの不意打ちをひらりとかわしたププールが視線を戻すと、間髪入れず投擲された手斧がその眼前に迫ってきていた。
「おいキレんなよ、謝ってんじゃねーか!」
ププールが素早く右手をかざすと、転移魔法が眼前の空間に弾ける。手斧がどこかへと消失し、括りつけられていた布が周囲へと散乱する。
そしてそのすぐ後ろから、棺を放りだしたサーヴァインが駆けてきていた。
「転移魔法は高等魔術だ。連射はできまい……死ね!!」
そう告げて騎士剣を上段にかざしたサーヴァインに、ププールが左手を向ける。
「──と思うじゃん?」
ププールの左手が魔力光に輝いた。
「ッ……!」
斬りかかろうとしていたサーヴァインが咄嗟に身を捩ったものの、至近距離で放たれた魔法を完全回避できるはずもない。
サーヴァインの右腕が肩口から消失し、宙を舞った剣が地面に転がる。
「奥の手、ってヤツ? 俺の転移魔法はうろ覚えでね。ムズカしーこと考えてねえ分、連射が効くのよ。ってなワケで……アバヨ、“くたばり損ない”」
ププールが今度こそサーヴァイン本人を消し飛ばすべく手をかざした、その時。
サーヴァインが、光の残滓が立ち上る『右腕』を引いた。
「──!? なッ……!」
足元に散乱していた布が突如ププールの足に絡まり、体勢を崩して放たれた魔法が見当違いの方向にある木々を消失させる。
と同時に、あらかじめ茂みに仕掛けられていた布が蜘蛛糸のように次々ププールの手足を絡め取り、地面に張り付けるように強固に縛り上げた。
(こいつ、このために一度来た道を……! 手斧は布を撒くためのブラフか! いや違ぇ、回復魔法を唱える暇は与えなかったハズ!!)
「奥の手、ってやつだ」
内心毒づくププールの前でサーヴァインがゆっくりと立ち上がり、マントの下から紫色のポーションを取り出すと、一息に呷った。
その色ならププールもよく見覚えがある。魔力回復用のエーテルポーションだ。
「負傷に反応して自動発動する待機型の治癒呪文……あらかじめ唱えておいた。起動させ続けるのは消耗も大きいがな」
「……ハ! な〜に勝ち誇ってんだ! こんな布切れくらい消し飛ばして、──ぐおおッ!?」
「やめておけ。聖都秘伝の破魔布だ。魔力に反応して硬度を増す……お前のような魔法使いを拘束するための代物さ」
手をギリギリと締め上げられて苦悶の表情を浮かべるププールに淡々と告げながら、サーヴァインが転がっていた棺を持ち上げる。
そして、ププールを圧し潰すように振り下ろした。
「グエッ! お、重い重い! 悪かったって、ゴメンて! もう二度とニンゲン様には逆らわねーからさあ!」
「赦しを乞う必要は無い。赦すつもりは無いからな」
「……あァ?」
カチンときたププールが安っぽい笑みを表情から消す。
「チッ。だったらよ……最期に言いてえこと言わせてもらうぜ」
「……ほう?」
一呼吸おいて改めてニヤリと笑うと、ププールはたっぷりと嫌味を込めて毒づいた。
「そもそも、だ。エビル一人に束になっても勝てねえお前らが弱えーのが悪ぃんじゃねえか? ンな常識、魔族なら誰でも知ってるコトだぜ。……グエ!」
ププールの上の棺が強く押し付けられる。
「そうして今日、お前の番がきたようだな……!」
「ケッ! 言いてえ文句はまだまだあるがな、続きは地獄でテメーのお仲間に語ってやらあ!」
棺をププールに押し付けたまま、その持ち手──射出レバーに括りつけられた布を握るサーヴァインの手に力が籠もる。
「吠えるな。怖いなら神に祈りな」
「テメエの神にか!? 冗談じゃねえや!!」
「俺に神はいない。──もう死んだからな」
破魔布が引き絞られ、撃鉄が作動する。
棺の下部に備え付けられた大型パイルバンカーが爆発的な轟音を上げ、直下を砕き、貫いた。
地の底まで届くような衝撃が周囲の木々を揺らし、驚いた鳥達が一斉に飛び立つ。撃発と同時に展開した排熱機構と蒸気が、棺に十字架状のシルエットを形作った。
そうして轟音が去ってしばらくすると、やがて一帯を覆った砂埃と排煙が徐々に薄れてゆく。
長い、長い沈黙の後、足元を睨んでいたサーヴァインはゆっくりと息を吐くと、不機嫌そうに舌打ちした。
「……逃げられた、か」
*
メキメキと軋むような音が崖と崖の間に木霊する。
パルチザンの槍撃。ハナコが跳躍するための踏み込み、そして、高高度からの重力と回転のエネルギーを全て乗せた渾身の一撃。
これらを立て続けに受け、吊り橋を強固に支えていた地盤はあっさりとその形を手放した。
地中深くまで固定されていた基礎が、地盤ごと裂けるような音を立てて崩落していく。
振り子のように遠ざかっていく橋板が吸い込まれるように反対側の岸壁に衝突し、その衝撃で何枚かが奈落に落ちていくのが見えた。
ハナコは肩で息をしながらしばらくそれを見つめていたが、やがて息を整え、振り返るとウンザリしたように口を開いた。
「……ハァ、もう乱入者にも慣れたわ。で? まだやるってんなら相手になるけど?」
パルチザンに、ではない。
やや離れた位置の樹上に立ち、少女を小脇に抱え、反対には目を回しているププールを抱えた、忍装束の男にである。
墨色の髪の隙間から、一対の角が天へと伸びている。魔族である。
「いいえ、この付近にある唯一の橋は崩落。この場に飛べる者はいませんし、これ以上やり合う意味はないでしょう」
「か、カゲマル!? いつからいたの!?」
青年の小脇に抱えられたパルチザンが、目を丸くしてカゲマルの方を見る。
「実は仮面魔侯殿から、パルチザン殿の偵察任務の進捗はどうなっているのか、大変不安だ、と介添を頼まれていまして」
「かい、ぞえ……?」
「……ええと、つまり、最初から陰で見ていました」
フン、とハナコが鼻で息をする。
「ずっと隠れて見てたのね。まぁ、横槍を入れてこなかったのは褒めてやるわ」
「生憎、直接戦闘は得手ではありませんし……何より、パルチザン殿自身がそれを喜ばないでしょうから」
「うん! 邪魔してたらすっごい怒ってた! あ、でも最後に助けてくれてありがとう!」
それは事実だった。
あの時、ハナコは『きっとパルチザンならなんだかんだ避けるだろう』と思って†暗黒の輪舞曲†を放ったものの、思った以上に槍が地面深く刺さったパルチザンはその場から離れられないでいた。
結局、『えぇ……大丈夫よね? 死なないわよね?』と思いながらも渾身の力で大鎌を振り下ろしたのだが、寸前に黒い影がパルチザンを攫わなかったらどうなっていたことか。
結果として、ハナコにとって最悪の事態は避けられた形になる。
「そんなことより……」
と、ハナコがカゲマルの抱えたププールに視線を向ける。魔力切れでも起こしているのか、ぐったりとしたまま苦しそうに唸っている。
陰気なアイツも、どうやら勝ったらしい。
「ププール、だっけ。そいつも負けたみたいだけど?」
「信じがたいことですが……そのようです。間一髪、危ないところでした」
信じられないというより、信じたくないといった渋い表情でカゲマルがププールを見る。
「戦闘巧者のププール様が、こうも追い詰められるとは──むっ!?」
カゲマルが咄嗟に飛び退き、別の高木に飛び移る。
その眼前を、高々と放り投げられた何か──大穴を開けられて綿が飛び出したぬいぐるみが通過していった。
「お前のもんだろう。返す」
毒づきながら森の奥に続く小道から姿を表したのは、染み付いたような陰鬱な顔に一層不機嫌さを増したサーヴァインだった。
「あぁ、夜鍋して作ったププールくん人形が……」
「ふざけた野郎だ。……どうせやり合う気もねえんだろ」
「それはまぁ、ええ。俺の任務はお二方を無事に本陣までお連れすること。今日のところは、勝ちを譲りますよ」
「だったらお前んとこの上司に伝えとけ。お前は必ず、俺がこの手で殺すとな」
カゲマルの表情から、すっと余裕の態度が消える。
「あまり調子に乗るなよ、くたばり損ないの聖騎士崩れが。エビルソード様は絶対的な『個』の極地。武と剣の到達点。貴様ごときが敵うお方ではない!」
「急に語るじゃん……」
ハナコが若干引いた声で感想を漏らした。
どうやら何かのスイッチが入ってしまったらしい。
「あのお方の眼前に立ちたくば、まずは精強揃いの我らがエビルソード軍を突破することだ。貴様ごとき“くたばり損ない”には無理だろうがな!」
「か、カゲマルさん、落ち着いて! ……はぁ、こうなると長いんだよねぇ……。ねえ、早く帰ろうよ〜! あたし、お腹空きました!」
「……ハッ! し、失礼。俺としたことがつい熱く……」
ゴホンと咳払いを一つして、カゲマルはサーヴァインに向き直ると冷たく呟いた。
「“1000人斬り”の生き残り、か。せいぜい、そのまま逃げ続けていればよかったものを……。では、今日のところはこれにて。御免!」
そう叫んでカゲマルが手印を切ると、ボン、という音と共に三人の姿が煙に包まれた。
すぐに風がその煙を攫っていったが、もう木の上にカゲマル達の姿は無かった。
しばらく忌々しげにそれを見ていたサーヴァインだが、付近にもう気配が無いことを悟ると、ハナコの横を通り過ぎて崩落した吊り橋跡の前に立った。
「また派手にやったな」
「なによ。あんたが言ったんでしょ、今すべきことを迷うなって」
「……ああ」
そう応えるサーヴァインの表情はハナコからは見えなかったが、不思議と穏やかな声色に思えた。
「あたしはあたしのやり方で、すべきだと思ったことをした。村の人達には悪いけど……これで、魔王軍も向こうには簡単には渡れなくなった。も、文句ある!?」
サーヴァインはしばらく崖を眺めていたが、やがてハナコに向き直ると、微かに笑みを浮かべて言った。
「いいや。上出来だ」
*
森を抜け、なだらかに伸びる街道をゆく二人がいた。
一人は棺を背負った陰鬱な男。一人は大鎌を携えた黒衣の少女。
「何度言えばわかる。ついてくるな」
「フン、貴様こそ何度言えばわかる。たまたま汝が我が前を歩いているだけのこと」
「邪魔だ。帰れ」
「かッ……帰れないんだから仕方ないでしょ!? 荷物もお金も、全部オーライ村の宿屋に置いてきちゃったんだから!」
情けない泣き言を堂々と叫ぶアズライールの前で、サーヴァインは何度目かの溜息をついた。
あの後、二人は少しばかり戦闘の後処理に時間を割いた。
簡素なあらましを書いた手紙をサーヴァインがボウガンに結わえ付け、どうにか崖向こうに届くように射出した。
じき戦闘音を聞きつけた村人やイルネ達がやってきて、崩落した吊り橋に気付き、落ちている矢文を拾うだろう。
アズライールが強弁したため、橋を落としたのは魔王軍だということにしておいたが、まあ誰も困るまい。
ともあれ、それを読めば王都が兵士を村に派遣したり、橋の修理もサポートしてくれるはずだ。
そうしてサーヴァインが立ち去ろうとした時、突然アズライールが大声を上げた。
「あーーーーーーーーッッ!! お、お金! 荷物も! 全部向こうに置いてきちゃった!」
「そいつは……災難だったな。じゃあ、達者でな」
「ちょ、ちょっと! 冗談でしょ!? あんた聖騎士なんでしょ!? こういう時は困ってる人を助けるもんなんじゃないの!?」
サーヴァインの表情がわずかに曇る。
「元、だ」
「な……」
ハナコは絶句した。
元・聖騎士。
元・聖騎士!?
(“聖騎士”だけでもカッコいいのに、『元』ですって……!?)
先程、カゲマルとサーヴァインの会話を聞いてからというもの、気付けばハナコの多感な心の何かがやたらと刺激されていた。
よく見ればサーヴァインの着ているマントも端々が擦り切れていて何ともいえない味があるし、あの棺が武器庫らしいのもかっこよく見えてきている。まずい。
本人は陰気な上に優しくもない、サイアクの根暗男なのに。
「と、とにかく! こうなったのも元はと言えばあんたが事を大きくしたからなんだからね! 責任取りなさいよ!」
そんなことをギャアギャアわめきながら、他に頼れる者もいないのでアズライールはサーヴァインの後に(無理矢理)ついていくことにしたのだった。
そんなこんなで。
元・聖騎士と偽りの魔戦士は、連れ立って街道を歩いている。
「……ところで。あえて……あえて問うてやるが、次の街まではあとどれくらいだ?」
「さあな」
「さあ、って……、え? 目的地があって歩いてるんじゃないの?」
「この先の街までは馬車で一日ほどらしいが、お前が橋を壊しちまったからな。まあ、三日くらいだろ」
「み、っか……」
愕然と立ち尽くすアズライールに構わず、サーヴァインが歩き続ける。我に返ったアズライールがそれを騒ぎながら追いかける。
二人の旅路はその繰り返しだった。
「今日はこの分だと、あの森の中で野宿だな。どっかのお荷物女の食う飯も確保する必要がある」
「だ、誰がお荷物ですってぇ〜! ……えっ? 森の中で野宿!? ……て、テント持ってるの!?」
「あるわけねえだろ」
「な……わ、私その、夜の森ってこわ、……じゃなくて!! ちょっとその、性に合わないんだけど!?」
全身を闇色に染めている戦士とは思えないアズライールの発言に、サーヴァインが嘆息する。
しばらくはこの騒がしい日々が続く予感に頭を痛めつつ、街道の先に見えてきた森の入口を眺めながら、サーヴァインはぶっきらぼうに言い捨てた。
「怖いなら神に祈りな」
【了】