湾岸貿易都市ヴェルナ ヴェルナの空は錬金術師の釜の中の色だった。 湾岸貿易都市ヴェルナ。ここでは種族間戦争の諍いよりも金が重要視され、魔族と人類が分け隔て無く交流している。そう表現すれば聞こえはいいが、実際は両勢力のはみ出し者が押し込まれた瓶詰めだ。ここに外の戦争を持ち込めば儲からない。それだけの理由で争いは保留されている。イザベルは魔族と握手をした人間の商人が聖水で手を洗っている所を見たことがあるし、人間の旅人に微笑みかける魔族が人間にわからない言葉で罵倒しているところを見たこともある。ここはそういう所だ。だが、だからこそ儲けがあり、人が集まる。 午後10時。 いつものようにイザベルはバー「シック」に入った。酒と、シーシャと、香水の匂い。 「騎士様のお出ましだ。」 手にしているワインよりも顔を赤黒くした人間がはやし立てた。ハイム商店の連中だ。イザベルは無視して一番奥のカウンターに座った。 「依頼は片付いたのか?」 低い声で問いかけるマスターに、イザベルは短く頷いた。 「目標は港の倉庫に潜んでいた。ハイムの商船貨物に紛れて魔界に飛ぼうとしいた。生け捕りで警察に引き渡した。報酬は100万コーラル、残りは──」 マスターが置いたアオカゲのグラスを少し揺らし、氷の球体の表面を洗い、 「1億コーラルを切った。」 「順調じゃないか。」 「いや、遅すぎる。」イザベルは冷たく答えた。 「私はこの街に縛られている。エビルソードを追うためにも、この借金を早く片付けなければならない。」 グラスを持つイザベルの右手はバーの柔らかな照明を浴びて琥珀色に輝いている。この街で雑用をやるために手に入れた腕ではない。そんな言葉がイザベルの脳裏に浮かぶ。聖都カンラークでの悲劇から流浪の果て、イザベルはこの都市で賞金稼ぎをして生きている。彼女の右腕である「マキーナ・サンクタ」の莫大な借金のためだ。ヴェルナの闇クリニックで2億コーラルを借りて移植された機械の腕。その借金を返すため、イザベルは犯罪者の捜索、逃亡者の拘束、盗品の回収といった業務を人類・魔族問わずに請け負っていた。 マスターは少し黙った後、静かに言った。 「あんたが先を急ぐのはわかる。かつての仲間を背負う気持ちは尊い。でも、目的のためには今を生き抜くことも必要だ。あんた、最近目立ってきてる。ここにいるとわかるんだよ、イザベル。」 イザベルはマスターに少しだけ身を乗り出し、 「望む所よ。」 グラスの半分まで残っていたアオカゲを飲み干し、椅子から立ち上がった。 「行かなきゃ。次の依頼がある。」 「そうか。気を付けてな。」 「ありがとう、マスター。」 午前1時。 イザベルはヴェルナの裏路地を歩いていた。依頼内容は盗品の回収だったが、今回の依頼主が気にかかった。情報が少ないのだ。盗品の特徴、敵組織の受け渡しの日時と場所は詳細に伝えられていたが、依頼主の所属は不明だった。だが、盗賊は排除することが特記されていた。だから、あらかた見当は付く。こういう依頼をしてくるのは上流階級だ。噂が立たないうちに事を終えたいのだ。きっと。 したがって、敵の抵抗が激しいことが予測された。敵がよっぽどの阿呆でなければ、大きなリスクを背負っている事はわかる。相応の準備をしている事だろう。 敵は人間だった。数は3人。予定通りに裏路地を訪れ、民家のひとつに入っていった。金持ちが別荘に使っていたような立派な屋敷だったが、庭木が荒れていた。数年ほど放置されていたようだ。イザベルは玄関からいちばん遠い窓から屋敷に侵入し、微かな会話が漏れる食堂へ移動した。 食堂のダイニングテーブルに、ホールケーキがひとつ入りそうな箱が置かれ、3人の男が囲んでいる。どうやらふたりがもうひとりに荷物を受け渡す場所としてここを選んだらしい。受取側の男がタバコを吸うためにマッチを擦り、炎で顔が浮かび上がった。「シック」で声をかけてきたハイム商店の男だった。 イザベルは食堂に足を踏み入れた。振り向いた3人が驚く。 「イザベル──騎士だ!」 受け渡し側のひとりを切り伏せた。対人魔法の詠唱を始めたもうひとりに距離を詰め、生身の方の手で口を塞いで首を折った。 「待て、イザベル待て!」 ハイム商店の男が食堂の角に後ずさって叫んだ。 「わかるだろ、ヴェルナでハイム商店社員を斬ったらどんなことになるか──」 「構いません。」 箱が喋ったような気がした。反射的にイザベルはハイム商店の男に剣を浴びせると、男の頭部と左肩から先が床に転げ落ちた。 イザベルは箱を凝視する。確かに箱の中身が喋った。鈴のような声。 「開けて下さる?息苦しくて。」 箱は近くで見ると宝飾品の化粧箱を大きくしたようなもので、別珍が表面に貼ってあった。微かに香水が香った。言われるままに開けると、メディアで見慣れた顔があった。 「──ヘルマリィ」 イザベルは思わず声を漏らした。ヘル家の首無し貴婦人。種族間戦争が本格化する前は魔族側の使節として活躍した貴族だ。外交が失敗してから表舞台から去ったと聞いていたが。 「照明は付けないでくださる?真上を向いていると眩しいのよ。」 「依頼をしたのはわたくしです。」 ダイニングのテーブルセットに腰掛け、テーブルの上の貴婦人の頭と話す。額に入れた肖像画と会話しているようだった。 「そうでしたか、レディ。」 「聞かないのですか?なぜハイム商店がわたくしを持ち運んでいたのか。」 好奇心に満ちた真紅の瞳がイザベルを覗き込む。この人懐っこさと聡明さがヘルマリィの武器だった事を思い出す。 「私は依頼の達成に必要ない情報は得ない事にしています。」 「なぜ?」 「知っている事で命を取られる事があります。」 ヘルマリィは答えに満足したようだった。ヘル家の魔族はその美貌でも有名であった。青灰色の貴婦人の頭部は見ていると引き込まれそうになる。当主のヘルノブレスは人類社会でも人気があると聞く。だがそれもモラレル軍のプロパガンダだ。 「では多くは語らないことにします。その男の事は気にしなくて構いません。ハイム商店が処理するでしょう。」 「承知しました。レディ。」 ヘルマリィはまだイザベルを見つめている。 「まだ何か?」 「その腕。どうなさったのかしら?」 「カンラークで失いました。1000人の仲間と共に。」 その時、イザベルはヘルマリィが眼を見張るのを見た。鈴のような可憐な声を発していた口から、ない首を絞められたような苦痛が漏れるのを聞いた。 「お悔やみ申し上げます。貴女、魔族が憎いですか?」 「私は騎士です。戦いに憎しみは持ち込みません。ただ、私とエビルソードとの戦いは終わっておりません。」 ふたりの間に沈黙が降りた。ヘルマリィはイザベルを見つめ、やがて何かを決心したようだった。そして言った。 「カンラーク聖騎士団の生き残りが、この街でサムライをしているのは、その機械仕掛けの腕の代償というわけね。」 皮肉めいた言い方だったが、イザベルの腹は立たなかった。 「その腕の残り代金を私が支払いましょう。そして私が貴女を購入します。」 「奴隷ということですか?」 「契約です。わたくしに仕え、そして守りなさい。」 「ご冗談でしょう?あなたは魔族で、同族のエビルソードを殺そうとしている人間を従えるというのですか?」 「わたくしはモラレルの軍勢に属してはおりません。エビルソードの生き死にをわたくしは関知いたしません。貴女はエビルソードを討つために今すぐにでも世界を巡らねばならない。わたくしもちょうど世界を巡らねばならないのです。その先々で情報を集める事は可能です。ちょうどよいでしょう。」 イザベルはヘルマリィの真意を測りかねた。この魔族は私を利用するだろう。だが、私も彼女を利用する事ができる。エビルソードを追える。ヴェルナの外へ。 「それに、なんだか貴女と気が合いそうだから。」 ヘルマリィは微笑んだ。イザベルは自分が警戒を解いているのを感じた。これが彼女の力なのだろう。 「わかりました、マイレディ。」 「よろしい。」 「これからどうされるのですか?」 「まずは、お茶をいただきたいわね。お部屋に案内いただけないかしら。そうだ、貴女、名前は?」 「イザベルです。聖騎士イザベル。」 午前3時。 イザベルはもういちどシックに立ち寄った。客はほとんど帰ってしまい、テーブル席のひとつでシスターがひとり、サケの瓶を数本抱えて眠っていた。店内の状況を確認したイザベルは、カウンターのいちばん奥に座った。そして、バーに化粧箱を静かに置いた。 「なんだいイザベル、今回の報酬は物納だったのか?」 イザベルは何も言わないまま、化粧箱の蓋を静かに開けた。ヘルマリィと対面したマスターはいつもは見せないような顔をした。いくらかは仰天したらしい。 「イザベルの家にはお茶がないそうでね、何かつくっていただけるかしら。」 「承知しました。レディ。」 終わり