冷たい風が吹き抜ける山道を歩きながら、ヴェングルは弟子に向かって穏やかな口調で語りかけていた。その声は静かで落ち着いていたが同時に揺るぎない自信が滲み出ている。レオナルドは少し後ろを歩きながら話に耳を傾けているようだ。 「ですので、神術と魔法の両立を今私は研究してるんです。異種二重詠唱ですね」
「師匠ならすぐじゃないですか?」 ヴェングルは小さく笑って軽く肩をすくめた。 
「では私の成したくとも難しい事を丁寧に教えてあげましょう。魔法は『自分の力』で発動するもの、神術は『他者の力』を借りるもの……そう教えましたね?」
「神様の力……ですよね?」 「ええ、ノースカイラムであれば。神術は信仰対象、つまり神聖な存在との繋がりによって効果を発揮します。この繋がりは祈りと信仰心によると伝えられていまして……要するに信仰心をどれほど強く持っているか、そしてその信仰対象が力を貸す価値があると認めるか、それが全てです。これを理解することが神術の本質に触れる第一歩です」 ヴェングルは歩みを止め、弟子の方へ振り返った。その表情には、どこか幼さが見てとれる。 「神術の発動にはまず信仰心と祈りの深さが求められます。ただし、それだけでは不十分です。信仰心を持っていても、もし発動者が悪行を積み重ねているなら、神術は決して発動しません。これは秘密裏に実験されたもので公表はされてないんですけどね」 「なんで知ってるんですか……?」 「まあそれは置いておきましょう。簡単に言えば、その人物の善悪を神が知る尺度で発動の有無があるようなのです。信仰が篤くとも、例えば人を殺めるような行為を繰り返しているなら、その悪行が信仰心を上回り神術は不発に終わります。たとえ国全体で深い信仰を掲げていたとしても、侵略戦争を起こすような行為をすればその国全体で神術を扱えなくなる可能性すらあるでしょうねえ」 レオナルドは息を呑んだ。 「ノースカイラムが一度も戦争を仕掛けなかったのはそれがあったから……?」 「そうとも言えますが、私からすれば当然の仕組みです。神術は発動者個人の力ではなく、信仰対象の力を借りる行為なのですからね。信仰対象が力を貸す価値がないと判断すれば、その瞬間に神術は無意味になります」 ヴェングルは再び歩き出し、今度は魔法について語り始めた。 
「一方で、魔法は全く異なるものです。魔法は発動者自身の魔力を媒体として使います。信仰心や神の意志など、他者の力を借りる必要はありません。火を出すにせよ、風を操るにせよ、発動者が必要な知識と技術を持っていれば、それだけで事足ります。簡単でしょう?」 「それじゃあ、魔法の二重がけでいいのでは?」
「それはもうできます。しかし魔法にも欠点がありまして、魔法には魔力が必要です。魔力切れを起こせば、いかに優れた魔法使いでも何もできなくなる。そして、魔法の扱い方を誤れば暴発や失敗のリスクもあります。その点で言えば、魔法は発動者の力に大きく依存する代物です」 レオナルドは腕を組んで考え込むような表情を浮かべる。 
「神術と魔法、どっちが優れているんでしょうか?」
「優劣を決めるのはナンセンスですね。それぞれに強みがあり、弱みがあります。魔法は自由度が高く、発動者の意志で動かせる。神術は規模や効果において、人間の力を超えた現象をもたらしますが制限がある。私は信仰心で魔法を扱えるようにしたいんですよ。二重詠唱はその一歩です。エネルギーの使い方、流れ、変換を混ぜてみたいんです」 レオナルドが頷いたのを確認すると満足げに薄く笑い、再び歩調を緩めた。山道は徐々に木々の密度を増し、昼間でも薄暗い森へと続いている。レオナルドはその背中を追いながらさらに問いかけた。 「師匠は、どちらが正しい力だと思いますか? 魔法か、神術か」 ヴェングルはしばらく沈黙し、足元に転がる小石を軽く蹴った。石が道端の茂みに消えていくのを見届けると、ゆっくりと口を開く。 「正しいか、正しくないか……それを考えること自体が間違いだと私は思います。力そのものに正しさも悪もありません。それをどう使うか、それを使った結果が何をもたらしたか、そこにのみ正義や悪が生まれるのです」 レオナルドは小走りしながら問いを重ねる。 
「神術には信仰や善行が必要ですよね?それは、神術が正しい力だと示しているのではないですか?」 ヴェングルは振り返りもせず、冷静に答えた。 
「いいえ。ノースカイラムでずっと育った貴方にはそう思えるかもしれませんが……神術の性質はむしろ“正義を強制する”力と言えるかもしれません。信仰や善行が求められる分、それが使える人間は極めて限られます。たとえ善意を持っていても、たった一つの過ちで神術を失うことすらある。それは、力そのものに絶対的な制約が課せられているということです」 ヴェングルは立ち止まり、振り返って自分の弟子を見た。その瞳にはどこか鋭い光が宿っている。 
「一方で魔法はどうです?魔力さえあれば誰にでも扱える。どんな者であっても、努力次第でいくらでも力を伸ばせる。それに暴発のリスクや限界があるとはいえ、発動者が持つ自由度と可能性の高さは神術をはるかに凌駕します」
「それでは魔法が危険すぎるのでは……誰にでも使える分、悪い人間が悪用する可能性もあるわけですし」 ヴェングルは少しだけ目を細めると、小さく笑みを浮かべた。 
「君も随分と物分かりがよくなりましたね、確かにその通りです。だからこそ神術と違い魔法は“個人が支配する力”になる。制御できない者にとっては凶器に過ぎませんが、それを制御できる者にとっては無限の可能性を秘めた道具になります」 ヴェングルは道端の石を軽く蹴り上げ、宙に舞ったそれを魔力で吹き飛ばす。まるで気まぐれな遊びのようなその仕草に余裕が感じられた。 
「だからこそ、私は魔法を選ぶのです。神術は制約が多すぎるし、力を貸すかどうかの決定権が自分以外にあるのも気に食わない。ですが魔法は違う。全てが私の手の中にある。君なら、この感覚の素晴らしさが少しはわかるでしょう?」 レオナルドは少し困惑した表情を浮かべながらも頷いた。 
「確かに、自由に力を使えるのは魅力的ですけど……その、どっちにしても師匠はもう神術を使えないのでは……悪い事しすぎで……」 「そう、そこです」 ヴェングルは嬉しそうに言い放つ。 
「信仰心と祈りがエネルギーとして神に向かい、それが神の許可を経て神術の形を成すのなら神に向かう前に信仰エネルギーを魔法にするんです。なんという背徳な行為でしょうか……ワクワクしますね」 レオナルドはその言葉に返事をせず、ただ師匠の後ろ姿を見つめた。歩調は常に一定で、どこか軽やかで、それでいて揺るぎない自信に満ちているように見える。その背中が語るものの大きさを感じながら小さく息を吐いた。 「……師匠は、本当にどんな悍ましい行為にも迷いがないんですね」 
レオナルドがぽつりと呟くと、ヴェングルは振り返らずに答えた。 
「迷いがない?当然です。君の目にそう映る私の姿を焼き付けなさい。私は正しい。誰が私をどう思おうと自由ですが、私は私という存在を疑ったことがありません。さあ、次は君が答える番です」 「私ですか?」 レオナルドは聞き返す。 
「次に訪れる困難をどうやって回避するのか。さあ、どんな手を使うのか、期待していますよ」 _______ 辺境の街道に乾いた靴音が響く。前方を軽やかに駆けるのは髪を翻したヴェングルだ。その後ろを少し疲れた表情のレオナルドが追いかけている。遠目から見れば二人はまるでランニングを楽しんでいるかのように見えるが、その実態は全力で逃げている最中である。 後方からは何台もの馬車と騎馬兵が追いすがり、荒々しい怒声が風に乗って聞こえてくる。追いつかれていないのは魔法により一歩一歩を馬のような速さで走る事ができているからだ。 「困難ってこれのことですか!?というか師匠何をしたんです!?あの貴族目の色を変えて追ってきてますよ!」 
レオナルドが走りながら背後を何度も振り返る。焦りに染まっているが、その整った容姿のためか、焦る姿すら妙に絵になる。 しかし師は振り返ることなく、涼しい顔で肩をすくめた。 
「君は騒ぎすぎです。追ってくるのは彼らの自由、逃げるのは私たちの自由。捕まる自由は生憎持ち合わせていませんが……世の中、そうやってうまく回っているんですよ」 「うまくって……そもそもなんであの貴族があそこまで怒ってるんです!?また何か盗ったんですか?」
 訝しげにヴェングルを睨むレオナルド。ヴェングルは顔に浮かぶ薄い笑みを崩さず、わざとらしく首を傾げた。 「何か盗った、とは失礼ですね。ただ少しだけ彼の退屈な財産を動かしてあげたのです。感謝されるべきではありませんか?」 「財産を動かす……?」 
レオナルドは眉をひそめるが、その直後、思い当たる節があるかのように目を見開いた。 
「まさか人様の財産を売り払ったんですか!?」 ヴェングルは軽く笑いながら、逃走開始から初めて振り返った。 
「ほらほら、そんなに目を丸くしないでください。美しい顔が台無しですよ。指輪の行方についてはどうぞ安心してください。もうとっくに誰かの手元に渡っていますから」 「売ったんじゃないですか!」 
レオナルドが思わず声を荒らげると、ヴェングルは優雅に手を振って制した。 
「売るという表現はいただけませんね。むしろあの指輪に新たな価値を与えたと言いましょうか。役目を終えた品をただ眠らせるより誰かの役に立つ方が良いでしょう?」 「言い繕ったって盗品転売は変わらないじゃないですか!?」 
呆れながらも、背後の騒ぎに気を取られて再び振り返った。追っ手はなおも距離を詰めてきている。 「しかし彼らも必死ですね。指輪を盗られたと知った時のあの貴族の顔、しばらく忘れられませんねえ」 「盗ったんじゃないですかあ!!」 
楽しそうに笑みを浮かべつつも軽快な足取りを崩さない。 
「ところで、いい加減君も学びましたか?美しさは武器にもなると。あの貴族が私を信じ切った顔……あれこそが私の力です」 「私は真似したくありません!それに、こうやって怒りを買うのがオチじゃないですか!」 
レオナルドはそう言いながらも、ヴェングルの飄々とした態度に一抹の安心感を覚えている自分に気づいていた。 後ろを振り返ると騎馬兵がさらに距離を詰めている。焦りを抑えきれずヴェングルに詰め寄った。 
「このままだと追いつかれます!何か手を打たないと……!」 「君もようやく状況を楽しむ余裕が出てきましたね。そうです、何かしないといけませんよね」 
ヴェングルはそう言って立ち止まり、にやりと笑った。 「まさか戦うつもりですか?」 「いいえ、そんな野蛮なことはしませんよ。本当は君にやらせたかったのですが、私が逃げ切る方法を教えてあげましょう」 
フッと微笑んでから左肘から先を上に向け、右腕を下に下ろす独特の構えをとる。その瞬間、ずらりと背中から無数の黒い腕が現れてそれぞれの指が蠢く。太陽教の主神の像にも似たその姿から発動したのはヴェングルが得意とする魔法、魔力の腕だ。 「魔法なら二重どころかこうして多重詠唱すらできますしねぇ……さ、いきますよ」 全ての手から小さな魔力が起きる。初級も初級、小さな風を起こす魔法だ。しかしヴェングルの全ての腕から放たれたそれは風が渦巻き、竜巻となって土埃が舞い上がる。 「走りますよ、これでしばらく私達を追えなくなるでしょう」
「た、竜巻で目眩し……自由すぎる……」 「自由、良い言葉じゃあないですか。それを学ぶのも君の成長の一環です。さあ、急ぎましょう。次の町ではまた新たな財産を“動かす”計画を立てなければなりませんからね!」
 その声は楽しげで、風に乗って響いた。レオナルドはその無邪気さに半ば呆れ、半ば振り回されながらも、その背中を追い続けるのだった。