「よろしい」  とひんやりした声が言った。 「エビルソードが魔王軍より出奔。行方はようとしてしれず」  彼女は椅子に腰掛けて、報告者を見た。動かぬ微笑に反して、隠しきれない黄金色の瞳が興味深げにくるくると回っている。陶器でできた人形のように美しい女だった。艶がある金髪と白い抜けるような肌。その身を覆う柔らかな布地は花のよう。その様子に、王妃様が悦んで下さると気づいて報告者のノエミ・ブーランジェは顔を赤らめて言った。 「はい!」  元気のよい声が王妃の部屋に響く。パンのよい香りが王妃の鼻をくすぐる。ノエミの笑顔はふっくらしたパンのようだ。彼女のパンはとてもおいしい。お客の話題もまたおいしい。三日ごとのパンの配達ついでに十分間の謁見を行うのが、王妃の密かな情報収集だ。紙袋いっぱいのパンは、まだ温かな香りを午後の執務室に漂わせている。  あとあと、と早口で語りかける少女の話題は的確だ。 「魔王軍内は統制が引かれ話題に触れるものはいないようです。パンを買いに来てくれる魔族が言ってました。魔王軍の知り合いは聞いたことがないと言っていたって。  でも……実際噂はご存知なのでしょう? シュガー・ディ・レンハート様」  さあ、と名前を呼ばれたシュガー・ディ・レンハート王女は目を細めた。ノエミは拳に力を込める。 「魔ジオで聞きましたから!」 「魔ジオで?」  魔ジオとは、魔王軍の天才的頭脳、技術開発部門の責任者でもあるエゴブレインが開発した魔放送受信装置である。元魔王軍の地でもあったレンハートでは魔ジオ放送が盛んなのだった。シュガーは余り興味がないが……なるほど、ノエミはたしかにそういうものが好きそうだ。 「なにを聞いたの? 報道番組かしら」 「いいえ魔サハルの不屈の魔ジオです」 「魔サハル?」  シュガーは繰り返す。  魔サハルは魔族の歌手だ。不屈の人気を誇りながら奢ることなく地道な活動を続けている。ときおり交えるギリギリな笑いに根強いファンが多い。そんな魔サハルが深夜の魔ジオで呟いたのがきっかけだった。 「ま、でもね、どこも大変なんだよ。ペンネーム、ニオウダチくん」 朗らかな口調で魔サハルがリスナーの質問に答えている。 「どんなに君が武器に詳しくても、女心に詳しいってわけじゃないだろ? パンだってそう。食べてみないと味はわからない。  そうだね。君もさ、気分転換に旅にでも出たらどうだろう。エビルソードみたいにさ」  シンとした空気が、ノエミの耳にも聞こえたという。魔サハルは空気の変化に気づかないみたいな感じで、ちょっと驚いた声を出した。 「魔王軍からエビルソードが突然いなくなったんだよね。原因は不明。  なんでだろうね。あんなに強いのに。彼の考えること全然わかんない! それでは次の曲は皆さんご存知のメロディ。 魔族になろうよ」  なるほど。  事の次第はわかった。  シュガーは魔ジオは聞かない。アクティブなのだ。天井の低い王妃の執務室は、どこもふかふかのクッションで覆われている。赤に緑のグリルのついた質のよい弾力は、彼女が一人になったときにボヨンボヨンして遊ぶためだ。重苦しいドレスを脱ぎ捨てて。全てを! 解き放て! しかし国の中枢となればそうはたやすくいかない。  やらなければならないことはたくさんある。それは勇者一行として戦っているときよりも断然楽だが、退屈であるのも間違いない。魔ジオだってしっかり押さえることで多くの情報を手に入れることができるはずだが……。  もしウァリトヒロイのイーンボウなら、情報収集班を立ち上げ魔ジオをしらみつぶしに確認していたろう。しかしながらシュガーは考えたこともない。勇者として戦ってきた彼女に、身内以外に頼ることは出来ない。  さっきまではただ周囲に漂う話題でしかなかった。それが今では噂となって立ち塞がる。噂はないけどあるもの。情報として扱うには密度が低く、井戸端会議で扱うには刺激が強い。 「あの……王妃さま、そろそろ」  店に戻りたくてそわそわし始めたノエミ。彼女に不安げな表情が浮かぶ。今、大好きな王妃様の空気が変わった気がして。自然な笑顔を浮かべて礼を言い、シュガーはかわいい客人を部屋から送り出した。次に彼女は手を叩く。 「リグルード」 「は」  角の生えた従士が入室してくる。レンハートにふさわしい柔らかな色合いの服は折り目正しい。彼こそがダースリッチの軍属から逃げ出し、レンハートに就職した〝新鋭〟リグルードであった。彼からうけとったあたたかなミルクを運ばせ口をつける。甘味がとけた白い液体に舌鼓を打ちながらノエミのクロワッサンを割り、シュガーはひとりごちた。勇者の国レンハート。魔王軍を大きく打ち破り国を成した勇者王の国。毎日楽しいことをやるために国を作った。目指すはドッティモみたいな楽しい国。しかし勇者であるからには悪は許せなかった。強い勇者を作るのも当然ながら目的だった。口ばかりの勇者未満と、自虐的で生き急ぐ故勇者たち。それはカンラーク防衛で戦った千人の聖騎士たちと比べてどうだろうか。  ぐるぐる巡る思考に強く瞼を閉じたシュガーの意識を逸らしたのは、美味しそうなパンのにおいと、側に立つヨダレを垂らす魔族の存在だった。 「パンのにおい、やべーっすね」  リグルードが言う。だろ? とシュガーは唇の端を上げた。やや親しくなりすぎたか、いつもの口調に戻ってシュガーは勧める。 「あなたもどう?」 「いや、ありがとうございます。っていうかやべーっしょ」  パンのことかと思ったら、どうやら違うようだ。シュガーが問いつめるとリグルードは重い口を開く。 「いや、この国のことっす。正直人材がいねーんですよ」  遠慮なく口を開くリグルードに不快感はない。魔族との共存がある意味では最も進んでいるのがレンハートと言ってもいいだろう。そしてそれは無能であってはならない。無能な仲間は要らない。無能であったなら、レンハートは国となれなかったろう。  クロワッサンを頬張りつつリグルードは続ける。挟まったハムとレタスの妙味が心地よい。端正な顔に、眉間の皺を一筋刻んで彼は遠慮なく言った。 「この王国は現在王妃様の存在感でもってるようなもんっす。王妃様が一人で頑張ってる。あとの連中は、まあお祭り騒ぎが好きなカスっすね」  いつもの遠慮ないやり取りだった。いつもなら王妃は、まあそんなこと言うもんじゃないわ、と笑って流すのに。  シュガーは少し静止した。  突如として訪れた沈黙に慌ててリグルートは付け加える。 「あ、いや。このままだとダースリッチみたいになっちまいますよ。王妃様、いま一人でどうにかしようと思ってますでしょ」  リグルードは頭がキレる。キレるからこそ業務がダースリッチに一本化しすぎた魔王軍に見切りをつけて出てきた。けれど悲しいかな。空気を読む力がなかった。あれば今頃ダースリッチの下で、その頭髪を薄くしていただろう。  四天王も魔王軍も、あの人がいなくなったらおわりっすから、と断言するリグルードにシュガーは問いかけた。 「エビルソードはどう?」  リグルードはカサカサに乾いた唇を、 湿った雑巾みたいになった舌で拭って続けた。ようやく彼は自分が踏まなくてもいい猫の尾を踏んだことに気がついた。 「はあ、まあ、あの人いなくても魔王軍は回りますからね」  リグルードは食べかけのサンドイッチを握ったまま、言葉を繋げる。なんとか話題を避けようと必死だ。 「エゴブレイン様の発明と、ヘルノブレス様のカリスマが武を強くし、まとめることが出来ます。侵攻する軍としてはそれで充分。その事務処理をダースリッチがまとめるんです。やばいっしょ」 「カリスマ?」  シュガーは問う。  ヘルノブレスは魔王軍四天王の紅一点であり、しくじりの名手でもある。先のダイラント平原の戦いで浚われ、日々のなかでも拙速な手段が失敗を生み、幾度も謝罪会見を開いている。家柄だけの女。  ダイラントの戦いでも、幸運にも生き残っている女。 「まさにカリスマだね」  シュガーは立ち上がる 「生きていれば、カリスマにもなれる。  エビルソードのように武も極まる」  自室を出るシュガー。リグルードも後につづく。あくまで冷静な批評の顔で話をする。そうすることで、彼女の納得が得られると期待した声だった。 「エビルソード様は世界最高の武です。おそらくあの人に勝てるものはないでしょう。  けれどあの人は勝手に動く飛車角駒なんですよ。指し手が指す前に、勝手に飛び出す駒。そのせいで盤面の指し手の手は一步遅れるんす。たとえそれがどんな妙手でも」  将棋、と呼ばれる盤ゲームの説明を交えながらリグルードは言う。チェスでいうならクィーンです、と付け加えるリグルード。シュガーもチェスなら少し知っている。斜めに縦横に好き放題動ける駒を、詐欺だと怒ったっけとシュガーは思う。  最強の剣士は、確かにどこにでも現れた。  魔王軍から遠く離れた、あのカンラークにも。 「つまり私の息子は。  エビルソードの物語の端役だったと言いたいのね」  リグルードは答えられなかった。  大きく長く隣の塔に続く道を渡るシュガーの背をリグルードは頭を下げて見送った。  城の右の塔へと向かうシュガー、彼女の住まう塔は左の塔、左塔と呼ばれている。城から見渡せばその先に、4つの地に分かれるレンハートの全容が見える。ダイラント平原を北東に眺め古代都市群とウァリトヒロイと自国とを遮る深遠内海、南西はかなたに百獣の森の一部とエルフの霊森がかすかに見え、皆で魔族を追い詰めた神々の連峰が北西を抑えている。遠くに作りかけの塔がある。金が足りなくなったのか、それとも志半ばで命潰えたのか。  北の魔族からの攻めはズルムケウスの国が支え、南方は混乱の元だがこちらに攻めてこない安心感もある。これが、王都モトマトーの城から見える愛すべき私たちの国。いえ、あの人の国。  家族……この国……そしてユーリン。  青空を飛行機が飛ぶ。  白い雲が一筋続く。  その一点を見つめる。  緑色の機体。  空飛ぶ機械。  あれが。  シュガーは見つめる。  私の娘だ。  エアーラ・ディ・レンハート。  勇者の娘と生まれ、あの姿で生きることになった。無機質と化して空を飛ぶことしかできない女の子。  人造生物バックドアシリーズの娘だから。  多分当然の結果なのだ。  長男は亡くなった。勇者に憧れて、カンラークに行き、聖騎士を志願して、死んだ。  コージン・ディ・レンハート。  晴れの日を家族で見送った。千人騎士団の団長キョウディエンドは言った。カンラークでは真の勇者を求めています。御子息も立派に名をなさしめるでしょう。  確かに名は残った。  故人として。  悲報を受けて私は泣かなかった。勇者として死んだのでしょう本望ですと言った。  そして。  ユーリンは動かなかった。  魔王を倒した勇者は立たなかった。  悲しんだ苦しんだ、のかもしれない。ただ口元に浮かんだのは優しいほころびだけだった。勇者として立たなかった。王であることを選んだ。  もしもっと早く夫が立てばとは言わない。そんな仮定を夢見ても仕方ない。  ただ。  私が母だったのがいけなかったのだ。  大きく息をつく。  あの男。エビルソードの名を聞いたからだ。心が落ち着かない。  衛兵たちに見守られ塔と塔をつなぐ道を進むシュガーの目が伏せられた。 「お母上!」  第四王女が駆けてくる。メラニー・ディ・レンハートだ。生意気な少女の表情も母の前で和らぐ。続いてクルーズ・ディ・レンハートが母の身体に抱きついた。 「まあ、メラニー。クルーズ」  彼女の表情が優しくなる。  。父親似の赤い髪と、母似の生真面目な顔が二人ならんで母を待っていた。  獣人の血を汲む子供の成長は早い。二人の成熟が早いのもそのせいだ。だからコージンもスクスクと育った。もし10歳程度の子供に見えれば、きっとあの極秘卿も息子を守っただろう。そうは見えない才能ある息子だった。コージン。私と同じ。金髪の髪。  メラニーとクルーズはユーリンに似た赤い髪。勇者の髪。  そらをとぶみどりいろのひこうき。 「おねさえさま今日はご機嫌がいいみたいですね」  クルーズが手を振る。気持ちよく空を飛ぶ。レンハートの空に花火が上がる。その飛行を讃えるみたいに。  これがレンハート勇者王国。  レンハートの王家家族。  仲良しな勇者の一家。  笑顔で慈悲を賜ってきた王の国。  ばんざーい。ばんざーい。  水着姿の勇者たちが歓呼する。  レンハートばんざーい。  ユーリン王ばんざーい。 「お母様 なにをお悩みですか!」  ふらついて床に足をつく母をクルーズが支えた。 「いえ、お母様のお苦しみ、あたしたちもわかっています!」  息子と娘の声に、シュガーの肌に血が通ってくる。クルーズが真剣に言った。 「聞きましたよエビルソード出奔の話!」 「ほんとうか嘘かみんな頭をなやませてます」 いかにも子供らしい奇襲の仕掛け方だ。ただ二人が話しかけてきたのには意味がある。シュガーは理解している。この件について王家がどう思っているのか、周囲の衛士に聞かせたいのだ。  今こそエビルソードを討つべきだと王家が決断すべきだと。兄の仇を討つべきだと子供たちは思っているのだ。それこそが勇者なのだと。勇者の立ち位置が、どこにあるのかを。  あらあら、とシュガーはなにか語りかけようとした。  国母の顔で。  そのとき、巨大なソリビジョンが市のなかに立ち上がった。 〝こんにちは、仮面魔候リャックボーです。魔野球がうまくなるには練習内容が大切です。今日は僕がおすすめする慈ップ悲ットをご紹介します。〟  ときおり立ち上がる電子広告は魔王軍の残した魔放送の名残だ。もっともレンハートもこの機能を使ってブレイブバトルの実況などやっていたわけだが。  シュガーのことなんて見もしない魔族の手先リャックボーが能天気に自分の商品の宣伝をしている。  シュガーはしばらくそれを見て。 (なにあれ……ちょっと欲しい)と思った。  結局、シュガー・ディ・レンハートが向かったのは夫のところであった。  彼は寝台に寝そべり、穏やかな表情を浮かべている。まるで妻がここに訪れるのを知っているかのように。 「やあ、我妻。そして子供達」  勇者王はいつもとかわらぬ様子でそっと両手を広げる。彼は信じられないほど穏やかな男で、第4王女メラニーは彼の本心を理解出来ずにいた。優しくしてくれるのはわかる。ただ父のそれがどこまで本心なのかは、子供達にも理解出来てはいなかった。  母の心はわかる。  何故そこまで美しく理想の国母でいられるのかわからない、そう賞されるシュガーの本心は子供達のまえでは遠慮なくさらされるからだ。ぐいっとシュガーの服がはだけ、なめらかな肩甲骨が二人のまえに披露された。 「あ・な・たー!」  服から飛び出た裸体が一直線に寝台の上の夫の上に飛びかかる。またはじまったわ、とメラニーは思う。ほんとお母様ったらお父様大好きなんだから。 「はいはい、クルーズ、出るわよ」  父と母が仲良しなのは王家の側にいるものは誰でも知っている。 「え? でもいつものことじゃない」  とまどうクルーズの背を第4王女は押しながら苦々しく思う。お母様ったら、家族の前だとほんと隠さないんだから。  子供達がいなくなるとシュガーはそっと夫、勇者であり王である彼の首に手を回した。その間もシュガーの頭部上部に生える耳は周囲に本当に誰もいないかを探る。盗み聞きしている者がいないかを探るために。 「あなたも聞いてるでしょ? エビルソード出奔の噂。魔王軍を出て行方がしれないってこと」  黙って聞いている夫の耳に、シュガーは一度噛み付くと、小さな傷を癒すようにチュッチュと吸って言った。 「あの最強の男が突然姿を消すなんておかしいわ。本当かしら。  でもまあエビルソードなんて、ただの小物よね。  魔王モラレルに比べればよっぽど。  それでもさ。  なにか謀略の匂いがしない?」  妻の問いにすぐには答えない。ユーリンは囁く。 「謀略ってどういうものだと思う? シュガー」  気だるい声をユーリンが出すので、王妃は彼の鎖骨に頭をスリスリして応えた。 「悪い奴らが勝手にコソコソ何か話し合って、それを既成事実にしちゃうことかな」 「そうだね。そして」  ユーリンが告げた。 「勇者には無意味なものだ」  あは、とシュガーは笑った。  笑いが止まらなかった。  勇者王ユーリン。魔王を屠り国を建てし者。その研ぎ澄まされたシンプルな答え。  そうだ。  魔族が何を企もうと、ユーリンは叩き潰す。わたしのユーリン! わたしの勇者!  なぜか私を選んだ愛しい勇者様。 シュガーは猫撫で声を出す。 「ねえユーリン、こっち向いて。恥ずかしがらないで」 「向いてるでしょう?」 「シュガー頑張ってるでしょ、ご褒美欲しいなあ。ご褒美ご褒美!」  そっと彼女の髪を撫でながらユーリンは答える。 「試練の宝玉の正体がそろそろ正確に分かりそう……それじゃあダメかい? 王妃様」 「シュガーね? 王妃の仕事いっぱいいっぱい頑張ってるの! 慈悲深い王妃の顔をずーっとしてるのよ?   ほんとうにいっぱいよ?  だからさあ。  もっともっともーっと大きな宝が欲しいな」 「なんだい、かわいい泥棒猫ちゃん。何をとってきたいのかな」  変わらず穏やかな勇者王の声。ただその手はピタリと動くのを止めた。王に触られてくねる王妃の尻尾の動きが止まった。とびっきりの笑顔で彼女は言った。 「それじゃあ言うね。  お願い勇者王さま。  ……僕に魔王モラレルの首を取れと命じろ」  黄金の瞳がユーリンの顔を見つめた。  彼の目の前には、出会ったばかりの頃の彼女がいた。  彼の表情は変わらない。そっと顔を近づけたのは接吻のためではなかった。  待ちなさいシュガー。 「すぐその時が来る」  シュガーの返答は口付けだった。  今すぐ欲しいものがダメなら、次に欲しいもので代行するしかなかった。