「ジャーニーって、いつからそのトランク使ってるの?」 遠征支援委員会の会議室。我が担当──ドリームジャーニーの根城とも言えるその部屋の片隅には、彼女が愛用している旅行鞄が鎮座している。いつもは栗東寮の彼女の部屋に置いてあるものだが、今日は蝶番に油を差すために広い机のある場所に持ってきていたのだった。 一見しただけでも、かなり古いものとわかる。そもそも最近は旅行鞄自体が古い道具になっている気もするが、彼女は自分で手入れをしてまでも使い続けているらしい。 「ちょうど高等部に進学した頃でしょうか。古い品ですが実用には十分に耐えますし、何よりも…風情がありましたから」 よく鞣された黒い牛革のしっとりとした艶は、確かに彼女の大人びた雰囲気によく似合う。愛おしそうに留め金を指でなぞる姿を見ていると、ますますそう思えた。 「そうなんだ。いいなぁ…アンティークってちょっと憧れちゃう」 「ふふ。よろしければ、馴染みの店をご紹介しますよ?」 「えー?でも、私に似合うかな…」 彼女が纏う香水の匂いに浸るように、私はそんな彼女の大人びた振る舞いに身を任せるのがすっかり好きになってしまっていた。 彼女のトレーナーとして、大人としてはもっとしっかりしなければいけないのはわかっている。けれど、目を細めて微笑む彼女を見ていると、私だけでなく彼女もそんな時間を好いてくれているのではないかと勝手な期待をするのがやめられない。 「アンティークの魅力は、時間とともに使い込まれて熟していく過程を味わえることですから。 例え今まで似合わなくとも、似合う貴女に変わってゆく時間も、素敵だと思いますよ」 私の憧れを優しく受け止めてもらえることが、どうしようもなく幸せだと思えたから。 そんな彼女の小さくて大きな背中がドアの向こうに消えた後も、幸せで満たされた時間の温度は心の中に残り続ける。彼女の纏う香水の匂いが、脳裏に染み付いて消えないのと同じように。 それにしても、改めてまじまじと見ると彼女の旅行鞄には驚かされる。古びているのに汚れていないのは、きっと彼女が丹精込めて手入れをしてきたからだろう。ワックスを取ってくると言って彼女は出ていったが、あの小さい手がまるで靴磨きの職人のように、この革の肌に黒く上品な光沢を与えてゆくのかと思うと、なんだかそれだけでわくわくしてしまう。 そんな妄想に浸っていたせいか、僅かに開いた鞄の口から何かが覗いていることに気づくのが遅れてしまった。 親しい仲とはいえ人の鞄を開けるのは気が引けて、鞄の外に出た部分で推測するに留める。 「…?」 それはどうやら、何かの持ち手のようだった。硬質ゴムで覆われたグリップは、同じ黒だが鞄の質感とは随分と違う。 しかし、持ち手だけではそれが何かまではわからない。もう少し覗き込んで、その先まで見てみようと思った矢先に。 「おや、どうしました?」 彼女の落ち着いた声が、そっと背中を叩いた。 彼女の声は、いつも低く穏やかに響く。どんなときにも動じない声音は、その分だけ疚しい心を揺さぶるのだと、彼女の目に留まった不届き者達の末路が嫌と言うほど教えてくれた。 「…あっ… ごめんね、何入ってるのか気になっちゃって…」 自分でその気持ちを味わってみて、それがありありとわかった。彼女の深く妖しい瞳の前では、隠し事をしようとする気さえ失せる。 正しく、蛇に睨まれた蛙のそれだろう。だが、その優しくて美しい蛇は獲物にも慈悲を与えるのだ。 「…何だと思いますか?」 挑発するようなその声に惹かれて、想像がどんどんと過激な方向に向かってゆく。何か見られると不都合なものが入っていて、今から私はその秘密を洩らさぬように、彼女に何かされるのではないかと。 彼女の微笑みは、こちらを見据えて離さない。怯えて何も言えないでいる私の心を、隅まで見透かすように。 そんな彼女の表情とその手が掴んだ持ち手の先を、交互に視線が行き来する。それを見計らったかのように、彼女は件の荷物を一気に取り出してみせた。 「登山用のステッキです。トレッキングも多少嗜んでおりますので」 鞄に入るように小さく畳めるステッキは、持ち手だけを見れば確かにナイフの類に見えなくはない。だからといってそれだけで怯えて答えに窮する代物ではないことくらい、まともな思考を取り戻した頭には自明の理だ。 危険なものでも、不都合なものでも何でもない。ほっと安心した私の顔を見て、彼女の微笑みがからかうようなそれに変わった。 「…何が入っていると思いましたか?」 顔から火が出そうだ。彼女の雰囲気にあてられて子供のように妄想を逞しくしていたのが、すっかりばれてしまっている。 「ふふふっ。 驚きましたよ。意外と想像力の豊かな方なのですね」 「…許して…本当にくだらない妄想なんです…」 「どうか気に病まずに。私はとても楽しかったですよ」 優しく穏やかなその声が、逆に私の子供っぽさを際立たせているように思えてならない。平凡な自分の底の浅さを見抜かれて、その上で慈しむように包まれたような気さえする。 「それに、本当に隠しておきたいものは、隠していることにも気づかせないのが理想的ですから。 相手の心の中に隠す、とでも言うのでしょうか」 「…!」 そして、そんな彼女の底は未だに見えない。覗こうとすると少し怖くなるくらい、彼女の瞳の輝きは深いのだ。 けれど、それでも。 怖いと思う以上に、そんな彼女に惹かれてしまっていた。 そんなささやかな思い出から、幾日か過ぎたある日のこと。 彼女の旅行鞄は、またしても私の前に鎮座していた。 「これ…」 今、彼女が手に抱えている赤い薔薇の花束は、今しがた彼女がその鞄から取り出したものだった。 「お渡しする前に、もう一度だけ質問をさせていただいてもよろしいでしょうか。 …今日は、何の日だと思いますか?」 彼女の微笑みは、あのときと同じように深く優しい。けれど、私の心はもう怯えていなかった。 その彼女の問には、自信を持って返答できた。 「私とあなたが、契約した日」 何も言わなくても、ゆっくりと嬉しそうに持ち上がった彼女の口の端が、正解だと告げてくれた。 「…覚えててくれたんだ」 「貴女こそ」 彼女はいつも冷静で、私なんかよりもずっと大人だ。 だからこそ、そんな彼女が素直に想いを伝えてくれることが、心から嬉しいと思える。 「私にとっては、家族の誕生日にも劣らないほど大切な日ですから」 赤い花は情熱の色。 静かな彼女の内に秘められた情熱に惹かれて、私は彼女とともにいることを選んだ。 「全然気づかなかったな。こんなの用意してくれてたなんて」 「前に申し上げたでしょう? 本当に隠したいものは、隠していることにも気づかれないようにするものだと」 その冷たい炎で、胸をゆっくりと焼かれてゆくのが、痛いほどに心地よくて。 「貴女の心の中は、随分と隠し場所が多いようだから。時々心配になるのです。 ですから、私の気持ちも、その片隅に置いていただけませんか」 ごめんね、ジャーニー。 私は大人なのに、いつまで経っても貴女より子供のままなんだ。 「ありがとう…!」 貴女にそう言ってもらって、それでもクールに振る舞うなんて、いつになってもできそうにないから。 嬉しさに振り回されるように、彼女を抱きしめたままくるくると回る私を、やはり彼女は穏やかに笑い飛ばしてくれた。 「…ふふふ。 そんなに抱きしめては匂いが移ってしまいますよ」 「いいの! だって、私もジャーニーのこと大好きだから!」 そんな私を抱き返してくれた小さな手の感触は、きっといつまでも忘れないだろう。 この小さな手の温もりが、こんなにも心を満たしてくれるのだから。