ベッドの上で、一匹の黒猫がゆったりと毛繕いをしている。 だが、自分は猫を飼っていない。目を擦ってもう一度よく見ると黒猫はそこにおらず、自分の担当ウマ娘──マンハッタンカフェの艶やかな黒髪が、吸い込まれそうな夜の闇と同じ色をして靡いている。 最近、そんな幻覚に苛まれるようになったと他の誰かに話したら、なんと言われるだろうか。ゆったりと尻尾を揺らす彼女は、確かに可愛らしい黒猫に似ている。 彼女の周りで時折起こる、超常現象のひとつなのだろうか。あるいは、彼女に特別な想いを抱いているせいで、自分が可愛らしいと思うものの姿を、無意識に彼女に重ねてしまっているのだろうか。 どちらにしても、これを誰かに話すことはないだろう。振り向いた彼女の微笑みはひどく柔らかくて、幸せならなんでもいいやと思ってしまう自分が、確かにそこにいた。 それにしても、今日の彼女は上機嫌に見えた。物静かな彼女が感情をはっきりと顕にすることはほとんどないが、尻尾と耳をこうも楽しそうに揺らして、珈琲のマグをゆったりと傾ける姿は実に微笑ましい。 「なんかいいことあった?」 隣にそっと腰掛けると、揺れていた彼女の尻尾がこちらの腰を囲うように、優しく巻きつけられた。少し長く話していたいときにする仕草を見て、ついこちらも笑みが溢れてしまう。 「写真の整理をしていたら…久しぶりに見つけまして」 こちらに向けられた携帯の画面には、彼女と同期の友人たちが、青い海と白い砂浜に駆け出す姿が写っていた。 「あのときはびっくりしたな。タキオンがイベントを担当したんだっけ」 「ええ…初めはどうなることかと思いましたが… 終わってみれば…案外、楽しいものです」 彼女の友人たちの癖の強さは、穏やかな彼女の世界に良くも悪くも波乱を持ち込むものだ。だが、そのくらいでなければ彼女の友人は務まらないのかもしれないし、当の彼女も付き合いを続けているのは、その時間をなんだかんだと楽しんでいるからなのだろう。 彼女のマグの隣に自分用のそれを置いて、暫しの間写真鑑賞に浸る。合宿の記憶を振り返る彼女は、長い付き合いの中でもそうないほど饒舌に、ひとつひとつの写真を撮ったときの想い出を話してくれた。 そして、上機嫌になると彼女は少し悪戯好きになるというのも、長い付き合いの中でわかってきたことだ。腰に回された尻尾の先が刷毛のように肘を梳くと、こそばゆさに思わず体が揺れてしまう。 「くすぐったいよ」 「ふふ」 しばらく彼女はこちらの身体をゆっくりとくすぐっていたが、その動きが急に止まった。なのにその表情は相変わらず少し嗜虐的に微笑んでいて、何故なのか少し考えてしまう。 だが、その答えはすぐに知れた。彼女の携帯の画面が、いつの間にか一枚の写真に変わっていたからだ。 彼女の、水着姿。黒いフリルの付いたビキニに、夏の海の色をそのまま纏ったような水色のサテンの上着。いつもは天幕のように下りていた前髪をかき上げて覗く、真っ白な額と丸く大きな瞳。 普段の大人しい彼女からは想像できないほど大胆で、なのに彼女のために誂えたように似合っている。 言えるはずもない。その髪を千々に広げて、青い海とひとつになろうとしている姿が、まるで妖精のように思えて。 「この日のために、用意したものだったのですが。 まだ…感想を伺っていなかったな、と」 ──つい、見惚れてしまっていた、なんて。 こちらをじっと見つめる彼女の瞳は、あのときと同じようにきらきらと、夜の闇の中に光る猫のそれのように輝いている。その目で見つめられるとつい大人としてふさわしくないことまで口にしてしまいそうになるが、ぐっとこらえて当たり障りのない、けれども本当のことを伝えた。 「かわいいよ。よく似合ってる」 そう告げると彼女は少し目を細めて、満足そうに微笑んだ。これでいい、という意味にも、このくらいにしておいてやろう、という意味にもとれるその笑顔に、もう一度心を揺さぶられた気がした。 「…ありがとうございます。一緒に潜って見た海の中を、覚えていますか? 綺麗でした。写真に残せないのが、残念なくらい」 「うん…本当にね。もっと息が続けばよかったのに」 彼女と一緒に海に潜って、魚たちと戯れたことを思い出す。水の中の世界を見つめる彼女は本当に楽しそうで、彼女より到底息が続かない自分に合わせて一緒に上がってくれるのを、申し訳なく思うばかりだった。 「いいえ…あの景色は、あなたと一緒に見たかったものですから。 ですから…また一緒に、泳いでみませんか」 「そうだね。それもいいね。 でも、今から海に行くのは難しいかも」 上目遣いでこちらを見つめる彼女の期待を裏切ってしまうのは心が痛いが、今回ばかりは致し方ない。確かに今は連休で、大きなレースもないからスケジュールとしては問題ないのだが、折悪く大型の台風が上陸するとの報を受け、海水浴場は軒並み閉鎖中なのだった。 彼女はしばらく、何も言わないまま俯いていた。さっきとは打って変わってその表情は伺えず、落ち込ませてしまったかと心配になって顔を近づけてみる。 だが、その瞳を覗き込む前に、彼女の手がそっとこちらの手に重ねられた。 「…海を感じると、思い出すんです。 あなたの手が、とても温かくて心地よかったことを」 そのとき、思わず自分の手を見返してしまった。彼女が触れたその一瞬だけ、確かに冷たい水に触れたような感触がしたからだ。 手が冷たい。なのに胸の奥は、冷たいはずの手から柔らかな熱が流れ込んできて、じんわりと熱くなってきている。 「あなたのことが、こんなにも愛おしくて仕方ないことを」 どぶん、と。 水の中に飛び込むように、彼女が腕の中に飛び込んでくる。その重さに身を任せるまま、ふたりして布団の中に沈み込む。 「だから、あなたも感じてください。私の海を」 微笑む彼女の両手が、耳をそっと、優しく塞いだ。彼女の胸に抱きかかえられたまま、その温もりと珈琲の香ばしい匂いが身体を満たす。 ああ、何もかも彼女でいっぱいだ。 そう思いながら目を閉じるのがどうしようもなく幸せで、あっさりと意識を手放していた。 微睡みの中から、ゆっくりと意識が浮かび上がる。だが目の前に広がる景色は、見慣れた自分の部屋ではなかった。 真っ白な砂浜が月の光を吸って、甘く柔らかく光っている。何も聞こえなかったはずの耳が、優しく打ち寄せる波の音で満たされていく。 なにもかもが幻想の世界で、彼女が目の前に立っていた。あのときと同じ、黒い水着に水色のサテンを羽織って。 目を細めて微笑む彼女を、ゆっくりと抱き寄せた。 「本当は、こうしたかったんだ。言えなかったけど」 「ええ…どうか、あなたの望むままにしてください。 ここは、誰にも邪魔されませんから」 これはきっと夢なのだろう。彼女が見せてくれた、何よりも美しい夢。でも、それでいい。朝が来たら一欠片も残らずに消え去ってしまうとしても。 錯覚もまた、知覚のうち。 こんな美しい幻なら、ひとつ溺れてみるのも悪くない。 ゆっくりと波が押し寄せて、自分と彼女を海の中へと誘う。 彼女を離さないようにふたりで流れに身を任せて、月の光が溶けた水の中を、ゆっくりと潜っていく。 冷たくも、苦しくもない。彼女の世界はそういうものだと、ちゃんと知っているから。 腕の中にある優しくて温かい常闇を、もう一度ゆっくりと抱きしめる。こんなに美しい世界へと招いてくれたことが、心から嬉しくて。 やっぱり、きみの言う通りだ。 海を感じていると思い出す。 どれだけきみを、愛しているのか。 見えないものに取り囲まれて。 幻の中に連れてこられて。 それでも、微笑みながら私を抱きしめてくれる彼が、どこまでも愛おしかった。 だから、連れて行ってあげたい。私が知っている、いちばん美しいところへと。 さざなみだけが優しく打ち寄せる、群青色に凪いだ夜の海。 ここが、私の世界。あなたがすくい上げてくれた、私だけの世界。 息の仕方を教えてあげないと。 私はここで、ずっと息をしていたから。あなたはそんな世界と一緒に、私を愛してくれたから。 月の光が、そっと海に融けてゆくように。 私の温度が、あなたの唇に柔らかく融けた。 自分を目覚めさせたのは朝の光ではなく、優しく頬を撫でる細く柔らかい指の感触だった。 瞳を開いてみればそこはよく見慣れた自分の部屋で、夜の闇の中に彼女の穏やかな微笑みが、優しいランプの光に照らされていた。 「よい夢は…見られましたか…?」 なぜそう思うのかは聞かなかった。彼女に揶揄われてばかりは悔しいから、今度は自分が彼女を転がしてみたかった。 「うん。本当にいい夢だったよ。 …夢の中のきみと、いっぱいキスした」 拗ねた表情も、また良いと思えてしまう。自分はもう立派な中毒患者で、彼女の作る美しい幻に溺れているのだろう。 それでいい。溺れてしまうくらい、彼女の海に飛び込んでみたい。 「今の私にも…触れてもらえなければ困ります」 悪戯っぽく微笑んだ彼女が前髪をそっと持ち上げると、真っ白な額が顕になる。 「おでこだけでいい?」 「…いじわる」 海の塩辛さと、珈琲の苦さ。 彼女の唇は、現でもそんな味だった。