ごろごろ。ごろごろ。 体勢を変えても落ち着く場所が見つからないのは、まだ身体が眠たくない証拠だ。かと言って何かしたいことがあるわけでもなくて、時間の歩みがひどく遅く感じられる。 平たく言ってしまえば、アタシは退屈していた。そう言うと何ということはない日常の一幕に聞こえるけれど、アタシにとってはかなりの異常事態と言っていい。 楽しいと思うことのために人生の大半を費やしてきたアタシには、退屈というのは最も縁の遠い言葉だった。だというのに、今は何かしようという気分が湧いてこない。 いや、正確に言えばやる気がないのではない。何かしようと何度も考えはしたけれど、その度にあることが心に引っかかって切なくなって、結局はまたハンモックに身を沈めてしまう。 いつもあるはずのものがないということは、これほど強烈な違和感を与えるものなのだと、アタシは今まで知らなかった。無意識に彼を探して顔を上げては、今はここにいないことを思い出して、少し寂しくなってもう一度身を横たえるということを昨日から繰り返している。 「…んー…」 気の抜けた声が部屋の中に響く。彼に聞かれないからこそこんな声も出せるのだが、アタシはもうすっかり彼がいない時間に飽きてしまっていた。 彼が出張に出たのは昨日の朝早くのことだった。なんでもアタシを育てた実績を買われて地方のトレセンの視察メンバーに選ばれたらしく、誇らしいと思う一方でアタシが付けた翼が彼を逃がしてしまったようにも思えて、なんだか複雑な気分だった。 決して独りの時間に耐えられないわけではない。彼は不在の間も不自由がないように取り計らってくれたし、思い立ったら駆け出すことに何の遠慮も要らない独りの散歩は、彼と一緒にいるときとはまた違う喜びがある。 だが、独りの時間を満喫して家に帰ると、今度はいつも優しく出迎えてくれる彼の声が余計に恋しくなってしまった。独りで楽しめることをやり尽くしたあとに、彼と一緒に過ごす時間をゆったりと楽しむ贅沢に身体が慣れ切ってしまって、欲しいものがそこにないという切なさだけが今は心に居座っている。 彼が家に来るようになってから随分と経って、いつの間にか彼と過ごす日が独りでいる日よりも多くなった。独りの気楽な時間と同じくらい、彼と話す時間が好きになっていた。 「…むー」 なのに、彼はここにいない。彼はちゃんと伝えてくれていたのに、理不尽な怒りがアタシの心を駆け巡る。 アタシはこんなにきみが欲しいのに。 なんできみは平気な顔をして、独りで行っちゃったの、なんて。 「あっ」 そうやって拗ねるのも何度目かになった時に、ふと思い出したことがあった。彼は家を出る前に色々なことをしてくれていたが、そのひとつがまだ手つかずで残っていたのだ。 「ふふっ」 退屈の中にふと訪れた小さな楽しみの感触を噛み締めながら、アタシはハンモックを飛び出した。 掌の中に冷たい喜びを握りしめて、もう一度ハンモックに戻る。彼は出かける前にお菓子を作ってくれていた。 何のお菓子か言おうとする彼に、食べるときのお楽しみにしたいからまだ秘密にしてと言って、くすくすと笑われたことを思い出す。そのあとにただ、冷凍庫を開けてみてと言ったときの優しい微笑みも、なんだか今は懐かしく思える。 それにしても、冷凍庫から自家製のアイスクリームが出てきたときは流石に驚いた。こんなものを作っていたことも作れたことも知らなかったアタシの予想を、彼は実に気持ちよく裏切ってくれた。 回想に耽るのはいいけれど、アイスはきっと待ってくれないだろう。スプーンを入れたときのほどよく溶けた柔らかい感触は、アタシの予想は裏切るくせに期待は裏切らなくて、やっぱり楽しくなってしまう。 「うん。 いいね。甘くて優しい」 慣れ親しんだバニラの風味が、今はひどく新鮮に思える。しっとりとした舌触りと甘すぎない後味の中に、彼がこっそりとしたであろう幾度の練習を感じて、なんだか嬉しくなってしまった。 アイスは冷たくて気持ちいいのに、温かい気持ちが消えない。舌の上でゆっくりと溶けていったあとも、その余韻にいつまでも浸っていられる。 きみの作ってくれた味。 きみみたいな、優しい味。 でも、ひとつだけ困ったことがある。お腹はいっぱいになったのに、結局また少しさみしくなってしまった。 きみのことを思い出してしまったから。きみが隣にいたら、きっと夜にお菓子を食べるアタシを優しく叱ってくれるんだろうなと、瞼を閉じればひどく鮮明に思い浮かぶ。 美味しいからいいじゃんとアタシが言えば、少し困ったように微笑むきみの顔も、ぜんぶ。 不思議だね、本当に。 自分で旅に出るときはそんなに感じないのに、きみがいないとやけに考えてしまう。 誰かを好きになるって、なんでこんなに切なくて楽しいんだろう。 「珍しいな、シービーから電話なんて」 「あはは。話し足りなくてさ」 夜だからと同室の娘に遠慮して大きさこそ少し小さかったけれど、エースの声はいつも通り快活で、聞いていて心地よさすら覚えた。彼がいないからと昼間は彼女に構い倒して、随分とこの声に元気をもらったものである。 「ねぇ」 「ん?」 だから、その声につい甘えたくなってしまう。アタシをいつも真っ直ぐ見つめてくれる彼女の中に、どれだけアタシがいるのか知りたくて。 「エースはさ。 アタシがいないと寂しい?」 彼女は少しの間思案するように黙り込んだけれど、その張りのある声音で正直に答えてくれた。 「うーん、どうだろうな。 お前さん、よくいきなり旅に出るだろ。いなくてもまたどっか行ったかな、みたいな感じだな」 「ふーん。 じゃあ、別に寂しくないんだ。アタシがいなくても」 アタシも随分とその声に毒されてしまったのだなと、改めて実感する。ちょっぴりドライに返されても、その答えに拗ねて甘える方が楽しいと思ってしまうのだから。 話しているうちに顔を見たくなって、今からでも走って彼女に会いに行こうかとも思ってしまう。 「でもな。 そう思うのはきっと、走り続けていたらいつかまた会えるって信じてるからなんだろうな。 帰ってきたらどんなレースをしよう、何を話そうって考えてたらいつの間にか楽しくなっててさ。寂しいのなんかすぐ忘れちまうよ」 でも、今は電話越しでよかったなと思った。彼女がくれた返事が嬉しくて尻尾を振っていても、誰にも見つかることはないのだから。 ひとりの時間は好きだけれど、最近はその時間を愛する理由が少しだけ変わった気がする。 「…ふふっ。 いいね。やっぱり。エースはいつでも真っ直ぐだ」 「真っ直ぐ向き合いたいって思ってるからな。特にアンタにはさ」 ひとりの時間から戻ってくると、こんなふうにアタシを待っていてくれるひとがいる。そう思うと、少し寂しかった帰り道の足取りが弾むような気がした。 「レースだと素直に捕まってくれないのにね」 「そりゃ負けたくないからな。 でも、アンタは追いかけてくるだろ?」 「うん。 追いかけたくなる背中だもん」 彼女と話しているうちに、さっきまで部屋に満ちていた退屈と寂しさはいつの間にか消えていた。 「じゃあな。おやすみ。 早く帰ってくるといいな。あんたのトレーナーさんも」 「うん。でも、もう大丈夫だよ。いっぱい元気貰っちゃったから」 彼女との時間はそのくらい楽しかったし、いいヒントを貰えたからだ。誰かがいなくてさみしいときは、もう一度会えたときに何をしたいかを楽しみに待っていればいいんだって。 彼の顔を思い浮かべて、どうしたいか考えてみる。アタシの中にこんなにも居座っておいて寂しがる可愛げも見せてくれなかったのだからとびきりいい表情をさせてみたいと、すっかり元気になったおかげで悪戯心も全速力だ。 そう思っているとすぐに、やりたいことがひとつ思い浮かんだ。 「…ふふふっ、あはははっ」 そのときのアタシの頭の中には、どうしようもないほど驚いた彼の顔が浮かんでいた。 きみはひどくびっくりするだろうし、もしかしたら呆れられるかもしれない。 でも、きっとすごく楽しい。そんなことを思いついてしまったら、今すぐやる以外の選択肢はアタシの中にはなかった。 「ありがと、エース」 きみとしたいことを考えるのは、エースの言う通りすごく楽しい。だからこそ、それを帰ってくるまで黙って待つなんてお行儀のいいことは、やっぱりアタシにはできそうにない。 今すぐきみに会いたい。 それが、アタシが今一番したいことだから。 あてはなかったけれど、不安だとはちっとも思わなかった。彼にこういう楽しみを教えたのはアタシで、そんな彼も覚えた楽しいことをどこまでも健気に返してくれていたから。 だから、わくわくして仕方なかったんだ。 「いいね、ここ。お洒落だし美味しいし。 でも、きみのアイスもアタシは好きだよ」 アタシの心が向く先に、きみが待っていることが。 夜の街を歩いていて、ピンときた店に入ってみる。アタシが旅先でいつもしていることだけれど、まさか一軒目で当てられるとは思っていなくて、嬉しいのと同じくらい自分でも驚いている。 でも、一番驚いているのはきっと彼だろう。今どこにいるのか教えてもいないのに、出張先にいきなり自分の担当が現れたのだから。 彼がいたのは、バーのような落ち着いた雰囲気のスイーツパーラーだった。繁華街の喧騒から切り離されたような静けさと淡い照明の下では、酒も入れていないのになんだかパフェに大人びた味がついているように思える。 「なんでここにしようと思ったの?」 「…勘だよ。いい雰囲気だったからな。 暇だからなんとなくぶらついてて、いいなって思って入ったんだ」 心底驚いたといった顔をして何も言わずにいた彼が、アタシの問い掛けには素直に答えてくれるのがなんだか可笑しい。 だから、アタシの方から訊いてみることにした。 「訊かないんだ。なんでいるのって」 「なんとなくわかるからな」 驚かされた照れ隠しのように彼は少し意地悪な言い方をしたけれど、今のアタシにはそれさえも楽しくて仕方ない。 アタシの心が惹かれる場所に、きみの心も向いていたんだってわかったんから。 「へぇ。 じゃあ、言ってみてよ」 「…それはやだ。恥ずかしいし」 びっくりしたのと同じくらい、会えて嬉しいって、きみの微笑みが教えてくれたから。 「…ごめん」 「ふふ。いいよ。 待ってるから。言いたくなったら言ってよ」 下手な言葉よりも嬉しいかもしれない。 恥ずかしそうに目を逸らすきみの顔は、いつまでも見ていたいくらいに可愛らしかった。 いつもと違う布団の感触は、小さいことだけれど確実に、ここが旅先なのだと教えてくれる。それを味わおうと身体を伸ばすとすぐに足が触れ合ってしまうのは、いつもの旅にはないことだけれど。 「ねぇ」 「ん?」 浮かれているとしか言いようがない。ふたりで一つの枕に頭を乗せていると、どうせなら抱きしめてくれたらいいのに、などと思ってしまっているのだから。 「キスしていい?」 唐突にそう告げると、彼は恥ずかしそうに目を伏せてうつむいた。そんな仕草が愛おしくて頭を撫でると、もっと恥ずかしそうに縮こまっていくのがなんだか面白い。 何度もしていることなのに、未だに恥じらってくれる彼がたまらなく愛しい。こんなふうにはっきりと、言葉にして唇をねだったことはあまりないということもあるけれど。もしかしたらアタシより雰囲気作りにこだわっているのかもしれないな、なんて思うと余計に可愛らしいと思ってしまった。 「…なんで」 「さみしいから」 ちょっとだけ嘘をついた。今はもうさみしくないけれど、さみしいって言いたかった。 きみも同じ気持ちだったらいいなって、思い続けるのがやめられないから。 さっき聞けなかったきみの気持ちを、教えてほしくて仕方ない。 「きみは?」 「…俺もシービーに会いたかったよ」 恥ずかしくたって、言っていいんだよ。笑ったりなんかしないから。 アタシもきっと、同じくらい寂しがりやにされてしまったから。 「じゃあ、次にしたいことは?」 「…今度の旅は一緒に行きたい」 「いいね、合格」 きみの気持ちをゆっくりとなぞる度に、アタシと同じ想いでいてくれたことがわかって、なんだか嬉しい。好きって気持ちの答え合わせをしているみたいだ。 だったら、最後にとびきりの丸をつけてあげないと。 ちゃんとアタシに伝えてくれた、その唇に。 「ん…んっ… …はぁ」 唇を離したあとに、合図したように抱き合ってしまうのがなんだか可笑しい。一度も示し合わせたことはなかったのに、こうするのが当たり前みたいになっているのが不思議で、ひどく幸せだった。 「…ほんとにキスするの好きだよな。 キスしたいとか、してほしいとか」 首に顔を埋めたままの、拗ねたような彼の声も愛おしい。きっと今頃は顔を真っ赤にして、それがちょっと悔しくてこんなことを言っているのだろうなと思うと、もっともっと抱きしめたくなる。 「似てるけど違うんだよ。キスしたいなって気持ちと、キスしてほしいなって気持ちは」 どっちも素敵なことだけれど、片方だけでいいのかと言われたら絶対にそうじゃないと言える。愛したいのと愛されたいのが、似ているけれど少し違うように。 「今は、どっちだと思う?」 微睡んだ声のままゆったりと抱きしめられると、そのまま胸に身を委ねたくなる。 でも、ずっとそうしてもいられないかな。 「…キスしてほしい」 「…いいね。正解」 きみがせっかく、正解を出してくれたんだから。 約束は苦手だけれど。 きみとの思い出とキスがあるなら、好きになれる気がする。 「…ん。 上手になったね」 「何度もしてるからな」 始めての一生懸命な口づけも、今の優しくて上手なキスも、アタシの唇は全部知っているから。 「ふふ。 じゃあ、もういいの?」 「…もう一回。 さみしくならないように」 「…ありがとう」 「ん?」 何度だって、触れてほしい。 「会いに来てくれて。 びっくりしたけど、それよりずっとうれしかった」 きみの言葉で、くちづけで、さみしさを全部埋めてしまうまで。 「どこにだって行くよ。 それが、アタシのいちばんしたいことだから」