人と話すときは目を見るものですよ、とその人は言った。 手の冷たい人は心の優しい人だ、とも言っていた。 僕の手はどうだろう。ぎらりと鈍く光る爪、左手の白く肌の透ける爪と比べたら、 どうしてこれを同じ人間の腕と思えるだろう?皮膚さえ硬い殻に置き換わっている。 僕が僕でなくなる日、その人は僕を助けてくれた。父親を代わりに止めてくれた。 それで今、僕は――こんな半端なもののまま、途方に暮れている始末だ。 左右不均衡になった両腕は、確かに自分のものとして自由に動かすことはできる。 けれど風がひゅるりと、その両方を等しく巻いた時、寒いのは左手の側だけで、 殻に包まれた右手の方は、何事もなかったかのように鳥肌の一つも立てはしない。 冷たいのかどうかさえ、わからない。自分で自分の手を握るとどこか奇妙な感覚がして、 何度も何度も、あのまま何も考えられない虫人間にされきってしまった方がよかったか―― そんなことを、ずっと考えていた。人でもない、怪人でもないような半端者の僕は。 物言わぬ残骸となった僕の父親に向けて、その人はずっと手を合わせていた―― 僕が顔を上げるのと同時に、くるりと身体ごとこちらに直り、背をかがめる。 親殺しを人に頼むのは、どんな罪に当たるのだろう?頼まれたからといって他人の親を―― 僕は自分の立場と、その人の立場とをぐちゃぐちゃにかき回して区別もつかない頭で、 彼女の紫紺色の瞳を、ただ美しいと思った。 彼女の瞳から、目が離せなかった。ぼうっと、身体の内が熱くなった。 そこにひやりと、滑らかな手触りの――けれどぞっとするような指先が触れると、 途端に僕は、命の恩人であったその人に何か礼を言わねばならない想いで胸が詰まった。 冥い瞳は、僕の心の何もかもをも飲み込んでいくように深く、優しい。 冷たい手は、熱の全てを吸い尽くしていくように、柔らかく、恐ろしい。 言葉を探そうとすると、すぐにそのどちらかが意識を反らしてきて何も言えないまま、 申し訳なさに僕は視線をゆるゆると、下に降ろす――その途中で、一気に視界が暗くなる。 柔らかな何かを顔に押し付けられている。頭の後ろに、彼女の腕が回されている。 驚きと共に吸った息から、線香のような――あるいは良く冷えた牛乳のような、 甘く、緊張を解くような匂いがして、頭の中が真っ白になっていく。 落ち着いて、だとか、大丈夫、だとか――そんなことを言ってくれているのはわかる。 父親を失ったばかりの僕を、慰めるための行為だということもわかる。 本当はこんな時にこそ、ありがとう、と言って抱き返すべきなのだろう――とも。 僕の身体はその思考に反して、どんどんと身勝手な熱の中に溺れていってしまっていた。 彼女の着ていた服、その一枚だけを隔てて胸の谷間に顔を突っ込まれる。 僕がその大きな胸をちらちらと何度か失礼にも見ていたことを、彼女はよく知っている。 呼吸が浅くなってくる。肺から上がってきた息が、彼女の匂いを取り込んで戻り、 僕の体内の空気は、どんどんと甘い香りに置き換えられていく。目が回り始める。 ぷつん、と鼻の奥で痛みと共に何かの切れる感覚がして――血の臭いが逆流してようやく、 彼女は僕が興奮と過呼吸のあまりに、顔を真っ赤に染めていることに気付いたようだった。 白い布地の真ん中に、べっとりと赤い跡が付いてしまっている。 このままでは帰れませんね――と、その人は自身の服よりもむしろ、 僕の股間のあたりに視線を向けながら、にこやかに笑って言った。 鼻血を出したことに意識を囚われすぎたあまり、僕は自分の――“それ”が、 べっとりと下着を汚して、擦り付けられていた彼女の腿にも湿り気を与えていたことに、 気付く余裕すらなかったからだ。そのことを指摘されるとなお、体は熱くなり、 布地をずらして覗いた彼女の本物の胸の谷間に、色の薄いぷっくりした先端に、 頭の中の全てを塗りつぶされてしまう――なんて恩知らずなのだろう、僕は。 親殺しの練習をさせてくれたお礼です、とその人は微笑みながら言った。 彼女が何をするつもりなのか、それ以上僕は聞くことはできなかった。 冷たいひんやりとした指先が、僕の“それ”を一握りにしてしまう。 ただ、恥ずかしい――それを口に出し、やめて、と言う前に顔に胸が押し付けられる。 布を介さない、直の。唇の間に、少しだけ硬くなった、親指ほどの膨らみが差し込まれる。 それが何かを理解するより早く、僕の舌は彼女の乳首を吸ってしまっていた。 表情は真っ白な目隠しのせいで見えないけれど、きっとあの優しい笑顔なのだろう。 にちゅり。にちゅり――下半身から、初めて聞く粘々した音が聞こえてくる。 それもやはり、自分の出してしまっている情けない音なのだろう、とも思うのだけれど、 上半身と下半身がまるで別々の世界にあるみたいに、わけがわからなくなってしまう。 それが急に、がくん、と背中側から突き飛ばされたみたいに腰が反って視界が飛んで、 彼女の冷たい掌の中に、思いっきり出してしまったことが、わかった。 情けない、恥ずかしい、ごめんなさい――胸が顔から離れていくにつれて、 僕の涙と鼻水と涎とでべとべとになった白い肌が、ほんのり赤くなったのがよく見える。 それと同時に、彼女は左手に溜めた僕の出したものを、指の間に広げて橋を架けた。 いたたまれなさに目を瞑ると、ぱさり、しゅるりと布の落ちる音がする―― 彼女はただ頭巾だけを被って、僕の前ですっかり裸を見せていた。 そういう僕自身、いつの間にか彼女の手で服を脱がされてしまっていたから、 その後に起こること――彼女のしようとしていることは、言うまでもなかった。 紫紺の瞳が、僕を見ている。次はあなたに手伝ってもらう番ですよ――唇がそう動いた。 床にごろんと寝転がった彼女の上に、腿で挟まれながら誘導される。 “これ”を“そこ”に――と、誰かに説明されるまでもなく、僕にはわかっていた。 なぜって、さっき出したばかりの僕の“それ”は、もう痛いほどにはちきれていたから。 彼女の唇に自分の唇を押しつけて、無理やり、股間を彼女の股間に押しつける。 場所が合っているかはわからない。どうすればいいのかわからない。でも、これしかない。 彼女はまた、優しく僕の背中に腕を回しながら、脚で僕を導いてくれた。 頭の中が、白くなった。全てが見えなくなって、ひたすら、腰を―― 部屋の隅に転がっていた虫の残骸は、もう僕の視界には映らなかった。 彼女は洗い終えた二人分の服をしっかりと綺麗に乾かした上で、僕ににこりと笑った。 次の瞬間には、棺桶に手足を付けただけのような無骨な輪郭を持った影がそこにあって、 それが彼女のもう一つの姿なのは、棺桶の真ん中の紫紺の瞳を見るまでもなく明らかだった。 またすぐにするりと、棺桶の中から裸体の彼女が抜け出てきて――僕の左手を握る。 人でもない。怪人でもない。あなたは、どちらでいたいの――? 僕の望む全てをくれた彼女のために、僕も全てを返さねばならないと思った。 彼女が親殺しの宿命を持つのなら、そのために命を掛けて恩返しをせねば、と。 その後はどうするのだろう。親を殺めた者同士、どこにも居場所のない二人。 彼女の手は冷たかった。ずっと握っていれば、どこかに連れ去られてしまいそう。 それをあの世と呼ぶのかは、今の僕にはわからないことだった。 彼女が導くまま求めるまま、どこにでも連れて行かれてしまいたかった。 返事は、彼女の唇に。冷たくぷるりとした、血のような赤いその上に。 ありがとう、とその返事が、僕の頬に軽く触れる。 手を握っているうちに、また僕の身体は段々と熱くなっていった――