「では皆様の健康を祈って、乾杯!」  かちんと心地よい音を立てて、杯が鳴る。魔王モラレルと四天王たちも、揃って杯を掲げた。魔王の主催するパーティ会場は、着飾った魔貴族たちに満たされて、華やかに彩られる。  ワースレイ翁は賑やかな会場を眺めつつ、隅の方でおとなしくしていた。彼は自分の物忘れについてさえ忘れてしまうから、自身の老いの実態について、深く把握しているわけではない。しかし彼のふるまいに対する、周囲の者たちの困惑の様子から、しばしば困った事態が生じていることはわかる。といって、調子が悪い日は、そんなことすら思い出せていないようなのだけれども。 「おお、ワースレイ様。ご無沙汰しております」 「ええ、お久しぶりですな」  応対しながら、この魔族は誰だっただろうかと考える……思い出せそうだと感じた途端、彼はどこかへ行ってしまった。  歳を重ねるのはつらいことだ。魔族たちは彼の老いについて、彼自身よりよく知っている─なにしろ魔族の寿命は種差が大きい。ワースレイの記憶力が衰えてから生まれ、老いて死んだ者も多くいるのだ─ため、彼と複雑な話をしたがる者はほとんどいない。ワースレイの名は広く知られているから、詐欺師のたぐいさえ寄り付かない。  歳を重ねるのはつらいことだ。知り合いはみんな死んでしまった。ワースレイは、見知らぬ魔族たちの行き交う様子を眺め、小さくため息をついた。老兵は死なず、ただ消え去るのみという言葉があるが、具合良く消え去るのは難しい。寂しいものだ。もっとも寂しいと思ったことさえ、明日には忘れているのかもしれない。  長身を縮めてしゅんとしているワースレイのもとに、床を踏み鳴らす足音と共に、割れ鐘のような大声が近づいてきた。 「ワースレイ殿!久しく顔を合わせなんだな!」 「ゴア殿!お久しぶりですな!」  ワースレイはほっとして、旧友の顔を見つめた。 「貴族共も薄情よなあ!ワースレイ殿のような忠臣を放っておくとは!」  ゴアの吠えるような嗄れ声と、周囲に気を配らない傲岸さは、若い頃から変わらない。ワースレイは嬉しくなりつつ、小声で注意を促す。 「ゴア殿、もそっと声を落とされよ」 「何ですかな!?」  そうか、若々しく見える彼も、耳が遠くなったのだった。旧友と共に過ごした年月を振り返り、切ないような、心強いような、妙な心地がする。ワースレイは声を大きくして話しかける。 「お互い歳を取りましたなあ……」 「どんな敵もねじ伏せてきた儂も、年月にだけは逆らえん!いや、悲しいことよな!」  ゴアは獣が唸るように笑った。戦場を暴れ回る傲岸不遜なゴアと、温厚篤実な質のワースレイ。少しも似たところのない二者は、なぜか不思議と衝突せず、長く親交を保っていた。 「ゴア殿は変わりませんなあ。その気性、若い頃そのままではありませんか」 「なんのなんの!餓鬼のまま爺になったということ、褒められたものではない!覚えておいでか、チリナール森林の戦を!」 「いやはや、ひどいものでしたなあ。今だからお話ししますが、あの時は随分ゴア殿を恨みましたぞ」 「チリナール森林。懐かしい名前です」  聞き覚えのある声が加わってくる。 「混ぜてもらえませんか。知らぬ顔ばかりで、寂しくなっていたところなのですよ」 「ジャークオーグ殿!お懐かしゅうございます」  ジャークオーグは、ひょうきんな仕草で頭を掻く。 「いやはや、お恥ずかしい。最近まで封印されておりましてね。四騎士も散り散りばらばら、皆どこでどうしているやら。わからないことばかりです」 「封印されていると、世の変化にはさっぱりついていけなくなりますのう。チリナール森林も、今は森ではないと聞きましたのじゃ」  ふさふさとした緋色の尾に耳、豊満な肉体。その姿を以前目にしたのは、いつだっただろうか。若い魔族の名はいっこうに覚えられないのに、彼女の名は不思議と、するりと口から出てきた。 「トヨ殿ではありませんか!いつぶりになりますかな」 「封印されてからお会いしておりませんからのう、ざっと千年ぶりですじゃ」 「そんなになりますか。またお会いできてうれしい限り」  封印されていたためだろうか、妖狐の容姿は若いまま。毛艶もつややかな彼女を見ていると、自分まで若返ったような気がしてくる。ゴアが唸った。 「チリナール森林、更地になったのは400年ほど前よなあ。トヨ殿が知らんわけよ」 「更地にした、のですよ、ゴア殿」 「千年経とうと、魔王軍のやりようだけは変わらず恐ろしいのう……」 「いやはや、ひどい戦でしたよ。あの時の火勢は、今でも思い出せます」 「アラシトールがはしゃいでしまいまして。奴め、今どうしているやら」 「アラシトールほどに褒める所のない奴には、お目にかかったことがない。憎まれっ子世に憚ると言うではありませんか、彼奴もどこぞで生きておりましょうぞ!」 「同僚として擁護してやりたいところですが……困ったことに、あいつについては、本当に褒めるところが思い浮かびません。ただねえ……一緒にいて退屈しない男ではありましたよ」  酒が進むに連れて、老人たちの思い出話は益々盛り上がる。利に聡い貴族たちは、遠巻きに様子を伺ってはいるものの、所詮過ぎた時代の話、近づいて内容に耳を傾けはしない。いや、ただ一人。エビルソードが、こころもち身を乗り出して、すぐ傍らで話を聞いている。 「エビルソードくん……」  ジャークオーグが問いかける。 「四天王の仕事はいいのかい?貴族との付き合いもあるんじゃ……」  エビルソードは間髪入れず頷いた。 「続きを」 「そうかい……?」 「くっ……こんなことをしている場合では……」  ダースリッチは苛立っている。年末調整はとっくに(提出書類の締め切りは先月初めだ!)終わっていてしかるべきなのに、どうしたことか、この年の瀬に、まだ書類を出していない遅刻者が、少なからず存在する。年末締め切りの支払いも、年末までに片付けたい仕事も山積みだ。魔王軍外部の有力者との、付き合いの大切さは理解してはいる。してはいるものの、終わっていない事務処理よりも、重要なことなどあるだろうか?  なんとか言って早めに抜け出そう。立ち上がりかけたダースリッチの、服の裾を誰かが引いた。 「ダースリッチ……」  半ば泣きべそをかいたエゴブレインが、ローブの端を掴んでいる。 「置いて行かないで……」  目を潤ませるその顔は、彼の孫(孫ではない)、エゴロリータがするならば許されるだろう。発明品であるゴーレムたちは、貴族の集うパーティには参加できない。一人でパーティに参加したエゴブレインは、次から次へと訪れる貴族たちにパニックになり、半ば幼児退行を起こしていた。 「ううむ……わかった」  ダースリッチは座り直す。彼は自他共に認める薄情な質だが、さりとて幼児化した同僚を放置できるほど、冷酷でもないのだった。 「……例えばレンハート王国を攻めるとするな。攻城戦になった場合、我が軍には決定力が足りない。城攻め向けの兵器を発明できないか」  なぜ我々は、パーティの席で、仕事の話をしているのだろうか。ダースリッチは疑問に思ったが、他に話す話題も思いつかない。エゴブレインは泣きべそをかきかけた顔を、服の袖でごしごしこすり、少し考える。 「蜘蛛型のゴーレムはどうじゃろうか。城壁を登って自爆するタイプの」 「検討に値するが、ゴーレムはコストが高いからな。もう少し気軽に使える兵器がほしい。エビルソード軍にバリスタの配備があったが、あれの破壊力はなかなかだった」 「なら火砲がいいかのう」 「小型だとなおいい。バリスタは取り回しが面倒そうだったからな」  貴族たちが通り過ぎざまに、こちらの様子を伺っているのが見える。なぜわたしは事務作業を放置してパーティに出て、その席で社交を投げ出し、同僚と仕事の、それも戦場の話をしているのだろう。ダースリッチはそこまで考え、考えるのをやめた。 「ええ、ええ、その通りですわ……申し訳ありません……」  ヘルノブレスは背を丸めて、貴族たちの話に頷いてばかりいる。貴族たちは彼女をすっかり舐め腐っており、遥かに格下の者でさえも、面と向かって、当てこすりや嫌味を言ってくる。度重なる失態に、自信を失っているヘルノブレスは、的はずれな嫌がらせにさえ、言い返せずにいるのだった。 「ヘルノブレス様ではありませんか。先日のダイラント平原の戦果は、いやいや、なかなかのものでしたなあ」 「まあああ!あなた、ヘルノブレス様の代わりができるとおっしゃいますのね!?」  新たな嫌味を遮って、甲高い声が割って入る。「絶美」ことペネンテラズカ、彼女の誇るその容姿は、人間的な(あるいは魔族的な)美醜の基準で語っていいものかどうか。極彩色の巨大な植物が、蔓をくねらせるさまは、ある種の美しさがないとは言えないものの、極めて威圧的であった。 「ワタクシ是非お聞きしたいわあ、貴方の軍略!ええ、ええ、もちろん、大軍を指揮して戦果を上げるヴィジョンがおありなのでしょうね!?」  ペネンテラズカは相手に答える暇も与えず、大声で言い募る。家名と面子を重要視する貴族が、他家の者を、大衆の面前で堂々と侮辱することなど、普通はあり得ない。罵倒ひとつを切っ掛けに、家同士が敵対することさえありうる。彼女の言葉に込められているのは、あまりに明確なメッセージだった。  私はヘルノブレスの味方につきます。  おまえなど敵に回しても痛くも痒くもない。  身の程を弁えなさい、愚か者。 「いえ……ペネンテラズカ様に楯突いたつもりは……」  そしてその男は実際、ペネンテラズカを敵に回すことなどできなかった。家の格は遥かに低く、家督を継ぐ立場でもない。更に言えば、四天王の揃うこの場で、四天王全員が参加したダイラント平原の戦果を馬鹿にするなど、思慮が足りないのも明白だ。 「あらまあ、ヘルノブレス様がこのワタシを配下にしていること、ご存知なかったの?もう少し考えてお話しなさい。家名に泥を塗ることになりましてよ」  ペネンテラズカが男をいたぶる隙に、ローベリアがすいと割って入り、ヘルノブレスを連れ出す。 「あなたもっと胸を張っていなさい。あんな木っ端共に、嘗められるような立場ではないでしょう」  耳元で囁かれる小言に、ヘルノブレスはなお背を丸めうなだれる。 「でも、わたくしが役目を果たせていないのは、本当ですもの……」 「言い返すのも四天王の役目の一つ。内心自信がなかろうと、外見は毅然となさい!」  ローベリアの手が、ヘルノブレスの背をぴしゃりと叩く。 「きゃっ!」 「背筋を伸ばすのよ!お兄様が見ておいでよ!」  柱の後ろ、彼女らからは見えない位置。貴族キブーリが杯を傾けながら、静かに独りごつ。 「うーん……最高かな……」  広間の喧騒をよそに、モラレルは一人酒を飲んでいた。  空のグラスがひたすらに増えていく。かしましい魔貴族たちさえも彼を恐れ、最初の挨拶の後はもう声をかけてはこない。彼の名で開かれた、彼のための集いではあるが、モラレルは会場の中、一番不自由で、一番孤独なのだった。 「モラレル、おまえ、酒はそのへんにしておきなさい」  ウオマがそっといさめた。彼に話しかける者といえば、この老人くらいだ。 「ちょっと、モラレル。聞いているのかい」  モラレルは無視して酒を煽る。その程度の自由は、魔王にも許されているのだった。