毎年自分が帰るタイミングで集まってくる親戚達との楽しい夕食を思い浮かべながら、イザベラは大きな荷物を抱えて実家へ向かっていた。 父母は元気だろうか。親戚は変わりないだろうか。妹はちゃんと勉強しているだろうか。長距離の移動で疲れているはずの足取りも家族を思えば軽かった。 しかし、家に近付くにつれて段々と違和感が浮かんでくる。いつもならこの辺りで既に聞こえてくるはずの賑やかな家族達の声がまるで消え去ったかのように、まるで誰もいないかのように静かなのだ。 誰もいないなんて事があるだろうか?と胸騒ぎを感じていると、ふと鼻に漂う鋭い匂いに気がつく。それはなるべくなら嗅ぎたくない血の臭いだった。 心臓が嫌な音を立てて鼓動を刻み始め、不安が胸を締めつける。それでもイザベラは自らの不安を抑えて自宅に辿り着き、ゆっくりと震える手で扉に手を伸ばした。 扉を押し開けると、視界に飛び込んできたのは床に広がる赤黒い血の海だった。 そこかしこに転がる無残な姿が薄暗い部屋に散らばり、死体の顔には少し老けた親戚達の面影が残っている。イザベラの耳に届くのは自分の鼓動と荒い息の音だけで、沈黙だけが場を包み込んでいた。 何度も悲鳴をあげそうになるが、その度にすぐ両手で口を覆って飲み込み、かすかな希望を抱きながら、ひとりひとりの顔と生存を確かめるために家の中を歩き始めた。恐怖に耐えながら無言で部屋を回っていくうちに、胸が次第に重くなっていく。 ようやく全ての部屋を見終えたとき、イザベラの目からは涙がぼろぼろと零れ落ちた。彼女の家族は、いや、親戚ですらもう誰も生きていなかった。 「イザベル……イザベル……?」 だが、遺体の中には見つからない姿があった。 呆然とした表情で、イザベラはその名前を何度も呟き、気づけば足が動き出す。 彼女は恐怖も悲しみも振り払うように、全てをかなぐり捨てて家を飛び出した。 イザベラは荒れ果てた家を飛び出して冷たい夜風が吹き込む庭に出た。その瞬間、暑くもないのに体中に嫌な汗がにじみ、全身が警戒と恐怖で張り詰める。直感的に「危険だ」と脳が警鐘を鳴らしてイザベラはとっさに身を翻した。 次の瞬間、彼女が先ほどまで立っていた場所に鋭い片刃の剣が深々と突き刺さる。心臓が跳ね上がるのを感じながら、イザベラはそっと後ろを振り返る。そこには血まみれになった妹のイザベルが無表情で立っていた。 「イザベル…?」 イザベラは混乱しながらも声をかける。しかし妹はその呼びかけに反応することなく、静かに一歩、また一歩と彼女に接近してくる。すると、イザベルは無言のまま地面に突き刺さっていた剣を掴み、一気に斬り掛かってきた。 「な…っ!?」 イザベラはその一閃を躱しながら、今しがた目にした惨劇の光景が脳裏をよぎる。そして直感的に、いや、何か得体の知れない確信のようなもので、今目の前にいる妹がこの家での惨劇の引き金であると理解してしまった。 「イザベルがやったの……!?」 「……この剣が言うんだ……斬って……斬って……血を吸えば吸うほどに、私は強くなれる……って」 焦点の合わない目で呟くイザベル。もはやイザベラの知る彼女ではなかった。 「自分が何をしたのか分かってるの……!?」 「許せとも、見逃せとも言わないよ。ただ、私のために死んでほしい」 言うやいなや、イザベルは再び斬りかかる。 ギリギリのところで避け続け、胸の奥が締めつけられるような痛みに耐えながらもイザベラは何度も問いかける。 「お願いイザベル……やめて……!やめてよ……!」 「あれを見たんだろう?止まるわけがないだろ」 「……イザベル……!」 イザベラはついに決断してその手に魔力を込める。今まで数え切れないほど魔物を討ち倒してきた、イザベラ必殺の一撃だ。 「ッ!?」 「ごめんね……ごめんね……!」 お互いの体が交差する瞬間、すれ違い様に至近距離で放たれた魔力弾は妹の胸元を直撃し、凄まじい衝撃で彼女の体を吹き飛ばした。イザベルの身体は回転しながら庭の大木に叩きつけられ、その勢いで大木がバキリと音を立ててへし折れる。 イザベラは、折れた大木の根元に横たわる妹イザベルのもとへ、ふらつく足でゆっくりと近づいた。 「イザベル……?ねえ、イザベル……?」 「……おねえ、ちゃん……?」 「イザベル!?」 先程までの妹と様子が違う。 急いで駆け寄るとイザベルはあの狂気に満ちた顔ではなく、かつての妹と同じ笑顔でイザベラを見つめていた。 「……おかえり、お姉ちゃん……あれ、身体が動かない……」 「いいの、動かなくていいの!……ごめんね、お姉ちゃんがもっと早く帰ってたら……外なんかに行かなきゃ……」 「なに言ってるの……村いちばんの魔法使いなのに……」 だんだんと声が小さくなっていく。 イザベルの手を握りながら、ぼろぼろと涙を流すイザベラの顔を見て小さく笑った。 「……眠い……ごめんね、いっぱい……お話しようと思って、たん……」 瞼を閉じ、イザベルは動かなくなる。 胸にこみ上げる吐き気を抑えながら、震える手をイザベルの胸元に当ててみるが、沈黙したその心臓は動くことはなかった。 その瞬間、イザベラは崩れるようにその場にへたり込んでこらえきれない感情が一気に噴き出した。声を押し殺すこともできず、子どものようにわんわんと泣きじゃくった。涙はとめどなく溢れ出し、大地に染み渡っていった。 彼女の背後では、涙を伝い地面に浸透した魔力が暴走し、屋敷の方へと広がり始めていた。しかし今のイザベラにそれに気付く余裕などない。家が崩れ去り、愛する家族や親戚の残骸が魔力に飲み込まれて跡形もなく消え去っていく。 人里離れた場所に佇むその家の異常を知る者は誰もおらず、イザベラは静寂の中で一人、涙が尽きるまで泣き続けた。 ようやく涙が枯れ果てた頃に彼女は立ち上がった。ふらふらと、意識が遠のく中で足を前へ進め、無人となった場所を後にした。 彼女の心には、答えの出ない疑問が無数に突き刺さっていた。何故妹がこのような凶行に走ったのか?何故守るための手で妹を殺さなければならなかったのか? イザベラはこの瞬間から「力」を憎むようになった。妹を狂わせ、家族を奪い去った力を。そして、そんな妹を殺してしまった自らの力を。彼女の心には今までの自信と勇敢さに代わり、ただ力に対する疑問視する心が染み込んでいくのだった。 イザベラはかつての家も、愛する家族たちの記憶もすべてを置き去りにして旅に出た。手には何も持たず、ただ一人で真っ直ぐ歩き続けて出会う人々のもとへと足を向けた。彼女は無心に、ただ人を助け続けることを己に課し、飢えや疲れを忘れ、行く先々で困窮する人々に手を差し伸べていった。 町に辿り着けば病人を看病し、土砂崩れを見れば取り除き、倒れた木々を切り開いて道を作る。彼女の黙々と手を動かす姿は人々の信頼を集め、知らぬ間に「勇者」や「聖女」とさえ呼ばれることもあった。しかし、イザベラの心が晴れることはなかった。 彼女の旅は、ただ他人を助けるためだけに続いているように見えたが、彼女が続けるのは人助けというよりも「罪滅ぼし」だった。自らの手で妹を葬り去った苦しみ。守るべき家族を救えなかった後悔。そのすべてが、彼女の足を止めさせることを許さなかった。 時には彼女を助けようとする人々も現れたがイザベラは笑顔でその気持ちを断った。まだ私は許されるべきではない。許されてはならない。村いちばんの魔法使いなどと持て囃されて調子に乗っていた自分の、おぞましい妹殺しの罪はこんなものでは決して晴れるべきではない。許されたいなど、絶対に思うな。 イザベラは一人、風に吹かれながらただ前を見て歩き続けた。彼女が立ち止まることなく歩み続ける限り、自分のような悲劇が他の誰かのもとに訪れないことを願いながら。 イザベラが去った後、静寂に包まれた場所にひとつの人影が揺らめいた。胸に鋭い痛みを覚え、呻きながらゆっくりと立ち上がるその姿は、血に染まったままのイザベルだった。 彼女はふらつきながら胸元に手をやり、垂れ下がった紐を指先で手繰り寄せる。その先には、かつて姉から渡されたお守りの粉々になった破片がぶら下がっていた。かつての思い出を宿すそれが、今やただの残骸に変わり果てている。しかしその破片は、イザベルを死の淵から呼び戻したものでもあった。 「……愛、か?……ふざけた真似を」 握りしめたお守りの破片を見つめ、彼女は苦しげにそれを地面に叩きつけた。思い出すのは、優しさを込めてそのお守りをくれた姉イザベラの姿。しかし今、その姉に「殺された上に助けられた」という事実がイザベルの心を締めつけていた。あの姉の血を吸えばもっと強くなれたはずなのに。 姉の愛ゆえの攻撃で死んだはずが、姉の愛で蘇らされるという運命が、胸の奥を暗く渦巻く怒りで染め上げていく。 「……しかしあの姉がここまでやるとはね……」 血に濡れた手を震わせながらイザベルは目を細め、ひとまずは人斬りをしながら姉を追いかける事に決めた。彼女の視線の先に転がる刀を拾い上げ、その刃を握りしめた瞬間、刀から不気味な邪気が体に溢れ出す。冷たい闇が彼女の中に入り込み、血のように赤黒い魔力が全身を覆い始めた。 「姉を倒すには、あとどれだけ斬るべきか……まだまだ足りないことは分かったからな……」 イザベルの唇がわずかに歪み、顔には狂気に満ちた笑みが浮かび上がる。かつての純粋さや優しさは消え失せ、闇がその心を蝕んでいた。彼女は一歩、また一歩とよろめきながらもその地を離れ、背後にはかすかに邪気が漂い始める。 こうして姉に対する歪んだ欲望を胸に、イザベルは闇にその姿を消していった。