日が傾き始めて、空がより青く、高く感じるようになった。そんな晩秋の青空を眺めるのを自分は密かに楽しみにしているのだが、寒さと風が日に日に強まって外にいると手がかじかむようになってくると、そろそろ冬の支度をしなくてはと思いながらも面倒で手が動かない。 「ねぇ。甘いもの欲しくない? なんだか今無性にケーキが食べたくてさ」 季節はそうして移ろっていくが、そんな景色をどこまでも純粋に愛する彼女──ミスターシービーはいつも変わらないのがなんだか可笑しい。楽しいことにはいつも誘ってくれる無邪気さも、あわよくば巻き込んでこちらに代金を出してもらおうとする強かさも、どうしようもなくこちらを惹きつけて止まない。 「シービーの奢り?」 「いじわる」 「うそうそ。 いいよ。カロリー的にも今は余裕あるしな」 「ありがと。ふふっ」 財布から出した千円札を二枚受け取って、行ってくるね、と小さく手を振る彼女の姿を見ていると、こういうささやかな幸せをいつまでも噛み締めていたいと思うばかりだった。 ドアを開けて出ていこうとする彼女の姿を見て、ふと思いついたことがあった。その姿が廊下へと消えていってしまう前に、急いで彼女を呼び止める。 「あ、何か羽織って行ってくれよ。 今日は最低気温一桁らしいからな。風邪引かれたら困る」 風のように気ままに外を駆け回る彼女は、走りたくなった時に煩わしいからと上着を着ないことも多い。だが今朝の外の風は身を切るような冷たさで、ただ買い物に行くだけとはいえ心配になる。 振り向いた彼女は大きな瞳を丸くして、事も無げに答えた。 「大丈夫だよ。それに、アタシ今コートないし」 「でもなぁ…」 こちらの渋い返答で足止めを食った彼女は少し困ったような顔をしていたが、やがていいことを思いついたと言うようににこりと微笑んだ。 「じゃあ、きみの借りていい?」 実にいい考えだと言わんばかりに彼女は満面の笑みを浮かべている。こちらはしばらく出かけるつもりはないので別に構わないのだが、他の生徒やトレーナーもいる学園の中で、彼女に自分の服を貸すというのはなんだか気恥ずかしい。 「いいけど、大きくないか?」 だが、なぜ恥ずかしいのかと彼女に問われたらもっと恥ずかしい思いをさせられるだろうから、当たり障りのない理由で異議を唱えるに留めた。 事実、女性としては背が高めの彼女ではあるが、男物のコートは流石に大きすぎるのではないかと思われた。しかし、既に彼女は部屋の端に掛けてあったコートを軽やかな足取りで手に取って、その大きな瞳でじっと見つめていた。 退屈な日常に新しい風を呼んでくれる光が、その目に満ちていた。 彼女の細い身体に余った分の丈を折り返して、あえて襟を見せるように広げる。あとは腰のところを少し絞ってやれば、彼女のスタイルを引き立てるロングコートが完成した。 丈の長さを逆手に取った見事な仕立てに、思わず見惚れる。きっとよほど分かりやすい反応をしていたのだろう。彼女はこちらが何か言う前に、得意げにくるりと身を翻して見せた。 「かっこいいな。俺の服じゃないみたいだ」 「下がズボンだったらもっとよかったね」 いっそう涼やかに微笑む彼女を見て、出かけないでもっと見せてほしいと思ってしまった。 部屋から出る彼女の足取りはひどく弾んでいて、きっと午後にはピクニックに行こうと言われるのだろうなと予感する。 それまでに今日の仕事は終わらせておかなければと、珈琲を一啜りして気合を入れた。 「んー…!」 仕事が一段落した達成感とともに、凝った体をほぐすように伸びをする。シービーの鮮やかなコート姿を見て元気が出たからかやけに集中力が出て、面倒な書類仕事も随分と捗った。 そのせいか、時間の経過にも鈍くなっていたらしい。時計はさっき彼女が出ていってから既に30分以上が過ぎていることを示していた。 少し遅いなと思うが、彼女のことだ。道中何か面白いものを見つけて道草を食っているのかもしれない。ケーキのほかにどんな土産話を持ってくるのかな、あるいは気が変わって何か別のものを買ってくるかもしれないな、などと、想像を膨らませているだけで顔が綻ぶ。 「気長に待つか」 スイッチを入れて、こぽこぽと心地よい音と匂いを立て始めたコーヒーメーカーを見ると、まだ飲んでいないのに心がぽかぽかと温かくなってくるような気がする。きっとそれは冷えた手と赤らんだ頬で微笑む彼女に、珈琲を渡すことを考えているからだろう。 軽やかな足音が廊下から聞こえてきて、彼女が帰ってきたことを悟る。なんだか飼い主の帰りを待つ犬や猫になってしまったようで、少し可笑しくて一人で笑ってしまった。 「ただいま」 「おかえり…どうした?すごい汗だけど」 ドアを開けた彼女の姿は、予想通り紅い頬を楽しそうに綻ばせながら、冷えた指先に息を吹きかけていた。しかし、その額には玉のような汗が滴っていて、まるで今さっきレースから戻ってきたあとのようだった。 汗をかいて戻ってくるとは思っていなくて、用意していたコーヒーを置きながら慌てて冷蔵庫の扉を開ける。トレーニングが終わった後のようにタオルとスポーツドリンクを手渡すと、彼女はいっそう眩しい笑顔で微笑んだ。 「ありがと」 「どういたしまして…でも、なんでそんなに汗かいてるんだ?」 口に指を添えて少し思案する可愛らしい仕草の後に、今度は悪戯っぽい微笑みを浮かべて、彼女は口を開いた。 「ないしょ。ふふふっ。 シャワー浴びてくるね。上がったらケーキ食べよ」 もう一度ドアに向かう彼女は、心躍るレースを走りきった後のように満足そうに微笑んでいる。 わからないことはいくつもある。どうして彼女は、あんなに暑そうなのにコートを脱がなかったのだろう。どうして彼女は、あんなに楽しそうにしているのだろう。 結局、どれもわからず終いだ。何か楽しいことがあって、きっとそれはしばらく寝かせておくほうが面白いと考えていること以外は、何も。 西の空に沈みかけた太陽が、今日の最後の最も美しい光を晴れ渡る空に投げかけている。紫色のコスモスの花も、紅く色づいた紅葉も、何もかもがその金色の光をうっすらと肌に纏うこの時間は、秋の日の中でも何より心安らぐときだった。 だが、今ほんのりと香る爽やかで甘い匂いは、ここにある色とりどりの秋の花たちのものではない。きっとこれは、今朝彼女が着たこのコートから薫るものなのだろう。 彼女の浮世離れした美しさに心を奪われることは何度もあるけれど、汗さえもこれほどいい匂いがしてしまうと、もはや本当に自分ちは違う生き物なのではないかと思ってしまう。とはいえ、自分の認識が歪んでいる可能性は十分にあるだろう。 彼女を近くに感じると、どんなことでも幸せだと感じてしまうのだから。彼女を抱きしめる度に何度も嗅いだ匂いが、今はずっと仄かに香っているのだから、なおさら。 愛に匂いがついているなら、自分のそれはこの匂いなのだろうな、などと、浮ついた思考が自然と浮かび上がってくる。自分はそのくらい、彼女の匂いを愛しいものだと本能的に認識してしまっているのだろう。 だが、彼女はそんなことなど知りもしないように、軽やかな足取りでスキップを踏んで、暮れなずむ秋の景色の中で楽しそうに跳ね回っている。 「ご機嫌だな」 残り香だけでこんなに心を乱されたのが少し悔しくてからかうように口にしたけれど、笑う彼女はどこ吹く風だ。 「夢が叶ったからね」 その言葉は、ただ静かな秋の空に吸い込まれていくのを待つにはあまりに魅力的に過ぎた。その意味が知りたくて、どうしても聞き返してしまうくらい。 「どんな夢?」 「昼間、汗かいてたでしょ。 走ってたんだ。ケーキ買った帰りに」 はぐらかされて有耶無耶になってしまった理由を、当の彼女が今になって事も無げに話してのけたことが不思議で、続きを促して耳を傾ける。 「急ぐ事情があったのか?」 「ううん。 すごく走りたくなっちゃったから」 彼女の輝く瞳に、何度でも心を奪われながら。 話し出すと口が止まってくれなくて、自分でもなんだか可笑しい。今から話すことはきっと、他の人から見れば大したことのない日常の一幕なのに。 「はじめは普通に歩いてたんだけどね。でも、コートからきみの匂いがしたんだ」 でも、アタシにとってはそれがどうしようもなく特別だった。きみにもそうであってほしいと願うのがやめられないくらい。 「きみがいなくても、今はきみを纏ってるんだって思ったら、すごく楽しくなっちゃった」 アタシは走るのが好きだ。風の中に身を任せていると、今までずっと狭いところで縮こめていた手足を思い切り伸ばしたときみたいな気持ちよさが身体を駆け巡る。 きっとそれは、弾む心を抑えることなく、どこまでも自由に解き放っていいからなんだろう。 「レースのときは、一度きみとお別れしなくちゃいけないから。 みんなと走るのが最高に気持ちいいから、寂しくはないんだけどさ。こんなに楽しい場所にきみを連れていけないのが、ちょっと悔しかったんだ」 アタシがきみを好きになったのは、そんなアタシの好きな世界を、アタシにはできないやり方で愛してくれたから。 アタシの走りに夢を見てくれるって言ってくれた時に、きみの心の温かさに触れられた気がした。 アタシの自由を、きみは守ってくれるんだって。 「だから、きみと一緒に走ってみたいって思ってたんだよ、ずっと。きみを一番近くに感じながら、好きなだけ、自由に。 楽しかったよ。一つだけ足りなかったものが、やっと埋まった気がして」 レースが始まったら、そこはアタシたちだけの世界。きっとそれが変わることはない。 でも、その世界をアタシと同じくらい愛してくれるきみを連れていけたら、どんなに楽しいだろう。 そう夢見ることはやめられなかった。 「…嬉しいな、なんか」 少しだけ恥ずかしそうに呟くきみを見ていると、意地悪なアタシが伸びをする。 「なんで?」 照れ臭いのはわかっているのに、聞くのがやめられない。だって、きみの心を感じられるのが嬉しくて、アタシは走っていたんだから。 「前にさ、俺を背負って走ってくれただろ?シービーの見てるものを俺にも見せてあげたいって。 あのとき、本当に楽しかったんだ。シービーに少しだけ寄り添えるようになった気がして」 でも、きみが可愛く照れてくれるのは最初だけで、素直な気持ちを話すときのきみはどこまでも澄んだ瞳をしている。ここにはない美しいものに、想いを馳せるように。 そんなきみが素敵だって、きっと誰も、きみも知らない。 だから、誰にも教えたくないんだ。ありのままのきみが、アタシはどこまでも好きだから。 さっきまではあんなに恥ずかしそうにしていたのに、今アタシを真っ直ぐ見つめるきみの笑顔を見ると、その優しさを独り占めしたくて仕方ないんだ。 「だから、シービーも同じ気持ちでいてくれるのが、すごく嬉しい。 俺もこうやって、シービーと一緒に見る景色が一番好きだから」 きみはいつだって、アタシの欲しかった最後のものを、ぴったり埋めてくれるから。 自分の心臓の音がはっきり聞こえる。何度言われても、身体が熱くなる。 数え切れないほど繰り返したやりとりなのに、飽きもせずに同じ気持ちになる自分が可笑しくて、つい笑ってしまった。 本当にずるい。 いったい何回、アタシはきみの言葉に夢中になればいいんだろう。 君が好き。 きみにただそう言われるだけでいとも簡単に嬉しくなってしまうのがちょっとだけ悔しくて、それ以上に楽しい。 「でも、なんで今まで秘密にしてたんだ?」 「今言いたかったんだ。 想いを伝える時の雰囲気って、すごく大事でしょう?」 だから、きみもそうなっちゃえ。紅葉よりも、もっと赤く。 そんなきみも、アタシがぜんぶ好きになってあげるから。 秋の夕暮れ時は本当にいい時間だ。暮れなずむ空の下で輝く景色たちも、冷えた体を癒してくれる家のありがたみも、ぜんぶ一緒に味わえるのだから。 「今日は何食べたい?」 「鍋物がいいなぁ。〆に麺とか入るやつ」 「了解」 だから、きみが包丁を振るう小気味よいリズムだって、聞いていると楽しくて心が弾んでしまうんだ。 「でも、できるまでやっぱり寒いや」 今すぐに、きみを感じたくなってしまうくらい。 きみの言葉を思い出しながらきみを抱きしめると、胸の奥に温かいものが溢れてゆく。きみの言葉の温もりと、アタシより大きな身体の熱が、冷えていた身体をじんわりと温めてくれる。 本当に不思議だ。走ったときはあんなに満たされていたのに。 きみと話すと、もっともっときみが欲しくなる。 初めのうちは何も言わずにじっとしていたきみが、前に回した手をゆっくりと握ってくれるのが嬉しくて、ついくすくすと笑ってしまう。からかわれたと思ったきみが拗ねたように鼻を鳴らす音を聞いて、もう少しだけ抱きしめる力を強くした。 「きみの夢はなにかな」 アタシの夢はひとつ叶った。だから、きみの夢も聞いてみたい。 それにアタシが入っていたら、こんなに嬉しいことはないから。 「…好きなひとに抱きしめてもらうこと?」 「あは、もう叶ってるじゃん」 おどけたようにそう口にするきみに望み通りにくっつくと、きみはちょっと意地悪そうな声で言い返してくる。 「シービーとは言ってないし」 「ふーん。 そういうこと言うんだ」 意地を張っているのはわかっているし、そうやって拗ねたきみも好きだ。でも、やっぱり最後は素直になってほしい。 手を離すふりをすると、その前にきみから抱きしめてくる。それがたまらなく愛おしくて、また笑ってしまった。 「…ごめん。 今が幸せで思いつかない」 「ふふっ。 いいよ。ゆっくり考えて」 きみの夢を聞かせて。どれだけ時間をかけてもいいから。 でも、手は離さないで。 きみが幸せを想うときには、アタシが一番その近くにいたいから。 きみの腕の中にいると、きみの温もりと匂いがゆっくりと身体を満たしてゆく。あのときよりもずっと濃く、きみの息遣いを近くに感じる。 「うん。 やっぱり、この匂いが好き」 きみが愛してくれてるんだって、理屈じゃなくて直に感じられるから。 ああ、困ったな。どうしよう。 きみのごはんは食べたいのに、もうきみを離したくなくなってしまった。 「可笑しいね。ひとつ夢を叶えたら、また新しい夢ができちゃった」 きみと一緒にいると、やりたいことが溢れて仕方ない。自分でもちょっぴり戸惑ってしまうけれど、アタシにはこのくらいがいいのかもしれないな、とも思う。 きみといる時間に、いつまでも退屈しないで済むのだから。 「言っていい?」 「…うん」 だから、きみと話していたい。きみのことを感じていたい。 果てしなく続く青いターフと同じように、きみの隣にいると、アタシの心はどこまでも遠くに行けるから。 「夢の中でもきみに逢いたいな」 募る想いが言葉になって出ていってから、唇が少しだけ切ない。 でも、寂しくなんてないよ。 「…ん」 きみはちゃんと、そんなアタシに寄り添ってくれるってわかっているから。 切なさを埋め合わせるように重ねた唇を離したあとに、きみは優しくアタシを抱きしめてくれる。 「…叶うよ、きっと。 俺も、ずっとシービーと一緒にいたいから」 アタシの心を包みこんでくれる、とびきりの言葉を用意して。 また、新しい夢ができた。 この瞳がもう一度開くときには、きみのことだけを見つめていたい。 同じように蕩けたきみの瞳を見て、きっとアタシは言うんだ。 きみが好きだよ、って。