泣き虫狼 5話  憧れがある人は幸いだ。どこまでも追いかけるための強い意志を持てるから。確かな目標がある人は幸いだ。どこまでも進むべき道が見えているから。  じゃあ、そのどちらも否定されることになったら、その人はどう思うんだろう。おれには分からない。  ***    長く続いた雨がようやく止んだ。朝日が照らす水溜りが目に眩しい。青い影と透明な日差しが雨上がり特有の空気を伝える。  どちらかといえば雨は好きな方だけれど、それでもカラッと晴れた日差しの気持ちよさには叶わない。何となくソワソワとしてしまう。今日は休日で何も予定はない。だから何をしたっていい。朝ごはんにも早い時間だが、思い切って出かけることにする。大人っぽくなりたいと思うけれど、こんな風に一日を決めてしまうことが楽しい。こういうところがまだ子供なのかなと思ったりする。  大学までの道を遠回りして歩く。  雨の名残を避けながら、スッキリとした空気を胸いっぱいに吸い込む。淀んだ空気が入れ替わる感覚だ。ただでさえ気持ちのいい雰囲気の中、さらに気持ちが良さそうな道を選ぶ。自然公園の遊歩道だ。まだ湿ったままの葉っぱには艶がある。蜘蛛の巣に引っ付いた水滴が不思議な模様を浮き彫りにし、風に揺れる葉擦れの音や鳥の囀りが耳に心地よい。ウッドチップの散りばめられた足元は、水を吸ってぎゅむぎゅむとおかしな足音を生む。時折すれ違う散歩の老人やジョギングに汗を流す人たち。不穏な暗がりを湛えていた春先――アヤタラモンの騒ぎ――とはうって変わって、爽やかな明るさに満ちている。  ふと思いついて辺りを見回す。せっかくだからあの子たちに挨拶をしようかと思いついたのだ。見える限り人はいないし、電柱もないからカメラの心配もない。それでもこそこそと遊歩道から外れて茂みに入り込む。  まだ葉に残った朝露が服を濡らす。それもすぐに乾くだろう。気にせずガサゴソと奥へと突き進む。最後に見事な枝ぶりの紅葉をくぐれば、そこは木々が作った秘密のドームだ。そこは街の片隅で健気に暮らす、小さいデジモンたちの隠れ家である。  久しぶりと声を掛ける。警戒心を全面に押し出した雰囲気が和らぐ。小さな幼年期、ピョコモンやタネモン、ユラモンを背後に、サイケモンとラブラモンが平介を迎えてくれる。    まだ寒さの抜けきれない頃、この公園にはリアルワールドから迷い込んだアヤタラモンがいた。今はもうデジタルワールドへと帰って楽しく過ごしているはずだが、平介が閉じるまでにこのゲートは何度か開いていたらしい。この小さなデジモンたちはその時に迷い込んできた子たちなのだ。  この子らの存在を平介が知ったのは当のゲートを閉じたあと。今日と同じように散歩していたところを話しかけられたのがきっかけだった。アヤタラモンに怯えつつも平介――ヴォルフモンとアヤタラモンとの戦いを見ていたのだという。防犯カメラの映像から平介を見つけ出した、かのお嬢といい、どこで誰が見ているか分からないものである。    迷い込んできたデジモンであることだし、本来なら何とかしてやるべきかと思って話をしてみたのだが、この子たちなりにリアルワールドへ適応していたのだから面白い。デジモンという強大な敵がいないというのは少なくないメリットだと感じたらしい。まあ時々野良猫に泣かされているらしいので苦労もあるとのことだった。   「おはよう。久しぶりにお邪魔しに来だよ。」 「ヘイスケ久しぶりー!なんかお土産ある?お土産!」  いつでも逃げ出せるようにサイケモンの後ろに隠れていたユラモンが平介へと飛び込んでくる。遅れまいとピョコモンとタネモンも平介に齧り付いてくる。  この子たちはお土産があることを疑わない。だから、お土産が出てくるまで離れることはない。平介が鞄から菓子パンを取り出すと途端に静かになる。そして平介から離れて競い合うようにどれを食べるかでおしゃべりが始まる。その隙に、ラブモンとサイケモンと話をする。 「元気にすてだが。ながなが遊びに来る時間がなぐって久すぶりになったっけ、すまんなぁ。」 「ふふ、僕らは元気だよ。ここは過ごしやすいし、食べるものもあるからね。平介も元気みたいでよかった。」 「最近は僕たちの生活も結構安定してきてるからね。それより聞いてよ。僕たち神様扱いされてたりするんだよ。」  信心深い老婆が掃除する御堂で遊んでいたら、神様が遊びに来たのだと拝まれてしまったらしい。その様子をラブラモンが面白おかしく語り、平介は声をあげて笑う。   「それでね、僕たちをずっと拝んでくるから、僕たちも何かしなきゃって御堂の掃除とかしてるんだ。そしたらお供え持ってくるからさ、もう御堂に移ってもいいかなって思うくらい!」  なかなかうまく都会に適応しているようで一安心だ。予期せぬリアライズで困っているデジモンを助けたい。そう思って頑張ってきたが、このような形で人とうまく付き合っていけるのならば、平介の助けなどいらないのだ。誰も困って泣いたりしない、それが一番嬉しい。 「でも、僕たちの中にも新しい居場所を探して出ていった子がいるから、いなくなったら驚かせちゃうかなって悩んでるんだ。ゴブリモンのこと、覚えてるでしょ?」 「おお、もぢろん! おれの剣さ真似すてくれでだもん。会いだぇなぁ。でも出でいったっけのが。」 「うん。ここはあまり大きくないからって、出て行っちゃったんだ。自分がいたらご飯もたくさん必要になっちゃうからって。」 「そうが。優すい子だったもんな。」 「ね、平介、様子を見に行ってもらっていい? 僕たちが移動するかもって事、教えてあげて欲しいんだ。それに、もし困ってたら、ううん、困ってなくてもいつでも戻ってきていいんだよって伝えてほしいんだ。僕たちだってちゃんとちゃんと稼げてるんだからって。」    ***    二つ返事で請け負った伝言のために別の公園まで足を伸ばすことにした。  彼はちょっと離れたところにある大きな公園に暮らしているらしい。どうしても体が大きくなるから、大きい木々が体を隠してくれるのが都合がいいのだ。  地図アプリを開いてそこまでの経路を確認する。  歩くとそれなりにかかるけれど、田舎育ちの平介からすれば散歩の範疇だ。途中にはかつて文化祭に参加させてもらった大学と、その時に知り合った少年少女が住むという街がある。  せっかくだから寄り道しながら行こう。もしかしたら彼らに会うこともあるかもしれない。あの時は醜態を晒したので、もう少しまともな印象に塗り替えたいのだ。  てくてくと大通りを歩いていく。自動車が濡れたボディを乾かすように速度を上げて行き来している。太陽の光を反射してちかちかと目まぐるしい。逆に人の行き来は少ない。休日の早い時間だからか、そもそも目的となるようなお店も開店前だからか。  それでも早起きのパン屋さんを見つけて、幾つか焼きたてのパンを買ってみた。実は紙袋にパンを持って歩くってのをやってみたかったのだ。平介の祖父と共にみた映画で、パンの紙袋を片手に颯爽と異国を歩く姿にあこがれたものだ。村にはそんな素敵なパン屋さんはなかったから、今こうして試すことが出来てとても楽しい。映画の俳優はすらっとしてかっこよかった。今の自分の姿はどうだろうか。途中途中にあるショーガラスに自分の姿を映してみる。なかなか決まって見える……気がする。  ふと知った顔を見つける。魚屋の看板が立つ軒先に、いやに大きい二枚貝。白いシャツのよく似合った若い男性と談笑しているのは、何時ぞや世話になったカブトシャコモンだ。  彼も平介に気づいたらしく、平介を手招きする。  カブトシャコモンの前には七輪が置かれていて、小さなアジがあぶられている。皮からは脂がしみだしていて、墨に落ちては白い煙と食欲をそそるじゅぅという音が鳴っている。傍らには日本酒の小さな瓶。  一升瓶ではないのはこの朝の光に遠慮しているのだろうか。   「おお、久しぶりだな狼の。どうだ、一杯やらんか?」 「あれ? ここ魚屋じゃ…?」 「魚屋であってる。その七輪はカブトシャコモンの自前のだ。一応言っておくけど、そういうサービスはやってない。」 「まあまあ。吾輩が今日のおすすめを焼く! 匂いに釣られて客が来る! つまり客を呼ぶ招き貝というわけだな!」    そういうとカッカッと快活に笑う。青年の表情が和らぐことはないが、無理に追い出さないということはそれなりに効果があるのかもしれない。 「そうだ、内海。こやつは最近越してきたらしくてな。自らをヴォルフモンとするスピリットの使い手だ。一応顔くらいは知っておくが良い。」    内海と呼ばれた青年が、ぺこりと平介に頭を下げる。慌てて平介も頭を下げ、噛みまくりの自己紹介をする。対して内海は落ち着いた雰囲気で、過不足なく名前を名乗る。  歳は一つ上の大学生らしいが、自分と比べて分厚い体や落ち着いた仕草は同じ大学生にはとても思えない。端的でいてはっきりとした物言いは平介にとって新鮮で、好感しか出なかった。  しかも、気づけば青年の頭には少し色の薄いベタモンが乗っている。無口らしく口を開くことはなかったが、こちらも平介に会釈をしてくれたので、同じく会釈を返して挨拶とする。 「まあ、この街じゃトラブルはうちの探偵事務所が一番なんだがなぁ?!」    内海の何でも屋っぷりに関心しきりの平介に危機感を覚えたか、突然宣伝めいた口調を述べ上げるカブトシャコモン。  しかし内海は冷静極まりなく、状況を判断している。   「まだ飲むのか?そろそろ店の手伝いに戻るから、邪魔にならないようにしてくれ。」    くいくいっとベタモンが店の奥を指差す。頷いて店内へ向かう内海は、平介に対して丁寧に一礼してこの場を去っていった。  ちびちびとお酒を舐めるカブトシャコモンへ、道ゆく人たちが向ける目は穏やかだ。時折りんねちゃんに怒られるぞなどとヤジもとぶ。  なんとなくだがこの街はデジモンにとっても過ごしやすいのだろう。カブトシャコモン然り、内海とベタモンしかり。 「で、吾輩の酒は飲めんのか?」 「いや、まだ未成年だでな。」 「そういえば言っておったか。なら今後のために銘柄だけでも覚えておけい! お前さんの国の酒だぞ。」  何やら流暢な毛筆で書かれているが、どうにも平介には読むことができない。 「……そういえば鞍馬さんはどうしたの?」    誤魔化すために咄嗟に出た一言は、この豪放磊落なカブトシャコモンをあっという間に皺皺にしてしまった。乾物のような姿に思わずパンを差し出してみる。 「そ、そうだ、パンとか食べねか? 腹さ貯まるものも必要だべさ?」 「…うん、ありがとね。」    二人でモシャモシャとパンを食べる。魚屋の前で、潮の香りにパンのふんわりとした匂いが混じる。食べながらにカブトシャコモンが語ることには、最近何やら妙な雰囲気があるらしい。そのため、りんねを毎日護衛していたのだが、女子高生目当てと思われて出禁をくらってしまったとのこと。   「ワガハイ、そんなつもりじゃなかったのに! ちょおっと目線が白くてきれいな太ももに逸れただけなのに酷いよぉ…。」 「ちょっとおれからはなんとも言えねぇな…。分がんねでもねぇげども。それより変な空気ってのは?」    カブトシャコモンが雰囲気を変える。だらしないすけべ親父から、歴戦の戦士のそれへと。  今確かに起きていることは一つだけだと、口を開く。    ――野良猫が姿を消している。  ***    カブトシャコモンと別れて、元々の目的に戻る。思いの外長居してしまったが、まあどうせ休日だ。最後に聞いた話も気にはなるが、今は優先することがある。    商店街を抜けてさらに大通りをいく。遠目からにも見えてくる茂った木々が平介を迎える。サイケモンたちが暮らす公園よりさらに大きい自然公園だ。都会は意外と自然に触れ合えるような施設にお金をかけている。  そこがゴブリモンの新しいねぐららしい。公園を入った中には綺麗に整った花畑があって、遊歩道が二手に分かれている。  案内の看板を眺めれば、手前は健康志向の遊具や噴水があり、奥の方は森をイメージしたより自然に近いエリアとなっているらしい。  森をイメージというより、事実森だった地域らしく、整備されてはいるが起伏が大きい。途中のおいしそうな名前の街とは異なり、デジモンが受け入れられるような土壌があるようには見えない。だから、ゴブリモンを探す奥に向かうべきだろう。  流石に自然に近いというだけあって、こんもりとよく草木が茂っている。それなりに手入れはされているようだが、最奥までくれば手を入れきれてない茂り放題な有様だ。  キョロキョロと当たりを伺い、茂り放題の草へと入り込む。入ってしまえば人目も気にならない。ここにゴブリモンが暮らしているなら、自分が見つけるのは難しくとも、あちらからなら容易に見つけられるはずだ。    がさり、と平介の目の前の木々が音を鳴らし大きな影が現れる。平介の目線の先には緑色の肌に耳元まで裂けた大きな口、なにより鬼そのものである角が生えていた。    "オーガモン。鬼人型のウイルス種で、デジモンハンターとの異名を持つ。"    そして、かつてのゴブリモン、つまり平介の友だちだ。 「久しぶりだな、ゴブリモン! いや、今はオーガモンか! いやぁ、見違えたべな!」 「久しぶり、兄ちゃん! よくここが分かったね。っていうかよく僕が分かったね!」 「おお、サイケモン達が教えてくれてな。それに、ゴブリモンのごと見間違えるごどはねぇよ。……すても立派になったっけね。」    オーガモンとなり見た目は厳つくなったものの、平介にとっては大した差はない。自分の胴体程もある腕をぺたぺたと触る。   「筋肉もすごいな!おれも簡単さ投げられそうだな!」  かつては自分が放り投げて遊んでいたというのに、変われば変わるものだ。   「そんだ、これお土産だ。パン屋さんで買ってぎだんでな、まだ焼ぎだでだがらうんめぇぞ。」  それから2人はのんびりと話をする。ゴブリモンが新たなねぐらを見つけるまでの苦労話や平介のオカルト研との関わり。  猫やアライグマとの縄張り争いには平介も大いに笑ったし、文化祭の華やかさに前のめりになって話をせがむオーガモンは何にも変わらないままだ。 「そうだ、あいつらがら伝言だ。もしかしたらこれがら先、引っ越すするがもってごど。それど、いづでも戻ってぎで大丈夫だどーって。結構サイケモンもラブラモンも寂すがってだがら、たまには顔出すてあげでな。」 「引っ越し……するんだ。やっぱり、あまりよくないのかな…。うん、みんなの顔を見に行きたいなって思ってるけど、今の僕の顔じゃ怖がられちゃうかもしれないから、なかなかみんなの前には出られなくって。だからにいちゃんから元気だって伝えてくれよ。」 「ん〜、ほだなこどはねど思うげんども、でもいいよ。にすても体大ぎぐなったら色々大変でねが?」 「いや、この方が色々と、都合がいいんだ。ほんとだよ。」 「ならいいんだども。」    沈黙が降りる。オーガモンにも何かやりたいことができたのかもしれない。互いに思いを巡らせるような優しい沈黙だ。  スッとオーガモンが立ち上がる。   「それより見てくれよ。」  そう言ってオーガモンが二本の骨をクルクルと回し、華麗な骨捌きを見せる。 「どう?にいちゃんみたいだろ?」 「おー! すごい! かっこいいなぁ! 体格がいい分おれより見栄えがするっけな!」  そ、そう?とはにかむオーガモンをベタ褒めする。うれしくなって平介も近くの枝を取り上げて、二刀流の心構えを教えてみる。対デジモンとしての剣をデジモンへと教える。村長が知ったら目をむくかもしれないな。そんなことを考えつつも、水を吸うように覚えのいいオーガモンに気をよくする。  右の剣を囮にした二段構えの技。相手の力に逆らわず、逆に力を預けることでバランスを崩させる攻めの守り。  二人の時間は容易く針を回し、気がつけばもう月が覗く頃合いとなる。 「ありゃ、もうこだな時間が。なにむぎ気付がねがったっけね。」 「あっという間だったね。ふふ、これで俺もにいちゃんに負けないくらい強くなっちゃったかな。」 「いやいや、おれはまだ負げるつもりさねぇぞ。んだげんと、おれを負がさせられる位さ強ぐなってくれたらおれも嬉すいな。」 「うれしいの?負けちゃうのに?」 「何言ってるさ、オーガモンだっておれに負げでも楽すそうにすてんべ。それど一緒だ。おれが教えだおめが、おれより強ぐなってけるなら、おれの技がちゃんと継がれだってごどになんべ。おめが、おれに真正面がら向ぎ合ってけだって証拠だ。それに、おれが継いでぎだ剣が、継がれでいぐんだ。ほだな風さ繋がっていられるのが嬉すいんだ。」 「……よくわかんないや。でも、絶対にいちゃんより強くなって見せるよ。」 「おれもそういうの、最近わがってぎだどごろだ。オーガモンもそのうぢわがるようになる。だから、その時を楽すみにすてる。」  そう言って、お互いのこれからを励まし合って別れるのだった。    ***    それからしばらくは平和な日々が続いた。平介は相変わらずオカルトカップルに連れ回されていたし、千本桜からは時々変な頼み事を受けたり、大学の課題や試験に頭を悩ませる。  春先の全く口を開かずに過ごしていた日々から思えば、びっくりするほど忙しくも楽しい毎日となった。    だから、公園のちびたちやオーガモンのところへと遊びには行けず仕舞いだった。気にはしてても毎日へとへとだったり急に予定が入ったり。それでも平介の周辺でおかしな噂を聞くことはなかったし、助けてと駆けこまれることもなかった。そのことに安心して気を抜いていた。  その期間、変わったことといえば村長から荷物が届いたことくらい。平介の好きなお菓子の詰め合わせと、そして綺麗な白い布で包まれた"御神体"。  手紙には突然光ったから送ることにしたとある。だが特に必要になることはないだろう。そんなことを思って、こちらの御神体は神棚にいてもらい、忙しい日々にその理由も忘れてしまった。    カブトシャコモンの口にした警句も、わざわざ御神体を村から出すことの意味も、平介にはわからなかった。ただ、日々に精いっぱいだったのだ。    ***  『助けてくれぇ!!』  大学からの帰り道、繁華街のそばを歩いていた時に助けを求める声を聞いた。だから平介は、その善性に従うままに後先考えず路地裏へと飛び込んだ。これから先、幾度も幾度も見ることになる、平介の決定的な正しい間違いだ。聞こえなければ、そこにいなければと何度思ったかもしれず、それでも聞こえてくれたことに、そこにいれたことに感謝する。どこまでも平介を苛む悪夢はここから始まったのだ。  暗がりで、派手な髪色をした男が足を引きずりながら何かから逃げている。手にはカメラを持っていて、何かの撮影にきたのかもしれない。それを追う影は人にしては大柄すぎた。チンピラ同士の諍いではなく、明らかな異形の仕業だ。    男を庇うように前に立つ。影が僅かに身じろぎする。  ――そして、月明かりが影を照らす。    映し出すのは人を襲う悪鬼。  深い緑の体色に、丸太のように太い腕。  手には二振りのこん棒。白く鈍く光それは、骨の意匠そのものだ。  人に暴力を振るったその影はオーガモンである。  通常のオーガモンであれば棍棒は1本。しかしこのオーガモンは2本を持つ。  平介はこのオーガモンを知っている。なぜ2本を持つのかも、よく知っている。  おれの真似をして枝を振り回していたら、進化した時に2本のこん棒になったのだと言っていた。  自分の憧れに近づけたかなと、はにかみながら言ってきたオーガモンの顔をよく覚えている。憧れだと言ってもらったことに、面はゆくて、嬉しくて、そのあと一日ずっとふわふわとした気持ちでいたのだって明瞭に思い出せる。次の日の大学でもあまりに締まりのない顔だからとオカルトカップルにすら気味悪がられてしまったくらいだ。  そんな些細なことだって、思い出せてしまうくらい大事な思い出で、大事な話で、大事な弟分だった。  みんなをこの力で守ると言っていた。なのに──今は暗い影が落ちている。   「オーガモン…? どうして……いや、誰かに襲われてたんだよな……? お前がそれから守ってるんだよな。じゃなきゃ……お前が襲ってることになっちゃうもんな…?」    ウソだと言って欲しくて、誤解だよって言って欲しくて、そんなことありえないのをわかっていながら聞いてしまう。頭を掻きむしるように、手で掻き乱す。乱れた心のままに、平介の体からも落ち着きが失われている。  足を引きずる男の足には大きな痣。歪な方向に曲がってしまっている。まるで固いこん棒で打たれたかのように痛々しい。男が必死にオーガモンから離れようともがく。平介の声も聞こえていないようだ。  平介が望む答えはどこにもない。   「──なんでそんなやつを守ることになるのさ。僕が守るのは、仲間だけだよ。それに、襲っているっていうか、懲らしめているってところかな。そいつ、僕たちをずっと追い回していじめていたやつなんだ。悪いやつだよ。」  平介は、リアルワールドとデジモンとの間で起きる困りごとを何とかしたかった。すれ違いで悲しい思いをするのを少しでも減らしたいのだ。見知らぬ世界で、困って泣いてしまっているデジモンがいるなら、助けたい。だから、見知らぬ世界でも、この世界を受け入れ、受け入れてもらおうと頑張るあの子たちの力になりたいと思った。  だから、ゴブリモンが守るといったその言葉に、確かに救われていたのだ。同じ気持ちを持つデジモンがいてくれたのだと。自分は一人ではないのだと、そう思ったのだ。    カメラのレンズがひび割れている。デジモンを知らない人から見れば、確かにUMAとかそういう存在に思えるだろう。中には珍しいからと言って追い回す人がいてもおかしくはない。  だからオーガモンは仲間を守ろうと力を振るった。平介のように、平介から学んだ力を行使した。人を守りたいと、デジモンを守りたいと言った平介と、仲間を守ると言ったオーガモン。  初めから違うものを見ていた。志を同じとしたことはなかったのだ。    うっすらと悲しみに涙が滲む。自分の思いなど何一つ届いていなかった。守るにしたって方法はいくらでもある。でもオーガモンはその中から力を振るうことを選んだ。  二つの世界の齟齬を力でもって解消する。平介だってその手段を下に見たことはない。言葉で解決できるならその方が絶対にいい。でも、言葉が届かないことだってあるのだから。守るために振るわなければならない時だってある。でも、一息に力を選び続けるなら、そのような行いの果てに待つのは終わりない闘争だ。人とデジモンにある溝は深まり、修復不可能な深い谷が生まれる。  そんなことにしたくなくって、迷い込んだだけの迷子を優しく返してあげられるように、二つの世界を穏やかでゆるやかな敷居を作りたいと思っていた。それを、そうあるべきだという平介の理想を、オーガモンに伝えられていなかった。伝わらないままに力だけが育ってしまった。それが、どうしようもなく悲しかった。  "やめてくれ。そんなことしちゃならねぇ。"  そう言いたいのに、伝えたいのに、声が詰まって何も言葉が出てこない。 「僕、やっと強くなったからさ。みんなに近づく悪いやつをやっつけるんだ。そうすればみんな平和に暮らせるもんね。」    どこまでも、変わらないのだ。にいちゃんにいちゃんとなつっこく平介に笑いかけていた時から、その目はただただ親愛を示している。真ん丸で透き通った光が平介を見ている。  優しさから住処を出ることを選んだゴブリモン。平介と楽しく木の枝をぶつけ合ったオーガモン。人を敵と断じて加減なく力を振るうオーガモン。  ラブラモンとサイケモン、小さなデジモンたち。出ていったゴブリモンを心配していた彼らを思う。  おれは一体、何を言えばいいのか。何もわからないままに、それでも譲れない一線が確かにある。 「それは、ダメだよ……。してはいげねぇごどだ。」  結局何一つ気持ちを伝える言葉が出てこなくて、情けなくてたまらない。なのに、自分の役目だけは自分を離してくれない。自分が選んだ役目だ。役目を果たさなきゃならない。  もう一歩、踏み出す。恐怖に這いずり逃げる男と、オーガモンを隔てるように立つ。 「にいちゃん……? そいつを渡してくれないか。そいつがいたら、みんなが平和に暮らせないんだ。そいつはみんなをいじめる悪いやつなんだよ?」  オーガモンがおれを説得しようとしている。それはどこまでも仲間への愛にあふれた、とても優しい気持ちから出た言葉なのだろう。  だが、それではいけないのだ。どれだけこの人が悪い人間であろうと、おれは人を守る。人は人によって裁かれるべきだ。そうやってこの世界は回ってきた。そして、人の世界を守るためにおれがいるのだ。そのために与えられた力なのだ。    人にとってもデジモンにとっても優しい世界であればいい。でもそうではないのだ。この世界はまだ、デジモンを許容できるようにはできていない。  おれは人だから、人として、人のために戦う。  できる限り優しくありたいとそう思うし、そう願うけれども。それが出来ないから戦いがある。たとえ誰が相手だとしても、譲れない一線があるのだ。   「なんで……。にいちゃんは僕たちの味方じゃなかったの? そいつは僕たちをいじめてたんだよ? なのに、なんでそんなやつの味方をするの…?」  オーガモンがうつむいていく。   「にいちゃんも──僕たちを助けてはくれないのか。僕たちをいじめるのか。──僕は、にいちゃんにあこがれたんだ。にいちゃんみたいに強くなりたかったんだ。ようやく、ようやくここまで強くなって、にいちゃんにだって褒めてもらえるって、にいちゃんだって守れるくらいに、そう強くなったのに──。」  ギラリと、強い敵意がむき出しになった視線がおれを貫く。    ああ──そうか、お前はおれのためにも強くなってくれたのか。  今更になって進化の理由を悟る。でももう。  その先は言葉にならない。何も言えないまま、おれは御神体をかざす。    オーガモンがおれに向けて、2振りの骨を振るい、襲い掛かってくる。加減はない。かすりでもすればたやすく肉を潰し、骨を砕くような一撃がおれに向けられる。    こんなに悲しいことはない。  こんなはずではなかったのに。  もっとできることがあったはずなのに。    それでも体は自然に動く。手に光の剣が現れ、襲い掛かる骨の一撃をいなし、腕に装着された手甲がさらなる一撃を防ぎ、肩に出現した装甲でオーガモンへ当て身を食らわせる。  そのまま吹き飛んでいくオーガモンを横目に、残りの装甲が光の帯となっておれにまとわりつく。最後の輝きが消えるとき、おれはヴォルフモンとなる。    げほげほとむせながらも、オーガモンがヴォルフモンとなったおれに、目を見開く。  理解してもらえない憤りに、自ら武器を向けたのはオーガモンだ。だが、そうであっても、オーガモンにとっては自らを守ってきた強さの象徴だ。自分が心から憧れ、慕った相手だ。その姿に動揺しないはずがない。    それを平介はわかるから、もう止めようと声をかけ続ける。まだ、まだ戻れる道はあるはずだ。  人を傷つけてしまったことは戻らない。でも、オーガモンのためならば、平介はいくらでも頭を下げるし、どれだけの非難だって受け入れる。いくら殴られたってかまわない。  だってそれがオーガモンにとっての兄貴分たる自分の役目だ。絶対に、これ以上の深みに落ちてほしくない。ただ笑って話をできるように、そんな陽だまりに戻って来て欲しいのだ。 「オーガモン! 話をしよう! 頼むから、聞いてくれ! お願いだ!」 「ダメだ! もう俺はあんたを信じない! 俺はあんたを倒して、そいつを殺して、みんなの平和を守るんだッ!! 邪魔するんじゃ、ない!」  オーガモンの強く悲壮な意思に、未知の力が応える!  その体から激しい光が溢れ、存在が書き換えられていく。それは奇跡を巻き起こす進化の輝き。  光が収まった先には、人狼ともいうべき青銀のデジモンが顕現する。    "ワーガルルモン。野性に裏打ちされた鋭い感覚は獲物を逃がさない! 必殺技は両腕の鋭い鉤爪で相手を切り裂くカイザーネイル!!"  もうすでに言葉もなく、ワーガルルモンは一息に飛び込んでくる。高速の連撃。爪爪牙! それら全てをかろうじて剣が受ける。  2体の狼が牙を向け合うように何度も交錯する。もはや平介に余裕はない。完全体たるワーガルルモンは、ハイブリッド体であるヴォルフモンと比べて高い位階にある。突如格上となり、武器も二振りの骨から鋭い爪と拳による肉弾戦だ。一撃を食らえばただでは済まない。それでも平介は願いを口にし続ける。だって諦めてしまえば本当に全てが終わってしまう。   「待ってくれ! オーガモン! お願いだっ!」 「問答無用だ!!」    ワーガルルモンの右腕が弧を描きヴォルフモンへ迫る。同時に左腕がヴォルフモンの死角を狙い振るわれる。平介の直感がかろうじてそのコンビネーションから自らを救う。しかし避けた先には強烈な裏拳が襲い掛かる。とっさに受け流すも、すでに両腕の装甲は鋭い爪によってぼろぼろとなっている。激しい嵐のような連撃が、行きつく間もなく振るわれる。  今平介が戦えているのは、まだワーガルルモンは戦いに、体に慣れていないということ。そしてもう一つ。    そのどれもが──。  もはや止める方法は力以外にない。これまで相手にしてきたデジモンたちと同じように、荒ぶる力には力で応えるしかないのだ。力ずくでも押さえつけ、説得を続ける。それしか平介にとれる道はない。    暴風のように振るわれる爪と牙。皮一枚削られながらも爪の一撃を剣で逸らし、一気に懐へと入り込む。超接近戦だ。剣を放り出し、拳をワーガルルモンへ叩き込む。ヴォルフモンとワーガルルモン。機械仕掛けの人狼と野性あふれる逞しき人狼。その2頭が共に拳を握り、刹那の世界へと潜る。  一瞬が引き延ばされ、すべての動きは空気に縛られて鈍重極まりない。広がった知覚が、ヴォルフモンの頭を狙って振るわれた爪を捉える。呆れるほどゆっくりとワーガルルモンの右腕をはたき落とし、全身をひねり上げるようにして拳を打ち込む。この一拍すらひとひらのこと。鉄球が壁を打ち抜くような鈍い音が響き、それすら置き去りにして2頭が牙を向け合う。  肉体の強さ、速さはワーガルルモンが上回る。だが、戦いにおいての経験と直感はヴォルフモンに一日の長がある。一度掴んだ流れをヴォルフモンがむざむざ渡すことはない。当然2撃目を狙う。必死に防御を固めるワーガルルモンだが、鼻先を擦るような軽い掌底が戦いの意識を乱す。わずかな隙を、こじ開け、打ち抜く。頭が下がったところに、こめかみを打ち砕くような一撃を見舞う。  よろめきながら下がったワーガルルモンへ、再び光の剣を向ける。獣の瞳が、ワーガルルモンへと振るうべき軌跡を捉える。    ──痛みに怯え、恐怖に震え、信頼していたはずのおれに裏切られても、それでも信じていたかったと"おれ"を見ているワーガルルモンを。  瞬間すべての意識がはがれる。空白が頭を支配し、我に返る。   「あ……、お、おれは。いや、まだ、そうじゃなくって……。」 「……"あんた"、本当に強えよ。俺が憧れた通りだ。だから、そんな顔しないでくれよ。もう、俺たちは戦うんだって、そうだろう?」 「違うッ!! まだ、おれはお前に話をできてない! 頼むから、話を聞いてくれ!」 「ダメだ! 俺は何を言われようと、誰に止められようと、この街からあいつらを傷つけるものをみんな消してやる。あんたは、それが嫌なら、俺を倒すんだ。俺はッ、あんたの敵で、あんたは俺の……敵だ。俺も、あんたを倒す。本気だ。全力でやる。あんたを倒して、俺は、あいつらを守れるってことを証明してやるんだ!!」  そういうと一気に後方へと飛び下がり、そのまま夜の影に消えていく。    逃がしてしまった。いや、逃した。今からだって平介はワーガルルモンを追うことができたのだから。  でも平介には、決めることが出来なかった。人を守るのならここで倒さねばならなかった。友として振る舞うのなら手を取らねばならなかった。    どちらも選べずに、ただ間抜け面を晒している。これほど無責任で、愚かな行動があるか。ヴォルフモンの鎧が光に戻り、膝をつく。頭の中が散り散りに乱れて何も考えられない。ただ、ワーガルルモンの言葉が頭を埋め尽くす。    "敵"  平介が欲しかったのは友達で、敵なんかではなかった。人ではなく、弟分ではあったけれど、確かにゴブリモンは平介にとって初めてできた友だったのだから。  ***  平介が与えたダメージからすれば、2,3日は動けないはずだ。それまでに決めなければならない。  ──覚悟を、だ。平介は役目を果たす。その意識が揺るぐことはない。ワーガルルモンの答えもそうだろう。互いの意志がぶつかるのなら、戦いで決めるしかない。  ***    あれは春先のことだ。彼らと知り合う直前まで、平介は人と話すことが全く出来ていなかった。受け入れられないことに怯えて、誰に対しても無理矢理な標準語で壁を作っていた。できる限り声を出すことを控えて、一人でいられるところを選んだ。友達が欲しいと願いつつも、自分の殻を破るほどの余裕がなかった。初めての都会は、村だけが世界のすべてだった平介には広すぎた。    そんな風にカチコチに固まった気持ちを和らげてくれたのは、彼らだったのだ。    初めこそヴォルフモンとして、その力への感想ではあった。それでも、すごいねと話しかけられてくれたことが嬉しかった。平介もこんな場所でたくましく生きている彼らをすごいと褒めた。デジタルワールドという故郷を出てもしっかり自分を持っている事が羨ましかった。こころから尊敬した。  だから平介は彼らと話すようになった。人の友達は全く出来なかったが、彼らがいてくれたから故郷へと逃げ帰らずに済んだ。ちょっとずつでも知らない場所にいることに慣れようと頑張った。朝、教室であいさつができるようにもなった。まだ、誰にも聞こえないほどの声ではあったけれど。  泣き言を漏らしたり、彼らの失敗談を聞いたり、発破をかけられたり。その時間、確かに平介とゴブリモンは確かに友だちだったのだ。  ***    今、ゴブリモンはワーガルルモンとなって、仲間を害する人間を排除するといった。いや、人以外であってもだ。  カブトシャコモンが言っていたではないか。猫が消えたと。サイケモンやかつてのゴブリモンだって、猫に襲われることもよくあるのだと言っていた。  ワーガルルモンが牙を向ける相手は正真正銘、仲間を傷つけうる全てだ。    多くの人は野良猫がいなくなっても気にしない。せいぜい餌付けをするような人たちが悲しむだけだ。先日のような小さなデジモンを狙うような輩はそもそも誰からも歓迎されていない。だから彼らが消えたとしてもすぐに大きな問題にはなっていなかったのだろう。でもこれからは違う。正真正銘、あの公園に近づくものすべてにワーガルルモンは牙をむく。デジモンとして持つ力のすべてを凶悪なまでに発揮して、あの公園からなにもかもを追い出して、彼らだけの楽園を作るのだろう。そうするつもりなのだ。どんなに困難であっても、ワーガルルモンはそれを完遂すると決めている。平介を敵と断じた以上、もう戻れる道などないのだから。  カブトシャコモンが街の人から和やかに笑いかけられていた。内海のベタモンも、魚屋の主人におとなしくなでられていた。サイケモンたちだって、神様扱いなんて笑っていたけど、もう人とのつながりを得ていたのだ。あの街のように、デジモンが共存していくための兆しが確かにあったのだ。それを知っていてなお、平介には違う答えしか出せない。  もし──ゴブリモンが相談してくれていたら。幼いデジモンを着け狙う輩がいるのだと、仲間を守りたいのだと、そう話してくれていたのなら。  そうであったら平介は彼らのためにいくらでも力を貸した。無事に暮らせるような場所を探すし、危害を与えてくる輩にも立ち向かう。猫とデジモンの仲直りだって取り持つべく頑張る。苦手な相手にだっていくらでも頭を下げるし、代償が大きくたって千本桜に力を借りることだってしただろう。  なんだってしたのだ。どんなことだって、平介は彼らのためにしてあげたかったのだ。  ゴブリモンは平介に憧れたと言った。平介はゴブリモンを友だと言った。大切に思っていたから、一緒に笑ったり、他で言えない悩みを話した。でもそうではないのだ。彼は群れを守らなくてはならなかったし、敵も多かった。必要なのは友だちではなく、守ってくれる強者だった。なのに平介は一緒の目線で彼らと過ごした。力のあるものであっても、泣き虫で頼りにならない奴だと、そう思わせてしまった。  自分の、そんな情けなさが彼を凶行へと駆り立てた。それを止められない自分は、なんと無様なことだろうか。  ***    どうしようもない夜が明けて、平介はいつもの通りに家を出る。講義に出るために体を大学へと運んでいく。  おそらくワーガルルモンは他の人間を襲うことはしないだろう。自身が言っていた通り、力の証明をするまでは、他に牙を向けることはない。  平介という、彼にとっての力の象徴を打倒すこと。ただそれだけのことに集中できる。ゼロかイチか。それがデジモンというものなのだから。    その二日間を平介はどう過ごしたのか覚えていない。大学に通っていたのはわかっている。ノートは講義の内容で真っ黒になっているし、実習で泥だらけの作業着だってある。  学食でご飯も食べたし、オカルトカップルに絡まれもした。ただ、なぜか自分の前なのに妙に大人しかったような気もする……。  それでも、それだけだ。  何もかもが素通りしていく気がする。いや、届かなかったというべきか。  初めてできた友達を、弟分を自らの手で討つ。もしくは、討たれること。平介にとれる選択肢はそれだけで、選べるのはただ一つで、選ぶのは一つ。  日の沈んだ暗いままの部屋で膝を抱えている。目の前の机には二つの御神体。いつも肌身離さずに持ち歩いている一柱。ヴォルフモンの力を秘めている。そしてもう一柱。さらなる力を呼び込む、獣の特性を秘めた御神体。村から送られてきた、平介の切り札。  ほのかに光その二柱の前で、ずっと平介は考えていた。  ***  待ち合わせなどしてはいない。それでも平介とワーガルルモンは同時にそこへ到着した。平介の大学近くにある自然公園。二人にとって代え難い思い出の残る地だ。   「……もう、やらんなねんだな。まだ、もっど後になっても良いっけんだげどな。」 「そうはいかない。今だってみんなが困ってるかもしれない。助けがいるんだ。こないだは負けたけど、もうあの時とは違うぜ。俺はこの体に馴染んだし、あの時みたいな無様は晒さない。絶対的な力の差がある。今のあんたじゃ俺に勝てないよ。……あの時だけが、俺を倒せるチャンスだったんだ。あんたは俺に甘すぎた。」  確かにワーガルルモンの雰囲気がより荒々しくなっている。自分を知ったことで、無駄な力みを削ぎ落としてより速く、力強くなっている。戦意に満ちた瞳が平介に絡みつく。 「さっさと変身しろよ。そうしたら、それが、始まりだ。」 「ちょっとでも、あと少しだげんとも、おめと話すてだがったんだげどな。わがった。そんだら……やんべが。」    顔の高さへ御神体を掲げ、力を希う。  吹き出した光が平介を包み込み、灰銀の人狼が姿を現す。野性と闘争心をむき出しにした姿のワーガルルモンと、機械の装甲に静かな諦めを纏うヴォルフモン。どこまでも対照的な二人が、己の武器を構える。    そして一瞬の交錯。  先手を打ったのはワーガルルモンで、キリのように鋭く尖らせた最速の一撃がヴォルフモンへと叩き込まれる。  だが光の剣がキリの一撃をほんの少しだけずらした。それだけで最速の一撃はどうしようもない隙へと姿を変える。戦いにおいて隙を見せたものに下されるのは報いの一撃。柔らかく握られて二振りの光剣──リヒト・シュベーアト──が必殺の斬撃を繰り出す。  脇腹をしたたかに打ち付けられて、ワーガルルモンが崩れ落ちる。 「なん……でだ? まだ、足りないのか? もう、俺は完全体で、あんたより強くなったはずなのに!」 「……おめの動ぎなら、おれには分がる。だって、それはおれの動ぎだ。おれの戦い方だ。おれが教えたごどだ。おめはおれのごど慕ってけでいだがら。おれの動ぎ真似でけでだんだべ。なら、どだなに速ぐだって、おれにはわがるんだよ。」 「……だって、仕方ないじゃないか! 俺はあんたに! あんたみたいになりたくて! 僕にとって一番強いのはにいちゃんなんだから、そうなるだろう!! ──あの時泣いてたにいちゃんの代わりになってやりたくって、だから強くなったんだよッ!!それをわかってよ!!」 「お、おれの代わりに…?」 「そうだよッ! にいちゃんみたいに優しい人を、あんな風に泣かせちゃ駄目なんだよ! にいちゃんは、もっと普通に笑ってないとダメなんだ!そう思ってるんだよ、俺も!みんなも!」    ワーガルルモンの脇腹は強烈な打撃──光の剣はありとあらゆるものを斬らずにいられる──に足元すらおぼつかない。体を構成する0と1のデータすら揺らすほどの一撃だった。  それでも、ワーガルルモンの戦意が失われていくことはない。ただひたむきな、憧れに抗うための力をワーガルルモンは願う。そしてその願いに、再び未知の力が応える。  ワーガルルモンの腕が、脚が、内から弾け飛び、データが再構成される。体全体が重厚な筋肉で膨れ上がり、巨大化した肉体に見合うだけの装甲を纏う。それはクロンデジゾイド製の装甲であり、武具だ。猛き野性と冷静なる知性が調和した戦いの申し子。ヴォルフモンとは異なる、装甲を持つ人狼へとx抗体化したのだ。 「これなら…、あんたとおんなじだ。もう……にいちゃんを越えられるぜ…。」  短期間での進化とX抗体化。激しい痛みを無理やり打ち消すような変化に、反動がないはずがない。それでもワーガルルモンは笑ってみせる。  まだ、平介を越えられるのだと、平介ごとみんなを守ることができるほどの力を持つのだと。そう、何一つ変わらない優しい瞳が語っている。 「……ああ。そうがもすれねな、ワーガルルモン。本当に…、本当に強ぐなったよ、おめは。」  戦いの相手。越えるべき相手。敵であるとさえ言ったはずなのに、それでもワーガルルモンは喜びを隠さない。目に輝く光は幼ささえ感じさせるものだ。   「それでも! おれはおめに越えられるわげにはいがねぇ。だってそうだべ! 兄貴が弟さ簡単に越えられぢゃ、駄目だべ! おれの、おれの友だちが間違ってるごどすてるんだがら、殴ってでも止められる力がなぎゃ、それは嘘だべ!!」  ヴォルフモンのまま、もう一つの御神体を取り出す。デジモンとして進化したワーガルルモンに対して、人としてハイブリッド体として、平介が立ち向かう。突き立てられた御神体が、新たな光の環を描き、閃光を放つ。  ”ダブルスピリッツエヴォリューション!”  平介の持つ二つの御神体が共鳴し、混じり合い新たな姿が生まれる。    "ベオウルフモン! 人の知性と獣の野性を併せ持つ光の戦士型デジモン! 必殺技は、二刃を持つ大型剣トリニテートを亜高速で振り抜くツヴァイハンダー!"     平介が新たに見せた力に、ワーガルルモンの獣の本能が警鐘を鳴らし、たじろがせる。そして、目を見開く。   「なんで、なんであんたが、泣いているんだよ! あんたの方が強いのに、誰でも守れるくらいに強いのに! なんであんたが泣くんだッ!!」 「泣ぎ虫でごめんな。おめば助げてやれなくで、ごめんな。おめば止めでやれなんぐでごめんな。本当にごめん。」 「止めろよ! 俺はあんたに泣いてほしくなくって強くなったんだ! みんなを笑顔にするためにここまで来たんだぞ!? あんたに笑ってて欲しかったのに! なんで泣くんだ!!」  涙を拭うことすらせず、ただ流れるに任せる。ああ、こんなにも涙が出ることすら疎ましい。ワーガルルモンがこんなにもおれのことを想ってくれているのに、おれのために戦ってくれているのに。  なのにおれはそれを叩きのめさなきゃならない。斬らなければならない。  本当はもっと、涙を流す前にできることがあったはずなのに。 「おめのやさしさは知ってっず。どれだげみんなのごど想ってるのがも。んだげんと、いや、んだがらこそ、駄目なんだ。」  混乱したまま鋼の爪を振るってくるワーガルルモンへ、できる限りの言葉を届ける。少しでも伝わってくれればと願う。 「おんなしなんだよ。…人も、人ば傷づげるす、いずめるす、仲間外れも作る。でも友達には笑っててほしいし、好ぎな人の役さ立ぢだぇって思うんだ。おめがおれにそう思ってくれだように、おめぇ達ばそう思ってけでる人がいるんだ。」 「だからって今傷つけられることを許せっていうのか!」 「それが生ぎるってごどだべ! どだな些細なごどがらも守るだなんて、ほだなこどが、ほだな歪な関係があるが!」  ただ上から優しい世界を押し付けたって、そんなのはただの自己満足だ。だれだって無力な赤子のままではいられない。   「──サイケモンだぢは言ってだよ。どだな時だってゴブリモンのごど受げ入れるって。ほだな友達がいるごどのに、それ以上何望むんだ。共に困難さ乗り越えられる友がいる以上の幸せがどこさあるんだ…! なんもがもがら守るなんてのは、なんもがも奪うのど一緒なんだよッ!! それわがってけろ!!」  無理矢理に振るわれる爪も牙も、ベオウルフモンとなった平介を傷つけることができない。大剣を軽々と振るい、全ての攻撃を弾き、いなし、受け止めていく。 「人にとってもそれは同じなんだよ! 人だって人ば守りだぇんだ。人のためさ生ぎだぇって思うんだ。おめと同じだ。おれだっておめば守りだぇ。でも人のごども守りだぇ。どっちだって大事で、どっちがいいってごどでねんだ。もうおめにだってわがってるんだろッ! それでも選ばんなねんだ! だってここは…人の世界なんだがら! 違う世界の生ぎ物同士なんだがら、いさがいはある。お互いに傷づげあうごどもある。んだげんと、ちょっとずづお互い知るってそういうこどだ! んだげんと、おめは人ば傷づげだ。明確な害意もって人ば襲った。なら、おれは人の世界守らねばならん。この姿はそのだめのものだ。おれが爺さがら、父さんから受げ継いだ力で、役目だ。おれが選んだんだ。そのためさ強ぐなった。」  本当はそんなことのために使いたい力ではなかった。ただ、世界の違いに困った彼らを助けてやりたかっただけなのに。   「ごめんな。本当に、ごめん。本当は、おめが道違える前さ止めでけれれば良かったんだ。そうやって人もおめぇ達も一緒さ守れれば良かったんだ。」  どれだけの理想論かわかっている。でも、人の世になじんだデジモンがいるのだ。人と共に歩むテイマーがいて、デジモン相手にお供えをしてしまうような人だっている。互いを家族と慕い、本気で想い、人に交じって快活に笑うデジモンを知っている。  ならば、どれだけかかるかは分からなくても、世界を違えた存在であっても仲良くなることはできるのだ。   「なあ。頼むがら、なんだってすっから。一緒さ謝りに行こう? まだやり直しでぎるはずだべ。おれはおめぇのためになんだってする。んだがら、もう一度、この公園でみんなどやり直すべ……? 本当に、お願いだがら……!」  ワーガルルモンは答えない。鏡写しのように、まるで異なる姿の人狼が、共に泣いている。ただそれだけの時間が続く。 「……ああ、そうできれば、そうならよかったのにな。」 「待っでぐれ!まだ「もう! 話は終わってるんだ……。俺はもう戻れないところにいるんだ。もう、謝っても許されない場所にいるんだ。だから、にいちゃんは、にいちゃんが僕のために頭を下げちゃいけないんだ。俺なんかのために、にいちゃんがそんなに泣くことはないんだ。こんなバカな僕のために、正しい在り方を曲げちゃいけないんだ。……だって、にいちゃんは僕のにいちゃんで、ともだちだもの。これからさ、俺みたいなバカがいたら叱ってやってくれよ。僕みたいにバカをしないように見てやってよ。あいつらが、俺の友達が仲良く暮らしていけるように手伝ってやってよ。──俺はそれでいい。」  憑き物が落ちたように、ワーガルルモンが静かにつぶやく。   「悪い狼は死ななきゃならない。そうだろ、にいちゃん。」  おれの迷いを断つように、ワーガルルモンがその爪に力を込めて、自らに突き立てる。鋼の装甲も、その鋭い爪の前には紙切れのようだ。どくどくと流れ出る0と1のデータが、致命傷であることを平介に伝える。後戻りできない悪い狼は自ら命を絶とうとしている。    覚悟は決めてきた。そのはずでも、呆れるほど揺れている。心が揺れたままどこにいったのかも分からない。こんな情けない兄を、こんな情けないおれを、友と呼んでくれた。  なら、それならおれはその思いに応えたい。応えなければならない。人とデジモンの間に立つものとして、これからの悲しみを少しでもなくすために。  なにより、少しでも、”友”の、”弟”の、”ワーガルルモン”の痛みを和らげてやりたいのだ。   「そうだな。悪い狼は斬られなければなんね。んだがらおれが斬ってける。おめの痛みも罪も、一緒にだ。」 「──ああ、やっぱりにいちゃんは、優しいなぁ……。」    静かに大剣を肩に担ぐように構える。光の剣とは異なる、確かな重みが肩にかかる。…これはおれが一生抱える命の重さだ。この重さを忘れてはならない。  ただ一度だけ、大剣を振るう。少しでも痛みがないように、苦しみなく逝けるように、それだけを願って。    キラキラと0と1が拡散していく。もう彼の声は聞こえない。でも、最後の声がまだ耳に残っている。  "ありがとう”、だなんて。明日また会うみたいな、そんな声だった。  自分の命を断つ、そんな相手に向けて言うような言葉じゃないだろうに。そのギャップに思わず笑ってしまいそうだ。でも静かに送ってやらないとならない。でないといつまでも心配させることになってしまう。こんなことで化けて出ることになったらどうしたらいいのかわからないよな。    なのに、静かに送ってやりたいのに、おれの嗚咽だけが、いつまでも止まってくれなかった。  ***    ガサゴソとサイケモンたちの元を訪れる。こんな夜にお邪魔するのは初めてだ。それでもみんな揃っている。   「お邪魔、するな。」 「ね、平介。ありがとうね。」    いきなりの礼に言葉をなくす。 「僕たち、見てたよ。ずっと。」  この公園は彼らの縄張りだ。かつてアヤタラモンと戦った時のように、この小さなデジモンたちは平介を、ワーガルルモンを見ていたのだ。 「……僕たちのためだったんだね。最近野良猫みなくなったなぁって思ってたんだ。ふふ、昔っからゴブリモンは心配性だったよね。」 「おれは……ゴブリモン止められねがった。本当なら……。」    嗚咽が混じって言葉が出てこない。  そんな平介にユラモンが、ラブラモンが寄り添う。 「いいんだ。僕たちはここで平和に暮らすんだって決めたんだ。そのためには、僕たちが変わる必要があるって知ってる。リアルワールドに生きるために、リアルワールドのやり方に従う。そう決めてた。でもゴブリモンは優しすぎたから、僕たちのために怒っちゃったんだね。だからね、どっちも悪くないんだ。僕たちはそれを知ってる。平介も、ゴブリモンも、僕たちを思ってくれた結果だってわかってる。」    違うのだ。自分が伝えきれなかったのだ。だから彼らは仲間を失うことになった。 「ね、すぐには難しいとは思うけどさ。いつか教えて欲しいんだ。ゴブリモンがどれだけ強くなってたのかってこと。どんなふうに強くなっていたのかってこと。平介にとって辛いことだって分かってて言ってる。ごめんね。でもさ、もう、僕たちしかゴブリモンのことを知らないでしょ? だから、時々は思い出してやりたいんだ。…無理言ってごめんね。」    ようやく、言葉を紡ぎ出す。   「いや、なんでも話さしせてけろ。おれにとっても、あんなに大事だったんだがら。おれだって、あいつがどんなに強かったかを話すてやりだぇがら。」  ***     それからは、ずっと家で膝を抱えたまま過ごした。朝も昼も夜もなく、ただ、床だけを見ていた。  ***    家にこもっていると、ドアをたたく音。今は誰にも会いたくなくって、そのままじっとしている。すると聞き慣れた、そして久しく聞いていなかったガラガラ声が平介に呼びかける。 「ごら平介! もうお天道様も登ってるんだず。いいがげん起ぎれ! 村長来てけだぞ! 開げれ!!」    びっくりして、条件反射のように足が玄関に向く。扉を開けて、そのヒゲもじゃの顔を見る。 「お? 久すぶりだってのに、すこだまな顔だな。まあええ。お邪魔するんだず。もう運転でクタクタでな。」  こちらの回答を待たずにズイズイ話が進んでいく。止める間もなく村長が部屋に上がり込んで、ずっかりと腰を降ろす。   「村長……?なしてここに?」 「ん?? おめぇひどい顔すてるっけな。……先さ言っておぐが、それはおめが自分で飲み込むべぎごどだ。わすは聞がんぞ!」    全く答えは返ってこないし、心配はしてくれても厳しさはそのまま。紛うことなき村長その人だ。村を出た短い間で変わることを期待する方が無理な話だ。  呆然とする平介に、豪快に笑う村長。  変わらぬ態度のまま、それでも確かに、その声に優しさを込めて、村長はかつての経験者の声を語る。   「──おめの父ちゃんも、爺さも同ず顔すとったよ。」    顔を上げる。   「父さん…たちも?」 「ああ。おめだづ逆井の、狼連中はみんなそうだ。火の御神体の儂らとはなにむぎ違ってな。仲間どみなすた相手さ心底心砕ぐぐしぇに、仲間の範囲広ぐってな。んだがら助げられね相手や、どうすんべもねごどが起ぎる。割り切れね気持ぢさみんな抱えでだ。今、おめもほだな顔すとる。」 「爺さとか…父さんは、ほだな気持ぢ抱えで、どうしてたの?」 「知らん! だが、決すてその気持ぢがら逃げ出さねがった。ずっと悩んでおった。でもな、今のおめと同ずではねぇ。全然違うな。」 「…同じではねぇのか?」 「んだ。おめの爺さまも、おめの父ちゃんも悩んでだ。んだげんと、決すて楽すむごど忘れねがった。おめのその悩みに答えはね。たらればだがらな。んだげんと、そうやって全部投げ出すて悩まんなねものでもね。爺さまはよぐ笑ってだぞ。おめのおっちゃんもだ。おめはもう笑えねが?」    父と祖父が同じ思いを抱いていた。そんなことは知らない。知らなかった。だって、二人とも、おれの前ではいつも楽しそうにしてた。笑ってた。だからおれは二人の写真を見て驚いたものだ。だってあんなに真面目な顔しているのを初めて見たものだから。  何かおれも答えなければいけない。でも口の中がカラカラで、声が掠れる。思えばあれから全然何も食べていなかった気がする。そう気が付いた途端に思いっきり腹がなる。ニヤニヤと村長がおれを見ている。    真っ赤になったであろう顔のまま、なんでもいいから言おうとしたその時、インターホンがなる。何度も何度も。連打してくる。こんなことをするのは他にいない。目を丸くしている村長を置き去りに、どしどしと玄関に向かう。 「連打するのやめでって何度言えばわがるんだが!」 「悪い悪い!でも寝てるかもしれないじゃん? それよりちょっと聞いてくれよ! こないだ山波のトンネルに出るっていうんで行ったらさぁ「それよりミステリーサークルが出たんですって!」 「おい、俺が話してるだろ!「私の方が確かな情報でしょ。」 「俺は実際に行ってみ「それよりこれ見なさい!スペシャルニュースよ!」    この頭のネジが外れたカップルの言葉には肝が冷えたことしかない。だが見ないふりをするともっと酷い目にあう。渋々突き出されたA4用紙を眺める。そこに書かれているのは、"文化祭出店許可証"。  パチクリと瞬きをする。なんだこれは。   「お前さ、こないだ行った文化祭で出店やるのも楽しそうだって言ってたろ? ならやっちゃおうって思ってさ。で、たこ焼きと明石焼き、どっちがいい?」 「ちがうでしょ! お好み焼きかモダン焼き!」  文化祭。そういえば、あの帰り道にそんなことを話した気がする。でも意外だ。この強引な先輩があんな些細な一言を覚えていたとは。  のっそりと後ろから村長が平介の肩に手を置く。 「おや、平介の友達かな? うちの平介がいつもお世話になってます。わしはこの子の親代わりをやってる村長です。」 「え、ああ、こちらこそお世話になってます。」  突然親代わりが現れたらそこはもう保護者会なのである。普段は方言丸出しのくせに、突然流ちょうに標準語を話すものだから、平介は恥ずかしさに頭から火が出そうだ。 「ちょっと止めでけろ! 村長はすっこんでで!」 「お前、そんな態度するもんじゃないぞ。反抗期でもあるまいし。」 「お、おめさ、いいごど言うな。うん、よげれば今度うぢの村さも遊びに来だらええ。なんもねぇどごろだが、おめたぢの好ぎそうなものは結構あるど思うぞ。」     二人が顔を見合わせて、瞳の輝きが増していく。山形! 田代峠! 生居の化け石! 東北の足掛かりだ! やったぜ! ぐるぐると二人が平介の周囲を回る。    村長はそれほほえましく見ている。  そして豪快に笑う。 「な、平介。おめが抱えだ悩みはそのまま抱えでおげ。んで、時々取り出すて、なんぼでも悩めばええ。でもな、普段は笑っておげ。それがおめがすべきことだでな。分かんべ? ──さ、こだな家の中篭っとらんで、外さ遊びに行ぎなさい。ああ、わすはくたびっだから寝どる。夜は美味えものでも食いに行ぐべな。さあ、若者はさっさど外で楽すく遊んでぎ。」  そう言って三人まとめて押し出されてしまう。じゃあと切り替えの早いカップルは早速やいのやいのと騒ぎ始める。山形といえばさぁと言うものだから、思わずあんまりおもしろい話なんてないぞと返す。   「いやいや平介君、住んでる人の話を聞くのが大事なのよ。わかってないわねぇ。宇宙人と会った時にこういうノウハウがあるのとないのでは全然結果が違うのよ?」 「そうそう、異文化交流するなら小さいことから聞くのが大事なんだって。平介もそろそろこういうのが大事だってわかってもいいころだぜ。んで一緒に笑える話ができればもう最高。」    三人がアパートを出て、自然と大学の方向へ歩いていく。    それを窓から村長が眺めている。色々心配はしていたが、あんなに仲のいい友達が二人もいる。なら、わざわざやってくることもなかったかもしれない。いや、村の連中以外を前にして、あんなふうに強気な平介を見れたのはとても良かった。村のみんなへのいい土産話になるだろう。    底抜けに明るい真昼間にも、影はある。明るさに引き寄せられる暗闇もある。だが、それを、平介ならいくらでも乗り越えていける。いくらでも引っ張ってくれる友達がいるのだから。  そう安心して、村長はゴロリと横になる。    昼間の大通りを、方言が出ることすら気にせず大声でカップルに文句を捲し立てる平介は、どこから見ても都会の大学生そのものなのであった。  終わり。