「フフフ……」  魔王軍四天王ダースリッチは、珍しく含み笑いを漏らした。山国スグオチールに、彗星の如く現れた若き勇者。ここ数日というもの、ダースリッチは彼を追い回していた。随分と手を焼かせてくれたが、奴もとうとう袋の鼠だ。  巨大な脅威となりうる男も、手中にあれば便利な駒。拷問して情報を引き出すもよし、アンデッドと化して手駒とするもよし、捕らえて交渉材料に使うもよし、洗脳してスパイに用いるもよし。 「フハハハハ……!!」  勇者を追い込んだ洞窟に、ダースリッチの笑い声が反響する。どう使っても便利な駒と、ダースリッチの欲して止まぬ武勲が、同時に手中に飛び込んできたのだ。今笑わずにいつ笑うというのか。ダースリッチは天を仰ぎ、哄笑を響かせる。  止まらぬ笑いに、腹心ネクロマスターと現場担当者グリメントをはじめ、ダースリッチ配下の魔物たちは顔を見合わせた。ダースリッチがこんなに笑うのは珍しい……まあ、彼は常にストレスに晒され、不機嫌な顔をしている人(魔物)だ。時にはストレスから開放される日があってもいい。 「ダースリッチ様!」  そんな空気の中にやってきた幽霊。名も知られぬ雑兵である彼は、四天王の笑いに気圧されながら、弱々しく声を上げた。 「魔王城からお客様がいらっしゃっております」  たちまちダースリッチの上機嫌はかき消えた。不運な幽霊を、睨みつけるように一瞥し、次いでその背後に立つものに目を向ける。 「ご出張中に失礼致します。連絡をご確認いただけていないようでしたので、直接伺いました」  鳥が翼を畳むように、細長い腕を背に畳み込んだ異形の肢体。赤い八つの目が、まともに上司の顔を見上げる。 「ナイトスイーパー。何用だ」  ダースリッチはあからさまに不機嫌な声を出した。蜘蛛男は動じた様子もなく、淡々と答える。 「申し訳ございませんが、緊急事態です。ザブライヤ様への今年度分の貢物が、まだ完了しておりません」 「ザブライヤ様だと!?」  ダースリッチは悲鳴じみた声を上げた。 「ふざけるな!半月前に済ませたはずだぞ!」 「先方より追加請求があり、内容を確認しましたが、魔王城に関連書類が存在しませんでした。問い合わせたところ、エゴブレイン様から直接発注を受け付けていたと」 「エゴブレインから直接……!?ザブライヤ様、そんな曖昧な……」 「発注書はありません。メールと、一部口頭連絡のみで発注としていたようです。現物およびサイバーバトラーさんの保有する設計図から、使用物品の確認を試みています」 「エゴブレインはどうした!?発注内容はともかく、発明品については覚えているだろう!」 「メイドールさんによれば『ジジイがメンタルをやった』とのことです」  ダースリッチは声にならない音を歯の間から漏らした。 「そして一般消費者から、人造生命開発課製の人工生物についてのクレームが殺到しています。魔宝虫が生成した宝石が次々とフンになっているとのこと、事態発生原因、全貌共に不明です」 「な……ぜ……開発課に確認を取らない……?」 「不可能です。開発課全員が雲隠れしています。現在エゴブレイン様配下のジャイールさんに、問題の生物の解析を依頼しています」 「ジャイール?何者だ?」 「私も存じ上げませんでしたが、そういう方がいるそうです。更に先日の諜報部での」 「わかった……」  ダースリッチは喉の奥から絞り出すように言った。 「わかった。後で聞く」 「承知しました。そういったわけで異常事態です。至急魔王城にお戻りいただきたい」 「わたしが居なければ何もできんのか、貴様らは!」 「私にとっても大変残念ですが、その通りです」  ナイトスイーパーは、ここで初めて、声に感情じみたものを滲ませた。ダースリッチが宙を睨む。 「くっ……わたしの実績、わたしの手柄……」 「返答如何によってはここで死んでいただく」  部下の宣言に、ダースリッチは表情を険しくした。眼窩の奥で赤い炎が燃え、ローブが風もないのに翻る。 「……そして魔王城で復活していただく」 「上司の死と復活を移動手段にするなッ!」 「しかし最短経路ですので」 「ま……待て、少し考えさせろ……5分でいい」  ダースリッチは片手を顔に押し当て、深く息を吸い込んだ。 「そういう状況だったのですか、我が軍は」 「私も知りたくありませんでした」  グリメントの問いかけに、ナイトスイーパーはなおも淡々と頷いた。 「連絡がつかないと困ることもあるでしょう。もしよろしければ、魔INEを交換しませんか」 「ありがたいお話です。お願いできますか」  掌で顔を覆う骸骨の前で、バーサーカーと蜘蛛の魔物が、いそいそと情報端末を取り出す。人間が見れば震え上がるであろう異様な光景も、魔王軍では日常である。 「ところで魔INEといえば、ネクロマスターさん。私の見間違えでなければ、魔INEに既読がついていたようですが」  ここまで黙って話を聞いていたネクロマスターは、長い睫毛を優雅に伏せた。 「申し訳ありません。こちらも忙しくて。既読だけつけて、内容を確認しそびれていたようです」 「なるほど。そういうこともあるでしょう」 「三時間……」  ダースリッチが苦しげに呻く。部下たちは話しやめ、その様子を注視した。 「三……いや二時間だ。二時間で片を付けて魔王城に戻る……」  突如活力を漲らせ、ダースリッチは叫んだ。 「勇者共も決済も、このわたしが片付ける!ゆくぞ貴様ら!」  走る、走る。靴音の向こうから、死者たちの声が届く。あるいは洞窟を吹き渡る風か。どちらも彼らにとっては味方ではない。 「もうすぐだ……」  勇者は食いしばった歯の隙間から声を出す。 「もうすぐ出口だ!だからみんな、頑張れ!」  それは真実ではない、仲間たち皆が知っていることだ。突然なだれ込んできた、大量のアンデッド共に追い立てられて、走り続けるうちに、道はわからなくなった。王のつけてくれた護衛兵はすべて、彼らの盾となって死んだ。だが彼は勇者、勇気と希望を持たずして、何を成し得よう。 「止まれ!」  格闘家の静止の声が響く。飛びかかってきたのは異形の魚人、止まらなければ顎を打ち抜かれていただろう。考える間もなく二の拳。格闘家の拳が割って入り、それを受け止める。 「行け!」  拳、拳、蹴り、続けざまに振るわれる技を受け、逞しい肉体が軋む。格闘家は鋭く吼えた。 「俺を信じろ。すぐに追いつく!」 「わかった……約束だぞ!」  仲間たちの足音を、声援のように背に受けながら、格闘家は拳を握る。魚人は一旦距離を取り、独特の姿勢で身構えた。命に替えても皆は追わせない。 「かかってきやがれ」  その声が合図だったが如く、魚人が動き出した。そいつの足が地面を「滑る」。ありえない動き、見えない速度。次の瞬間、そいつは懐に入り込んでいた。 「な」  腹に一撃、反撃の拳。防御もなく更に拳。蹴り。拳。拳。蹴り。一方的に殴られ続ける。  いや、一方的なはずがない。俺は殴っている。蹴っている。当てている。当たっているはずだ。なのにダメージがない。血が飛ぶ、歯が折れる、俺の血が。一方的に。押し切られる!  顎の下をかちあげる一撃、足が地面を離れる、攻撃は止まらない、身体は浮いたまま、地面に落ちる暇もなく、拳が蹴りが打ち込まれ続ける。壁に衝突する。跳ね返る。濡れた布を振り回すように肉体が弄ばれる。  こいつは格闘家ではない。格闘家などであるものか。何か未知の、異形のバケモノだ。 「大丈夫だ……俺たちは強い。今回だって切り抜けられるさ」  勇者は走りながら剣を振るう。大丈夫だ。あの人が死ぬはずがない。いつだって頼りになる、強くて優しい男だ。 「そうですとも、勇者様。私達はいつも無茶ばかり、でも平気でした。そうでしょう?」  鈴を振るような凛とした声。僧侶の神聖魔法がアンデッドを塵に変える。 「そうよ!あたしたち負けちゃいないわ」  魔法使いの声が力強く響く。実のところ彼女は持てる魔力を使い切っており、その気力が虚勢にすぎないことを、勇者も僧侶も理解していた。が、虚勢を張れることそのものが、今は頼もしい。 「俺たちは強い」  祈りのように呟く。強い、その通り、人間にしては。だが、手が足りない、力も足りない、アンデッドの数は多すぎる。追い立てられていると知りながら、追われるままに走るしかない。猟犬に追われる鹿のように、走り走り、走り続けて、そして。 「くそっ……!」  追われて辿り着いたその先で、声もなく気配もなく、アンデッドの大群が、広間を埋め尽くしていた。魔法使いがかすれた悲鳴を上げる。血にまみれた格闘家の道着が、集団の先頭に立っている。 「まだだ……」  怯える魔法使いを背にかばい、勇者は剣を握り締めた。震えを吹き飛ばすように声を張る。 「まだ、俺たちは、勝てる!そうだろう!?」  返事はなかった。ぽたりと首筋に液体が滴る。反射的にそこに触れた手が赤く染まる。 「ダースリッチ様……」  闇の向こう、緑に光る目。かさついた声が地を這い、耳に届く。 「狂気に陥ってもよろしいですか」  なにか大きなものが落ちてきて、地面に衝突し、湿った音を立てた。頚椎から生えた針を見せつけるように、首を斜めに倒して、僧侶の肉体が立ち上がる。 「許可する。20分以内に片付けるぞ」  陰鬱な声が答えた。闇の奥からぬるりと白い髑髏が現れる。その眼窩に宿る、赤い光。 「わたしは忙しい。時間がないのだ」  魔王軍四天王、ダースリッチ。勇者が初めて目にしたその姿は、絶望そのもののようだった。