「トレーナー、おっはようございまっす!今日も一日頑張りましょー!」 「ああ、おはようタン……ホイ……ザ?」 ある朝マチカネタンホイザのトレーナーは、普段通り元気な挨拶をしてきた彼女の姿に強烈な違和感を覚えた。 無邪気な笑顔を浮かべたやや幼い顔立ちも、穴に耳を通したお気に入りの帽子も、声も仕草も何もかも全てが、彼女がマチカネタンホイザであると示している。 ――ただ1点、大きく盛り上がった胸の膨らみを除いては。 「……どしたんですか?トレーナー。何かついてます?」 「……あ……いや……えっと」 その時トレーナーの脳は、胸以外の情報があまりにも普段通りの普通のタンホイザであったために、その大き過ぎる違和感を無理矢理抑えこんで消すという一種の防衛機制を取った。 「……なんでもないよ。ウォーミングアップ始めようか」 「アイサ!」 ――しかし当然のことながら、違和感はトレーニング中も膨らみ続ける一方だった。 「いっちにっ、さんっはいっ……」 体操で体を捻る度に、その巨大な塊は腕の奥で窮屈そうに主張を続け―― 「はぁっ、はぁっ……よーしもう一周!」 コースを走ろうものなら、水風船のような躍動感でそれは上下に激しく揺れ―― 「……いや、おかしいって」 ――トレーナーの思考を現実に引き戻すのであった。 しかしトレーナーの困惑とは裏腹に、共にトレーニングに勤しむ彼女の級友達は誰もそのことに触れようとしなかった。 ノリが良くすぐにツッコミを入れそうなナイスネイチャも、冷静な判断力を持つイクノディクタスも、疑問はすぐに口から出そうなツインターボも、気にする素振りさえ見せない。 もしかして全員でドッキリでもしているのでは…と疑い始めたトレーナーは、休憩していたマチカネフクキタルのトレーナーに声をかけた。 「先輩、ちょっと良いですか……?」 「どうした?……顔色良くないぞ?」 「いや、その……タンホイザのことなんですけど……何か、変じゃないですか?」 「そうかな……?別に調子良さそうじゃないか」 「そういうことじゃなくて……その……胸が、大きくないですか?」 「……は?」 仲の良い先輩が初めて見せる唖然とした表情に心を折られそうになりながらも、トレーナーは言葉を続ける。 「だって、明らかに胸が大きいというか、タンホイザって……あんなに大きくなかったですよね?そうですよね!?」 「え、あ、そう……だったかな?なんかそういうイメージはあるけどな……はは……」 乾いた笑いの後に気まずい沈黙が流れ、しばらくしてフクキタルのトレーナーは呟くように言った。 「……たまには飲みに行くか?悩み事とかあったら聞くからさ……」 こうして、タンホイザのトレーナーは違和感を再び胸の奥に押し込めることを決意したーー ――しかし程なく、そうも言っていられない事態が起きた。 「……やっぱり、何度測っても同じか」 タンホイザのタイムが、わずかに悪くなっていることに気が付いたのだ。 「胸の空気抵抗か、重量か、フォームへの影響か……」 理由は何にせよ、胸の大きさが普通だったころのタンホイザと比べて遅くなっているのは事実だ。小さな変化とはいえ、レースに影響が出るのであれば担当トレーナーとして黙っているわけにはいかない。 その日のトレーニング後、トレーナーはトレーナー室にタンホイザを呼び出した。 「お疲れ様ですトレーナー!話ってなんですか?」 ジャージをはち切れんばかりに押し上げるそれから目を逸らしながら、トレーナーは言葉を選びつつ話を切り出す。 「タンホイザ。最近、どこか体に違和感はないか?」 「へ?別に……いつも通り、って感じですけど。ご飯もちゃんと食べてるし、足の調子も悪くないし……ザ・普通!です」 「そっか……」 なんとなく予想していた答えを聞いて、トレーナーは意を決したようにタンホイザをまっすぐに見据えた。その真剣な表情に、タンホイザも小さく息を呑む。 「……最近走っていて、胸が邪魔に感じたりすることはないか?」 「……はい?」 「成長期だし、ウマ娘の体は急に変化することもある。それについて行けなくなることも。だからどうしても教えて欲しいんだ」 「…………」 「タンホイザ。胸が大きくなったよな?」 タンホイザはしばらく言葉に詰まり、やがて段々と頬を紅潮させながら、やや小さな声で話し始めた。 「……えっと、前からこんな感じですけど……あんまり変わってはいないんじゃないかなぁ……と」 「!……そう、なのか?……本当に?」 「えっ……」 その時、一瞬トレーナーの顔に過ぎった表情の変化を、タンホイザの目は見逃さなかった。そしてその後にタンホイザが見せた表情も――すぐに普段通りの笑顔に塗りつぶされたが――トレーナーの目には消えないほどに強く焼き付いていた。 それは、タンホイザがこれまで一度も見せたことのない表情だった。 「……あ、あはは!私って、何もかも普通ですけど、そんな私でもこれは個性だよね!って思ってたというか。おっぱいにはちょっと自信あったんですよぉ、なんて……」 いつもと同じように明るく振る舞いながら、目線は少しずつ床へと落ちていく。そしてその先に自分の胸が来たとき、タンホイザは小さく呟いた。 「……トレーナーって、胸がおっきい子、嫌いなんですか?」 「!!いや、違う、そんなこと……」 トレーナーの言葉を遮るように、タンホイザは顔を上げてまくし立てた。 「うぁは、なんか変なこと言っちゃいましたね!ごめんなさいトレーナー!じゃ、じゃあまた明日!」 駆けて行く彼女の背中に、トレーナーは何も声をかけられず、一人立ち尽くしていた。 そして翌朝。 「トレーナー、おっはようございまっす!今日も一日頑張りましょー!」 「…………」 呆けた顔で固まるトレーナーを、タンホイザは少し心配そうに覗き込む。 「どしたんですか?トレーナー。なんか疲れてます?」 その顔も声も仕草も髪も耳も帽子も全てがいつも通りの普通なタンホイザだというのに、ただ一点―― 「タ……タンホイザ……その、胸……」 ――胸の膨らみと言えるものが一切無い、そのなだらかな平面を凝視しながら、トレーナーは思わず呟いていた。 「あぇ!?む、胸!?……が、どうかしました?」 「も、もしかして、昨日の話が、話の、せいで……」 「……話?昨日?……何かお話しましたっけ?」 「えっ?」 きょとんとしたタンホイザの顔を見て、トレーナーはその裏に嘘や隠し事が全く無いことを直感的に悟った。そして今にも溢れてきそうな言葉を全て、無理矢理飲み込むことにした。 「……いや、なんでもないよ」 トレーナーも既に予想していたことではあるが、タンホイザの級友達はやはり彼女の胸について何も反応は示さなかった。ツインターボよりも薄いと思えるその胸は、それはそれで普通とは程遠いものだったが――誰も、何も言うことはなかった。 その日の休憩中、マチカネフクキタルのトレーナーは仲の良い後輩の顔を見てぎょっとした。 「……どうした?何かあったのか?」 「先輩……あの、タンホイザは、いつも通り……ですよね?」 「……ああ。そう見えるよ」 「……なら良かった。それなら、何も問題ないんです」 どこか安心したように笑う彼の背中を、フクキタルのトレーナーは黙って2、3度叩いた。 ――何も問題はない。タンホイザのトレーナーは、ここ数日のトレーニング結果を見返しながらその言葉を反芻した。 「やっぱり、少し速くなってるな」 空気抵抗か、重量か、フォームの影響か。何にせよ、わずかだが彼女の成績は良くなっている。胸が大きくなる前よりも。 「担当トレーナーとしては……嬉しいに決まってる」 噛みしめるように独りごちる。伏せた目には、あの日見た表情が未だに焼き付いたままだった。 「何も問題はない……けど、俺は……俺は」 夜の学園をふらふらと、何かを探すように歩いていた。そんな時だった。 「……タンホイザ?」 一瞬、見慣れた背中が曲がり角の向こうへ消えるのが見えた。 「なんでこんな時間に……」 慌てて追いかけると、その先にはこの学園を象徴するモニュメントがそびえていた。そしてその前には、ここで出会えるはずがない3人のウマ娘が立っていた。 「三、女神?」 「やあ子羊くん。……探し物はこちらかな?」 「……タンホイザ!」 彼女達の背後からひょっこりと現れたのは、異常な状況に似つかわしくないほど普通な雰囲気のウマ娘。 「あれ?トレーナー?どしたんですかこんな所で?」 「それはこっちの……!」 「……トレーナー?」 言いかけた言葉を遮るように、別の方向から声がかかる。同じ声、同じ顔、同じ帽子。違う点はただひとつ。 「あ、トレーナー!偶然ですねぇ……あれ?私なんでここに居るんだろ?」 そして声は3つに増える。3人の女神のそれぞれが、3人のウマ娘を連れて歩いてくる。 「ふふ、この先の流れはもうなんとなくわかるかしら?……あなたが追いかけてきたのは、この胸の大きいタンホイザちゃん?」 「それとも、このスレンダーなタンホイザか?」 「もしくは普通のタンホイザ?……さぁ、答えを聞こうか子羊くん?」 「…………」 トレーナーはゆっくりと、3人のタンホイザの顔を見た。今日会って、夕方別れたばかりのタンホイザ。少し気まずそうに視線を逸らす、あまり元気のないタンホイザ。しばらく会ってなかったような気がする、どこか懐かしいタンホイザ。 一度目を閉じてしばらく考えた後、トレーナーは口を開いた。 「……もうちょっと近くで見てから考えても良いですか?」 「「「ふ、普通の反応……!」」」 3方向から同時に声が漏れる。呆気に取られる女神をよそに、トレーナーはタンホイザ達にちょいちょいと手招きをした。素直にトコトコと寄ってくる彼女達を改めて見回しながら、トレーナーは小さく呟いた。 「女神様、俺は……」 「うひゃ!?」 「うわ!」 「わわ!」 その意図に女神達が気付くよりも速く、トレーナーは右手で細いタンホイザと普通のタンホイザの、左手で大きなタンホイザの体に手を回し、素早く自分の側に引き寄せた。 「俺は!マチカネタンホイザのトレーナーです!」 タンホイザに埋もれながらも発せられた力強い言葉に、女神達の動きが止まる。 「それがタンホイザなら、どんなに見た目が違っても俺の担当ウマ娘です!3人居るなら3人全員、俺が連れて帰ります!!」 彼の左手の中で、小さく肩が震えた。 「……ごめんタンホイザ。疑って、傷付けたよな」 「トレーナー……」 「君は君だってわかってたのに……君は俺の、一番大事なウマ娘なのに。謝れて良かった」 「!……もー!」 左手をぎゅっと引き寄せられる一方で、右手の中が賑やかになり始める。 「うわひゃー!なんだか普通じゃない雰囲気……!そっちの私とトレーナーの間に何があったんですか!?」 「うー、こっちの私もそっちの私も、なんだか個性あって羨ましいなぁ……!むーん!私だってぇ!」 「……あはっ。そう来たか」 揉みくちゃにされるトレーナーを呆れたように眺める女神達から、ふと笑みが溢れる。 「全く欲深い男だ。欲深い者には罰が下されるのがこの手の話の常だが……」 「……正直者にご褒美が与えられるのも、この手の話の常よね?」 「そうだね。それじゃ、正直な君には全て差し上げますということで……めでたしめでたし」 「あ!ちょっと待っ……」 「わ!」 背を向ける女神達を追おうとして、タンホイザに引っ張られたトレーナーは勢い余って前へと倒れた。地面が前に迫り、世界が暗転していく―― 「……トレーナー!トレーナー!」 ――マチカネタンホイザのトレーナーがゆっくりと目を開くと、目の前には不安そうに覗き込む担当ウマ娘の顔があった。 「やっと目が覚めた……あー良かったぁ。なんだかうなされてたんですよ?大丈夫でした?」 「……寝てたのか」 周囲を見回すと、そこはいつものトレーナー室。いつの間にかソファで寝てしまっていたようで、トレーナーは体のあちこちに鈍い痛みが走るのを感じた。 「どんな夢見てたんですか?トレーナー」 「……君が、3人になって……」 「えぇ!?」 「……次のレースは1着から3着まで、君で埋めてやるぞ……って思う夢」 「……えへ。なんだか個性的な夢ですねぇ。良いなぁ」 無邪気に喜ぶタンホイザを見て、トレーナーも顔を綻ばせる。いつも通りの、普通な幸せがそこにはあった。 「……これが3倍は、流石に欲張りすぎだな」 「え?何か言いました?」 「いや、何でもないよ。顔洗ってくる」 立ち上がったトレーナーの姿に、マチカネタンホイザは違和感を覚えた。 「あれ?……トレーナー、なんか、背伸びました?」 「……え?」