※姉さんVSジェンティルドンナ体格差一本勝負 【手折る】手で花や枝を折る。比喩的に、女性をわがものにする。  〇 「手押し相撲?」 「ええ、勝負よ」  鈍い音を立て、鉄塊が転がった。人気のないジムに乾いた落下音が鈍く沈む。  鉄球の熱伝導率のせいか、空調では取り払えない夏の湿気のせいか、負荷をかけた掌に滲んだ汗をタオルで拭い、ジェンティルドンナは突拍子もない提案をした無礼者へと振り返る。視線は一瞬空を切り、それからすぐに少し下でぶつかった。  九センチ下で挑戦的に自分を見上げているのはかつて何度もレースで対戦をした後輩のウマ娘、ヴィルシーナ。 「なんの冗談かしら」と返すも、すみれ色の瞳は歪むことも逸れることない。ただ静謐にジェンティルドンナを捉えていただけだった。弓なりの眉は自信の弦を張り、光を吸い込んだ髪はマットに艶めく。頭上で絞られた耳は不定期に跳ね、それに合わせてイヤリングと帽子が力学に従って揺れていた。五本の指は、対戦相手の体躯に合わせてだろう。肩幅より気持ち広げた程度の位置に浮かんでいた。折り目なく着こなした制服からはまるで想像のできない幼稚な構えに心臓のすぐ傍で血管がうずく。 「あら……。言っておくけれど、私、手加減はできませんわよ?」 「手加減ですって? そんなもの、いらないわ」  そう言うと彼女はわざとらしく肩をすくめた。「わかっているんでしょう?」とでも言いたげな小生意気な釣り目。  ウマ娘らしく最も単純にレースはもちろんのこと、握力計や鉄球潰し、キック力測定や重量上げを通じてお互いの力を比べるのならば一再ならず繰り返してきた。ヴィルシーナだってウマ娘の平均を遥かに超える怪力の持ち主だが、ジェンティルドンナはその上を行く。レースならさておき、戯れに鉄塊を圧縮する怪獣と力比べをしようなんて愚か者はヴィルシーナただ一人であった。勝ち目なんて傍目にはないのに、彼女はいつも噛み付いてくる。下馬評通りの結果に落ち着いたとしても愚直に挑み続ける。  単にサディスティックな喜びを満たしてくれるだけではない。彼女はいつだって本気なのだ。最強とは言葉遊びのようなもので、相対的な評価である。実力のある者を倒すこと、その繰り返しによって偶然の色眼鏡を外して勝利の価値は称えられるのだ。何度打ち負かしても泥臭く諦めない実力者なんて、最高の遊び相手に決まっている。  そんなわけで、本人すら自覚していないがジェンティルドンナはヴィルシーナのことをいたく気に入っていた。  肩より僅かに下、ヴィルシーナの両手と丁度重なる高さに、手の平を掲げる。指の長さに大差はないが、太さと厚みはビーチサンダルとトレッキングブーツを同時に陳列したようだった。それらが隣同士でショーケースに並んでいたとしたら、八月の狭小アパレル店員が泣く泣く選んだ陳列でもなければセンスを疑うだろう。ヴィルシーナはそれをやろうとしているのだ。名もなきブランドのペラペラのビーサンがゴテゴテのモンベルに歯向かうのだ。可愛らしくない訳がなかった。  身長差のせいか、手首は互いに向けてわずかに角度をつけている。 「……やっと、また。貴方と競い合えるのね」 「何を……」 「言った通り。引退をしてからお互い忙しかったでしょう? 現役の頃はどんな些細なことでも比べあえたのに」  結果はあなたの全敗でしたけれど。ジェンティルドンナは心の内で意地悪く笑ってみせた。それでも、そんなこと、貴方には関係ないのでしょう? 今はかそけき根拠の自信に溢れているのでしょう?  その推察は残念ながら外れていた。ヴィルシーナは初めての敗北以来一度として慢心したことはなかったし、一度として勝利を確信して挑んだことはなかった。彼女はジェンティルドンナという強者への信頼によって蓋然性の中を駆け抜けたのだから。一般に、それは勇気と呼ばれている。それは二度目の勝利、要するにヴィルシーナを認めて以来、ジェンティルドンナも同じように抱いたものだった。勇気はいつも手の平の上で目に見えない球体の形を取る。勝負の前、虚空に浮かぶそれをぎゅっと握りつぶしては空っぽの手の平を認めて、ようやく全身に巡る。 「意外と感傷的なのね」 「ええ。そう……かもしれませんわ」  貴方も。僅かに伏せたヴィルシーナの瞳はそう語っていた。まったく、小生意気な後輩だった。よく通る散歩道にいて、「私を見なさい!」ときゃんきゃん喚く仔犬を見かけなくなったような、あるいは誰かの花壇に咲いていた名も知らぬ花が散っていたような、総括するなら気に入った風景が季節とともに変わっていくような必然の。そんな程度の寂寥をことさらに強調されたって困る。共感なんてしてあげないわ。そんなに優しくはないもの。 「……これ以上は言っても仕方ないわね、始めようかしら」  背伸びした細身のお姫サマと、威厳溢れる王女とが契りのような火花を散らす。  華やかな白樺の肌と、淑やかな黒槐の髪。それらを羨んだことはないが、いつだかきゅっと胸を締め付ける不整脈じみた感情を覚えたことはある。何の負荷もないのに手の平に汗が滲むという点では、あの不整脈と勝負の前の緊張はよく似ていた。  びいどろの管のように透き通るガラス細工と、メタセコイアの苗木のような両者の指。足跡のついていない白砂の丘と、正方形のはんぺんのような互いの掌。ぺたり、と小さな音と共に、それらはぶつかった。一瞬通った隙間風を許して以降、滲んだ汗と汗とは互いで互いを撹拌していた。  その掌に触れたとき、引退試合の有マ記念でヴィルシーナと握手を交わし、彼女の残した不整脈の原因は今も自分を締め付けていた、ということを思い出した。 「それじゃあ、いいかしら?」 「ええ、もちろん……三、二、一……始め!」  刹那、ヴィルシーナはスナップを利かせて両手を同時に引っ込めた。ジェンティルドンナは自分から体重をかけたのか、あるいはその手に吸い込まれたのか、わかる余地もなかった。脳は淡々と映像を処理するばかりで何の答えも教えはしない。いずれにせよ、結果としては前のめりのメタセコイアが折れた白樺に重なっていた。 「痛た……。ふー、勝気を誘い、受け流して、逸らした。……どうかしら、私の勝ち、ですわよね?」  巨木の影の中、ヴィルシーナは勝ち誇っていた。怪我はないかしら、と思わず口をついた言葉を慌てて飲み込む。相手の心配は勝利を称えた後だろう。すくなくとも彼女はそれを望んでいるに違いない。そして、彼女の望み――といっても、心の奥底で埃を被っていたものもジェンティルドンナにはわかっていた。  ――ああ、握りつぶしていなかったものね。緊張も、勇気も。存外重要なローテーションだったのかしら。 「……ええ、私の負け、ね。おめでとう」  華奢な手首が手の内にあった。美麗な髪が指先の下にあった。二人で分かち合った互いの勇気や決意を、ヴィルシーナは今、宙ぶらりんにしていた。ジェンティルドンナはヴィルシーナの手首に押し付けた。まるで香水でも振りかけるみたいに。自家製の香水はぬらりとヴィルシーナの白砂の丘に足跡を残し、指先だけをじたばたと泳がせる。  負けるつもりのなかった勝負で、負けて尚良かったと思えるのならそれは、完敗だ。憎らしいほどに清々しい物語のフィナーレだ。もっとも、ある物語の終わりはいつだって次の始まりでもある。これは哲学的な話であると同時に、もっと卑俗で一般的な作劇の話でもある。 「……ちょっと、いつまで乗ってるの? 離してくださる?」 「あら、嫌かしら?」  二人の間にあった不可視の球体、二人分の勇気は、お互いの掌でぶつかり、溶けあった。共感なんてするつもりはなかったけれど、伝わってしまったのなら仕方ない。言葉を使わずに気持ちを押し付けるなんて、可愛さ余ってなんとやら。だったら、その憎らしいお嬢さんに私の気持ちも教えてあげないと。 「……ヴィルシーナ。私は嫌よ。せっかく捕まえたのに、離すのは」  次の勝負が始まった。ところで、現役時代のヴィルシーナは幾度となく、ジェンティルドンナから逃げられなかった。